世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2005

第1問(20点)
 中国近代史において日中関係は大きな比重を占めるようになる。1911年の辛亥革命から1937年の日中戦争開始までの時期における,日本と中国の関係について,300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A,B)を読み[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(16)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 秦の始皇帝死後の混乱を勝ち抜き,天下を再統一した前漢の高祖は,今日の西安市の北郊[ a ]水の南岸に長安の建設を開始した。この地域には古くから人々が居住し,西安市の東郊では(1)仰韶文化の集落である半坡(はんぱ)遺跡が発見されている。また,西安市の西郊には西周王朝の都城の一つである鎬京があり,[ a ]水の北岸には(2)秦の都である咸陽があった
 前漢の帝位を奪った[ b ]は長安を常安と改名し,引き続き都としたが,内政外交ともその政策はことごとく失敗し,(3)豪族・農民の反乱を招いた。長安は豪族出身の劉玄の攻撃で陥落し,[ b ]も敗死した。劉玄は更始の年号を立てて漢帝国の復興を唱え,長安を都としたが,ほどなく農民軍の攻撃で敗死した。
 後漢・魏・西晋の諸王朝は洛陽を都としたが,西晋が内乱のために弱体化すると,匈奴の族長であった劉淵が今日の山西省で自立して漢王と称した。(4)劉淵の子劉聡は,一族の劉曜を派遣して洛陽を攻略し,西晋の懐帝を捕虜とした。懐帝の甥(おい)の慰帝が長安で即位したが,ほどなく劉曜の攻撃で長安は陥落し,西晋は滅亡した。劉曜はそのまま長安を本拠地とし,前趙を建国した。前趙ついで後趙が衰えたあと,テイ族の苻健(苻堅のミス)が[ c ]を建国して長安を都とした。3代皇帝苻堅は,天下統一を図って東晋に親征したが,ヒ水の戦いで大敗し,王朝は崩壊した。
 (5)華北の再統一を達成した鮮卑族の北魏は,孝文帝の時,洛陽に遷都して漢化政策を進めたが,このことは,北辺の防衛に当たる鎮民の不満を招き,六鎮(りくちん)の乱が勃発した。六鎮の乱ののち,北魏は東西に分裂したが,長安を都とした西魏は、[ d ]制を開始して軍備の充実を図った。西魏の帝位を奪った北周は武帝の時、華北を再統一したが、武帝の死後ほどなく,外戚の[ e ]が北周の帝位を奪って即位した。隋の文帝である。文帝は,旧長安城の東南に[ f ]城を築いた。唐代の長安城はこれに修築を加えたものである。天下を再統一した隋は,(6)大運河を開削して江南の物資を輸送したが,この事実に明らかなように、経済の中心はすでに江南に移りつつあった。唐の滅亡後,(7)五代の諸王朝は大運河と黄河の交差点である[ g ]州(今日の開封)に都を置くようになり,長安は地方都市に転落した。(8)明代には西安府が設置されて今日に残る城壁が築かれた


(1)仰韶文化に特徴的な土器の名を記せ。
(2)秦は孝公の時に咸陽に遷都した。孝公に登用され富国強兵策を実施したとされる人物の名を記せ。
(3)最も代表的な農民反乱の名を記せ。
(4)この事件の名を記せ。
(5)439年に華北の再統一を達成した北魏の皇帝の名を記せ。
(6)大運河のうち,黄河と長安を結ぶ運河の名を記せ。
(7)五代の諸王朝のうち,唯一洛陽を都とした王朝の名を記せ。
(8)17世紀半ば,西安を都に大順国の建国を宣言した農民反乱の指導者の名を記せ。

B インド亜大陸は,北側を高い山脈でさえぎられ,外部との陸路の交通は困難である。それにもかかわらず,史上数多くの民族や軍事集団が,西アジア・中央アジア方面からアフガニスタンを通り[ h ]山脈を越えて西北インドに侵入した。これら諸集団は,ときとして北インドの歴史の流れを方向づけた。
 古くはアーリア人が中央アジア方面から侵入し,前1500年頃までに(9)インダス川流域のパンシャーブ地方に定着した。やがてアーリア人がガンジス川流域に進出し,鉄器を使用して農業生産を増大させると,(10)社会の発展によって生じた階級が固定化され,のちのカースト制度の基礎となった。その後はイラン系やギリシア系の諸集団が侵入し,ときには西北インドを支配下においた。後1世紀半ばに侵入したクシャーナ朝は[ i ]王のときに最盛期を迎え,中央アジアからガンジス川流域までを支配し,(11)西北インドを中心に仏教文化を繁栄させた。クシャーナ朝は3世紀に西方からの攻撃を受けて衰退し,その後北インドを支配したグプタ朝は,エフタルの侵入を受けて6世紀半ばに滅んだ。
 西アジア・中央アジアのイスラム化が進むと,イスラム王朝のガズナ朝やゴール朝がしばしば西北インドに侵入し,13世紀初めゴール朝の将軍[ j ]がデリーを都としてインド最初のイスラム王朝、奴隷王朝をひらいた。その後3世紀にわたって,奴隷王朝にはじまる5つのイスラム王朝が北インドを支配した。(12)16世紀初め中央アジア出身のバーブルがアフガニスタンから北インドに進出し、アフガン系の[ k ]朝を倒してムガル朝をおこした。ムガル朝は第3代君主アクバルのときに最盛期を迎え,行政や徴税の制度が整えられ,またイスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和がはかられた。17世紀後半第6代君主[ 1 ]のときには領土が最大となったが、非イスラム教徒勢力の反乱や財政の悪化にみまわれ,この君主の死後急速に衰退した。
 一方,南インドでは,北インドとかなり様相の異なる歴史が展開された。西側をアラビア海、東側を[ m ]湾に囲まれ南方に外洋の広がる南インドは、海上貿易の重要な拠点であった。前1〜後3世紀にデカン地方を支配したサータヴァーハナ朝や,さらに南方のドラヴィダ系諸王朝は,海上貿易によって繁栄した。(13)南インドを拠点とする海上交通路を通じて,物産だけでなく文化や宗教も各地に伝わった。また南インドでは,北インドの文化の影響を受けながらも,独自のヒンドゥー文化が築かれた。イスラム政権が北インドを支配した時期には,[ n ]王国が、17世紀半ばまでの約300年間、独自のヒンドゥー文化を守り,その後も,デカン地方の[ o ]王国(のちに政治的連合体)など,ヒンドゥー教徒の有力な政権が存在した。


