世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2015

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
 東アジアの「帝国」清は、アヘン戦争敗戦の結果、最初の不平等条約である南京条約を結び、以後の60年間にあっても、対外戦争を4回戦い、そのすべてに敗れた。清はこの4回の戦争の講和条約で、領土割譲や賠償金支払いのほか、諸外国への経済的権益の承認や、隣接国家との関係改変を強いられたのである。この4回の戦争の講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果、清がどのような状況に陥ったのかを、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(19)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 黄河流域では紀元前6000年ころまでには雑穀の栽培がはじまっており、現在のところ存在を確認しうる中国最古の王朝、(1)は黄河中流域に形成された。この殷を滅ぼした周王朝が、やがて都を東に遷してその影響力を弱めると、各地の諸侯が互いに覇を競うようになる。その中心にあったのも黄河流域の諸勢力であった。降水量の少ない地帯を流れる黄河は、流域の農業生産を支える重要な水資源である一方で、(2)しばしば氾濫を起こし、流域に甚大な被害をもたらした
 一方、長江流域にも農耕文明が形成されたが、総合的な経済力・政治力においては黄河流域の勢力に従属するものであった。だが長江流域の人口が増加するにつれて、農業開発が進められる。まず、その画期となったのが三国時代における(3)呉の建国である。次いで(4)晋が南遷して都を[ a ]に定めると、より多くの移民が首都やその周辺に流入し、貴族・豪族による主導の下、荘園経営が広い範囲で展開された。
 南北の分裂状態から、ふたたび中国を統ーした(5)隋王朝が大運河を開鑿(かいさく)し、南方の経済力を自己の下に取り込もうとしたのは、いわば当然の趨勢であった。だが南方からの物資は洛陽までは水路で運ばれたが、洛陽以西への水運は黄河の難所、三門峡が大きな障害となって、滞ることもあった。そこで五代の[ b ]王朝は、都を大運河に直結する開封に遷し、宋も引き続きこの地に都を置いた。
 宋の時代、中国南北の人口比はすでに南が北を上回るようになっており、さらに(6)金の侵攻が人口の南への移動に拍車をかけ、経済力における南方の優位は決定的なものとなった。だが、明王朝の初期を除けば、その後中国全土を支配した王朝の首都はいずれも北中国に置かれ、それらの統一王朝にとって、南の物資を北に運搬する漕運(そううん)制度の維持が重要な課題となった。
 都を大都に置き、南宋を滅ぼした元は、会通河などを新たに開鑿し、大運河による漕運を試みた。だが、水深不足のために会通河はしばしば利用できなくなったので、主に用いられたのは海上運送であった。当時、モンゴル諸政権のもとでユーラシア全体を結ぶ(7)陸上・海上交易が活性化しており、南中国と大都とを結ぶ海運の利用は、こうした交易ネットワークのなかに南中国を連結するものでもあった。
 続く明王朝は[ c ]帝の時に都を北京に遷し、この地を拠点にして当初は北方のモンゴル勢力に対し積極的に攻撃をしかけた。だが、その後(8)オイラト部に大敗を喫すると、守勢に立たされる。これらの軍事活動を支えるべく、南方の物資が北へと運ばれた。明は[ d ]政策をとったため、大運河が再びその主要な輪送ルートとなり、会通河が改修され、漕運制度も整えられた。清も継続して大運河を利用するが、19世紀以降には海運も発達し、さらに(9)鉄道の敷設も始まった。かくして運河による漕運に代わり、鉄道による運送が新たに南北の物流を支えることとなった。


(1) この王朝よりも前に存在し、殷によって滅ぼされたとされる伝説上の王朝の名を記せ。
(2) 紀元前132年に起こった黄河の決壊は、その後23年間にわたって修復されず、当時の王朝の政治・経済に大きな影響を与えた。
 (ア) このときの皇帝は誰か。
 (イ) 洪水の被害や度重なる外征によって財政難に陥った王朝は、かずかずの財政再建策を打ち出した。その1つとして、物資を貯蔵して価格が高騰すると売り出し、下がると購入するという新政策があげられる。その名を記せ。
(3) この王朝の建国者であり、初代皇帝となった人物の名を記せ。
(4) 晋では帝位をめぐって一族の争いが起こり、それが王朝南遷のきっかけとなった。この内乱の名を記せ。
(5) このとき開鑿された運河のうち、黄河と琢(たく)軍を結ぶ永済渠は、当時朝鮮半島の北部に都を置いていた国への遠征に用いられた。この国の名を記せ。
(6) 金は北宋の都を占領すると、皇帝とその父である前皇帝を捕らえ北方に連れ去った。
 (ア) この事件を何というか。
 (イ) 金のさらなる南下を防ぐべく、宋は黄河を決壊させ、これがきっかけとなってそれまで渤海湾に注いでいた黄河は南流し、のちに金と南宋の国境とされた川に流れ込むこととなった。この河川の名を記せ。
(7) モンゴル統治下で繁栄し、『世界の記述』([東方見聞録])のなかでは「ザイトン」の名で紹介された福建省の港湾都市はどこか。その名を記せ。
(8) 1449年、土木堡で明軍は敗れ、皇帝が捕虜になった。この時にオイラト部を率いていた指導者の名を記せ。
(9) 中国における鉄道建設は洋務運動期に始まる。湘軍を率いて太平天国の平定にあたり、この運動の中心ともなった人物の名を記せ。

