世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

NEW 青木世界史B講義の実況中継(1)-1

●青木裕司著『NEW 青木世界史B講義の実況中継(1)』語学春秋社
 改訂新版 2005年3月10日初版

 これは旧版『大学入試・青木世界史B講義の実況中継(1)』語学春秋社の改訂新版です。
 旧版の批評に賛同されたのは教師のかたたちでした。28通のメールはどれもよくぞ言ってくれた、という声でした。
 ここでは新版の批評をします。旧版で誤りを指摘した箇所が修正されているので、少しですが、それも触れながら新版を批評してみます。
 これはわたしの勝手な批評であり、眉唾つけながらどうぞお読み下さい。「王様は裸だ」、普通の人間と変らん、と安堵されるかたと、わたしに対して「アーリマン」めと、憎しみが増幅される方とがおられましょう。しかしそういうことはどうでもいいことで、要は、これから受験する学生が、この批評文を読んで正しい知識を得て、合格に近づいたらいいのです。

長所
1 解説として、いくらか面白いところもあること。つまらないページもけっこう続くので、たまに息抜きの脱線があるところがいい。他の授業スタイルの解説書たる『ナビゲーター』や『名人の授業』より読める。
2 へたな絵があちこちにのっているため、親しみやすさと、自分ならもっとうまく描けるなあ、という優越感にひたりながら読めます。
3 なにより良いところは字が大きく、赤川次郎の小説のように空白がたくさんあり、何か余裕が感じられることで、これは旧版と変りません。それだけ情報量が厚さと冊数にしては少ないことは否めませんが、どちかといえば長所でしょう。

 さて、おいしいところはこれくらいで、まずいところを以下に説明します。ただし先生を尊敬していて、たとえ入試で落ちても、先生の尊厳の方を優先したい、いわば特攻隊タイプ・宦官タイプ・自滅タイプの方は以下を読むのを止めてください。疑うだけで犯罪 ! とおもってしまう洗脳されたい方も、これっきりにしましょう。


 いや合格したい、著者の尊厳などどうでもいいという方、真実という恐いものに直面しても構わない、恐いもの見たさタイプ・清水の舞台タイプ・信じても救われないタイプの方だけ以下を読みすすめてください。
 わたしに反論したい方は、ばくぜんと反論しないで、下に書いた、どのページのどの批判がまちがっている、と具体的に書いたメールをください。ばくぜんとした非難は犬の遠吠えです。

短所
1 間違いが多いこと。旧版もそうでしたが、直しても直した箇所で誤りの上塗りをする、という偽りの泉です。間違いの多さでは群を抜いており、多さでは、実況中継>名人の授業>ナビの順。教科書の記述に反することがたくさん書いてあります。
2 赤字になっている用語は著者の勘といっていいもので、根拠がありませんし、根拠を書いたページもありません。「勘」は言い換えれば、デタラメです。どういう意味の重要性かは分からない。センター試験と私大の試験の区別もつかない、乏しい過去問研究のすがたを露呈するのが赤字部分です。もっているひとは赤字を無視して読むことです。
3 地図が使いものにならない。まともな地図、つまり海岸線が正しく描かれた地図は一枚もなく、グニャグニャの概念図です。少なくともセンター試験を受ける受験生はこういう地図では、地図のよく出題されるセンター試験には不向きですから、学ぶべき地図として見てはなりません。私大の地図もまともな地図です。教科書のまともな地図をご覧ください。

●疑問点・虚偽例など
 以下の指摘には印がついています。これはまずさの度合いを表わしていて、逆ミシュランです。の数が多いほどまずいところです。

p.8 プレステッドが赤字ですが、どういう意味で赤字にしたのか理解に苦しみます。旧版をそのままひきずっています。

p.9 「図解」の中の「肥沃な三日月地帯」のピンク色が実におかしな位置にぬってあります。これが三日月?

★★p.11 赤字の神権政治の下に、

彼らはあくまで「神の代理人」であって、神そのものとはみなされなかったということです。ここが古代エジプトとの大きな相違点ですね(→p.18)

