世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2014

第1問
 中国の科挙制度について、その歴史的な変遷を、政治的・社会的・文化的な側面にも留意しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(10)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 渭水流域に興った周王朝は、紀元前11世紀に殷王朝を滅ぼすと、東方地域に対する統治拠点を現在の河南省洛陽市に建設した(洛邑、成周)。西方の黄土高原と東方の華北平原の中間に位置するこの都市は、地理的にも「土中(どちゅう)」(天下の中心)と呼ぶにふさわしい位置にあり、以後、いくつもの王朝がこの地に都を置くこととなる。
 梁の[ a ]によって編纂された詞華集『文選』には、『漢書』の撰者として名高い[ b ]が作った「両都賦」なる作品が収められている。作中、「天下の中心に位置し、平らかに四方に開け、万国が集い来る」とうたわれた「東都」とは、後漢の都洛陽に他ならない。南北9里・東語6里の城郭を有したことから「九六城」とも呼ばれるこの都城の規模は、周囲60里とされる「西部」長安にくらべればかなり小さなものであった。
 2世紀末に(1)黄巾の乱が起こると各地で群雄が割拠し、洛陽も戦乱の渦中に巻き込まれたが、後漢の献帝に代わって皇帝の位に就いた[ c ]は、やはり洛陽に都を定めた。魏に続く西晋もこの地を都としたが、その後起こった八王の乱をきっかけに国内は混乱し、五胡のうち山西で挙兵した[ d ]によって西晋は滅亡、(2)江南に難を逃れた皇族が王朝を再興する
 4世紀末、鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)は、華北に勢力を伸張すると皇帝を名乗り[ e ]を都としたが、5世紀末、漢化政策を進める(3)孝文帝が洛陽遷都を敢行した。6世紀初頭、東西20里・南北15里の城郭が従来の域郭の外側に新築され、洛陽城は面目を一新する。城内には宮殿や官庁、貴族の邸宅のほか、(4)王朝の保護を受けた仏教の寺院が1000以上も並び立っていたという。しかしその繁栄も、王朝末期に起こった内乱によってわずか40年ほどで終焉を迎える。
 洛陽が王城の地として復活を遂げたのは、隋の煬帝の時である。父の文帝が前漢長安城のした大興域とは別に、煬帝がこの地に新都を造営したことは、(5)江南と華北を結ぶ大運河の建設と密接に関連している。
 唐王朝は長安と華北の両方に都の機能を置き、「西京」・「東都」と称されされたが、7世紀末に帝位に就いた[ f ]は洛陽を「神都」と改称し、自ら建てた王朝の首都と位置づけた。唐代の長安・洛陽については、清代の考証学者(6)徐松の手になる『唐両京城坊こう(巧の右側+攵)』が詳細な情報を提供してくれる。
 9世紀末、[ g ]の密売人黄巣が起した反乱を契機として、唐王朝は統治能力を次第に失い滅亡した。10世紀半ばに成立した宋王朝は洛陽を「西京」としたものの、その実態は、規模においても繁栄ぶりにおいても「東京」(7)開封には遠く及ばぬ地方都市にすぎなかった。「新法」と呼ばれる王安石の改革に反対した[ h ]が、閑職につきながら『資治通鑑』の編纂に没頭したのも、この時代の洛陽であった。


 (1) この反乱を起こした宗教結社の指導者の名を記せ。
 (2) 江南で再興した晋王朝に仕え「女史箴図」の作者として知られる人物の名を記せ。
 (3) 孝文帝は内政の充実につとめる一方で、南方に対する親征を行っている。その時の南朝の王朝名を記せ。
 (4) インドのグプタ朝でも仏教は保護され、教義研究のための施設が王により設置された。玄奘や義浄も学んだというこの施設の名を記せ。
 (5) 隋の煬帝が建設を命じた大運河のうち、黄河と淮河を結ぶ運河の名を記せ。
 (6) 徐松が参画した国家的文化事業の一つに『全唐文』の編纂がある。唐から五代にかけて作られたあらゆる文章の集成を目指したこの事業では、15世紀初めに勅命を受けて編纂された中国最大級の「類書」が大いに活用された。この書物の名を記せ。
 (7) 唐王朝を滅ぼし、開封を都として王朝を開いた人物の名を記せ。

B イラン(ペルシア)の歴史や文化は、決してイラン系民族のみが築いたものではない。また、イラン系民族の活動や正義のイラン文化の繁栄は、現在のイランの領域をはるかに越えている。
 前6世紀中頃イラン高原におこったアケメネス朝はオリエントを統一し、東は[ i ]川流域に達する大帝国を築いた。このアケメネス朝期にイランの民族的宗教ゾロアスター教が栄え、また楔形文字を用いてペルシア語を記すようになった。前330年アケメネス朝がアレクサンド口ス大王に滅ぼされると、(8)イランとその周辺においてヘレニズム文化の影響が顕著となったが、3世紀前半におこったササン朝では、ペルシア語が活発に用いられ、(9)ゾロアスター教が国教とされた
 651年ササン朝が滅びると、イランのイスラーム化が進行する。750年(10)アッバース朝成立の原動力となったのはホラーサーン駐屯軍であった。ホラーサーンは、現在のイラン東北部・アフガニスタン西北部・トルクメニスタン東南部をあわせた地域で、歴史的なイランの東北部にあたる。9世紀前半このホラーサーンにターヒル朝と、次々にイラン的なイスラーム王朝がおこった。(11)サーマーン朝は、10世紀にはホラーサーンをも支配し、領内でイスラーム化されたイラン文化を発展させた。また、946年バグダードを占領したイラン系の[ j ]朝はシーア派を信奉し、ササン朝の末裔と称した。サーマーン朝のトルコ系マムルーク出身の武将が建てた[ k ]朝や、11世紀半ばに[ k ]朝を破り12世紀半ばまでイランを支配したセルジューク朝のもとでは、(12)イラン=イスラーム文化、特にペルシア文学が盛んになった
 13世紀前半モンゴルの侵攻が始まり、イランを含む西アジアでは、1258年アゼルバイジャンを拠点とするイル=ハン国が成立した。(13)イル=ハン国のモンゴル支配階級はイスラーム化し、領内ではイラン=イスラーム文化が復興した。イル=ハン国滅亡後の1370年トルコ系のティムール朝がおこり、旧イル=ハン国領と旧[ l ]=ハン国領を広く支配した。(14)ティムール朝期中央アジアのサマルカンドやホラーサーンのヘラートでは学芸・都市文化が著しく発展した。16世紀初頭(15)アゼルバイジャンにおこったサファヴィ一朝は当初トルコ系諸部族に支えられていたが、君主はイラン的なシャーの称号を採用し、シーア派を国教として周辺のスンナ派諸国と対立した。後にホラーサーンにおこったアフシャール朝や[ m ]を首都としたカージャール朝の王族は、かつてサファヴィー朝を支えたトルコ系部族の出身であった。


