世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史1999

第1問(20点)
 19世紀になると、アジア諸地域では、ヨーロッパ列強の進出に対する抵抗運動が展開された。また同時に、近代化をはかって自らを変革する試みも見られた。19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至るトルコの近代化の動きについて、政体の変化を中心に300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 紀元前221年に中国全土を統一した秦は、わずか15年で滅亡し、劉邦が長安に都を定めて漢王朝を建てた。第7代の武帝は、全国を直接に支配する中央集権体制を確立し、はじめて年号を定め、儒学を官学とした。武帝は対外的にも積極策をとり、東北では(1)朝鮮半島北部に遠征して4郡をおき、南は[ a ]を滅ぼしてヴェトナム中部まで支配した。これらの外征によって国家財政は苦しくなり、その打開策として、均輸・平準法や、国が利益を独占する[ b ]の専売を行った。
 紀元前後の中国では、漢王室の外戚であった王★モウが、古代儒教の理想政治を実現させようと、政権奪取に向けて派手な言行を積み重ねていた。漢を纂奪して即位した王モウは、国を新と号し、地方制度の大規模な組織変更や貨幣の改鋳を断行した。しかし、あまりにも急激な改革であったので、行政機構などを混乱におとしいれ、各地に反乱が相次いで、新はわずか15年で幕をおろす。王モウが、新王朝を発足させるに当たって、禅譲革命の形式を整えようとしたことは、その後につづく諸王朝に大きな影響を与えることになった。中国では、王朝が交代することを、天命が革まる、すなわち革命と称した。その革命の仕方に二つの方式があり、武力で前の王朝を滅ぼすのを[ c ]とよび、前の天子が平和的に一族以外の有徳者に位をゆずるのを禅譲という。禅も譲もともにゆずるという意味である。禅譲は、中国上古の伝説上の天子、堯が有徳の舜に位を譲り、その舜がまた禹に位を譲ったのを見習おうとするもので、歴史時代になっては、この王モウが先例を開いたのであった。漢王朝を再興した後漢の光武帝劉秀は、王モウ政治の全否定を標榜したにもかかわらず、(2)儒学の尊重に関しては、儒教の理想国家を夢見た王莽の後継者であった
 後漢の献帝から禅譲されて、(3)国を魏と号したのが曹丕で、後漢の国都をそのまま都とした。禅譲の方式は、これ以後、両晋・南北朝、隋唐・(4)五代の諸王朝をへて、960年に[ d ]が宋を建国するまで受けつがれる。しかし、宋からモンゴル族の元王朝に交代する段階以降は、踏襲されなかった。

(1) 4郡のうち、代表的な郡名を1つあげよ。
 (2) 後漢の儒学は、訓詁学が中心であった。代表的な学者を1人あげよ。
 (3) 後漢や魏が国都を置いた都市名をあげよ。
 (4) 五代の諸王朝のうち、開封の地に国都を置かなかった王朝名をあげよ。

B 現在の(5)中華人民共和国の首都である北京の地に都が置かれるようになったのは、春秋戦国時代を別とすれば、10世紀以後のことである。まず[ e ]の治下、五京のなかの一つとされ、ついで女真族の金朝中期、正式な国都として中都と呼ばれた。13世紀はじめ、モンゴル帝国が出現し、およそ半世紀ののち、全モンゴル諸国家の宗主国となった元朝は、(6)首都をモンゴル高原の[ f ]から中都の近郊に造営した[ g ]に移した。これは北京の直接の前身である。モンゴルを中華本土より駆逐した明朝は、はじめ長江以南の南京を都としたが、(7)しばらくして[ g ]の地に遷都して北京と称した。以後、(8)清代には南京を首都とする政権も出現したが、おおむねは北京が首都でありつづけた。

(5) 北京が中華人民共和国の首都となったのは何年か。
 (6) この遷都を行ったのは誰か。
 (7) この遷都の背景となった内乱は、何と呼ばれるか。
 (8) この政権は南京を何と改称したか。

第3問(20点) 
 独仏国境に位置するアルザス・ロレーヌ地方の住民は、両国が戦火を交えるたびに国籍の変更を迫られた。19世紀半ばから今日までの独仏関係を中心に、この地方の歴史を300字以内で説明せよ。解答は、所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第4問(30点)  
 次の文章(a、b)を読み、下線部(1)〜(10)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
a (1)インド=ヨーロッパ語族に属するギリシア人がバルカン半島に南下・定住を始めたのは紀元前2000年頃のことである。彼らは前8世紀頃からギリシア本土やエーゲ海の島々、そして小アジア西岸にポリスと呼ばれる都市国家を数多く建てたが、(2)それらのポリスのうち政治や社会の状態についてとりわけ詳しく知ることができるのはアテネである。その数1、000を超えるともいわれるポリスから成るギリシア人の世界は、一つの国家にまとまることはなく、ポリス間は慢性的な戦争状態にあった。(3)前5世紀前半に東方のペルシア帝国の侵攻に対してギリシア人は協力して戦い、戦後にペルシアの報復に備えて同盟を結成した。しかし、やがてデロス同盟の盟主としてほかのポリスを支配する海軍国アテネと、ペロポネソス同盟を率いる(4)陸軍国スパルタとが対立し、(5)前431年にはギリシア世界を二分する大戦争が起こった

