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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2015年再現答案

2015年度再現答案
(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

2015年京大再現答案
Aくん
第一問
アロー戦争後に結ばれた北京条約では、清朝はキリスト教布教の自由や外国人の内地旅行の自由、自由貿易を認め、総理衙門を設置して対等外交を始めた。清仏戦争後に結ばれた天津条約では、清朝はベトナムの宗主権を放棄し、ベトナムはフランスの植民地となった。日清戦争後に結ばれた下関条約では、日本は台湾などの割譲と朝鮮の独立を清朝に認めさせ、多額の賠償金を課した。義和団事件後に結ばれた辛丑和約では、清朝は外国軍の北京駐屯を認め、清朝の半植民地化は決定的となった。列強による中国分割はさらに進み、清朝は鉄道敷設権や鉱山採掘権などの権益を諸外国に認めざるを得なくなった。
第三問
ローマの軍隊は武具自弁の原則に基づき、市民が重装歩兵として参加した。政治体制は元老院が権威をもった共和制であった。しかし、ポエニ戦争などの戦乱を経て農地は荒廃し、農民は没落していく。戦争で得た公有地を占有した騎士やノビレスが、無産市民となった人々を支持基盤に力を伸ばした。一方で元老院の権威は低下した。マリウスは兵制改革を実施し、無産市民を私兵として雇い、閥族派のスラと平民派のマリウスの抗争が続いた。混乱の中で実力を伸ばして台頭したカエサルらが三頭政治を始めた。アクティウムの海戦で勝利したオクタウィアヌスは、自らをプリンケプスと名乗り、元老院の権威を認めた上で元首制を始めた。

Bくん
第1問
清はアヘン戦争に敗れ英と南京条約を結び、公行の廃止や福州・厦門などの開港、アヘン貿易の公認、最恵国待遇などを認めさせられた。これによって貿易の自由化が進んだ。また米仏とも同様の条約を結んだ。アロー戦争に敗れた清は露の仲介で英仏と北京条約をむすび、江南の港の開港などを認め、露に沿海州を割譲した。これによって清の対外貿易は赤字となった。清は仏に清仏戦争で敗れて天津条約を結び、阮朝に対する宗主権を放棄した。清は日本に日清戦争に敗れ下関条約で賠償金支払い、台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲、朝鮮に対する宗主権の放棄を認めた。これによって清の弱体ぶりが明らかとなり列強によるる中国分割が加速した。
第3問
軍隊。当初は中小農民による重装歩兵が国防の主力をになっていたが、たびたび度重なる従軍と属州からの安価な穀物流入により中小農民が没落した。グラックス兄弟の改革も失敗に終わった。そのため傭兵制が普及し、有力者による私兵化が進んだ。政治体制。当初は貴族からなる元老院が政治を主導した。しかし中小農民が国防に大きく貢献したのに伴い平民の政治参加が進んだ。リキニウス・セクスティウス法によって執政官二名のうち一名が平民から選出されることになった。ホルテンシウス法によって民会で決定された国法が元老院の議決なしで全ローマの国法となることが定められた。

 

2015年一橋再現答案
Aくん
第一問
8世紀後半、カトリック教会は、偶像崇拝崇拝などの面で、ビザンツ帝国のギリシア正教会と対立していた。皇帝が聖俗両権の最高指導者となる皇帝教皇主義を採用するビザンツ帝国に対抗する必要性から、教皇は政治的保護者を必要としており、当時、イスラム勢力や、アヴァール人、スラヴ人など異民族を打ち破っていたカールにその役割を見出していた。そこで、教皇は、カールをローマに呼びだしていたのである。カールがローマ人に歓呼されたのは、彼が西欧の防衛者を意味する「ローマ人の皇帝」にふさわしかったからである。このカールの戴冠によって、ローマ・ゲルマン・カトリックの3要素が融合した中世西欧世界が現出した。カールの帝国が崩壊すると、現在のイタリア・ドイツ・フランスの起源となった。「ローマ人の皇帝」という概念は、オットー一世から始まる神聖ローマ皇帝に引き継がれることとなる。

