世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2008

第1問
 宋代以降の中国において、様々な分野で指導的な役割を果たすようになるのは士大夫と呼ばれる社会層である。彼らはいかなる点で新しい存在であったのか。これについて、彼らを生み出すにいたった新しい土地制度と、彼らが担うことになる新しい学術にも必ず言及し、これらをそれ以前のものと対比しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章CA,B) の[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(13)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 前3世紀の末、匈奴では[ a ]が出てモンゴル高原を制覇した。匈奴の東にあって強盛を誇った東胡は、[ a ]の親征で壊滅したが、その残存勢力のうち、今日の内蒙古自治区東部のシラ=ムレン河流域に逃れたものが烏桓(うがん)および鮮卑であるとされる。
 鮮卑では、後2世紀の半ば、檀石カイ[木偏+鬼](だんせきかい)が出てモンゴル高原を統ーした。檀石カイの死後、統一は破れたが、このころから部族首長の地位が世襲されるようになった。(1)4世紀のはじめ、内乱で衰退した西晋はさらに匈奴の攻撃で滅亡し、五胡十六国時代が始まる。このころ、今日の内蒙古自治区東部から河北省北部・遼寧省にかけて鮮卑系の慕容(ぼよう)部・段(だん)部・宇文(うぶん)部があった。慕容コウ[皇+光]は燕王を称し、段部・宇文部を破って華北平原に進出し、(2)高句麗を攻撃して、その都城を破壊した。一方、今日の内蒙古自治区中部にあった[ b ]部は、西晋を援助して匈奴と戦いその首長イ[けものへん+奇]盧(イロ)は315年に代王に封ぜられた。
 351 年、テイ[人偏のない低]族の苻堅(ふけん)が長安で自立して皇帝を称した(前秦)。三代目の苻堅は、前燕・代および(3) 河西回廊にあった前涼を征服して華北を統一し、(4)東晋併合を図って南下したが383年ヒ[三水+肥]水の戦いで大敗し統一は瓦解した。[ b ]部では珪(ケイ)(道武帝)が代国を再建し、ついで[ c ](今日の山西省大同市)に遷都して国号を魏と改めた(北魏)。三代目の(5)太武帝は、439年に華北統一を達成した
 契丹の出現はこの北魏の時代である。慕容コウに敗れた字文部の残存勢力が、さらに道武帝の攻撃で分解し庫莫ケイ[三水のない渓](こばくけい)・契丹が成立したとされる。シラ=ムレン・ラオハ河流域にあった契丹は北魏から東魏、ついで東魏に代わった[ d ]に朝貢した。6世紀後半には西魏や突厥の攻撃を受け、高句麗や突厥に帰順することもあったが、やがて隋ついで唐に朝貢するようになった。(6)648年、契丹の大賀(たいが)氏は松漠(しょうばく)都督に任ぜられたが、当時の契丹はなお諸氏族のゆるやかな集団であるに過ぎず、唐との関係も不安定であった。8世紀に大賀氏が断絶すると、遥レン[夫+夫+車]氏(ようれんし)を首長とする部族連合が形成された。この時期の契丹は、唐に朝貢する一方で、9世紀半ばまでモンゴル高原を支配していた[ e ]にも服属し、官印を授けられていた。907年、迭ラツ[束+リ](てつらつ)部の[ f ]は、遥レン氏に代わって可汗の位につき、916年には皇帝を称し、神冊(しんさく)の年号を立てた。[ f ]は(7)渤海に親征して926年にこれを滅ぼし、長子の倍(ばい)を東丹(とうたん)国王に封じて旧渤海領の統治にあたらせたが、凱旋の帰途に死んだ。帝位を継承した次子の徳光(とくこう)は倍と対立してこれを[ g ]に亡命させ、936年には石敬トウ[王+唐](せきけいとう)を援助して[ g ]を滅ぼし、その代償に長城以南の燕雲十六州を獲得した。


 (1) この内乱の名を記せ。
 (2) 前漢時代に設置され、高句麗によって313年に征服された、西晋の朝鮮半島支配の拠点はどこか。その名を記せ。
 (3) 前秦はさらに西域の亀茲国(今日のクチャ)に遠征した。この時、前秦軍の捕虜となり、のちに長安で大乗仏教の漢訳に尽力した人物の名を漢字で記せ。
 (4) 東晋に仕えたがのちに辞職し、六朝第一の自然詩人・隠逸詩人と称された人物の名を記せ。
 (5) (ア) 太武帝に仕え、廃仏を勧めた道士の名を記せ。
  (イ) このころモンゴル高原を制圧し、北魏としばしば交戦した民族の名を記せ。
 (6) 唐は周辺民族の首長に都督・刺史などの官職を与え、間接支配を行った。これらの都督・刺史を統括するため、唐が設置した機関の名を記せ。
 (7) 渤海国の建国者の名を記せ。

B モンゴル帝国時代、有名無名の西方の人々が東方へ旅をし、そのうちの幾人かは旅行記をのこした。「アッシジの聖者」と称された[ h ]が創設した托鉢修道会の会士であった[ i ]の旅行記はその旅程が極めて入念に記録されている。
 (8)フランス国王[ j ]の命令を受けた[ i ]は、1253年5月7日(9)コンスタンティノープルから乗船し長途の旅に出立した。彼はクリミア半島に上陸後、北方に向かいヴォルガ川を渡河し、8月の初めにこの方面の支配者であった[ k ]の幕営地に到着して、5週間滞在した。(10)9月15日ここを発って東に向かい、 12月27日大草原の幕営地にあった大ハーン[ l ]の宮廷に到着、翌1254年1月4日ハーンへの謁見を許された。4月5日、彼は首都[ m ]に入り、 5月30日にはハーンの命令で(11)イスラム教徒、仏教徒を相手に宗教論争を行った。7月8日、首都近くの草原に宮廷を移していたハーンから最後の贈り物を受けたのち、二日後の10日に首都を発って帰還の途に就いた。9月15日には[ k ]の幕営地に到着、その後[ k ]がヴォルガの下流に建設した町サライを経て、カスピ海の西岸を南下し、アラス川をさかのぼって1242年以来この方面のモンゴル軍を指揮していたバイジュに迎えられたのは、11月の下旬のことであった。ついで、[ i ]はアナトリア(小アジア)へと進み、(12)マンズィケルトの古戦場の近くを過ぎて、1255年4月末にコンヤに到着した。(13)コンヤのスルタンとの面会ののち、地中海に出て船にのり、キプロス島を経由して、アンテイオキアに到着した。[ i ]を派遣したフランス国王はすでに帰国していたが、同年8月15日、[ i ]は第一回十字軍が建国した[ n ]の最後の拠点とはなっていたアッコンの町の説教師に任命された。彼の旅行記はこの時点で終わっている。


(8) このフランス国王のエジプトへの侵攻に際し当時の支配者が死亡したことを契機として、エジプトでは王朝が交代した。新たに樹立された王朝の名を記せ。
(9)  (ア) 当時コンスタンティノープルを支配していた国家の名を記せ。
 (イ)[ i ]はこの都市の最も重要な聖堂でミサを行ったと述べている。その聖堂の名を記せ。
(10) [ i ]が長距離を順調に旅行できたのは、モンゴルの駅伝制度のお陰であった。この制度のモンゴル語の名称を記せ。
(11) この論争において[ i ]は、西方では異端とされていたキリスト教の一派の神父たちと不本意ながら協力しなければならなかった。
(ア) この一派は中国では何と呼ばれたか。その名を記せ。
 (イ) この派を異端とした公会議の名を記せ。
(12) 1071年のこの戦いは、東方の遊牧民族が大挙してアナトリに流入する契機となった。この遊牧民族の名を記せ。
(13) コンヤを首都としていた王朝の名を記せ。

