世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2000

第1問(20点)
 中国では2世紀末以降、群雄割拠の時代となる。以後、統一に至るおよそ100年の歴史について、政治・社会・文化の三つの側面から、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  (この問題は『世界史論述練習帳』の資料編にもコメントあり)

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(13)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A (1)モンゴル帝国が分裂した後の14世紀初めに、中央アジアのチャガタイ=ハン国は、西北モンゴルの[  a  ]国を併合したが、その内部では、宗教と生活様式をめぐる対立抗争が激しくなり、まもなくパミール高原を境に東西に分裂することになった。
 西チャガタイ=ハン国では、ハン家の求心力が弱まる中で、14世紀後半にイスラム化・トルコ化したモンゴル人の中から、ティムールが頭角を現わした。ティムールはハン家の一族ではなかったが、西チャガタイ・ハン国を統一すると、(2)周辺地域に遠征を行って、中央アジアと西アジアの主要部を支配するに至った。破壊を事とした感のあるティムールも、一面では(3)学問・芸術を奨励するとともに、大規模な建設事業を興した。ティムールが首都とした[  b  ]は、各地の富を吸収して、大いに繁栄した。なおティムール帝国は、遠く(4)中国の明朝とも外交関係をもっていた。ティムールは明に遠征する途中に没したが、その後継者は明と良好な関係を保って、使節を交換しあっている。しかし帝国の繁栄は長くは続かず、16世紀初めにはトルコ系の遊牧民[  c  ]族によって(5)滅ぼされた
 他方東チャガタイ・ハン国でも、ハン家が弱体化して、その根拠地を天山山脈以北の草原からタリム盆地に移した。その間にイスラム化は一段と進んで、やがてイスラム聖職者が、ハンと並ぶ力をもつようになった。
 ところで(6)モンゴルの西部においては、15世紀に遊牧民[  d  ]部にエセンが現われて、(7)明を攻撃するとともに、東チャガタイ・ハン国とも交戦を行った。17世紀初めにはその後裔の遊牧民から[  e  ]部が興って、周辺地域の脅威となった。東方では清朝に進出を阻まれたが、南方ではタリム盆地を支配下に入れ、また西のカザフ草原にも攻撃をしかけた。しかし18世紀には内紛が起こって、清朝に滅ぼされ、(8)その領土も清に併合された

(1)チンギス=ハンの一族や有力者が参加して、ハンの選出や遠征の決定など国家の重要事項をはかった集会は、何と呼ばれるか。
 (2)ティムールは、1402年にオスマン帝国と戦って、勝利をえた。その戦いの名を述べよ。
 (3)13世紀以降イランで盛んになり、ティムール帝国で高度に発達した絵画は、何か。
 (4)永楽帝は、明の威信を高めるために、世界の各地に使節を派遣したが、(ア)東南アジア・南アジア方面に派遣されたのは、誰か。(イ)またそのころマレー半島の西南部に建国されて、東西貿易で栄えた国の名を述べよ。
 (5)ティムール帝国の滅亡後、ティムールの子孫のある人物は、北インドを中心にムガル帝国を建国した。その人物の名を述べよ。
 (6)モンゴルとその周辺に居住するモンゴル人の間で、(ア)16世紀ごろから広く信仰されるようになった宗教は、何か。(イ)またアルタン=ハンが、自らが帰依した教主に贈った称号は、何か。
 (7)1449年にエセンは明軍を破って、明の正統帝を捕虜にした。その戦いの名を述べよ。
 (8)清朝は、征服した遊牧民の旧支配地域を特別の名称で呼んだ。その名称を述べよ。

B 康熙・雍正・乾隆の三代は、清朝の最盛期とされる。しかし逆に、この時代に大きな問題が生み出され、それが後世に影響を与えたことも注意する必要がある。
 領土・民族問題で言えば、東方では進出するロシアの勢力をくい止めて(9)スタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川をもって国境線とすることと定め、西方では東トルキスタンまでを獲得、このほかモンゴル・[  f  ]・チベットを藩部とし、(10)朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマーなどを朝貢国とし、そして中国本土を中核とする巨大な帝国を形成した。しかしこのことがかえって、複雑な民族問題を残すこととなった。たとえば外モンゴルは、中華民国の時代に長年の独立運動のすえに独立を達成した。
 国内の統治問題で言えば、[  g  ]と緑営とを正規軍として反乱の防止と鎮圧に備え、(11)科挙を通して清朝皇帝に忠誠を誓う人材を育成し登用した。漢族の数多くの知識人が高級官僚となることができ、康熙年間に呉三桂らの起こした[  h  ]が鎮圧されてから、久しく大規模な反乱は起こらなかった。三代の皇帝はあるいは減税策をほどこし、あるいは綱紀粛正をはかったため、この時代の社会はその前後に比べてはるかに安定していた。ところがこのことが、皮肉にも人口問題という難題を生み出す要因となった。人口問題は物価問題や耕地問題を生みだし、多くの人々はフロンティアを求めて移住していった。18世紀未に(12)白蓮教徒の反乱が起こった地域は、彼らが移り住んだ山間地であった。この人口問題は、現代の中国が抱える大問題でもある。
 国力の充実を背景にして、この時代には大規模な文化事業も行われた。康熙帝の時代には、各種文献から関係事項を抜き出して分類した百科事典[  i  ]が編纂(さん)された。なかでも規模が大きかったのは、乾隆帝が企画した[  j  ]の編纂事業である。この事業によって、散逸をまぬがれ現在まで伝えられることになった書物は多いが、一方でこの事業の目的の一つが反清につながる図書を検閲することであったから、この時に焼却され失われてしまった書物もある。厳重な思想統制は、たしかに一面では社会の安定につながったであろうが、これによって(13)明末にあったような鋭い現実批判をともなう溌剌(はつらつ)とした知識人の精神が失われてしまった側面も、見落とすことができない。ここに、精緻(ち)ではあるが現実批判をともなわない、「学問のための学問」をする考証学が繁栄することとなった。

(9)清末になると、この地域の国境線が改訂される。(ア)清朝がスダノヴォイ山脈(外興安嶺)以南・黒竜江以北の地をロシアに与えることを定めた条約名は、何か。(イ)また沿海州を与えることを定めた条約が締結されたのは、何年か。
(10)(ア)当時、清朝に冊封されていた朝鮮は、一般に何氏朝鮮と呼ばれるか。(イ)また、当時のヴェトナムの王朝名は、何か。
(11)(ア)科挙において、皇帝自らが試験官となる最終試験を何と呼ぶか。(イ)また、この試験に合格した者には、何という称号が与えられるか。
(12)(ア)白蓮教徒の信仰の根幹となる教えは、何か。(イ)また中国では古来、行政区画の多く交わるところが民衆反乱の温床であることが多い。この反乱がはじめに起こったのは、当時の行政区画で陝西省・湖北省と何省の交わる山間地であったか。
(13)(ア)このような精神をもつ代表的思想家で、童心説を説いたのは誰か。(イ)また、彼の最も重要な思想上の師は誰であったか。