第二問
共通点:第二次世界大戦後に、西欧の復興を図って、欧州石炭鉄鋼共同体が組織され、EECとEURATOMを経て、ヨーロッパ共同体が結成されたり、冷戦下の東南アジアで、第三世界としての自立を図ったのが東南アジア諸国連合であるように、両方とも地域的結びつきを強め、地域的繁栄を意図したところである。相違点:ECの当初の目的は、地域的結びつきの強化による西欧の復興であるのに対し、東南アジア諸国連合の当初の目的は、地域統合よりも、社会主義国である北ベトナムに対抗する面が強かった。ECはその後、EUへと発展し、経済的統合を超えて、政治的統合を進めているが、東南アジア諸国連合は、経済的協力にとどまっている。前者は、のちにイギリス等が加盟し、規模の大きなものとなったが、後者の規模は、比較的小さい。

第三問
乾隆帝。当時の中国は、自国を世界の中心とし、外国を劣等視する中華思想に基づいた外交を行っていた。乾隆帝は、自国民の利益を第一に考えており、イギリスが推進する自由貿易には消極的であった。この対外関係は、アヘン戦争敗北後の南京条約で五港の開港を認めたところから崩れ始める。その後の条約で、清は、領主裁判権をイギリスに認め、関税自主権を喪失した。ボウカ条約・黄埔条約では、米・仏にイギリスと同様の権利が認められた。アロー戦争後の北京条約で、新しく7港が開港された。同じころ、アヘン貿易も認められる。また、古くから中国の属国であった周辺国も、清の冊封体制から離れていった。清仏戦争に敗北し、ベトナムへの宗主権を喪失し、日清戦争敗北後の下関条約で朝鮮は独立国となった。このような中、清は総理各国事務衙門を設立し、対等外交を認めた。こうして、中華思想に基づく対外関係は崩壊した。


Bくん
第1問
ヨーロッパ世界はアヴァール人・スラヴ人・ムスリムなどの異民族の侵入をうけて荒廃し、ローマ帝国時代の栄光は破壊された。イタリア半島はランゴバルド族の支配下にあり、これを破って奪った領土を教皇に寄進したピピンにつづき、カールは教皇の要請に応じてこれを討伐した。このため彼は当時ローマにいた。異民族から西欧世界を防衛したカールがローマ教皇の冠を戴いたことは、東欧のビザンツ皇帝に反発しその影響下から独立したいローマ人民にとって、ローマ教皇の手でローマ帝国が体現した繁栄と秩序を回復したという西ローマ帝国の理念上の復活を意味し、このためローマ人民によって歓呼された。このカールの戴冠の影響で、のちに神聖ローマ帝国に受け継がれるように、西欧支配が聖俗両権による二元的な楕円構造を呈するようになった。また教皇の権威が向上し、異端ザクセン人への布教や対イスラムのレコンキスタと十字軍遠征が強力に推し進められた。

第2問
ヨーロッパ共同体は第二次大戦の反省にもとづき特に独仏間の対立を調停することが目的で、資源の共同利用を提案した。一方東南アジア諸国連合は加盟国間の戦争防止という目的はなかった。前者はヨーロッパ統合に消極的であったイギリスを含みほぼすべての西欧諸国が加盟して、東欧を含むソ連の共産勢力に対抗した。一方後者も社会主義国家化した北ヴェトナムに対抗して反共軍事同盟としてはじまったが、非同盟主義の立場からこれに反発したスカルノひきいるインドネシアは当初参加しなかった。しかし、のちにヴェトナムを加え、東南アジア諸国の純粋な政治・経済両面での地域協力機構となった。前者はEUなどヨーロッパの経済的・政治的統合につながり、ヨーロッパの国際的影響力の減退を食い止める役割を担っている。一方後者はアジアNIESなど経済発展がすすんでいる各国の連帯感を保持する役割をもち、台頭する中国と競争を展開している。

