世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2001

第1問(20点)

 9世紀以降、バグダードやコルドバを中心に急速に発達したイスラム文化は、その後も発展を重ね、世界の文化の進展に様々な影響を及ぼした。
 このイスラム文化について、次の4点に注意しつつ、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
 1 発達・発展の過程。どのような過程を経て発達・発展したか。
 2 内容と特徴。どのような分野が優れ、どのような特徴を持っていたか。
 3 担い手。どのような人々を中心に発達したか。
 4 他文化への伝播・影響。何をどこに伝え、どのような影響を及ぼしたか。

 

第2問 青色は下線部にあたります(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 漢を再興した[  a  ]が朝廷を置いた洛陽は、続く魏・晋王朝の都にもなった。(1)左思の「三都賦」が愛読されて、「洛陽の紙価を貴からしむ」という言葉を生み出したのは晋代のことである。しかし、まもなく起こった(2)永嘉の乱にはじまる五胡十六国時代では、北族支配下の地方都市に転落する。南遷した東晋王朝による洛陽回復も一時的なものに止まった。
 洛陽が首都の地位に返り咲いたのは、北魏の第6代皇帝孝文帝が(3)南朝征討を口実にして強引に挙行した(4)遷都による。これは漢化政策の一環であったが、王朝の東西分裂の遠因ともなった。そのうち西魏の系統を引く隋・唐が統一を回復すると、洛陽は西京の長安に対して東都と呼ばれた。副都とは言っても、(5)穀倉地帯である南方により近いこともあって、唐朝の前半期には皇帝が臣下を引き連れて洛陽に滞在することもしばしばであった。(6)則天武后の時代には「神都」と呼ばれて事実上の首都だったこともある。北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の[  b  ]の造営も続いていた。
 安史の乱以後、洛陽の政治的地位は低下する。中央政府に反抗的な(7)節度使たちを牽制する重要な位置を占めていたものの、皇帝が行幸することはなかった。しかし、(8)官界から身を引いた士大夫たちの隠退の地として愛された。
 黄巣の反乱軍から投降した[  c  ]が904年に朝廷を洛陽に遷したが、やがて自らの王朝をつくると、洛陽から程遠からぬベン州(開封府)を都とした。洛陽に首都を置いた後唐を除き、宋朝に至るまでそれが続く。この東京に対して、洛陽は西京とされたが、唐の時代以上に官僚の隠退の地という性格を強めていく。神宗が起用した[  d  ]による政治改革に反対して朝廷を去った司馬光が(9)『資治通鑑』を編さんしたのも洛陽においてであった。「中原(ちゅうげん)」という言葉が狭義には洛陽一帯を指すように、洛陽は長く天下の中心と意識されてきたが、宋代以後歴史の表舞台となることはなかった。   

(1)この作品を収めた『文選』の編集の総裁は誰か。
 (2)310年、動乱の洛陽にやってきて以後、仏教の普及に努めた西域出身の僧侶の名を答えよ。
 (3)当時の南の王朝は武人の蕭道成がはじめたものである。その王朝名を答えよ。
 (4)北魏のそれまでの都はどこか。
 (5)穀倉地帯と長安・洛陽を結ぶのは大運河であるが、そのうち長江とつながる江南河の起点はどこか。
 (6)則天武后がつくった王朝の名を答えよ。
 (7)10節度使を置いて、その強大化への道を拓いた皇帝の名を答えよ。
 (8)その一人で、「長恨歌」の作者は誰か。
 (9)この本の記述の始点は、春秋時代の強国晋の臣下であった三家が諸侯として認められた時点に置かれている。その三家がそれぞれつくった国の名を答えよ。