第3問
 古代ギリシアの代表的なポリスであるアテネ(アテナイ)は紀元前6世紀末からの約1世紀間に独自の民主政を築き発展させ、さらにその混乱をも経験した。このアテネ民主政の歴史的展開についてその要点を300字以内で説明せよ。句読点も字数に含めよ。説明に当たっては下記の2つの語句を適切な箇所で必ず一度は用い、用いた語句には下線を付せ。
   民会 衆愚政治

第4問
 次の文章(A、B、C) を読み、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 宗教改革以降のヨーロッパでは、宗教上の対立にもとづく戦争や抑圧がしばしば生じる一方、異なる宗派間の共存を制度的に保障する取り決めも必要に応じて結ばれた。しかし、信仰の自由が個人の権利として認められるまでには長い時間を要した。以下に引用する史料1)は(1)1648年に締結された講和条」、2)は1781年に公布された勅令、3)は1829年に成立した法律の、それぞれ一部である。

1) 第5条 帝国の両宗派の選帝侯、諸侯、等族の聞に存在していた不平不満が大部分(2)当該戦争の原因および動機であったので、彼らのために以下のことを協約し、調停する。
 第l項(前略)(3)1555年の宗教和議は、1566年アウクスブルクで、またさらにさまざまな帝国決定で承認されたように皇帝および両宗派の選帝侯、諸侯、等族の全会一致で受け入れられ、可決された条項において有効と宣言される。

2)(4)良心に対する圧迫はすべて有害であること、また、真のキリスト教的寛容が宗教と国家に多大な利益をもたらすことを確信し、余は以下の決定を下した。プロテスタントとギリシア正教徒に対しその宗教の流儀に従った私的な礼拝行為を全面的に許可する。(中略)ただし公的な礼拝行為を行うことができるという特権は、今後もカトリックのみに許される。

3) (5)幾多の議会制定法により、ローマ・カトリックを奉じる陛下の臣民に対して、他の臣民には課せられない一定の拘束および制約が課されてきた。(6)このような拘束および制約は今後撤廃されることが適切である
(引用は歴史学研究会編『世界史史料』第5・6巻岩波書店刊による。文章は一部改変した箇所がある。)


(1) (ア) この講和条約は何と呼ばれるか。
 (イ)  (ア)の講和条約によって独立を承認された国をlつ挙げよ。
(2) この戦争は何年に始まったか。
(3) (ア)この宗教和議の内容を簡潔に説明せよ。
 (イ) 1648年の講和条約では1555年の宗教和議で認められなかった宗派が公認された。この宗派の名称を記せ。
(4) (ア) この決定を行った君主は、啓蒙思想の影響を受けながらオーストリアの国力を強化しようとした。この君主の名を記せ。
 (ィ) 1772年、(ア)の君主はプロテスタントのプロイセン国王、正教徒のロシア皇帝と結んである国の領土の分割を行った。この国の名称を記せ。
(5) ここで言及されている法律のうち、公職就任者を国教徒に限定した1673年の法律の名称を記せ。
(6) カトリック教徒に対する差別を撤廃する法律が制定された背景には、1801年に併合したある地域の住民の反発を抑える意図があった。この併合された地域はどこか。

B ウマイヤ朝の時代に、イスラム世界は北アフリカを経てイベリア半島まで拡大した。これにともなって、(7)サハラ砂漠を南北に縦断する交易が活発化し、サハラ砂漠の南西縁にはサハラ縦断交易を経済的基盤とする王国が出現した。(8)11世紀にベルベル人が興したイスラム王朝がニジェール川上流域からイベリア半島南部にいたる広大な地域を支配して以降、(9)サハラ南西縁の王国の支配者はイスラム教を受け入れた。(10)ニジェール川大湾曲部に栄えた交易都市では、建築などに独自の様式をもつイスラム文化が発展した。
 15世紀後半以降、西方イスラム世界は大きく変化していく。(11)イベリア半島ではレコンキスタが完了し、イスラム勢力は北アフリカへと後退した。いっぽう、16世紀から18世紀にかけて環大西洋貿易が発展するつれ、(12)西アフリカは南北アメリおよびヨーロッパとの三角貿易に組み込まれていった。(13)西アフリカのギニア湾岸地域には奴隷の輸出を経済的基盤とする王国が出現した。数千万の人口を奴隷として奪われたアフリカの社会は大きな打撃を受けた。
 19世紀はじめに奴隷貿易が廃止された後工業化を経たヨーロッパ諸国は、アフリカを一次産品の供給地および工業製品の市場と見なすようになった。(14)1880年代から第一次世界大戦にいたる間に、ヨーロッパ諸国はアフリカのほぼ全土を植民地や保護国として分割した


 (7) サハラ縦断交易によって、西アフリカからサハラ以北にもたらされた、主たる交易品は何か。
 (8) この王朝の名称を記せ。
 (9) 14世紀に最盛期を迎えた王国の名称を記せ。
 (10) 代表的な交易都市の名称を記せ。
 (11) イベリア半島における最後のイスラム王朝の名称を記せ。
 (12)  (ア) 18世紀に黒人奴隷貿易の中心地となったイングラド北西部の都市の名称を記せ。
 (ィ) 西インド諸島のプラテーションで輸出向けに栽培された、主る商品作物は何か。
 (13) 現在のナイジェリアにあたる地域で、16〜17世紀に、おもポルトガルとの奴隷貿易で栄えた王国名称を記せ。
 (14) (ア)タンジール事件およびアガディール事件において、フランスとドイツとの争い対象なった地域は、どこか。
 (イ) この時期に西アフリカで独立を維持した国の名称記せ。

C (15)経済面ならびに文化面で世界が一体化する動きは20世紀後半以降におおきく進展した。
 まず経済面では、第二次世界大戦後、自由貿易体制の構築を目指す(16)「関税と貿易に関する一般協定」(GATT) などによって一体化の動きが徐々に進んでいった。1980年代になると、(17)社会主義諸国においても市場経済の導入が進んだ。さらに、 1990年前後に東欧社会主義圏および(18)ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が解体し、ついで(19)GATTを継承した新機関が1995年に設立されると、この世界一体化の動きはますます加速した。
 文化の世界一体化も、第二次世界大戦後、急速に進んだ。(20)科学知識や思想、娯楽などが短時日のうちに人類に共有されるようになった。とりわけ、世界経済の中心の一つであるアメリカ合衆国から発信される生活文化、いわゆる(21)「アメリカ的生活様式」の影響は大きく、大量生産・大量消費に基づくこの生活様式にあこがれる人々は少なくない。このような生活様式が拡大するにつれ地球規模の環境破壊が進行し、(22)環境保全が人類全体の課題と認識されるようになったが、これも、思想の人類共有化の一例である。
 だが、経済の世界一体化は、経済強国に有利に働く一方で、(23)途上国の経済的困難を増すことにもなった。また、文化の世界一体化についても、各国・各民族の文化を衰退させる側面を持っていることがしばしば指摘されるようになった。


