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改訂版・詳説世界史論述問題集-1

茨木智志・鳥越泰彦・三木健詞=編著『改訂版詳説世界史論述問題集』山川出版社 2008年8月20日発行

長所

1 第1編の通史と第2編のテーマ史、それに練習問題と合計して175問あり、改定前のものが209問あったのと比べると少なくなりました。それでも問題量が多いという点は旧版と同じで長所であり、欠点です。

2 内容的には編集方針はとくに変わった点はなく、ていねいな解説をしていますし、地図や図解もよく載せています。

3 問題量が相当あるのに、けっこう薄い本にしあがっているのは紙の薄さから来ています。持つと軽いことが商品としての良さでしょう。

短所

1 旧版と同じパターン 

 旧版では長所だった地図・図解の多さは、今は類書(河合出版・駿台・Z会)にもよく載っており、それほどの多さでもなくなりました。むしろ類書が出てきている段階で、改訂版を出したのであれば、何か工夫がなかったのか、といぶかります。著者にメンバー変更がありませんから、同じことを繰り返すのは避けられません。それを最近の問題を少し加えただけで「改訂」版にした、ということです。

2 方法論なし

 旧版同様に解き方に関するところはどこにもなく、意義はどう書くのか、比較の文章はどうつくるのか判らないまま、たくさんの問題だけ解くことになります。方法論がない、ということです。問題の読み方もなく、テーマの解説に終始しているページが大半です。ま、しかし、これは類書も同じですが。比較・特色・影響・意義・一般化・関連といった論述問題でよく問われる思考というものがあり、それをどう書き分けるのかが判っていないと進歩がありません。

3 解答用紙の使い方が分からない

 これも旧版と同じで、どうマス目を埋めるのかどこにも書いてありません。初心者がいちばん迷うことなのに。「まえがき」に「解答文の算用数字は2つで1字分として数えました」という以外のことは書いてない。巻末に解答用にます目の付いた用紙が付いています。これは旧版になかったものですが、この用紙の題名を「原稿用紙」としているところに、この著者たちの受験生から離れた感覚が表れています。原稿用紙と解答用紙の使い方はちがいます。それが分かっていないのではないか。

4 東大の解答は低レベル

 東大の過去問は改作したものも含めて全部で24問あり、120字以下の短問が9問で、300字以上の問題が15問とりあげています。このうち長文問題の解答の出来が悪い。これは以下に説明します。論理性がない答案で、これは方法論のなさと連動しています。

 

 東大の問題19問にしぼって批評します。一橋編・京大編もいずれ掲載します。

第1部

p.11 練習問題13 →巻末 p.8-9 解答解説

 この部分は旧版と同じ問題、ほとんど同じ解答が載っていて、解説が少し追加された点だけがちがっています。

 問題は1978年度の古いもので、課題は4世紀の地中海世界の特徴を書け、以後の発展にどう影響したか、というものです。

 わたしがこのブログで次のような批判をしたための追加説明のようです。

 この世紀に地中海世界=ローマ世界に東西のちがいがはっきり現れるという特徴をつかんでいません。この4世紀以前と比較して特徴(ちがい)をまずつかみ、その上で後世への影響を考えたら見えてきたはずです。最初に構想をつくらなかったせいでしょう。問題に指定された事項に縛られてしまい、足りない語句を政治・経済・文化にわたって補ってみたらよかったのです。全体像が見えていないところは、経済についてコロヌス関連のことしか書いていないことでこれは表れています。 

 「特徴」を書けと要求されているのに、今回の改訂版でも、相変わらず言及していません。「東西のちがいがはっきり現れるという特徴をつかんでいません」と書いたことに対する反論のように、こう書いています。

  東西ヨーロッパ世界の成立の契機が4世紀に見られることは事実であるが、4世紀におきた諸事件で、すぐに東西ヨーロッパの違いを強調するのは危険である。細かいことであるが、西ローマ帝国が滅亡した後のゲルマン諸国家は、誰一人「皇帝」を名乗らなかったし、むしろ残ったローマ帝国(いわゆる東ローマ帝国)皇帝に自らの地位を認めてもらおうとしている。「…ビザンツ帝国は次第にラテン的要素を失いギリシア的ビザンツ帝国に変貌する。…」といった生徒諸君の答案も見かけるが、これはローマ帝国が. (その意志に反して)再興できなかった結果なのであり、ユスティニアヌス帝の時期の領土回復や、その下での『ローマ法大全』編纂(その大半はラテン語)のことを考えると、これを強調するのも、あまり後世からの結果論で評価しすぎている。