B 地中海から紅海・ペルシア湾・アラビア海を通ってインドにいたり、さらに東南アジアをへて中国に達する航海路は、海の道とも呼ばれ、東西をむすぶ役割をはたしてきた。かなり早い時期から、(10)海路を利用した例がいくつもみられるが、とくに8世紀以降はムスリム商人が[  e  ]と呼ばれる帆船を使って海上に進出し、中国の沿岸各地にもやってきた。
 その刺激もあって、中国も次第に海上交易に目を向けるようになり、(11)おもな港湾都市には貿易管理を担当する[  f  ]がおかれる一方、(12)中国商人も東南アジア方面に出かけてゆくことになった。13・14世紀には、モンゴル世界帝国が出現し、内陸ルートとも完全につながって、(13)海上交通はいっそう活発となり、(14)東西の文化が交流した
 ところが、明になると、(15)中国人の渡航を認めず、[  g  ]貿易以外の外国との取り引きを禁止した。この政策はその後も堅持され、1517年に[  h  ]人が広東付近に来航したのを皮切りに、(16)ヨーロッパ商人がつぎつぎと来航するようになっても、その基本姿勢は変わらなかった。しかし、16世紀後半になると、民間人の渡航も許されるようになった。
 清に政権が交替すると、台湾を根拠地として大陸反攻をはかる[  i  ]を孤立させるため、清は(17)1661年に中国沿岸の住民に内陸部への移住を命じる法令を出した。しかし、それも1684年には解除し、翌年には広州など4か所に[  j  ]を設けて、海外交易を統制・管理する方針に転換した。

(10)インドから海路で中国に帰った4〜5世紀の仏教僧は誰か。
 (11)南宋から元にかけて、中国最大の貿易港はどこであったか。
 (12)中国側の輸出品の主なものを2つ挙げよ。
 (13)13世紀末に中国にやってきて、大都(現在の北京)の大司教となったイタリア出身の人物は誰か。
 (14)文化交流の結果として、1280年に中国で暦がつくられた。その製作者は誰か。
 (15)この政策を、ふつう何というか。
 (16)このうち、スペインはフィリピンを根拠地に間接的に中国と交易したが、そのさいスペイン側が対価として出したのは何か。
 (17)この法令は何というか。

第3問(20点)
 16世紀から19世紀前半にかけてヨーロッパが海外に膨張していく過程で、新しい性格を持つ奴隷制が広がっていった。近代奴隷制と呼ばれるものである。この奴隷制の拡大に関わった国々を明示しつつ、近代奴隷制の特徴と展開過程を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[    ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 雄弁家として知られるローマ共和政時代末期の政治家キケロは、紀元前106年にラティウム地方の小さな町アルビヌムに生まれた。民衆派のリーダーとして有名な(1)マリウスと同郷であり、出身家系もマリウスと同様、貴族に属してはいなかった。しかし、キケロは法廷弁論家として成功を収め、その成功によって国家の公職にも当選した。政治家としての栄達を求めたキケロは、ついに前63年に共和政ローマの最高公職である[  a  ]に就任した。この年、当時の政治体制に不満を持った貴族カティリーナが国家転覆を企てたが、キケロはこれを未然に防いで「祖国の父」の尊称を得、その名声は頂点に達した。
 だが、前60年に(2)ポンペイウス、カエサル、クラッススの実力政治家が密約を結んで「(3)第1回三頭政治」を始めると、キケロは政治活動から離れざるをえなくなり、またカティリーナ陰謀事件の時の非常処置を問題にされて一時ギリシアに亡命せざるをえなくなるなど、不遇の日々を送ることとなった。
 キケロが再び政治の世界に復帰するのは、独裁政治をおこなっていたカエサルが暗殺された前44年である。この年の[  a  ]になっていたアントニウスは、カエサルの後継者を自認して権力を握ろうとした。これに対し、キケロは共和政を守ろうとして、得意の弁舌でアントニウスを攻撃し、アントニウスと対立していたカエサルの養子オクタウィアヌスに期待した。一時キケロの活躍でアントニウスは窮地に陥ったが、カエサルの部将[  b  ]が仲介してアントニウスとオクタウィアヌスが和解し、前43年にこの3者による「第2回三頭政治」が成立すると、事態は急転した。除かれるべき政敵のリストに入れられたキケロは、アントニウスの放った刺客によって殺害されたのである。
 キケロは中世においても、ローマの作家としては(4)詩人ウェルギリウスとともによく読まれたが、しかし彼の政治家としての側面は忘れられ、(5)修辞学の基本書の作者として尊敬されていた。キケロが西洋の思想と文化に真に大きな影響を持つようになったのは、(6)主要な著作や弁論の写本が発見されて、彼の人と思想の全体が明らかになるようになったルネサンス時代以降のことである。

