世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2015

第1問
 近年、13〜14世紀を「モンゴル時代」ととらえる見方が提唱されている。それは、「大航海時代」に先立つこの時代に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を統合したことによって、広域にわたる交通・商業ネットワークが形成され、人・モノ・カネ・情報がさかんに行きかうようになったことを重視した考え方である。そのような広域交流は、帝国の領域をこえて南シナ海・インド洋や地中海方面にも広がり、西アジア・北アフリカやヨーロッパまでをも結びつけた。
 以上のことを踏まえて、この時代に、東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域において見られた交流の諸相について、経済的および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお、( )で並記した語句は、どちらを用いてもよい。

 ジャムチ 授時暦 染付(染付磁器) ダウ船 東方貿易 博多 ペスト(黒死病) モンテ=コルヴィノ 

第2問
 国家の法と統治に関する、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ローマ法は、古代末期に編纂された(a)法の集大成」を通じて、11世紀に西ヨーロッパで再発見された。その後、ローマ法の影響を受けて、(b)13世紀末〜14世紀初頭にイギリスやフランスでは、共通した方向性をもっ代表機関が生まれた」。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) この法の集大成の編纂を命じた君主の名前①と、編纂の中心にいた法学者の名前②を、それぞれ行を改め、冒頭に①・②を付して記しなさい。

 (b) この時期に生まれてくる国政にかかわる代表機関の性格ならびに君主との関係について、その代表機関の名称を1つはあげながら、2行以内で説明しなさい。

問(2) 唐の時代の中国では、成文法の体系化が進み、それにもとづいて国家の支配体制が構築された。中央には三省・六部を中核とする官制が整備され、地方には州県制がおこなわれた。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) この時代の法体系は、内容的にみて大きく4種類に区分できる。そのすべての名称と具体的な内容について、2行以内で説明しなさい。

 (b) 三省は、それぞれ役割を分担しながら国家統治を実現していた。皇帝の発する詔勅は三省の間でどのように処理され、また三省と六部とはどのような関係にあったのか、2行以内で説明しなさい。

問(3) ロシアでは20世紀初頭まで皇帝が専制権力を保持した。これに対して革命運動の指導者や開明的な官僚や知識人は、憲法の制定が専制権力の抑制につながると考えた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 『大尉の娘』の作者①は立憲主義的な運動に関心をよせ、専制に批判的な作品を書いた。また、『父と子』の作者②は19世紀後半の農奴解放に影響を与えたが、そうした改革の動きは憲法草案の作成につながっていった。作家①と②の名前を、それぞれ行を改め、冒頭に①・②を付して記しなさい。

 (b) 1905年に起こった第1次革命において、自由主義者による立憲主義を理想とする改革要求に対して、皇帝ニコライ2世はどのように対応したか。皇帝が発した文書の名称に触れながら、2行以内で説明しなさい。

第3問
 ユネスコの世界記憶遺産は、昨年、日本から南九州市の知覧特攻隊遺書、中国から南京事件および、慰安婦に関する資料、韓国から慰安婦に関する資料の登録の動きがあり、話題を集めた。記憶遺産は、人類の歴史を後世に伝える直筆文書、書籍、絵画、地図、音楽、写真、映画などの貴重資料を登録・保護するものである。記憶遺産に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(1印の番号を付して記しなさい。

問(1) 記憶遺産登録のハリウッド映画『オズの魔法使』(1939年)を制作したメトロ=ゴールドウィン=メイヤ一社は、総力戦体制の下で戦時プロパガンダ的な作品を制作したことでも知られる。アメリカ政府がヨーロッパ情勢にかんがみて、1941年にイギリス支援のために成立させた法律の名称を記しなさい。

問(2) チリの記憶遺産の中に、南米で活発な宣教活動にあたった宗教教団に関連する文書群がある。1534年に設立され、1540年に教皇から認可されたこの教団の名称を答えなさい。

問(3) 韓国では光州事件に関連する文書群が記憶遺産に登録されている。この民主化運動の弾圧を指示した軍人で、後に大統領となった人物の名前を記しなさい。

問(4) 清の科挙合格者名を記した掲示物が記憶遺産に登録された。官僚制の近代化を図るために科挙の廃止を主張し、西洋式の新建陸軍の創設にも大きな役割をはたした清末の政治家の名前を記しなさい。