 (15) 世界の一体化は、近年の情報技術の革新によってますます深まっている。このような世界の一体化現象は何と呼ばれるか?
 (16) GATTに加え、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)との創設を主導し、第二次世界大戦後の国際経済管理体制の指導権を握ったのはアメリカ合衆国であった。この管理体制は、後者2機関の創設会議が開かれたアメリカ合衆国の地名にちなみ、何と呼ばれるか。
 (17) 中国の市場経済化は、1978年末に開かれた共産党第11期中央委員会第3回全体会議以降始まった新政策の帰結であった。この新政策は何と呼ばれるか?
 (18) 解体の背景には、計画経済の行き詰まりと、膨大な軍事費の重荷があった。軍事費を軽減させるために、ソ連邦は1986年にアメリカ合衆国と核軍縮条約を締結した。この条約名を記せ。(1986→1987のミス)
 (19) この新機関の名称を記せ。
 (20) DNAが二重らせん構造になっていることが1953年に提唱され,2003年には,ヒトのDNA解読計画が世界各国の研究者の協力で完了した。DNA二重らせん構造を提唱した科学者二人の名前を記せ。
 (21) 両世界大戦間期のアメリカ合衆国では、大衆のあいだで、ジャズがひろく楽しまれるようになった。当時のアメリカ合衆国において、ジャズの普及をうながしたメディアをレコードと映画の他に一つ記せ。
 (22) (ア)豊かな生活を将来の世代にも保証するために環境保全に留意しつつ節度ある経済開発に努めるべきだという考え方が、1980年代に広まり、1992年の国連環境開発会議(地球サミット)などを経て人類の共通理念となった。この考え方を要約する用語を記せ。
 (ィ) 地球温暖化防止のため二酸化炭素など温室効果ガスの排出削減を先進工業国に義務づける議定書が、1997年に80数か国の合意を得て採択され、2005年に発効した。この議定書は、これが採択された会議の開催都市にちなみ何と呼ばれるか。
 (23) 経済発展から取り残された地域では、経済混乱から内戦にいたる場合も少なくない。アフリカの一国で、1962年にベルギーから独立し、1990年代前半に大量虐殺と大量難民の発生をともなう内戦が勃発した国の名を記せ。
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コメント 
第1問
 京大は過去問を出さない、ということをたびたび書いていますが、この問題も過去にありません。唐宋比較の問題は過去に出題されたことはあります。しかしその過去問を解いていたらこの問題が解ける、という問題ではありませんでした。1990年の問題はこうでした。

 唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ。

 これは政治と軍事の制度変化を求めた問題であり、これが解けたら今年の士大夫の土地制度(経済)と学術(文化)は解けることになりますか? どの予備校にも大学対策授業として過去問を説明する講座がありますが、まったく無駄なわけです。それでも毎年、こうした講座が成立するのは、だれも当たってないじゃんと訴える者はいないので無意味な講座が続行されることになります。毎年受験生は変わるので嘘がつづけられます。ある予備校の今年の予想に「2007年度の〔 I 〕は前近代の中国史から出題されただけに、最近の傾向からいけば、2008年度の〔 I 〕はイスラーム史から出題される確率が高いと予想されるが、中国近現代史にも注意したい。」とありましたが当たっていませんでした。
 ただ唐宋変革は論述としてはありきたりの問題であり、拙著『世界史論述練習帳new』の巻末「基本60字」にも、政治12・13(p.4-5)、経済5・7・8(p.11・12)、文化6-8(p.16)と短文の問題があります(カッコ内の数字はページ数)。
 この問題で根本的に分かっていなくてはならない問題文中の用語は「対比」です。これは比較して相違点を表わすこと。「比較」という頭の作業が要ります。拙著でタテに線を引いて左右をメモする、という方法を書いているヤツです。この単純な方法を身につけていないと、唐と宋のことを適当に書けば「対比」したことになるのではないか、と甘い解答をつくることになります。拙著のいちばん最後にこの「比較しなさい」という形式の解き方を説明しているのは、いちばん困難な作業であるからです。比較ができたら論述の方法論は卒業、といっていいものです。このHPの参考書のコーナーで他の参考書の批評をしていますが、そこで見られる弱点は比較の問題であることが分かります。何年も世界史を教えてきてもこの比較ができない教師はいます。その実例がそれらの参考書です。できてない例は模試にもあります。身につけた受験生の方が優れた答案を書いたりします。

 土地制度とはなんでしょうか。土地政策とはどうちがう? 政策は時の国家・政府が施行する土地の分配政策です。制度はこの政策そのものを指すこともありますが、政策がなくても制度は問われます(一橋、1988-3)。この場合は人為的なものでなく自然にできあがった仕組みです。たいてい大土地所有(制度)となります。京大の今年の問題の場合は、唐に土地政策(均田法)があり、宋に土地政策はありませんが制度(形勢戸・佃戸関係、という均田法が崩れてできた、いわば自然にできた制度)はあります。
 
 支配層(士大夫とそれ以前の貴族)にかかわりながら、土地制度について唐宋を対比をするとは、唐の土地政策である均田法と、それが中期(唐末五代)から崩れて宋ではどういう土地制度になったのかをのべて相違点を表わします。
 かんたんには均田法が両税法で崩れたことを書けばよく、もっとつっこめば公有制から私有制に変わった、という土地はだれのものかの根本を書きます。両税法はたんなる租庸調からの課税変化を意味するだけでなく、土地の私有制を公認した法でした(拙著の知識編、中国経済7「租庸調と両税法の原則の違いを述べよ」p.16、右17に解説)。
 しかしこれだけでは、支配層とのかかわりが表れていません。といってもネット内の解答は均田法崩壊を説明しているものばかりで、支配層だった貴族と均田法のかかわりわりについて書いたものはありません。それでは課題の「以前のものと対比しつつ」に応えたことになりません。均田法では、貴族に大土地所有の保証があります。官人永業田=売買自由、職分田=俸給に該当、公廨田(こうかいでん)=公費用などがそうです。すでに魏晉南北朝の時代から大土地所有者である貴族に対して、このように、さらに土地を与えています。隋唐は貴族連合政権ですから当然ともいえます。ところが宋の士大夫は自ら働いて、占城稲も導入し、二期作・二毛作も推進する働き手であった庶民出身の地主です。
 必ずしも大土地所有下の労働者がだれかは土地制度にかんして不可欠ではないのですが、広くとれば書いてもいいでしょう。しかし日本史なら荘園の働き手として奴婢はいいとして中国史の場合はいいか?(あるネット内の解答にあり) これはまちがい。詳細ですが、部曲(ぶきょく)が正しい。部曲は小作人と奴婢のあいだくらいの人たちで、小作料を払えなくなって隷属した荘園の働き手です。貴族の荘園の働き手で、いちばん多いのは小作人(佃戸)で、つぎが部曲、そして奴婢です。奴婢は家内奴隷で畑で耕すものは少なかった。小作人が働き手であることは教科書も書いてます。つまり宋の佃戸と同じです。佃戸という言葉は西晋の時代からあります。
 教科書『詳説世界史』の記述にある魏晉南北朝・唐初期・唐末の順に3つの記述をピックアップしてみます。

大きな荘園をもつ貴族は,多数の隷属民を従え……広大な荘園をもって隷属的な農民に耕作させていた……佃戸へと没落する均田農民もふえた。そして国家の規制力が弱まると、貴族・豪族や有力農民層がこれらの農民をとりこみ、大土地所有にもとづく農業経営(荘園制)を発展させていった。