 (8) ヘレニズム時代当初、イランとその周辺を支配した王朝の名を記せ。
 (9) ササン朝期にゾロアスター教の聖典が編纂された。その名を記せ。
 (10) アッバース朝の成立とともに広大な領土を誇ったイスラーム王朝が滅んだ。
  (ア) このイスラーム王朝の名を記せ。
  (イ) この王朝の首都はどこか。その名を記せ。
 (11) この頃のサーマーン朝の首都はどこか。その名を記せ。
 (12) セルジューク朝に仕えたある人物は、ペルシア詩人・天文学者・数学者であり、ペルシア詩だけでなく、精密な暦の共同作成でも知られている。
  (ア) この人物は誰か。その名を記せ。
  (イ) 19世記に英訳された、この人物のペルシア詩集の名を記せ。
 (13) 13世紀末にイスラーム教徒となり、イスラームを国教化したイル=ハン国君主は誰か。その名を記せ。
 (14) サマルカンド郊外に天文台を建設し、その観測結果にもとづいた『天文表』作成に自ら参加したティムール朝王族(後に君主)は誰か。その名を記せ。
 (15) 現イラン東アゼルバイジャン州の州都であり、イル=ハン国の首都にもなった、サファヴィー朝初期の首都はどこか。その名を記せ。


第3問 (20点)
 第二次世界大戦終結から冷戦の終わりまでの時期におけるドイツの歴史を、ヨーロッパでの冷戦の展開との関連に焦点をあてて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問 (30点)
 以下の文章(A、B、C)を読み[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 11世紀のイベリア半島ではアル=アンダルス(ムスリム支配地域)が政治的に分裂し、キリスト教諸国が軍事的に優位に立った。以来レコンキスタ(国土回復運動)は、マグリブ(北西アフリカ)のベルベル系(1)ムラービト朝とそれに続く[ a ]朝によるアル=アンダルス遠征のために一時停滞したものの、12〜13世紀に急速に進展した。この間にキリスト教諸国ではナバーラ王国の優位が崩れ、カスティーリャ=レオン王国・アラゴン連合王国・[ b ]国の三国が強勢となった。なかでも(2)カスティーリャ=レオン王は一時「皇帝」の称号をローマ教皇から許され、キリスト教諸国への宗主権を主張した。カスティーリャ=レオン王国は分裂・統合を繰り返した後、1230年に再統合された。それに先だって、カスティーリャ王を中心とするキリスト教諸国軍は1212年の戦いで[ a ]軍を破っており、その後南進を加速させ、1240年代までに[ c ]王国を除いて半島内のレコンキスタをほぼ完了させた。
 この後キリスト教三国のなかでいちはやく海外進出を果たしたのはアラゴン連合王国である。同国はバルセローナ伯領を中心とするカタルーニャ地方とアラゴン王国を束ねた(3)同君連合国家で、ピレネ一山脈の北側にも支配を及ぼしていたが、13世紀初頭にこれを喪失した。ハイメ1世はバレンシア征服でレコンキスタに区切りをつける一方で、地中梅への進出を目指してバレアレスを征服した。(4)1282年「シチリアの晩鐘」事件がおこると、ペドロ3世はこれに乗じてシチリア王位を獲得した。後にサルデーニャとアテネ公領などもアラゴン連合王国に組み込まれた。こうしてアラゴンの地中海帝国が形成された。
 アラゴン連合王国の政治と経済において牽引役を果たしていたのはカタルーニャであった。カタルーニャ、とくにバルセローナの商人は東地中梅からシチリアを経て南フランス、マグリブ、北大西洋に及ぶ広範な海上賢易で活躍した。その基軸は毛織物などをマグリブに輪出し、マグリブで得た金によってベイルート、エジプトの[ d ]やカイロで(5)アジア産の香料を入手し、それをヨーロッパにもたらすことにあった。この地中海貿易は14世紀に頂点に達し、海上保険や為替制度などの発展、海事法典の整備が促された。
 しかし、黒死病の影響による生産力の低下や海洋帝国を維持するための軍事的負担増はアラゴン連合王国の将来に暗い影を落とした。金融危機や反ユダヤ暴動などを背景に、14世紀以降同国は全般的な危機に陥り、海上貿易もジェノヴァ人やカスティーリャ人との競合の激化で、縮小に転じたのである。

 (1) ムラービト朝は西サハラを縦断するキャラパン交易をし、ニジェール川上流およびセネガル川上流産の金を入手した。
  (ア) 金と引きかえにサハラ以南にもたらされた品のうち代表的なものは何か。その商品の名を記せ。
  (イ) サハラ南縁で「黄金の国」として繁栄したが、ムラービト朝の攻撃を受けて衰退した国はどこか。その国の名を記せ。
 (2) 皇帝アルフォンソ6世は1085年トレドを奪回したが、ムスリム支配以前にトレドを首都としていた国はどこか。その国の名を記せ。
 (3) 14世紀の北欧でも同君連合が成立したが、その実権を握ったのは誰か。その人物名を記せ。
 (4) この事件で住民暴動の標的となった王家は何か。その名を記せ。
 (5) 14世紀末までにこの香料貿易を支配することになったアドリア海の港市国家はどこか。その国家の名を記せ。

