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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2013

過去問 京都大学

世界史B(4問題100点)
第1問
 19世紀以来、イスラーム世界の改革を目指した様々な運動、なかでも「イスラーム復興主義」と呼ばれる立場において、しばしばムスリムが立ち戻るべき理想的な社会とみなされたのが、預言者ムハンマドの時代およびそれに続く「正統カリフ時代」のウンマ(イスラーム共同体)であった。しかし実際には661年にウマイヤ朝が成立するまでの間、様々な出来事を経てウンマのあり方は大きく変化した。ウンマ成立の経緯および「正統カリフ時代」にウンマに生じた主要な政治的事件とその結果について、以下のキーワードをすべて用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 ヒジュラ カリフ シーア派

第2問
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(14)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 「中国」ということばは、周代の初期にはじめて見える。周は渭水流域にあったが、武王は(1)殷王朝を滅ぼし、黄河中下流域を支配下に収めた。2代目の成王の5年の紀年をもつ青銅器の銘文に「中国」が見える。この「中国」は、今日の河南省洛陽付近のごく狭小な地域を指したものである。ついで、中国最古の詩集である『[ a ]』には、「中国」と「四方」とを対比する記述が見え、こちらの「中国」は、(2)渭水流域にあった周王朝の首都付近を指したものとされる。
 周王朝が洛陽に遷都し、春秋時代が始まる。この時代には[ b ]とよばれる有力諸侯が、周王朝の権威のもと、黄河中下流域の諸侯と会盟を行った。会盟などの儀礼に参加した黄河中下流域の諾侯は、文化的一体感をもつようになった。かれら「諸夏」と称された。夏は[ c ]が開いたとされる伝説的王朝の名である。かれらは[ c ]の治水によって大地が創造されたという神話を共有し、夏王朝以来の文化的伝統を誇示したのである。一方、当時の黄河中下流域には、なお国家を形成しえない諸集団があり、「諸夏」と雑居していた。かれらは会盟に参加しえず、蛮夷戎狄などと蔑称され、「諸夏」から異民族として扱われた。
 黄河中下流域の蛮夷戎狄は、国家を形成して「諸夏」に参入し、あるいは「諸夏」に征服・駆逐されることによって消滅した。戦国時代には、ふたたび「中国」ということばが見えるようになるが、これは、蛮夷戎狄の消滅によって「諸に占有されるようになった広大な地域を指す。「中国」には辺境化された四方の異民族を指す「四夷」が対比されるようになった。一方、(3)『孟子』には、「中国」や「四夷」と秦」・楚とを区別する記述が見える。黄河中下流域の人々にとって、渭水流域の(4)や長江流域の(5)は、「四夷」ではないにしても「中国」とは異質な存在と感じられており、「中国」と「四夷」との間に位置づけられていたのであろう。
 (6)秦は天下統一ののち、今日の広東・広西・ベトナム北部を征服した。(7)秦が滅亡した際に秦から派遣されていた地方官が自立して(8)南越を建国した。「中国人」ということばは、(9)ある歴史書のこの間の推移を記した部分にはじめて見え、原住民である「越人」に対比して用いられている。ここでいう「中国」とは、統一を達成した時点における秦帝国の領土を指すものであり、いわゆる中国本土にほぼ一致する。


(1) 殷王朝の代表的な遺跡、の名を記せ。
(2) この首都の名を記せ。
(3)(ア) 孟子の主張した倫理・道徳学説の名を記せ。
 (イ)と同じころ活躍し、陰揚五行説を唱えた学者の名を記せ。
(4) 前4世紀の半ばに秦が遷都した首都の名を記せ。
(5)(ア) 孔子が編纂したとされる前8〜前5世紀を扱った歴史書では、楚は異民族として記述されている。この歴史書の名を記せ。
 (イ) 前4〜前3世紀に活躍した楚の詩人の名を記せ。
(6) 統一後の秦で用いられた貨幣の名を記せ。
(7) 秦の滅亡のきっかけとなった農民反乱の名を記せ。
(8)(ア) 南越は今日の広東省広州市に首都を置いた。秦がこの地にした郡の名を記せ。
 (ィ) 前2世紀末に南越を滅ぼした皇帝の名を記せ。
(9) 前2世紀末〜前1世紀初めごろに完成した、その歴史書の名を記せ。