 ここでいう「隷属民/隷属的な農民」とは奴婢ではなく小作人(佃戸)や部曲です。つまり貴族も佃戸、士大夫も佃戸を使っています。これでは対比にならない。けっきょく大土地所有下の働き手を書く意味がないのです(部曲のことが調べたければ、平凡社百科事典の「賤民」のところが分かりやすい)。このことは専門書を見るともっとハッキリします。「荘園の耕作には多くの部曲・奴婢などの賤民が従事し、また佃戸、佃客、荘客などとよばれる農奴的な小作人が使役され、唐代には(ここからが肝心なところ〜〜中谷の注)生活に苦しんで流亡した農民の多くが荘園にはいって佃戸となり、それがしだいに一般化する傾向にあった。これら佃客は主人から住居として客坊を与えられ、国家に対する税役の義務がなかったが、だいたい収穫の半分を主人に納め、牛、農具、種子などを借りた場合は六割を徴収され、そのほか主人の要求に応じて無償の労務を提供し、王公、貴族、官僚らは、このような荘園の経営によって大きな利益を収め、豪奢な生活を営んだのである」と(山川・世界各国史9『中国史』p.157-8)。

 課題の「士大夫……彼らはいかなる点で新しい存在であったのか」という問いがカヴァーする内容は広いから、「門閥貴族……世襲的特権……科挙に合格して官僚となり」というのは対比的な書き方にはなっていても、科挙を持ちだしたら唐にも科挙があり、それとどうちがうのか説明しなくてはなりませんが、そういうことを説明した解答も見当たりません。「以前のものと対比」という課題を軽く見ているためでしょう。合格した京大生と食事した折に、授業中に教授が、新聞に載っている予備校の解答は40%くらいの出来だね、と馬鹿にしていたと話してくれましたが、さもありなんです。

 さてもうひとつの課題である学術の対比に移ります。学術とはなんでしょうか。学問の言い換えでもありますが、学問にプラス芸術も入れます。あまり「学術」という表現は使わないものですが、京大系の学者が書いた「アジアの歴史と文化」シリーズ3『中国史〜〜近世1』(同朋舎出版)の中の論文「学術思想の新傾向」というのがあります。つづく論文には「宋元の文化」として文学と美術の説明があります。士大夫が課題なので、かれらの文学や芸術に言及することは宋以降の文人の生き方として不可欠でしょう。「学術」とあるのに文学・芸術に言及した解答がネット内のものにないのは解せない状況です。合格した受験生に再現してもらった(再現してもらった当時は合否は不明でしたが)答案には書いてあります(以下)。

士大夫を生み出した土地制度は佃戸制である。唐末五代の均田制崩壊の中成立した。以前の均等配分に近い土地所有が変化し、大土地所有者と従属する小作農民という構図ができあがった。のちに彼らは、南宋の朱熹が創始した朱子学を学び、科挙に合格することで中央政権への発言権を増していった。以前の貴族中心の政治運営とは異なっている。占城稲の導入などで江南開発を促進、一部では手工業を発達させ、経済発展の原動力となった。華北中心、農業主体の以前とは変化が見られる。文化面においても、文人画や陶磁器など国粋的な文化の担手に彼らはなった。唐代の貴族的かつ国際的な文化のあり方から大きな変化があり、士大夫は新しい存在だった。

 学問だけであれば、訓詁学と宋学(朱子学)でいいのですが、「以前のものと対比」ということであれば、あるネット内解答のように、訓詁学と宋学という用語を並べただけで対比したつもりでいるのは呆れた解答です。日本の都市を対比しなさい、と問われて東京と大阪の名前をあげただけで対比したことになりますか? 「対比しつつ」とは用語の羅列では済みません。内容のちがいに入らないと対比という思考をしたことになりません。
 それより訓詁学を貴族はホントに学んだのでしょうか? 『五経正義』を編集していますが、これは科挙の教科書であり、科挙を受験するのは下級貴族か地主・豪商の子弟です。支配層になったいわゆる「門閥貴族」は科挙抜きの無試験(恩蔭/任子)コースで士官できますから、訓詁学は学ぶ必要がありません。かれらが入れ込んだのは道教であり仏教であり、文学では詩でした。下級貴族とて科挙の受験科目は、秀才科(策論=政治論議)・明経科(経書暗記力)、進士科(詩賦=古体の韻文)の3科目でしたが、ほとんどの受験生が挑んだのは進士科という詩文を課す試験であり、訓詁学にあたる明経科ではないのです。たとえ科挙で合格しても唐代には二次の吏部試があり、この二次で合格しないと士官はできません。この吏部試は身言書判といって貴族風の身振り、言葉の上品さ、美しい書体、法の判断を見るもので、それも試験官は門閥貴族です。つまり訓詁学のような学問はほとんど要らなかった。唐末に「韓愈が提唱した古文運動そして儒教への復活主義は、見方を変えれば、反貴族主義」という卓抜な見方さえあります(気賀澤保規著『絢爛たる世界帝国・隋唐時代』中国の歴史6、講談社)。韓愈・柳宗元の二人が儒学復興運動をしたことは儒学がいかに尊ばれなかったかの証明でもあります。
 完全なまちがいではないとしても、支配層貴族が訓詁学を学ばなかったのであれば、ますます「学術」は学問より芸術・文化の方に比重をおくほうが正しい対比対象になります。内藤湖南が論文「近代支那の文化生活」で「古代より近代ほど官吏の作つた詩文集が非常に多い。漢の時代に名宦であつた人に詩文集などは殆んどないのでありますが、宋以後の人で苟くも有名な官吏をして居つた人に詩文集のない人は少ない。」(『内藤湖南全集 第八卷』筑摩書房)というくらい「詩文」が盛んでした。

 タテ線を引いて左右を埋めてみましょう。こんなに多くは要りませんが。文学・美術も入れてみます。
唐貴族)       (宋士大夫
訓詁学         宋学・歴史学
五経正義(五経重視)  四書(四書集注、四書重視)
道教の影響       仏教、とくに禅宗の影響
字句の解釈       思弁的傾向──注1
詩           詞
駢文(四六駢儷体/美文) 古文(唐宋八大家)──注2
書           画(文人画・山水画)・飲茶と陶磁器
写本による書物の伝播  版木(印刷)による流布
唐三彩・漆器      白磁・青磁
仏教彫刻・人物画    水墨山水画──注3
(文化全般)国際的   国粋的(征服王朝の圧力と愛国心/華夷の別を強調)

注1 「思弁的」という理由は、天道(宇宙の原理)や性(人間の本性)という唐までの儒学が対象にしないものを扱い政治・史学・人生観などをつつむ思想になったこと。唐までは、科挙を受ける受験生だけの学問であった儒学が、宋では比重はもっと大きくなり、宋学は宇宙・自然の見方とも通じる世界観であり、政治学であり、生きた方を示す倫理でもありました。皇帝独裁体制の支配の原理として「理」をもちだし、理の配分は中華皇帝→官僚→漢人→周辺民→動物→植物と少なくなっていく、と。これは文明の度合の序列でもある、と。
注2 吉川幸次郎は、韓愈・柳宗元が復興運動をしても主流とはならなかった唐代に対して、宋になり欧陽脩らが古文を主流にしたてることをこう述べています。「唐の散文は……韓愈らが[古文]の名で、自由文体による随想と伝記の文学を創始したのが、詩の洪水の中に孤立してある。しかしこの[古文]の文学も、唐末には継承されず、一時中絶していたのを、継承し普遍にしたのは、宋の文学者たちである」と『宋詩概説』(岩波文庫)にあります。 
注3 鑑賞者にとどまらず製作者として芸術活動に参加するのが宋代士大夫の生き方でした。学問をおさめるだけでなく、琴棋書画(きんきしょが、音楽、囲碁、書道、絵画)をたしなむのが士大夫として当り前のことでした。