B 国家の構成員が政治に参加する仕組みはいかにあるべきか、という問題をめぐって、ヨーロッパでは、古代以来、さまさまな議論が行われ、また、多様な制度が生み出されてきた。たとえば、古代のアテネでは、(6)紀元前6世紀初めの改革によって血統ではなく財産額に応じて市民の政治参加の道が開かれたのち、前508年に指導者となった(7)クレイステネスによって民主政の制度的な基礎が築かれた。その後、アテネでは、前5世紀に無産市民の発言力が強まり、民会が政治の最高機関となった。民会には、18歳以上の市民権をもつ成人男子が参加を認められたが、女性、在留外人、奴隷には参政権が与えられなかった。古代ローマにも、市民が直接参加する政治集会が存在した。(8)前287年には、護民官によって招集される民会(平民会)の決議が、元老院の承認なしで国法と認められるようになった。しかし、帝政期にはいると、民会は立法上の機能を失い、形骸化していった。他方で、(9)ローマ帝国の周辺部の諸民族のなかには、自由人が集会を開いて共同体の問題について決定する慣習をもつ集団が存在した
 中世から近世にかけてのヨーロッパでは、君主が新たな課税や立法を行うさいに諸身分と交渉する場として、身分制議会が成立した。身分制議会の構成員は、自らが所属する身分の利益を君主に対して代表していたが、(10)議会を構成する身分の範囲は地域によってさまざまであった。諸身分が君主の政策に同意しない場合には、(11)議会と君主のあいだで激しい対立が生じ、君主が議会の招集を停止することもあった。(12)18世紀後半のイギリスでは、議会の権限をめぐって、本国と北米植民地のあいだで議論が起こった。本国側の政策に不満を抱いた(13)北米植民地は、やがて本国から独立して、独自に近代的議会制度を発展させた
 (14)1789年にフランスの国民議会が採択した「人権および市民権の宣言」は、「すべての主権の根源は、本質的に国民のうちに存する」(第3条)、また、「法は、一般意志の表現である。市民はすべて、自分自身で、あるいはその代表者をつうじて、その形成に協力する権利をもつ」(第6条)と認めている。しかし、19世紀をつうじて、欧米諸国においても、選挙権を行使する集団の範囲は、財産や性別によって、なお限定されたものであった。ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で、女性に国政に参加する権利が認められたのは、ようやく20世紀になってからのことである。こうした参政権の獲得も含めて、(15)財産や人種や男女の違いを越えて、より多くの人びとに国民としての権利が保障されるためには、長い闘いが必要であった

 (6) このとき貴族と平民の調停者として改革を指導した人物の名を記せ。
 (7) 「僭主の出現を防ぐためにクレイステネスが導入した制度の名を記せ。
 (8) このことを定めた法の名称を記せ。
 (9) 紀元後1世紀末にこのような習俗の記述を含む民族誌『ゲルマニア』を著した歴史家の名を記せ。
 (10) フランスでは、1302年に聖職者・貴族・平民の代表が出席するが三部会が開かれた。このときの三部会を招集した国王の名を記せ。
 (11) 1628年、イギリスの議会は、国王の恣意的な課税や不法な逮捕・投獄を批判する文書を提出した。国王はいったんこれを受け入れるが、翌年議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開かずに専制的に統治した。この1628年の文書の名称を記せ。
 (12) この議会の権限の問題は、1765年に印紙法が成立したさいに本国と北米植民地が対立する争点となった。このとき、植民地側が掲げた主張を記せ。
 (13) 1787年に採択されたアメリカ合衆国憲法は、人民主権、連邦主義に加えて、国家による権力の濫用を防ぐ原理を採用している。モンテスキューによっても唱えられたこの原理の名称を記せ。
 (14) フランスでは、この年の初めに、ある聖職者が特権身分を痛烈に批判するパンフレットを刊行し、大きな反響を呼んだ。この著作の題名を記せ。
 (15) アメリカ合衆国では、1950年代半ばから1960年代にかけて、黒人に対する差別に反対する運動が高揚した。この運動の成果として1964年に制定された法律の名称を記せ。

C フランス人ヴェルヌが1872年に書いた小説『80日間世界一周』は、多数の言語に翻訳され、19世紀後半の世界的ベストセラーの一つになった。主人公のイギリス人男牲が、1872年のこと、80日間で世界を一周することができると主張し、ロンドンを出発して(16)スエズ運河、インド亜大陸、マレー半島、中国大陸沿岸、日本列島、北アメリカ大陸を経由し、ロンドンに戻ってくる話である。蒸気機関が長距離移動手段として実用化されるようになった当時の交通状況を背景に書かれていることが、人気を博した一因であった。
 この小説には、ヴィクトリア女王下のイギリスが世界において占めていた地位も反映されている。(17)経済的にも軍事的にもイギリスが他国を圧倒する大きな力を持っていた19世紀後半の世界で、主人公は、イギリスの支配下にあった地点を経由してアジアを旅するのである。インドでは、(18)西海岸にあってイギリスによる経済活動の拠点であった都市」に上陸し、ついで、(19)「海峡植民地」ではシンガポールに寄港した。そして(20)中国では香港に、日本では長崎と横浜に主人公は立ち寄った。日本はイギリスの政治的支配下にあったわけではない。だが、長崎や横浜などの開港を1850年代に日本がイギリスなど欧米列強と約した諸条約は、(21)日本側に不利な不平等条約であり、当時の日本も、イギリスの大きな力の影響下にあった。
 当時の欧米諸国にひろがっていた人種差別・民族差別の心性も、この小説のなかに色濃い。アメリカ大陸横断鉄道の列車を襲う先住民(インディアン)を主人公が撃退する、というエピソードが挟み込まれているのである。じっさい先住民が鉄道工事を妨害し、列車を襲撃することはあった。だがこの小説には、先住民がこうした行為に及ぶ理由への考察が欠けていた。(22)アメリカ大陸横断鉄道の建設は、先住民の保留地にも及んだために、狩猟で生活の糧を得る彼らの生存を脅かしたのである。


 (16) スエズ運河が設置するエジプトでは、1870年代当時、イギリスとフランスが経済的影響力の拡大を競っていた。
  (ア) 当時のエジプトの実質的統治権は、19世紀初頭にエジプト総督となったある人物の子孫によって世襲されていた。この人物の名を記せ。
  (イ) 当時のエジプトは、ある産物のモノカルチャー化が進展し、その国際価格の動向によって国家経済が左右される状況にあった。その産物の名を記せ。
 (17) イギリス優位のこのような世界の状況は、何と呼ばれるか。
 (18) この都市の名を記せ。
 (19) イギリスの「海峡植民地」は、シンガポールとペナンにくわえ、もう一の港市を併せて1826年に形成された。もう一つの港市の名を記せ。
 (20) 19世紀後半、これらの港は、中国および日本からの国際市場向け産品輸出港として賑(にぎ)わっていた。両国に共通するもっとも重要な産品の名を、二つあげよ。
 (21) このような不平等条約を、1840年代に清朝もイギリスなど欧米諸国と結んだ。不平等条約の内容を簡潔に記せ。
 (22) 鉄道会社への公有地払い下げなど、大陸横断鉄道の建設を推進する法律が制定された1862年には、西部で5年間定住し開墾した者に公有地が無償で与えられる法律も制定された。先住民の生活空間をますます狭める原因になった後者のこの法律は、何と呼ばれるか。

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コメント

第1問
 この問題と似た官吏登用法に関する過去問がありました。以下の問題です。これはわたしの京大は過去問を出さない、の主張が崩れたことを意味しているのでしようか?