(1)マリウスは兵制改革をおこなったことで知られる。
  (ア)その内容を簡潔に記せ。
  (イ)この改革はその後の共和政ローマの歴史的展開に大きな意義を有することになった。これについて要点を簡潔に説明せよ。
 (2)ポンペイウスが滅ぼしたヘレニズム諸王国の一つの名を記せ。
 (3)この政治体制によって権限を与えられたカエサルが展開した、最も重要な政治的軍事的行動は何か。
 (4)ウェルギリウスの有名な作品の名を一つ記せ。
 (5)中世の学問体系では、専門領域に移る前に修辞学や文法などを習うことになっていたが、これらの諸学はまとめて何と呼ばれたか、記せ。
 (6)キケロの友人宛の書簡を発見したのは、人文主義の先駆であるとともに、理想の恋人ラウラヘの思慕を歌った抒情詩集『カンツォニエーレ』の作者としても知られる人物である。その名を記せ。

B 15世紀末、フランスは、それぞれ領土をめぐって争いのあったイギリス、および神聖ローマ帝国と和を結び、ブルターニュ、ブルゴーニュ両地方を併合して、フランスのほぼ全域の統合に成功した。同じ頃、イベリア半島では、スペインが、最後に残ったイスラム支配地の[  c  ]を陥落させ、レコンキスタを完成する。国土の統一後、両国はさらに対外的な領土拡大の鉾先を、イタリア半島に向けた。1494年、フランス王シャルル8世は、1482年以来、スペインのアラゴン王家の支配下にあった半島南部の(7)ナポリ王国の王位継承権を主張して、イタリアヘの遠征を開始した。
 こうして始まったイタリア戦争は、16世紀の半ばまで4次にわたってくりかえされ、およそ半世紀間、イタリアは外国の軍隊による戦場と化した。1527年には、(8)皇帝の軍隊によって、教皇庁のあるローマが包囲され、破壊と略奪にさらされる事件も起きた。こうした戦乱は、絶頂期にあったルネサンス期のイタリアをしだいに衰退に導いた。また、イベリア半島の2つの国による、新たなアジアヘの航路の開拓は、それまでイスラム圏の商人との取引を通じて、東方貿易を独占してきた北イタリアの商人の経済的な地位を、相対的に引き下げることにもなった。1571年には、スペインを主力とした、教皇、[  d  ]共和国との連合軍が、オスマン帝国の海軍を[  e  ]の沖で破り、スペインによる東地中海の制海権が確立した。こうして、イタリアはヨーロッパの歴史の新しい展開から取り残されることになる。
 いっぽう、イタリア戦争の開始にさいし、フランスの軍事行動がイタリアの政治秩序を混乱させることを懸念したスペインや神聖ローマ帝国は、教皇やイタリア諸都市と結んで軍事同盟を結成し、征服したナポリ王国からのフランスの撤退を迫った。ところが、イタリア北部で[  d  ]共和国の勢力が強大化すると、こんどはフランスを取り込んだ新たな同盟を結成することになる。勢力の均衡維持のために、情勢の変化に応じてつぎつぎと国家間の関係が再編される、近代的な国際関係の原理が、(9)北イタリアの諸都市国家で育まれてきた徹底した世俗的国家観ともあいまって、ここに開始されたといえよう。
 18世紀の末、イタリアは再びフランスの軍隊の侵入にさらされる。ナポレオンの遠征である。イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは、ロンバルディアを征服、ミラノ、ジェノヴァ、ローマに従属共和国を樹立し、さらにエジプトに転進する。(10)イタリア、エジプトでの軍事的成功は、ナポレオンに国民的人気をもたらし、(11)1799年のクーデタで、彼が政権を奪取するひきがねとなった。1801年にナポレオンは、フランス革命以来とだえていたフランスと教皇庁との関係を、宗教協約(コンコルダート)によって修復し、翌年には(12)教皇領を復活して、イタリアに新秩序を築くことになった。

(7)この王国の領土に、12世紀、ノルマン人が建国した国を何というか。
 (8)この神聖ローマ帝国皇帝は誰か。
 (9)これについて、国家における君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家は誰か。
 (10)この軍隊が、イタリア、エジプトで戦った主要な国は、それぞれどこか。
 (11)このクーデタを何というか。またクーデタによって倒された政府は何と呼ばれたか。
 (12)1859年のイタリア統一戦争以後の、イタリア統一過程における教皇領の位置について簡潔に記せ。