(9)前2300年頃から前1800年頃までインダス川流域にはインダス文明が栄えた。パンジャーブ地方にあるインダス文明の代表的な遺跡の名称を記せ。
(10)階級にしたがって,4つの基本的な身分に区分された。この基本的な身分(または階級)を指し,本来は「色」を意味する語は何か。
(11)クシャーナ朝期には旧来の仏教のほかに,大乗仏教も流行した。2〜3世紀に大乗仏教の教理を確立したのは誰か。
(12)バーブルは,14世紀後半から中央アジアと西アジアを広く支配した王朝の王子であった。(ア)この王朝名を記せ。(イ)16世紀初めにこの王朝を滅ぼした中央アジアのトルコ系民族の名称を記せ。
(13)宗教では,仏教をはじめヒンドゥー教やイスラム教も東南アジアに伝わっており、ジャワ島ではこの3つの宗教すべてが繁栄した。(ア)8〜9世紀にシャイレーンドラ朝が残したとされる,ジャワ島中部の巨大な仏教遺跡の名称を記せ。(イ)16世紀初めイスラム勢力に滅ぼされた,ジャワ島最後のヒンドゥー王国(王朝)とされる王国名(王朝名)を記せ。

第3問(20点)
 18世紀後半から19世紀前半にかけて,大西洋をはさんでアメリカ大陸とヨーロッパの双方で戦争と革命があいついで勃発し,この間にヨーロッパ諸国間の関係は大きく変化した。七年戦争からナポレオン帝国の崩壊にいたる時期にイギリスとフランスの関係はどのように変化したか,300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点〉
 次の文章(A,B,C)の下線部(1)〜(19)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 2004年5月にEU(ヨーロッパ連合)は新たに10カ国を加えて25カ国体制となり,バルカン諸国など一部の国をのぞくヨーロッパの大半の地域が,共通の法や議会をもつ政治組織に統合された。「ヨーロッパ統合」というべき,このような広域的な政治組織は,ヨーロッパ史においては「帝国」として幾度か出現した。ローマ帝国は,(1)紀元2世紀初めには地中海周辺地域からライン,ドナウ河流域地方までを含む最大版図を実現した。そして,(2)3世紀には帝国内部のすべての自由民はローマ市民として共通の法を享受したのである。しかしこの広大な帝国は,決して緊密にまとまった政治組織ではなく,帝政末期,とくにゲルマン民族移動期に入ると,帝国各地域の自立化が進行した。(3)帝国の四分統治は,集権的統治には大きすぎる帝国の効果的な支配と防衛を意図した方策であった
 西ローマ帝国滅亡後,ゲルマン部族国家の興亡の中で成立したフランク王国は,カロリング家のカール大帝のもとで,(4)ヨーロッパの広い範囲を支配下に置いた。第二次世界大戦後のヨーロッパ統合運動の中で,カール大帝が「ヨーロッパの父」と称されたのは,この版図の大きさによるのみではない。800年にはカールはローマ教皇により戴冠され,それにより(5)カールはローマ帝国の政治的伝統およびキリスト教的文化とゲルマン的要素を結合し.ヨーロッパ世界の枠組みを形成したと考えられたからでもある。とりわけカールはキリスト教の保護者として,布教や(6)異教徒との戦いに尽力した。しかしカールの帝国も,ローマ帝国以上に,独自の法や文化,言語を持つ民族・地域のルーズな集合体という性格が顕著であり,9世紀には幾度かの領土分割を経ることになる。統合と多様化の競合は今日までヨーロッパ史を貫く特質である。

(1)このときの皇帝は誰か。
(2)212年に帝国内の自由民すべてにローマ市民権を認めた皇帝は誰か。
(3)この時期に東部でローマ帝国と抗争した国家を記せ。
(4)(ア)下記のEU諸国のうち,その地域の大半がカールの帝国に属していなかったのはどれか。一つ選んで記号で答えよ。
 a オランダ  b ベルギー  c スペイン
 (イ)(ア)で選んだ地域は,当時どのような勢力の下に置かれていたか。
(5)このようにカールの戴冠を,ヨーロッパ文明の成立を象徴するものと見なすことは,西ヨーロッパに偏った見方であるとの批判がある。このような批判が生じる根拠としては,どのような事象が考えられるか。簡潔に述べよ。
(6)帝国東方でカール大帝に敗れ衰退した,モンゴル系とされる遊牧民は何と呼ばれるか。

B つぎの文章は,19世紀後半のヨーロッパで台頭した(7)ある芸術思潮を代表するフランス人の文学者が,1880年に著した『実験小説論』の一節である。

 「あえて法則を規定しようというのではないが,(8)遺伝の問題は人間の知的情的発現に大きな力を持つとわたしは思う。また環境も非常に重要なものであると思う。そのため(9)ダーウィンの学説に触れねばなるまい。」(古賀照一訳)

 この文学者はまた,19世紀末のフランス社会を揺るがした(10)えん罪事件に際して,(11)1898年,「私は告発する」と題する文書を発表し,事件をめぐる政府の対応を非難した。同じ年にフランスの新聞に掲載された風刺マンガ「一族の晩餐(さん)」(図1)も、この事件を扱ったものである。

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(7)(ア)文学者名を記せ。(イ)この文学者が代表する芸術思潮について,それが一般に何と呼ばれているかを明示したうえで,その思潮の特徴を簡潔に説明せよ。
 (ウ)この芸術思潮は絵画にも及んだ。この思潮をフランスにおいて代表し,働く農婦の姿など,貧しい農民の生活を正面から凝視して描いた画家の名前を記せ。
(8)遺伝の影響を過大評価する考えは,人種主義を助長することになり,第二次世界大戦中には,ナチスによる強制収容所でのユダヤ人大量殺害につながっていった。この大量殺害は一般に何と呼ばれているか。
(9)19世紀後半,イギリス人哲学者ハーバート・スペンサーがダーウィンの学説に影響を受け展開した社会思想は,一般に何と呼ばれているか。
(10)この事件の名前を明示したうえで,図1において風刺されている社会状況にも触れながら、事件の概要を簡潔に説明せよ。
(11)19世紀末,フランスはアフリカとアジアにおいて,イギリスやドイツに対抗しながら植民地の拡張に努めた。
 (ア)1898年,ナイル河中・上流域の支配をめぐって,フランスとイギリスが厳しく対立する事件がおきたが,フランス側の譲歩で終わった。この事件は一般に何と呼ばれているか。
 (イ)1898年にドイツ,ロシア,イギリスが中国から租借地を得たことに対抗して,フランスも翌1899年に中国から租借地を得た。フランスの得た租借地の名前を記せ。

