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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2015

-一橋大学 過去問

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 「聖なるクリスマスの日に、王がミサのために至福の使徒ペテロの墓前での祈りから立ち上がったとき、教皇レオは冠を彼の頭に載せた。そして、彼はすべてのローマ人民により歓呼された。「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と。そして、讃歌ののち、彼は教皇から古き皇帝の慣行に従った崇拝をうけ、それ以来、彼はパトリキウスの称号を止めて、皇帝と呼ばれた。」(『フランク編年史』より)

問い この文章の中で「ローマ人の皇帝」とされた『彼』(カール)は、ヨーロッパ世界にとって重要な存在とされる。彼はローマ滯在中、聖ペテロ教会でのクリスマス・ミサに出かけ、この文章によって伝えられる出来事を経験した。
 カールは、この時なぜローマに滯在していたのか、また、なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか。8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べるとともに、この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)

第2問
 ともに1967年に発足したヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合は、地域機構として大きな成功をおさめた。両機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を説明しなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章は、18世紀末における清朝の対外関係の一端を伝えるものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 1793年9月16日(水) 一行の韃靼(だったん)滯在期間もいよいよ残り少なになったので、①皇帝への暇乞の挨拶に、今朝、大使は参内した。但しこの時は前回のような正式な参内ではなかった。
 この時にも、王宮内ではある種の公式要談が行われた。随行した幹部連の腹蔵のない話をまとめると、この時の会談の内容はおおよそ次のようなものである。
 皇帝は、英国といわずどこといわずおよそ外国を相手に成文の条約による契約に署名する、従ってそういった契約に応ずるということには、のっけから絶対反対だったのである。皇帝の言分はこうである──およそ外国と条約関係に入るということは、この国の伝統的国是にももとり、事実支那古来の法律にも背くことになる。が、自分としては、英国国王並に英国国民に対し高い尊敬の念をもっていることは申すまでもない。事実、当方としても、できうべくんば英国に対し、現にこの国と通商関係にある他のどのヨーロッパの強国よりも一層大きい通商的便宜を与えたいのは勿論であるし、また今回の会談の眼目と思われる例の広東来港の英国船に課する課税問題ということでも、当方としてはこれに対して新しい取極めに応ずる用意もないではない。が、そのまた半面には、自分としては、自国民の真の利益を絶えず擁護すべき地位にあるのであって、これだけは絶対に犠牲にするわけにはいかないので、従って自国民の利益が少しでも犯される気配があれば、いつでも相手国の如何を問わずその修好上の便宜を撤回しなければならない。で、かりに英国が、この国と現に通商関係にある他の国以上に有利な便宜を与えられているとしても、その通商行為の如何によっては、これまたその権利を喪失すべきことにならぬとも限らない。自分はこの際、これだけのことははっきり言明しておきたい。で、これを自分が理解・実践するには、成文の証書も署名も一切その必要がないのである。
 (イーニアス・アンダーソン著・加藤憲市訳『マカートニー奉使記』より引用。但し、一部改変)

問い 下線①皇帝の名前を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。(400字以内)

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コメント

第1問
 課題は3つありました。「①なぜローマに滯在していたのか、②なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか。8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べ、③この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響」でした。
 ①と②は「8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢」というヨーロッパ全域を視野で述べることが課されています。この問い方はこれまでにも西欧中世史の慣用句のように出てきました。

1 ヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義(1913)
2 「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら(2009)
3 オットーの皇帝戴冠の歴史的意義を、9〜10世紀の地中海世界の政治動向との関係に言及しながら(2006)
4 「ヨーロッパ世界の形成」という観点から当時の事情について(2001)
……という具合です。2009年とほぼ同問であることも分かります。するとこの過去問にあるように、「当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係」が「キリスト教世界の情勢」にあたります。8世紀後半といえばアッバース朝の成立(750)後であり、キリスト教世界が南からイスラームの包囲網の中にあり、これにたいする対抗勢力を形成するのが課題でした。予備校の解答例を見れば、あまりイスラームからの包囲について言及していない、いや全く言及していないものも発見するでしょう。また8世紀後半はカロリング朝の成立(751)以後であることも当然ながら関連してきます。というか、ほとんどこのカロリング朝のことだけで解答が終始してまう危険性があります。