C 長年スペインとポルトガルの植民地支配のもとにあったラテン・アメリカでは、18世紀末から独立の気運が高まり、やがて各地に新しい国家が誕生した。フランス領であったハイチでは[  f  ]に指導された黒人の独立運動が成功したが、スペイン領であったところでは、植民地生まれのスペイン人である[  g  ]が運動の中心となった。アルゼンチンやチリで活躍したサン・マルチン、ベネズエラやコロンビアで活躍した[  h  ]らはみなそうである。
 しかし独立は、ただちに民主的な社会の成長、あるいは自立した経済の発展をもたらすものではなかった。まず、国内では[  g  ]の地主階級が政治や経済の実権を握り、独立以前と同じ大土地所有制が続いていたため、多数の貧しい農民の状況はほとんど変わらなかった。他方、海外からは、独立の動きを支援した二つの有力な国が、その大きな影響力を各国に及ぼすことになる。そのひとつイギリスでは、外相そして後に首相を務めたカニングが、自由主義的外交を展開して(13)諸国の独立を支援した。また、いわゆる北の巨人、アメリカ合衆国は、モンロー宣言でヨーロッパ諸国の西半球への干渉を拒否する一方、西半球に勢力を拡大していく姿勢を明確にしはじめたのである。やがてアメリカはメキシコ領であったテキサスを併合し、アメリカ・メキシコ戦争でさらに(14)広大な領土を割譲させた
  アメリカの膨張で国土が半分以下になったメキシコでは、社会が混乱した。その後、自由主義勢力が力を伸ばして内戦状態を収拾したものの、やがてここに経済権益をもつ(15)ヨーロッパ諸国が介入し、その一国は皇帝さえも擁立した。メキシコ人は介入に抵抗し、まもなくこの(16)ヨーロッパの勢力は撤退したが、こんどは抵抗のなかで重要な役割を演じたディアス将軍がクーデタで政権を握った。独裁者となったディアスの下では、鉱山業と鉄道を中心にアメリカやイキリスの資本が投下され、経済開発が進められた。
 一方、スペインの植民地支配が続いたキューバでは、1860年代に独立を求める反乱が生じ、いったんは鎮圧されたものの90年代にふたたび大きな反乱が起こった。キューバのプランテーションに投資し、また1889年に[  i  ]を主催してラテン・アメリカ地域への経済進出を意図していたアメリカ合衆国は、この反乱を機にキューバに介入し、1898年のアメリカ-スペイン戦争をへて結局はキューバを事実上の保護国とした。さらにアメリカは、セオドア・ローズヴェルト大統領の下でモンロー主義を拡大解釈し、西半球諸国へのみずからの干渉を正当化する新しい方針を発表して、カリブ海一帯に進出し始めた。二つの大洋を結ぶためにコロンビアの一州を独立させ、[  j  ]の建設に着手したことはその一環である。
 独裁の続いていたメキシコでは、1910年になって(17)革命が起こった。激しい政治変動の過程ではアメリカの干渉も受けたが、1917年には新しい憲法が制定された。これは土地が本来は国家に属すると定めて土地改革に根拠を与えるなど、民主主義的な色合いを強くもつものであった。このような変化は、その後、徐々にラテン・アメリカ諸国に広がっていくことになる。

(13)イギリスがラテン=アメリカ諸国の独立を支援した背景を簡潔に記せ。
 (14)このときアメリカが割譲させた地方名を記せ。
 (15)介入したヨーロッパの国の名を二つ記せ。
 (16)介入を打ち切らせることになったヨーロッパ内部の事情について簡潔に記せ。
 (17)このなかで、土地改革を主張して農民反乱を指導した人物の名を記せ。