C 第二次世界大戦後,かつての国際的な地位を失ったヨーロッパは,アメリカ合衆国とソヴィエト連邦という二超大国間の冷戦の主要な舞台となり,東西に分断された。西欧諸国は(12)合衆国から戦後復興のための大規模な援助を受け,さらに1949年には北大西洋条約を締結して合衆国との政治的・軍事的連携を強めた。その後,西欧諸国は,フランスとドイツ連邦共和国の政治的連携を軸としつつ,経済分野を中心とする統合を推進し,EC(ヨーロッパ共同体)と総称される超国家的組織を形成した。(13)当初6カ国で設立されたECは段階的に加盟国を拡大し,有力な政治的・経済的組織に発展していった。
 一方,東欧諸国では,大戦後数年のうちにソ連の強力な影響のもとに共産主義政党による一党支配の政治体制が相次いで成立し,(14)コミンフォルム,経済相互援助会議,ワルシャワ条約機構などを通じてソ連による事実上の支配が確立した。(15)東欧諸国に断続的に発生した自由化・民主化を求める動きはソ連の軍事的介入などによって弾圧されたが,1980年代のポーランドにおける(16)自主管理労働組合の要求に見られるように,政治体制への不満がくすぶり続けた。ソ連の指導者ゴルバチョフが,(17)ソ連国内の政治・経済・社会のたてなおしを図る改革を進め,また東欧への不介入政策を採用すると,東欧諸国の一党支配体制は急速に崩壊し,(18)1990年のドイツ再統一をもってヨーロッパの東西分断は終焉した。
 ECは1980年代半ばにはさらなる統合へ向けた動きを強め,(19)1992年に締結された条約にもとづいて,EUに発展した。EUは,超国家的諸制度の拡充,域内障壁の撤廃や緩和,共通通貨ユーロの導入などを通じて統合をいっそう深化させ,さらに東欧に領域を拡大することによって,ヨーロッパ全域を代表する組織としてヨーロッパの国際的地位の向上を象徴する存在となっている。