第3問(20点)
 アウグストゥスが元首政を創始してから200年余りは「ローマの平和」の時代と呼ばれ、ローマ帝国が安定と繁栄を享受したことで知られる。この時代に、ひとつの統一的な世界としての「地中海世界」が出来上がったと考えることができる。そのように解釈できる具体的な理由を、ローマ人のイタリア外での活動や市民団の変化に注目しつつ、300字以内で説明せよ。解答は、所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[   ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(15)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記人せよ。

A バルカン半島は、歴史上、さまざまな民族が流入し、定住した結果、言語や宗教の異なる多様な民族がモザイク状に混住する地域となった。初めてバルカン半島全体を支配下においた国家は、古代ローマである。(1)紀元395年にローマ帝国が東西に二分されると、バルカン半島の北西部を除く地域は東ローマ帝国の領土となった。4世紀から5世紀にかけてフン族やゲルマン諸部族が流入し、移動したあと、6世紀頃からスラヴ民族の一部(南スラヴ族)がバルカン半島に南下し、定住した。7世紀末にはトルコ系のブルガール人がドナウ川流域に王国(第一次ブルガリア王国)を建てたが、しだいに支配下のスラヴ民族に同化していった。(2)ブルガリアは9世紀にビザンツ帝国を通じてキリスト教を受けいれ、9世紀末から10世紀初頭にかけて最盛期を迎えた。その後、一時ビザンツ帝国に併合されたが、(3)12世紀末に再び独立を回復した(第二次ブルガリア王国)。一方、(4)フランク王国の影響が強く及んだバルカン半島の北西部では、南スラヴ系のスロヴェニア人と[  a  ]人がローマ・カトリックを受けいれた。これに対して、同じ南スラヴ系のセルビア人は、ブルガリアやビザンツ帝国の影響のもとに東方正教に改宗した。セルビア王国は14世紀前半、ステファン・ドゥシャンのもとで最盛期を迎えた。こうして中世のバルカン半島では、住民のスラヴ化が進む一方、宗教的には東西両教会によってキリスト教化が行われた。このような状況に大きな変化をもたらしたのは、14世紀後半に始まるオスマン帝国のバルカン進出である。(5)1389年にセルビアをはじめとするバルカン諸国の連合軍に勝利したオスマン帝国は、1396年にニコポリスでハンガリー王を中心とするキリスト教諸国の連合軍をも撃破し、16世紀前半までにバルカン半島のほぼ全域を征服した。オスマン帝国の支配は、(6)19世紀以降、バルカンの諸民族があいついで独立することによって終焉(えん)を迎えるが、(7)数世紀にわたってイスラム国家の支配が続いたことは、近代以降のバルカン社会に大きな影響を及ぼした

(1)このときの東西ローマの分割線は、現在のセルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの境界線とほぼ重なっている。セルビアは1878年にオスマン帝国から独立し、同じ年にボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの統治下に入った。オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナにたいする行政権を認めた国際会議の名を記せ。
 (2)9世紀に南スラヴ族にキリスト教を布教し、のちのロシア文字の母体となった文字を考案したのは誰か。
 (3)1205年、ブルガリアは、当時コンスタンティノープルを支配していた国家と戦った。このときブルガリアが対戦した国の名を記せ。
 (4)フランク王国は、8世紀末にアヴァール人を撃退し、今日のハンガリーの西部まで勢力を拡大した。このときのフランク国王は誰か。
 (5)(ア)この戦いが行われた地名を記せ。
   (イ)(ア)の地域で、現在、住民の多数を占めるのは何人(なにじん)か。
 (6)バルカン半島で、他の諸民族にさきがけて、19世紀前半にオスマン帝国からの独立を達成した国の名を記せ。
 (7)(ア)オスマン帝国は、バルカン地方でキリスト教徒の少年を徴用して歩兵常備車を編成した。この軍団は何と呼ばれるか。
  (イ)1992年に終焉(えん)を迎えた旧ユーゴスラヴィア連邦のなかでイスラム教徒の人口比が約4割を占めた地域はどこか。下記の(あ)〜(え)から選んで、記号で答えよ。
(あ)スロヴェニア       (い)ヴォイヴォティナ
(う)ボスニア・ヘルツェゴビナ (え)モンテネグロ

B 19世紀後半のドイツ統一の中心とたったプロイセン王国の歩みは屈曲に満ちている。プロイセンという名称の由来する地は、今日のポーランド東北部、リトアニア西部、および飛び地の[  b  ]領を含む地方であり、中世初期にはプルシというバルト系の住民が居住していた。13世紀にドイツ[  c  ]がプルシ(ドイツ語でプルッセン、プロイセンの呼称はここに由来)を制圧し、ドイツ人を入植させて[  c  ]国家をつくった。16世紀には[  c  ]の長アルブレヒトがプロテスタントに改宗し、ポーランド王と主従関係を結んでプロイセン公国が成立した。
 1618年に[  d  ]家のブランデンブルク選帝侯がこのプロイセン公国を相続し、ブランデンブルク・プロイセンが成立する。ブランデンブルクは今日のドイツ北東部にあり、プロイセン公国とは同君連合国家を構成した。1701年にプロイセン公国は王国に昇格したが、やがて[  d  ]家領全体がプロイセン王国の名で呼ばれるようになる。しかも、国の中心がブランデンブルクにあったことから、絶対王政の確立とともに、旧プロイセン公国領はたんに東プロイセン州と呼ばれるにすぎなくなっていく。
 18世紀後半、啓蒙絶対君主として名高いフリードリヒ2世が、軍人王と呼ばれる父の残した強力な常備軍をてこに、オーストリアからシュレジエンを奪うとともにポーランド分割を行って領土を大幅に拡大し、ヨーロッパの強国に名をつらねた。19世紀初頭には(8)ナポレオンに敗れ、一時はエルベ河以西の領土を失い国土は半減したが、ナポレオン失脚後の(9)ウィーン体制下でラインラントを獲得するなど、再び勢力を回復した。
 19世紀後半、ビスマルクの登場とともに富国強兵に成功したプロイセンは、デンマーク、(10)オーストリア、フランスをあいついで撃破し、悲願のドイツ統一を果たす。(11)1871年に成立したドイツ帝国において、プロイセンは領土の3分の2を占め、プロイセン国王はドイツ皇帝となった。しかし、プロイセンがドイツを制覇したこの過程は、逆にプロイセンがドイツに解消されてしまう過程でもあった。第一次世界大戦での敗戦と革命で[  d  ]家は帝位と王位を失い、プロイセンはドイツ共和国の一つの州となる。さらに第二次大戦後は州としても解体されることとなった。「軍国主義と反動」の象徴の解体というわけである。ちなみに東の方、旧プロイセン公国の地は、ドイツ領ですらなくなっている。