………………………………………

コメント
第1問
 イスラム文化(文明)が未出題分野であることは、すでに「対策」の中で指摘していたものでした。
 「イスラム文化について、次の4点に注意しつつ」と要求が多いです。しかし教科書には答えのすべてがのっています。結局、必要だったのは、4つの要求を短文で次々と書きつづっていくことでした。
 これらの要求のうち「過程」は流れですが、後の「内容と特徴」「担い手」「伝播・影響」は流れではありません。なんでこんな当り前のことを言うかというと、昨年度のところでも書きましたが、世界史の論述は流れさえ判っていれば書けるよ、と甘い見方をしている高校教師がおり(これはわたしが教えている予備校生から聞いていますし、かれらの書く答案を見ても判明します)、時間をとめて一般化した表現が必要であることを、この問題は教えています。
 また昨年度まで具体例を書かせることに主眼のあったのとちがい、あまり具体例を書き込むと必要な4つが書けなくなる可能性をもっています。要求が抽象的です。イスラム文化の一面を書かせるのでなく、全面を書かせようとした広すぎた課題だったためです。具体例を書きだすとアップアップになります。実際に書いてみたらいいでしょう。
 「影響」が西方だけに終わらないようにしたいものです。東方にも多くの影響があります。東方を見逃した予備校の解答例がありますから、それらのホームページでとくとご覧あれ。
第2問
A 私大の問題にもよく出されるタイプの歴史的な都市(本問は洛陽市)の回顧史です。洛陽は「九朝古都」といわれ、九つもの王朝がここに都を置いた都市です。問題も「楽よーッ」という感じ。  
空欄a は「漢を再興した」とあるので後漢であり、建国した皇帝はだれかという易問。  
空欄b も前文の「北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の」というのは北魏が「造営」したものを想起すればいいわけで、北魏の前半の都(問4)の平城近郊に造営したのが雲崗石窟、とすれば南に遷都した洛陽の南郊には何か。雲から龍がでてきます。  
空欄c も前文「黄巣の反乱軍から投降した」とあり、その後に「やがて自らの王朝をつくる」とあれば、朱温が唐朝に投降してもらった、うさんくさい名前です。  
空欄d は、空欄の前後に「神宗が起用した」「政治改革」とあるので新法の人物。  
問(1) 『文選』編纂の「総裁」といわれると、そんなにおおげさな職責だったのかと驚くが、知っている名前はひとつしかない。   
問(2) 西域出身で名高い僧侶は教科書で二人いますが、「仏教の普及に努めた」とあれば布教僧をさします。鳩摩羅什は訳経僧で、時代も「310年」ではなく、前秦の苻堅に捕らえられたのが384年、前秦が滅んだ後、後秦によって国師として長安に迎えられたのが401年です。399年法顕がインドに向かうのとちょうど入れ違いになる僧侶。  
問(3) これは細かい。「当時」は前文の孝文帝がいつごろの皇帝か知らないと判りにくいですが、孝文帝といえば均田法開始の皇帝でもあるからおぼえておくといい(485年、語呂は「均田4箱」。在位は471〜499年)。「武人の蕭道成」とあるが読めなかった受験生もいるでしょう。「しょうどうせい」と読みます。奇問狂問です。479〜502年のたった23年しかつづかなかった「斉(南斉)」です。  
問(4) 既述。
問(5) 大運河の最南端の都市はどこか、という問と同じ。  
問(6) 武周革命という言い方もあります。唐朝の血をひかぬ武后には唐朝の皇帝を名乗るのは無理であり、新たな王朝名を必要としました。周をおこした武王の子孫であるとでっちあげ、弥勒仏の下生(げしょう、この世に生まれる)として崇めさせる、というなんとも奇妙奇天烈な創作でした。この創作を可能にするには恐怖政治が背景にありました。そのオドロオドロしい世界をのぞきたくば、津本陽『則天武后』(冬幻舎文庫)を読まれたい。  
問(7) これは安史の乱のときの皇帝です。714年から置きました。  
問(8) 作者は「詩と酒と琴」を「三友」とした豪快な詩人。  
問(9) 司馬遷が「三晉」と呼び、司馬光がこれを発端として戦国時代がはじまったとした三国です。