  とあります。この中で「生徒諸君の答案」とあるのはたぶんウソで、これはわたしの答案にある文章そのままです。「後世からの結果論で評価しすぎている」と批判しています。後世というのはヘラクレイオス1世(位610〜641)がギリシア語を公用語化することを指しているのでしょうが、公用語化してからギリシア的になるのではありません。それまでの数世紀に公用語化するだけの背景があったからです。

 ローマ帝国の地中海発展史を振り返ったら判りますが、もともとイタリア半島から帝国は始まり、地中海西方の地域を征服してから、前1世紀に東地中海を属州化しています。この東地中海はバルカン半島とその南端のギリシアも含め、もともとギリシア人の住処であり、小アジアに移動した古いギリシア人(アイオリス人・イオニア人)もいます。後からやってきたラテン人支配者が来て、かれらと混血したため、ギリシア人が行方不明になるのではありません。ギリシア人はローマ帝国の下で生きつづけています。それどころか、かれらはローマ文化の担い手であり、「征服されたギリシア人は、猛きローマを(文化的に)征服した」というホラティウスの言葉があります。属州化した後も文化的にはギリシアはローマを圧倒しつづけています。ラテン人はギリシア語も話せるということが教養人として必須のこととされギリシア語を積極的に勉強しました。ギリシア人の学者・芸術家・文学者を家庭に雇いました。ギリシア語は東地中海地域の共通語として使われつづけたのです。ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスが著した『自省録』はなぜギリシア語で書かれているのか? ギリシア人はユダヤ人とともに地中海全体をまたにかけた商人でもありました。東西に分かれるということは、西方がゲルマン人が支配者になる世界の形成であり、東方がギリシア人の世界(ヘレニズム)にもどっていくということです。

 4世紀の名高い皇帝たち、ディオクレティアヌス帝は属州イリリクム(アルバニア)の生まれであり、小アジア西北のニコメディアで即位しています。コンスタンティヌス帝はセルビア生まれでした。かれらの直属の軍団も東方属州のもので固めていて、4世紀の段階で帝国の東方的性格は明らかです。

 東方的性格は5世紀になればもっとハッキリします。テオドシウス2世(位408-450)の時に創設された首都の大学には31の講座が設けられたが、言語ではラテン語15講座とギリシア語16講座とほぼ半分半分でした。「まもなくラテン語より優位に立つであろうギリシア語を、すでにラテン語と同等のものと認めている」(クセジュ文庫『ビザンツ帝国史』p.44、白水社。この本は4-5世紀に既に東方的・ギリシア的な性格が如実に出ていることを強調した歴史書)。なおUniversity of Constantinople をウィキペディアで調べるといいです。

 この参考書の解説ではユスティニアヌス帝(マケドニア生まれ)を高く評価していますが、かれの地中海帝国は6世紀後半だけのことであり、この問題は4世紀の後の5世紀以降への影響を書くことが課題、少なくとも5-6世紀の200年間を視野におかなくてはならない時に、半世紀のことだけ注目してもいかがなものか。

 なお「『ローマ法大全』編纂(その大半はラテン語)」と書いていますが、ユスティニアヌス帝のときに編纂されたのは2種類あり、ユスティニアヌス帝以前から編纂されてきた旧版はラテン語で、そして帝自身の勅令で編纂された新版(534年)は大半ギリシア語です。受験生をだましてはいけない。

 こちらで「ローマ法大全」を調べてください→http://ja.wikipedia.org/wiki/

 それより、3世紀と比較した4世紀の「特徴」が書いてないこと、経済史・文化史が乏しい内容である点は旧版と変わりません。

 

p.17 練習問題18→p.13 解答解説

 この問題も旧版と変わらず、解答もまったく同じものです。これは東大の1991年第2問です。

 春秋時代の半ばから戦国時代にかけて、漢族の有力な諸侯の国々はこうした少数民族をしだいに征服・同化し、広域国家をつくり上げていった。この時期の漢族の拡大に関係する技術上ならびに経済上の主要な変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

  この解答はこうです。

 鉄製農具や牛耕の利用により周辺地域の開拓が進み、農業生産が飛躍的に増大した。また富国策をとる諸侯のもとで製鉄・製塩をはじめ商工業が発達して都市の規模が拡大し、青銅貨幣が流通した。

  どこにもまちがいはないですが、これは「変化」でしょうか? この解答文に題をつけてみるといいです。すると「戦国時代の経済」という題になるでしょう。「変化」という題名は付きにくい。しかし「変化」とは、あるものから別のものに形や質がちがうものになることです。前の何かが違う何かに変わった、猫が狸に化けた、というほど劇的変化でなくても、前より違うものになったと書くことです。この解答に前がないため、前の何が変わった、といっているのか不明です。字数で無理な場合は変化した後のことだけでもいいですが、この程度(90字)なら前も書けるはずです。鉄や牛、青銅貨幣の前はなんですか?