(8)ナポレオンの大陸制覇はドイツ諸領邦の全面的再編をもたらした。1806年におけるドイツの国家連合の変容について簡潔に説明せよ。
 (9)ウィーン体制は反動復古体制といわれているが、既成事実を容認したことがらも少なくなかった。旧に復さなかった事象を二つあげよ。
 (10)オースリアが、プロイセンのようにドイツ民族主義を旗印とした統一運動に主導権をとれなかった理由を簡潔に述べよ。
 (11)1871年1月18日、ドイツ皇帝即位式がヴェルサイユ宮殿で行われていたころ、パリの状況はどうであったか。
〔解答欄の空欄にマス目がなく(8)〜(11)の4つともタテ1.6cm×ヨコ12.6cmあり、約15〜25字の2行分とみなしてよい〕

C 18世紀半ばから徐々に進んだイギリスのインド支配は、19世紀半ばに一つの画期を迎えた。1858年、イギリスによる(12)シパーヒーの反乱の鎮圧とともにムガル帝国は滅亡し、1877年には全インドが、[  e  ]を皇帝とするインド帝国に再編された。インドの完全な植民地化であった。その後のインドでは、輸出向け商品作物の栽培など農業の商業化が進むなかで、伝統的な農村は以前にもまして崩れ、深刻な飢饉にたびたびみまわれた。民衆の困窮のなかから、イギリスの植民地支配に抵抗する新しい民族意識が芽生えていった。
 第一次世界大戦にさいし、イギリスはインドに対して戦後の自治を約束し戦争協力を求めた。しかし、自治の約束は戦後十分に果たさなかった。1919年、イギリスはインド統治法を制定したが、実質はなお総督の独裁であった。第一次大戦後、帝国政府との衝突をとおして国民会議派は、インドの完全な独立を方針に掲げていった。1930年代末から第二次世界大戦の時期には、国民会議派の他、イスラム教徒の政治団体である[  f  ]などが独立の要求を掲げた。
 イギリスがようやくインドに独立を認めたのは第二次世界大戦後であった。1947年7月、(13)イギリス政府はインド独立法を制定し、その年の8月、インドと[  g  ]の独立が実現した。
 独立したインドの初代首相に就任したのは、ネルーであった。ネルーは1920年代後半からソ連の社会主義建設に関心を寄せ、国民会議派内では急進派に属した。インド独立後、ネルーが目指した方向も、公的所有をおさえ市場メカニズムを保持しながら、計画経済化を進め、さらには土地改革を行うなど、社会主義型社会の建設であった。しかし、結局彼の構想は、土地改革の不徹底や、第2次五か年計画のつまずきなどによって挫折した。
 独立後のネルーの行動で最も輝きをみせた活動は、1955年、非同盟主義を掲げてインドが会議招聘(しょうへい)国の一つとなった、[  h  ]の開催であった。その前年、ネルーはインドシナ問題を討議した(14)ジュネーヴ会議の休会中に、中国の[  i  ]と会談した。建国間もない中華人民共和国の指導者とインド首相との会談は、世界に大きな影響を与えるものであった。事実、両者がその会談で発表した平和五原則は、東西対立の中で対ソ「封じ込め」の(15)冷戦政策を進めるアメリカに対して、武力によらない話し合いによる平和を呼びかけていた。また、平和の達成のために、アジア・アフリカの国々が積極的な役割を果たし、また協力することを訴えたものとして、第二次大戦後の第三勢力の台頭をよく表現した声明でもあった。
 1954年から55年にかけて、こうして大きな影響を与えたネルーの外交政策であったが、しかしその後、1962年、ネルー首相下のインドは[  j  ]をめぐって中国と戦争状態に入った。両国の戦争は、20世紀のアジア・アフリカ諸国にとって民族の独立ばかりか、独立後の自立への歩みや相互の協力という願いが、多くの困難を伴う道であったことを示唆している。

(12)ムガル帝国の都であり、1857年9月の陥落まで反乱の中枢となった都市はどこか。
 (13)この時期、イギリスで政権の座にあった政党は何か。
 (14)この会議の直前、フランスがインドシナで敗れた戦いは、何というか。
 (15)1953年以降、アイゼンハワー政権のもとで国務長官を務め、この時期の冷戦政策を推進した人物は誰か。