B 海の道をテーマにした問題。  
空欄e は細かい。もっともセンター試験にも出されたことがあります(2001年度世界史A)。  
空欄f と空欄j「貿易管理を担当する」役所は玄宗が広東に置いた(714年)のが最初とされます。これは清朝では海関と呼び名が変わります(空欄j)。  
空欄g 自由な貿易を禁止したという文脈の中で、従来から中国中心(中国側が品物の種類・数量・人員を指定してくる)の貿易が外交もかねて行なわれました。  
空欄h このヒントは後の「ヨーロッパ商人」と問(16)に「スペイン」とあるから、それ以外のものと推理できます。  
空欄i は後に「1661年」とあるのでまだ鄭成功は生きています。1662年5月に亡くなっているから、鄭氏でもいいですが、ここは個人名にしたい。空欄jは既述。  
問(10)行路は陸路だったのが帰路は海路だったという坊さんのことは問(2)で既述。  
問(11) 泉州だということがパッと判るかどうか。これはマルコ・ポーロやイブン=バトゥータらが「ザイトゥーン」呼んで世界一繁栄している港としてその盛況を証言しています。  
問(12) シルクロードは海にもおよび、陶磁の道はアフリカ東岸にまでいたっています。  
問(13) これは一般に中国にはじめてカトリックを伝えた宣教師はだれか、という問ででてくる人物。わたしは北京でこのひとが建てた教会を訪れたことがあります。今も現存しています。  
問(14) 授時暦の製作者を問うています。冬至の決定にイスラムの天文学を応用したらしい。  
問(15) 「中国人の渡航を認めず」だけでなく、外国人が中国に勝手に来校することも禁じている政策です。日本では鎖国といいます。  
問(16) 西欧人には売るものがない。スペインは現生(げんなま=金銀)をもってきました。  
問(17) これも細かい質問。台湾を根拠地にして復明を図ろうとするものを海岸に近づかせないための方策です。福建・広東両省を中心に東南5省の沿海住民を30里奥地へ強制移住させ、無人化して貿易・渡航を禁止し、鄭氏の孤立化をはかっていました。京大の中国史は私大的なデータも学んでこいということでしょう。多くはセンター試験レベルですが、満点をとるために。

第3問
 2000年の年末は、合衆国の大統領選挙の投票集計をめぐるニュースに集中しました。フロリダ州の開票を手作業で確認するパンチの押し具合が問題でした。しかし、ここに奴隷制の後遺症を読み取った人はどれだけいたでしょうか? 
 テクノロジーの最新国になぜ、パンチに穴を空けて投票するなどと前時代的なものがあるのか。機械はもちろん開票作業が早いからですが、その他に、文字・スペルが正しく書けない文盲に近い黒人たちが大勢いることも理由なのです。かつて奴隷であった黒人たちは、名前を持つことや読み書きを禁じられていました。奴隷解放後もつづいた差別と貧困によって教育水準は低くおさえられました。一説ではゴア候補は、このためにフロリダで27,000票も失ったらしい。
 さて、この問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々を明示」、「特徴(古代中世の奴隷制とのちがい)」、「展開過程(流れ)」です。第1問とともにうるさい要求です。時間ははじめに「16世紀から19世紀前半」とありますから南北戦争(1861〜65)に言及する必要はありません。
 さて問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々」、「特徴」、「展開過程」です。このうち「特徴」の要求は難しい。これをまともにとるか、まともにとらないで、たんなる「内容説明」になります。しかしまともにとるなら、文脈からは、古代中世の奴隷制とのちがいになります。
 「特徴」がどれだけ書けたかで差がつきそうです。というのは貿易にかかわった国々、展開過程のところでは、三角貿易やインディオに代わる労働力であること、鉱山や棉花栽培に酷使された点はだれでも書きそうですから。
 問題文に「新しい性格を持つ奴隷制」「近代奴隷制」と「16〜19世紀前半」のものを定義していますから、「新し」くない奴隷制、「近代」でない奴隷制、すなわち15世紀以前の古代中世の奴隷制を考慮しないかぎり「特徴」は浮かび上がってきません。
 古代であれば、ギリシア・ローマを想起します。中世であればイスラムとの貿易に主に東欧スラヴ人が奴隷としてイタリアやドイツ商人によって売られています。古代中世とも、たいてい白人の奴隷です。一部に黒人もいました。このことを踏まえて「近代」奴隷制とはどう違うのか考えましょう。
 問いの順どおりに書くより、国々→展開過程→特徴、という順のほうが書きやすい。国々は、教科書にも書いているようにポルトガル→スペイン→イギリス・フランスとすればいい。フランスはわたしの教科書には書いてない、というなら「奴隷貿易がさかんとなった……イギリス・オランダ・フランスが積極的に参加しはじめた」と書いた教科書もあることを指摘しておきたい(山川『新世界史』)。ピークをなした18世紀後半から1810年までの半世紀だけでフランス人が運んだ黒人は60万人弱にたっします(イギリス人が150万人強、ポルトガル人が100万人強)。1人25ポンドで買った奴隷は新大陸で150ポンドに売れました。フランスの奴隷船の船主たち(ブルジョア層)は自分の船に「ヴォルテール号」「ルソー号」「社会契約号」などと命名していました(ルソーが奴隷を運ぶ、という図は差別を土台にして平等を主張する西欧人らしい象徴画です)。時は啓蒙思想の流行期でした。この貿易で港のナント、ボルドー、ル・アーヴル、ルーアンが繁栄しています(M.Beaud A History of Capitalism 1500-1980 Macmillan Press)。
 展開過程は、いわゆる流れであり、16世紀からはじまって、どうして19世紀まで継続・発展したのか、その理由としての奴隷制の必要性や使役場所、生産させたものなどをあげていきます。これは教科書に充分データがあります。奴隷貿易という項目がたいてい載っているし、南北戦争のところでも説明があります(『詳説世界史』なら645字)。
 特徴(特色)を、『新明解国語辞典』は「ほかのものと違って(すぐれて)いる点」と定義しています。「ほかのものと違って」という語句の中に、比較の思考があり、比べた上で、一方のすぐれた点、変っている点をとくに強調して述べることです。特徴らしきものを書いたら採点官はわかってくれるだろう、というのは甘い。しっかり明解に書いたほうがいい。
 構想メモは左に旧奴隷貿易、右に新奴隷貿易として比較の表をつくってみましょう。「旧」はすぐ浮かびませんから、分かっている「新」のすがたを思いつくままメモしてみます。その上で左も類推していくと現われてくるものです。(旧)を少しでも触れて、(新)を書くと「特徴」が明解に出せます。なお下のメモのすべてを書く必要はありません。