B (10)カスピ海と小アジアの間の地を故郷とするアルメニア人は、かつてヨーロッパとアジアにまたがる広大な交易のネットワークをつくりあげていた。かれらの活動の中心はサファヴィー朝の当時の首都[ d ]の近郊の新ジュルファにあり、このまちは17世紀初頭にシャーの[ e ]がアルメニア人をその故地ジュルファから移住させて造られた。アルメニア人はそれまでにもユーラシア各地で活動していたが、新ジュルファの建設が契機となってかれらのネットワークはさらに広がった。かれらはとくにイランとインドの間の交易に活躍したので、インドにやってきたヨーロッパの商人たちもその存在を意識せざるを得なかった。フランスの財務総監[ f ]が東インド会社を再建した時もアルメニア人のカを借りようとしたし、(11)イギリス東インド会社もアルメニア人と交易に関する提携協定を結んでいる。アルメニア人の足跡はさらにチベットの中心部市[ g ]や中国の(12)広州にも及んでいた。また、フィリピンの[ h ]から太平洋を越えてアカプルコに渡った者もあったことが、当時の異端審問の記録から知られる。
 アルメニア人がこれだけ広く活動できた原因の一つは、かれらがキリスト教徒だったことにある。後からインド洋世界にやってきたヨーロッパ人にとって、アルメニア人は宗派を異にするとはいえ、ムスリムに比べればより近しい存在だった。また、アルメニア人はムスリムとの交渉に慣れていたし、シーア派とスンナ派の抗争に巻き込まれることもなかったので、両派の文化圏に比較的自由に出入りできた。カトリックの宣教師はこうしたアルメニア人の特性を利用して、イスラーム圏を安全に旅行するためにアルメニア人に変装することもあった。(13)17世紀初頭にムガル帝国の首都[ i ]を出発して中央アジアを旅して中国を目指したイエズス会土は、その一例である。(14)アフリカのキリスト教[ j ]の使節としてアウラングゼーブ帝のもとを訪れたアルメニア人のように交易だけでなく外交にも活躍する者が多かったのも、異文化間の仲介者としてのかれらの性格を表している。
 新ジュルファは18世紀前半にイランの政治変動のなかで破壊され、当地のアルメニア人は各地へ離散していった。また、かれらの故地は大国の勢力争いの渦中にまきこまれ、1828年にイランと口シアの間で締結された[ k ]条約によって東アルメこアの地は口シアの支配下に組み込まれた。かれらは移住先の地で迫害をこうむることもしばしばだったが、そのアイデンティティを守ろうとする営為も続けられた。1979年におきたイラン革命により最高指導者となった[ l ]を支持して宗教的少数派の地位を守ろうと努めたのは、その一例である。また、アメリカやフランスに移住したアルメニア人が、ロビー活動によって政治に影響を及ぼしたこともある。


(10) カスピ海北岸の都市アストラハンは、アルメニア人の商業拠点の一つであった。16世紀にこの都市を支配下においた口シアの君主は誰か。その名を記せ。
(11) アルメニア人は、ベンガル地方におけるイギリスの拠点となった都市の発展にも寄与している。その都市の名を記せ。
(12) アルメニア人は、広州で交易の独占権を与えられた特許商人と取引する一方で、密貿易でも活躍した。
 (ア) 特許商人の組合を何と呼ぶか。
 (イ) 密貿易の商品のうち、中国社会に大きな影響を与えたインド産品は何か。
(13) このイエズス会土の旅行記録は、当時北京にいた同会の宜教師の著作によってヨー口ッパで広く知られるようになった。北京にいたイエズス会士とは誰か。その名を記せ。
(14) この使節はインド北西岸のスーラトに上陸した時、ムガル帝国に抵抗していた勢力によって掠奪をこうむった。その勢力の指導者の名を記せ。