 ①なぜローマに滯在、ということは 800年にカールが南下政策をとった理由を書けば良いことになります。当時のローマ教皇レオ3世がローマの街頭で襲撃を受け、罪に問われて投獄されたため(799)、カールはこの事件を解決する裁判官として臨み、教皇を助けたという事情です。その後、教皇はサンピエトロ大聖堂のクリスマス(降誕祭)にかれを招き、その際に西ローマ皇帝の冠を与えました。このとき導入文では「すべてのローマ人民により歓呼された」と嘘臭い説明をしています。どこに「すべて」が集まれたのでしょうか?
 これ以前の20年ほど前に、カールは別の教皇を助けています。イタリア半島北部を支配するランゴバルト王国が教皇にとって脅威であり、父のピピンが完全には滅ぼせなかった後を受けて、都パヴィアを陥落させて征服に成功しています(774)。
 この他に、東ではアヴァール人の侵入を食い止め、エルベ川以東にまで進出しています(785、804)。西南ではフランス南部のアラブ人を追放、イベリア半島ではエルボ川まで進出してイスラームとの戦い(レコンキスタ)に参戦しています(778、785、795)。

なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか
 導入文の史料に「至聖なるカール、神により戴冠」……皇帝が神聖化された呼び方がされています。もともとアウグストゥス帝以来、ローマ皇帝は亡くなると神として祭られることになっていて、軍人皇帝のように生きている内から皇帝崇拝を強制する時代もありました。ディオクレティアヌス帝から跪拝礼が取り入れられ、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝でもそれは変わらず、ビザンチン帝国のユスティニアヌス帝になると全身平伏して皇帝を礼拝するかたちになまでなりました。

 また次の「古き皇帝の慣行に従った崇拝をうけ」ともあり、神聖性を帯ています。さらに「それ以来、彼はパトリキウスの称号を止めて、皇帝と呼ばれた」とあります。このパトリキウスは保護者という意味であり、教皇ステファヌスがピピンに与えた称号でした。つまりピピンは教会の保護者である、ということです。しかしこの称号は東ローマの官職名で、東ローマ皇帝の派遣したイタリア総督が皇帝代理として用いるものでした。それを教皇が勝手に任命することは教皇の越権行為です。さらにさらに今度はレオ3世がカールを皇帝に仕立てたのですから越権行為を重ねることになりました。東ローマ皇帝の抗議を覚悟しなくてはできないことでした。事実、抗議してきます。

ヨーロッパ史にあたえた影響
 今まで東ローマ皇帝にたいして西側のゲルマン人諸王は「父よ」と呼んで外交的に上に位置づけてきたのですが、この800年から「兄弟」と東ローマ皇帝にとっては無礼な呼び方をするようになります。地域的にも西側にありながら、ゲルマン人諸王は外交上は東の皇帝が上という意識でずっとやってきました。この東の皇帝に任命された総督としてゲルマン人・ケルト人・旧ローマ人(市民)の上に君臨する、という建前でした。『中世ローマ帝国』(岩波新書)のいうように帝国は古代以来変わりなく存続していて、一人の皇帝を頂点に、皇帝の代官として西側を担当しているはずでした。ところが、カールの戴冠により、とうとう意識的に離れることになります。もう西側は別の帝国のはじまりなのだと。
 教科書的には、ゲルマン的・キリスト教的・ローマ的な3要素の「ヨーロッパ」ができた、ということになります。東の帝国とは別の道、ローマ=カトリック教会と手を組んだゲルマン人を主体とする国々の形成です。東のスラヴ人・ギリシア人・旧ローマ人の住民で東方正教会の信徒として歩む道とはちがう帝国です。
 こうして東から自立した道が開け、いったんオットー1世まで中断しましたが、19世紀までつづく皇帝位の初めともなりました。

第2問
 課題は「ヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合は、地域機構として大きな成功をおさめた。両機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を」でした。
 予備校の答案を見て、「共通点と相違点」がどれだけ表わされているか採点してみてあげてください。成立経過を書いているだけで「比較」してないでしょう。3分の1も得点がとれるかどうか怪しいものばかり並んでいます。「比較」する方法、「比較文」を書くということがどんな風に書き表すことか知らないからです。このコツを『世界史論述練習帳new』で学んだら、かんたんに講師たちの能力を越えることができます(宣伝(^^;)。