とあり、このp.18をくってみると神権政治ということばがない! えっとおどろく不思議な説明です。 詳説世界史に「エジプトでは王が生ける神として専制的な神権政治をおこなった」とあり、三省堂では「政治も軍事も神の名のもとに行なわれた。これを神権政治という。シュメール人は……」とあるようにメソポタミアもエジプトも神権政治です。メソポタミアだけ神権政治だと勘違いしているようです。ここは旧版のままです。

p.11 赤字の「ウル第一王朝」もなぜ赤字なのか疑問。

p.12 上のように細かい用語を赤字にしながら、「チェック」のところでは、

ヒッタイト、リディア、アケメネス朝は印欧系。残りは全部セム系

と極端な単純化が見られます。かの用語集でさえ、ミタンニ(頻度8)、カッシート(頻度9)、メディア(頻度11)と印欧語族をあげています。印欧語族であるかないかの疑問点があるものの、入試では今も印欧語族として出題されます。実例→(2000立命館・経営)インド・ヨーロッパ語族のカッシート人・[A]人(Aにミタンニが入ります)。

p.17 バビロン第3王朝がなぜ赤字なのか疑問。

★★p.18 初めにエジプトの地理の説明がありますが、閉鎖的がとくに重要なのではなく、「下エジプト」「上エジプト」という基本的な地理の説明が欠けています。実例→(2002同志社・経済)古王国時代のエジプトの都は上エジプトのメンフィスであった。(正誤問題、上→下が正解。類題は2005早稲田・一文、2006高崎経済など)。
 なおファラオはなぜ神と見られたかについての奇妙な説明は新版では無くなりました。

p.24 ベリトスがなぜ赤字なのか疑問。

★★p.27~28 一神教の生まれた背景として民族団結の必要性からきているとした奇妙な議論。じゃアラブ人の一神教は多神教の中から生まれているのはなぜ? アラブ人は他の民族からいじめられたから一神教になった? だれがアラブ人をいじめたのでしょうか? 民族の団結と一神教を結びつけると、常に北アジアの圧迫をうけながら長い王朝を築いてきた漢人の中国になぜ一神教はないのか? 建国からずっと多民族と戦いつづけ、多神教のまま統一帝国を築いたローマはなぜ可能だっのか? アメンホテプ4世の一神教は多神教の中から生まれたのはなぜ? どの民族が当時のエジプトをいじめたのか? 後もえんえんと一神教関連のはなしがつづき、一神教を信仰している民族は苦しい体験をもっている場合が多いよな……とのたまう。欧米のキリスト教徒、イスラーム教徒が皆? 「苦しい体験」なんてあいまいな……。一神教が日本人に分かりにくいのは、こういう歴史的思考力の欠如から来ています。学者で一神教オンチなのは岸田秀、梅原猛です。

p.31 真ん中あたりに、

 この広大な領土を直轄支配するというのは事実上不可能なので、約20州に分け、それぞれサトラップと呼ばれる知事(総督)を派遣して支配させました。

 この日本語が奇妙です。詳説では「各州に知事(サトラップ)をおいて全国を統治し,「王の目」や「王の耳」とよばれる監察官を巡回させて中央集権化をはかった」とあるように、これが直轄支配・集権化の方法です。始皇帝の「全国を36郡に分け、その下に県を置く郡県制をしいた。そして、郡県の長官は中央から派遣して統治にあたらせた(詳解世界史)」 と基本的に変らない。中国とアケメネス朝のちがうところは、中国でいえば県にあたるところを現地の人間を利用したということであり、それが間接的で自治も認めた部分です。サトラップを派遣して、その下の官僚を現地の人間をつかったということであり、サトラップ派遣と直轄支配は不可能ということではありません。サトラップに現地民をあてたとか、また封建制のように土地の世襲権も与えて地方の統治を任せるというのなら別ですが、サトラップに任命されたのはアケメネス王室の親族かペルシア人の貴族だけです。その仕事は「王の代理として州の行政,治安,裁判をつかさどり,州民の召集軍を指揮し,定められた額の税を徴収して王に納め(平凡社百科事典)」るというまさに直轄支配のために派遣されたものです。また王に直属するペルシア人の守備隊が各州に駐屯していました(2006竜谷大「全国20余州にサトラップを任命し、分権的に統治した」という正誤問題、分権的→集権的が正解)。

★★p.32 この地図にのっている王の道のひき方がひどい。道をどういう風にひいたのかたぶん知らないのでしょう。適当に描いた感じです。ティグリス川とユーフラテス川の中流域を横切って小アジアにたっしています。この地図と教科書の地図(詳説なら「ペルシアの国道」と線のひていあるところ)を見比べたら、ザグロス山脈のふもとを走っていることが分かるはず。両河の中流域にあたる都市を避けて、わざと山のふもとをとおしたのです。この意味するところがわかりますか? 田舎道をとおしたのには理由があります。センター試験1992年度の本試験にどの線が正しい王の道かと問うた地図問題がありましたが、この参考書の地図だと正解はないことになります。青木の地図は見るな!