問(5) 19世紀以降、植民地支配は東南アジアに及んだが、タイだけは独立を維持した。軍事・行政・司法の近代化を推進して、現在のラタナコーシン朝(チャクリ朝、バンコク朝)の礎を作り、その治世の記録が記憶遺産に登録されている王の名前を記しなさい。

問(6) オランダ東インド会社に関する記録は、スリランカ、インドネシア、インドの3カ国から記憶遺産に登録されている。オランダ東インド会社の活動は約200年に及んだが、オランダ本国が占領されたことを契機に解散した。その占領者の名前を記しなさい。

問(7) ヒンドゥー教のシヴァ神に関連する文書群がインドの記憶遺産に登録されている。この文書群は現在、インド南部にある、フランス植民地の中心だった都市に保管されている。この都市名を記しなさい。

問(8) スエズ運河は記憶遺産に登録されている。第二次世界大戦後の民族独立運動の高まりの中でスエズ運河の国有化を宣言し、イギリス、フランス、イスラエルと戦った大統領の名前を記しなさい。

問(9) 記憶遺産に登録されている1507年刊行の世界地図は、世界地図にアメリカという名称が初めて記載されたことで知られている。この地図の図法には、地球中心の天動説を唱えた2世紀の天文・数学者の影響が色濃く見られる。この人物の名前を記しなさい。

問(10) 1940年6月に放送されたあるBBC演説は、レジスタンスの重要な音声記録として記憶遺産となっている。自由フランス政府を組織し、この演説を通して、亡命先のロンドンから対独抗戦を宣言した指導者の名前を記しなさい。

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コメント
第1問
 初めの段落は導入文です。次の段落が課題文です。導入文には「モンゴル時代」という 13〜14世紀という時代の「広域交流」に注意を喚起させて、課題文では「この時代」、つまり「13〜14世紀」に、「東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域」、つまりユーラシア大陸(導入文では北アフリカも含む)で見られた「交流の諸相」について、と地域の指定をしています。それを「経済的および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて」とテーマをしぼらせる設問をしています。つまり政治は要らないということです。東大は政治史をほとんど出さない出題傾向をもっていますが、それがここにも現れています。
 予備校の解答例では「モンゴル時代」ということばに縛られてかモンゴル帝国内の交流にこだわったものが見られます。導入文で「帝国の領域をこえて」、課題文ではモンゴル帝国に入らなかった「東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域」とわざわざ書いてあるので、帝国にこだわる必要はないはずです。それに過去問には帝国にこだわった問題がすでにありました(1994-1)。それは「モンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について、宗教・民族・文化などに注目しながら論ぜよ」という問題で、この問題を真面目にとればけっこう難問でした。
 今年の問題は、この時代の広域交流について書けばいいので、帝国外の交流も含めて、どれだけ「広く」書けるか、描けるかが眼目です。「広域に……広域交流……帝国の領域をこえて……広域に」ということですから。指定語句も帝国外の「ダウ船 東方貿易 博多 ペスト(黒死病)」があげてあります。
 こうした漠然とした地域の問題は、前から提唱しているように地図をかんたんに描いてみる、というのが構想メモの一つです。この略図で各地の交流例をメモしていく。解答文も地域毎に書く、というやり方です。
 地域毎にというやり方をもっとまとめて、陸路と海路に分けて書くのももう一つの書き方です。海路なら長崎港だけでなく、釜山・泉州・広州・マラッカ……とあげていく。
 また問題文を利用して「人・モノ・カネ・情報」に分けて書くのも一つです。人と情報(宗教)は関連して書きやすいので一緒にし、モノとカネ(経済)も関連しやすいので、これを二つめの「くくり」とする、という構想です。自分にとって書きやすい書き方で構想メモをつくってください。