 (1998年度) 紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について、300字以内で述べよ。

 (2014年度) 中国の科挙制度について、その歴史的な変遷を、政治的・社会的・文化的な側面にも留意しつつ、300字以内で説明せよ。

 まったく違うとはもちろん言えませんが、似ているが、結構ちがいもある問題です。ちがいは何でしょうか? 今年の駿台生(京都校)に問うたら実に的確な回答を返してきました。
 ① 古い問題は科挙以外の登用法も問うている。新しいのは科挙だけ。
 ② 古いのは「政治的・社会的・文化的な側面」は書かなくてもいいが、新しいのは書かなくてはならない。
 ③ 古いのは時間の指定があるが、新しいのは時間指定がない。

 登用法の制度変遷を問うているのは変わりませんが、比重は「政治的・社会的・文化的な側面」にあります。つまりポイント(視点)が違っている、ということです。制度変遷は書かなくてはならないが、それに伴う三つの側面も書かなくてはならない、という点です。古い問題では政治・社会・文化は導入文にあるだけで、課題文には欠けています。古い問題より科挙という隋以降の制度に限ったことで、三つの側面も書けるマス目の余裕ができました。これをしっかり書こうとすると易しそうで意外と難しい問題でした。類題といえるものの、新問に近いと言えます。こういう新しい問題の違いが分からなくて、古い問題と変わらないかのように取って(勘違いして)書いた答案もネット上で見られます(Y)。

 側面とは分かりにくい表現ですが、科挙という制度にともなう影響・意義ととればいいでしょう。

 まず科挙制度の変遷だけとれば、それほど難しくはありません。それでも間違って書いてしまいやすい部分もあります。また制度の裏にある事実上の制度もあります。それを書かないと表面の制度も説明したことにならないものです。たとえば、唐では恩蔭(おんいん、蔭位、任子)は必須ですが、それを書かない解答例も見られます(S,T,Y)。不注意。
 元朝の科挙は初めから実施しておらず、途中に復活(1315)するのに「一時廃止とされた」と書くと、初めから実施していたかのようにとれるものもあります(S,K,T,Y)。
 明清は科挙を実施したことはどこでも書いていますが、明清それぞれにどういう変遷があったのか書けた答案は皆無でした。明では学校試が始まり(東京書籍に記載あり)、清ではそれが12段階に複雑化します。これは書けなくてもいいですが、論述でよく問われるテーマではあるので、少し書けていい事柄でした。

 科挙の政治的側面として、「唐代は貴族の優勢が続いた」(S)とか「貴族が勢力を維持した」(K)、「貴族勢力が強く」(T)は政治的とも社会的ともとれるあいまいな説明です。政治的とは政治体制にどういう影響力・効果・効能をもったか、ということであり、それでいえば隋唐は魏晉南北朝以来の門閥貴族の発言権を抑えるために採用した制度であり、それでいて合格者は少なく、いまひとつこの発言権を抑える効能を持ちえませんでした。隋唐の政治の性格を総括して「皇帝貴族合議制」といいますが、それを支えた制度といえます。これを書いた解答は皆無でした。三省のうち門下省が門閥貴族の牙城であり、中書省から来る法案を突き返して修正させる力をもっていました(封駁〔ふうばく〕権・逆送権)。則天武后が科挙官僚を重用してから、次第にこの門閥貴族の勢力が衰えます。これを書いているのは一校(K)だけでした。
 宋(北宋・南宋)における政治的な側面は、殿試が加わることと関係しています。たんにこれが追加されただけでは政治的側面を書いたことになりません。「君主独裁体制の強化」(S,T,Y)「皇帝親政」(T)でいいのですが、それが明清とどうちがのか意識して書いているのではないようです。
 清末の科挙廃止はかならずしも書かなくてはならないことではありません。古い問題は「20世紀初め」と時間の限定をしていますから書かなくてはならないが、この新しい問題は、制度そのものより3側面に比重のある問題ですから。清朝はどんな政治的側面かを書かず、ただ廃止としてしか側面(?)を書かないのは欠陥答案になります(S,T,K,Y)。宋は皇帝独裁体制を「成立」させたのに対して、明朝は中書省廃止により皇帝独裁官僚制を「完成」したのであり、清朝はこれを受けつぎました。清朝に関してもっといえば満州族は独自の易しい科挙で自民族を優遇し高官に任用しました。満漢併用制といいながら満州貴族ばかりで構成する議政王大臣が勢力をもっています。民族差別の下での共存でした。議政王大臣まで書くのは余裕がないですが。
 