(1) このギリシア人の一派が前16世紀頃から前13世紀頃にかけて生み出した文明を何と呼ぶか。
 (2) 今日アテネの政治体制などがよく知られるのは、19世紀にエジプト出土のパピルスから発見された作品『アテナイ人の国制』の記述によるところが大きい。この作品の著者とされる哲学者の名を記せ。
 (3) このペルシア帝国との戦いを経たことによって、アテネの政治はどのように変化したか。ごく簡潔に説明せよ。
 (4) スパルタの政治体制の要点を50字以内で説明せよ。
 (5) この戦争の歴史を書いた同時代の著名な歴史家の名を記せ。

b 北欧のスカンディナヴィア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派は、ノルマンあるいはヴァイキングと呼ばれ、海上に活動して商業を行うとともに、海賊行為をも行って恐れられていた。(6)彼らは8世紀末頃から西ヨーロッパ各地に進出し、(7)大ブリテン島では激しい侵入を繰り返したあげく、1016年にはその王クヌート(カヌート)が一時イングランドを支配した。西フランク王国領にも侵入した彼らの一派は、10世紀初めに北フランスの一角に所領を与えられて(8)ノルマンディー公国を建て、(9)そこからさらに地中海にも進出して南イタリアとシチリアを征服し国家を建設した。ノルマン人は故地のスカンティナヴィア半島でもノルウェー王国、スウェーデン王国を建て、ユトランド半島にデンマーク王国を建てたが、(10)この3国は14世紀末に同君連合を形成した

(6) 8世紀末のヨーロッパの政治情勢について説明した文章として適切なものを次から選んで記号で答えよ。
 (a) メロヴィング家のクローヴィスがフランク族を統一して強国となった。
 (b) メルセン条約によって、フランク王国の領土は三分された。
 (c) カール大帝が西ヨーロッパの主な地域を統一した。
 (d) オットー1世がマジャール人を撃退し、教皇からローマ皇帝の帝冠を授けられた。
 (7) イングランドに侵入した彼らは何と呼ばれるか。
 (8) 11世紀後半にノルマンディー公のウィリアムはイングランドを征服してノルマン朝を開いたが、彼が徴税のために作らせた全国的な土地調査簿の名を記せ。
 (9) ノルマン人がシチリアや南イタリアに進出した11〜12世紀に、北イタリアでは諸都市がその体質を大きく変化させようとしていた。この点について簡潔に説明せよ。
 (10) この連合を一般に何と呼んでいるか。

(B) 
 次の文章の[  ]の中に適切な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(8)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
 イギリス、オランダ両国が東南アジアの海域に進出したのは16世紀の末のことである。(1)1581年に本国スペインに対して独立を宣言し、リスボンヘの入港を禁止されたオランダは、胡椒・香料の直接入手をはかって1595年にはジャワ島のバンテンに到達、その後ポルトガル人の貿易拠点を奪って香料貿易の実権を獲得した。フランドル地方のアントワープが、1585年にスペインの軍隊によって包囲・破壊された後、スペインとの対立を深めオランダを軍事支援していたイギリスも、追随して東南アジアヘの進出をはたした。
 オランダは当初、港市ごとに会社が乱立し貿易競争をくりひろげたが、(2)1600年にイギリスで東インド会社が設立されるとオランダも連合東インド会社を発足させアフリカ南端からアジアを経て南米大陸南端にいたるまでの領域における貿易の独占権をあたえた。東インド会社は、軍隊をもち、各地に要塞を築いて、武力にまもられて貿易を行った。両国の東インド会社ははじめ協調していたが、しだいに関係は悪化し、1623年に起きた[ a ]事件をきっかけに、イギリス東インド会社は香料貿易から撤退して活動の中心をインド亜大陸に移した。インドでは、イギリスは先行したポルトガル、オランダの勢力範囲を避け、最初北西インドのスラトに商館を置いた。これはイギリスにとっては幸運であった。というのはこの地方は、後に(3)インドからの最大の輸入品となった製品の主要な産地のひとつであったからである。
 イギリス東インド会社はやがてインドにおける拠点をマドラス、ボンベイと拡大し、17世紀末には、後にインド最大の植民地都市となる[ b ]の建設を開始した。インドでは、イギリス東インド会社は、(4)フランスの東インド会社と権益を争ったが、(5)1757年のプラッシーの戦いで在地の権力と結んだフランス東インド会社軍を破り、フランスを圧倒した。1765年にはムガル帝国皇帝からベンガル地方の徴税権を獲得し、イギリス東インド会社は事実上の政府として領土の支配を開始した。このような東インド会社をイギリスの議会・政府は、(6)1773年と1784年の2回の議会立法を通じて統制下に置き、そのことでインドの一部を間接的に統治することになった。さらに(7)いくどかの戦争を通じてインドにおけるイギリスの支配領域は拡大する。19世紀に入ると、(8)イギリス国内では東インド会社の貿易の独占に反対する声がしだいに強まり、1813年の新特許状では、[ c ]の取引の特権を残して独占が廃止され、1834年以降は会社の商業部門を廃して、東インド会社は統治機関としての性格をいっそう強化した。