p.33 1行目「ダレイオス1世の次の王あたりから衰退を始めます。次の王とはクセルクセス1世」とある記述への疑問。この言い方は当時のギリシア人が言いだしたことで、それに対して歴史家は、クセルクセス死(前465)後も100年王朝がつづいたのは何故か、と問うています(『古代オリエント事典』岩波書店)。ほんとは100年でなく約130年ですが。クセルクセスのときにギリシアに負けたといっても、ギリシアへの侵略が失敗しただけであり、何も衰退するのではありません。むしろ戦争つづきで苦しくなってきたポリスは軍資金をペルシアに頼り、これを利用してペルシアは実質ギリシアをあやつったのです。このことをわざわざ問うた問題が京大の過去問にあります(1994年度)。このクセルクセス1世はダリウスが仕事途中でできなかった事業を完成させており、ギリシアの諸ポリスを操ったのもかれの治世中でした。下って9代目の王アルタクセルクセス2世の治世(前404~前359)中の前401年に、弟のキロスが反乱を起こしており、制圧はされたものの、この時代くらいからが帝国の統一は崩れ、エジプトの独立など各州の謀反が相次ぎ、王家の権威は衰退していったのです(ジャポニカ──吉村作治の執筆)。

★★p.36 上から5行目「とりあえずそのクレタ文明を破壊し」
 このいいかげんな説明と、次の教科書の記事とを比べてみてください。

かれらは、クレタ文明との交流のなかから、前1600年ころ、ギリシア本土のミケーネ(ミュケーナイ)やティリンス・ピュロスなどに小王国を形成し、ミケーネ文明を生んだ。…… 詳解世界史
彼らは前1400年ころクレタにも侵入して支配するようになり…… 詳説世界史

クレタ文明から学ぶ期間が200年あるのであり、「とりあえず……破壊」ではありません。

★★p.40~45 p.40の中ごろに「貴族とは誤解を恐れつつ簡単に言うと「金持ち」です。平民とは平たく言えば「貧乏人」」と誤解を与えざるをえない説明をしています。貴族は大土地所有者であり、平民の多数は中小土地所有者であり、貧者は無産者をさしています。こういう社会科学の常道の用語を使えばいいのであり、金持ち・貧乏人と小学生に語るようなことばを使わなくていい。それほど「誤解」を意識していないことは、次のことで明らかになります。
★★★ つまりp.44~45で、「社会の上半分、すなわち金持ちだけが……」というまちがった説明に発展します。市民の半分が金持ち(貴族)という社会はあるでしょうか? 非常識。貴族のパーセンテイジは明らかではありませんが、これは貴族共和政といっているアテネ初期の説明です。トゥキディデスは、ペルシア戦争のときのアテネの兵士は、騎兵と騎馬弓兵は1200人、たんなる弓兵は1600人、重装歩兵が13000人、要塞の守備兵が16000人、三段櫂船にのる漕手が60000人と数えています(なおトゥキディデスはエーゲ文明から書き出しています)。後世の歴史家はこの数字は大きすぎる、と疑っていますが、ただ貴族・平民の比率、つまり1200人だけが貴族であり、後は平民たる中小土地所有者と無産者です。アテネではこれらの軍隊の組織と身分が一致していましたから、いかに貴族が少ないか推理できます。「ポリスにおいては戦士の身分は市民の身分にひとしい。ポリスの軍事組織に編入される者は、それによってその政治組織の中に地位を与えられるからである」(安藤弘著『古代ギリシアの戦士』三省堂)。

p.47 ソロンの改革から、いきなりペイシストラトスの僭主の説明に行くのは解せない解説です。なぜ僭主が現われたかのリンクが必要です。「負債を帳消しにして平民が奴隷になることを防いだ。しかし、その後の混乱に乗じて、前6世紀なかごろにペイシストラトスが独裁権力をにぎって僭主となった。(三省堂)」、「(財産政治)。しかし,貴族と平民の抗争はおさまらず,やがて平民の不満を背景に貴族を抑圧して独裁政治を行う僭主があらわれた。ペイシストラトス……(東京書籍)」と、なぜ僭主が現われたのかを示唆しています。

p.53 下の方に「ラケダイモン人」が赤字になっているのも解せない。またこの説明を「スパルタの古名ですね」というのもおかしい。これは歴史の説明だから、「当時の名前」とすべきところです。スパルタ(スパルチアタイ)とペリオイコイの双方を含んだ総称でした。

p.54 このページにはなんども「ふんどし」が出てきます。ギリシア人はふんどしを使いません。スカートです。造った(笑)にしていますが、「ふんどし」という日本人の一時的な宦官様式(布を束ねて男根を巻き付け、かえって強調する逆宦官)をギリシア人にあてはめています。自民族の下品な風習を外国人に適用したものです。

p.55 「ミカレ岬の戦い」も赤字?