(12)この援助を何と呼ぶか。
(13)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体やヨーロッパ経済共同体の発足当初,イギリスはこれらの組織に参加しなかった。その理由を簡潔に説明せよ。
(14)1948年にこの組織から除名された国の当時の指導者の名前を答えよ。
(15)1950年代から1960年代末までにソ連が軍事的に介入した東欧の国を2つ挙げよ。
(16)この組織の名称を記せ。
(17)この改革を総称して何と呼ぶか。
(18)ドイツ再統一を推進し,統一後最初のドイツ連邦共和国首相の地位にあった人物の名前を答えよ。
(19)この条約が締結された都市名を記せ。
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コメント
第1問
   京大は意識的に過去問と同じ時代やテーマを出題しないようにしています。したがって京大の過去問を解いてみても意味がありません。中国現代史にかんしては変法運動の意義を求めた問題(1992)と、五四運動と天安門事件を無理に結びつけた問題(1996)とがありますが、とくに今回の問題と接点はありません。このことから京大のために対策を立てるのは容易であるともいえます。つまり過去問以外の分野・時代の問題を練習することです(添削の応募者には未出題分野とそれをもとにした予想問題を開示しています)。
 こう言っても最近の過去問を解くのが受験勉強の常道であると信じている高校生と教師、そして予備校もあり、過去問を研究すれば過去問を解く意味がないことは割りだせるのに、なんとも怠慢・鈍感なことです。ここ5年間の過去問を解いてどれだけ役に立ったと今年の受験生が言えるのか? 検証してみたらいいのです。過去問が大事だと言っているのは、たいてい過去問しか教えられず、未出題分野の研究不足と、新たな問題をつくる能力がないことを隠すための言辞です。東大・一橋のように過去問を解くことがかえって得策といえる大学もあります。とくに東大はここ数年、過去問の焼き直し問題文がつづいている大学で、古い古い過去問を解くことこそ適切な受験勉強といえる場合もあります。拙著『世界史論述練習帳 new』の掲載問題が古いと批判めいたことを書いているHPもありますが、いったいどれだけ問題を研究しているのか疑わざるをえません。 比較・関係・特色などの論理的な問題の勉強はなにも過去問でなくても、拙著にある他の大学の問題でもまなべます。
 ことしの京大の問題、1911年から1937年までという時間設定は教科書では3分割されて説明されています。現代史としては、これでも長い時間です。初めは辛亥革命から袁世凱の死まで、次は第一次世界大戦の説明の後に、戦争中の対華二十一カ条要求から北伐、そして共産党の瑞金臨時政府まで、三番目は世界恐慌の説明の後に満州事変がおきて盧溝橋事件・日中戦争と書いてあり、この問題のテーマがばらばらに書いてあることが分かります。論述でなくても、入試のために世界史を学ぶには時間の流れがつづく各国史・地域史で学ぶのが一番分かりやすいものです。教科書に沿って時間をつぎつぎ切られては頭が混乱するばかりです。是非とも各国史で勉強することをすすめます(拙著『『センター世界史B 各駅停車』パレード)。京大はとくに同時代史の視点のない大学ですから余計です。悪くいえば視点が狭い。もちろんこれは入試問題、それも世界史だけの傾向であって京大全体の批判ではない。東大なら各国史と同時代史の双方の視点が必要で、これは過去問から割りだせる両大学のちがいでもあります。
 さて、この問題はどれだけ「日本と中国の関係」を追求できるかが課題です。
 「辛亥革命から」とあるので何らかこの革命に言及しなくてはならないとしても、日本はこの革命にたいして干渉していません。日本史の教科書に書いてあるとおり「不干渉の立場をとった」のです。さもこの革命にたいして進出のためのアクションをとったかのように書いた答案が見られますが、まちがいです(A、K、S)。全く動かなかったのか、というとそうではありません。前言に反するようですが、関東軍他はこの革命の混乱を利用して5つ秘かに動いたことはありましたが、それはみな失敗したのです(『聞き書き ある憲兵の記録』朝日文庫)。
 それでも、どうしてもこの革命にコミットしたことを示そうとおもったら、この革命の挫折から日本に亡命した革命家たちの避難所に日本がなり、これらのひとびとの再起を期す場を提供したことでしょう。
 第二革命の失敗で日本に亡命したのは孫文だけでなく、胡漢民(こかんみん)、黄郛(こうふ)、張継(ちょうけい)、陳其美(ちんきび)、李烈鈞(りれつきん)らがいます。このうち孫文は、袁世凱によって国民党が解散させられた(1913)後、日本で国民党を改組して秘密結社の中華革命党を組織した(1914)ことは教科書にも書いてあります。その上で日本の政界・軍部・実業界などから援助を得ようとしたが成功しなかったようです。
 第一次世界大戦(1914〜18)のときは、西欧がアジアに目を向けられないときを利用して、日本が火事場ドロボーに専念したことは、中国内のドイツの租借地・膠州湾とその中の島・青島占領で示され、また日本は袁世凱に接近し帝政の復活を認めるかわりに対華二十一カ条要求をつきつけました(1915)。これらは書かなくてはならないことです。
 この二十一か条要求のころから北京大学が主となり文学革命がおき、それが戦後の反日五・四運動(1919)につながります。二十一か条要求の撤廃、ドイツ帝国山東利権の返還などを求めて学生達が全国的なデモを展開しました。親日派官僚の家が焼き討ちにあいました。学生だけの反日運動にととまらず、工場・鉄道でストライキがうたれました。その結果、親日派官僚が3人辞職し、ヴェルサイユ講和条約に調印せず、ドイツとは単独講和となりました。
 この際、ワシントン会議に言及するとしても「中国との関係」では、たんに日本の台頭を抑止したということではではだめですね。この会議の場をかりて、日中間の直接交渉がこなわれ、パリ講和会議では認められなかったことについて、日本が山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還する条約が結ばれたこと(日中山東還付条約、1922)を書くべきでしょう。また九カ国条約が結ばれ(1922)、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束されたことを指摘したいものです。それは全体的な傾向を言ったまでのことですから。いずれ日本はこの条約に調印したにもかかわらず無視して中国に侵略します(1937〜45)。
 反日の運動は、なにも30年代まで待たなくても20年代つづけざまに起きています。二十一カ条の要求がなければ南満州諸権益の返還期限になるはずの1923年、上海を中心に中国各地で反日運動がおこりました。さらに上海の日系紡績工場で、解雇をめぐる紛争から中国人労働者の死傷事件がおこり全国的な反帝運動にまで発展しました(五・三○事件、1925)。
 また20年代の軍閥抗争は奉天派の張作霖に日本は肩入れしており、軍閥抗争は列強の代理戦争でした。
 さらにパリで不戦条約(国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし,国家の政策の手段としての戦争を放棄する)に調印した(1928)にもかかわらず、北伐にさいしては北上する国民革命軍(北伐軍)から親日的な張作霖をまもるべく、3次にわたる山東出兵をおこないました(1927〜28)。そのさい第2次山東出兵で北伐軍と武力衝突がおこったりもしています(済南事件)。さらに北伐軍が北京大学にせまると、北伐軍におされている張作霖を日本(関東軍=遼東半島の日本軍)は満州(中国東北)に呼びつけ、奉天郊外で爆殺しています(1928)。
 世界恐慌後の日本は中国に対して露骨な侵略をおこないます。
 まず柳条湖事件から満州事変に発展させ満州国をつくるという一連の侵略です。「事件」という名称が30年代には頻発しますが、これは国民をだます用語です。いかにも小さい単発のできごとにすぎません、という表現です。しかし東北全域をおおう制圧ですから宣戦布告なき戦争をしかけて東北をのっとったという事実にかわりはありません。受験生にとっては、それより柳条湖事件と後の盧溝橋事件との区別ができなくて迷うという点があると大きく失点する可能性がでてきます。り→ろ の順です。
 こうした侵略にたいして中国の提訴で国際連盟もリットン調査団の派遣を決めました。日本の関東軍は既成事実をつくるため、清朝のラストエンペラー溥儀(ふぎ)を執政(のち皇帝)にすえて,満州国を建国させます。調査団がきたとき、リットンは溥儀にも質問をしていますが、それは関東軍に教えられたとおりの答えをすることでした。このあたりは溥儀さんが自伝『わが半生』(新潮文庫)のなかで苦々しく書いています。
 この調査団の報告を拒否して日本は連盟を脱退しますが、これは日中関係というテーマだげにしぼると是非とも書かなくてならないというものではありません。それよりは、この後に、日本は熱河方面(現在の遼寧省西部と河北省東北部)に侵攻し、一時は長城をこえて北京にせまります。1935年になると内モンゴル・華北にまで侵攻し、河北省東部に国民政府から分離した冀東(きとう)防共自治政府(1935〜38)を設置させるところまでいきます。三省堂の教科書は注で、「日本は、1933年、熱河省と河北省を攻略し、河北省東部を非武装地帯とする塘沽(タンクー)停戦協定を中国とむすんだ。1935年には、華北5省を中国から分離する工作を開始し、冀東防共自治政府などのかいらい政権をつくった」と説明しています。これは日本の侵攻をずるずると認めた蒋介石(「蒋」の字は不正確だが外字の表示ができないので、このままつかいます)の意図があくまで共産党をたたくことが先決とみなしているためです。蒋介石によれば、日本は皮膚の病い、共産党は心臓の病いというわけです。日本も共産党も蒋介石は甘く見ていたのでしょう。
 共産党の方は、蒋介石の攻撃をうけて、瑞金の中華ソヴィエト共和国臨時政府を捨てて西方にむかって大移動を始めます。この逃亡行動を共産党はかっこよく「長征(大西遷)」といっています。チベットの近くまで奥地をぐるっと回って北に向かい陝西・甘粛省をめざしました(1934〜36年)。この長征の途中の8月に中国共産党中央部は「抗日救国のための全国同胞に告ぐる書(八・一宣言)」を出して、内戦停止・民族統一戦線結成をよびかけます。西安にいた張学良はこの宣言に反応して共産党攻撃をうながしに来た蒋介石をつかまえ抗日と内戦停止を説得しようとしました(西安事件)。周恩来に延安から飛んできてもらい3人の会談の結果、蒋介石はこれをうけいれ内戦をやめます。といってすぐ第二次国共合作が成立したのではありません。この後の日本の大々的な侵略(日中戦争)がはじまってからです。
 1937年7月7日、七夕です。盧溝橋という大理石の獅子が彫られた欄干をもつ、あの美しい橋(マルコ=ポーロ橋)の下で、日本軍はドンパチをはじめました。中国全土への攻撃の開始です。日本が自ら調印した種々の条約に違反しての軍事行動でした。
 さて書かなくてはならないものを整理しておきましょう。課題の時期は「1911年の辛亥革命から1937年の日中戦争開始まで」であり、テーマは「日本と中国の関係」でした。
 不可欠なものは●のところです。
辛亥革命・第二革命の失敗
 →●亡命者が避難、孫文は東京で中華革命党を結成
第一次世界大戦と○日本の山東侵略
●袁世凱に二十一か条要求
●反日の五・四運動
山東還付 or 九ヶ国条約
上海での反日五・三○事件 or 奉天派(張作霖)支援
●北伐に対する山東出兵(済南事件) or 張作霖爆殺
●柳条湖事件→満州事変→満州国
 →河北をうばう(冀東防共自治政府)
●盧溝橋事件(→日中戦争)