 ここでは「人・情報」と「モノ・カネ」に分けて説明します。
 この場合の人は個人だけでなく民族もあります。該当する時代にもっともいろいろな民族が集まった街をあげるとすればティムール帝国の都サマルカンドでしょう。サマルカンドを中心に大陸を見回すと東は中国、西はロシアからドイツ、南はインドに通ずる「Y」字形の大交通路の要衝でした(護雅夫の説)。ここにトルコ人・アラブ人・ペルシア人・ウイグル人・中国人が集まりました。
 次は元代の泉州でしょうか。イブン=バトゥータが書いているように、すでにアラブ人が蕃坊に住んでいて、東南アジアや南アジア・西アジアからムスリム商人が来航しています。泉州のことではムスリム商人の蒲寿庚一族のことを書いてます。広州にもムスリムの蕃坊があったと。
 西方では、この時代はバグダードが衰えてカイロに貿易の中心が移る時期です。当然ながらムスリム商人が、中でもインドとカイロの間をつなぐムスリム商人で「カーリミー商人」と呼ばれたひとびとがいます。インド側でかれらと交易したのはグジャラート商人です。インド西北にあるグジャラート半島の商人のことです。カイロには西欧のイタリア人商人も来ています。なかでもヴェネツィア商人たちにとって繁栄の源泉でした。カイロにはヴェネツィア共和国の領事が駐在していました。
 アフリカ西部マリ王国のマンサ=ムーサ(在位1312〜37)がカイロに来たように、アフリカ内陸と北の沿岸との交易が確かめられます。イスラム化したマリ王国のひとびとはメッカへの巡礼を兼ねて東方に向かっています。
 西欧だけとれば商業ルネサンスの時期と重なっています。シャンパーニュには北から南から商人たちが集まりました。アッシジのフランチェスコの父は織物を売る商人としてここによく来ていて、フランスに惚れ、フランス人の女性と結婚して息子をもうけ、息子に「フランス人」という意味のフランチェスコを命名しました。
 個人としての人は、指定語句のモンテ=コルヴィノ(1294年大都に到着)がおり、コルヴィノが送った「カンハリク通信」は西欧の商業と伝道を兼ねた活動の道を開いたものです。かれの後任であったマリニョーリ(1342年大都に到着、山川用語集に記載)も大都に来ており、後に皇帝カール4世(金印勅書の人)に招かれ『ボヘミア年代記』を書き、その中に東方旅行に触れています。教皇に派遣されたコルヴィノが訪中したのは、中国からラバン=ソーマが来て(1287)、中国への宣教師派遣を願ったからでした。このソーマ(サウマ)のことは『詳解世界史用語事典』に載っています。そこには「?〜1294 大都生まれのネストリウス派の宣教師。イル=ハン国王の命で1287年教皇や英・仏両国王のもとへ派遣された。マムルーク朝を挟撃することを策したが、西欧側にその意志がなく失敗に終わった」とあります。この英仏の国王とは、フランスに来ていたエドワード3世のことであり、フランスの国王はフィリップ4世のことで、双方とも議会史で名高い。
 もちろんコルヴィノが来る前にマルコ=ポーロ一行が来ており、更にその前にカラコルムに来た、フランチェスコ派修道士カルピニとルブルクがおり、それぞれグユク=ハンとモンケ=ハンに会っています。この他に同派のオドリク(1325年大都到着)もいます。
 イスラーム側から来たのはイブン=バトゥータで『三大陸周遊記』を著していて、その後はアフリカ旅行をしており、サハラ砂漠での奴隷貿易を目撃しています。
 この人・民族の移動によって「文化的(宗教を含む)」な情報も伝わりました。イスラーム教とキリスト教の伝播は上のひとびとによって伝わりました。帝国周辺では、ガーナ王国がムラービト朝に滅ぼされてから流布し、マリ王国はイスラーム教王朝として栄えました。中心市トンブクトゥにも多くのモスク・マドラサが建てられました。
 イル=ハン国の7代ガザン=ハンによるイスラーム教国教化は名高い事例です。イスラーム化はキプチャク=ハン国でもチャガタイ=ハン国にでも見られました。
 南アジアはデリー=スルタン朝時代ですが、ガズナ朝・ゴール朝とちがって大半はヒンドゥー教徒にたいし寛容な政策をとったため改宗がすすみました。デリー諸王朝は都市の占領とともにヒンドゥー教徒の下層民を城内に入れ、かれらから徴兵したそうです(『世界の歴史14』中央公論社 p.95)。王朝側としてはかれらの利用を考え、一方のヒンドゥー教徒はこれをチャンスと考え脱却を望んでの改宗です。またこの寛容策は、官僚として多数のインド・ムスリム(ヒンドゥー教からの改宗者)を登用することにも現われました(前掲書 p.62)。
 元朝ではチンギス=ハン以来、ホラズム王国やイランから、イスラム教徒である捕虜を大量にモンゴルや中国北部に移住させて使役してきました。それは元朝でも受けつがれ、ウイグル人を主にムスリムが色目人に組み込まれました。ムスリムを工匠とする絹織物の国営工場が建てられ、住みついて中国化したムスリム詩人は数百人を数えるそうです(編集・嶋田襄平『東西文明の交流3(イスラム帝国の遺産)』平凡社 p.252)。
 意外かも知れませんが、バルト三国の地域にキリスト教が伝わったのもこの13〜14世紀です。遅いです。ドイツ騎士団との興亡とポーランドによる併合、それに対する反撃を通して次第にキリスト教化しました。
 東南アジアに大乗仏教(上座部仏教)が浸透するのもこの13〜14世紀です。早くは11世紀のパガン朝がスリランカから導入していますが、その後は、タイのスコータイ朝が13世紀末、ラーマカムへン王の代(位1275頃〜99/1317頃)に上座部仏教を国教に定めています。カンボジアのアンコール朝がヒンドゥー教から大乗仏教に代わるのは14世紀です。
 宗教以外の情報でも交流は盛んでした。文字に関しては、チベット系文字(インド文字が源流)を摸したパスパ文字、ウイグル文字を元にしたモンゴル文字の作成、漢字をもとにしたチュノム(字喃)が作成されました。
 高麗の印字としては『高麗版大蔵経(高麗八萬大蔵経)』も印刷遺産として特異なものです。
 ではミニアチュール(細密画)が知られています。中国(宋元)の画法がイル=ハン国に伝えられて、本の挿絵として発展したものでした。なおパドヴァのアレーナ(スクロヴェーニ)礼拝堂に青紫の鮮やかな正面壁画があり、その隅にパスパ文字が描いてあります。これを描いたのはルネサンス絵画の先駆者ジョットーです。しかしなぜ北イタリアにパスパ文字があるのか謎です。
 指定語句の「染付(染付磁器)」は、中国では「青花(釉裏青)」といわれるもので、原料はペルシア方面から輸入された蘇麻離青(スマリチン/スポニチン)と呼ぶ青料(酸化コバルトの顔料)を用いたもの。それを使って元代に完成された陶磁器です。
 「アラビアの天文学をとりいれて郭守敬は授時暦をつくった」と教科書(詳説)に書いてあり、このように書いて得点はあります。が、中国科学史の権威・薮内清は授時暦の内容にはイスラム的要素はないとは指摘しています(薮内清『中国の天文勝法』──これは孫引き)。