★★p.58 現代の民主政治とギリシアの民主政治の相違点という論述問題があり、解答のまずいところは、末尾の「直接民主政であった点も、現代の民主政とは異なっている」とある部分。「直接」に対して現代は「間接(代議制)」民主政、としないとギリシアとの相違は明快には出ません。女性に参政権がないことは、日本の現代史でもそうであり、在留外人もあげていますが、今の日本も参政権を与えていませんから、これとて明快な相違点とはいえないものです(日本は「現代」の中に入らない?) むしろ官僚制が未発達で衆愚政治に陥りやすく、また法前平等の自然権思想はなかった、とした方が明快です。この問題は2001年度の阪大にあります。
 なお婦人参政権がなかったことを教科書も限界としているから正しいとしてくれるものの、西欧の国々も第二次世界大戦後になって女性(婦人)参政権はあたえています(1944~45年にフランス、ハンガリー、イタリア、日本、1948年 ベルギー、1952年 ギリシア、1971年 スイス)。それでも限界とするのは、イギリスを欧米の代表国とする思考がまだ日本人の歴史観の中に劣等感としてあり、歴史家にも巣くっているということでしょう。

p.58 ペリオイコイを「劣格市民」と誤訳をくってけいます。こういう誤訳をのせている参考書は他にもありますが、ペリオイコイは「周辺民」というのが正しい訳です。スパルタの市民で犯罪を犯した者はこの「劣格市民」とされますが、ペリオイコイはスパルタ区域(市)に住んでいないし、スパルタの政治に参加できない「非市民」です。かれらは痩せた土地や丘・沿岸に80~100くらいの数の村・町(ポリス)をもち、独自の法ももっていてスパルタはその内政に干渉しません。つまりスパルタの法や慣習にしばられず、独自の法をもつ自由人であり、他のポリスの市民と変りません。しかしいつの時期かにスパルタとの戦いに負けた(あるいは戦わずして屈伏した)ことがあり、あるいは同じ征服者たるドーリア人でありながら、集住のときに参加せず辺境にとどまったと者たちであり(「周辺のドーリス人をペリオイコイ……として支配」詳解世界史 )、いざ戦争というときにはスパルタとともに戦い、援護する義務を負っていました。しかしヘロット(奴隷、もとの意味は捕虜)までにはならなかったひとびとです。

★★p.59 「貨幣が必要以上に入ってこないように……ああ、それから、ご心配なく、スパルタはギリシアでも数少ない、穀物の自給できるポリスでしたから」と本質的なことを後回しにしています。本来は自給可能を初めに解説し、自給自足できるからこそ鎖国主義であるのに、鎖国主義を破られたくないので貿易をせず貨幣が入ってこないようにしているのだ、と逆の解説をしています。ペリオイコイが商業民であったようにスパルタにも取りひきはあり貨幣もあります。鉄銭という他のポリスから見れば価値のない貨幣でしたが。

p.61 8行目「戦いが始まって2年目にペリクレスが死にました。その後アテネは劣勢に拍車がかかります。そしてBC404年、アテネは……敗北したのです」としています。こういう解説はまちがいです。自分の書いた記述に疑問がわかなかったのか、ペリクレスが死んだ(前429)のはペストのせいですが、まだ戦争の初期です。この戦争はペストの後もアテネがずっと優勢でつづくのであり、東大の伊藤貞夫は「疫病流行後もアテナイの海外での優勢は揺るがず,とりわけ……(平凡社)」と書いています。むしろ煽動政治家が優勢な戦争を続行しつづけたため末期なって逆転されるのです。どうしてか、ここで煽動政治家を出さないで、p.64になって前後の脈略もないところで出しています。青木さんは教科書を読んだ方がいいです。

 ペロポネソス戦争がおこった。戦争中,アテネはペリクレスの死後指導者に人材がなく,直接民主政の欠陥があらわれてデーマゴーゴス(元来は民衆指導者の意味だが,転じて扇動者)が民会を牛耳るなど衆愚政治におちいり,一方スパルタはペルシアと結ぶのに成功し,アテネを降服させた。──(新世界史)
 この戦争のあいだに、アテネの民主政治は扇動政治家(デマゴーゴス)のもとに衆愚政治におちいり、ついにスパルタに屈服した。──(旧版の詳説世界史)とあります。

p.61 コリント戦争の赤字に疑問。ここでレウクトラの戦いを説明しているのなら、エパメイ(ミ)ノンダスを出さないのが不思議です(慶應大・関学大・関西大)。

★★p.62~63 「武器っていうのは戦争に行ったら、次にはまた新しいのを買わないといけないんだ。テニスのラケットのガットと一緒だよ……金がないんだよ」と乱暴な説明をしています。教科書の記述と矛盾します。