 科挙の社会的側面。「社会的」は京大論述問題(第1問・第3問)が多用している用語の仕方です(1991,1993,1998,2000,2010,2012)。「社会」とは何か、よく問われる質問ですが、拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)にこの「社会」について説明コラムがあるので、読んで理解して使えるようになるといいです(宣伝 (^^;)。コラムの中の「小社会 community」にあたるもので、民族・身分(階級)・言語などですが、ここでは漢人・漢字が主であり、元清時代を別にすれば言及する必要はなく、身分(階級)的なものを書けばいいと判断できます。たとえば、過去問(2008)に「宋代以降の中国において、様々な分野で指導的な役割を果たすようになるのは士大夫と呼ばれる社会層である」と説明のあるこの「社会」層のことです。つまり支配層を形成する役割を果たしたのはこの科挙でした。教科書の説明では「宋代社会の支配勢力であったのは、形勢戸とよばれる新興の地主層であった。彼らは佃戸とよばれる小作人を労働力として大規模に土地を経営した。彼らを政治面で進出させたのが科挙の制度であった」(清水書院)。
 隋唐の科挙は恩蔭によって門閥貴族が無試験で高位高官を得られる中では、下級貴族の登竜門であり、貴族でないわずかな富裕層の「正途」=官界出世道でした。それでも門閥貴族の子弟のための無試験コースが幅を効かしていますが、それは武后の科挙出身官僚の重用で衰退します。ずっと「唐代は貴族の優勢が続いたた」(S)や「貴族勢力が強く科挙官僚はまだ重用されなかった」(T)ではなく、中期にもう門閥貴族の衰退は始まります。教科書では「則天武后が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことは、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移ってくる一つの転機となった(詳説)」。といって完全に貴族勢力を駆逐できたのではなく、それは唐末の激変を待たなくてはなりません。
 唐末五代から「社会」の中でも経済面で庶民地主の形勢戸に遅れをとります。自ら手足を汚し、新技術・新品種を導入して生産量を上げようと努力をしたため、手を汚さない貴族との差が現れます。かれらはその利から土地に投資しました。この形勢戸の子弟から宋代の士大夫が選ばれていきます。教科書では「貴族や割拠勢力がなくなると、新しい地主階層が土地経営者として登場し、ことに稲作による農業開発と人口集中が進んだ江南には地主制が広がった。彼らは貧困な小作人(佃戸)を使って農地を開き、新たな社会勢力となった。官僚身分の者は農地の保有を有利に保障されていたので、新地主は農業や商業で富をきずき、官界に登用されて特権にあずかることを願った。こうしてうまれた特権的な地主階層は官戸・形勢戸とよばれた。(新世界史)」。おい、そんなにいろいろな教科書を引用するな、受験生はそんなに教科書をもってないぞ、という声が聞こえきそうです。いやいや、どの教科書でもある程度は書いているのですが、より説得的な文章を引用しているだけです。ご勘弁あれ。
 元朝は初めから科挙を実施していないし、宋代ほど優遇されなかったのは「九儒十丐〔くじゅじゅっかい〕」の言葉で知られています。もちろん漢人官僚を使わなかったのではなく、郭守敬のように宮廷で重んじられた官僚もいて(詳細は『大都の春』中公新書)、科学・技術をもつ人間は使ったようです。1315年に復活・実施しても、官僚になれるかどうかはコネ次第であり、こういう科挙は実質なかったにひとしいと学者は見ています。
 明末(16世紀)から郷紳という勢力が中国社会の担い手として登場します。用語集の説明では「科挙合格者で任官しない者や、官僚経験者で郷里にあった者。地主や大商人の出身者が多く、地方の有力者として政治的社会的に大きな役割を果たした」と的確です(論述問題を解くひとはこの用語集を大いにカンニングすべし)。「紳」とは官僚の礼服の帯のことであり、郷紳とは、在郷の官僚有資格者を指すことばです。それだけなら「お役人様」にすぎませんが、それだけで済まないのが科挙合格者です。経済的には蓄財の道がひらかれ、身分的には官に準ずる存在として礼遇され、刑法上も「民」よりは上の身分としてとりあっかわれ、税法上も徭役免除の特権をもらいます。
 なぜ「16世紀」以降かは、16世紀からの中国における経済(商工業)発展が関係しています。官僚になれば賄賂がわんさか入ってきて(3年地方官を務めれば孫の代まで食えるくらいの裏収入)、それを土地集積・商業・高利貸しに投資しました。官僚が直接に商業経営をいとなむことは禁止されていましたが、兄弟同族の経営にはなんらの規制もなく、事実上、郷紳親族が一体となって営なんでいました。明末に成長した郷紳は、地方勢力として清代にはいってより顕著となっていきます。民国時代には打倒の対象です。庶民の財産を収奪しするような郷紳は「土豪劣紳」と呼ばれ、庶民の恨みを買いましたから。
 社会的に支配層になった、ということだけでなく、官僚になった者とそうでない一般大衆との格差は余りに大きく、非人間的な差別や蛮行が横行しました。このことを指摘してもいいでしょう。マテオ=リッチが明末の官僚の様子をおそろしげに描いています(『マッテオ=リッチ伝』東洋文庫)。

 文化的な側面はなかなか難しかったようです。というより軽視した、と言った方があたっているような解答ばかり。
 Sは、唐で訓詁学が隆盛、宋で宋学や文人画、明で朱子学が官学
 Kは、唐で詩が発達、宋明で朱子学
 Tは、唐で訓詁学や詩、宋で宋学の発達や文人画、明で朱子学
 Yは、唐で儒学の固定化(おお、こんだけ!)