第3問
 フランス革命以降、フランスと口シアはしばしば敵対関係におちいったが、第一次世界大戦では両国は連合国の主力として、ドイツを中核とする同盟国と戦うことになる。ウィーン会議から露仏同盟成立に至るまでのフランスとロシアの関係の変遷について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B、C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A ヨーロツパでは長らく、歴史はオリエントに始まり、ギリシア・口ーマを経て中世以後のヨーロッパへと発展するものと考えられ、「世界史」と呼ばれてきた。歴史の主たる舞台が移動するこうしたヨーロッパ的世界史像の形成に大きく関わったのは、古代のギリシア人である。(1)「歴史の父」と呼ばれるヘ口ドトスは、小アジア生まれのギリシア人であったが、彼はギリシア世界で起きた出来事を歴史叙述の中心とはせず、アジアとヨーロッパを旅して見開を広め、彼の生きた時代に最も力のあった国家であるペルシア帝国の動向を叙述の中心に置いた。そして、ペルシア帝国の軍事行動の重要なーつとして、帝国のギリシア遠征、すなわち(2)ペルシア戦争を描いたのである。ヘロドトスより少し後に活躍したトゥキュディデスは(3)ギリシア世界内部で生じた大戦争を描いたが、ギリシア人の歴史家がギリシア世界の出来事を中心に歴史書を著すことは長続きせず、(4)前4世紀前半に北のマケドニア王国が強大化すると、マケドニアの動きを中心に歴史を描くようになる。そして、(5)前2世紀に現れたポリュビオスは、興隆する口一マを中心に歴史書を著した。こうして、その時々の最も強大な国家を中心にして歴史を描くギリシア人の歴史叙述は、次第にまとめられて、大国の変遷を基軸とする「世界史」となっていった。ギリシア世界は前2世紀後半にはローマ帝国の事実上の支配下に入ったが、口一マ時代を通じてギリシア語は文化言語として重視され、(6)ギリシア語による歴史作品や伝記作品が数多く書かれた
 こうしたギリシア人の歴史学に比して、ローマ人の歴史学は性格を異にしている。(7)かれらの言語であるラテン語は、長らく宗教や法律の必要のために用いられるものであったが、(8)ギリシア文化の影響を受けて高度な文学言語に成長した。その中で、歴史書も著されるようになったが、口一マ人は自分の国家の出来事を叙述の中心に置き、とくに(9)出来事を年ごとに書き記す年代記が主流となった。年代記の叙述スタイルは単調になりがちであるが、リウィウスやタキトゥスといった見事なラテン語の使い手が、感動を呼ぶ歴史作品を著している。ローマ帝政後期になるとラテン語による文学作品の書き手がキリスト教徒作家に移り、(10)中世においてもうテン語は学術言語として重視され続け、数多くの歴史作品も著された


(1) 小アジアのギリシア人都市で、前6世紀に自然哲学の中心地となり、前5世紀の初めにペルシア帝国に対する反乱を主導した都市の名を記せ。
(2) この戦争で大きな働きをなしたアテネでは、戦後に無産市民が政治的発言権を強め、政治の民主化が進んだとされる。かれら無産市民たちは、ペルシア戦争でどのような役割を演じたのか。その最も重要な任務を簡潔に記せ。
(3) この「大戦争」の名を記せ。
(4) 前359年に即位して、マケドニア王国を強大化させ、ギリシア世界の支配を進めた国王の名を記せ。
(5) ポリュビオスはローマの将軍スキピオに同行して、ローマ軍が戦争の結果、前146年にある都市を滅ぼすのを目撃している。このときに滅ぼされた都市の名を記せ。
(6) ローマ帝国最盛期のギリシアに生きて、大部の伝記作品や倫理論集を著した人物の名を記せ。
(7) ローマ人が前5世紀半ばに生み出した最初の法典の名を記せ。
(8) 演説や修辞学、哲学に関する書など数多くの作品を著し、ラテン語の発展に大きく貢献した、雄弁で知られるローマ共和政末期の政治家の名を記せ。
(9) ローマ人は特定の年を表示するために、年の初めに国家の最高公職に就任する2名の人物の名でその年を表したので、年代記では冒頭にそれが書かれている。この口一マ国家の最高公職の名を記せ。
(10) カール大帝の時代を中心に興り、古典を模範にした正しいラテン語の復興を中心とし、美術や建築へと展開した文化運動は、一般に何と呼ばれているか。その名称を記せ。

B 地中海と大西洋とはジブラルタル海峡で結ばれている。この海峡の名は、海峡に面して北のヨーロッパ側から南へ突き出した、小さな岬の地であるジブラルタルに由来する。古代には、ジブラルタル海峡は地中海世界の西の極限とみなされ、海峡をはさんで向きあう山塊を門柱に見立て、「ヘラケレスの柱」と呼ばれていた。しかし(11)その古代にあっても、門を出て大西洋へと交易の範閣を広げた民族もあった。
 ジブラルタル梅峡は海洋と海洋をつないでいただけではない。最も狭隘な箇所でおよそ13キ口メートルと、アフリカとヨーロッパとが接近するこの地点は、大陸から大陸への移動の通路としても利用された。紀元5世紀には、(12)ゲルマン人の部族の中に、イベリア半島から海峡を越えてアフリカ大陸北岸に進入し、王国を建設するものもあった。8世紀にはウマイヤ朝のイスラーム教徒が、逆にアフリカからジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進入した。かれらはさらにピレネ一山脈を越えてフランク王国に入り、[ a ]間の戦いで、宮宰カール・マルテル率いる軍と対決した。
 ジブラルタルの地は、その後イスラーム教徒とキリスト教徒の間で争奪がくりかえされたが、1462年にカスティーリャ王国のメディナ・シドニア公が、ナスル朝のグラナダ王国からこれを奪取してユダヤ人に与えたため、ジブラルタルにはユダヤ人のコミュニティがつくられた。しかし(13)その後出された追放令によってかれらは追われ、1501年にジブラルタルはスペインの領有に帰した。
 近代には、その交通上、戦略上の重要性から、ジブラルタル及び海峡の周辺は、たびたび激しい戦闘の場となった。16世紀後半から17世紀にかけての、オランダの対スペイン独立戦争においても、また18世紀初頭のスペイン継承戦争においても、ジブラルタルの攻防戦が行われた。その結果、スペイン継承戦争後のユトレヒト条約で、ジブラルタルはイギリスに割譲されることになる。(14)アメリカ独立戦争時には、スペインがジブラルタルを封鎖し、イギリスが抗戦する包囲戦が3年半にわたってつづいた。ナポレオン戦争中の(15)1805年、この海峡に近い[ b ]岬の沖で起きた、イギリスとフランス・スペインとの海戦は、この岬の名を冠して呼ばれている」。
 19世紀後半にいたりジブラルタル海峡をめぐる状況が変化した。(16)海峡を通過するイギリスの船舶の数が、1870年代以降いちじるしく増大したからである。それにしたがってイギリスにとっての海峡の重要性もまた増した。20世紀に入って、ジブラルタル海峡のアフリカ側にあたるモ口ッコで、ニ度にわたって(17)「モロッコ事件」が発生したとき、イギリスが紛争に強い関心を示し干渉することになったのも、そのことと無関係ではない。