B アラビア半島西部、[ e ]の町で生まれたアラブ人、クライシュ族に属するムハンマドは、610年ころ、自らを唯一神アッラーの啓示を受けた「神の預言者」と意識するようになった。ムハンマドはその後の生涯を、自らが開祖となった(10)一神教イスラームの教えを説き、信徒に伝えることに捧げ、アラビア半島にイスラームを広めることにほぼ成功していたが、(11)後継者を定めることなく、632年に病死した。そのため、ムハンマドが基礎を置いたイスラームの共同体(ウンマ)は、その後の指導者を誰とするかで、たびたび政治的・宗派的な問題を抱えることになった。
 ムハンマドの死後、共同体の多数の人々は、「神の使徒の後継者」(カリフ)として、彼の宗教的・政治的な活動を献身的に支援してきた共同体の長老を4代にわたり、(12)正統カリフに選出した。その後も共同体の多数を占めるスンナ派の人々は、ウマイヤ朝と(13)アッバース朝のカリフたちを共同体の政治的指導者として認めてきた。
 これに対して、本来、第4代正統カリフの[ f ](預言者ムハンマドの従弟であり、ムハンマドの娘ファーティマの夫)とその子孫たちが、共同体の指導者(イマーム)になるべきだとの考えを持つ信者たちが[ f ]の党派(シーア)」として活動を始め、政治権力を掌握していたウマイヤ朝やアッバース朝にしばしば反抗し、その権力や体制に挑戦した。
 ウマイヤ朝第2代ヤズィードの即位に反対して、[ f ]家による共同体指導の権利を主張する人々は、[ f ]の次男フサインを指導者として招き、ウマイヤ朝体制への反抗に立ち上がったが、武力で鎮圧され、フサインとその家族も殺害された。(14)イラク南部のカルバラーで起こったこの事件は、シーア派を支持する人々の間で、現代まで長らく記憶され、フサインとその家族一行の「殉教」を追悼する行事が行われている。
 シーア派の王朝としてイスラーム史上に最初に登場したのは、8世紀後半に現在のモロッコを中心に建国されたイドリース朝である。この王朝は[ f ]の子孫の一人がアラビア半島から(15)モ口ッコへと逃れ、現地の遊牧民の支持を得て建てられた。次にシーア派の王朝として建てられたのが、現在の[ g ]に興った、シーア派の中でもイスマーイール派を奉じるファーティマ朝である。ファーティマ朝は969年にエジプトを征服して、本拠を遷し、東方を支配するアッバース朝やそれを支持する勢力と激しく対立した。
 イラン方面でもシーア派の影響力は大きく、北部の山岳地帯を本拠としていたダイラム系のブワイフ朝はイラン南部からイラクに進出し、946年にはアッバース朝の首都バグダードに入城して、スンナ派のカリフを軍事的庇護下に置いた。ブワイフ朝は11世紀後半、(16)ファーティマ朝は12世紀の後半に滅亡するが、その後もシーア派の勢力はイスラーム世界の各地で存続し、スンナ派が優勢な支配体制に抵抗した。
 16世紀初めにイラン西北部を中心として勃興したサファヴィ一朝は、十二イマーム派を奉じる王朝で、強力にシーア派化政策を推進し、周辺諸国との緊張が高まった。サファヴィ一朝は(17)中央アジアのウズベク族王朝と鋭く対立したが、(18)インドを支配するムガル朝と宗派的な対立が先鋭化することはなかった。18世紀前半にサファヴィ一朝が弱体化し、やがて滅亡してからも、イランではシーア派が圧倒的な支持を得て政権を掌握し続ける状況は変わらず、(19)1979年のイスラーム革命を経て現在もシーア派イスラームが国家統治の基盤とされている。


(10) イスラーム教の教義実践は、「五行」にまとめられている。信仰告白、礼拝、断飲食、喜捨に次いで実行が望ましいとされている行為は何か。
(11) 622年以来ムハンマドが居を定めてその活動の中心地とし、イスラーム教徒が参詣に訪れる彼の墓廟がある町の名を記せ。
(12) 第2代正統カリフとなり、イスラーム勢力による大征服を指導した人物は誰か、その名を記せ。
(13) 1258年にバグダードを攻略し、アッバース朝を滅亡させたモンゴル軍を指揮していた、チンギス=ハーンの孫に当たる人物は誰か、その名を記せ。
(14) 1802年、この町はアラビア半島中部に興った復古主義的スンナ派に属する人々の襲撃を受け、フサインの墓廟を中心とするシーア派の聖地であった場所が略奪などの被害に遭った。
 (ア) この事件を引き起こした復古主義的スンナ派に属する人々は何派と呼ばれるか、その名を記せ。
 (ィ) 上記の復古主義的スンナ派思想を基に、1932年アラビア半島に建国された国家は何か、その名を記せ。
(15) 北アフリカの代表的な遊牧民で、イドリース朝やファーティマ朝建国の支持基盤となった民族は伺か、その名を記せ。
(16) ファーティマ朝を滅亡させ、エジプトを中心に新たなスンナ派王朝を創建した人物は誰か、その名を記せ。
(17) このウズベク族王朝は16世紀初頭までに、かつて中央アジアから西アジアにかけての地域を広く支配していた王朝を滅ぼした。
 (ア) 滅ぼされた王朝の名を記せ。
 (イ) ウズベク族によって中央アジアを逐われ、1526年北インドでムガル朝を建てることになった人物は誰か、その名を記せ。
(18) この王朝の第6代君主で、厳格なスンナ派政策を採り、デカン地方に領土を拡大した人物は誰か、その名を記せ。
(19) この革命の結果、打倒された王朝の名を記せ。

第3問(20点)
 ローマは、イタリア半島の小さな都市国家からその国の歴史を始めたが、次第に領土を拡大して、前1世紀後半にはついに地中海周辺地域のほとんどを領有する大国家となった。この過程で、ローマ国家は都市国家の体制から大きく変化した。前3世紀から前1世紀にかけて生じたローマ国家の軍隊と政治体制の最も重要な変化を、300字以内で説明せよ。解答にあたっては、下記の2つの語句を適切な箇所で必ず用い、用いた箇所には下線を施せ。解答は所定の解答欄に記入せよ。また、句読点も字数に含めよ。
  私兵  元老院