 

p.41 練習問題39 →p.28-29解答解説

 これも旧版の同問と同答がのっています。東大1980年第1問で大航海の世界史的意義・変化・変動という問題です。これを「世界史的影響」という読み間違えたような題にして解かせています。

 この解答を見るまでもなく、p.29に地図のような図があるので、これを見たら解答の欠陥も分かります。つまり西アジアと南アジア(主にインド)がどうしてかありません。当然ながら解答にも「インド」という言葉はあるものの中身はまったく書いてありません。図にはあっても東南アジアはモルッカ諸島だけ書いています。フィリピンくらい書けるのではないか? こんな薄っぺらな解答でいいでしょうか?

 教科書ではこの問題の16世紀西アジアのことを書いています、

  対ハプスブルク同盟を結んだフランスの商人にも領内での安全保障、免税、治外法権などの特権(カピチュレーション)を与えた。このため、世界の交易網の結節点となった首都イスタンブルは、西方世界最大の都市として繁栄した。

  これは東京書籍の記述なので山川では無視でしょうか?

  16世紀インドのことは、

  西欧勢力が進出する以前のインド洋世界には、港市を結ぶネットワークが形成され、ムスリム商人やインド商人が活動していた。15世紀末にヴァスコ=ダ=ガマによってインドへの直接の航路が発見されると、ヨーロッパの商業勢力がインド洋世界への新たな参加者となった。

 ヨーロッパ勢力の進出の初期の目的は香辛料などの獲得であったが、インドに関しては綿布が重要であった。ヨーロッパでのインド製綿布への需要は大きかったが、ヨーロッパには綿布と交換しうる商品がなく、大量の金や銀がインドにもちこまれた。

  これは山川の『詳説世界史』の記述です。この問題集の題は『詳説世界史論述問題集』のはずですが。このインドに入ってきた銀はルピーという銀貨になります(拙著『世界史論述練習帳new』巻末p.52の4)。

 

p.58 例題62

 これは1988年第1問にある(B)の合衆国だけ取りあげたもので、

  アメリカ独立革命に関し、ヨーロッパにおける諸変革との比較を念頭において、アメリカの場合の特色と思われる点を述べよ。

  (A)の問題を省いたたため、ヨーロッパの後に「17・18世紀」を入れ、「諸変革」を「諸革命」と言い換えて問うています。これも旧版のままです。解答解説もまったく変わっていません。ここにも「特色」という問い方をしているのに学習者に注意を喚起していません。特色は「ほかのものと違っている点」(新明解国語辞典)で、この問題の場合はヨーロッパ諸変革との違いということです。

 p.59の解答の解答になっていない点は以下。

 1-2行目の「アメリカ独立革命はイギリス革命に比べて革命の主体が市民である点。さらに多様な階層に分かれている点」と書いています。「ヨーロッパにおける17・18世紀の諸革命」との比較のはずで、なぜイギリスだけとりあげているのか解(げ)せません。諸革命を一括して見て合衆国の特色(ちがい)を出すことが課題です。(A)(英仏普の変革──「普」はプロイセン)を前提にした問題です。この後もフランス革命だけ取り上げて共通点をあげています。問題が分かっていない解答です。

 また「革命の主体が市民である点。さらに多様な階層に分かれている点」ということは、革命主体が合衆国は市民でイギリスは市民でない、と言っていることになります。『詳説世界史』では、

 イギリス革命は、資本主義経済の自由な発展をさまたげる特権商人の独占権を廃止するなどして、市民層の立場を強めた。

  と記述し、この末尾の「市民層を強めた」に注がついていて、

 このような変革を「市民革命」といい、アメリカ独立革命やフランス革命とも共通する面をもっている。 

  としています。教科書が間違いなのでしょうか? これはたぶん、イギリス革命が地主・ジェントリーが主で、合衆国はそういう階層より下の、上の解説文にある「商工業者・自作農・知識人等の市民」だと言いたいらしい。「市民」という概念は日本の西欧史学の論争でもあり捉えがたい面はもっているものの、これを言ったら、フランス革命はあらゆる階層を巻き込んでいるので、ヨーロッパをまとめて比較することができなくなります。「多様な階層に分かれている点」はフランス革命と共通点です。