(11) 地中海沿岸にティルスなどの都市を築き、海上交易で活躍したこの民族は何か。
(12) この部族の名を記せ。
(13) イベリア半島から追放されたユダヤ人は、イタリア半島をはじめ、ヨー口ッパ各地に離散した。かれらは、都市内の指定された地区に居住することが多かったが、そうしたユダヤ入居住区を何といったか。
(14) アメリカ独立戦争にスペインが参戦した目的に、七年戦争後イギリスへ割譲した、北米大陸における領土の奪回があった。この領土はどこか。
(15) この海戦の翌年、ナポレオンがイギリスに対してとった経済政策を何というか。
(16) この時期、海峡を通過するイギリス船の数が増えた理由を簡潔に記せ。
(17) この事件の主要な当事者となったイギリス以外のヨーロッパの国名を2つ記せ。

C 第二次世界大戦後、先進諸国の政治的・経済的な支配から独立することをめざす国や地域は、おおまかに「第三世界」と呼ばれるようになった。第三世界諸国の多くは、進行中の冷戦対立に巻き込まれることなく、迅速に自由の経済開発を進めることを望んだ。1955年のアジア=アフリカ会議や1961年以降断続的に開催された非同盟諸国首脳会議を主導した(18)インドのネルー、エジプトのナセル、インドネシアの[ c ]は、このような方針を追求した代表的な指導者であった。アフリカ諸国が1963年に設立した[ d ]も、域内の平和と安定の確保を通じて同様の目標を追求しようとする組織であった。
 アメリカとソ連は、第三世界に影響力を拡大するために積極的な政策を採用した。アメリカは、(19)第三世界にも西側の政治的・軍事的同盟網を拡大しようとするとともに、(20)資本主義世界との経済的な統合強化によって早期の近代化が可能であるとする開発理論を発展させ、多くの第三世界諸国に援助を提供した。ソ連は、1953年に[ e ]が死去して以降、反植民地主義を掲げる第三世界の多様な勢力に援助を提供するようになった。この結果、第三世界のいくつかの国は米ソ双方から援劫を獲得することに成功したが、(21)外部勢力の介入によって内戦や域内紛争が激化した国や地域も数多く存在した
 第三世界諸国の運動は、(22)国際連合内でゆるやかな非同盟ブロックの形成に成功するなど、政治的には一定のインパクトを有したが、(23)短期間のうちに自律的な経済開発を実現するという目標の達成には失敗する国が多かった。一方で、1970年代以降、韓国、台湾、シンガポールなど、輸出指向の工業化に成功し、のちに(新興工業経済地域(NIES)」と呼ばれるようになる国や地域も現れた。しかし、これら新興工業国の中には強権的な統治によって経済開発を推進した国も多く、その後の(24)民主化の過程で政治的な混乱を経験する国もあった