 さて教科書(詳説世界史)の記事を拾ってみると、
1 1952年、フランスのシューマン外相の提案(シューマン=プラン)で、フランス・西ドイツ・ベネルクス3国・イタリアはヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を発足させた。この動きは、ソ連社会主義圏との対立にもうながされて、58年にはヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の設立へと発展し、関税の相互引き下げ、共同の商業・農業政策、資本・労働力移動の自由化が実施された。67年には3共同体はヨーロッパ共同体(EC)に合併し、西ヨーロッパ統合の基礎がつくられた。
2 ヨーロッパ共同体は、1970年代前半イギリスなどの加盟を認めた後(拡大EC)、景気の後退や産業構造の転換による長期失業者問題などに直面した。しかし80年代にはギリシア・スペインなど南ヨーロッパ諸国をも加えて、巨大な統一市場へと発展した。さらに、92年にはマーストリヒト条約に調印し、域内市場を完成させて統合力を高めたヨーロッパ連合(EU)となり、2004年4月には、あらたに東・南欧10カ国の加盟が予定され、EUは東に拡大しようとしている。

3 1967年インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイ5カ国は、東南アジア諸国連合(AASEAN)を結成して地域協力をめざした。
4 1967年に結成された地域協力機構の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟各国も、70〜80年代には高い経済成長率を示した。80年代には、一部の新興工業国は多額の対外債務をかかえ、産油国も原油価格の低迷で一時の勢いを失ったが、基本的動向に変化はない。

 この教科書からピックアップできる共通点は広域な協力機構であり、後で加盟国を増やしていった点も共通していること、相違点はEUの方が総括的で、原子力から貨幣まで統合していてパスポートなしの共同体をつくっているのに対して、ASEANは経済の協力だけであること。後者は産油国も加盟しているが、前者は産油国をもたない、といったことです。

 教科書に書いてないことで共通するのは、どちらも第二次世界大戦後の戦後復興を目的にしていることです。
 また反共連合として出発していることも共通点です。欧州連合(EU)は後に東欧の共産党政権が崩壊してから加わっていますが、ASEANは後でベトナムの加盟(1995)に見られるように今も共産党独裁を維持している国も加盟しています。ラオスも同じ共産党国家ですが加盟しました(1996)。この点は相違点にあげてもいいです。
 他に相違点はあります。
 6国の原加盟国でスタートしたEUの起源たるECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)の中心国がドイツという第二次世界大戦では枢軸国であった国であることです。和解のため不戦共同体をつくるという意志が強くはたらいています。今はEUの指導的な地位にあることはギリシアの破綻をめぐる騒動でも明らかになりました。逆に東アジアの枢軸国であった日本はASEANの圏外にあり、後で域外対話国として日本政府代表部を開設し、ASEAN大使を常駐させているという程度の参加です。
 結成後はヨーロッパで戦争はまったく起きないでここまできましたが、ASEANでは戦火はなかなか止みませんでした。まだ加盟国でなかったベトナム・カンボジア・ラオスにおいての長い戦争、フィリピンのモロ民族解放戦線、インドネシアのアチェ独立戦争やティモール紛争、中越(中国=ベトナム)戦争、カンボジア内戦、ベトナム軍のカンボジア侵攻などです。また長いこと孤立していた独裁国ビルマは最近になって参加しました(1997)。
 また一人当りGDPは他の連合(EU、NAFTA)より10分の1にとどまっています。

第3問
 課題は「下線①皇帝の名前を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明」でした。①の皇帝名と②清朝の対外関係の特徴、③その崩壊過程と三つの要求があります。