(1) 独立の主体となった同盟は何か。
 (2) これに関連し、スペインが行っていた対アジア・アメリカ貿易の形態の特徴を簡単に説明せよ。
 (3) この製品は何か。
 (4) 活動を停止していたフランス東インド会社を、1664年に再組織したフランスの財務長官は誰か。
 (5) この戦争と同じ時期に、ヨーロッパで行われていた戦争は何か。
 (6) この2つの年の間に、北米大陸で進展した事態について、60字以内で説明せよ。
 (7) これに該当する戦争の名を2つ記せ。
 (8) この背景を簡単に説明せよ。

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コメント
第1問 遭難事故が起きたのは、1890年(明治23年)9月16日夜。トルコの軍艦「エルトグルル号」(2344トン)が帰国途中、台風に遭い和歌山県串本(くしもと)町沖で座礁、岩礁に激突して大破した。串本町所蔵の当時の大島村村長日誌によると、事故翌日の17日朝から、樫野(かしの)地区60戸が総出で漁船を出して遺体を収容、生存者を寺や学校に泊めた。ボロボロになった衣服に代わって貴重品だった浴衣を分け、蓄えていた当時は少ないサツマイモやニワトリなどを食料に提供した、という。それでも、650人の乗組員のうち助かったのは69人だった。献身的な地元の救出作業に感動したトルコ側が、遭難海域を見渡す大島・樫野崎に墓地や記念碑を建て、いまも、その墓地を地元の樫野小学校の児童が清掃、トルコ首相からプレゼントが贈られるなど、交流が続いてきた(朝日新聞、1990年1月17日夕刊)。
 時のオスマン=トルコ帝国スルタンはアブデュル=ハミト2世という専制君主であり、パン=イスラム主義を宣揚すべくアジアに軍艦を派遣していた。この事故が日土友好のきっかけになったことは別として、なにかトルコ帝国の近代化の命運を象徴してもいるようだ。 問題は「19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至るトルコの近代化の動きについて、政体の変化を中心に300字以内で述べよ」であった。
 教科書では三つに分けて書いてあることを、この問題はひとつにまとめて簡潔に書くことを要求している。(1)帝国主義以前(1870年代以前)のヨーロッパ諸国のアジア進出、(2)帝国主義時代、(3)第一次世界大戦の後に記載してある。それぞれ「タンジマート(恩恵改革)」、「ミドハト憲法」「トルコ革命」の三つである。記載してある三つの記事を全部合わせると1000字ちかくあり、論述を書くための量としては充分データが与えられている、といっていい。無理難題ではない。全部を正確に記憶・理解をしていなくてもある程度書けるだろう。論述で満点はとれなくてもいいのだから。
 教科書であちこちに分けて書いてあることを、まとめて書かせる、という論述の問題の出し方は一般的によく使われる手法である。
 たとえば、98年度の「紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷」、97年度の「五四運動期に起こった文化運動について、清代に流行した学術と1989年の天安門事件とを視野におさめ」、92年度の「アヘン戦争における敗北と太平天国による動乱を経た清朝は、さまざまな近代化政策を採らざるをえなくなった。この動きのなかで、戊戌の変法はどのような位置を占めているのか、日露戦争の前後までを視野におさめ」という具合。本年度の東大の問題「紀元前3世紀から紀元15世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか」もそうである。
 これらは、いわゆる「流れ」「編年体」の問題であり(97と92年度のは意義の問題だが、流れを知らないと意義も書けない)、できるだけ欠落しないで、データを簡略化しながら書き込むという作業・組み立て方が必要である。論述の対策の一つとして、教科書の1ページくらいの内容を300字、それをさらに100字と縮約する練習が必要だ。
 問題を分解すると、時間が「19世紀半ばのオスマン帝国期から第一次世界大戦後のトルコ共和国期に至る」、内容の主問(主たる要求)は「トルコの近代化の動きについて」、副問(副次的要求、的を絞らせる要求)は「政体の変化を中心に」、事務的要求は「300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ」である。
 「近代化」ということばは、いろいろ議論のあることばだが、単純化すれば機械と議会の導入のことである。言い換えれば、工業化と民主化、産業革命と議会政治への転換である。イギリスが先駆者となって、17世紀に市民革命を、18世紀に産業革命を実現したが、それに見習おうという全世界的追っかけっこである。遅れた国々にとっては、それが「富国強兵」「殖産興業」「洋務運動」「変法自強」となり、たいていは「上から(国家主導で)の近代化」となる。これがトルコ(19世紀からは正式名称のオスマン=トルコ帝国という表現を使わなくなってくる)の場合、「タンジマート」であり、その頂点としての「ミドハト憲法」となる。