第2問
A
 空欄[a] 渭水(いすい)の南岸にある長安と北岸にある秦の咸陽(かんよう、下線(2))の区別ができるように。この川は渭河でも良いのですが渭水と雅称することが慣例になっています。この河の一帯を渭水盆地ともいいます。
 下線(1) この土器を骨董屋で見せてもらうときはアンダーソンを見せてください、と言えばいい。発見者と土器はくっついて表現されていて、それくらい発見者の名前が日本でも知れわたっているのです。偽物もわんさとあります。
 半坡(はんぱ)遺跡は、村を構成し、直径200〜300メートルの円形の周濠(しゅうごう)に囲まれた住居址(し)で、300近くの竪穴(たてあな)式住居を含み、代表的な彩陶のほかにアワ(粟)、イヌやブタの骨が出土しました。この中の豚の骨には子豚のものもあり飢餓で成長するのが待てなかった時期もあると考古学者は推測しています。
 下線(2) 「孝公に登用され富国強兵策を実施」は、と問うていますが、西の雍(よう)から咸陽に遷都したときの相はだれかでもいい問題でした。あるいは秦において変法をおこなった法家の先駆者は、と問うてもいい。孝公がなくなると守旧派に車裂きの刑に処せられました。
 空欄[b] 「前漢の帝位を奪った[ b ]は長安を常安と改名」とあれば王莽(おうもう)です(「莽」という字も外字で、正しくは草冠の下の字は大ではなく犬です)。改名にこったのはこの王だけではなく始皇帝もそうでした。中国人は日本よりずっと字にたいする思い入れが深いのでしょう。字が変ればすべてが変ったかのように錯覚する
面があるようです。もっとも金も払わず、中国が発明した漢字を日本はつかわせてもらっています。国立国語研究所が60種類の雑誌、総語数41万語あまりを対象に行った統計では和語37%、漢語47%、西洋語起源のいわゆるカタカナ語10%、残り6%が「消しゴム」と言った混成語となっているそうです(1962年)。この統計でわかるように日本人は漢語を今も一番つかっています。
 下線(3) 「代表的」という文章であるように新王朝末期にたくさんの反乱がおきていた。しかし教科書では赤眉の乱(後8)しか書いてない。この乱が導火線となって全土が丸焼けになるくらいに反乱が沸騰しました。しかし王莽は後にのこしたものは大きいのです。なにより儒学です。かれは全国に学・校という儒学をまなぶ校舎をつくり勉強させたことが、その後の中国を決定的に儒学国家にしています。きみも学校という名の校舎にかよったはずです。これは王莽にはじまっています。
 下線(4) 「劉淵の子……西晋は滅亡した」と長い文章が知らない名前とともにつづられているでしょう。しかし結論は西晋をほろぼした事件は、ということです。元号で表現した永嘉の乱(311)です。少し細かいデータです。
 空欄[c] 苻堅(ふけん、本番の問題は苻健という不健全な名前になっていた)という名前で分かるか、それとも後の文章「ヒ(さんずい偏+肥)水の戦い」が南の東晋と北の前秦との戦いだとおもいだせるか。
 下線(5)「華北の再統一を達成した」は一時、前秦の苻堅が華北を統一しています。そのことを受けての問いです。3代目の皇帝で太武帝です。名は諡(おくりな)ですが、 ほんとに太っていたらしい。
 空欄[d] 「軍備の充実」とは中国に長居した鮮卑族が文弱となり、東魏との争いのために鮮卑族では不足気味であり、漢人も兵役の対象とし兵の増強をしたものです。「不平(府兵)は正義(西魏)から」というのが覚えかたです。
 空欄[e] 隋の文帝という建国者でありながら「文帝」とおくりなされるのは、この他に三国魏の曹丕(そうひ)です。この皇帝も九品官人法・屯田法と内政に功績のあった人物。この隋の建国者は魏晉南北朝時代のさまざまな政策を吸収して集大成した人物です。
 空欄[f] 隋の都はなに? という問いです。中国の王朝は変るたびに都城は破壊され燃やされてしまうので、前の王朝の名前はつかわず、新たな名前がつけられます。「大興城」というのが正式名称です。英語で Great Recovery City とでも訳せばいいでしょうか。長い魏晉南北朝の時代が終わったのにはふさわしい名前でしょう。
 下線(6) 意外な問題です。私大ではだいたい息子の煬帝(ようだい)が完成した「く」の字型の東方の長い運河の名称をとうのですが、これは楊堅・文帝が完成した都と黄河をむすぶ運河の名称です。広通渠(こうつうきょ)は教科書には地図の中にのっていますから確かめてください。
 下線(7) これはつまらない細かい問題です。しだいに京大も瑣末な問題を出すようになってきました。五代の2番目、次の後晋がこの王朝をたおすときに契丹の援助をうけ、燕雲十六州を割譲することになったといういわれの王朝です。これは2001年度の第2問に「洛陽に首都を置いた後唐を除き、宋朝に至るまでそれが続く。この東京に対して」という文章でのっていました。出題者とおもわれる教授の著書にも「後唐は洛陽を都にした。五代期で開封に都がおかれなかったのはこの後唐時代だけである」としつこく書いています。中国史だけは細かく勉強してこいという指示でしょうか。
 空欄[g] この都市べん京(「べん」も外字)は張拓端(ちょうたくたん)の「清明上河図(せいめいじょうがず)」に描かれた都市国家です。清明節(4月5日)の祭をかねた都市のにぎわいを写したものとして教科書にもよくのっている絵です。このホームページの我楽苦多教室→絵画箱にものせています。
 下線(8) 「17世紀半ば」は明清の交代期です。とすると明朝を滅ぼした反乱の指導者しかありません。「大順国」を知らなくてもできる問題です。現在の中国共産党はこの反乱を高く評価しています。略奪があたりまえの農民反乱軍ではなく、軍紀をちゃんともち農民に迷惑をかけず、つくりたい国家像を歌にしてはやらせたという計画的な点が共産党軍もそうだったということらしい。