 これだけで科挙の文化的側面を言ったことになる? 隋唐はこれたけで済むのか? 元代は何もないのか? 清朝の文化的側面は無視?
 は、李白・杜甫・王維を代表とする詩、呉道玄・李思訓を代表とする画、孔穎達の『五経正義』に代表される訓詁学、韓愈・柳宗元の古文、顔真卿の書があります。この全部を書けませんが、代表的なものを2点でも挙げおきたいものです。
 は宋学(朱子学)の発展があっても宋代は偽学とされ、認められたのは元明代です。唐の詩に対して詞が流行します。これを書いた答案は一校もなかった。他に散文の発展(唐宋八大家)、雑劇・北宗画(院体画)・南宗画(文人画)など。禅宗と儒教の融合もあります(「宋学とはいわば仏教の論部を改造して儒教にあてはめ,儒教のために論部をつくりあげた仕事といえるものである」(宮崎市定『宋と元』中公文庫)。京大が朱子学を「新」儒学という理由の一つです。
 代は科挙が廃止であり、そうでなくても異民族王朝の犬になりたくない士大夫は、もっぱら政治以外のことに専念せざるをえなくなりました。朱子学が民間に埋もれた士大夫に普及するのがこの元代であり、元朝が科挙を復活したときに採用したのは朱子学でした。失意の士大夫は庶民的な文化の担い手になり、元曲や小説の作者となりました(「下積みの文化」が浮上したと説く京大の竺沙雅章『征服王朝の時代』講談社現代新書)。文人画の完成期ともされる時期です。遊牧民に汚されたとして土を描かない画家も現れました。
 朝では朱子学が国学になり、科挙も全面復活します。それ以外に新たなこととしては学校試が加わりました。「唐代には……貴族や大官の子弟が恩典で任官できる制度(蔭位・任子の制)も残っていた。……明清時代には,中央・地方の国立学校に籍を置き、3段階の学校試験に合格した者(生員)が、省都の貢院での郷試を受けることができた」(東京書籍)。この中にある「学校試験」のことを学校試ともいいます。これで宋までの3段階の試験は 4段階になりました。受験生が多くなり、従来はどんな学習をしてこようと、いきなり科挙受験が始まりましたが、学校という受験予備校みたいなところの卒業生だけに受験資格を限ったので、事実上の第一次試験になります。清朝になると、学校試→県試→府試→院試→歳試→科挙試→科試→郷試→挙人覆試→会試→会試覆試→殿試と12段階にまでなります。
 明代における文化的側面は朱子学の国学と、それに対する批判派として陽明学が登場してくること、永楽帝代の種々の大全編纂、明末に実学書の蓄積があります。また四大奇書とされる庶民小説の執筆者も士大夫たちでした。
 明末初と2王朝にまたがる時代に考証学が生まれました。17世紀は反清的な傾向があり、宮廷に仕えることをよしとしなかった学者の時代(顧炎武・黄宗羲)。18世紀は清朝に仕えて編纂事業に参画した時代でした(銭大キン)。この編纂の中で中国思想が儒学だけでなく多様な思想群があり、「諸子百家」と見い出したのはこの考証学者たちでした。庶民小説(紅楼夢・柳斎志異)の完成期でもありました。また西欧学術の影響も大きい。地理学・建築学・庭園術・暦学などの発展がみられ、これはイエズス会士と交流した士大夫によります。19世紀は考証学の衰退期であり、西欧の軍事技術に対抗できないため、民族主義的な朱子学・公羊学が再興します。この派の学者が洋務運動と変法運動の担い手です。
 
 さて、政治・社会・文化的な諸側面を説明してきましたが、あれもこれも書けなくても、わずかでもピックアップして3側面とも書くと、高得点が得られます。側面を書いたり書かなかったりしたテキトウーな予備校の答案を模範答案と見てはアウトですよ。

第2問
A
 私大に出題される形式の一都市の歴史で、洛陽史です。
 空欄 a 『文選』の作者は誰かという問い(拙著『各駅停車』に覚え方、★文に昭明)。
 空欄 b 『漢書』の作者はだれか。班超の兄さん。
 下線部(1) 黄巾の乱の指導者。
 空欄 c 後の文でも分かるように魏の建国者。漢字が正しく書けるか。
 空欄 d 五胡の一つ、西晋を滅ぼした、とあれば永嘉の乱で洛陽を陥落させた遊牧民の名です。五胡で最初に建国したのは匈奴です。
 下線部(2) 「女史箴図」の作者。漢字が正しく書けたらいいが。
 空欄 e 北魏の最初の都です。今の大同。
 下線部(3) 孝文帝時代の南朝名。細かい。まず孝文帝がいつの時代のひとか分かりますか? 均田制の年代を覚えておくと近づけます(中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』パレードの語呂「均田、四4箱85」)。458年。本文にも「5世紀末」と書いてあります。南朝は東晋の後の宋・斉・梁・陳。東晋は317年から。それが100年ほどもち、420年(『ワンフレーズ』の語呂では「失420」)、宋になり、これが479年には斉に代わります。宋か斉か迷うところ。
 下線部(4) グプタ朝建造の仏教研究所。たくさんの僧院が「並〜だ」という。
 下線部(5) これはセンター試験では出題しない細かい問い。私大ではよくある問です。北京の南に流れるの白河から黄河をつなぐ運河〔永済渠〕─黄河南岸の開封から淮水〔通済渠〕─淮水から長江北岸の江都(揚州)〔カン(干+こざと偏)溝〕─長江から杭州〔江南河〕、と上から順に「永通カン江」と観光会社のように覚えます。
 空欄 f 「7世紀末に帝位に就いた」という皇帝はピンと来ないかも。『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)なら、則天武后〔ブシュ(武周)録690〕か、二代経た玄宗(玄宗ナ712)で気がつきやすい。
 下線部(6) 「15世紀の類書」というのも少々細かい。類書とは百科辞典のこと。15世紀で永楽帝(前掲『ワンフレーズ』では「意1402」でフスやティムールの年でもある)と分かればできたかも。
 空欄 g 「の密売人黄巣」は易問。
 下線部(7) 唐を滅ぼした男。2014年度のセンター試験でも出題されたばかりでした(第1問の問1)。
 空欄 h 『資治通鑑』の編纂はだれ、という易問。
B
 これも私大でよくテーマとなるイラン史です。
 空欄 i アケメネス朝帝国の東の境界線となる川は何か。
 下線部(8) 大王死後(ヘレニズム時代)のイランの支配者は部下の名セレウコス1世の名をとった王朝。
 下線部(9) ゾロアスター教の聖典名。聖典名とくっつけて「★ゾロアヴェスター」とおぼえます(拙著『センター世界史B各駅停車』パレード)。
 下線部(10) アッバース朝に関して、(ア) この王朝が滅ぼした前の王朝名、(イ)その首都名。
 下線部(11) サーマーン朝の首都。ブハラを首都としてセンター試験は出題歴がありません。導入文に「874年には、ブハラを首都とするイラン系のサーマーン朝が成立した」(1994)と説明してありましたが、出題されてきたのは「ブハラ=ハン国」としてだけでした。もっぱらロシア侵出対象の中央アジアの国として。私大的な問題といえます。
 空欄 j 「946年バグダードを占領……イラン系……シーア派」とヒント一杯。「フ」付きはシーア派、とおぼえかたは『センター世界史B各駅停車』に。
 空欄 k ヒントは「トルコ系……12世紀半ば……セルジューク朝」に滅ぼされた、という王朝名です。一般にアフガニスタンの王朝として書いてありますが、イラン東部も支配していました。アフガニスタンの方とインド北部にかけてゴール朝が受けつぎます。
 下線部(12) (ア)暦の作者で(イ)その詩集(この詩集のセンター出題歴は2003年追試)。
 下線部(13) イル=ハン国でイスラーム化を進めた君主名(センター95追、99、2001、2002、2004)。初めはスンナ派でした。
 空欄 l ティムールはどこのハン国出身か、ということでもある問題。
 下線部(14) 天文台・天文表の建設・作成にかかわる君主名は細かい。もちろんセンター試験の出題歴はありません。ティムール朝第4代君主です。もっとも日本では珍しいティムール史研究の京大名誉教授・間野英二がいます。過去問でも、1999年、2000年には出題されてますが、多いという訳でもない。
 下線部(15) ヒントは「アゼルバイジャン州……初期の首都」ということで、イル=ハン国の首都としても知られています。イスファハンに遷都する前の首都です。センター試験に出題歴はなく、細かい問いでした。
 空欄 m これは現在イランの首都でもあります。しかし細かい。
 第2問で失点しそうなのは、空欄 f、l、m、下線部(2)、(3)、(5)、(6)、(11)、(14)、(15)で、配点は1点なので、30点中10点減点。今年は例年に比べ難問だった。