 これらの近代化運動のどれにも共通するのは、(1)近代化の刺激が外圧にあり、(2)近代化の努力をしていけばいくほど欧米列強に従属していき、(3)たいていは挫折する。しかも、かえって国の命運が危うくなるというコースである。これは中国でも朝鮮でもイランでもエジプトでもみることができる。(4)「挫折」といわれているものの、実際には完全な挫折はなく、そこから新しいものが着実に育っていくことも事実である。洋務運動は日清戦争によって挫折したと教科書に書いてあるが、本当か? だいたい洋務運動は対外戦争に勝つために行ったものではないから、戦争による挫折は変な評価であり、この運動のなかで機械工業がおき、新しい企業が生まれ、欧米思想を学ぶ知識人が育った。タンジマートも遅々とした歩みではあったが、教育会議の設置、民事および刑事混合法廷の開設とつづき、西欧思想を学ぶ知識人(新オスマン人という)がここにも育成された。これは延々とつづき20世紀の革命の担い手になっていく。
 現状のシステム(この問題では「政体」)を変えなくては亡国の地獄がまっている、植民地になる、という恐怖の下で、人はどう動くか。意外だが、(1)なによりも、動かない・変えないことが正しいと考える人間が大半であることを知らねばならない。これはなにも歴史でなくとも、これから君自身が経験するはずだ。(2)わずかな人たちが変えようと決心して動くが、非難・孤立・失職の窮地に陥る。変えにくいことがシステムの性質でもあるからだ。
 (1)の例として、トルコの場合は、スルタン自身が自分と信仰の神聖性を強調する復古的な例がそれにあたる。スルタンのアブデュル=ハミト2世(位1876〜1909)が、スルタン・カリフ制を強調するとか、ダマスクス・メディナ間のヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)を建設するとか、第一次世界大戦に際して全世界のイスラム教徒に向けてジハード(聖戦)を宣するとか。これらのことをパン=イスラム主義という。あるいは、団結を強調する者もそうである。それは変革拒否の裏返しなのだが、さも危機を乗り越える態度として正しいと錯覚する。これはオスマン主義といって、オスマン帝国の住民すべてが、宗教・民族の違いをこえて同じ権利を得、それによって帝国の政治的一体性を守ろうとする立場である。これらの精神主義が、物的な力(軍事力と資本)でやってくる列強に対して無効であることは自明である。
 (2)の例としてミドハト=パシャがある。わずかな人が、西欧の物的な力を正確に認識して、根本的な改革でなければ乗り切れないと自覚する。その一人がミドハト=パシャ(1822〜84)である。アブドュル=ハミト2世即位ののち、大宰相に任ぜられ「1876年憲法(ミドハト憲法)」を自ら起草・発布した。だがスルタンは、列強の内政干渉や国内の立憲運動を避けるためにパシャを必要としたのであり、パシャは40日足らずで罷免され、前々帝の死因をめぐって死刑の宣告を受けた。のちに減刑され、メッカの南東のターイフに幽閉されたが、結局は殺された。
【解答】
例1
19世紀のなかば、スルタンは司法・軍事などのタンジマートを実施した。これにより神権的なイスラム国家を法治主義にもとづく近代国家へと一新したが、西欧化政策は外国資本への従属をかえって進めた。クリミア戦争のあと国内に立憲制への要求が高まると、1876年宰相によりミドハト憲法が発布されたが、スルタンは露土戦争の勃発を口実に憲法を停止した。憲法停止に不満な人々が統一と進歩委員会を結成して首都に進軍し、1908年政府にせまってミドハト憲法を復活させ立憲君主政とした。第一次世界大戦に参戦して敗れたため、弱体な帝政を批判してケマル=パシャがトルコ大国民会議を組織してたちあがり、1922年スルタン制を廃止し共和国を樹立した。
例2
クリミア戦争以前から、政教一致のスルタン=カリフ制の下で、タンジマートが進められていた。この西欧化は保守派の反発を招き、西欧諸国の内政干渉や経済的進出をまねく結果となった。その後、内外からの改革の要求で、1876年ミドハト憲法が制定され立憲君主政となった。だが政府批判を強めた議会を危険視し、皇帝は露土戦争の開戦を口実に憲法を凍結し、皇帝専制体制を強化した。それに不満をもつ一派は青年トルコを結成して、1908年、サロニカ革命を起こし、ミトハト憲法を復活させ立憲君主体制を再現した。第一次世界大戦の敗北の後、ケマル=パシャが国民党を率いて革命を指導し、スルタン制を廃止して共和国を建設、ついで政教を分離した。

