世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大合格への世界史-2

山下厚『東大合格への世界史』データハウス-2

問題を読み誤った例6
p.65の反帝国主義運動の問題(1985)。この問題が読めなかった証拠として、p.71~72の解答をご覧あれ。あげてある都市にこだわり反帝国主義運動ではないものも無理にあげてしまいました。孫文の三民主義はなぜ反帝国主義ですか? 清朝を倒すのは反帝国主義ですか? 清朝は帝国主義国? イラン立憲革命、青年トルコ革命もみな国内改革です。反帝国主義運動は、外から入ってくる欧米の列強にたいして物理的な行動をおこすことです。イランで、トルコでどこの列強にたいして行動があったのですか? イランならイギリスに対するタバコ・ボイコット運動をあげるべきでした。どうでもいい太字の文章をとりのけたらこれは書けます。この問題の解き方と解答例は拙著『世界史論述練習帳 new』p.9~12にありますから、お持ちのかたは比べみてください。

問題を読み誤った例7
 p.73に600字の問題(1986)を2つに分解した改題があります。これでは一貫した大学側の要求が読み取れません。また訓練にもならない。それより、分解した(a)は「ヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまで、イスラム世界と境を接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた」とあるにもかかわらず、ビザンツ帝国やバルカン半島への影響が書いてありません。「ヨーロッパ」とあると西ヨーロッパばかり書いてしまうのは学生にもよくあることです。「ヨーロッパ」とあれば「東ヨーロッパ」も何かないかと探ることは解法の鉄則です。これもありのままの問題と解き方・解答例は『練習帳』p.72~74にあります。

問題を読み誤った例8
p.77の帝国解体の比較(1997)という問題。
p.78に「~留意し」は「~に関して」より重要度が低い、とおよび腰になっていますが、東大における「留意」の需要性はこのHPの過去問→東大→メールに質問に答えるかたちで説明していますから読んでください。それにこの留意は、この問題の場合、「とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意」とわざわざ「とくに」とあるのに無視しようとしています。それは解答(p.81)にも表れていて、比較がまったくできておらず「相違」を探すのは難しい解答です。むしろ民族問題・少数民族という点では共通点を書いた答案です。また初めのロシア帝国の解体過程は書いてなく、解体後に説明が移っています。指定語句にある三民主義や民族自決を比較軸として述べていくことにする、と解説していますが、どう比較したのかも分かりません。拙著『練習帳』のp.147~150に同問の解き方・解答例があります。2つの解答例を比較して相違点をさがしてみるといいでしょう。

問題を読み誤った例9
p.82のモンゴル帝国の拡大過程と衝突・融合を宗教・民族・文化で説明せよ、という問題(1994)。この問題について「簡単……基本的な知識ばかり」と軽くみていますが、p.84の「関連ポイント」の全体を見たら分かるように「衝突」について言及していません。p.85からの解答を見ればもっとハッキリします。宗教・民族・文化の衝突がなく、交流・交流と書きつづけています。いや前半の半分の拡大過程で衝突を書いたつもりでしょうか? しかしそこにあるのは征服・滅ぼし・侵攻・侵略・膨張とあるように、どこにも宗教・民族・文化の衝突が書いてありません。「簡単」な問題のはずですが?

問題を読み誤った例10
p.86の3枚の地図比較の問題にたいするp.89の解答に、実に変な解答が書いてあります。
太字の文章の中に「少数の白人に支配された先住民や黒人の権利は、保障されなかった……大土地所有制の下で、少数の大地主による寡頭支配が続いた」の後に「つまり、この段階では民族自決の観念はなかった」と。文脈としてすんなりこういう結論が導き出せるでしょうか? 今でもアメリカ大陸では、これらの先住民や黒人の民族自決が達成されていませんし、少数民族問題はいまでもどこにもある現象です。この問題があるとないにかかわらず、この過去問の課題は「主権国家」形成を国際関係の中で説明することです。主権国家になった国々の中身までは問うていないのです。著者は本題から離れて、じぶんの言いたいことを述べようとする癖があります。問題が先、言いたいことは後回しであるべきです。いや、言いたいことがあっても控えるのが解答というものです。青年の主張の場ではありませんから。

問題を読み誤った例11
p.91の問題(18~19世紀の合衆国とラテンアメリカの関係)という問題なのに、解説のどこにも18世紀のことが書いてありません。当然ながら解答(p.94)にも書いてありません。また「対照的な性格に留意」とありながら、太字では共通点をあげ、その後の細字も共通点を書きつづけています。終わり頃になって「経済的従属」と書いてありますが、これは導入文にすでに書いてあることの言い換えにすぎません。これが「日本語力」というものですか?