B 珍しいインド史です。
 空欄[h] 地理の問題です。「アフガニスタンを通り[ h ]山脈を越えて西北インド」とあるのでインドという空間をつくっているひとつの壁といっていい山脈の名前です。ヒンドゥークシュ山脈はアフガニスタンをながれている山脈で、この問題文は「アフガニスタンを通り」その上での山脈ですから、スライマン山脈の方が適切です。
 下線(9) 「パンジャーブ地方」だからパパです。上流原っ「ぱパ」ンジャーブと覚えます。下流はシンド地方といいモエンジョ=タ゜ロ遺跡があります。
 次のホームページでインダス文明の遺跡を立体と映像でお楽しみください。
http://www.harappa.com/har/har0.html
 下線(10) カースト制の元になった身分制です。インドのヴァルナ制は「イヴァルナ !」と覚えます(世界史のまぎらわしい用語の覚え方を知りたければ、拙著『センター世界史B 各駅停車』(パレード出版)に書いてあります。宣伝です……)。汚(けが)れという特殊な観念を浸透させたアーリア人のずる賢い人間差別制度です。
 空欄[i] 教科書の写真で頭のとれた立像の人物です。頭がとれていても、そのいばりちらしたらしい姿は見てとれる像です。そのためかれが即位した年代は130頃なので「カニシカ、頭(1)散(3)王(0)」という覚え方になっています(こんどは『世界史年代 One Phrase』(パレード出版)の宣伝です)。
 下線(11) 文脈からはなにかクシャーナ朝のひとのようにおもえますが、実はデカン高原のひとです。漢字で龍樹(りゅうじゅ)と書くナーガルジュナです。著書『中論』は用語集にはのっていませんが私大では出題されます。大乗仏教のもといを築いたひとで、かれからアジアの諸仏教が流れでてくるため「八宗の祖師」ともいわれます。大乗仏教を開く前の青年時代のはなしは『センター世界史B 各駅停車』をお読みあれ(またまた宣伝)。
 空欄(j) 教科書にはかれが建てたクトゥブ=ミナールという高い塔の写真がのっているはずです。写真をネットでもいろいろ見ることができます。一例です。
http://archnet.org/library/images/one-image.tcl?location_id=1419&image_id=5734
 下線(12) バーブルは後の文章で分かるようにムガル帝国の建国者です。これを確認した上で(ア)「14世紀後半から」とあるので1370年からのある異様な人物から発するとともに、この名前をそのままつかった大国です。アンカラの戦いで一時オスマン帝国を滅ぼし、モスクワの近くまで遠征し、デリーを破壊した人物です。(イ)1500年ちょうどに都のサマルカンドを陥落させ、そのまま今もここに住んでいるひとびとのことです。
 空欄[k] デリー=スルタン朝のさいごの王朝はなんといいますか、という問いです。デリー=スルタン朝は初めからトルコ系ばかりなのに、さいごがアフガン系ローディー族による王朝です。バーブルによってデリー市の北の駅パーニパトでやられました。
 空欄[l] 「17世紀後半……領土が最大」とあればアクバル帝より100年後の狡猾(こうかつ)な人物しかないでしょう。この狡猾さについては『ムガル帝国誌』(岩波文庫) を読まれよ。
 空欄[m] 西があげてあり、東は何湾かと問うています。ガンジス川の河口の地名と同じ名前がついています。
 下線(13)  (ア)「8〜9世紀」「シャイレーンドラ朝」「仏教遺跡」のどれかで分かりますか? こういうのを即座に思いつくには、『センター世界史B 各駅停車』にのっている覚え方が便利です。仏教でもとくに大乗仏教の建物です。アンコール=ワットとのちがいも分かりますか?
(イ)「16世紀初め」「ヒンドゥー王国(王朝)」も先の参考書ですぐ覚えられます。というのは東南アジア史のキーのひとつが宗教であり、各王朝がどういう宗教の王朝であったかをとらえておくことが課題なのです。センター試験が問うているのもそうです。
 空欄[n] ガマがカリカットに来たときに存在したヒンドゥー教国です。こんなにでかい国はヨーロッパにないぞと驚嘆したという国のことです。 
 空欄[o] 「デカン地方の[ o ]王国(のちに政治的連合体)」はみなヒントそのものです。デカン高原の西の王国からはじまって諸王国連合にまで発展しました。マハーラーシュトラ州(ボンベイ市も含むデカン高原西部の大きい州)西部のプーナ市(ボンベイ市=ムンバイ市の東南にあり)の近くの領主の子として生れたシバージーによる王国です。アウラングゼーブ帝の死後にむくむくと伸びて北インドも席巻するくらいになりますが、ペルシアからの侵入者やイギリスの分断政策にまどわされて同盟の結束力が弱くなっていきました。最大版図は以下の地図。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:India1760_1905.jpg

第3問
 この問題を解くときにできごとを細かく年代とともにあげて解説しているものがありますが、受験場でそんなことはできません。何より大事なのは「関係」がテーマですから、左右に関係をさぐるために英・仏のデータを大まかに書きだすことです。その上で「関係」ですから、友好か敵対か同盟かをさぐっていきます。友好は=、敵対は/で、同盟は◎で示すことにします。
 <英>              <仏>
フレンチ=インディアン戦争・七年戦争・プラッシーの戦い /
アメリカ独立革命←フランスの13州援助 /
対仏大同盟→フランス革命でルイ16世処刑 /                   
結社禁止法→統領政府 /
アブキール湾の戦い→ナポレオンのエジプト遠征 /
アミアンの和約 ◎
トラファルガー海戦 /
ベルリンで大陸封鎖令 /
イベリア半島への侵攻と英国のポルトガルへの援軍 /
諸国民解放戦争(ライプツィッヒの戦い) /
ウィーン会議 =
ナポレオンの100日天下→ワーテルローの戦い /

 このように見てくると敵対関係でおおわれています。「変化」を問う問題としては落第です。途中のアミアンの和約程度でいったん和解したが後で対立したというほどのことを書かせたいのでしょうか? 安易なものです。アミアンの和約は1802年3月ですが、この休戦はつかのまで、実は1803年5月にはマルタ島撤退交渉の難航などからアミアンの和約を破棄して宣戦布告を出しています。教科書の記述をそのまま信じると、1805年の第三回対仏大同盟やトラファルガー海戦まで戦争がなかったかのように(もしかして出題者も?)勘違いする可能性があります。いや失礼。知っているとして、問題の時間設定の約60年間における、たった1年を問題にしているのでしょうか? 時間が「ナポレオン帝国の崩壊にいたるまで」とあるので、ウィーン体制ができるまで記述しなくていいはずです。するとアミアンの和約ぐらいしかない。ちとアホくさい問題ですが、受験生は問題に文句は言えません。すなおに、かつ大げさに大転換があったかのようにおもねって書くのが義務でしょう。出題ミスとも言えますが、ミスを我慢してあえて解答を出してみることにします。
 18世紀後半の大半はイギリスが植民地をめぐる対立をフランスとしながら、プロイセンとの同盟はあっても海外での戦争はイギリス単独でやっていたのとちがい、19世紀のナポレオン・フランス戦争の場合は、植民地戦争というよりヨーロッパ大陸をめぐるフランス包囲戦争であり、かつイギリスが対仏大同盟を主導したように単独行動ではなく、国際関係を積極的に築いて戦ったことです。
 