 また次に「国際紛争に発展するなど」としていますが、フランス革命もナポレオン戦争に発展しますから共通点です。

 「また独立宣言の中に明記されているようにフランス革命と同様に、ロックの革命思想の影響を強く受けている点」と書いていますが、課題に反して「同様」を書いては、空いた口がふさがらない。

 まともな解答になっているのは「また、ヨーロッパの諸革命……特徴である」のところです。「黒人奴隷・アメリカ先住民の人権」云々は、もともとヨーロッパにはない問題なので書かなくていいものです。

 

p.80 練習問題72 →p.53-54

 これは東大1985年の問題で、これも解説文・地図・解答はほとんど同じです。少し違うのは、第3段落のところです。

  初学者が陥りやすいミスは、反帝国主義運動=反植民地化運動、特に侵略に対する抵抗、と矮小化してしまうことである。帝国主義はたんに植民地化をすることだけをさして言うわけではなく、経済的な従属化を含めている。またそれが独占資本のもとに行われるのであれば、それに収奪されている帝国主義諸国の労働者の運動も反帝国主義運動として捉えることができる。この問題は、指定された時期における、反帝国主義運動の多様さを問う問題なのである。したがってペテルブルクの場合は1905年のロシア第一次革命を挙げればよい。

  分かりにくい説明です。帝国主義は「経済的な従属化を含めている」というのであれば、まさにそれこそ植民地化のはじめに必ずあるものです。経済があり、その後に軍隊が付いてくるものであり、どうにしろ外からの経済的・軍事的圧力であり、何より反帝国主義はこれに対抗することです。イランのタバコ・ボイコット運動はその典型的な例ですが、どうしてか解答にはあげてありません。

 「したがってペテルブルクの場合は1905年のロシア第一次革命を挙げればよい。」というのは、もし「ロシア第一次革命」が自国(ロシア自身が帝国主義国です)の帝国主義に反対する運動であったと言いたいのであれば、自国の帝国主義に対して労働者なり社会主義者が反対・抵抗したのか? 第二インターナショナルが大戦勃発とともに崩壊したように、自国帝国主義に対して国内で反対運動ができた思想家なり、社会主義者なり、労働者なりがどれほどいたのか? 課題の時期「19世紀末から20世紀初頭」の社会主義の一般的な理解はアジアの反帝国主義運動に共闘しないことです。

 また反帝国主義が反植民地化だけでなく「経済的な従属化」に対抗することも含まれるのは事実ですが、「経済的な従属化」に対する抵抗運動って何でしょうか? ロシアの場合は帝国主義とは直接関係のない農村でも1905年に動いていて、何よりきっかけは「1905年,日露戦争の戦況が不利になり,血の日曜日事件がおこると(詳説)」という政治的なものでした。

 ガポン神父がニコライ2世にあてた「ペテルブルク労働者と住民の請願書」という文書があります。「人間の権利はひとかけらも認められておりません」と請願しているのは第一に政治的な権利要求で、逮捕者の解放、義務教育、個人の自由、大臣の責任制、万民平等、教会の国家からの分離など国内改革です。第二は貧困に対する処置として税制の改革、土地に対する権利、戦争の中止。第三は経済的な要求で、8時間労働、労働の資本との闘争の自由、標準労働賃金などです。ここに経済に関しても要求を出しているのは確かめることができますが、主たる要求は政治的な権利であり、資本家でなく「皇帝」に改革の要求をしています(岩波書店『世界史史料6』p.274-276)。ロシア第一革命を反帝国主義だけでとらえられないことです。これはイラン立憲革命でも、青年トルコ党革命でも、辛亥革命でも言えることで、これらが皆、国内の政治的な改革が主であり、反独占資本の運動だというのは無理があります。明治維新も反帝国主義運動だと言いたいのでしょうか? 間接的・背景的にはそういう面もあるのですが、そうすると解答があいまいになる、という弱点をもちます。