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)を読み、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A ヨーロッパでは中世半ばから、政治や社会においてさまざまな団体の形成とその活動が重要になる。
 11世紀以後、(1)イタリアの北部や、ライン川流域から(2)フランドル地方、フランスの北部では商工業者を中心に、自治都市共同体の形成が活発化し、しばしば都市領主の支配に対して闘争が起こった。また成立した自治都市内部では、(3)手工業者や商人の同職組合が結成され、組合は様々な営業上の特権を獲得した。こうした手工業者の団体は、富裕な商人による都市行政に反発を強め、14世紀には多くの都市で蜂起して改革運動を行い、彼らの市政参加が実現されることもあった。
 農村部でも賦役を中心とした古いタイプの荘園制が崩れ、一定の自治権を持つ村落共同体が農業経営と農民生活において重要な意味を持つようになった。こうした村落を単位として共同で行う、(4)牧蓄と穀物栽培を組み合わせた三圃農法の普及により、生産力は飛躍的に向上した。
 政治においても集団的な活動が重要性を増した。(5)政治的危機に対応した都市同盟は13世紀にも見られたが、14、15世紀には貴族たちは封臣として君主との個別的な関係を結ぶのみならず、王の課税要求や領邦君主の相続をめぐる混乱などをきっかけに横の連帯を強め、議会で結束して王に対抗し、自分たちの財産や権益を守ろうとした。(6)早くも13世紀に、イングランドでは国王と貴族の対立が激しくなり、その中で開かれた議会は後のニ院制につながる構成を示していた。神聖ローマ帝国の帝国議会では、(7)選帝侯を中心とする諸侯の影響力が強く、その他の貴族や市民の発言力はきわめて弱かった。
 (8)フランスなど、絶対主義が成立した国では議会が招集されなくなることもあったが、身分団体や職能団体などの特権団体は、王権の下で一定の権眼を認められて存続した


(1) 11、12世紀にイタリア都市の繁栄を促した要因を記せ。
(2) この地方の都市発展の最も重要な基盤となった産業は何か。
(3) ギルド、ツンフトなどと呼ばれる手工業者の同職組合の正式構成員は、何と呼ばれたか。
(4) 三圃農法の成立にとって重要な役割を果たした農具の名を記せ。
(5) 1250年代に、ドイツ(神聖ローマ帝国)における政治的混乱に直面して諸都市や貴族はライン都市同盟を結成した。この混乱に始まる危機の時代を何と呼ぶか。
(6) 1295年の「模範議会」には大貴族・高位聖職者のほか、後の下院議員に相当する代表が出席した。この代表はどのような人々か。
(7) 七選帝侯による皇帝選挙などを定めた14世紀の皇帝文書の名を記せ。
(8) フランス絶対王政下で、特権を守ろうとする貴族の抵抗の拠点となった司法機関の名を記せ。

B 11世紀の中ごろに東西キリスト教会が決裂した後も、カトリック教会はヨーロッパの広い範囲で信仰を集めた。しかし、「普遍」を意味する名をもっこの教会も、決して単一であったわけではない。中世にはいくつもの異端運動が発生したし、(9)教皇庁がフランス王権の圧力によってローマ以外の都市に移転し、さらには教会が大分裂したこともある。
 16世紀前半、信仰によってのみ救済されるとして教会を批判し、宗教改革の火ぶたを切ったドイツの修道士ルターは、教皇から破門されただけでなく、神聖ローマ皇帝からも喚問を受けたが、自らの信仰を放棄することを拒んだ。帝国内の領邦君主の中にはルタ一派に帰依するものも現れ、同盟して皇帝と争い、政治的な抗争が宗教の装いをまとうことになった。(10)1555年のアウクスブルクの和議で、領邦教会制が確認され、帝国領内では両派がモザイク状に入りくむことになったが、特に(11)ドイツ南部やオーストリアでは、カトリック教会が勢力を維持した
 ジュネーヴで宗教改革を指導したカルヴァンの教えは、やがてフランス国内でも支持を集め、さらに(12)ネーデルラントやスコットランドへも広がった。フランスにおけるカルヴァン派はユグノーと呼ばれ、貴族、市民の間に支持を広げたが、王権はこれを弾圧し、16世紀後半には(13)ユグノ一戦争と呼ばれる内戦が長くつづいた。16世紀末に、ヴァロア家の断絶を受けて王位についたブルボン家のアンリ4世は、ユグノーからカトリックに改宗するとともに、王令によってユグノーの信仰の自由を承認したが、この王令は後にルイ14世によって廃され、国外に亡命するユグノーも多く現れた。
 一方カトリック教会側も対抗宗教改革を実施し、トリエント宗教会議で教義の確認を行うとともに、(14)イエズス会士ら宣教師による海外布教を積極的に展開した。
 イギリスでは、1534年に議会が定めた法によってイングランド教会(国教会)が成立し、国家が主導するかたちで宗教改革が実施された。国教会は初め、旧来のカトリックの教義や教会統治の方式を多く受け継いだ。後には大陸の改革者の教説の影響を受けたが、なおも飽き足りない人々は、国教会を離れて多くの(15)改革的宗派を形成した。
 17世紀半ばに起きたイギリスの内乱は、教会指導者に対する改革派の強い反感が背景にあり、内乱後に成立した共和政は、独立派出身のク口ムウェルの政教一致の政治を特徴とした。18世紀には世俗化と宗教的寛容の進行が見られたが、強い反カトリック感情は存続した。英仏間では戦争が繰り返されたが、(16)そのたびにイギリスでは、背後にあってカトリック住民の多いアイルランドがフランスと連携することへの危機感が高まった。(17)ジェームズ1世の時代に本格化したアイルランドへのプロテスタント系住民の移住は、アイルランドにおける、民族と宗教の問題が一体化した深刻な事態の原因となり、イギリスは1801年にアイルランドを併合することでこれを国内問題としてさらに抱え込むことになった。