 こんどは「モノ・カネ」に移りましょう。
 東アジア。日本からは銅・硫黄・刀剣・漆器・扇などが輸出されました。
 朝鮮(高麗)からは金銀細工品・薬用人参・花ござ・漆器・紙・筆・硯(すずり)などを輸出した。
 中国からは絹織物・硝石・硫黄・銅および銅製品・鉄および鉄製品・箱・玉石・陶磁器(染付)・書籍・楽器・貨幣・生糸などが出ています。
 東南アジアでは食料品(米・塩・魚の干物・ココヤシの果実・野菜)の他に、アユタヤの香料・象牙・宝飾品、ジャワ島の金・トパーズ・タマリンド・カルダモン・織物・奴隷、スマトラ島の胡椒・金・生糸・香料・蜂蜜、モルッカ諸島の香辛料(クローブ)、バンダ諸島のナツメグ・メースなどが輸出されました。他にサイの角,真珠,タイマイ(ウミガメの一種)などもあります。
 中央アジアのサマルカンドから。工芸品として絨毬・刺繍・金銀細工・絵画・毛皮・紙・ガラス器・陶器・武具などが輸出されました。高昌(トルファン)のワインもあります。
 インドからは香辛料(カルダモン・シナモン)・象牙・真珠・綿布・砂糖・鉄製品などが出ていきました。
 西アジアから出たのは、エジプトの亜麻・フェルトの他に化学薬品(アルカリ・明磐・アンチモン・砒素・硫黄・澱粉・硫酸)・綿布などがあり、チュニジアからはオリーブ油・石鹸・油脂・装飾材料(ビーズ・珊瑚・カメオ・亀甲)・乾果実・皮革類などです。
 ヨーロッパ側の商品は、金・銀・銅・水銀・鉛・錫・塩・ワイン・木材や家具類・錦織・チーズ・蜂蜜、それに奴隷がありました。
 詳しめに商品を書き並べましたが、これらの主なものは教科書本文にのっていますし、図説などにものっています。