第3問
 ドイツの戦後史です。わたしは学生に、「1871年のドイツ帝国による統一と、1990年の東西ドイツの統一のそれぞれの5年ほど前からの過程を述べ、その上で双方にはどのようなちがいがあるのか、300字以内で述べよ」という問題をやらせていました。これは比較の問題でしたが、本番の問題は経過と関連の問題でした。
 時間は「大戦終結から冷戦の終わり(マルタ会談、1989)」で約45年間で、副問には「ヨーロッパでの冷戦の展開との関連」に焦点をあてて、という条件がついていました。この副問はわざわざ副問らしく「焦点をあてて」という文章にしています。これにどれだけ迫れるかで成否が分かれます。つまりたんなるドイツ戦後史をづらづら綴っても点数は低い、ということです。
 冷戦はどう展開したか。諸説あるものの、①冷戦の激化(45〜60年代)、②緊張緩和(デタント)(70年代)、③衰退・終結(80年代)ととれます。①の激化のときもAA会議やジュネーヴ休戦協定、フルシチョフの「平和共存」による「雪解け」といわれる出来事が挿入されながら、緊張は継続していました(核開発、キューバ危機)。70年代に米ソの威信が崩れだし、双方による核兵器をめぐる制限・削減の対話が行なわれました。ブラントの東方外交(1970〜73)、ニクソン訪中(72)もありました。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻、イラン=イスラム革命、つづくイラン・イラク戦争と冷戦的な事件はおきましたが、85年からのゴルバチョフの登場は冷戦をストップさせました。

 この冷戦展開がどれだけ書けたか、ここに一つの解答例を挙げてみます。

戦後、ドイツはヤルタ協定に基づき米・英・仏・ソによる四カ国分割管理下に置かれた。1948年、西側管理地区で通貨改革が実施されるとソ連はベルリン封鎖を行い、この結果ドイツは翌年ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国に分裂した。54年のパリ協定で西ドイツが主権を回復して再軍備を行いNATOに加盟すると、これに対抗してソ連はワルシャワ条約機構を結成した。61年にはベルリンの壁が設置されて東西の緊張が高まったが、多極化の時代に入り西ドイツのブラントの東方外交で東西ドイツ基本条約が成立し、東西ドイツは国連同時加腿を果たした。89年、東ドイツでホネカー政権が崩壊しベルリンの壁が開放されると、翌年東西ドイツは統一された。

 この解答例の場合、冷静展開にあたるものは「NATOに加盟……」あたりくらいくらしか出てきません。それまではドイツ史ばかりです。「四カ国分割管理下……ソ連はベルリン封鎖」は冷戦に関わりはあるもののドイツ国内の動きです。冷戦激化の時代としては、教科書(詳説)には、「ソ連が自国の安全保障を確保するため、親ソ的な政権の樹立を強く求め、ほとんどの国ではソ連の後押しをうけた共産党の主導で改革が実行された……ヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル=プラン)を発表した。西ヨーロッパ諸国は援助をうけいれたが、ソ連・東欧諸国はこれを拒否し……西欧5カ国間に西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)が結ばれ……ソ連は西側管理地区の通貨改革に反対し、共同管理下にあった西ベルリンへの水・陸連絡路を封鎖した(ベルリン封鎖)」と緊張した関係が書いてあります。このすべては必要ではないですが、一言でも必要でした。
 「ワルシャワ条約機構を結成」は冷戦展開にあたりますが、「多極化の時代」に冷戦展開は示唆されているものの、これだけです。後はあいかわらずドイツ国内の動きに終始しています。緊張緩和の時期の米ソの対話、何より冷戦を終わらせる起因となったゴルバチョフのペレストロイカと、その影響下におきた東欧革命(共産党政権の崩壊)が書いてありません。冷戦展開の薄い解答です。

 類題としては東大(1993)の「それまでにヴェトナムとドイツの二つの分裂国家が統合されている。この二つの分裂国家の形成から統合への過程を、冷戦の展開と関連づけて略述せよ」がありります。ヴェトナム史をはずせば同類の問題でした。この問題でも分裂形成・統合過程・冷戦展開の3つをどれだけきっちり書くかで成否が決まります。 

第4問
A 詳しいレコンキスタ史です。このレコンキスタ史は初期の8世紀からでなく本格化する11世紀以降を描いています。 
 下線部(1) アフリカ西部の塩金貿易についての設問で、(ア)は塩、(ロ)は8世紀から栄えているニジェール川流域最初の国家ガーナです。現在のガーナとちがう位置にあります。この古いガーナの国名を現在のガーナはもらいました。
 空欄 a  「ムラービト朝とそれに続く」とあるので、この王朝を破ってモロッコを支配した王朝です。「ムム」とつづく王朝名です。
 空欄 b カスティーリャとアラゴン王国は後に合体してスペインとなるので、残っている西端の国です。
 下線部(2) 「ムスリム支配以前」とあるので、ゲルマン人大移動の発端となり、最終的にここに落ち着いた民族の国です。
 空欄 c 「除いて」とあるので、1492年まで存在した王国です。アルハンブラ宮殿を建てた王朝の国。
 下線部(3) デンマーク女王マーガレットちゃんです。
 下線部(4) これは私大ではよく問われる問題ですが、京大としては細かい。姉の安寿姫と弟の厨子王の話しにある「安寿」と似た発音の王朝です。
 空欄 d カイロがそばにあるのでエジプトの他の都市としては大王のつくった都市くらいか。
 下線部(5) 「アドリア海」と次の段落にある「ジェノヴァ」ではない港市とすれば、ジェノヴァと犬猿の仲であった海に浮かぶ都市です。この街を「見て死ね」ともいわれます。