(9) 南フランスにあるこの都市の名を記せ。
(10) アウクスブルクの和議で確認された領邦教会制とはどういうものか。簡潔に説明せよ。
(11) 19世紀後半のドイツ帝国の宰相ビスマルクは、ドイツ南部を基盤とするカトリック教会を、国家の統制下に置こうとする政策をとった。この政策は何と呼ばれたか。
(12) ネーデルラントでは、16世紀後半、スペインによる宗教弾圧に対し、独立戦争が起きた。南部10州は鎮圧され帰順したが、北部7州は同盟して戦争を継続した。この同盟の名を記せ。
(13) ユグノ一戦争中の1572年、多数のユグノ一派の人々が殺害された事件を何というか。
(14) 中国で布教にあたったイエズス会と他の修道会との間に、布教の方法をめく守って論争が生じた。この論争(問題)を何というか。
(15) こうした宗派に所属した人々の中には、1620年にメイフラワ一号に乗船して、北米大陸に移住したものもあった。この人々は後に何と呼ばれたか。
(16) 1689年、前王のジェームズ2世が、フランスの軍隊を率いてアイルランドに上陸し、翌年にかけてイギリス側の軍隊と戦った。このイギリス側の軍隊を戦場で率いたイギリス国王の名を記せ。
(17) プロテスタントの人々が多く入植したアイルランド北部地方を何というか。

C 19世紀から20世紀、世界の様々な地域で、「パン=ゲルマン主義」や「パン=スラヴ主義」のように、特定の民族、人種、地域、宗教などに属するとされる人々の一体性を強調する考え方が現れた。それらのすべてが初めから領土拡張主義の主張として生まれたわけではないが、第一次世界大戦に至る過程では、ドイツが「パン=ゲルマン主義」を、ロシアが「パン=スラヴ主義」を、自国の勢力拡大のための論理とした。
 アメリカ合衆国では、1889年にfパン=アメリカ会議」が開催された。「パン=アメリカ主義」もまた、元来は(18)ラテンアメリカ諸国の独立の動きの中で生まれた連帯の思想であったが、この会議ではアメリカ合衆国がラテンアメリカ諸国に対する干渉を強めようとする意図が示された。これに続く時期、(19)アメリカ合衆国は、ラテンアメリカに対する経済的・軍事的な影響力を増していったばかりでなく、(20)カリブ海や太平洋において新たな領土も獲得した
 一方、特定の民族、人種、地域、宗教などに属するとされる人々の一体性を強調する考え方が帝国主義に対抗する思想として現実の政治・社会の変革と結びついた例もある。19世紀後半に活躍したイラン出身のアフガーニーは、全世界のムスリム(イスラーム教徒)の団結を説き、専制政治に対する政治・社会改革の重要性を訴えた。アフガーニーのこの「パン=イスラーム主義」の思想は、近代的な交通網の発達にも助けられ、(21)西アジアはもとよりインドやその他の地域にも広がり、多大な影響力を持った。(22)1880年代初めのエジプトにおけるウラーピー(オラーピー)の運動も、1870年代に長くエジプトに滞在したアフガーニーの活動抜きには考えられない。
 19世紀末、アメリカ合衆国やカリブ海地域のアフリカ系(黒人)の知識人たちの中からは世界中のアフリカ系の人々の地位向上と連帯を目指す「パン=アフリカ主義」の思想が生み出され、1900年にはロンドンで最初の「パン=アフリ力会議」が開かれた。「パン=アフリカ主義」の思想と運動は20世紀を通じて発展し、1960年前後のアフリカ諸匿の独立に一つの結実を見た。(23)ガーナの独立を指導したンクルマ(エンクルマ)は[パン=アフリカ主義」の運動の中心人物であり、(24)独立を遂げたアフリカ諸国は1963年に「パン=アフリカ主義」の理想に基づきアフリカ統一機構(OAU)を結成した。一方、「パン=アフリカ主義の思想は、その後も抑圧された地位に置かれ続けた南アフリカ共和国の黒人たちの解放運動にも大きな影響を与えた。


(18) 1810年代から20年代にかけてのラテンアメリカ諸国の独立に先立ち、カリブ海では19世紀初めに黒人共和国が生まれた。この共和国の成立の経緯について簡潔に説明せよ。
(19) アメリカ合衆国のラテンアメリカに対する強い影響力を象徴するのがパナマ運河の建設であった。アメリカ合衆国は20世紀を通じてこの運河に対してどのような関係を持ったか。簡潔に説明せよ。
(20) アメリカ合衆国は19世紀末の米西戦争の結果、カリブ海と太平洋にあったスペインの植民地を獲得した。それ以外にも、アメリカ合衆国は同じ時期に太平洋で領土を拡大し、のちに自国の一州とした。その場所の名を記せ。
(21) アフガーニーの影響を受け、19世紀末のイランで発生したナショナリズムの運動は何か。
(22) ウラービーの運動は、エジプトのどのような現状を批判し、何を目指したものであったか。簡潔に説明せよ。
(23) ガーナは独立するまでどの国の植民地であったか。
(24) アフリカ統一機構は、21世紀に入り、地域統合を目指す新たな組織に改変された。その際にモデルとされた地域統合組織の名を記せ。