第2問
A 外字の多い詳細な人名の出てくる私大の問題のようです。昔(センター試験以前)は京大の問題文といえば、それだけで歴史の新しい見方を示したり、平易な語句でありながら格調の高い文章でしたが、今はペダンティック(一般のひとが知らない学問や知識を異様にひけらかす)な劣化したとしかいいようのないものです。出題者が変わったようです。 
 空欄・下線は出た順で説明します。
空欄 a 前に書いてある「3世紀末(前209、陳勝呉広の乱と同年)」と後の東胡征服がヒントです。この後に書いてある「シラ=ムレン河流域」は、過去の京大にもよく出されています。地図で確かめるといいでしょう。遼河の上流です。 

下線部(1) 「4世紀はじめ(290/300〜306年ですから、まちがいとはいえません)」の「内乱」で西晋が東晋になる内乱は、西晋が封王の制という封建制をしいたことから8人の王たちがおこしたものです。

下線部(2) 313年(ミラノ勅令)という年がヒントであり、設問文「朝鮮半島支配の拠点」も。楽しい浪人という字を書きます。 

空欄 b 「315年に代王」がヒントにならならなくても、下のもうひとつの空欄bの後の「珪(ケイ)(道武帝)が代国を再建し、……国号を魏と改めた(北魏)」とヒント出すぎです。ただ「跋」が正しい漢字で書けるかどうか。足偏の横は点付きの友でなく、犬に斜めの刃で斬り殺すかたちです。

下線部(3) 下線部の文章出羽から無くても設問文で分かります。「亀茲国(今日のクチャ)……長安で大乗仏教の漢訳」とあるので「三論宗の祖」どころか東アジア仏教の祖ともいいたい坊さんです。亀茲は、もっと前に訪中した仏図澄の出身地でもありました。

下線部(4) 東晋の詩人(365頃〜427)で「六朝第一の自然詩人・隠逸詩人」、教科書では田園詩人と書いたものが多いひとです。次の王朝である宋の謝霊運(385〜433)とまちがわないように。東晋という文化人の多い王朝です。詩の異様さは『陶淵明』(中公新書)という面白い伝記で読めます。

空欄 c 大同市の近くにかつて白登山の戦い(前200年、冒頓単于と劉邦)があったところであり、近くに雲崗石窟寺院があります。

下線部(5) (ア)太武帝は廃仏(仏教弾圧)の最初に登場する皇帝です。かれの下で使えた坊さん(道教の場合は道士といいます)の名前です。このひとによって道教教団もできたとされる人物です。
 (イ)北魏が南下した後をまとめた民族名です。北アジア(モンゴル高原)史の順は、匈奴→鮮卑→柔然で基本です(拙著『センター世界史B各駅停車』p.33の表)。

空欄 d これは少し細かいが、推理はかんたん。北魏が分裂して西魏と東魏になり、西魏から北周に代わり、ここから隋という統一王朝が登場する、いっぽうの東魏は「北○」に代わった、この字は何?

下線部(6) 6つ置いた周辺民族統治機関の名前。

空欄 e 「9世紀半ば」がヒント。この時期にキルギスに追い出されて「西走」といわれる。いっぱんに840(はしれ)年説をとり、これがトルコ人大移動の発端となり中央アジア・西アジアにトルコ人時代がおきてきます。中国内の身近なところにいるのは新疆の自治区を構成しています。  

空欄 f 916、926、936年と10年おきに建国、渤海征服、中国領獲得と出てくる契丹(遼)の歴史の始まりです。ここは建国者のところ。916年(語呂は「アホは黄9色16い」『世界史年代ワンフレーズnew』から)のアホ建国者は漢字が正しく書けるかどうか。アホはもちろん阿呆のことでなく、「阿保機」です。これはアブーチ(掠奪者)という遊牧民としては尊称です。

下線部(7) 渤海の建国者も漢字が正しく書けるか? 「祚」という字は示す偏でも「ね偏」でもいい。

空欄 g 燕雲十六州を契丹(遼)に割譲する理由となったのは後晋をつくる際に、前王朝を倒す援軍を契丹に頼んだからでした。この前王朝は何かという問いです。五代十国の五代の王朝(後梁後唐後晉後漢後周)は覚えましょう(後「こう」と呼んで、後を省き、「梁・唐・晉・漢・周」と)。
B
空欄 h フランス人という意味のイタリア風に呼んだ人名です。父が呉服商でシャンパーニュに行き見そめたフランス人女性とのあいだにできのがこの子です。この両親の家を出て托鉢修道会をつくります。

空欄 i 同じ修道会なので、ここはカルピニかルブルクかは迷うところですが、下の文章に「フランス国王の命令を受けた」とあるので、ルブルク(ルブルク/ウィリアム=ルブルク/ギョーム=ド=ルブルク/リュブリュキ)と決まります。決まらない? カルピニを派遣したのは教皇インノケンティウス4世でグユク-ハーンに会いますが、ルブルクを派遣したルイ9世(位1226〜70)はモンケ=ハーンに会います。どれか一方をしっかり覚えておくといいのです。ルイ9世の「ル」、ルブルクの「ル」をとって、「ルンルンモーケ」と(『センター世界史B各駅停車』p.43、モンケ=ハーンはセンター試験では細かいので、拙著には載せていませんが、ここではこう覚えましょう)。

空欄 j この国王は十字軍の第6回、第7回の指揮者です。どこの君主もパレスティナに行かなくなったのに行くと決意したこ国王を教皇は聖人としました。サン=ルイ(聖人ルイ)ともいい、パリの発祥地シテ島のとなりの島ににもサン=ルイ島と名づけられています。ブッシュが小泉の自衛隊派遣を歓迎してこの小泉を米国で歓待したすがたは放映されていました。どちらも手前勝手な派兵であったという類似現象で、少数派で慰めあっています。

下線部(8) 十字軍がエジプトに? と疑問におもったひとは勉強のし直しです。十字軍が初めに戦うのはセルジュク朝ですが、その後はカイロの3王朝(ファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝)と戦います。というのはこれらの3王朝はエジプトだけの支配者でなくパレスティナももっていたからです。歴史地図をご覧あれ。アイユーブ朝かマムルーク朝かは、年代がヒントです。モンゴルの世紀は13世紀、この時期の王朝交代とあればマムルーク朝です(マルーク、一1つ2小5丸0、この語呂も『世界史年代ワンフレーズnew』から)。

下線部(9) (ア)「1253年」ということは、第4回十字軍がここにラテン帝国(1204-61)を築いてジェノヴァとともに帰還してくるニケーア帝国(ビザンツ帝国)は1261年なので、この間はラテン帝国の支配でした。わたしはこの帝国が発行したコインを持ってます。変に中がくぼんだ独特の貨幣です。
(イ)ユスティニアヌス再建という寺です。かつては立っていなかった塔がいまはイスラーム教徒の支配下にあるので付け加えられました。

空欄k 「支配者」を人物ととればバトゥ(バツ/抜都)ですが、国ととればキプチャク=ハン国です。どちらでも可能でしょう。ただこの下にも2回空欄kがあり、どうも人物名の方がいいようです。

下線部(10) 駅伝制のモンゴル語名ということで、站赤と漢字で書く字のカタカナです。今年の東大ではこの駅を通るパスポート(公用で旅行する者が携帯した証明書)である牌符(はいふ)も問われました(第3問・問6)。

空欄 l ルブルクが会った「大ハーン」は誰か、という問いです。京大は中国史でもセンター試験レベルの基本的なことを問うてきたのですが、次第に細かくなってきています。