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コメント
第1問

 わたしが論述問題では「流れ」の問題はあまり出ないですよ、と模試の解説で書いたら、「世界史は流れだ、流れでなかったら、なにを書くのか」と反発していた高校教師がいた。これはたぶん特殊な反応ではない。こうした教師に教えられた学生が同じように「流れだ」と思っているのは自然なことです。流れでない問題でも、なんでもかんでも流れとして書いてしまう。そういう傾向をもっていることは、添削をしてきた経験からも痛いほど知っています。しかし待ってください、と言いたい。
 今年の問題第1問も第3問も「流れ」ではない。いろいろな側面を時間をとめて描かせようとしている。第1問の最初の「政治面」だけはいくらか「流れ」だが、他はちがう。
 流れの問題が少ないといっても、「流れ」という歴史的な経過を書かせるだけの問題は、まったく出ていないのではない。ここ10年だけで短文論述もふくめ34問中6問という計算になります。これは「少ない」という表現がまちがっていないことを証明しています。時代の全体像・影響・比較・理由・結果・特色(特徴)・変化(転換)・関連・意義といった構造的・論理的問題が多い。
 じっさい教科書でも政治史の変転を説明した後は、社会・文化と項目を改めて述べているのが通常のスタイルであり、わたしが特殊なことをいっているのではない。過去問に対する教師と受験生のたんなる勉強不足といわざるをえないのです。
 さて今年の問題。「2世紀末以降、……統一に至るおよそ100年の歴史について、政治・社会・文化の三つの側面から」との要求です。
 時間的には184年の黄巾の乱から、晉が呉を滅ぼして統一する280年まで。この基本的な年代がわからなかったらアウトでしょう。論述問題を解くのには年号をおぼえることが大事です、といってもピンとこない学生もいます。他におぼえておかなくてはいけない年代は、もちろん教科書本文にのっているもので、漢の滅亡と魏の成立(三国時代の開始)が220年(ゴロは、三国につ2ぶ2れ0、ゴロの出典は『世界史年代ワンフレーズ』から)、魏の司馬炎が晋(西晋)をたてた265年(ゴロは精神楽よー(洛陽)風2呂6後5)。
 この時間の中国を描くのに「政治・社会・文化の三つの側面から」と分野別に書くことを要求する副問(副次的要求)があります。
 さてこの副問の中でこまるのは「社会」とはなにか、という疑問でしょう。過去に例があります。「春秋戦国時代の中国において、鉄器の出現がもたらした経済的・社会的変化を300字以内で述べよ。(1991)」、「10〜11世紀は、西アジアにおけるイスラム世界の歴史の展開の中で、1つの大きな転換期であったと考えられる。このように考えられる理由を、政治・社会・宗教の3つの側面から、300字以内で具体的に述べよ。(1993)」、「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について、300字以内で述べよ。(1998)」というぐあい。
 学生からよく「社会」とあったら何を書くんですか、という質問をうけます。
 国語辞典をくっても今ひとつはっきりしない。「<1>(人間が)集まって生活を営む、その集団。<2>同類のなかま。<3>世の中。世間。(岩波国語辞典)」、「広い意味での共同生活を営む人々の集団(三省堂の新明解国語辞典)」など。かんたんに「人間の集団」ということを言いたいのでしょうが、この集団にどんな影響とか、どんな側面があったのか、という問にたいする語句として、とらえなおしてみると、あれもありこれもありで、なにがなんだか漠然としていて判らなくなります。他のことばとの比較の上で解説しようとしていないからです。
 わたしの定義は、「政治以外のすべての人間集団と、その生活」です。まず、変動の少ない「社会」の問題を解決すべくコントロール機能としての人為的・作為的な「政治」というものがあり、政治と社会は区別すべきです。論述問題でも「政治」と「社会」がかならず別になって出てきます。この場合の社会(Society)には経済も文化も入れています。ところが社会と区別して経済も文化も並列される場合がある。そのさいは、社会の中から経済・文化をとりだして、小さい人間集団( communty )のことだととります。これを小社会(communty)と呼んでおきましょう。政治以外のすべてを「大きい社会 Society」とすれば、経済・文化にも入らない領域が「小社会 communty」となります。この小社会に入るのは民族(多数・少数民族問題)、言語、人口、身分、家族など政治の動向ではかんたんに動かない集団があります。この小集団と経済(資源、技術、資金、土地、産業、交換など)が一般に「社会」という語句でくくることができます。今年の問題はこれに該当します。1991年度のように「経済的・社会的変化」とあれば、この「社会的」に小集団と文化を入れるといい。ちなみに、この「社会」とはなにか、については拙著『私大入試必修 世界史現代史問題集』(駿台文庫)の巻末に「現代史用語集」をのせており、その22番に説明しています。
 じゃ、九品官人法は政治か社会か。どちらでもいい。というのは政策としては政治に入るが、結果として門閥貴族という小集団をつくってしまうので社会にも包むことができます。じゃ、屯田法は経済か政治か。これも政策としては政治でもあり、農民の立場からすれば経済でもあります。こういう時の政府の政策として経済的なものがある場合は、どちらであつかってもいい。わたしはどちらかといえば政治のほうに入れます。
 1994年度の問題に「4世紀から5世紀中葉にいたる時期は、中国史上まれにみる大分裂時代であった。この時代の特色を、民族・地域・宗教文化の3つの側面から、300字以内で述べよ。」というのがあり、今年の問題のすぐ前を問うたことになります。似たようなタイプの問題です。
 政治面の変遷はしっかり書けるでしょうか。黄巾の乱→赤壁の戦いで天下三分→後漢滅亡・三国(魏蜀呉)成立→司馬氏が魏の実権をうばう→魏が蜀を滅ぼす→司馬氏が晉をたてる→晉が呉を滅ぼして統一、という順です。このうち魏が蜀、そして呉を滅ぼしてから晉ができるのでないところがややこしい。司馬炎(えん)の父祖司馬懿(い)が魏の実権をうばったのが249年で、この司馬氏に実権が移っている段階での魏が、蜀を滅ぼしたのは263年で、晉は2年後の265年に司馬炎が禅譲をうけてできあがります。受験生は249年や263年はおぼえなくていいし、こうしたややこしい状況を描く自信がなければ、簡潔に逃げて書くこともできます。
 さて次は社会面。前述したように、この「社会」は小集団や経済をさす。すなわち、「小集団」は民族(多数・少数民族問題)、言語、人口、身分、家族などであり、「経済」は資源、技術、資金、土地、産業、交換、開発などです。
 政治史の後に教科書はかならず、この時代の社会について説明しています。政治史とちがって固有名詞がでてこないし、経済用語でもあるためか、勉強していても頭に残りにくい部分です。学生にとっては書きにくい点。
 たとえば、『詳説世界史』では「大土地所有の発達」と題してこの時代の社会を説明しています。「後漢末から南北朝をつうじて、豪族は各地で力を強めた。……九品中正……結果的には……豪族は、貴族階級を形成するようになった。……後漢末以来の戦乱や豪族の土地併合により、土地を失った農民は故郷をはなれて各地をさすらい、あるいは豪族の奴隷となった。それは国家が直接に支配する土地と人民を減少させ、軍事・財政の破綻を引きおこすものであった。魏で屯田制、西晋で占田・課田法、北魏で均田制がおこなわれたのは、このような事態への対策であり……豪族の力は強く、大土地所有の制限にはほとんど無力であった」と豪族(大土地所有者)を中心に書いています。
 また『詳解世界史』(三省堂)なら「分裂時代の社会」と題して「……少数民族の自立の動きとあいまって、強力な中央集権国家をつくりだそうとする気運がたかまった時代でもあった。そのため、諸制度が整備され、江南の開発などが進められた。とくに、たび重なる戦乱や豪族の土地集中などにより、国家が直接に支配する農民が流民化したり、没落して減少しつづけたため、諸王朝は土地制度や税制度の改革につとめた。また、奴婢を解放したり、豪族の大土地所有をおさえて農民を育成することがはかられ、西晋では占田・課田制が、北魏では均田制が実施された。しかし、これらの諸制度の実施にもかかわらず、豪族の大土地所有は依然として残された」と。
