世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

世界史論述練習帳new

 

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 この参考書について、●学生と ■著者であるわたしとの架空問答です(これは旧版の説明ですが新版にもほとんどの内容があてはまります)。

 ●学生 目次を見たら、これが世界史の参考書なのか、ちょっと変な感じのする内容ですね。なにか小論文の参考書のような……。

  (目次)
   A 論術
    1 まとめなさい(分類・一般化の練習)
    2 過程をのべよ(編年体の練習)
    3 変化をのべよ(違うものに見える書き方)
    4 関連をのべよ(別々のことを関連づける練習)
    5 影響をのべよ(どこまでたどるかの練習)
    6 意義をのべよ(長い時間の中でスポットライトの練習)
    7 特色をのべよ(一つの比重を大きくする)
    8 比較しなさい(相違点・共通点さがし)

   B 基本60字
    1 アジア編
    2 欧米編

■著者 そうですね。論述の知識は基本的には教科書の知識でほぼ充分なのですが、それをどう生かすか、どう組み立てるかを明解に示したものがなかったからです。これまでの論述の参考書は「(別冊)III 知識編」のところにある論述のポイントのほんの一部を説明しているだけで、問題の要求に合わせた書き方を教えていないからです。

● 「問題の要求に合わせて書け」とよく模試の解説なんかにも書いてありますね。

■ でも「問題の要求に合わせて書」くとはどういうことか、書いてないでしょう?

● そうです。それはそうだろう、としか言いようがなくて。なんか、分かったようで分からないような感じです。

■ たとえば「歴史的意義を書け」と問われて、この「意義」って何かに先ずひっかかって書きだせないでしょう?

● ええ。なんとなく分かるようで分からないような、なんか瞹昧なんです。

■ たとえば、アヘン戦争の過程をのべよ、アヘン戦争の結果をのべよ、アヘン戦争の影響をのべよ、アヘン戦争の意義をのべよ、と課題がだされたら書き分けれるか……ですね。

● ぼくだったら皆おんなじ答えになってしまいそう。

■ 論述の問題文は短いです。その中に、これらの問題用語(まとめ・過程・変化・関連・影響・意義・特色・比較)といっていいものが入っています。この問題用語の求めている書き方になるかどうかですね。「影響」が課題なのに、アヘン戦争そのものを書いただけで終わったら、いくら内容が正しくても評価はゼロです。空振り三振です。

● 三振ですか。だいたい、自分の書いた答案がいいのかどうかが分からないまま闇雲に過去問を解くしか方法がないもんで……。

■ それだったら進歩はないです。この参考書のあちこちに(学生の答案を批判してみよう)というコーナーが設けてあります。自分の答案の批判の仕方が分からなければ、いつまでたっても成長しません。いわば自分の答案を測るものさしを提供しよう、という参考書です。

● 「答案の批判」ですか。なんかものものしいですね。

■ 批判を恐がって、批判できないようなら、自分の答案を正しいと信じたまま受験場にいくということですよ。信仰が決め手ですか?

● それはヤバイですね。

■ 的を得た答案、つまり問題の要求に応えた答案にするためには「批判」は欠かせません。それはこのホームページ「世界史教室」の「参考書」のところでも既存の論述参考書の解答に疑問をだしている点で示されています。プロが書いた答案は必ずしも答案になっていないんですよ。通添の採点や解説を見ても方法論がかれらには無いですから。

 注:この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。これはよく流布している無知からきています。射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現をしています。「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。そうでなくても、もともと「得」という字には「あたる」という意味があります(白川静の前掲書)。いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。
 「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著
(p.188「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。古いですが、『徒然草92段』或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ……ここに見られる「得失」はいわゆる損得ではなく、的に当たること(得)と当らなかったこと(失)を指しています。「得失は、矢が的に的中する、的中しないの意と解する通説」とあります(『新明解古典シリーズ・徒然草』監修・桑原博史。書いてある通釈では得失を「当たるといいな、外れたらどうしよう」としています)。漢文の素養が豊かな吉田兼好には、的を得る・失うは、自然な表現だったとおもわれます。なお、鳥取藩一貫流弓術の文献では、http://www.hello.ne.jp/tes/Ikanryu/kousen02_k.pdf
の12,22ページに、的に当たらないことを「正中を得ず」、23ページには「心中を不得」と書いています。また石川啄木は「我等の一團と彼」という文章で「兩面から論じなくちやあ議論の正鵠は得られない」という表現を使っています。http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4699_20514.html
 つまり「得る」ということばに「当る」の意味があるということです。
 また読者から教示していただいて分かったのは、現代の中国でも「正鵠を得る」という表現があることです。王鳳賢著の中国語論文「毛澤東的倫理思想及其傳統文化背景 」に、人人皆得其正鵠矣(じんじんみなそのせいこくをえたり)と(ちなみに、明治書院の漢文大系『中庸』には正鵠に(まと)という読み仮名をあてています。)。
http://www.people.com.cn/BIG5/shizheng/8198/30446/30451/2210697.html 
 教示に刺激されて調べたら、幸田露伴の『武田信玄』の中の一説に「無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である……」とありました。
 http://www.j-texts.com/rohan/shingenr.html
 的を射る、という行為が、すなわち的に「当たる」ことを意味しないのは、『大鏡』の道長と伊周が競射する場面を読むとよく判ります。
 わたしは「正鵠を射る」や「的を射る」という表現を誤っていると言っているのではなく、たんに「的を得る」という表現がまちがいである、ということに抗議しているだけです。ことばは生き物です。時代によって変化するものであることは承知しているつもりです。それと「的を射る」という表現は即物的でつまらないなあ、と思うのです。
 だいたい「的を射る」がなぜ正しいのかの理由を書いたものが見当たらない、「正鵠を射る」「正鵠を得る」はともに正しいのはなぜなのかもチンプンカンプン。世界史でも正統・異端が中身は多数・少数のたんなる言い換えにすぎず、多数派が小数派をまちがいだと言うものです。この歴史と同じに見えます。日本語に正誤判断をくだすのは多数派にたってものをいっているにすぎない。だいたい「正しい日本語」が存在すると錯覚していることに気がついていない。正しい、まちがい、なんてよく言えますね。根拠がどれくらいあるの? 