空欄m 首都とあるので、オゴタイ=ハンが造ったモンゴル帝国の都です。漢字で和林と書いてもいいのですが。

下線部(11) 「不本意ながら協力しなければならなかった」異端とされていたキリスト教の一派は何か、という問題です。西欧で異端となったのはアリウス派・ネストリウス派・単性論派などですが、東方に来ているのはネストリウス派です。モンゴルの宮廷にネストリウス派の信徒がいました。トゥルイ家がそうです。ハイドゥの反乱のときに協力したナヤン家もネストリウス派でした。また大都からラッバン=ソーマというローマ教皇に会いに行った僧侶もネストリウス派でした。(ア)この中国名という問い。京大の百万遍の南にある総合博物館には、長安の大秦寺(教会)に建てた石碑・大秦景教流行中国碑のレプリカがあり黒い石が立ってます。わたしは長安の拓本をもってます。(イ)公会議は431年(『世界史年代ワンフレーズ』の語呂「Fフォア3+1」)です。Fに似た名前の都市で開かれました。現在のトルコ西部・小アジアの海岸にあります。パウロはここからコリントの信徒にたいして手紙を書いています(『新約聖書』コリント人への手紙)。

下線部(12) 840年から始まった移動がここまで到達しています。空欄eの民族運動です。わたしがもっている現トルコの教科書の1ページ目に、われわれトルコ人の起源は552年である、と突厥建国の年を記しています。

下線部(13) これはできなくてもいい問題です。「コンヤ」は山川の用語集では頻度3のデータです。答えのルーム=セルジュク朝(1077〜1308)は頻度が4です。コンヤを主な私大の問題で調べてみましたが、最近約20年間で出題した大学は皆無でした。法政の経済学部(1997年度)で文章の中に1回出てくる程度でした。これはセルジューク朝が細分化したもののひとつで、問題文の戦い(1071)の後にさらに西に進出しニケーア(325年ニケーア公会議を開催)に都して建国しました。これが十字軍遠征を呼び起こすことになり、十字軍に押され都をコンヤに移したものです。モンゴルの侵攻で衰えたことから、仕えていた部族長オスマンが新たに台頭します。「ルーム」とはローマ領(東ローマ帝国/ビザンツ帝国)の地であることを示しています。ルーマニアという国もこの名を冠しています。
 こういう問題を出して、悦に入っている出題者に以下のような問題を出しておきましょう。
 ヤッシーを都にした国は? カイルワーンを都にした国は? シシアを都にした国は? デヴァギリを都にした国は?
 ちょっと狂ってきました。

空欄 n これは変な問題とおもった受験生もいるでしょう。イェルサレム王国はサラディンに奪われた(1187)のですが、アッコン(現アクレ)に逃れて仮のイェルサレム王国が存在したのです。ホントのイェルサレムにいずれは帰ると。南宋の都・杭州(臨安)を行在(キンザイ)と呼び、仮の都という意味で呼んだのと似ています。マルコ=ポーロが来たときもキンザイという表現で出てきます。けっきょく帰れなかった運命も似ています。

第3問
 これは時代と内容の似た問題が過去にありました(1989)。こうです。
  
 パルテノンは紀元前447年から432年にかけて造営され、今日までアテネの繁栄の記念物として残っている。その造営の当時、アテネの政治や経済は、どのような状況にあったか。100字以内で説明せよ。

 この問題を解いていたら今年の問題が解ける……、というのは甘い見方です。この問題は前5世紀の後半だけを問うていること、経済も含むこと(これは難問)、100字の短文であることが今年の問題とちがっています。
 とくにちがうのは余りに短くて素通りしそうな文字に「独自の」ということばがくっついていて、民主政という政治だけの発展とあり方を問うています。答案を見るとき、独自性をどれだけ指摘できているか検討するといいでしょう。「独自の」ということはアテネだけの、広くとればギリシアだけの、という他の時代や国の民主政と「比較」した視点が必要だということです。ネット内の解答をご覧あれ。まるで教科書の本文をそのまま写しただけで、独自性を出しているものがどれだけあるか……、実に貧しい解答であることが判明します。合格した受験生の再現答案と比較するとより鮮明です。

紀元前6世紀末には民会が政治的決定を行う直接民主制が確立、クレイステネスの改革で五百人評議会や陶片追放など民主政徹底政策がとられた。しかし参政権は武装自弁可能な有産市民のみにかぎられていた。紀元前500年アケメネス朝との間にペルシア戦争が勃発、サラミスの海戦でアテネは大勝したがその戦艦のこぎ手が無産市民であったため彼らの参政要求が強まった。その後アテネはペリクレス時代と呼ばれる民主政の黄金時代を迎える。民会には無産市民を含めた男性市民が参加した。しかしペロポネソス戦争後デロス同盟の盟主「アテネ帝国」として暴走し、デマゴーゴスによる衆愚政治の常態化によりアテネの民主政は混乱、衰退した。