 運んだのが建長寺船、天竜寺船、ラクダ、ダウ船、ジャンク船、ガレー船です。
 交換手段としては金・銀・銅銭・紙幣(交鈔)があります。

 時期は西欧では商業ルネサンスであり、カイロのマムルーク朝とインド・グジャラート半島の交易が盛んで、陸路はステップ・ルートもシルクロードも海の道もともに栄えていました。これらの準備されたルートの外に、アメリカ大陸も含む五大陸間貿易が西欧主導で16世紀からはじまります。

第2問
問(1)
 (a) ①「ローマ法は、古代末期に編纂された」法の集大成の編纂を命じた君主の名前……という問い方は正しいのか? 解答のユスティニアヌス帝は6世紀(527〜565)の皇帝であり、この時期は一般に中世に入っています。教科書でもゲルマン大移動の後に書いてあり、本来は「中世初期」がふさわしい。といってローマ法の編纂(大全の公布は534年)といえば、これしか教科書には書いてないので、文句を言わず、ユスティニアヌスをあげる他はない。かれはラテン語だけでなくギリシア語の大全も作成させていて、すでに公用語が事実上ギリシア語になっている状況を考慮していた。これについて山川の『改訂版・詳説世界史論述問題集』の解答批判(http://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2013/08/01/改訂版・詳説世界史論述問題集 ここのp.11)をごらんください。
 ② 法学者の名前はトリボニアヌス。10人の委員の長でした。長にしてはキリスト教徒ではなく、ワイロを当り前にしている怪しい男でしたが、法知識の豊富さゆえに採用されたとのこと(井上浩一『生き残ったビザンティン帝国』講談社現代新書、p.80)。

 (b) 下線部「13世紀末〜14世紀初頭にイギリスやフランスでは、共通した方向性をもつ代表機関が生まれた」代表機関の性格ならびに君主との関係について、その代表機関の名称を1つはあげながら……という問い。
 イギリスなら模範議会、貴族院・庶民院、シモン=ド=モンフォールの議会、フランスなら三部会です。
 「性格」は諸身分の代表者が集まる会議で、身分制に立脚している。第三身分(庶民)とてすべての第三身分の代表ではなく、都市の親方たちの代表(フランス革命のときなら資本家・弁護士)。いうまでもなく選挙権は普及しておらず全国民の代表ではありません。
 「君主との関係」では、王側は諸身分の特権維持、その代わり諸身分は君主の課税要求に応じる、という予算委員会のようなのものが議題の主であったこと。課税協賛機関ともいいます。国王としては全国からの課税による税収増があり、これで常備軍・官僚が養えますから権力集中の手段でもありました。

問(2) 
 (a) この時代(唐)の法体系は、内容的にみて大きく4種類に区分できる。そのすべての名称と具体的な内容……律令格式という4種類名をあげ、律は刑法、令は行政法・民法、格は臨時の法や補充改正規定、式は施行細則、というのが用語集の説明。これで充分です。このうち唐は「令」が中心的な内容(三省六部、均田法・府兵制)ですが、律を重視した従来の順で、「律令」と並んでいます。

 (b) 「皇帝の発する詔勅は三省の間でどのように処理され、また三省と六部とはどのような関係にあったのか」という問い。これは拙著『世界史論述練習帳new』の巻末「基本60字」の中国史・政治・11に「唐の政治体制を説明せよ〔貴族 門下省〕」というのがあり、「門閥貴族は封駁(ふうばく)権といい、中書省からくる詔勅の欠陥を指摘して反対意見を具申する権利をもっていた」と指摘しています。この部分が三省の中でも「処理」の核になるところです。封駁権は逆送権ともいい、皇帝一人の判断では立法はできず、門閥貴族のお墨付きを必要としました。この点は、宋になってできる皇帝独裁にまではいたっておらず、まだ皇帝貴族合議制でした。三省の順は、中書省(詔勅の起草──皇帝の考えを聞いて法案をつくる機関)→門下省(詔勅の審議)→尚書省(中書省と門下省の二つの機関を通過した判を確認して実行する機関)→六部(六つに分かれた部署で実行する)。