 長々と引用しましたが、要するに書くだけのデータは教科書に十分にありますよ、ということを言いたいためです。引用文では政策としての官吏登用法や土地制度もあげてありますが、それ以外は社会と経済の動向が述べてあります。身分(貴族、奴隷、奴婢)のこと、民族(少数民族)のこと、土地(兼併と喪失)のこと、開発のことが描いてあります。
 なお教科書には明快に書いてないが、魏晉南北朝時代を知っておくのに重要な鍵がひとつあります。それは人口の減少です。それは激減、ということばにふさわしい。後漢末、紀元2年に中国の全人口が59,594,978人という記録(『漢書』「地理誌」)があり、この約6千万だった人口が、途中の回復期もあるが、西晋による統一のころ(280年)には全人口が500万になっています。「184年の黄巾の乱から半世紀の後、中国の人口は、十分の一に激減していたわけで、これは事実上、漢族の絶滅である」(『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社 p.87、岡田英弘著『倭国』中公新書 p.59-60)。隋の統一のころには4〜5千万人くらいに回復してくますが、これは北アジア人(五胡)の新しい血液の流入によります。この少ない人口は土地あまりをも意味しており、国家が土地を確保して分配が容易であったため、この時代に土地政策が集中する理由ともなっています。言語も現在の簡略な中国語に変化したのはこの時期で、この五胡に通じる言語として華北に成立したのが北京語です。
 文化面。短い1世紀だけの文化面というのも珍しい問題です。だいたいは長い時間をかけて醸成されるのが文化というものだから、ここではあまり書くデータがないのではないか。
 せいぜい清談くらいではないか。『老子』『荘子』『易』をもとにした議論で、後漢末からの時事評論から発展し、九品官人法とともに人物評価がさかんとなり、非礼教的人物やかげりを帯びた男の美貌を評価する。為政者たる貴族たちが無為・隠遁を評価するという矛盾した談論です。これとともに魏晉の「竹林の七賢」をあげてもよい。
 また漢代の儒教訓詁学は詳細を追う職業的学問となって魅力を失い、貴族となった士大夫は儒学を利録のためにまなぶ必要はなくなり衰えていきました。また秦漢帝国の規制・礼教的秩序がくずれ感性が解放されて芸術の自立が可能となりました。教科書外の知識で書けなくてもいいですが、それを表すのが曹操・曹丕を主とする「建安文学」です。「建安」とは後漢最後の皇帝献帝の年号で、196年から220年までの期間をさし、文学史上の黄金期の一つに数えられます。「抒情的文学」と表現されます。
 五斗米道・太平道は道教の源流としてあげていもいいが、「普及」と書いていいか。双方の宗教集団とも曹操の軍団に吸収されてしまったので、どれくらい持続したのかが不明です。北魏の寇謙之が集大成して道教教団をつくるのが5世紀とすれば、なんらか細々とでもつづいていたのでしょう。「普及」というほどのものではないだろうから、ここは避けたい。
第2問
 Aが北アジア、Bが清朝でともに中国史に関係している。過去にも数例があり、京大らしい。
A チャガタイ=ハン国の東西分裂の後を追った問題文で、教科書では簡略にしか書いてないところを詳しく説明しています。しかし問われていることがらは基本的なものばかり。
 下線部と空欄を分けないで問題文の順に説明します。
 下線部(1) モンゴル帝国の最高決議機関だ。モンゴル語で「集会」を意味する。チンギス=ハンの一族・貴族・文武百官が参加し、ハンの選出、外国遠征の決定、法令の発布などを討議した。しかし選出をめぐって派閥抗争に利用され、帝国の統一を不可能にしたものでもあります。
 空欄a 「西北モンゴルの[  a  ]国を併合」とあり、「西北モンゴル」にあった国の名を問うている。モンゴル諸ハン国の位置は、教科書にもかならず載っており、4ハン国とも位置を知っておく必要がある。今年の岡山大学の4問目に13世紀の地図がでていて、このチャガタイ=ハン国もあてさせている。歴史地図なしの世界史はなりたたない。受験勉強とてそうだ。答えのオゴタイ=ハン国は、チンギス=ハンによって分封され継承された遊牧国家である。厳密にはモンゴル高原西北だけではなく、アルタイ山脈を西にこえたジュンガリア地方東部も占めていた。都エミールは現在の新疆ウイグル自治区北西部にある。トゥルイ家のモンケ=ハンが4代目のハンとなると、オゴタイ家は分裂状態に瀕し弱体化した。そして問題文にあるごとくチャガタイ=ハン国に併合される。これは4ハン国中最初の滅亡であった。
 下線部(2) アンカラの戦いは、1402年7月28日で、オスマン帝国軍が8〜10万、ティムール軍は15〜20万で戦った。オスマン帝国側にくわわっていた小アジアの諸侯たちが次々と裏切ってティムール側についたため、オスマンは敗戦し残兵2000〜3000人とともに戦場から脱出していくが、途中、包囲網を突破しようとして奮戦中にオスマン朝のバヤジット1世は落馬し捕虜となった。ティムールのもとに引き立てられ、優遇されながらも捕虜の屈辱にたえきれず、指輪の宝石の下にかくしていた毒薬をのんで自殺したという。
 空欄b ティムールの首都。センター試験にもでたソグド商人の中心都市。
 下線部(3) 「13世紀以降イランで盛ん」とはイル汗国のことであり、この国をとおしてペルシアに普及した中国的な写実描写・俯瞰(ふかん)の絵で、題材としては雲・竜・鳳凰(ほうおう)などが伝わった。ペルシアの『集史』『王書』に中国様式の挿絵(細密画)が描かれている。
 下線部(4) 永楽帝が「(ア)東南アジア・南アジア方面に派遣」だけでなく、アラビア半島にもアフリカ東海岸にも行っている。鄭和の字のはじめは「鄭」でも「 」でもよい。かれは雲南省昆陽の生まれのイスラム教徒。子供を宦官にして朝廷にささげ帰順の意を表す風があり、雲南が明朝の支配下にはいったときにとらえられ、その犠牲となった人物。35歳で南海に出て64歳まで指揮した。
 (イ)「またそのころマレー半島の西南部に……東西貿易で栄えた国」は、東南アジア最初のイスラム教国として名高いマラッカ王国である。1402年ころは、永楽帝即位、マラッカ王国、アンカラの戦い、フスの宗教改革開始としておぼえておきたい。
 空欄c ティムール帝国を滅ぼしたトルコ系の遊牧民族は、ウズベク族。現在のウズベキスタンを構成している民族である。この国の2300万人の人口のうち75%がこのウズベク族である。2万人のユダヤ人のほうが実は古い。ブハラやサマルカンドに1500年前から住んでいる。
 下線部(5) ムガル帝国の創始者はだれか、という易問。「ティムールの子孫のある人物」はときに「チンギス=ハンの子孫をなのる」という表現でもでてくる。バーブルの父方はティムール系(トルコ族)であったが、母方はモンゴル系であったところから、チンギスーハンの子孫といわれる。
 下線部(6) (ア)「16世紀ごろから広く信仰」の意味は、(イ)の人物アルタン=ハンが関係しているからである。アルタン=ハンは明代のタタール部の部族長で、ダヤン=ハンの孫にあたる。32年からほとんど毎年のように明に侵入し、侵入のたびに掠奪してきた漢人に農耕させたり、都市を築かせた。チベット黄帽派ラマ教の保護を約束し、ハン自身がラマ教に深く帰依し、多くのラマ教寺院をモンゴルに建てた。辛亥革命後にモンゴルは独立宣言をしたが、その時は、帝政ロシアの支援を受け、君主にはラマ教の活仏、第8代ジェプツンダンバ=フトクト(ボグド=ゲゲン)を立てている。
 (イ)アルタン=ハンが青海にやってきた当時の教主ソーナム=ギャツォに贈った称号「ダライ=ラマ」(1578年)は、現在も生きている。ダライはモンゴル語で「海」「偉大な」の意。「ラマ」は「師」の意である。チベットの宗教・政治上の最高権威者である。14世紀末からツォンカパがチベット仏教を改革して戒律のきびしい黄帽派(黄教)をひらいた(旧来の諸教派を一括して紅帽派(紅教)という)。以後、この派の教主がチベットを実質的に支配するようになり、ダライ=ラマにうけつがれていく。
 空欄d すぐ後の「エセン」がヒント。
 下線部(7) 1449年、明皇帝の英宗がオイラート部の捕虜になった事件。土木堡ないし土木は北京の西北に位置する要塞の名前である。宦官の王振の意向で強行された対モンゴル親征は大失敗となる。一方、勝利したエセンは1449年にまだ「ハン」ではなかったが、1453年に「大元天聖大汗」を称し全モンゴルを抑えたが、後に部下に殺された。この「大元」は元朝の後継者を意味していることが判るだろうか。
 空欄e 空欄の後の文章から清朝領になる地域、しかも「18世紀に」とあり、次の下線部の問にあるように「特別の名称」で呼ぶことになる地域でもある。とすれば漢字で「準部」と書くジュンガル部である。
 下線部(8) 新しい国境(ニューフロンティア)の意味である。漢字が正しく書けるかどうか。