ネット内の答案を模範にしたら危ないですよ。
 時間は、「紀元前6世紀末からの約1世紀間」です。テーマは「独自の民主政を築き発展させ、さらにその混乱をも経験した。このアテネ民主政の歴史的展開についてその要点を」というもの。指定語句が二つ「民会 衆愚政治」です。
 時間的にはクレイステネスとその姪を母とするペリクレスの時代という時間です。クレイステネスで民主政の基礎ができ、それがペルシア戦争に勝利したアテネは最盛期にはいり、それが「混乱」という面ももっていたことを示す、という一見やさしい問題でした。時間的に「6世紀末」がクレイステネス(前508の陶片追放、『世界史年代ワンフレーズ』なら、陶片に木5の0葉8)を指すことが分からなかった受験生もいたようてす。年代を覚えなさいよ。これは基本的な年代ですから。
 クレイステネスについては二つの事業をあげなくてはならないでしょう。部族制改革と陶片追放です。前者はアテネを構成しているイオニア人の4部族のボスたちがそれぞれ100人ずつ代表をだす400人評議会であったものを、貧富差(都市部・内陸部・海岸部)も考慮して全アッティカを150区に分け、これをまとめて10区(10部族と呼んだ)に編制替えしたものです。10区から1人の将軍、50人ずつの代表をあつめて500人評議会を構成する、という大胆な改革でした。このクレイステネスの改革をあるネット内の解答では「貴族の勢力を抑え民主政の基礎を確立」(T)と説明していますが、ここで貴族をもちだしてきてはいけません。100年ほど前のソロンの改革で貴族・平民の区別はなくなり財産による4階級に変わっているのですから。
 この改革で民主政治の基礎ができたといっても、欠点がありました。それはソロンの改革のときにできた4階級のすべてに被選挙権があったのではないことです。これはペルシア戦争の漕手の活躍で解決します。
 しかしペルシア戦争(前500〜前479)の後にいきなりペリクレスの時代(前443〜前429)が来るのではありません。その前にエフィアルテスの改革(前462)があります。アテネの元老院(長老会)にあたるアレオパゴス会議の権限を縮小し、民衆裁判所(民衆法廷)の設置や民会に全権を握らせたことです。この改革のためにエフィアルテスは暗殺されます。さらにアルコン職を農民級(第三の階級)にも開放するという改革(前457)があり、ペリクレスの提案でできた市民権法(前451)は両親ともに市民出身者に市民権を限定(外人との結婚を事実上禁止)するという閉鎖的市民権を確立します。この閉鎖性も「独自」性のひとつですが指摘した解答は見たことがありません。
 用語集でデロス同盟は、「前478年頃結成。ベルシアの再攻にそなえ,アテネを中心に結成された軍事同盟。最盛期にはエーゲ海周辺の約200のポリスが加盟したといわれる。本部はデロス島におかれた。加盟ポリスには,艦船・兵員か軍資金を提供する義務が課せられた。前454年以降は同盟の金庫がアテネに移され,アテネが他のポリスを支配する「アテネ帝国」に変質していった。」
 とけっこう詳しく説明していますが、この中に書いてある「アテネ帝国」について言及した答案もネット内のでは見たことがありません。受験生の再現答案には書いてあります。教科書・三省堂のには「アテネは盟主の立場を利用して、加盟国に対する支配を強化し、同盟の資金を流用して国力を高めた」、山川の『新世界史』には「事実上のアテネ帝国をつくり」と書いてあります。つまりこの民主政はきわめて侵略的で横暴な面を最盛期にもっており、それが市民の支持を受けて実施されており、それを推進した人物がペリクレスです。ペリクレスが再建したパルテノン神殿の費用も同盟金庫から出ていることは名高いところです。
 なにもペリクレスが死んでから衆愚政治に陥るのではなく、もともと衆愚政治に陥りやすい傾向を内包していています。代議制ではなく直接民主政治である、ということは専門的な法の知識をもっているものがなく、官僚制の未発達という点からは行政の専門家もいない素人の集まりであり、弁論の力でどうにでもなるとおもっているソフィストの活躍期でもあります。戦争による略奪の欲望が支持を受けます。民主政最盛期とはそういう大衆の愚劣さが如実に出てくる可能性をもった時代です。
 ペリクレスをトゥキディデスは高く評価していますが、ペロポネソス戦争の末期に参戦し、その後の混乱の中で師のソクラテスを処刑され、亡命を余儀なくされたプラトンからすれば、アテネを混乱にまきこんだペリクレスは大衆迎合の政治家でした。ペリクレスは、「(アテネの人間を)、より粗暴な性質のものにした……、より不正で、より劣悪な人間にした……政治家としては有能ではなかった」とカルリクレスとの討論の中でソクラテスの口を借りて表明しています(プラトン著『ゴルギアス』岩波文庫p.247)。
 ペロポネソス戦争をはじめたのもペリクレスです。最近出版された『戦略の形成』(中央公論社、ウィリアム・マーレー/マクレガー・ノックス/アルヴィン・バーンスタイン共著、p.82)でも、ペロポネソス戦争について「ペリクレスの戦略はその出発点から失敗を運命づけられており、疫病の流行が始まる以前から既に破綻をきたしていた」と分析しています。
 ネット内の解答ではペリクレスが死んでから衆愚政治に陥った、とばかり書いていますが、この衆愚政治はペリクレスの時代そのものでもあります。それが「独自の民主政」ということです。たとえペリクレスを評価したとしても一人の将軍の死で崩れる民主政とは何なのか? 戦況のまだ良かったときに病死したためペリクレスを誉めたたえていますが、もし敗戦まで生きていたら同じ評価が下されるか怪しいものです。ヒトラーも戦争の初期に病死していたら、ヒトラーさえ生きていたら第三帝国の繁栄はつづいたのに、という評価があるかもしれません。ヴァイマール民主政の危うさは、アテネ民主政でも言えそうです。 
 さて今年の問題は拙著『世界史論述練習帳new』巻末「基本60字」の問題「市民権・民会・民衆裁判所・官吏の選び方などから、古代ギリシアの民主政治は近代民主政治に比べてどのような特色と限界をもっていたか説明せよ。(指定語句→法前平等・衆愚政治)」(p.40、右頁に解答解説)を解いていたら容易だったでしょう。独自性は近代と比較して明らかになります。

第4問
A 
(1)(ア)「宗教上の対立にもとづく戦争……1648年」とあるので三十年戦争の条約であることが判明します。ここにいたるまでの戦争を助長したのは何かと問うた問題が東大にあります(2006年第1問)。(イ)すでに独立している国二つ、スイス(バーゼルの和約、1499)とオランダ(ネーデルラント連邦共和国、1609)のうちどれかひとつを書けばいい。オランダは1609年の休戦で事実上の独立をしているのですが、三十年戦争とともにスペインとの戦闘が再開しました。

(2) 三十年戦争の年代(年号)は、「三十年もと1ろ6い1や8」(『世界史年代ワンフレーズ』の語呂)でかんたんでした。

(3) (ア)アウグスブルク和議と名前は出していないが、この和議の内容です。個人の信仰の自由はなく、カルヴァン派は他も認めずルター派かカトリック(旧教)の二つだけしか認めない、という内容です。領主の信仰が領域を支配する、という領邦教会のはじまりでした。都市では都市の市参事会(親方の集まり)が決定しました。
(イ)それが1648年に認められたのはカルヴァン(カルバン/カルビン)派でした(第28条)。ただし個人の信仰の自由(寛容)はまだでした。ドイツで個人の信仰の自由を認めるのは寛容令(1781)まで待たねばなりません(史料2)。

(4)(ア)共同統治者であった母マリア=テレジア(位1740〜80)と子ヨーゼフ2世(位1765〜90)とは時期が重なります。どちらでもいいとは言えますが、改革で熱心だったのは息子の方です。母親がなくなった1781年にこの寛容令を出しています。この史料集の解説によれば、商工業者としてすぐれていた非カトリック教徒(カルヴァン派・ユダヤ教徒)を利用したくてこの勅令を出したのだと実利目的を説明しています。
(イ)ポーランド分割ということば知らない受験生はいないでしょう。年代的には「1772年」,93年,95年(『ワンフレーズ』語呂は、夏72草93球9根5)ですから、これは母子ともに関係しています。

(5) 「1829年に成立した法律」は以前の法を否定したもの。それは「1673年の法律」で何かと問うています。中国では三藩の乱の開始の年でもありました。

(6) 今もカトリックの西隣の島国です。クロムウェル征服で名高い島です。イギリスとアイルランドの関係史はまだ京大は出していませんが、いずれ出るでしょう。

B イベリア半島との関係なので西欧史の分野に入っていますが、どちらかといえば問題の全体は第2問に移してもいいものです。
(7) 「縦断」貿易のことを商品の名前から塩金貿易といいます。以北に行った南のサハラでとれるものは黄金です。南下する商品の塩はモロッコの岩塩です。教科書でも「黄金の国」マリ王国という表現で出てきます(詳説世界史)。拙著『センター世界史B各駅停車』(パレード)では「14世紀にはこの国の王が300ポンドの金塊を100頭のラクダ一頭ごとに積み、さらに500人の奴隷にそれぞれ6ポンドずつの金ののべ棒をもたせてカイロ、そしてメッカへと向かい、その道すがら湯水のごとく金をつかい喜捨をしていきます。この金の行列のため、カイロでは金の価格が暴落しその相場の動揺は12年間もつづいたそうです。」(p.172-173)と書いています。この国の王はマンサ・ムーサ(カンカン・ムーサ、位1312-37)といいます。私大ではよく出てきます。早稲田・社会学部(2002)と関学のA日程(2008)の問題に、「マリ王国最盛期に,メッカに巡礼し大量の金を奉納したことで知られる王はだれか選べ」というのがあり、マンサ=ムーサを選ばせています。

(8) 「11世紀にベルベル人」でムラービト朝と分かります。語呂(『ワンフレーズ』)は「村人、十10五5郎6」です。ムワッヒド朝は、「むわっ酷(ひど)、ひ1ど1さ3○0」で12世紀です。

(9) 上でもう説明してしまいました。ニジェール川上流の国は3つ、ガーナ(8世紀)→マリ(12世紀)→ソンガイ(15世紀)という順は前掲書でも覚えるべきこととしています(p.173)。

(10) トンブクトゥでは機織りマニュファクチュアや多くのモスクやマドラサ(学校)が存在しました。この都市はセンター試験にも出ています(03追)、

遊牧民の宿営地であったトンブクトゥは、[ ? ]王国やソンガイ王国の時代には、岩塩と金との交易で繁栄を極めた。ここにはイスラム諸学の学者が招かれ、宗教・学芸都市としてもその名は広く知られた。