(18) 1954年に下線部の人物とともに平和五原期を発表した人物の名を記せ。
(19) 東南アジア地域を対象として形成された西側の軍事同盟の名称を記せ。
(20) ラテンアメリカ諸国の経済開発と政治的安定を目標として、1961年にアメリカの主導で開始された近代化プ口グラムの名称を記せ。
(21) 1975年にポルトガルから独立を達成したある国は、独立の前後に、アメリカ、ソ連、中国、キューバ、南アフリカなどの干渉を受け、独立後も長く内戦に苦しんだ。この国はどこか。
(22) 南北間の経済格差の是正を目指し、発展途上諸国の主導で1964年に設立された、国連総会の常設機関の名称を記せ。
(23) おもに1950〜60年代に第三世界の多くの国が採用した、国内産業への補助や保護主義的通商政策に基づく経済開発政策を何と呼ぶか。
(24) 1980年5月、韓国のある都市で急進化した民主化運動は、全斗煥を中心とする戒厳軍指導部により武力で鎮圧された。この事件が発生した都市名を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
 このイスラーム教初期の問題は過去に類題がありません。他の大学の過去問にも類題がありません。つまり過去問を勉強しても役に立つことは何もないということです。これは第3問でも言えます。わたしは予備校では未出題の問題を京大志望者に解かすことにしていますが、理由はこうした、過去問は出さないという京大の方針(ドクトリン)にあるからです。
 この問題は読取が難しかったようです。「ようです」というのはネットで見られる解答例がピントのずれたものばかりだからです。これは正統カリフ時代の流れを書くのが課題とおもってしまったためでしょう。導入文を含めてこの問題の全部をよーく見るといい。
 課題文の「主要な政治的事件とその結果」のうち「結果」って何か、という問題でもあります。問題文の初めの方から課題を探ってみましょう。

 ムスリムが立ち戻るべき理想的な社会=預言者ムハンマドの時代およびそれに続く「正統カリフ時代」のウンマ(イスラーム共同体)→←(しかし実際)ウンマのあり方は大きく変化した⇒主要な政治的事件とその結果

 という筋立てです。この「結果」とは「理想」とはちがう何かが現れた、「理想(ウンマ)」が変化した、初めに意図したこととはちがう何かが現れた、この理想(幻想/夢想)とはちがう矛盾・破綻・軋轢が「実際」には現れた、ということですね。4月の受験勉強の計画はこうこうだったが、それが崩れて今やこのように変えざるを得なかった、みたいな(^^;)。社会主義の理想はこうこうだったが実際にできた社会主義国家は……みたいなことです。
 
 この理想崩れは指定語句の「カリフ」と「シーア派」がヒントになっていますが、ちょっとその前に立ち止まって、ムハンマドの掲げた「理想」とは何だったのでしょうか? 教科書(詳説)には「クライシュ族の商人ムハンマドは、 610年ころ唯一神アッラーのことばをさずけられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって、厳格な一神教であるイスラーム教をとなえた。しかし富の独占を批判するムハンマドはメッカの大商人による迫害をうけ……メディナに移住し、ここにイスラーム教徒(ムスリム)の共同体を建設……ゆるやかな統一が実現……『コーラン』にはすべての信者は平等であると説かれている」です。
 ムハンマドは広くいえば社会主義者の一人です。富を批判し平等な共同体(ウンマ)を建設、とあります。信徒が急激に増えた理由もここにあるでしょう。現代に生き返っても支持を集めるにちがいありません。部族と宗派の争いが絶えない現代でも、この対立を越えた「共同体・統一」のメッセージを携えています。

 一神教の理想はメッカの討伐軍を破り、メッカ無血入城と偶像破壊で実現しましたが、他は実現しましたか?
 貧富差を解消することはどこでもできない相談ですが、正統カリフ時代の初めからザカート(救貧税)と分配はおこなっていますから、これは良しとしましょう。
 正統カリフ時代は次のウマイヤ朝とともに、征服の大成功の時代でした。それとともにアラブ人ではない異民族を支配下におくことになり、かれらの中からも改宗者が生まれ、「平等」ではないことが現れてきました。つまり非アラブ・ムスリム(マワーリー)は改宗してもジズヤもハラージュも支払わなくてはならないし、政権に関わることもできませんでした。これをアラブ帝国、アラブ民族主義といいます。これはウマイヤ朝にまで持ち込まれるものです。アッバース朝になってこの面の「平等」が実現します。
 また正統カリフ時代に4人のカリフが「選挙」で選ばれたというなんか理想的な継承じゃん、とおもいきや、中身は部族・親族の激しい攻防の結果として、生き残ったものが形式的な選挙て選ばれたにすぎません。4人のカリフのうち3人が暗殺で終わっています。「選挙」の形式性は社会主義国の選挙と同じで賛成票が98-100%というバカバカしいものです(中国の全人代=全国人民代表大会はゴム印と揶揄されているのと同じ)。これは結局ウマイヤ「朝」という世襲制に変わりました。
 ただ部族を解体させることはできていません。これは今も残っています。ウマイヤ家もアッバース家も同じクライシュ族の系統はひきながら対立します。その前に、ムハンマドの一族の出身者こそがウンマの指導者でなければならないと主張するシーア派の台頭もこうした親族間の対立から現れています。4代目アリーはムハマドの娘ファーティマの夫であり、ムハンマドに血が一番近い、というのです。血統を争う結果としてスンナ派とシーア派という何か教義上の争いのようなものになってしまいました。キリスト教の正統・異端をめぐる争いとはちがうことが分かるでしょうか。シーア派はアリーを正統なムハンマドの後継者とし、前の3人のカリフはアリーが受けつぐべきだった地位をうばった連中だと断罪しています。「正統カリフ時代」という時代区分はスンナ派の区分であってシーア派には存在しないものです。
 ウンマができたときのヤスリブ(後のメディナ)は元々二つの部族の争いがあり、ムハンマドの説得でこの抗争はヤスリブ住民が改宗することで解消されました。しかしこれはウンマの拡大と共に部族・民族の抗争が止むことはなく、むしろ拡大してしまい、二つの宗派ができ、民族差別が現れ、3代目ウマルのウマイヤ家優遇と、その後のウマイヤ家の専横がアッバース朝を起す原因となっていきます。これらは皆、正統カリフ時代に醸成された矛盾でした。