B  (11)の(イ)をのぞけば後は基本問題である。
 下線部(9) (ア)(イ)の地名である「スダノヴォイ山脈(外興安嶺)以南・黒竜江以北」「沿海州」がどこか判るだろうか。地図中に指せるようにしておくといい。(ア)が1689年、(イ)は北京条約である。
 空欄f 4藩部のうちの抜けている一つを答えさせる易問。この青海は今は省あつかいで、他の3藩部は今は自治区という表現でまだ清朝時代の名残りがある。
 下線部(10) (ア)「何氏朝鮮」といえば、時代的にも李氏朝鮮以外にない。この易しさがすばらしい。
 (イ)これはできない学生もいるかも知れない。清朝全盛期(1661〜1796年)と該当するヴェトナム王朝は、黎朝(1428〜1789)と西山朝(1773〜1802)の二つである。「当時」が限定されていないので、三帝にあたる時代全体がかかわるとすれば、二つあっても一つでも答えとしては可能だ。
 空欄g 清朝の正規軍の名称は、特異な名称「八旗」である。ヌルハチが創始した軍事だけでなく行政・社会組織などを兼ねている。後金は八つのグサ(グサの中国語訳が「旗」)と呼ばれる集団から構成されていた。各旗はそれぞれ色のちがった軍旗をかざした。黄・紅・白・藍の4色で、それにふちどりのある旗とない旗とがあった。ホンタイジは蒙古八旗・漢軍八旗と増やす。満州八旗を軸にした「弓と矢の貴族政治」(O.ラティモアの言)によって、高度に成熟した農耕文化の漢族を支配した。中国にはいって奢侈な消費生活を送り人口も増えたため旗地では足りず困窮化していく。もとの野性的な気風を失って弱体化した。1旗7500人で下の蒙古・漢軍八旗も合わせると合計24旗で約18万人あった。清末に近代的軍隊が組織されると八旗は有名無実化し、辛亥革命とともに消滅する。
 下線部(11) (ア)「皇帝自らが試験官」という擬装をするだけなのだが、皇帝臨席の下で結局は全員合格の試験は格が上なのだということだろう。
(イ)合格の称号は、もともと課目(科目)の名前で「進士科」といい、その合格者を進士と呼んだ。唐代までは地方の試験の合格者も進士と呼ばれたが、宋以後は殿試に合格したものだけを進士と呼んだ。
 空欄h 「呉三桂らの起こした」「鎮圧され」とあるので三藩の乱とわかる。これは1673年康煕帝が撤藩令を出すと呉三桂は雲南に挙兵して周を建て、これに耿精忠、尚之信が呼応して大乱となった。しかし、三藩の間に統一した動きはなく、77年ごろから清軍が攻勢にでる。フェルビースト作製の大砲が威力を示していく。台湾に逃げた鄭氏一族にたいしては遷海令で封鎖した。この乱鎮圧により清朝の中国支配は確立する。
 下線部(12)(ア)白蓮教徒の信仰の根幹となる教えは、弥勒仏(みろくぶつ)が救世主としてこの世に下り(これを弥勒下生=この世に下って生まれる、という)、極楽の世界が出現するというもの。
(イ) 難問。「この反乱がはじめに起こったのは、当時の行政区画で陝西省・湖北省と何省の交わる山間地であったか」と。「当時の行政区画」と清朝時代の行政区分をにおわせているところも異常である。現在とこの地域はそう区分がちがっていないのにである。一応、二つ考えられる。二つの省の東北にあたる河南省と、西にあたる四川省である。学生がよく利用している用語集には「河南・湖北・四川・陝西・甘粛に広がる」とあるが、どこからはじまった、とは説明がない。こういう用語集の元になっている『世界史小辞典』(山川出版社)でも「湖北・河南・陝西・四川の各省におよんだ」とあり、はじまりがどこか判らない。京大の教授たちがつくった『新編東洋史事典』(東京創元社)にはこの反乱の項目さえない。京大の教授たちが書いた『アジアの歴史と文化-4(中国史-近世2)』(同朋舎出版)には、この問題を作成したらしい筆者が「この反乱は湖北・陝西・四川3 省の境界が接する地域を中心として発生し、さらに隣接地域にも波及……」と述べている。唯一教科書で書いたものは『世界史B』(実教出版)で「……最大のものは、1796年に四川・陝西・湖北の省境からおこった白蓮教徒の乱であった」と。
 空欄 i・j 康熙帝の百科事典と乾隆帝の大編纂書。
 下線部(13) (ア)「童心説」とあれば李贄(李卓吾)。前者の字がただしく書けなければ後者ですます。
(イ)李贄は陽明学左派にあたるので、師は陽明学の大成者しか教科書では答えられない。王陽明は1528年に亡くなっており、李贄は1527年に生まれているから、面と向かっての師であることはありえない。