 この二つの解答は、できるだけ教科書にそったものをこころがけてつくった。採点・加点のポイントは三つの改革について、正しい説明がついていることであろう。時代の順、改革の名称、その内容が判定の対象になる。たとえば、「タンジマートが行なわれ、その後、ミドハト憲法を実施し」と説明なしで、たてつづけに記載しないほうがいいだろう。三つの改革の内容についてのポイントが設定されているだろうから。
 また「政体の変化を中心に」とあるので、改革の前提としての君主制(専制君主政/スルタン=カリフ制)が必要だ。次に官僚による種々の改革であるタンジマート、そしてミドハト憲法による立憲君主政、その否定、かつ青年トルコ(サロニカ)革命による立憲君主政の復活、さいごに共和政は不可欠である。このさいごのところで「ローマ字採用、治外法権の廃止、関税自主権の回復」などは不要である。
 また「ミドハト憲法により立憲制が開始された。しかし露土戦争の勃発を口実に憲法は停止され、スルタンの専制政治が復活した。1908年の青年トルコ革命により……」という風に、ミドハト憲法と青年トルコ(統一と進歩委員会)の関連のない記述も避けるべきだろう。

第2問
A この文章はなにを言おうとしたのかハッキリしない。禅譲の話が中心みたいなのだが、するとはじめの段落の武帝がなぜ必要なのか判らない。もっとも受験生から見れば、文章なぞ、どうでもいいわけで、なにより易しい問題になっているところがとりえである。
 しかしいかにも中国史らしい革命の説明は論述のテーマにもなりうるので解説を少し加えておきたい。
 その核心部分は「中国では、王朝が交代することを、天命が革まる、すなわち革命と称した。その革命の仕方に二つの方式があり、武力で前の王朝を滅ぼすのを[ c ]とよび、前の天子が平和的に一族以外の有徳者に位をゆずるのを禅譲という。禅も譲もともにゆずるという意味である」とあるところ。この革命ということばは、殷から周に代わるときに「易姓革命」という表現で学生が学ぶ用語である。西欧は政治的・社会的変革を伴うが、変革のない中国のように皇室の交替にすぎないものとは違っている。
 この革命のポイントは「天命」というわけのわからない用語にある。天命を受けた有徳者が位をゆずりうける、というお話を中国はつくりあげてきた。実際は暴力(強制)による交替(放伐)しかないのだが、暴力を正当化(ごまかし)のために、「天命、すなわち天の命令(意志)を受けている」からだという神話をつくって、まわりを無理矢理納得させるという方法である。
 天とは何ものなのか。中国では人民の意志のことである、という(『尚書』)。人心が王朝から離れたら、他の王朝に代わるのが、天の意志、かつ民の意志であるという。天人合一なのだ。無徳の君主は討伐されるべきであり、新たな有徳者が交替する。ということは皇帝はいつも民の意志により打倒される可能性をもっている。「君臨すれど統治せず」といって政治から離れ安穏な生活が保障されているイギリスの国王や日本の天皇とはちがうのである。黄巾の乱は「蒼天(そうてん=漢のこと)已(すで)に死す、黄天(こうてん)当(まさ)に立つべし」と唱えて決起したが、ここに天人合一の考えがある。これを「権威の還流構造」と名づけた学者もいる。
 第1問の、危機に対処して変革するのが、なかなか難しいという説明をしたが、変革の方法のヒントがここにありそうだ。天が民だということは、言いなおせば「数」のことではないか。支持者をふやすことだといってもいい。もちろん変革の提唱者ははじめは少ない。しかし説得をつづけていく。10人のうち2人か3人の支持者があればしめたものだ。たいていのひとは決断することを嫌い、大勢がどう動くかうかがっており、いざとなれば、はじめは反対していても、大勢がどうも変革の方向に動きだしていると推理しだしたら提唱者についてくるものだ。中国共産党は1921年の結党当時、57人しか党員がいなかったのだが、いまは13億人の支配者である。
 問(4)だけが、難問奇問狂問といっていい。後唐だけが都を洛陽にしている。こうした珍問は、たとえば、五代で一番短命な王朝はなにか(後漢の3年)、五代で漢人の王朝でないのはどれか(後唐後晉後漢)、建国者が2字の王朝はなにか(後周の郭威)、三武一宗の法難を最後におこなったのは五代のなんという皇帝か(後周の世宗)、という五代クイズでもやっとかなくてはならないのか。できなくていい問題だった。