第2問
A
 設問(1) 「殷王朝の代表的な遺跡」は都の殷墟。「墟」の漢字が正しく書けるか。
 空欄 a もともとは「詩」とだけいったのが経典になり「詩経」と呼ぶようになります。
 設問(2) 「周王朝の首都」は鎬京。漢字が正しく書けるかどうか。「鎬(しのぎ)を削る」というときの鎬です。
 空欄 b 「有力諾侯が、……会盟を行った」とあるので会盟の招集者たる覇者ですね。
 空欄 c 禹。堯舜禹とつづく伝説の王です。夏という一族は今も中国に存在しています。ある所で「わたしは夏と申します」と姓を名乗られて仰天したことがあります。あの夏の名は今も生きているのですか? と問わざるを得ませんでした。
 下線(3) (ア) 「孟子の主張した倫理・道徳学説」とは性善説がもっとも名高いでしょう。他に革命説、王道政治もあります。
 (イ) 「陰揚五行説を唱えた学者」は鄒衍(すうえん)です。これも正しく漢字が書けるか?
 設問(4) 「秦が遷都した首都」は漢字が正しく書けるか? 咸陽。これは渭水の北岸にある都市で、鎬京も長安も南岸にあります。
 設問(5) (ア)「孔子が編纂したとされる歴史書」は『春秋』です。私大では五経にあたる書物がみな問われます。四書は四書は孟子・論語・大学・中庸です(「もちろん、だっちゅーの」と覚えます。拙著『センター世界史B各駅停車』の語呂)。
 (イ) 「楚の詩人」は『楚辞』の著者の一人で楚の名門のひと、屈原。
 設問(6) 「統一後の秦で用いられた貨幣」。統一前は環銭といいましたが、統一後は目方で表現した半両銭。
 設問(7) 「滅亡のきっかけとなった農民反乱」は二人の名を冠するか、一人でかはどちらでもいい。陳勝呉広の乱、陳勝の乱、陳呉の乱。
 設問(8)(ア) 「広州市……郡」は南海三郡という表現があるように広州市を南海と呼んで、他の2市(桂林・象)を代表させます。
 (イ) 「前2世紀末に南越を滅ぼした皇帝」とは前141〜前87(『世界史ワンフレーズnew』の語呂では「東1洋4一1鼻87高い」)の武帝。
 設問(9) 「前2世紀末〜前1世紀初めごろ」とは上の皇帝の在位と同じで、武帝の下で仕えた歴史家とは、司馬遷。
 どの設問も漢字を別にすればセンター試験レベルの問題です。
B 
 設問(10) 「カスピ海北岸……16世紀にこの都市を支配下においた口シアの君主」とはイヴァン4世です。イヴァン3世はモスクワより北の地域を征服しましたが、イヴァン4世は南方地域(ヴォルガ川流域)の征服に成功した皇帝でした。
 空欄 d 二つの都がありますが、年代的には後のものでしょう。もともとはタブリーズだったのが、このイスファハーンに遷都しています。
 空欄 e イスファハーンを建設した「シャー」の名はアッバース1世です。
 空欄 f フランス重商主義はこの財務総監(事実上の首相)の名を冠して呼ぶくらいです。コルベール。
 設問(11) アルメニア人は、ベンガル地方におけるイギリスの拠点となった都市の発展にも寄与している。その都市の名を記せ。この「寄与」が誰なのか分からなくても「イギリスの拠点」ということで3C政策のひとつである都市カルカッタを書いておけばいい。
 空欄 g ラサ
 設問(12) 広州の交易について、 (ア) 特許商人の組合を何と呼ぶか。公行でも広東十三行でもよい。
 (イ) 密貿易の商品のうち、中国社会に大きな影響を与えたインド産品は何か。ベンガルで生産した毒薬、アヘン。
 空欄 h 「フィリピンの……から太平洋を越えてアカプルコ」とあるので、スペインの総督レガスピが建設した現在の首都マニラ。
 設問(13) イエズス会土・宜教師・著作ということで分からなくても「17世紀初頭」というのは大きなヒントです。リッチは1610年に北京で亡くなった人物です。イエズス会士としては中国を訪れた最初のひとでもあります。
 空欄 i デリーではなく、1558年アクバルが首都に定めたところ、アグラです。
 空欄 j 「アフリカのキリスト教」国といってもピンと来ないひともいたでしょう。かつてアクスム王国といって、前2世紀には認められ、紀元後2〜3世紀が全盛期で、4世紀にはキリスト教(コプト派)が広まった、という。故ハイレ・セラシエ皇帝はソロモン王とシバの女王の子孫と主張したことがあります。
 設問14 「インド北西岸」でムガル帝国に抵抗していた人物、とあれば、デカン高原を中心として北のムガル帝国、とくにアウラングゼーブ帝への反乱指導者として名高いシヴァージーです。マラーター王国の建国者でもあります。しっ!ヴァージン(なの)、みたいな名前。
 空欄k 1828年にイランと口シアの間の条約です。イランにある地名でトルコマンチャーイで結ばれた、イラン・ロシア戦争の結果です。年代は『ワンフレーズ』の語呂では「とるこまん、頭1828げ」。
 空欄 l パフレヴィー朝の白色革命に反対して追放され、パリに亡命していた人物で、宗教法学者ホメイニ。パリは腐敗した街だとの忌避したのに対して、協力者たちはあそこしか隠れられませんといわれ仕方なくいた街でした。