第3問

 「そのように解釈できる具体的な理由を、ローマ人のイタリア外での活動や市民団の変化に注目しつつ、300字以内で説明せよ」が問題で、「そのように解釈できる」とは「アウグストゥスが元首政を創始してから200年余りは「ローマの平和」の時代と呼ばれ、ローマ帝国が安定と繁栄を享受したことで知られる。この時代に、ひとつの統一的な世界としての「地中海世界」が出来上がったと考えることができる。」です。
 かんたんにすれば、元首政200年の地中海世界の全体像を描け、ということでしょう。その全体像とは「ひとつの統一的な世界としての「地中海世界」」とあり、統一性をどう実現したかは「ローマ人のイタリア外での活動や市民団の変化に注目しつつ」説明せよ、というのです。
 「帝国」じたいは皇帝がいないにもかかわらず、このアウグストゥス以前に征服戦争の結果としてできあがっています。元首政のとき、クラウディウス帝がブリタニア、マウレタニア、トラキア等の征服、トラヤヌス帝によるダキア、メソポタミアの征服があり、元首政の時代にも領土の拡大はつづいていますが、どちらかというと周辺部だけです。統一的・地中海的ローマ世界はできあがっています。書いてもまちがいではないが、そんなに字数はかせげない。
 征服戦争は主題ではないようです。「イタリア外での活動や市民団の変化」を要求しています。この問題の作者らしい京大教授・南川高志著『ローマ五賢帝』(講談社現代新書)にも「イタリア外」という語句が頻繁にでてきます。この本に書かれているのは、現代人には興味もない元老院を舞台とした政争がほとんどですが、それを別にすれば、道路建設であり、市民権の拡大であり、軍人の属州徴兵などです。
 この問題にぴったりの箇所をこの著書からえらぶと、スペイン出身のトラヤヌス帝の説明で、「元老院議員たちは、広大な帝国領の各地から集合していた。彼らは……「首都やイタリアを祖国と思わず、旅行の際の宿泊所のようにしか考えない」傾向が出てきたと指摘している。彼らはもっと普遍的な意味で「ローマ人」なのであり、……212年のアントニヌス勅令によって帝国内のほぼすべての自由人がローマ市民権を持つことになり、名実ともにローマの都市国家的構造は消滅するが、政治史の観点から見れば、それよりも100年前に「ローマ人」のローマ帝国が出来上がっていたのである」と。
 受験生がこの本を読んでおくべきだと言っているのではない。問題作成者の言いたいことを指摘したまでのことです。教科書でもなんとか答えられます。というのは、ローマ帝国の政治史以外のところで、この問題に該当することがらは書いてあるからです。
 たとえば、厳密にこの問題に該当する部分を『詳説世界史』で、まったく文脈を考えずに書きだしてみると、次のようなものになります。
「帝国内には多数のローマ風都市が建設され、……自由に政治に参加できるローマの市民権も、属州に拡大され、3世紀初めのカラカラ帝のとき、帝国全土の自由民にあたえられた。……帝政期になって市民権が拡大され、ヘレニズム思想の影響が加わるにつれて、ローマ市民だけに適用されていた市民法は世界的な性格を持つようになった。その結果、帝国内のあらゆる民族に共通な万民法が成立した。……各地に道路・水道をしいたほか、闘技場・浴場・凱旋門など、壮大な公共建築物をつくった。……カエサルはエジプトの太陽暦を修正してユリウス暦をつくった。……またローマ人はギリシア文字からうまれたローマ字を使い、そのことばであるラテン語を帝国内に普及させた。」これで289字です。
 問題文のなかの「市民団」は気になる語句で、これは教科書では使わない用語です。これは専門家がギリシアのポリスにも使う語句で、国家の担い手としての市民が、地主であり戦士であり、労働は奴隷にゆだねる消費者階級である、また都市の神を市民たるものが信仰しているという、共通の要素をもった結束の固い特権集団であることを意味しています。はじめはローマ市だけ、次には同盟市戦争の結果イタリア半島全体に拡大し、さらに、この問題の課題になっている帝国全土への拡大しました。そうすると、かつて半島だけでも都市国家(ローマの場合はキウィータス)の集合にすぎなかったはずの「帝国」が、半島外にまで広がり、もう市民が国家の担い手だというような小さい都市国家の様相とはちがったものになってしまったのです。

第4問
A 
 下線部(1) ヒントは問題文の「1878年」で、サン=ステファノ条約を改訂して、ロシアとの共同管理だったものをオーストリア単独管理に変更した会議名である。ビスマルクが調停者である名高い会議。
 下線部(2) 「ロシア文字の母体となった文字」とは「キリル文字」のことで、この名が示している人物である。
 下線部(3) 「1205年……当時コンスタンティノープルを支配していた国家」だから第4回十字軍がつくった国になる。ビザンチン帝国の亡命者は1260年までこの都市に帰ってこない。
 下線部(4) 「8世紀末にアヴァール人を撃退……フランク国王」とあれば西ローマ皇帝に就任した人物。
 空欄a 難問だったかも知れない。「バルカン半島の北西部で……南スラヴ系のスロヴェニア人と[  a  ]人がローマ・カトリックを受けいれた。」というのは、まさにバルカン紛争のもとになった地域でもある。旧ユーゴスラヴィアの一番北にあり、イタリア半島に近く、西欧と同じカトリックで、ユーゴスラヴィアからの独立宣言をすると西欧諸国はすぐに承認しだした。それが今日のユーゴ紛争の発端でもある。東西にローマの国境線が引かれた線の西側に位置していることはいうまでもない。
 下線部(5) (ア)「1389年」の戦いは細かい。教科書にはのっていない。しかし昨年度のコソボ紛争があるから、できた学生も多いのではないか。セルビア軍が南から侵入してきたオスマン=トルコ軍に敗北した(コソボの戦い、コソボ・ポーリェの戦い)。ポーリェは州都プリスティナの北にある「草原」の意味。大セルビア王国は滅亡し、イスラム教のトルコの支配下にはいった。イスラムに改宗したアルバニア人は、オスマン帝国の下で復帰していきセルビア人を支配する。後者が(イ)の質問である。
 下線部(6) 「19世紀前半にオスマン帝国からの独立」とは1821〜29年に戦った半島最南端の国である。西欧文明の故郷とみなされている。
 下線部(7) (ア)スルタン直属の常備軍である。「エ」は大きくても小さくてもよい。トルコ語で「新しい兵士」の意味。戦力の補給とバルカン諸民族の同化政策とを兼ねてこの軍団が創設された。最初は、戦争の捕虜であり、戦利品として国庫に属したことから、これをトルコ人の家庭に預けてトルコ語とムスリム(イスラム教徒)としての生活習慣とを身につけさせた後、軍団員として登録した。15世紀以降、デウシルメ(人材徴発)制が導入され、これによって徴用された者の大部分がイエニチェリとなった。1826年に廃止されるまでオスマンの柱であった。
 (イ)上の問題文に「スロヴェニア人……ローマ・カトリックを受けいれた。これに対して、同じ南スラヴ系のセルビア人は」とあるから、(a)は答えがすでに本文にあることになる。(い)はセルビアの北にあり(え)はコソボの西にある。地図で確認されたい。答えの(う)はボスニア紛争の原因ともなっているから易問だったと思われる。