第4問
A
 問(1)「最大版図」とあり、センター試験でも4回も出題されている頻出(ひんしゅつ)皇帝です。かれの征服したところは現在のルーマニアのダキアと、イラクのメソポタミア南部まで入っています。ダキアには101年と105年の2度にわたって遠征し、14万の軍団でダキアをローマの属州にすることに成功しています。それはロストフツェフが「恐るべき戦争」と呼んだもの(『ローマ帝国社会経済史』東洋経済新報社)で、ダキア人のほとんどが絶滅させられる凄惨(せいさん)なものであったようです。征服した地の金鉱と岩塩鉱が帝国の財政をうるおすことになります。この戦争のようすはローマ市に現存する「トラヤヌスの円柱」のレリーフとして描かれています。
 問(2) この皇帝の猛獣コレクションを増やすために、この法令が出されました。というのは市民権をあたえた代わりに、豊かな市民層は相続税を払わなくてはならなくなったからです。いまひとつのこの法令は、市民権を与える条件としてローマの神々を崇拝する、というのがついていて、これまで恣意的にキリスト教徒を迫害してきたローマはキリスト教迫害の法的な根拠をもつことになりました。
 問(3)「四分統治」のはじまる専制君主政は284年、それ以前の軍人皇帝ウァレリアヌスがこの王朝の2代目シャープールに捕虜になるというできごともおきています。226年(語呂は「笹(ササ)でつ(2)つ(2)む(6)」)からパルティアに代った王朝です。
 問(4)(ア)「EU諸国のうち,その地域の大半がカールの帝国に属していなかった」とカールをもちだしてきているのは、カール(シャルルマーニュ)の帝国の再現のつもりがEUだからです。いや今は拡大してプロディ欧州委員長は「ローマ帝国以来の大欧州」と表現しています。この問題は、『ローランの歌』の元になる戦闘はどこか、と問うても分からなくてはならない。
 (イ)711年から入ってきたアラブ人・ベルベル人の勢力です。
 問(5) 「ヨーロッパ文明……西ヨーロッパ」という問い自体が示唆していますし、問題文に「ローマ帝国……キリスト教的文化とゲルマン的要素を結合」とあり、東欧のスラヴ人の世界が入っていないし、「ゲルマン的」ではケルト人というヨーロッパの基層文化を築いたひとびとも抜け落ちてしまいます。またローマ文化はエトルリア人の実用的文化とギリシア人の精神とを継承して成り立っていたのであり、ゲルマン人に文化があったんかっ、という反発もありそうです。ギリシア正教については言及しなくていいでしょう。「キリスト教」の中に入っているのですから。
 問(6) 「モンゴル系とされる遊牧民」とはまた大胆な問い方です。「モンゴル系とされる」といっていい理由はあるのでしょうか? 突厥にモンゴル高原から追放された柔然ではないかと見られているので、それは構わないとしても、柔然のすべてが来ているともおもえないし、途中のいろいろな変化(混血・混合・連合)があったのではないか、とおもいます。トルコ系の説もあります。中央アジアのアヴァール人を真アヴァール人、ハンガリーにきたアヴァール人を偽アヴァール人という言い方もありやこしい。断定しない方が学問的なのではないでしょうか?

B 『実験小説論』を書いたのがだれか、引用文の文学者がだれか分からなくても、引用文の下の解説がそれを明らかにしてくれます。「(10)えん罪事件に際して,(11)1898年,「私は告発する」と題する文書を発表」という部分。
 問(7) (ア)私大では、『居酒屋(いざかや)』『ナナ』の作家は? と問うてくる問題です。
  (イ)「思潮の特徴」のヒントは引用文にあります。引用文の題が「実験」で、「遺伝……環境……ダーウィン」と文学に科学をもちこんだ思潮です。教科書なら次のように説明しています、

 19世紀後半になると,市民社会の成熟,科学・技術の急速な発達が文学にも影響し,非現実的なロマン主義にかわって,人生の真実をありのままに描写しようとする写実主義,それをさらにすすめて人間を科学的に観察し社会の矛盾や人間性の悪の面を描写する自然主義の思潮がひろがった。(詳説世界史)

 こうした無味乾燥な説明をもう少し具体的に説明したのが拙著『センター世界史B 各駅停車』です。この参考書の文章を引用します。

 写実主義のように、たんなる観察ではだめ、自然科学の遺伝学・生理学の成果も文学にもちこまなくてはいけない、と考えるのを自然主義といいます。自然主義文学はゾラからはじまりました。ゾラは「外科医が死体にたいしておこなう解剖(かいぼう)」のように書いたとほこり、「悪徳も美徳も硫酸塩や砂糖と同じような合成物」とさえいい、自然科学の実験的な方法を小説にもちこみました。

 文学の自然主義は自然科学主義なのです。科学的・客観的に描こうとつとめた作家ですから、たとえば『居酒屋』の文章はこうです、

 ロリユの女房はボッシュのこうした冗談がきらいだった。あらたかたさめていたそうめん入りポタージュ・スープを、さじをちゅうちゅういわせて、またたくまにたいらげてしまった。ふたりのボーイが脂(あぶら)まみれの小さな胴着に白いとはいえぬ白エプロン姿で給仕した。中庭のアカシヤの水に向かって開いた四つの窓からは、雨に洗われても暑さの去らぬ夕立ちの日の光がいっぱいにさしこんでいた。しっとりと湿りをふくんだこの一遇の木の葉が、すすけた広間に照り映えて、いくぶんかびくさいにおいのしみこんだ食卓布の上に木の葉の影を踊らせていた。蝿の糞のいっぱいこびりついた鏡が二枚、部屋の両端に一つずつかかっていて、広間がそこに照り映えてテーブルがどこまでものびているかのように見えた。テーブルには厚手の皿が並んでいたが……(新潮文庫)