問(3) 「ロシアでは20世紀初頭まで皇帝が専制権力を保持」というのは、じゃどのようにやったのかが分かりにくい。ですが、和田春樹(東大名誉教授)の『日露戦争(上下)』(岩波書店)には決済の場面がよく描かれているので読まれると浮かんできます。唐と貴族の関係よりずっとロシア皇帝の権威は高く、大臣たちの意見を具申・上奏させて、関係する大臣たちを集めた大臣会議で決定したり、文書で署名して伝えたりしていました。

 「四月一六日(四日) ニコライのもとで、アレクセイ海軍総裁、外相、陸相ヴァノフスキー、海相チハチョフ、蔵相の五人の協議会がひらかれた。参謀総長がはずされた。ウィッテの回想には、こうある。「私はふたたび自分の意見を繰り返し、他の者はまったく反論しないか、反論してもきわめて弱かった。結局陛下は私の意見をとることに同意された」(上、p.163)。

 (a) ①『大尉の娘』の作者プーシキンは「立憲主義的な運動(デカブリスト)」に関心をよせ、「専制に批判的な作品」を書いた……この小説はプガチョフの反乱を描いています。
 ②『父と子』の作者トゥルゲーネフが「19世紀後半の農奴解放に影響を与えた」とは、農奴の売買を描いた『猟人日記』のことです。

 (b) 1905年に起こった第1次革命において、自由主義者による立憲主義を理想とする改革要求に対して、皇帝ニコライ2世はどのように対応したか。皇帝が発した文書の名称に触れながら……でした。十月勅令(勅令/詔書、正式名「国家秩序の改良に関する詔書」)を発布し、国会(ドゥーマ)開設・憲法制定を約束したが、選挙法改悪によって改革を形骸化・沈静化させた、といえます。初めは宣言を起草したウィッテが首相となったが、改革の推進を嫌うニコライ2世に疎まれ、辞任。次は内務相イワン=ゴレムイキンが首相になり、皇帝の専制化を図ったが議会と対立し辞任、これは国会の解散を呼び込みます。解散と同時にこの内閣の内務相だったストルイピンが首相になり、戒厳令・軍事法廷・行政流刑をつかって改革派を弾圧した上で再招集します。過去問(1994-2)に「(B)ロシアでは、近代になっても土地問題や農民問題が重要な課題でありつづけた。 1860年代はじめからl9l0年代末までにこの国でとられた代表的な農村社会変革の政策について、5行以内で記せ。」というのがあり、この中にストルイピンの農業改革について言及しないといけませんでした。

第3問
 世界記憶遺産に関する設問でした。導入文に「ユネスコの世界記憶遺産は、昨年、日本から南九州市の知覧特攻隊遺書、中国から南京事件および、慰安婦に関する資料、韓国から慰安婦に関する資料の登録の動きがあり、話題を集めた」……とあり、この「話題」とは中国・韓国の動きにたいして菅官房長官が「抗議の上、取り下げるように政府として申し上げたい」と発言したことです。何も中国や韓国から申請がなくても日本国内の首相のお膝元に記憶遺産に値する文書が残っています。マッカーサーが来る前にできるだけ公文書は焼却したはずなのに、相当の断片が焼却を免れました。慰安婦関連では、次の国立公文書館・アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp、通称「アジ歴」)で誰でも確認できます。
 たとえば、「資料の閲覧」の下にある検索空欄に、「C13010769700」と入れて検索ボタンを押すと、「営外施設規定【階層】防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>満洲>大東亜戦争>諸規定綴 歩兵219連隊警備隊第7中隊 昭和18年【 レファレンスコード 】C13010769700【 画像数 】10」という名の史料が現れます。左の閲覧ボタンを押すと、初めてのひとは、DjVu Plugin Host をインストールすることを求められます。これを入れてから、再び戻ってきて上の英数字コード「C13010769700」を入れて閲覧すると、「極秘」文書が見えます。とくに21〜24条(7/10〜8/10)に「特殊慰安所」を軍の管轄下に置くよう指示しています。特殊慰安所が軍の営外施設であり、その経営は業者に委託されるが、「当該駐屯地における高級先任の部隊長(以下管理部隊長とす)が管理し経営または指導監督(三条)」とあります(この文書はscopedog氏の発掘)。興味があれば、さらに次のコードを打ち込んで読むといい。A05032044800【陸軍の要請で約300名を渡航させよ】、C04120263400【従業婦等を募集するに当り憲兵および警察當局との連携を密にせよ】、C01000379100【慰安婦20名増派を諒承せよ】、C01000831600【慰安婦に対する正式渡航手続の要請】。