B
 このプロイセン史は、97年度の京大実戦模試とそっくりであった。
 空欄b 詳細な地理の知識を問うている。ドイツ騎士団領を地図で見ていなかったら想像もつかないだろう。「今日の」地図も見ていないとだめだ。「ポーランド東北部」と「リトアニア西部」に囲まれた「飛び地の」狭い地域を指している。
 空欄c 正式名称はドイツ騎士修道会である。騎士という武士でありながら修道服を着ているという両方かねた征服軍団である。プロイセン人を皆殺しにしてつくりあげた領土で、このプロイセンは地名・国名として名前だけがのこる、という壮絶な歴史がかくされている。
 空欄d この後になんども出てくるのでホーエンツォレルン家であることがわかる易問。
 下線部(8) ライン「同盟」でもライン「連邦」の成立でもよい。ナポレオン1世の指導の下で成立した。オーストリア・プロイセンに対抗する「第3のドイツ」を意味する13の領邦(後に39の領邦に増える)の同盟である。フランスのために出兵義務を負わされた。この同盟の成立とともに諸領邦は神聖ローマ帝国から離脱した。ために皇帝フランツ2世は帝国の解体宣言をおこない、すでにウェストファリア条約以来名目化していた帝国が消滅することになった。なお解答欄の空欄にマス目がなく(8)〜(11)の4つともタテ1.6cm×ヨコ12.6cmあり、約15〜25字の2行分とみなしてよい。
 下線部(9) 判りにくい設問だ。「既成事実を容認」「(革命前の)旧に復さなかった事象」とあれば、ナポレオン戦争中のほとんどのことがらが入ってくる。下線部(8)のライン同盟もそうだし、神聖ローマ帝国の滅亡も、ナポレオン一族が王となったヨーロッパの諸国(兄ジョゼフのナポリ王国・スペイン王国、弟ルイのオランダ王国、ウェストファリア王国)やイタリア王国、ワルシャワ大公国などもはいる。ブルボン朝は復興したが、革命前のブルボン朝とはちがうもので立憲君主政になっている。
 下線部(10) 「オースリアが……統一運動に主導権をとれなかった理由」は考えさせる良問だろう。これを明快に述べた教科書を見たことはない。ただ予想はできる。関税同盟に加わっていない。つまり経済的統一は北のプロイセンにできている。また工業地帯を掌握しているのもプロイセンである。普墺戦争に敗北したオーストリアがオーストリア=ハンガリー二重帝国になるように、マジャール人やスラヴ人・イタリア人をかかえており、その多民族性が問題であった。詳しくは、あくまで統一はバルト海からアドリア海までの広大な地域を統合する「大ドイツ」の夢を追いつづける外交をくりかえしたこともある。
 下線部(11) 「1871年1月18日」という詳しい月日がなぜ必要だったのかわからない。パリ=コミューンと答えそうなところだが、コミューンは3月にできる。広くとると1870年9月から1871年5月までのパリ自治政府も指すから、パリ=コミューンでも正解にしてくれると期待したい。

C
 アジア史であるのに、なぜかこの第4問の中にある。つけ足しという感をまぬがれない。学生の負担も重くなった。問題じたいは下線部(15)を別にすれば易しいが。
 下線部(12) 「シパーヒー」はもちろん日本風にはセポイである。反乱の拠点となったところは、発端のメーラト、カーンプル、ラクナウなども知られている。しかしデリーでは、シパーヒーたちが行政会議をつくり兵士・市民の手になる反乱政権を一時的に実現しているので、「中枢となった都市」といえる。
 空欄e 首相ディズレーリが女王にインドの冠をささげる場面のイラストが教科書にのっている。
 空欄f 「国民会議派の他、イスラム教徒の政治団体」とあるので1906年に前者に対抗してイギリスがつくらせたもの。
 下線部(13)空欄g インドと空欄のパキスタンを独立させたときのイギリスの首相はアトリー。かれの政党はなにか、という問。第二次世界大戦末期の選挙で保守党のチャーチルが敗北している。ポツダム会談の途中から当選したアトリーに交代もしている。
 空欄h 空欄の前にある「1955年」がなによりのヒント。
 下線部(14) 「ジュネーヴ会議」が1954年、「会議の直前、フランスがインドシナで敗れた戦い」は、1997年の第3問の論述問題としても出ているので参照されたい。
 空欄 i 「平和五原則」を発表した相手の中国の首相(正式には国務総理)はだれか、という問。
 下線部(15) 前大統領トルーマンの「封じ込め」政策に代わって「巻き返し」政策を唱えた人物。
 空欄 j 中国領チベット自治区でダライ=ラマを中心とする反中国運動がおこり、これを鎮圧するなかでインド軍と中国軍が衝突した。「中印国境紛争」といわれているものである。「平和五原則」のときは国境問題で争わないことを宣言したはずだった。しかし1959年の「チベット反乱」でダライ=ラマがインド亡命したことから中印関係は緊張し、1960年の周恩来・ネール会談も不成立に終わり、この1962年には大規模な武力衝突に発展した。
 もともと中国とチベットとの関係はすっきりしていない。第二次世界大戦後、ショウ介石の中華民国はチベットに自治権を認めたが、その後中国では内戦を経て共産党の中華人民共和国が成立し、1951年にチベットに軍隊を侵入させ、中国の宗主権を認めさせた。チベットの自治権の確立・現行制度の維持を認めながらも圧力をつよめたため、59年首都ラサを中心に反中国暴動がおこる。人民解放軍が大量にチベットに投入されたため、14代ダライ=ラマはインドに亡命した。今は完全に中国共産党の支配下にある。文化大革命のときはラマ教寺院が徹底的に破壊されたが、今はまた再建されている。中国にとっては、「ダライ=ラマは分裂主義者」との位置づけである。しかしラマ教徒にとっては今も崇拝の対象であり、おおっぴらにダライ=ラマの肖像画を掲げてはならないが、各家庭に飾られている。チベット自治区の9万人の共産党員のうち、ラマ僧がひとりもいないことは言うまでもない。

<解答例>
第1問(君の答え) 
第2問
 a オゴタイ=ハン  b サマルカンド  c ウズベク
d オイラート    e ジュンガル
(1)クリルタイ  (2)アンカラ(アンゴラ)の戦い
 (3)ミニアチュール(細密画)
(4)(ア)鄭和  (イ)マラッカ王国  (5)バーブル  
(6)(ア)ラマ教 (イ)ダライ=ラマ (7)土木(堡)の変
(8)新疆

 f 青海  g 八旗  h 三藩の乱  i 古今図書集成
  j 四庫全書
(9)(ア)愛琿(アイグン)条約  (イ)1860年
(10)(ア)李氏朝鮮  (イ)黎朝
(11)(ア)殿試  (イ)進士
(12)(ア)弥勒下生信仰  (イ)四川省
(13)(ア)李贄(李卓吾) (イ)王守仁(王陽明)

第3問(君の答え)
第4問
A a クロアティア (1)ベルリン会議 (2)キリロス(キュリロス) (3)ラテン帝国 (4)カール1世(カール大帝、シャルルマーニュ) (5)(ア)コソボ (イ)アルバニア人 (6)ギリシア (7)(ア)イエニチェリ(イェニチェリ) (イ)う
B b ロシア c 騎士団(騎士修道会) d ホーエンツォレルン
 (8)西部ドイツでライン同盟が結成され、神聖ローマ帝国が滅亡した。(9)1 神聖ローマ帝国の復活はなく、ドイツ諸邦が39にまとまりドイツ連邦を形成、 2 ネーデルラントが連邦共和国から王国に 3 絶対王政でない立憲君主政のブルボン朝、4 英国が戦時中進出していたセイロン島・ケープ植民地・マルタ島の領有)  (10)大ドイツ主義にこだわった。関税同盟諸国に工業・商業面でおくれた。(工業未発達で農業中心の後進地域を占めていた。産業革命が進展しなかった。多民族性が一体化の障害となった。) (11)パリ市民が降伏を拒否して防衛隊をつくり自治政府をつくろうとしていた
C e ヴィクトリア女王 f 全インド=ムスリム連盟 g パキスタン h アジア・アフリカ会議 i 周恩来 j ティベット (12)デリー (13)労働党 (14)ディエン・ビエン・フーの戦い (15)ダレス