 問の解答は、自然主義と、その「特徴」とはこういう場合はたいてい「内容説明」のことですから(拙著『練習帳』の解き方)、人間の世界を科学的・客観的に悪もふくめて詳細に描ききろうとした傾向、とでもすればいいでしょう。
 (ウ)「働く農婦の姿」は「晩鐘」「落穂拾い」などで世界中にしられている画家です。
 問(8) ユダヤ人虐殺はある参考書に書いてあるように一時的な「風潮」などではなく根深いヨーロッパにおける民族差別です。十字軍やレコンキスタなどの中世以来の全欧における差別の継続です。ヘブライ語で Shoah (ショアー)ともいっている大量虐殺のことです。
 ホロコースト(The Holocaust) はもともとギリシア語で ホロ(holos 全部)・コースト(kaustos 焼く)という意味です。これがフランス語から英語になったものです。
 問(9) 「ハーバート・スペンサーがダーウィンの学説に影響を受け展開した社会思想」は社会進化論とか社会ダーウィニズムと呼んでいるものです。文学における科学の重視が社会思想にも及んでいて、西欧人がもっとも進んだ人間であり、アジア・アフリカの人間どもはチンパンジーやゴリラに近いと考える思想のことです。帝国主義を支えた思想でもあります。
 問(10) えん罪事件の名称と経過です。
 (a)ドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑で逮捕、軍法会議で終身刑となり流刑に→ (b)真犯人が告発されたが、軍部は裁判の正当性を主張→ (c)クレマンソー(後の首相)所有の新聞に作家ゾラが「私は弾劾する」の論文をのせ、ドレフュスの無罪と軍事裁判の陰謀を告発した→ (d)国論を2分する大議論(国防vs人権、カトリックvsユダヤ教)となる→ (e)再審の実施(1899)、有罪宣告と大統領の特赦によりドレフュス釈放(1899)→ (f)ドレフュスに無罪判決(1906)というのが大まかな経過です。
 なおゾラの「われ弾劾す(わたしは告発する)」の原文と英訳は次で見ることができます。
http://www.chameleon-translations.com/sample-Zola.shtml
 問(11) (ア)「ナイル河中・上流域の支配」はスーダンです。「事件」と大げさな表現になっていますが、鉄砲玉は一発も飛んでいません。
 (イ)ドイツの膠州湾と同じ発音で、「フランスの得た租借地」の名前ということです。南方の雷州半島の東です。けっして広州の湾と勘違いしないように。
C 
 問(12)アメリカの国務長官の名前をつけた全欧の復興計画です。しかし東欧とソ連は受け付けなかったので、西欧だけの援助計画になりました。この援助を受け入れる機構としてOEEC(ヨーロッパ経済協力機構)がつくられ、いつまでもアメリカに頼るわけにはいかない、いずれヨーロッパが自立した経済圏をつくろうという話しになり、それがECSC(欧州石炭鉄鉱共同体)につながっていきます。
 問(13)「これらの組織に参加しなかった」理由はどこまで追いつめるのかが分かりませんが、たんにフランス人やドイツ人が嫌いなんじゃ、でも答えにはなりそうです。逆にフランス人やドイツ人もイギリス人は嫌いじゃというても、なるほど、とはなります。実際、イギリスがEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)を離れてEEC(欧州経済共同体)に参加申請をしても断りつづけたド=ゴールの最大の理由は嫌悪感でしょう。が、このホンネは言わないで、当時イギリスがいったのは、「超国家的機構はダメ、ヨーロッパ内の共通関税の設定は特恵関係をもつイギリス連邦諸国との貿易関係を損なうおそれがある」というものでした。
 「6ヵ国」とはフランス・西ドイツ(ドイツはまだ統一されていない)・イタリアにベネルックス3国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)という内なるインナー・シックスに対して、これを取り囲むようにイギリす・デンマーク・ノルウェー・スウェーデン・スイス・オーストリア・ポルトガルというアウター・セヴンがEFTAをつくります。今はほとんどが脱退してEUに加わり、ノルウェー・アイスランド・リヒテンシュタイン・スイスの4ヶ国のみで運営されてます。
 問(14)フルシチョフの『秘密報告(スターリン批判)』(講談社学術文庫)にはこうあります、
 
 私はスターリンに呼び出されました。スターリンはつい最近チトーに送った書簡の写しを指さし、「これを読んだかね」と私に言いました。彼は私の返事も聞かず、こう言ったのです。「私が小指をちょっと動かすだけで、チトーはこの世から消えてなくなるだろう。彼は没落するのさ。」
 このように「小指」をちょっと動かした」ために、われわれは高い代償を支払わなければなりませんでした。……しかし、チトーの場合は、そうはいきませんでした。スターリンは小指はもちろんのこと、そのほか動かせるものは一切合財動かしてみたのですが、チトーは倒れませんでした。なぜでしょうか。その理由は、このユーゴスラヴィアの同志たちとの争いでは、チトーの背後には、自由と独立のための闘争という困難な学校を経てきた国民、そして指導者を支持している国民と国家が控えていたからであります。

 問(15) ポーランドだけは「ソ連が軍事的に介入」を受けなかったので、ハンガリーとチェコスロヴァキア(プラハの春)になります。「断続的に発生」とあっても1956・1968・1980年と12年毎に大きな反ソ運動があったので定期的でもいいですね。
 問(16) 「この組織の名称」とありますが、80年の8月上旬にストライキをおこなったとき「連帯」という名前ではありませんでした。初めは「工場間スト委員会」といいました。これが全国的に拡大した9月17日に名称が「連帯」となります。共産党政府は新聞・ラジオ・郵便のすべてを統制してストライキのニュースが全国に広まらないようにしたのですが、駅員たちが列車をつかってニュースとストの呼びかけのビラを全国に持っていったために全国的なストが可能になりました。
 問(17) 「改革を総称」はペレストロイカといい、この訳語はいろいろ可能のようで、再編、再構築とも訳しています。英語圏の国では「リストラクチャー(restructure)」と訳され、日本では「リストラ」と省略されたら、主に企業の人員整理を意味する言葉として使われています。ま、共産党をお払い箱にする、というのが最大の改革であったでしょう。
 問(18) 歴史学と哲学で博士号をもち、ラインラント・ファルツ州の州首相(1969〜1976)。その後、連邦議会議員、1982年連邦首相の地位を獲得することに成功し、1998年まで政権の座は、ビスマルク以来の長期政権でした。
 問(19) マーストリヒト市という都市の名前はわかっても地図上で確かめたことがありますか? オランダの南の方にしずくのように垂れ下がったところがあり、そこに都市を探すと表れます。すぐ近くの南にさがるとカール大帝の宮殿アーヘンの町も見られます。
http://www.lib.utexas.edu/maps/europe/netherlands_pol87.jpg

解答例
第1問
   (君の答え)
第2問
A空欄  a渭  b王莽 c前秦 d府兵 e楊堅 f大興 gべん(さんずい+亠(なべぶた)+卜(ぼくのと))
A下線設問 (1)彩陶 (2)商鞅 (3)赤眉の乱(4)永嘉の乱 (5)太武帝 問(6)広通渠 (7)後唐 (8)李自成
B 空欄 h スライマン iカニシカ j(クトゥブ=ウッディーン=)アイバク k ローディー(ロディー)朝 l アクラングセーブ m ベンガル n ヴィジャヤナガル o マラーター(マラータ)
B 下線設問(9)ハラッパー (10)ヴァルナ  (11)ナーガールジジュナ(龍樹) (12)(ア)ティムール朝(帝国) (イ)ウズベク族 (13)(ア)ボロブドゥール (イ)マジャパヒト(マジャパイト)王国
第3問
   (君の答え)
第4問 
A (1)トラヤヌス (2)カラカラ (3)ササン朝ペルシア (4)(ア)c (イ)アラブ・イスラーム教徒(後ウマイヤ朝) (5)スラヴ人が無視されている(東欧もキリスト教世界であり、東欧南部もローマ領だった) (6)アヴァール人
B  (7) (ア)(エミール=)ゾラ (イ)自然主義。人間を悪も含めて科学的・客観的に描こうとする傾向。 (ウ)ミレー  (8) ホロコースト(ショアー) (9)社会進化論(社会ダーウィニズム) (10) ドレフュス事件。ドイツのスパイとされたユダヤ人大尉がいったん有罪となり、それを文化人たちが弁護して再審となり、無罪となった。 (11) (ア)ファショダ事件 (イ)広州湾
C  (12)マーシャル=プラン (13)超国家的機構を嫌い、イギリス連邦諸国との貿易関係を損なうため。 (14) ティトー (15)ハンガリー、チェコスロヴァキア (16)工場間スト委員会(連帯) (17)ペレストロイカ (18)コール  (19)マーストリヒト