 という風に。

(11) アルハンブラ宮殿をつくった王朝です。半島のイスラーム王朝の覚え方は、ウマイヤ朝→後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝です(「うう、むむ何するん?(『各駅停車』p.150)。

(12) (ア)産業革命のときには資金と綿花を運ぶ港町です。マンチェスターが背後に控えています。ビートルズ生誕地です(前掲書p.365)。設問のように奴隷貿易の港として学ぶかどうか。用語集では「奴隷貿易で飛躍的に発展し始め……」とあります。
(イ)砂糖プランテーションのサトウキビ、タバコ・プランテーションのタバコ、綿花プランテーションの綿花のどれでもいいでしょう。(ア)リヴァプールとの関係でいえば産業革命のとき最初に綿花という原料を提供したのはジャマイカの綿花でした。インドでも合衆国でもなく。

(13) 用語集頻度4の詳細なデータです。山川の教科書にはこのベニン王国そのものの記述がなく、三省堂・帝国書院・東京書籍のものにはありました。ヨルバ人(族/王国/王朝)もナイジェリアですから答えになります。キューバの黒人はこのヨルバから売られてきたひとたちです。奴隷貿易のアフリカ諸王国を載せた教科書の地図は見つかりませんが、以下にはあります。
http://www.unesco.org/culture/dialogue/slave/images/Apdf.PDF

(14) (ア)2つの事件は港町の名前です。スペインやポルトガルの南にあり、北アフリカ西部の国です。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が徴発しにきたところです。スペインはこの国の北端セウタを今も領有しています。
 (イ)アフリカで独立を維持できたのはリベリアとエチオピアの2国だけでしたから、答えは前者になります。このリベリア(自由の国)の中身は合衆国の一州のようです。その理由は拙著『各駅停車』p.173に書いてあります。

C
 出題者が替わったためか異様な問題も出題されました。また50年前から今日までは歴史ではない、ジャーナリズムにすぎない、という通念もやぶった現代常識テストみたいなものになりました。世界史の問題でなくてもいいものばかりです。

(15) これは世界史の問題なのでしょうか? もちろん教科書にも載っている用語ではありますが、とくに世界史の問題として問わなくてもいいものです。

(16) 国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の創設会議による体制は何か、という問題です。世界の45か国が集まって戦後の世界経済の復興について会議が開かれました。第二次世界大戦の原因は世界恐慌にあり、それを放置するとまた戦争が起きる、という反省からできた体制です。1オンス35ドルの固定価格で金につながる「準金本位制」をつくります。しかし海外派兵と戦争のやりすぎでドルの国際的信用が低下し,ニクソンのときにこの関係を止めにして体制は崩壊します(ニクソン・ショック/ドル・ショック、1972)。アメリカ経済の不安定さは今も続いています。

(17) 「1978年」は日中平和友好条約がこの年の8月に結ばれています(語呂、日中平和、ぼ1く9ナン7パ8[『ワンフレーズnew』から])。「新政策」が「中国の市場経済化」を促すものとすれば「四つの……」という政策です。近代化といわないところが中国独特の表現です。これは近代化は中国にとってアヘン戦争以降の半植民地化の過程=近代と一致していて、良いイメージにはならないから使いません。解答は「改革開放(政策)[用語集では頻度1]」でもいいのですが、具体的にはこの「四つの……」でもいいのです。

(18) 1986年の米ソ間核軍縮条約は何かという問題で、この年代1986年がまちがっていて、翌年の1987年でした。これはわたしがミスしてきた経験からすれば、単なるミスではなく、出題者自身がよく知らないことを問うときに起きる現象です(語呂は「中距離、一1区9離87れよ」[『世界史年代ワンフレーズnew』]から。この語呂本を出題者にささげたい。解答なし、とした予備校もありました。それでもいいでしょう。

(19) 「GATTを継承した新機関が1995年」の名前。頻度6。

(20) 頻度0。できなくていい問題です。「1953年……DNA二重らせん構造を提唱した科学者二人」はケンブリッジ大学にいたイギリス人フランシス=クリックとアメリカ人ジェームズ=ワトソンという若い研究者で、居酒屋イーグルで「生命の秘密」ほ発見したと報告しあったのが最初。しかし、このDNAは、スイス人フリードリヒ=ミーシャーが白血球からかDNAを分離することにすでに成功していた(1869)ものの、このDNAの重要性は認知されていなかったためで、再発見されたのです。ミーシャーはDNAといわずヌクレインと呼んでいました。

(21) ヒトラーもつかった宣伝用具です。1906年に実験に成功。1920年米国で放送が開始され,同年の大統領選の開票速報がきっかけで急激な普及を見た……というのが常識的な説明です。

(22) (ア)「将来の世代にも保証するために環境保全に留意しつつ節度ある経済開発」という考えをどういうか。東京書籍(旧版の教科書)の注に「リオ宣言では,環境をそこなうことなく開発をすすめることが持続的な発展につながるという「持続可能な開発」という考え方が,理念として示された。」とあるくらいが唯一の記述です。用語集頻度0。

 (イ) 「地球温暖化防止会議」の開催都市にちなみ何と呼ばれるか。○○議定書というやつ。『不都合な真実』を書いたゴア副大統領(当時)もこの町に来て演説をしていきました。頻度4。

(23) 映画『ホテル・ルワンダ』でも知られた内戦です。この紛争でツチ族への憎しみをあおるラジオ放送を流したことが、一般のフツ族までもが虐殺に走ることになったそうです。

 解答の不出来を見て出題者は常識がない、と嘆いたことでしょう。さて、どちらに常識がないのか?
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解答例
第1問
  (君の解答)。
第2問
A a 冒頓単于 b拓跋 c平城 d北斉 b ウイグル f耶律阿保機 g後唐
(1)ハ王の乱 (2)楽浪郡 (3)鳩摩羅什 (4)陶淵明(陶潜) (5)(ア)寇謙之 (イ)柔然 (6)都護府 (7)大祚栄
B
hフランチェスコ lルブルック Jルイ9世 kバトゥ lモンケ mカラコルム nイェルサレム王国
(8)マムルーク朝 (9)(ア)ラテン帝国(イ)聖ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア聖堂) (10)ジャムチ (11)(ア)景教 (イ)エフェソス公会議 (12)トルコ人 (13) ルーム=セルジューク朝 
第3問
  (君の解答)
第4問
A (l) (ア)ウェストフアリア条約(イ)スイス(オランダ)  (2) 1618 年
(3) (ア)諸侯にカトリック・ルタ一派いずれかの宗派を選択する権利を与えたが,個人の信仰の自由は認めなかった。(イ)カルヴァン派 (4) (ア)ヨーゼフ2世 (イ)ポーランド (5) 審査法(審査律)  (6) アイルランド
B (7)金 (8) ムラービト朝 (9) マリ王国 (10)トンブクトゥ (11)ナスル朝 (12) (ア) リヴァプール (イ)砂糖(サトウキビ)/タバコ/綿花 (13)ベニン王国/ヨルバ王国(朝) (14) (ア)モロッコ (イ)リベリア
C (ア)グローパル化 (16)ブレトン=ウッズ体制 (17) 四つの現代化(改革開放政策)(18)中距離核戦略兵器(INF)全廃条約 (19) 世界貿易機関(WTO)  (20) クリック、ワトソン (20) ラジオ (22) (ア)持続可能な開発(発展)  (イ)京都議定書 (23) ルワンダ