B 欧米議会史です。安倍首相の憲法オンチを諫めるような内容です。
 下線部(6) 「前6世紀初め……財産額に応じて」がヒントです。金権(財産)政治により身分によらない政治参加を実現した人物。
 下線部(7) 二つあります。陶片追放と選挙区改革で、後者は血縁的部族制を廃し地縁的部族制に変えました。安倍はいつになったら違憲状態の選挙区改革をするのか? 違憲状態で選ばれた議会が反憲法的な暴走を止めることができないでいます。
 下線部(8) ローマ共和政期の身分闘争を終わらせたと誇張される法案です。「惚れて死す、通2夜8な7り」(『ワンフレーズ』のゴロ)と覚える法。
 下線部(9) アウグストゥス帝からネロ帝までの『年代記』も著した人物。専制政治への批判書でもあります。
 下線部(10) 翌年アナーニ事件をおこし(1303)、教皇庁をアヴィニョンに移した(1309)人物。フィリップ何世か? 宗教と国家の下におこうとした人物です。安倍は戦争美化の民間施設・靖国神社にいつまで固執しているのか?
 下線部(11) 当時は議会の多数決で法案は決まらず、国王の決済が必要でした。「請願」というかたちをとらざるを得なかった。
 下線部(12) マグナ=カルタ以来のイギリスの伝統でもある「払う側の同意」という原則にのっとった主張とは、議会に集まった代表の同意が必要だ、という主張です。
 下線部(13) 「国家による権力の濫用を防ぐ原理」とは三権分立です。この場合の「国家による」は、政府(行政府)による、と同義であることが多い。立法権・裁判権の独立とチェック機能が必要ですが、合衆国以外は、裁判権は行政府に従属しているためこの原理が機能していません。それは日本とて同じです。集団自衛権について、安倍村長は憲法の解釈変更の「最高責任者は私」と述べ、村長が三権分立を理解しているのか疑しい発言でした。
 下線部(14) 安倍でなく、アベ=シェイエスが著したパンフは、自らは聖職者でありながら、別の身分の重要性を訴えたものです。
 下線部(15) Civil Rights Act が英語。これは市民法と訳しても不思議ではない法です。『ワンフレーズ』では「公民、特1権9無6視4」とゴロで覚えます。公民権法は南北戦争のときに発布された修正13条(奴隷解放)、戦後の14条(黒人の市民権)・15条(黒人の選挙権)がありながら黒人差別はなくならなかったので、その二つの修正条項(本来、Amendments は修正ではなく「補正」と訳すべき。飛田茂雄著『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』中公新書)をより補強するための法です。アメリカ合衆国憲法の本文は200年変更せず、この補正という方法で18世紀には考慮・言及していなかった事柄を追記することで、憲法の本質により迫るものになっています。日本は70年憲法を変えていない、他の国はなんども変えている、ということを論拠に改正を唱えているひとたち(安倍もその一人)は、もっと他国の改正のありかたを見る必要があります。とくに日本国憲法はアメリカの「押しつけ」らしいので余計でしょう。詳しくは合衆国のホームページを読んでください。→ http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-govt-rightsof11.html

C
 下線部(16) (ア)1805年にオスマン帝国側に総督(太守)の地位を認めさせた人物。(イ)産業革命の原料。
 下線部(17) パックス=ロマーナ(ローマの平和)を真似た言い方。
 下線部(18) 1661年(ルイ14世親政・康熙帝即位)にポルトガル王女と結婚したチャールズ2世におくられた結納品です。
 下線部(19) 1400年頃にここで王国ができ、ポルトガルが1510年に滅ぼし、1642年にオランダが取り上げたところを、今度はイギリスが1824年にもらうという歴史のあるところ。海峡の名前にもなっていて、古来、海賊の頻出地です。武力に勝る蘭・英も海賊に変わりません。東インド会社の社員の70%は兵士ですから。
 下線部(20) 中日に共通する輸出品としては、生糸・茶・銅の中から。銀は中国は産出が少ないので輸出品にならない。
 下線部(21) 「1840年代」と幅をもたせたものなので、南京条約(42)と虎門寨追加条約(43)も入れていい。とすれば、租界の設置、領事裁判権(治外法権)、関税協定権(関税自主権喪失)、低関税(5%以外の内地税たる釐金〔りきん〕は払わなくていい)など。 
 下線部(22) 開拓者に公有地に5年間定住して開拓すると160エーカーの土地を無償であたえる法律です。

 第4問は第2問と比べて容易でした。難問は下線部(4)、(20)の二つくらいしかありません。他はみなセンター試験レベルでした。

(わたしの解答例)
第1問 
 〔君の解答〕
第2問
 空欄 a 昭明太子 b 班固 c 曹丕 d 匈奴 e 平城 f 則天武后 g 塩 h 司馬光
 下線部 (1)張角 (2)顧ガイ(立心偏+山+豆)之 (3)斉 (4)ナーランダー僧院 (5)通済渠 (6)永楽大典 (7)朱全忠
 空欄 i インダス j ブワイフ k ガズナ l チャガタイ m テヘラン
 下線部 (8)セレウコス朝 (9)アヴェスター (10)(ア)ウマイヤ朝 (イ)ダマスクス (11)ブハラ (12)(ア)ウマル=ハイヤーム (イ)ルバイヤート (13)ガザン=ハン (14)ウルグ=ベク (15)タブリーズ
第3問
 〔君の解答〕
第4問
 空欄 a ムワッヒド b ポルトガル c グラナダ d アレクサンドリア
 下線部 (1) (ア)塩 (イ)ガーナ(王国) (2)西ゴート(王国) (3)マルグレーテ (4)アンジュ一(家) (5)ヴェネツィア (6)ソロン (7)オストラシズム (8)ホルテンシウス法 (9)タキトウス (10)フィリップ4世 (11)権利(の)請願 (12)代表なくして課税なし (13)三権分立 (14)第三身分とは何か (15)公民権法 (16)(ア)ムハンマド=アリー (イ)綿花 (17)パックス=ブリタニカ (18)ボンベイ(ムンバイ) (19)マラッカ (20)茶・生糸 (21)関税協定権と領事裁判権を認めさせられた。(22)ホームステッド法