B 私大の問題のような北京史である。
 契丹族の遼が南下して燕雲十六州を獲得し、北京を占領、五京の一つ(副都)として南京と命名した。北にあるのに「南京」とは変な、と思われるかもしれないが、契丹全体の位置からは最南端なのである。遼のあとに女真族の金は、遼を滅ぼしてこの南京を占領し、「中都」と呼んだ。これも金の支配地域全体からは中間にあることが地図を見ると判るはずだ。しかし中都も1215年、モンゴル軍の侵入により破壊され廃墟と化した。モンゴル帝国の第5代の皇帝フビライ=ハンは、中都のあとに新都の建設を命じ、7年の歳月をへて完成させ、これを大都(大汗の都、カンバリク)と命名した。このように南→中→北と形容される順に名前が変った。
 問(8) これは太平天国の都を問うている。

第3問 クリスマス・ツリーのはじまった地域はアルザスらしい。文字の記録としてもっとも早いのは、1605年のアルザス地方の旅行記で、シュトラスブルク(現ストラスブール)でクリスマスに色紙で作ったバラの花やリンゴや砂糖などを飾った木を立てると記されているからだ。
 日本でわりと知られているアルザス人としては、バッハのオルガン奏者であり、アフリカの医師であり、52年ノーベル平和賞を受けたシュワイツァーがある。映画『ローマの休日』(1953)や『ベン・ハー』(1959)で知られるワイラー監督もアルザス出身である。世界史頻出家系といえばハプスブルク家だが、この家もアルザスとスイスを根拠に拡張に成功した。ドレフュス事件のドレフュス家は17世紀からつづくアルザスのユダヤ人である。ロレーヌ出身としては、ロレーヌのドンレミ村で生まれたジャンヌ・ダルクがおり、諸君が大学で学ぶだろう社会学者にロレーヌ出身のデュルケーム(1858〜1917)がいる。
 この問題の「19世紀半ばから今日までの」期間に、この地方は戦争のたびに仏、独、仏、独、仏と5回も国籍が変わった。これを一人の生涯で経験した人々もいた。ドイツとフランスの間を骰子(さいころ)のように振り転がされた地方である。問題の要求は「国籍の変更……独仏関係を中心に、この地方の歴史を」であるから、この骰子がどちらに転がったかを5つつづればいい。そのうちの一つである第二次世界大戦中のドイツによる占領は抜けやすいが、一つぐらい抜けても合格点には達するだろう。
 (1)フランス領→(2)普仏戦争でドイツ領→(3)第一次世界大戦でフランス領→(4)第二次世界大戦中にドイツ領→(5)戦後フランス領の順である。
 普仏戦争のときにドイツを嫌ってフランスやアルジェリアに亡命した人は15万8000人いた。第2次大戦中アルザス人は約13万人の若者が独軍兵士として徴用された。これらの「自らの意志に反した兵士」と呼ばれた人々はソ連軍との東部戦線に送られて、約47000人の戦死・行方不明者を出した。これが最近まで問題であった。
 「オラドゥール村の虐殺」事件である。ノルマンディーに連合軍が上陸して4日後(1944年6月10日)、120人のナチ親衛隊が乗り込み、総人口1000人にほぼ匹敵する虐殺をこの村で行った。女性と子どもら約500人は教会に集められ、生きたまま建物に火を放たれたという。窓や扉から逃げる人をドイツ兵は機関銃で撃った。戦争でもないのに朝鮮の三・一運動のとき、日本の憲兵が堤岩里で無差別虐殺をおこなったときの殺し方と酷似している。この親衛隊の中に13人のアルザスで徴兵された兵士が加わっていた。53年に始まったオラドゥールの戦犯裁判がフランスの国論を二分した。徴用された彼らの責任は問えるか否か。有罪判決が出たが、フランス国会は特別法で13人を恩赦とした。 
【解答】
例1
19世紀半ば以降、プロイセンの軍事拡張主義的なドイツ統一が進められたが、それはナポレオン3世治下のフランスとの間に摩擦を生じさせ、普仏戦争へと発展した。ドイツ・フランスの国境地帯に位置し、鉱物資源に富むアルザス・ロレーヌ地方は、この戦争の結果戦勝国ドイツへ割譲された。その後ドイツ・フランスが敵対した第一次世界大戦が前者の敗北に終わったため、ヴェルサイユ条約で両地方は再びフランスへ移譲された。ヒトラー率いるナチス=ドイツは第二次世界大戦の初期にフランス北部を占領して両地方も併合したが、大戦末期には連合軍による解放でフランスがアルザス・ロレーヌを取り戻し、その後はフランス領として今日に至っている。(300字)
例2
1870年の普仏戦争の結果、フランスのティエール臨時政府はアルザス・ロレーヌをドイツに割譲した。その後、ドイツはビスマルクの指導下でフランス孤立化を展開するが、ヴィルヘルム2世の親政下で逆に孤立化したことから第一次大戦が勃発した。敗戦したドイツはヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌをフランスに返還し、両地方をめぐる対立は1925年のロカルノ条約で小康状態となるが、ヒトラーの台頭により再燃した。第二次世界大戦後、フランスの提唱によるECSCが発足し、これはその後、EEC・ECさらにEUへと発展した。98年には通貨統合も実現し、独仏のみならずヨーロッパ全体の経済統合がより進展している。(294字)