問題を読み誤った例12
p.104のイベリア半島の民族と文化の足跡をかく問題(1999)。
問題が何を求めているか(民族と文化)をしっかり把握しなかったために、p.106の解答があります。カルタゴから来たのは何民族か書いてありません。ローマ人は何民族か書いてありません。ゲルマン人・アラブ人は書いてあります。カール大帝は何人なのか書いてありません。ムラービト朝・ムワッヒド朝の民族名が書いてありません。文化は、ローマ帝国の場合、キリスト教しか書いてありません。総括的な「ラテン文化」の方がまだ良かった。ゲルマン人がもたらした文化は書いてありません。イスラムの文化だけは書いてあります。同問の解き方と解答例は『練習帳』p.40~42にありますから比べてみてください。

問題を読み誤った例13
p.107 「地中海世界と周辺におこった文明」という課題です(1995)。「前2世紀頃、地中海世界の統一を果たした」は誤りです。ポエニ戦争のことを想定しているなら、西地中海の制圧にすぎません。東地中海は前1世紀まで待たないといけませんし、なにしろこの問題は「ローマ帝国成立(前27)から」としていますから、この文章がなぜ必要なのか?
 ローマに関して「ヨーロッパ近代法にも影響」は無駄な語句です。ローマ文明に関して書いてあるのはこれだけです。ビザンツ文明は聖像崇拝禁止令? これが「文明」の説明でしょうか? イスラム文明の文脈の中にロジャー=ベーコン? これは西欧中世盛期の文明にもってくるべきものでした。後は政治史とからませてルネサンスにつなげていますが、ルネサンスは14~16世紀ですから、課題の「ビザンツ帝国の滅亡に至るまで」とあるので、文明に入れてもいいはすです。それに「周辺地域では、どのような文明がおこり」という課題にはまったく答えていません。

問題を読み誤った例14
p.110の「2つの大戦のそれまでの歴史には見られなかったような特徴」という問題です(1984)。この解答を見たら分かるように「それまでの歴史(19世紀)には見られなかったような特徴」はどこにも書いてありません。20世紀の戦争の特徴とは、2つの戦争だけの類似点を探しても現われてきません。それを19世紀と比べてはじめて特異性が表せるのです。『練習帳』p.129~130に解き方と解答例があります。特色・特徴の書き方が分かっていないとこんな結果になります。

問題を読み誤った例15
p.113の「大衆的な政治運動の展開」という問題(1990)。改題として「具体的な事例を挙げながら」をはぶいたとしても、基本的な要求である「大衆的な運動」はのこしています。この問題文には「大衆的」が2回つかってあり、しつこくこれを描くように要求しています。著者はこの語句に注目しなかったため、運動そのものが描けませんでした。なにやら運動の結果みたいなものをづらづら書いています。
p.116の解答の中から「大衆的政治運動」をさがしてください、と言われて見つけられますか? せいぜい「スパルタクスの団が蜂起」くらいでしょうか。これとてどう大衆的なのか分かりません。「ヨーロッパとアジア」と問題文にありながら、アジアはエジプト・インドという国名と独立運動があったとだけ書いています。これでは大衆的運動とはいえません。受験生でもこれほどひどい答案はなかなか書けないものです。得点は、かぎりなくゼロに近い。

問題を読み誤った例16
p.116の「1850~1870年代の時代的特徴」という問題(1979)。特徴の書き方は問題文の中に示してある親切なもの(前後の時代を考慮しながら)でしたが、この親切なアドバイスが分らなかったため、特徴がぼけています。解説のところで、答えは一言で書くなら、「1840年代以前とは異なるが、1880年代以降につながる時代」である、と書いていますが、この後半がいけません。「つながる時代」ではなく、1850~70年代を踏まえて、80年代からは、よりちがった状況があるから「前後の時代を考慮しながら」があります。
 p.120の解答のどこに「1840年代以前」のことが書いてありますか? 「世界の工場」は「19世紀後半のイギリスはヴィクトリア女王のもとで空前の繁栄をほこり、「世界の工場」とよばれた工業生産力」(山川出版社。要説世界史)とあるように、「世界の工場」は1850年代からです。確かに「1842年の南京条約……1848年のフランス2月革命」とあげていますが、事件をあげているだけで、1840年代の時代の様相を書いているのではありません。これ以外に書いてありません。この中の「南京条約で清を植民地化」ってホントですか? 半植民地化が始まった、のはずですが……。1840年代までの科学技術・経済・社会・政治はこれだけで分かりますか? 後半に「1870年代に帝国主義が幕を開けた」という文脈で、「一方」という語句がなぜ入っているのか不明です。もちろん帝国主義だけが1870年代の様相ではありません。この時期の科学技術はどうなったのでしょうか? 政治や社会はどうなったのでしょう? この問題は『練習帳』p.124~128にありますから比べてみてください。