第3問
 時間は「ウィーン会議から露仏同盟成立に至るまで」、テーマは「フランスとロシアの関係の変遷」です。2002年の「17世紀の英蘭関係史」、2005年の「18世紀後半から19世紀前半の英仏関係史」と似た問題です。

 思いつくまま両国の関係になるものをあげて、そこに友好か対立かの判断をくだしていきます。
 ウィーン会議(1815) 露の神聖同盟提唱、仏の参加
        四国同盟にも両国参加
 ギリシア独立戦争(1821) 両国とも参戦……ここまで友好
 エジプト=トルコ戦争(1831、39)仏はエジプト、露はトルコを支援……対立の始まり
 1848年革命(1848) 仏は革命推進、露は弾圧側
 クリミア戦争(1853) 仏はトルコ支援、ロシアと対立
 アロー戦争と天津条約 友好
 露土戦争(1877) 仏はトルコ支援
 露仏同盟(1891)←「仏孤立化」政策のビスマルク退陣(1890)……友好

 前半は友好だったのが次第に対立し、ビスマルク体制の崩壊とともに友好にもどった、という過程です。


第4問
A
問(1) 「小アジア」はトルコ西部の地位名、「前6世紀に自然哲学の中心地」とは「イオニア」自然哲学と呼ばれるもの。「前5世紀の初めにペルシア帝国に対する反乱を主導」はミレトス市。
問(2) 「無産市民が……ペルシア戦争でどのような役割」という問題。無産市民が活躍するのはサラミス海戦のとき。「軍艦の漕ぎ手として戦争に参加する無産市民の発言力が高まった(詳説)」とあるように、武装できない無産者たちが体の力だけで勝利に貢献した、ということ。
問(3) 「ギリシア世界内部で生じた」という「大戦争」でトゥキュディデスが記したものは、ペロポネソス戦争。
問(4) 「前359年に即位」「マケドニア王国を強大化」とあるので父のフィリッポス2世。前338年のカイロネイアの戦いを想起してもいい。子のアレクサンドロスもこの戦いに参戦しているが、まだ王ではなかった。
問(5) ポリュビオスはローマの将軍スキピオに同行して、ローマ軍が戦争の結果、前146年にある都市を滅ぼすのを目撃している。このときに滅ぼされた都市の名を記せ。フェニキア人の建設した都市。
問(6) ローマ帝国最盛期はパックス=ロマーナ(ローマの平和)の時代(前27〜後180)。「倫理論集」で分からなくても「大部の伝記作品」なら『対比列伝』(『英雄伝』)の作者プルタルコスが想起できます(拙著『センター世界史B各駅停車』のおぼえ方→★プル対比列伝)。「ギリシアに生きて」という記事もヒントでギリシア史とローマ史の英雄たちの比較伝記集です。
問(7) 「前5世紀半ば」は前451年の十二表法が該当します。
問(8) 「ローマ共和政末期」でカエサルと対立した雄弁家です。カエサルとともにラテン語文学の中でも「名文家の時代」とも誉めたたえられる人物。『国家論』でも知られています。大学のときにキケロのラテン語文を暗記させられたので嫌な思い出しかありませんが。
問(9) 「国家の最高公職の名」というのはピンと来ないが、似た表現としては、「市民の中の第一人者」というプリンケプスというのがあります。インペラトルという最高軍司令官の名称もありますが、たぶん前者だろうと推測する他ありません。あくまで市民の中の一人、その中の最高の市民、元老院の中の第一人者、といった意味なのでこれでしょう。
問(10) アーヘン宮廷で展開した文化運動です。カロリング小字体も制定されたもので、カロリング・ルネサンスと言われているもの。