 例2(創作答案)の最後の文章はおかしい。問題の要求は「国籍の変更……独仏関係を中心に、この地方の歴史を」だから、「第二次世界大戦後」に必ず両地方がフランス領に復帰したことを指摘しなくてはならない。それ以外のことは不要である。なにもEUの歴史を要求されているわけではない。こんな風に書きやすいはずだから創作してみた。問題の中に「今日までの」ということばが入っていても国境問題は第二次世界大戦以後おきていないのだから。もしどうしても書く誘惑にかられたのなら、「アルザス出身のシューマンの提唱により」とするか、「アルザス地方の中心都市ストラスブールは、欧州議会の所在地となっている」とか、なんとかアルザス・ロレーヌにかかわるように書かなくてはならない。なんでも書けばいいというものではない。

第4問(A)
 昨年度のa問題は「ギリシア本土の諸ポリスの対立・抗争が激しさを増していた紀元前4世紀半ばに、北方のマケドニア王国が勢力を急速に拡大してきた」という文章からはじまるヘレニズム史だったが、今年はさかのぼってエーゲ文明とポリスの歴史を問うている。
 問(1) 「ギリシア人の一派」とあるから、民族系統がわからないクレタ文明ではない。「前16世紀頃から前13世紀頃にかけて」とあるからエーゲ文明の後半の文明であることが指示されている。
 問(2) 岩波文庫に村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』がある。100ページの本文に200ページをこえる注と解説がつき、まるで研究書といっていいものになっている。ドラコン以前からペリクレス以後まで直接民主政治の制度が説明してある。著者は政治学の祖といわれるアリストテレス。
 問(3) 10年前の1989年の問題に「パルテノンは紀元前447年から432年にかけて造営され、今日までアテネの繁栄の記念物として残っている。その造営の当時、アテネの政治や経済は、どのような状況にあったか。100字以内で説明せよ」というのがあり、そのリニューアル版といっていい。解答のスペースは、タテ2.5cm、ヨコ13.7cmあり、次の問?のマス目のついた解答欄(50字)とほぼ同じである。89年度のは「状況」説明だが、こんどは政治だけの「変化」である。変化とは、AがBに変ること、ちがうものになることである。たとえば「サラミス海戦の漕手として活躍した無産市民が参政権をえて、成年男子市民の出席する民会が最高機関となり、民主政治が完成した」という答えがあったとして、これは何から何へ変化したのだろうか? 「何から」が不明解であるため、「何へ」も不明解になる。
 厳密に言えば無産市民も参政権はある程度すでに得ている。ソロンの改革のとき民会に参加して賛否を投ずる権利は保証されている。クレイステネスの改革で民主政治は実現していたのたが、それでも官職はすべての市民に開放されていなかった。ペルシア戦争の後は、将軍職など特別のものをのぞいて、ほとんどすべての官職や裁判の陪審員が市民に開放され、かつ抽選で選ばれる、という権利が新たに加わってくる。そして貴族政治の牙城であったアレオパゴス会議の実権も奪われる。市民全員が政治と軍事に専念できる、換言すれば奴隷に生産労働はすべて委ねて消費者としての市民の活動が保証されたのである。
 問(4) 50字しかないので、全体を完全に言い切ることはできない。いろいろな答えが可能だ。だたペリオイコイを「劣格市民」という言い方がまだ流布しているので、言っておかなくてはならないのは、ペリオイコイは周辺民という意味であり、劣格市民ではない。この劣格市民というのはスパルタの市民でありながら、犯罪などでペナルティを課された市民のことをいい、ペリオイコイにはスパルタの市政に参加する権利はまったくないから、非市民である。劣格以前である。
 問(6) ペルシア戦争はヘロドトス、ペロポネソス戦争はトゥキディデス、というのはセンター試験でも区別できなくてはいけない。
 b 