問題を読み誤った例17
p121の「19世紀後半のヨーロッパの社会と政治」という課題(1983)。
 これは問題を完全にとりちがえてしまった今ひとつの例です。「1848年の各地の革命をへて19世紀後半に入ったヨーロッパでは、社会・政治の分野で変化が生じた。その重要な諸点について述べよ。」という元の問題は残していますから、それだけ見ても、これを1848年革命が世紀後半あたえた影響を述べよ、という問題ではありません。よーく、よーく問題を見てください。「1848年革命の影響を」とはどこにも書いてありません。ひとつの区切りとして1848年革命ということばあっても、それを起点にして影響を書け、とは要求していません。この問題の解説に1848年革命とその影響の問題だと勘違いしてしまい、詳説しています。しかし元の問題をよく見れば、1848年革命は無視していいことが分かります。この勘違いが、「革命の成果と限界について」という文を追加をして勘違いの上塗りをしています。
 p.125の解答を見てください。ここには政治と社会がどう区別されて述べてあるのかも分かりません。終わりの方に書いてある「社会主義革命がおきるようになる」という文は正気でしょうか? 19世紀後半のどこでそんなことがおきたのでしょうか?

問題を読み誤った例18
 改題として問題を出していますが、この著者は問題が分からなかったために自分の都合のいいように変える癖があります。元の問題(1991)はこうでした、

西アジアのイスラム世界では、9世紀半ばを過ぎるとカリフの権威はしだいに失われ、官僚と軍隊にたいして現金俸給を支払う体制を維持することがむずかしくなった。西ヨーロッパではフランク王国の分裂後、諸侯が割拠し、南アジアでもハルシャ・ヴァルダナの死後、地方政権が乱立する状態になった。
 まず西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。

  これの2段落目「イスラム世界における政治体制の変化を」というところを「イスラム世界における政治体制の変化を、前の時代との比較を念頭において簡潔に」と変えています。他の世界は前の時代を比較するのかしないのか……分かりません。だいたいこの問題は、9世紀の総括がはじめにしてあり、それを出発点として10~17世紀でその状態がどう変わったのかを書けばいいのであり、前の時代と対等に比較する必要などないのです。それではちがう問題になります。この問題のメインは三つの世界の「対比」がどれだけできるかにかかっているのであって、前の時代との対比ではありません。p.131の解答の太字に注目して読めば、地方分権→中央集権、という過程がどれにも書いてあり、これがどうして「対比」したことになるのか? 「対比」を国語辞典でくってみてください。対比はちがいを書くことが課題です。しかし解答文の中に「これに対しインド」と書きながら「中央集権体制確立が目指され」と西アジアと同じことを書き(「これに対し」が無意味になります)、このインドをうけついで「西ヨーロッパも同様に」と語句があるように共通点を書いています。


問題を読み誤った例19
p.134とp.138の市民革命の比較は改題にしたため、まるで東大の意図とはちがう問題になってしまいました。こういう、のんべんだらりんとした問題ではなく、元の問題(1988)はこうです、

(A)イギリス革命(ピューリタン革命および名誉革命)とフランス革命に関し、革命を引き起こした原因と、革命がめざした目標とについて両革命を比較し、それぞれの革命の特色を述べよ。さらに、19世紀初頭のプロイセンの改革の特色と思われる点を指摘せよ(300字)。
(B)アメリカ独立革命に関し、ヨーロッパにおける諸変革との比較を念頭において、アメリカの場合の特色と思われる点を述べよ(300字)。

本番の問題を解いた方がどれだけ頭をつかわなくてはならないか、痛感するといいでしょう。

 以上で、「問題を読み誤った例」を終えます。ここまで読んできたひとは、この参考書をどのようにおもわれますか? わたしは本の題名を『東大不合格への世界史』と改名したいとおもいます。