● それでは一体だれに頼ったらいいのか分かんなくなっちまうんですよ。

■ たしかに。藁(わら)をもつかみたい心境になりますね。でもそれが良くないんです。「頼る」姿勢がいつまでも自信のないまま受験本番にのぞむことになります。なにか確かな講師なり参考書なりに頼って力がつくのでしょうか? たいていの受験場で見る問題は初めて見る場合が多いのですよ。それまで頼ってきた正解がどれほど頼りになりますか? 全国の受験生や、教師らしい人や予備校講師からも正解を教えてくれ、とメールがきます。学生からくるのは不思議ではありませんが……。

● えーっ、予備校講師もですか。

■ ええ。他人の解答を写してちよっと文章を変え、自分の答案であるかのように仕立てているのです。ホームページの中にはわたしの解答をそっくり自分の解答として載せている骨太(皮太?)のひともいます。こんなことしかできない講師って結構いるんです。こういう講師は主体性ができていないんです。自分の答案が良いのか悪いのか判断できない……学生と同じレベルです。

● それはまた先生のいつもの毒舌ですね。

■ いいえ。現実です。しつこく正解を求めてくる「教師」っているんですよ。思考ゼロ教師です。わたしのこの参考書は学生に「批判の鍵」を与えて、自分で自分の答案も、他人の答案も批判できるようにするのが目的です。批判というとなんか物騒ですが、言い方を換えれば8個の「論理の鍵」を提供しようということです。この鍵を獲得すれば他人に頼る必要はなくなります。この鍵を習得しないと、大人になっても思考ゼロ教師のままなのです。「われ思う、ゆえにわれ在り」に達していないのです。「われ思わない、ゆえにわれ無し」ですね。いつも他人の答案を真似、ちょっと加工するしか能がない。コピー機にひとしい。自分で答案をつくる能力のないひとが、さも論述が解けるかのようにハッタリで講師になっています。

● 批判の鍵、論理の鍵ですか。

■ そうです。ちょっと大げさなもの言いをすれば、日本人に欠けた批判の鍵です。日本は議論拒否社会です。批判しあうことを嫌うのです。面と向かって批判することを嫌います。仲間割れしたくない、と嫌がります。これは戦前戦後の変わらない日本人の姿であるとアメリカの記者が指摘しています。民主主義の基本といってもいいのですが、批判ができないのです。国会の中継を見たら分かるでしょう。あらかじめ質問の内容が示されていて儀式のように議論をしています。疑うこと、質問をすること、批判をすること、それをすぐ「非難」ととってしまうほど未熟な社会に居るのです。それは結局自分に反ってきます。自分のことが批判できない。批判する術がない。疑わないまま、疑っても言わないまま権威・権力に飲まれる道を選んでしまう。論理でも正義でもなく、選んでしまうのは世間(仲間)という他人の目であり、お上の力なのです。

● あのー、参考書にもどります。コラムが結構やくに立ちそうですね。「解答用紙の使いかた」「難問にぶつかったら」「論述問題むきにおぼえる年号暗記」「受験場での時間配分」「構想メモにつかう略字」「「社会」ってなに?」「年号を入れる?」「書き出しに苦労します……」「人口問題がふえてきた、どうしよう?」とか。「文化・文明・その交流というのは書きにくいし、勉強しにくい。どうしたらいいか?」など。「東大のように膨大なデータがある問題で、短い論述はどうすればいいか?」とか。

■ 既存の参考書に書いてない点です。講習で学生に説明したことはあるものの、ほとんど記事にしていなものです。

● それと「構想メモ」が必ずあって、はじめは単なる穴埋めからはじまりますね。

■ ええ。「構想メモ」はこの参考書のメインです。これも既存の参考書にはないものです。受験場で問いに対する答えが明解にでていない段階で、すぐ書きだすと結果的になんども書き直しをしなくてはならない愚を避けるための方法です。問題用語に合わせた論理をつくるための練習場でもあります。思考育成の場です。全体構想をかんたんなものでも作っておくと、どの程度まで説明をしながら書いていけば字数や課題を満たせるか、目安が得られます。受験は時間勝負ですから、短時間の中で効率良く的確な答案を仕上げる必要があります。途中で遭難しないための登山計画書であり、遭難しないための海図です。この「構想メモ」が早くつくれるようになれば、しめたものです。後は知識だけの問題ですから。