 山川の解答は「自国強化のために、近代的な政治制度を導入する革命もおきた。イラン立憲革命やオスマン帝国の青年トルコ革命は、いずれも憲法に基ずく議会政治をめざしていた。……このような反帝国主義運動は、いわゆる帝国主義諸国の反政府運動としても存在した。ロシアにおける1905年革命」とあります。ここには近代化運動・民族運動・反政府運動がごっちゃになっており、ぜんぶ反帝国主義運動だと拡大解釈しています。帝国主義の経済的な定義(独占資本)からも「自国強化のために、近代的な政治制度を導入……憲法に基ずく議会政治」がなぜ反帝国主義なのか理解できません。どうやら後進国やアジアの運動はなんでも反帝国主義らしい。

  表に「組織的な民族運動=カルカッタ」とあり、解答にもこの例として「カルカッタ大会における四大綱領」とあります。これが「多様な」例として別にあげなくても四大綱領(英貨排斥)そのものがハッキリ反帝国主義をかかげているのですから、初めにあげてある「帝国主義国下の反帝国主義運動」に入れていいはずで、この場合の「帝国主義国下の」はインドですから「植民地の」といっしょです。

  「多様な」といいながら、越南維新会の東遊運動、アフガニ一らの反帝国主義遊説、アイルランドのシン=フェイン党をあげていません。

 

p.94-95 例題92

 この問題は同じですが、解説・解答はすっかり変えています。比較になっていない表が消えました。旧版のわたしの批判(p.96)が効いたのかも知れません。旧版よりずっと良くなりました。解説の末尾に「それぞれについて共通点と相違点にすべて言及する必要はない」と、わたしの解答例に反発するような文章があります。しかし「比較しつつ」と要求されているので、できるだけ書いたら良いのです。

 なぜか必要のない段落分けをした解答が載っています。こういう答例は他のページにはありません。その分け方も変なところで分けています。国際的影響の途中で分けた理由が不明です。だいたい論述の解答に段落は要らない。○○○字で書け、ということは段落なしで書け、に等しい。もちろん段落を設けても減点はないはずですが。

  旧版の批評でわたしの解答例をあげたので、それを見習ったような箇所をつき合わせてみます。上が旧版の批評文にあげたわたしの解答で下(→の後)がこの新版の解答文です。

 共通点。ともにひとつの民族が南北にわかれて国家をつくり、独裁政治がおこなわれ、それを背後から米ソ超大国が支援したことが原因である。

両戦争の原因は、民族統ーをめぐる南北両国間の対立を米ソが支援したことにあった。

 (共通点のつづき)日本は両戦争で米軍の基地となり「特需」といわれる景気によって戦後の復興と繁栄をものにした。

日本は朝鮮戦争を機に西側陣営の一員として主権を回復、両戦争に伴う「特需」は経済復興や高度経済成長を促した。

 

相違点。朝鮮戦争は米ソ占領終了後の建国と対立によっておこったが、ヴェトナム戦争は植民地化していたフランス軍の撤退のあとを米軍がひきつぎ、南部の反体制勢力になやむ独裁政府を支援したことからおこった。

朝鮮戦争では建国直後の統ーをめぐる南北対立に、またベトナム戦争ではジュネーヴ協定後フランスを継いだアメリカの南ベトナム支援による南北対立に、アメリカの直接的な軍事介入とソ連による軍事支援が加わり戦争は激化した。

 

国際的には前者が半島のみを戦場としたのにたいして、後者は周辺国にも波及した。

朝鮮戦争では半島内にとどまった戦火は、ベトナム戦争ではカンボジア・ラオスに拡大した。

 

国際的には……前者では中ソ封じこめの軍事ブロックをアメリカはつくりあげたが、後者では封じこめ政策がやぶれ米中接近・日中国交に変わってしまい、むしろ中ソ対立によって国際政治の多極化をうながした。前者では一部の知識人にすぎなかった反戦運動が、後者では学生を中心に世界的な運動となった。前者ではまだ繁栄を保てた米経済は後者でドル危機をまねいた。

国際的影響では……アメリカは朝鮮戦争後共産主義封じ込めを世界規模で展開して西側陣営での主導権を強めたが、ベトナム戦争では反戦運動の高揚やドル危機で国際的威信が低下、社会主義中国との国交樹立で外交転換を図った。こうして冷戦体制は動揺し多極化の流れは加速した。

 

結果は前者が統一失敗・米軍駐留、後者では北による統一・米軍撤退が成功した。

結果では、朝鮮戦争は南北朝鮮の分断を固定化したが、ベトナム戦争ではアメリカ軍撤退後、北ベトナム主導による南北統ーが実現した。

 →つづき(第2部)