 この後も改題がつつぎ、p.143,146……と改題と書いてないが、著者の創作した(?)問題が並んでいます。ホントの東大は常に独創的な問題をつくる珍しい大学です。こういう過去問を一部ふえんしただけの問題は出題されないといっていいでしょう。p.28に例題7としてあげてある東大の過去問例としてあげてありますが、こういう問題は過去問にありません。1993年度の「イスラム世界における少数派としてシーア派がある。10世紀のイスラム世界で成立したシーア派の王朝名を二つあげよ。つぎに改行して、これら二つの王朝がスンナ派のアッバース朝カリフにどのように対応したかを、それぞれ2行以内で記せ」を改作したものです。問題もでっちあげてはいけない。

3. 世界史の知識が欠けている
p.19の「ローマ帝国の帝政後期に都市が経済的・文化的に活力を失う原因は何か一つ(1988年度第3問)」という問題をあげる際に「徴税を逃れようとして農民が移住するケースは東大で頻出」と書いて、「次の問題もそうだと」とあげてあるのが、上の問題です。
 この解答に「宗教対立や民族移動による帝国の混乱と相まって」と要らないことを書いています。東京書籍の教科書にある文章をもってきた、ということですが、教科書本文は「帝国西部において、都市の市民のなかから農村に移住して所領をかまえる者が続出した。彼らはそれまで経済の繁栄を支えていたが、重くなるばかりの徴税をのがれようとしたのである。このような変動がさまざまにあらわれ、宗教対立や民族移動の混乱が重なり、ローマ帝国の動揺はかくしようもなかった」とあるものです。都市の衰退の理由として「宗教対立や民族移動の混乱」とは書いてありません。帝国全体の動向を書いているのであり、都市衰退と結びつけてはいません。この東京書籍の教科書では、「市民のなかから農村に移住し」とあり、それが農民であるとは書いてありません。「所領をかまえる」ほどの豊かな「市民」です。むしろ詳説世界史なら、それがどういう市民であるかを明快に示しています。「都市は重税を課されて経済的に疲弊し、とくに西方で衰退しはじめた。都市の上層市民のなかには、都市を去って田園に大所領を経営するものがあらわれた。彼らは、貧困化して都市から逃げだした下層市民などを小作人(コロヌス)として大所領で働かせ、やがてこの小作制(コロナートゥス)が奴隷制経営による土地所有にとってかわるようになった」とあるところです。帝政後期に都市の市参事会となった上層市民が都市の税の負担を負わされたため農村に逃げたのであり、逃げたのも「下層市民」であり農民が移住するケースではありません。それと上に引用した2つの教科書を見比べたら分かるように、詳説世界史の明晰さがきわっだっています。

p.16に「ペルシア湾ルートに代って紅海ルートが栄えるようになった歴史的要因」を説明せよ、という問題に対するp.18の解答に「ブワイフ朝におけるイクター制普及によって、軍人による徴税が強化され、ペルシア湾岸から紅海沿岸へ農民が流入すると、それに付随し交易ルートが変化し、バグダード衰退とカイロ繁栄をみた」とイクター制に原因をおいています。おかしな答案です。農民が移動したらなぜ交易ルートが変化するのでしょう? ここに因果関係は成立しているのか? 新説です。だいたい紅海ルートの要であったカイロの支配者アイユーブ朝もつぎのマムルーク朝もイクター制を導入しますから、するとまた農民がペルシア湾にもどったのでしょうか? オスマン帝国もティマール制というイクター制に似た制度をとりました。じゃオスマン帝国支配下の農民が逃げて、「商業革命」がおきた……? 著者が好きな東京書籍にも「……マムルーク朝が成立した。この王朝は、イクター制などのセルジューク朝の制度を導入して発展させ、またアッバース朝のカリフをカイロで擁立して、イスラーム世界の盟主となった」と書いてあります。
 転移のいろいろな原因があります。バグダードを都にしていたアッバース朝は奴隷(ザンジュ)反乱・軍人の台頭・内紛により衰退にむかっていて、ペルシア湾ルートの終着駅たる都がこれでは商人は避けます。それにブワイフ朝・セルジューク朝と侵入して、そのたびにバグダードは荒されました。いずれはモンゴル人の侵入と灌漑施設の破壊が決定的なバグダードの崩壊になります。逆にカイロのファーティマ朝からマムルーク朝とつづく諸王朝は安定しており、商業を保護したため、カイロに貿易の中心が移ることになります。カイロと紅海はつながっています。また西欧の「商業ルネサンス」がこのルートの需要を拡大しています。著者のおもいつきで歴史をねつ造しては困ります。家島彦一著『イスラム世界の成立と国際商業』(岩波書店)ではルートの変遷について、アッバース朝の前述したことによる衰退と、ファーティマ朝がおこなった商業の様々な保護政策をあげ、それを後のアイユーブ朝・マムルーク朝もうけついだことが決定的な理由としてあげています。イクター制の影響などひとかけらも書いてない。むしろ佐藤次高編著(佐藤は東大教授)『世界各国史・西アジア史』ではブワイフ朝とセルジューク朝による「イクター制の採用により、社会の安定化はいちじるしく進んだ」と書いています(p.159)。