武具の軽量化や価格の低下によって、さほど裕福でない平民層をも加えて、前6世紀後半には機動性にとんだ攻撃力の強い軍隊を完成させた……詳解世界史(三省堂)

 この記述は、だんだん民主化していく前6世紀の武器購入で、最盛期である前5世紀の武器の主力はファランクスでつかう槍であり、これは刀剣より安い。安いからこそ多くのものが買って参戦できました。刀剣は補助手段となり、甲冑も皮や麻を土台にして金属で補強する軽いもので、ヘルメットも笠のように軽いものになります(詳しくは安藤弘著の前掲書)。スパルタは国が武器を準備してくれているので、武器が買える買えないの問題ではなく、戦争の止むことがないため、なにより戦士市民が戦死して減少したことが大きい。スパルタの市民数は前371年で約2000人、前242年で約700人しかおらず、国としてもたない状況です。カイロネイアの戦い(前338)に参加できなかったのは兵力不足です。また貧困に陥ったものはスパルタだけでなくどのポリスでも東方へ出稼ぎに出、ギリシア本土の人口は激減しました。傭兵に依存していくのは正しい説明ですが。

p.65 最下行「ヘレニズム時代こそギリシア人の全盛期ですよ。ペルシア戦争で勝ったところが全盛期? とんでもない。」と書いていますが、おかしな解説です。p.55で「アテネは黄金時代を迎えます」と書いているのと矛盾します。マケドニア人がギリシア人であるかどうかの疑問がありますが、とにかくヘレニズム時代はギリシア本土では「被支配の時代」でありポリスも衰えて、文化的にも創造性を失った時代でした。アテネの黄金期がギリシア人の全盛期(古典期)ととらえるのはどの歴史書にも書いてあることです。ポリスが崩壊してもギリシア人の活動がつづいたのは事実ですが、ヘレニズム時代の300年間を全盛期ととらえる見方はありません。「全盛期」が活動の盛んな時期だというとらえ方なら、地中海全域に雄飛して植民地を築いた大植民時代(前750~前550)も該当するのでは? この時期は自然哲学が生まれ、叙事詩が謳われ、民主化がすすんだのに対して、ヘレニズム時代は創造性を失ったギリシア文化が東方に伝っていて、ローマを主として模倣の時代であり、ギリシア人が支配者としていばりくさった時代でもあります。

p.67 2行目「グラニコスの戦い。でも入試にはめったに出ません」と殊勝なことが書いてあります。入試に出る出ないの判断の根拠がこの著者にありません。グラニコスの戦いは早稲田・明治で出ています。この戦いを赤字にしないで、入試に出ない? じゃ、いままでの赤字はみな入試によく出る用語を赤字にしてきたということ? まさか。

★★p.69 このページ全体の説明が珍説・奇説です。「インド人たちは仏様の顔を像に描こうとはしなかった。なぜ? 畏れおおいからだよ。これに対してギリシア人は……十二神なんかを、バンバン像に刻むし、絵も描くしね。なんでかって? そりゃギリシア人が自分に自信があるからだろ……これを見てインド人たちが感心して」と。
 仏像を彫らなかった、描かなかった理由を「畏れおおい」とかたづけでいますが、これはゴータマ自身が禁じたからで、それを信徒は守ってきたのです。これは仏教の基本です。「仏」になるということは、死人になることではなく、生きたまま悟りを開いた状態(覚者)を指すのであり、仏教本来に何らかの像を拝むという後世の大乗仏教にある習慣はないのです。仏教はもともと仏像のないのが当り前なのです。といって何もゴータマを拝む対象を全くつくらなかったのでなく、仏足石や菩提樹、台座、法輪などでその代りにしてきたし、またヒンドゥー教の神々、ブラフマー(梵天)・インドラ(帝釈天)・スーリヤ(日天)などのバラモン教の神々を仏教の守護神として紀元前から造っています。つまり時間がたてば偶像をつくっていく過程は他の宗教でも見られることです。キリスト教の例がそうです。一神教で偶像を禁じても、禁じても造ろうとする。見えない神は拝みにくい。
 またガンダーラ美術とほぼ同時期に「ギリシア的」でないマトゥラー(デリーの東南)でも仏像をつくっています。これは三省堂の教科書解説にも説明があります。「インド人たちは仏様の顔を像に描こうとはしなかった」はまちがいです。
 このギリシア的な像がつくられた理由「自信があるからだろ」というのは妙な解説です。彫刻であれ、絵であれ、それが余所(よそ)からきた宗教の場合、地元の住民のすがた・顔に似せて彫ったり描いたりすることはどこでも見られることです。アフリカではキリストは黒人として描きますし、ヨーロッパでは印欧語族らしく描き、中東の人間らしくは描きません。ガンダーラに住んでいたのはギリシア人であり、ギリシア人のように彫って描いて何の不思議もありません。デリー周辺のひとたちが仏像を自分たちの顔に似せて彫っても不思議ではないのと同じです。
 学生に分かりやすく説明したいという善意はあっても、その内容は歴史的・常識的事実を元にしていない、勝手な想像の産物です。