● 知識のことは、別冊に「60字問題集」として集めてあるのですね。

■ はい、そうです。既存の参考書はこの別冊の一部程度のことを説明して終わっています。この別冊のように世界史全体を網羅しているわけでもなく、内容も徹底していません。実に安直なものが出まわっている、と言うほかありません。

● また大言壮語……。

■ それに、この別冊には時代区分や転換期がのっています。これは論述にはどうしても知っておかなくてはならない大きな時代の変化を示すものですが、こんなことでさえ今までの参考書には書いてなかったのです。

● はあー、まあ、それはそうですね。本文にもどりますが、あちこちに「DO(新版では「鉄則」)」として、「起承転結は要らない」とか「左右対照にできないデータは捨てる」とか「変化問題はタテに線をひく」、「典型的なものを比較する」とか、いろいろ書いてありますね。

■ これはテクニックになる部分です。学生が構想をねるときのヒントです。これまで学生の答案を模試や添削などでたくさん見てきて、ああここをもっと生かせば点がとれたのに、せっかく前半はいいのに後半で駄目にしたなあ、とか学生がいろいろ失点する癖を見てきた結果でもあります。たんに知識があるだけでは点はとれない。やはり課題に合わせて知識をどう適合させていくかの技術が必要だと思ったからです。それで70個もの技術を明らかにしています。これも講習でしか学生に説明したことのないものです。

● はあー、まあ、この参考書を勉強すれば予備校の講習を受けることと同じことだということですか。

■ そうです。この参考書を書くきっかけも、講習を受けた学生が本にしてほしいとアンケートで書いていたからです。

● 論述の参考書は結構でまわってるのにですか?

■ いや参考書にはホントに必要なこと書いてないからですよ。従来の論述の参考書は、時代毎にいくつかの問題を解説するという、結局は知識があれば書ける、という前提のものです。 こういうタイプの今まで出された参考書の中で最もすぐれた参考書は清水勝太郎著『大学入試VIPシリーズ 世界史 論述・記述問題の解き方』(旺文社、1976年出版)でした。論述問題を時代順に並べ、キーポイント・学生の答案例の採点、自己採点の要領、ガイダンスで時代の流れを図示しながら解説する、といった丁寧な構成でした。これにまさる参考書はこれ以降でていないです。今書店に並んでいる論述の参考書は皆この清水勝太郎著の亜流にすぎないですよ。それに、どれもこの参考書より劣ったものばかりです。

● 25年来、進歩がないということで……。はあ~そんなもんですか。

■ そんなもんです。

● はじめに言いましたが、小論文でも役に立つ感じです。

■ なにも小論文のために書いたものではありませんが、受講生はアンケートで今までにも何人かがそんなことを書いていました。作文の技術的な点はわたしも関心がありますから、名のある作文・文章作法・論文作成などの本や参考書は読んできました。しかし文章全体をどう構成するか、を書いたものはほんとに少ないです。たいてい、どう適確に表現するか、に比重があり、全体をどうするかの構成論・方法論が欠けています。「伝えたいことを正確にはっきりと書く」「主語と述語をはっきりさせる」「文は短く書いた方がよい」といった類のことがどれにも書いてあるのですが。一文か、その後のつづきの文の書き方をどうのこうの言っているのです。受験参考書でも文章全体の組み立て方について言及したものは皆無と言っていいでしょう。せいぜい構成に関することといえば三段論法とか起承転結ていどのことです。空間を描く、風景を描くときの技術とか、時間の流れを書いていく時のテクニックとか、比較する場合には、どういう順で書くか、といった基本的な描き方を説明したものは見つけられません。論理的に書くことの議論が少なすぎるのです。社会科学の一つである世界史の論述の場合は、文章表現の巧拙は問われません。問われるのは正確な知識と論理(組み立て、筋がとおっている書き方)です。

● ということは、文章全体の言わんとしていることを批判する目も養えないと……。

■ そうです。小論文にでてくる長い文章が、全体としてどんな構成で書かれているかを追っていき、各段落の論証ができているかどうか、それはこの『練習帳』の8つの鍵でも確かめることができるのです。入試の世界史論述は長くても、せいぜい600字程度のものですが、それでも論理的な文章が要求されます。短い時間にいかに論理的な文章にするか、の実に難しい課題を受験生は背負わされているのです。それにはこの『練習帳』が役に立つはずです。もちろん小論文にも。

● じゃ……買って読んでみます。

■ 読むんじゃなくて、書いて練習してください。もっともこの記事を読んだのが2月の初め、というのなら読んでもらうだけでも論述問題の姿勢が身につくはずですよ。