p.48の2004年の問題「16~18世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れ」という課題です。p.54の解答には16世紀が3分の2以上を占める解答例があり、17世紀と18世紀は1文ずつで終わっています。アンバランス。17世紀のところで、「日本銀産出量の減少や英蘭両東インド会社の競合による胡椒価格の大暴落を背景に、銀で結ばれた国際経済は不況を迎えた」と書いています。これは本当でしょうか? 詳説世界史には16~17世紀の中国経済史を説明する中で「商業経済の発達とともに、商人で地主……清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加した」と書いています。問題文にも、「世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる」と。この「不況」は西欧で言えても、世界全体では言えません。日本銀に関しては、次のように書いているひともいます、

寛永16年(1639)に完成をみた鎖国後も、大量の銀貨が海外へと流出していった。徳川幕府では、この銀貨流出に歯止めをかけるべく鎖国体制の確立後も銀貨の輸出禁止(寛文8年 (1668))など、種々の銀貨流出抑制策を講じた。もっとも、こうした措置にもかかわらず、銀貨流出は止まらなかった。また、小判も寛文4年(1664)の輸出解禁とともに大量に流出し、銀貨に加え金貨も不足するようになった。金銀貨の流出抑制のためには、生糸に代表される輸入品の国内自給体制の確立が不可欠であり、対症療法的な措置だけで金銀貨の流出を抑制することは困難といわざるをえない。実際、銀貨の海外流出が止んだのは、生糸、朝鮮人参、砂糖などの主要輸入物資の国内自給体制が確立され、輸入代替が完了した18世紀後半以降のことであった。

 解答の18世紀には「蓄積した富……産業革命を準備」としか書いていませんが、銀が課題であれば、せめて地丁銀でも書けなかったのでしょうか? 

p.103の解答文のおかしなところ(1981)。
 2行目「スラブ族への布教」と勝手に指定語句(スラヴ族への布教)を変えてはいけない。13行目の「ギリシャ語文献の翻訳」も「ギリシア語文献の翻訳」でなくてはいけない。勝手に変えると減点対象になりますよ。この文章の中にある「カール戴冠によるローマ帝国の復活後、東ローマに対抗してスラブ族への布教を行ない、独自の世界を形成する」という日本語がおかしい。布教をすることが、なぜカールの世界を独自にするのか? 因果関係を大事にしている本書に合わない。また初めの文章が「宗教的には」と始めていて、途中の文章で「まず経済面では」となぜ来るのかも分からない。こういうのも日本語力?
 また、9行目から文化面が書いてあり、そこに西欧のカロリング=ルネサンス、ラテン語、東ローマでギリシャ語、イスラム世界でギリシャ語文献の翻訳──これはどういう「対比」になっているのか? 言語がラテン語・ギリシア語であれば、アラビア語とあるべきもの。アラビア語の普及は大事ではないのか? カロリング=ルネサンスとギリシア語文献の翻訳は文化政策ですが、東ローマの文化政策はないのでしょうか? 3者の文化には対照的な性格があり、それを書けるかどうかもポイントのはずですが、気がついていないようです。15行目「東ローマだけがテマ制を採用し」という文章もへん。この「だけ」は「中央集権体制」にかけているのでしょうが、それであれば、テマ制をしく東ローマだけが中央集権体制……と書くべきでした。日本語力を鍛たえた方がいいようです。

 なお追記すれば、著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。
 著者が模試で高得点をとったので、この本も信用できると勘違いして買ったひとは、もうひとつの勘違いを確認しておく必要があります。模試は論理性のない問題ばかり問うていて、知識を詰め込めばそれなりの高得点が得られるものです。そんなことでは本番に役に立ちませんし、この本が全体でこのことを証明しています。模試のことは、論述教室→E判定でも、でお読みください。
 結論は、2で指摘したように、問題の読み誤りがひどく、これでは日本語力でカヴァーできるレベルではない、ということです。スタイルばかり気にする目の悪い青年、というのが本書の印象です。

 他者の批判ばかりで自分の解答を出してないではないか、という方に、わたしの解答は出しています。→こちら