p.70 世界市民主義の説明に底が抜けています。いきなり、「世界市民主義という新しい発想が生まれた」と説明しています。この世界市民主義のことを「ひとことで定義するのは難しいのですが……と僕は理解しています」と急に哲学的な話になっています。教科書のように、「ポリスの衰退」という政治的なことと関連しているのだからポリスとポリス後(ヘレニズム)の市民のちがいを説明したらいいことで、なにも難しいことではありません。個人主義との関連も説明しなくてはならないし、その上でのストア派・エピクロス派の説明があっていいはずですが、言及はなく、この時代の建築・美術も省いています(5巻目にまわしていますが)。
 さて世界市民主義は教科書でこう書いてあります、

 ヘレニズム世界ではポリスがおとろえたことを反映して、学問と政治とのむすびつきが失われ、市民生活とのかかわりをさける個人主義や、ポリスのわくにとらわれない世界市民主義(コスモポリタニズム)がおこった。……三省堂・世界史B 
 哲学では,ポリスの市民生活の衰微に応じて,一方では政治からの逃避や個人の心のやすらぎを理想とするものがうまれ,他方では世界市民主義の傾向が強まった。……山川・新世界史  
この時代には,ポリスや民族といった旧来の枠をこえて人々が活動したので,世界市民主義(コスモポリタニズム)や個人主義の風潮がめばえた。……東京書籍・世界史B 

 わたしが今まで読んだ本で世界市民主義をもっとも明快に説明してくれる本は福田歓一著『政治学史』(東京大学出版会)です。この本は世界史を教える教師の方すべてに推薦したい。この世界市民主義だけでなく、全時代の重要な思想が政治のわくぐみとともに考察されているからです。ヘレニズムの思想については、「ポリス喪失の哲学」と総括して、
 ……ポリスの公民 polites 意識が摩滅したとき、それに代って出てきたのが世界の公民 kosmopolites という新しい意識である。……もはや自分のポリスが自分の祖国ではなく世界 kosmo あるいは、 oikomene が自分の祖国、自分は世界の公民であるという意識である。……ポリスが征服され、もはやその自主性、政治的な独立を失い、そして単に一つの都市としての意味を残すようになると、かつての公民一人一人が当事者としてポリスの公務に参加することを意味した政治の問題は、今やまったく遠い所にいる権力者の問題として生活経験から切り離されてしまう。ポリスの生活を失った人間はもはや個人に、つまり公民 polites ではなくただの人間に解体してしまう。(p.53~54)

★★p.71~72 末尾から「こんなところに拠点をおいてイラン高原あたりまで支配するというのは無理なんですよ」とのたまう。アケメネス朝ペルシア帝国はこの広大な地域を200年支配したことがすぐ前の時期にありますから、変な説明です。支配領域の広さが問題なのではなく、セレウコス朝は東方でディアドコイ(後継者)同士の争いがつづいたことと、西方でローマやプトレマイオス朝エジプトとの争いに忙殺されたためです。

p.75 ここでも金持ち貧乏人という幼児向きの表現で、乱暴な解説をくりかえしています。下に書いてある「中小自営農民」が平民の大半です。この中小自営農民がなぜ貧乏人で、どうして「重装歩兵」になれるのか? 1日平均30語で事足りているという馬鹿な青年たちを、そのまま馬鹿にしておく講義法です。

p.76 真ん中あたりに「コンスル」を「日本の内閣に相当します」とまちがった説明をしています。内閣という組織でなく首相でしょう。

p.78 旧版ではリキニウス法の説明に「大土地所有制を制限」としていたのですが、この新版では「公有地の占有を制限」と修正しています。所有 possess と占有 occupy のちがいがやっと分かったようです。

p.79 平民の富裕なものがノビレスを形成する原因として「婚姻などを通じて」としていますが、これが第一ではありません。教科書を見ましょう、「貴族」から婚姻を想定したのでしょうが、そうではありません。