① 皇帝は「18世紀末…… 1793年……大使……英国……マカートニー」とあるので、乾隆帝と確定できます。
② 対外関係の「特徴」という問い方はあいまいです。特徴は他と比べて明らかになる相違点ですから、他国に見られない、清朝独自の対外関係のあり方を具体的に説明するといいでしょう。引用文にはそれはある程度示唆されています。 
 「外国と条約関係に入るということは、この国の伝統的国是にももとり、事実支那古来の法律にも背くことになる」……つまり朝貢貿易といわれるように、中国と貿易するさいはどこの国であれ、家臣の立場、つまりは冊封体制をくずさないで、家臣が君主に奉納するように持ってこい、それも中国皇帝が認めた商品・数・船数に違反してはならない、という制限的な貿易のことです。その返礼として皇帝から恩賜として中国側の商品を与えるという、自由な取引でなく、あくまで形式をとった貿易でなくてはならない。
 「広東来港の英国船に課する課税問題」……清朝は乾隆帝のときに広東一港に限定し、ここにいる公行(広東十三行)が末端の外交も担当するという、西欧では考えられないものでした。
 対外関係は外交という政治的なことと、貿易という経済的なことと二つあります。
 外交面はかんたんには冊封体制で、中国皇帝が世界の最高君主であり、周辺国はこの皇帝から認められた家臣国家である、周辺国の君主は家臣の礼として三跪九叩頭の礼を課せられ、それをしないと追放の身にあいます。まず公行の親方に会って地方の総督につないでもらい、そこから北京へ、という道程が設定されています。マカートニーがつぶしたかったのは公行のもつ外交権でした。これは西欧の外交慣例に反する独特のものでした。というのはウェストファリア会議で外交の慣行は決まり、外交は対等な身分の者同士の交渉でおこなうことになりました。領事と領事で、公使と公使、大使と大使、外相と外相、首相と首相(大統領・主席・国王)という対等な者同士の協議で決めることです。もちろん清朝にそんな理屈はありません。
 貿易面では公行・広東一港と制限、という制限貿易でした。これは特に中国だけの特徴とはいえません。他国も大なり小なりこういう形態をとっていました。恩賜として中国の品物を与える、とくに周辺国からほしいものはないけれど、もらってやるという自給自足の国としての態度は中国だけというわけではありません。アジア各国の経済は基本的に自給自足的であって、貿易と国内経済とのつながりは密接ではなかった。もっとも大航海時代から18世紀までは、交通も不便で、貿易に伴うリスクも大きく、また取引される商品が奢侈品であったため、それほどの影響を国内経済に持たなかった。
 ただリスクを犯した貿易業者の利益は大きかった。まさに重商主義の時代が西欧にとってはショッピングの時代でもあり、西欧側が生産したもので商売はできず、現生(金銀)をもってアジアの商品(奢侈品・希少品)を買いにいかなくてはならなかった。それが西欧の経済力・軍事力がアジア諸帝国を上回ってきた段階では、圧力がかけやすくなり、それが摩擦を呼ぶことになります。アジア諸国の保護貿易(国家管理貿易)が崩され、西欧列強の自由貿易が強制されます。
 西欧側は初めは密貿易のかたちをとり銀の流出がとまらなくりました。これを放置していると国家経済を揺るがすことになるので、とうとうアヘン戦争に発展します。

崩壊過程
 こうした対外関係が崩壊する過程は、冊封体制と貿易の両面を書けばいいでしょう。今年(2015)の京大の問題とそっくりでした。京大のは、

 東アジアの「帝国」清は、アヘン戦争敗戦の結果、最初の不平等条約である南京条約を結び、以後の60年間にあっても、対外戦争を4回戦い、そのすべてに敗れた。清はこの4回の戦争の講和条約で、領土割譲や賠償金支払いのほか、諸外国への経済的権益の承認や、隣接国家との関係改変を強いられたのである。この4回の戦争の講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果、清がどのような状況に陥ったのかを、300字以内で説明せよ。

 一橋の崩壊過程もこの京大の「諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変」を書けばいいのです。前者が貿易面であり、後者が冊封体制です。
 ここでは冊封体制からいきましょう。南京条約では冊封体制は崩れませんでしたが、翌年(1843)の五港通商章程で領事裁判権を認め、さらに1844年には望厦条約・黄埔条約でもこの領事裁判権を認めています。中国側の主権が犯された条約でした。アロー戦争後の天津・北京条約では外国公使の北京駐在が決められ、この公使との外交交渉のために総理各国事務衙門が設けられます。対等な国同士の近代外交がはじまりました。清仏戦争の天津条約でベトナムにたいする宗主権を失い、日清戦争の下関条約で朝鮮にたいする宗主権を失い、それぞれが形式上の独立を回復します。
 貿易・経済面では、南京条約で香港島を割譲せられ、ここがアヘン貿易と苦力貿易の中心になります。五港開港・公行の廃止も決まりました。虎門寨追加条約では最恵国待遇や関税協定権(関税自主権喪失)、輸入関税、土地租借と居住権も認めさせられます。天津・北京条約では開港場が増え、商人の内地旅行権、アヘン(洋薬)公認までいきます。
 どの条約にも賠償金が課され、国家財政を破綻させていきます。その支払いの一部である関税を牛耳ったのが英国人ロバート=ハートで、海関の総税務司の地位(1863-1908)にあり清朝の財政をほぼ滅亡まで牛耳った男です。
 また勢力圏が設定され、その圏内に鉄道が敷設されていきました。この鉄道敷設権には鉄道付属地(railway zone)が付いていて、線路の両側および駅周辺一帯の鉱山開発・徴税権・司法権・警察権・行政権が付属したため、鉄道を敷設することはそのままそこを植民地化することを意味しました。