B
問(11) ティルス・シドン・カルタゴを建設した、アルファベットの民族。
問(12) センター試験にも同問が出ました(2009)。「(ユスティニアヌス帝)北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼした。」また「部族が建国した地域の名の組合せとして正しいもの→ヴァンダル族─北アフリカ」(2002)
空欄(a) トゥール市とポワティエ市の間の戦い。山に逃げたアラブ人は今もシャビシュー=ドゥ=ポワトゥという山羊のチーズを生産している。
問(13) ヴェネツィアに行くと今もその跡が見られます。英語のゲットと似てますが、むしろ閉じ込められた。
問(14) 東海岸の垂れ下がった半島のある州。
空欄(b) ナポレオン戦争の中ではもっとも名高い開戦。ロンドン市内の広場にも名づけられています。ネルソン提督の像も建っているのはこのときの指揮官だから。この戦いで戦死した提督は4頭のライオン(虎ではない)のブロンズ像に囲まれています。トラトラと叫んで死んだのではない(^^;)。
問(15) ドイツの首都の名前で出した勅令。
問(16) 「ジブラルタル海峡……1870年代以降」がヒント。前年(1869)、海峡を通って地中海に入り、インドに向かう通路が開かれました。
問(17) ヨットと軍艦を横付けしてフランスとスペインがモロッコから撤退することを要求したのはヴィルヘルム2世。

C
問(18) チベット問題を話し合うために来た中国の国務総理(首相)。
空欄(c) インドネシア初代大統領で、デビ夫人の旦那。
空欄(d) 「アフリカ諸国が1963年」なので、ケニア独立年でもあり、『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「闘1963イ」はアフリカ統一機構。
問(19) 東南アジア条約機構(SEATO)は、ヴェトナム戦争の終結のため1977年に消滅した。
問(20) 細かい。ケネディ提案の政策だったが。進歩にならず。
空欄(e) 「ソ連は、1953年に[ e ]が死去」とあるのでゴ5ミ3になった独裁者は?
問(21) アフリカ独立の中で「1975年」という遅さ、に注目。もっと遅いジンバブエ(1980)もあるが。内戦といえば、アフリカ西南部の国。ああ。
問(22) 『ワンフレーズ』の語呂「あん食ったど、胃1964」。
問(23) これもまた細かい。政経の問題。できなくていい。
問(24) 教科書に学生が連行されていく写真が載っています。センター試験で3回出題歴あり(2001追、04追、09)。


(わたしの解答例)
第1問 
 〔君の解答〕
第2問
A

空欄
a 詩経 b 覇者 c 禹
問 (1)殷墟 (2)鎬京 (3)(ア)性善説 (イ) 鄒衍 (4) 咸陽 (5)(ア)春秋 (イ)屈原 (6) 半両銭 (7)陳勝・呉広の乱 (8)(ア)南海郡 (イ) 武帝 (9)史記
B
空欄 d イスファハーン e アッバース1世 f コルベール g ラサ h マニラ i アグラ j エチオピア k トルコマンチャーイ l ホメイニ

(11)イヴァン4世 (12)(ア)公行 (イ)アヘン (13)マテオ=リッチ (14)シヴァージー
第3問
 〔君の解答〕
第4問
A
設問
(1) ミレトス (2) 三段櫂船の漕ぎ手として海戦で活躍したこと。 (3) ペロポネソス戦争 (4) フィリッポス(フィリップ) 2世 (5) カルタゴ (6) プルタルコス (1) 十二表法 (8) キケロ (9) コンスル(執政官・統領) (10) カロリング=ルネサンス
B
空欄
a トゥール・ボワティエ b トラファルガー c スカルノ d アフリカ統一機構 e スターリン

(11) フェエキア人 (12) ヴァンダル人 (13) ゲットー (14)フロリダ (15) 大陸封鎖令(ベルリン勅令) (16) スエズ運河開通の結果、海峡回りで地中海・インドの道が開けた。 (17) ドイツ,フランス(スペイン)  (18)周恩来 (19)東南アジア条約機構(SEATO) (20)進歩のための同盟 (21)アンゴラ (22)国連貿易開発会議(UNCTAD) (23)輸入代替工業化(輸出志向型工業化)  (24)光州