こうした上層の平民は政界に進出し、旧来の貴族とともに新貴族(ノビレス)という身分をつくった……世界史B・三省堂
こうして平民の権利が尊重されると,富裕な平民が台頭し,有力貴族とともに高位の公職を独占するようになり,彼らは新貴族(ノビレス)を形成した。……東京書籍・世界史B 

 つまり、護民官の設置以来、平民にも官職が開かれ、リキニウス法で最高官職(コンスル)まで開放された歴史があって、これらの地位に就いた者たちが貴族となるのです。
 それとなぜ平民の上層部と貴族が結ばれていくのか、また法的な平等が達成されながら貴族と平民の乖離(かいり)がはなはだしい理由の説明がいまひとつです。基本的な解説が不充分だからです。まず、官職に就いても無給であること、無給であることは富裕な者でないと官職のしごとができないこと、次期官職は現官職者が指名して決まること、つまり同じレベルの仲間を指名するのであり、事実上仲間の中でたらい回しすること、ローマ法は文字どおりとってはいけない、こうした裏の制度があることなどです。

★★★p.82  ピンクの強調してある中の三つの都市名のうち「自由市」がまちがい。これは旧版でも指摘したのに直していません。ムニキピウムのことを「自治市」と訳すのが一般的です。入試問題でも自治市の用語で出ていて、自由市は見られません。「編入都市」「自治都市」という訳はありますが。中世の自由市と勘違いしているようです。下の教科書を見よ。

 ローマはイタリア半島で征服した諸市を、植民市・同盟市・自治市などに分け、諸市の権利や義務に差を設けて、それらが団結して反抗することを防いだ。……三省堂・詳解世界史 

p85~86 「マケドニア戦争(BC216~146)」とありますが、「~148」のまちがいです。次頁に赤く「ポエニ戦争が終わったのと一緒ですね」とやはりまちがって言っています。マケドニアが属州になったのが前146年でカルタゴ市炎上と一緒です。これと勘違いしているのでしょう。これも旧版で指摘したのに直していません。青木さんは旧版の批評を見てメールをくれ、直すといっていながら、どうしてなのか? 批評をいったん消した意味がないので、再度のせることにしました。こういうことは、この部分だけではないことは上でも下でも書いています。

p.89 マリウスの兵制改革について「武器を自前で買わせるのは無理だ──こう考えたマリウスは、まず支払う給料をばらまき」といいかげんな説明をしています。乞食に金を投げるかのような表現はつつしんだ方がいい。

無産市民から募兵して武器を与えて国防力を強化する方法をとり……新世界史 

 とあるように、金銭でではなく青銅の兜・鎖帷子・楯・投げ槍・小剣を国が支給したのです。もちろん生活のための給料が与えられましたが、それで武器を買うのではありません。また退役したら征服地を分割して(25ha)分配し、市民権のない都市から応募した兵士にはローマ市民権を与えました。こういうしっかりした条件を整備していったのであり、金で釣ったのではありません。

p.103 地図の中に「ライン付の地名は覚えておくべき、ローマの未征服地」とあり、ゲルマニアはいいとして、カレドニア・ヒベルニアもライン付にしたのは、きちがいじみています。

p.106 「パティオ」がなぜ赤字?

★★p.107 上のようなどうでもいいものを赤字にしながら、セヴェルス帝が赤字になっていません。私大必須の人名です(早稲田・法政・近畿・関学)。

★★p.107 軍人皇帝時代の背景として、「まず1つ目。ローマの領土がどんどん広がっていくいくわけです。その結果、ローマはパルティアあるいはササン朝ペルシアなどの東方の大国と戦うことになるのです、また、北方にはゲルマン人……」とおかしな説明をしています。パルティアとの戦いは紀元前からあります(クラッススがパルティアと戦って敗死したのは紀元前)。この軍人皇帝時代の前のパックス=ロマーナの時代はトラヤヌス帝のときの一時的な拡大以外は、ほとんど領土の拡大はないのであり、ライン川・ドナウ川の線でとまっています。そして3世紀はローマが拡大するのでなく、教科書が書いているとおりローマの方が侵入される側にまわるのです、

3世紀にはゲルマン民族やササン朝ペルシアの侵入に苦しめられた。また帝国辺境の属州におかれた軍隊は、各3世紀には帝国のまとまりがくずれはじめ,各属州の軍団が独自に皇帝を擁立して元老院と争い,短期間に多数の皇帝が即位しては殺害されるという軍人皇帝の時代になった。また北のゲルマン人や東のササン朝などの異民族も国境に侵入し……山川・詳説世界史 