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コメント

第1問
 課題は3つ「①4回の戦争の講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、②清と隣接国家との関係改変、および、③その結果」でした。
 「4回の戦争」とは何かについて迷ったひともいるようです。導入文にある「以後の60年間にあっても、対外戦争を4回戦い、そのすべてに敗れた」という場合、「以後」の表現はアヘン戦争もはいるのかどうか、もちろん「以」があればアヘン戦争も含めて、の意味であることは常識的な取り方です。南京条約が書いてあるから、これ以外だという取り方はできません。南京条約という条約名が必要なのではなく、その中身、つまり①経済的権益の承認と、②清と隣接国家との関係改変が求められていることであり、それは問題文に書いてないのです。
 もし南京条約を入れないとすると、「4回」とは、アロー戦争・清仏戦争・日清戦争に、他何なんでしょう? 義和団事件? これは戦争と呼びません。確かに西太后は宣戦布告をしましたし、北京議定書(辛丑条約)もあります。が、これは戦争とは一般的には呼びません。日本でも北清事変と言ってます。英語では Boxer Riot です。なぜなら西太后の布告は宮廷内にも反対するものがあり、各地の総督たちはこの布告を偽詔といってこの布告に従わないと表明しています。8ヶ国と戦う力はないと判断してのことです。だいたい義和団事件が山東半島でおきてもすぐは宣戦布告をしたわけではなく、情勢を見ながら2年もしてから出しており、布告も2カ月ももたずに撤回して西太后は逃亡します。
 義和団の方で「扶清滅洋」というスローガンがあり、「扶清」だから清朝を援護するという意味にとれますが、この場合の「清」は清朝ではなく危機的な「中国」を指している、というのが歴史家の味方です。たしかに義和団の残した歌には清朝批判は当り前になっていて、西太后にしても義和団を信頼していた訳ではなく、布告とともに袁世凱に義和団討伐の命令も出しています。一貫性がありません。
 この「扶清滅洋」と太平天国の「滅満興漢」を対比してその相違点を書かせる問題をKが出題したことがありますが、問題自体がまちがっていました。「扶清」が決して清朝援護でないことを8ページにわたって書いている歴史書もあります(『中国の歴史 8近代中国』(講談社)p.183-190)。
 あわてた受験生のように、どの予備校の解答もみなアロー戦争から書き始めて義和団事件まで言及してしまいました。「以後の60年間」という語句から義和団事件まで書かなきゃいけないととおもったのか、事件を無理に戦争にしたててしまいました。新聞に翌日載せる場合でも3時間も書く余裕があり、調べる余裕があるのに、不様なこと。

 ①こうした問題を素直に読まない傾向は「講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認」とあるのに規定内容を書かず、事件の経緯(流れ)を書いているものもあります。戦争毎に条約内容を書いていくのが課題であり、○○条約では……、○○条約では……、と書くことが求められています。しごく単純な問題でした。
 「権益」という言葉が気になったひともいるでしょう。「権益」は通常の会話に使いません。これは外交上のことばで、対立・友好の国々のあいだで取り交わす利益の交換・剥奪のさいに使う用語です。もちろんこの問題の場合、中国側が列強に譲渡をせまられた利益のことです。
 南京条約の経済的権益は、五港開港・公行廃止があり、領土として香港島割譲がありますが、ここはアヘンと苦力の市場でもあったので、経済的権益としてあげていいでしょう。それと翌年の虎門寨追加条約もあり、その規定では関税協定権(関税自主権喪失)・土地租借権・最恵国待遇なども認めています。
 アロー戦争の条約は二つをくっつけて天津・北京条約というように、天津条約の内容を北京条約で追加しています。天津条約の経済的権益はアヘン(洋薬)公認、10港開港、内地旅行権(商人が内地に入れます)、北京条約では1港増えて11港になりました。
 清仏戦争の天津条約では、なにより戦争の目的であったヴェトナム(越南)の宗主権がフランスに譲渡されました。
 下関条約の規定は、朝鮮の独立を承認させることでした。経済的権益としては、土地の売却と居住権がありますが、これは教科書に書いてないので不可欠というものではありません。前者の規定は「清と隣接国家との関係改変」にあたります。その内容は、

清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

というものですが、これ(完全無欠なる独立自主の国)を無視して日本は朝鮮の植民地化を図ります。

 ③さいごの「結果」は、4回の規定全部を含めて「その結果、清がどのような状況に陥ったのか」と問うていますから、個々の条約ごとに結果を書け、という要求とはとりにくく、清朝政府の陥った政治的・経済的な全体的破綻のすがたを描けばいいでしょう。
 政治的には、近代化、といっても軍事的な近代化政策が迫られ、洋務運動・光緒新政が進められましたが、どれも今ひとつの結果に終わります。といっても中国にとっての産業革命の開始期ではあります。どちらの運動でも留学が進められ、留学生は清朝打倒に傾きます。これを華僑たちが支えます。
 対外的には冊封体制という清朝を中心とした外交関係は、周辺国の独立によって独立国同士の対等な近代外交に移ります。中国自身が総理各国事務衙門(外務省にあたるもの)を設け、公使が北京に駐在します。もう世界の中心(中華)という観念は捨てなくてはなりませんでした。
 経済的には、どの条約にも賠償金が課され、国家財政を破綻させていきます。その支払いの一部である関税を牛耳ったのが英国人ロバート=ハートで、海関の総税務司の地位(1863-1908)にあり清朝の財政をほぼ滅亡まで牛耳った男です。
 また勢力圏が設定され、その圏内に鉄道が敷設されていきました。この鉄道敷設権には鉄道付属地(railway zone)が付いていて、線路の両側および駅周辺一帯の鉱山開発・徴税権・司法権・警察権・行政権が付属したため、鉄道を敷設することはそのままそこを植民地化することを意味しました。これでは中国人からすれば、先祖からの土地に土足で入ってきて墓地を壊し鉱山を奪った列強は許せない、ということになります。そのために鉄道守備隊が置かれましたが、その一例がかの「関東軍」です。
 こうしたことから、資本家による利権回収運動がおき、いくつもの革命団体ができていきました。