 ノルマン人の移動史は阪大にも一橋大にも出題されており、今年はノルマン年だった。
 問(6) おおざっぱな年号の問題。?486年、?870年、?800年頃、?962年。
 問(7) 主にデンマークのノルマン人。
 問(8) なにかの写真で分厚い本を見たことはないだろうか。これは現在ロンドンの公立記録文書館に所蔵されているそうだ。征服以前はだれの所領であったか、現在はだれが領主であり、その価値・耕地・牧草地・放牧地・森林の広さが記されている。また自由農民・農奴・小屋住農などの人数とその財産、水車・養漁池・家畜の数も記されている。徹底した調査だったことが判る。表現はいろいろで、ブックは同じでも、前のほうはドゥムズデイ、ドームズデー、ドームズデイのどれでもいい。
 問(9) これは真剣に考えたら難しい問題。問題が「その体質を大きく変化」となっているが、たんに自治都市ができた、では答えにならない。前の「体質」がなんであったかが答えなくてはならない。自治都市の成立は後の変化したものだからである。しかもこの成立は西欧全体にあてはまるから、問題の「北イタリア」に特異なものを表現しなくてはいけない。字数制限はないが、問?と同じスペースが与えられている。
 1)前の体質:中世前期(6〜10世紀)は教会をとりしきる司教が、その地位の重要性から領主のような権限をもっていた。司教都市とか宗教都市という。2)後の体質:中世中期(11〜13世紀)になると、十字軍として市民部隊が出港した後の都市内の秩序を確保するために全体を統轄するコンソリ(コンスル)という職務をつくり、これに対してメンバーたる市民がが誓約するという「誓約団体」をつくった。これは司教から独立した政府機関となる。このコンソリには都市貴族が就任した。3)北イタリアの特色:周辺農村をも含み、かつ農村も支配する団体となり、都市の支配層には農村に所領をもつ大領主も住み、大商人・金融業者と共に都市貴族を形成した。こうした北イタリアの中世都市をとくにコムーネという。12世紀末の北・中部イタリアには200〜300のコムーネが存在したという。
 問(10) カルマルはバルト海にのぞむ港湾都市で、スウェーデン南部にあり、かつデンマーク国境に近いカルマル城で、3国全部の摂政としてマルグレーテが選ばれた(1397年)。摂政であって3国の王となったのではない。3国の王となったのは、マルグレーテの姉の孫にあたる15歳のエリク君である。エリク君は覚えなくていい。

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<解答例> 1999
第1問(君の答え)
第2問空欄 a 南越 b 塩鉄 c 放伐 d 趙匡胤  e 遼 f カラコルム(和林) g 大都  問(1)楽浪郡  問(2)鄭玄  問(3)洛陽  問(4)後唐  問(5)1949年  問(6)フビライ=ハン 問(7)靖難の変  問(8)天京
第3問(君の答え)
第4問─(A) 問(1)ミケーネ文明 (2) アリストテレス (3) 無産市民にも参政権が与えられ、民会を最高機関とする直接民主制が確立した。 (4) 厳格な軍国主義体制に基づき、完全市民が周辺民のペリオイコイと国有農耕奴隷であるヘロットを支配した。 (5) トゥキディデス (6) (c) (7) デーン人 (8) ドゥームズデー=ブック (9) 都市は諸侯勢力から自立し、独自の法を持つ自治団体としてのコムーネを形成した。(10) カルマル同盟
第4問─(B) 空欄 a アンボイナ b カルカッタ c 茶  問(1) ユトレヒト同盟  問(2) 新大陸の植民地で獲得した銀で、アジアの特産品を購入し本国に持ち帰った。 問(3) 綿布(木綿) 問(4) コルベール 問(5) 七年戦争 問(6) イギリスはボストン茶会事件を契機に十三州と対立を深め、ミシシッピー川以東の領土を割譲して十三州の独立を承認した。 問(7) マイソール戦争、マラータ戦争(シク戦争) 問(8) 産業革命の進展と産業資本家による自由貿易主義の要求。