 軍人皇帝時代の到来の背景については、山川の『世界史小辞典』 に東大の木村凌二による「軍人皇帝」の項目にこう書いてあります──セウェルス朝の軍隊強化による支配の結果、軍隊が専横になり、セウェルス朝最後の皇帝アレクサンデル殺害後、ローマ帝国は235~284年に政治的・軍事的混乱に陥った。
 つまり帝国内部の問題であって、領土拡大が背景ではありません。

★★p.109~110 専制君主政とは、元老院など共和政の伝統を全く無視した個人独裁体制、と定義しています。次のページには、「もう(元老院)じいさんたちの話を聞くヒマはない!……」としています。あいまいな説明です。
 専制君主政期における元老院はローマ市(だけの)参事会になりさがりました。他の都市にも市役所(市参事会)があるように、それと同等の地位しかなくなり、皇帝ととともに共同統治の一翼をになってきた地位からはあまりにも低くなったので、「聞く」ことさえもできないのです。元老院の地位の変化はローマ史の根本ですからいいかげんな説明にしてはいけないのです。

p.111 このページの地図は四分統治の地図で、ディオクレティアヌス帝の顔があり、四分割した地域の色分けと首都が示されています。ひとつ肝心な首都がまちがっています。分かりますか?

★★p.114~115 帝国はなぜ滅びるかと質問される、それに答えて領土が広すぎる、強い力で支配しつづけることに無理があるのだ、と単純な質問と回答があげてあります。
 ローマは共和政500年、帝政に転換して500年、東ローマ帝国まで含めたら2000年の歴史をもっています。ローマ帝国は歴史的にも長い命脈を保った珍しい帝国であり、世界史全体からは、むしろなぜローマ帝国は長く帝国を維持できたのか、という問いの方がふさわしい。ローマ帝国は地中海世界を唯一統一した珍しい帝国でした。質問じたいが世界史を学んできた学生の質問ではないし、回答も解答になっていません。領土が広大で長くもった例(約300年のロマノフ朝、約400年のササン朝、約600年のオスマン帝国)もあります。とくに中国は王朝交代はよくあるとしても、広大な帝国をなんども再現する歴史をもっています(長いのは約400年の殷周漢宋、約300年の唐明清)。小さい領土の王朝とて短命に終わることがあり(五代十国・デリー=スルタン朝)、都市国家のように小さくても長く命脈をたもつものもあります(約900年の神聖ローマ帝国内の領邦、約1100年のヴェネツィア、約1200年のチャンパー)。広狭で歴史を一般化するのは無理です。

★★p.115 帝国解体の理由として、「まずゲルマン人やササン朝ペルシアなどの外圧の存在」とあげているのは19世紀までの歴史観です。ササン朝の侵入が解体の理由にはならなかったし、ゲルマン人の侵入は実にゆっくりしたもので、ローマ帝国はその侵入を利用してローマ同盟軍として、後で入ってくるゲルマン人と戦わせるという方法をとりました。そして侵入と関係づけて軍事費を都市への重税にしたとしていますが、これは時間的に逆です。都市への重税は3世紀末にできた専制君主政と、それを支える官僚・軍隊の維持のためにまずあり、4世紀の後半に、いわゆるゲルマン大移動がきます。教科書でもこの順は「コンスタンティヌス帝の改革にもかかわらず,膨大な数の軍隊と官僚をささえるための重税は,あいつぐ属州の反乱をまねいた。さらに 375年にはじまるゲルマン人……(詳説世界史)」です。
 それに「帝国全体の商業活動の衰退」としていますが、「全体」がまちがいです。都市・商業の衰退は西側だけで東方属州は栄えつづけたのです。これが分かっていないと西欧古代・中世の論述問題が解けません。教科書は「ビザンツ帝国は西ヨーロッパとことなり,ゲルマン人の大移動によっても深刻な打撃はうけず,商業と貨幣経済は繁栄を続けた。(詳説世界史)」とあります。

p.115 ピンク地のところに、コロヌスとコロナートゥスを区別して説明していますが、こういう区別はなくてもいいものです。コロナートゥスは制度だけでなく、小作人そのものも意味しました。山川『世界史小辞典』の「コロナトゥス」には「ローマ帝国末期に農地に搏られた小作人(コロヌス)の身分、地位、ひいては彼らによる生産構造をさす」と双方の意味をもつことを述べています。→つづく