第2問
A 空欄と下線設問は出てくる順に説明します。
(1) この王朝「殷」よりも前に存在し、殷によって滅ぼされたとされる伝説上の王朝の名……日本では今ひとつ認知されていませんが、中国では実在のものとして禹の建国した夏王朝を発表しています。殷の遺跡とされていた二里岡を夏の遺跡とみなすようになりました。わたしは京都市内で夏王朝の子孫です、という留学生に会ったことがあります。
(2) 
 (ア) このとき(前132年)の皇帝は誰か……『世界史年代ワンフレーズnew』で覚えているひとは簡単でした。武帝は「東1洋4一1〜鼻87高い」です。
 (イ) 物資を貯蔵して価格が高騰すると売り出し、下がると購入するという新政策……「時」をかせいで利益をあげる方法で、平準法といいます。均輸法は安い「所」で買って高い所に売る方法です。
(3) この(呉)王朝の建国者であり、初代皇帝……長江下流域に建国したのは孫権です。
(4) 「晋では帝位をめぐって一族の争……この内乱」なので、八王の乱です。これは年代がばらばらで今も定まっていません。一応300年前後。
 空欄a 晋が南渡しての都は今の南京にあたる建康です。呉(ご)のときは建業(ぎ)といいました。
(5) 「隋王朝が大運河」……当時朝鮮半島の北部に都を置いていた国……とは、大運河を完成した隋煬帝で、遠征先の名は高句麗です。
 空欄b 何か難問のようですが、五代の最初の王朝名をあげればいいです。朱全忠は長安から開封(汴京)に遷都しました。五代:後梁後唐後晉後漢後周のうち4番目の後唐だけが洛陽を都にしましたが、後はみな開封です。
(6) 
 (ア) この事件(皇帝とその父である前皇帝を捕らえ北方に連れ去った)を何……ときの元号で呼ぶ「靖康の変」です。
 (イ) 金と南宋の国境とされた川……黄河と長江の間にある淮水です。
(7) モンゴル統治下で……「ザイトン」の名で紹介された福建省の港湾都市……は細かいが用語集の説明には載ってます。泉州です。南宋の都は仮の都であったため「キンザイ(行在)」と元代でも呼ばれました。

 空欄c 「明王朝は[ c ]帝の時に都を北京に遷」だから永楽帝。
(8) 「1449年、土木堡……オイラト部を率いていた指導者」ということなのでエセン=ハン。タタールのアルタン=ハンとまちがえないように。オエ・タア、の順。
 空欄d 「大運河が再び」とは内陸交通ということで、これは外に対してどうしたのか、と問うています。海禁(鎖国)政策です。
(9) 「湘軍を率いて太平天国の平定にあたり、この運動の中心ともなった人物」ということで曾国藩か李鴻章か。曾と湘をくつつけて「そうしょう」と覚えておくといい。
B
 空欄e ムハンマドの生誕地を問うています。メッカ(マッカ)です。
(10) 「五行」信仰告白、礼拝、断食、喜捨に欠けているものを問うています。(メッカ)巡礼ですね。メッカにあるカーバ神殿の周りをぐるぐる回ってくる業です。
(11) 「622年」がヒントです。メッカからヒジュラ(聖遷)をして問題文にうるウンマを形成した都市で、正統カリフ時代の都でもあります。メディナ(ヤスリブ)です。
(12) 「第2代正統カリフ……大征服を指導した人物」は大征服者と称されるひと。ササン朝ペルシア帝国を破り、ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪ったためです。ウマル(オマル)。
(13) 「1258年にバグダードを攻略し」だからフラグ。
 空欄f これは下でも[ f ]の党派(シーア)」とでてくるようなひと。アリーです。シーア派のことをアリー派、アリーの分派(シーアの意味)ともいいます。
(14) 問題文の事件は「カルバラーの戦い」として知られ(680)、ウマイヤ朝がアリー家を打倒(虐殺)したものです。設問文の「1802年……襲撃」はスンナ派の過激派であるワッハーブ派の起した事件です。
 (ア) ワッハーブ派が「復古主義的」とされるのは宗教の常で、時間が経つと宗教は腐敗していると指摘して「元に帰れ」という運動がよく起きます。キリスト教でもルターから始まる宗教改革がそうであり、イスラーム教ではこの他に、ムラービト戦士、マフディーの乱、現在の種々の原理主義(是正)運動であるアルカイダ、イスラーム国(ISIS)なども復古を唱えています。
 (ィ) 「1932年アラビア半島に建国された国家は何か」はかんたんすぎる問題。「アラビア砂漠、引1く9水32」だ(『世界史年代ワンフレーズnew』)。
(15) 「北アフリカの代表的な遊牧民で、イドリース朝やファーティマ朝建国の支持基盤となった民族」という設問で分かりにくいとしても下線部の「モロッコ」でベルベル人と分かります。「支持基盤」がベルベル人であって二つの王朝の創設者はアラブ人らしい。
 空欄g 「シーア派……ファーティマ朝」の興った地名なのでチュニジア。北アフリカのど真ん中にあり、ここから東方の征服に向かいエジプトを占領してカイロをつくった王朝です。イスマイール派というシーア派のなかの少数派です。
(16) 「ファーティマ朝を滅亡させ……た人物」は第3回十字軍で西欧勢力に勝利した人物、サラディン。何かふてぶてしい恰好のすがたの絵が教科書には載ってます。
(17)
 (ア) 「滅ぼされた王朝」は「16世紀初頭まで……中央アジアから西アジアにかけての地域を広く支配していた」であり、サマルカンドがその都です。ティムール帝国(朝)です。
 (イ) 「1526年北インドでムガル朝を建てることになった人物」と創設者の名を問うています。バーブルですね。ティムール帝国の復活を企図して蜂起して失敗し、アフガニスタンでもうまく行かず、荒れているインドに向かい成功しました。
(18) 第3代から5代ので寛容な政策をとっていたのに「第6代君主で、厳格なスンナ派政策を採り、デカン地方に領土を拡大した人物は誰か」という問い。アウラングゼーブです。かれに会見してその宮廷と帝国を描いたフランス人・ベルニエの『ムガル帝国誌』(岩波文庫)は面白い本です。この皇帝のずるがしこさがよく描かれています。
(19) 「イスラーム革命で打倒された王朝」は1925年にできた二人だけの王朝・パフレヴィー朝です。