第3問
乾隆帝。清朝は自国民の利益を擁護するために他国との自由貿易を拒否する朝貢貿易体制をとった。貿易港は広州に限定し取引は公行に独占させて私貿易を禁じた。これにより対清貿易で赤字が続いたイギリスは三角貿易で清にアヘンを流入させるとともに失った銀を回収した。これに反発した清に対しアヘン戦争をおこして破り、南京条約で上海等5港の開港と公行の貿易独占の廃止を定めた。さらに虎門塞追加条約で片務的最恵国待遇をおしつけ、関税自主権を喪失させた。これにアメリカが望厦条約で、フランスが黄埔条約でつづいた。その後英仏がアロー戦争で再び清を破り、北京条約で天津等11港の開港とアヘン貿易の公認、長江の自由航海権と中国内の商業活動の自由を認めさせた。また明治維新で近代化を達成した日本とは日清修好条規で対等外交が定められ、清仏・日清戦争でヴェトナム・朝鮮への宗主権を失い、冊封体制が崩壊するとともに朝貢体制は崩壊した。

 

2015年東大再現答案
Aくん
第1問
モンゴル帝国内では、ジャムチ・駅伝制の整備や交鈔の発行などにより東西交流の下地が整っていた。日本とモンゴルの交流は、元寇が起きた一方で、倭寇の活動による私貿易が活発で、博多から刀剣・硫黄が輸出されて染付・絹織物が輸入された。ヨーロッパとアジアの交流は、ルブルックやモンテ=コルヴィノら修道会の宣教師によるキリスト教布教が挙げられ、また、マルコ=ポーロの訪問により「黄金の国ジパング」の情報が欧州に伝わった。イスラームとアジアの交流は、イスラーム天文学から郭守敬の授時暦が生まれたことや、中国の絵画技術が偶像崇拝禁止のため画法が未熟であったイスラームに伝わって細密画として発達したことなどから伺え、また、イブン=バットゥータが中国を訪問している。中国人商人はジャンク船を用いて私貿易を展開し、朝貢貿易は永楽帝の代に鄭和の遠征によって始まった。イスラームとヨーロッパの交流は、カーリミー商人がダウ船で地中海に到達し、アジアで仕入れた香辛料や陶磁器をイタリア商人やビザンツ帝国の商人に売り、毛織物やアウクスブルクの銀を得る東方貿易に代表される。この貿易は十字軍に伴って押し進められ、ネズミが媒介するペストがヨーロッパに伝わるきっかけを作った。ムスリム商人のもたらしたギリシア哲学書は後のイタリア=ルネサンスを準備し、火薬は騎兵の没落に関係するなど、ヨーロッパに多大な影響を与えた。

第2問
A1 ①ユスティニアヌス ②トリボニアヌス
A2 仏の三部会。貴族・聖職者や平民で構成され、君主は他国に対抗するために彼らの政治的・財政的な支持を得ようとした。
B1 律は刑罰について規定し、令は現在の民法にあたる民事を規定した。格は律令の不備を補足し、式は律令の施行細則を定めた。
B2 中書省、門下省、尚書省が勅令を立案、審議・修正、発布し、六部は三省の決定に従ってそれぞれの職能に応じて行政を行った。
C1 ①プーシキン ②ツルゲーネフ
C2 血の日曜日事件で弾圧したが鎮静化できず、十月勅令でドゥーマを開設することや漸次に憲法を制定することを民衆に約した。

第3問
1武器貸与法 2イエズス会 3チョン=ドゥホアン 4康有為 5ラーマ5世 6ファン=デン=ボス 7ポンディシェリ 8ナセル 9プトレマイオス 10シャルル=ド=ゴール