 日本軍が主導して慰安婦を連れ回し、慰安所を設置・管理したことを、軍自らの史料が明らかにしています(この他、防衛省防衛研究所図書館にも多数の慰安婦関連文書が残されています)。菅さん、足下を見ましょう!

 さて各設問は問(4)を別にすればセンター試験レベルの易問でした。
問(1) アメリカ政府がヨーロッパ情勢にかんがみて、1941年にイギリス支援のために成立させた法律の名称を記しなさい。……武器貸与法ですね。隣が火事だからホースだけでも貸してあげようと訴えて通った法案です。合衆国の事実上の参戦です。

問(2) 宗教教団に関連する文書群がある。1534年に設立され、1540年に教皇から認可されたこの教団の名称を答えなさい。……反宗教改革の一環としてつくられたイエズス会です。ヘンリ8世の首長法と同年なので、『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)では「首長・家(イエ)はひと1534」と語呂になってます。

問(3) 「光州事件……民主化運動の弾圧を指示した軍人で、後に大統領となった人物の名前を記しなさい」……朴正熙暗殺後に大統領になった人物。全斗煥という漢字が正しく書けるかが問題。あるいはチョン・ドゥファン。

問(4) 「科挙の廃止を主張し、西洋式の新建陸軍の創設にも大きな役割をはたした清末の政治家」は予備校の解答はいろいろでした。張之洞(袁世凱)(KT)、袁世凱(SY)でした。見慣れない「新建陸軍」は用語集の「新軍」の説明文に「略称」だとあり、これについて、ウィキペディアには「袁世凱は定武軍の名を「新建陸軍」に改め、ドイツと日本の軍制を参考とし、ドイツの軍事顧問を招聘して参考にする一方、新建陸軍の規模を7000名に拡張した」とありますが、袁が科挙廃止を唱えたかどうか、二度も失敗しているので、廃止を唱えても不思議ではありません。「時勢に応じて科挙を改革して人材を育成することなどは、いずれもまっさきに行なうべきことであります」(『原典 中国近代思想史2』岩波書店、p.156)と唱えているのは張之洞であり、袁世凱の新軍はこの張之洞のものを再編したものなので、解答は張之洞にしておきます。それにしても「新建陸軍」も張之洞も細かいことを問うたものです。

問(5) 「タイ……軍事・行政・司法の近代化を推進して、現在のラタナコーシン朝(チャクリ朝、バンコク朝)の礎を作り、……王の名前」という方は日本の明治天皇(1867〜1912)とほぼ同じ在位であったひとです。ラーマ5世ですね(1868〜1910)。

問(6) 「オランダ東インド会社……約200年に及んだが、オランダ本国が占領されたことを契機に解散した。その占領者の名前」とあり、会社の設立は1602年、200足して1802年、ということはナポレオン戦争の時代です。犯人はこの男です。

問(7) 「ヒンドゥー教のシヴァ神に関連する文書群……インド南部にある、フランス植民地の中心だった都市に保管」……シャンデルナゴルかポンディシェリか。南にあるのが後者です。

問(8) 「スエズ運河の国有化を宣言」で分からなくてはいけない。ナセルです。第二次中東戦争の発端です。

問(9) 「天動説を唱えた2世紀の天文・数学者」はアレクサンドリアを都にした王朝名・プトレマイオス朝と同名ですが、こちらは個人名です。

問(10) 「自由フランス政府を組織し、この演説を通して、亡命先のロンドンから対独抗戦を宣言した指導者」は背が高くアスパラガスと呼ばれたのっぽの将軍です。アルジェリアのコロン(植民者)たちが登場を要請して(要請させて?)第共和政をつくった人物、ド=ールです。