第3問
 課題は「前3世紀から前1世紀にかけて生じたローマ国家の軍隊と政治体制の最も重要な変化を」でした。こういう課題になると流れとして書いて終わってしまいやすく、どこがどう変化したのかハッキリしない答案を書きがちです。予備校の解答例を見ればそれが分かるでしょう。
 「元老院を中心とする共和政……事実上一人で権限を掌握する元首政」
「元老院の指導下で市民団の共和政……事実上の帝政である元首政」
「共和政……事実上共和政から帝政に変化」
といった具合。途中いろいろな経緯(流れ)を書いて、結局は共和政から帝政へということを書いていて、間違いではないものの、これでOKでしょうか? 導入文には「都市国家から……大国家」という拡大に関して共和政から帝政だけでなく、なにより市民権の拡大が伴っていたはずです。市民権がどうであったのかは古代史の基本です。「ローマ人のイタリア外での活動や市民団の変化に」という過去問(2000)がありました。この前3〜前1世紀のなかで、それまで分割統治で都市の地位を3区分してきたのを止め、とくに同盟市戦争で半島全域に市民権が拡大し、それ以外の征服地は属州という明快な区分をしました。政治体制といった場合、たんに中央のトップが誰か、ということだけでなく、地方(国全体)はどうしたのか、ということも入ります。中国史なら封建制から郡県制へという変化が政治「体制」であるように。古代の政治体制としてはこれは基本ですね。しかしそうした解答は見られませんでした。
 もう一つの課題である軍隊の「変化」もハッキリしない解答ばかりでした。前3世紀、つまりポエニ戦争開始期のローマ軍のあり方がどうであったかの言及がなく、
「武装自弁で重装歩兵……傭兵とする兵制改革」
「重装歩兵を軍隊の中心……職業軍人制をマリウスが導入」
「重装歩兵を中心……無産市民を集めた私兵軍団」
といった解答例で、どこにも重装歩兵と書いてあり、その後はそうでなくなるのでしょうか? 傭兵も職業軍人も私兵も重装歩兵ではない? もちろん重装歩兵のままです。傭兵・職業軍人・私兵と対のことばは義務兵役(制)ということです。
 また「傭兵」はまぎらわしい用語で、正しくありません。傭兵とは金雇い兵で、たいてい外国人がなるものです。しかしローマ軍の場合は金をあたえるのではなく、まず武器を与え、退役した兵士に土地を与えるものです。また外国人、つまりローマ市民権をもっている人間を集めているのであって外国人、つまりローマ市民権をもっていないひとたちではありません。一部にはあり、退役とともに市民権を与えています。正しくはローマ市民による志願(兵制)です。
 また「内乱の一世紀」といいながら領土拡大に成功した将軍たちは志願兵たちを私兵化していったため、それが三頭政治を生みました。最終的に一人の将軍の支配、元首制・帝政になったのですが、軍隊はどうなったのでしょうか? 常備軍・親衛隊をつくることになりました。戦時の志願ではなく、平時も特別に訓練している軍隊を所有することに変えたのです。30万の常備軍はいずれディオクレティアヌスのときには70万に増やします。教科書に書いてあるドミナトゥスによる軍隊の増強とは、この常備軍の増強のことです。常備軍について書いた例も皆無でした。

第4問
A
(1) 「11、12世紀にイタリア都市の繁栄を促した要因」とは、いくつも挙げることができます。まず10世紀までのノルマン人の商業活動が土台になっていること(「ノルマン人の商業活動によって、おとろえていた貨幣経済が息を吹き返した」詳説)、農業技術革新(三圃制普及・重量有輪犁使用・水車風車の利用)による余剰生産物の増産、この増産による人口増加、十字軍による東地中海貿易・巡礼の刺激、全欧的活動を奨励する教皇権の高まり、などです。
(2) フランドル地方の都市発展の最も重要な基盤となった産業は、毛織物工業ですね。ガン・ブルージュ・イーペルなどの都市はみなこの工業でした。イギリスの原毛がここに輸入されていて、百年戦争でここが戦場になると、多くが技術者がイギリスに亡命し、その技術を伝えたため、イギリスが毛織物工業国に変貌します。
(3) ギルド、ツンフトなどと呼ばれる手工業者の同職組合の正式構成員は、親方です。マスターピース(傑作)を作る能力のひとです。
(4) 「三圃農法の成立にとって重要な役割を果たした農具の名」という問い方はまちがいでしょう。「成立」でなく「普及」です。三圃制は早くは7〜8世紀からあり、その地域はフランス北部からフランドルにかけてです。カロリング朝の根拠地です。しかし、問うている重量有輪犁(ヘビー・プラウ)は11世紀以降から出現します。「12世紀ごろから,農業技術の改善がなされ,鉄製農具や有輪犂が普及し,牛馬に農具を引かせる方法も改良された。さらに,三圃制の農法が多くの地域に普及して,農業生産力は著しく向上した」(東京書籍)。たんに有輪犁ということなら、8世紀からあるから、「重量」を付けたらまちがいにするのか?
(5) 「1250年代に、ドイツ(神聖ローマ帝国)における政治的混乱……危機の時代を何と呼ぶか」は大空位時代という大げさな表現のもの。ヘンリ3世の弟リチャードが立候補し、選帝侯に金をばらまいたものの、シモン=ド=モンフォールの反乱がおきて捕まり、候補者としての権威が失墜しました。
(6) 「1295年の「模範議会」には大貴族・高位聖職者の他の代表はどのような人々か」ということで、騎士と市民の代表です。ここでフランスの三部会とちがうのは、下位聖職者がどちらにも参加していないことです。下位聖職者は別の会議をもったためです。
(7) 「七選帝侯による皇帝選挙などを定めた14世紀の皇帝文書」は金印勅書(黄金文書)といわれるものです。
(8) 「特権を守ろうとする貴族の抵抗の拠点となった司法機関」といいながら、純粋な司法機関でなく行政面の機能ももっていました。名前は高等法院といういかにも裁判所のような名ですが。
B
(9) フィリップ4世によって「南フランスにあるこの都市」、アヴイニョンに移されました。
(10) 「領邦教会制とはどういうものか。簡潔に」という問い。領邦君主が領邦内の信仰を決定する権力をもった状態です。イギリスが国教会といって国王に信仰の決定権、信徒の頭(首長法)になるのと同様に、ドイツの小国家・領邦がそれぞれバラバラに信仰を決定するモザイク的な分裂状態になります。
(11) 「ビスマルクは、ドイツ南部を基盤とするカトリック教会を、国家の統制下に置こうとする政策」は文化闘争です。なぜ「文化」なのか。カトリック教徒はローマ教皇を長として崇めている非ドイツ的な傾向をもっているから、ドイツの文化に傾倒すべき、と「ドイツ的であれ」と強調して、ルター派のプロイセンと対立しました。聖職者になる国家の資格試験を受けないといけない、ビスマルクの演説を批判するな、という圧力です。自民党は日本の教員資格を「国家免許化」しようとしていますが、統制の意図が隠れています。
(12) 「北部7州は同盟して戦争を継続した。この同盟」はユトレヒト同盟です。この同盟の結ばれた初期は南部の都市がまだ参加していましたが、弾圧がはげしく脱落し、北部の都市に亡命していったため、南部はカトリックばかりになりました。初めからカトリックではなく、むしろカルヴァン派が多かった。南部にあたる問(2)のフランドル地方の都市にこそカルヴァン派が普及していました。
(13) 「1572年、多数のユグノ一派の人々が殺害された事件」『世界史年代ワンフレーズnew』では「サンバ、非1行5、夏72」と語呂のあるサン=バルテルミの虐殺です。パリ市だけで3000人以上が殺された「非行」です。8月24日でしたから、ほんとに「夏」でした。
(14) 「中国で布教にあたったイエズス会と他の修道会……論争(問題)」は典礼問題ですね。典礼という中国人にとっての宗教儀礼(天帝・孔子・先祖への祭礼)に中国人クリスチャンが参加していいかどうか、という問題ですが、それは西欧人キリスト教徒にとって中国人の考える神はほんとうに神なのか、ということをめぐる西欧人同士の論争でもありました。キリスト教の神は人格神ですが、中国の神に人格はあるのか?
(15) 「こうした宗派に所属した人々」改革派とはピューリタンというカルヴァン派のイギリス的な表現です。で「1620年にメイフラワ一号に乗船して、北米大陸に移住したものもあった。この人々は後に何と呼ばれたか」ということでピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)ですね。
(16) まわりくどい問い方をしていますが、「1689年」にすでにイギリス国王になっている人物です。名誉革命で就任したのはウィリアム3世。
(17) 北アイルランドでは答えにはならないでしょう。アルスター(地方)がいいです。
C
(18) 「19世紀初め(1804)に黒人共和国が生まれた。この共和国の成立の経緯について簡潔に」……といっても不可欠なのは独立国名のハイチ(ハイティ)、指導者のトゥサン=ルーベルチュール、本国・フランスの革命の混乱が背景、といった点です。加えるとすれば、奴隷の反乱が契機であり、これが伝わってフランスは奴隷制の廃止をきめたが、その後ナポレオン1世の鎮圧軍(2万5000の兵)が送られたこと、それを撃退して独立したことなどです。トゥサンは捕まり獄死しますが、後継者が運動をひきつぎ独立にこぎつけました。
(19) 「アメリカ合衆国は20世紀を通じて(パナマ)運河に対してどのような関係を持ったか」……下線部「ラテンアメリカに対する経済的・軍事的な影響力を増していった」とあるので、ラテンアメリカ支配の拠点であり、20世紀の主な事件をあげるといいでしょう。第一次世界大戦直前に完成、30〜40年代の大恐慌のときは善隣外交を、冷戦時は米軍の基地がおかれ、ソ連・キューバと対決する中で反米運動がおきた。新パナマ運河条約(1977)に返還を約束したが、ノリエガ将軍をクーデタで排除するような干渉政策をとり(1989)、やっと返還した(1999)こと。
(20) 「アメリカ合衆国は同じ時期に太平洋で領土を拡大し、のちに自国の一州とした。その場所」……スペイン領でないところで同時期とすれば、独立国ハワイが該当します。アメリカ側の謝罪文にさいごの女王リリウォカラーニの恨みの言葉を載せているところが誠実です。
http://www.hawaii-nation.org/publawall.html
(21) 「アフガーニーの影響を受け、19世紀末のイランで発生したナショナリズムの運動」……はタバコ・ボイコット運動です。タバコ利権は回収できましたが、この利権を認めたナーセロッディーン・シャーは、アフガーニーの弟子の手によって暗殺されました(1896)。
(22) 「ウラービーの運動は、エジプトのどのような現状を批判し、何を目指したものであったか」……エジプトが政治的・軍事的に半植民地化していく現状。経済的に王朝は負債をかかえていて返済ができず、英仏が財政を管理するような状態になっていました。これは清朝末期とよく似ています(第1問)。それに対して政治的経済的な独立を求めた運動。
(23) ガーナは独立するまでどの国の植民地であったか。イギリス領になる前はポルトガルが最初に植民し、デンマークもオランダもやって来たが、19世紀初めにすべて買収して英領ゴールド・コーストといいました。それが独立して、かつて8世紀にニジェール川中流にあったガーナ王国の名を再興したものです。独立の指導者は輝く顔をしたエンクルマ。ブラックアフリカ最初の独立国としても知られています(1957、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂「蛾ない、毒19こ5な7い」)。
(24) 「アフリカ統一機構は、……その際にモデルとされた地域統合組織の名」とすれば、このOAUがアフリカ連合(AU)に代わったのは、西欧の地域統合組織、つまりヨーロッパ連合(EU)がモデルです。