(旧)            (新)
白人ほか          黒人が主
周辺地域          アフリカ大陸から
ムスリム・キリスト教徒   アフリカの諸王国が売り手
いろいろな国々       買うのは西欧人・アメリカのプランター
諸々の商品の一つ      膨大な数(西欧全人口の5〜6倍)
死なせない(損失になるから) 途中(大西洋)の大量死亡と投棄
影響少ない         (影響)アフリカの疲弊(人口激減)・その文化破壊
               貿易国の強勢(ベニン・ダホメー・ヨルバ王国など沿岸国)・内陸王国の衰退
               輸入地の混血とアフリカ文化の移植
               輸入港(リヴァプール・ブリストルなど)に莫大な利益(→産業革命の資本へ)     

第4問
A 文章に合わせて下線設問と空欄を説明します。
  (1)下線設問(ア)は、マリウスの兵制改革として名高いもの。これは(イ)とも関連しています。教科書では改革がどのようなものであったか、いまひとつ不明解です。アフリカに出兵するさいに、徴兵したのでなく志願兵をつのり、集まった無産市民兵で軍団を構成しました。このことが慣例となり、兵役は義務として市民がになうものでなく、給料をもらって戦地におもむく志願兵(形としては傭兵ですが、しかしローマ軍ではある)がになうものに変わったのです。職業軍人制といってもいい。失業者に仕事を与えたことになります。戦利品(土地)の分け前ももらえました。とすると、たんまりもらえる将軍には恩義を兵士たちは感じ、将軍がなにかに立候補するときには投票する。こういう風にパトロネジといって私的な庇護関係(親分・子分関係)がつくられていきました。これが地中海全域に拡大し、私兵を権力闘争のための軍事力として動員しました。「内乱の一世紀」は、こうした少数の有力政治家・軍人を頂点とする複数の権力ピラミッド間の闘争でした。
 空欄a はやさしい。リキニウス法によって平民からも一人選ぶことになりました。
 問(2) セレウコス1世が建国した当時とはちがう、だいぶ縮小したシリアを前64年にほろぼしました。
 問(3) カエサルは三頭政治のときには他の二人のように軍事的功績をあげていなかった。前58年からガリア遠征がはじまります。
 空欄b はこの後の文章に「この3者による「第2回三頭政治」」とあるのでやさしい。
 問(4) もやさしい。たくさんの作品の中のひとつしか教科書にはのっていない。アエネーイス、アエネアスともいう。センター試験でもすでに3回出題されています。
 問(5) 英語ではliberal artsリベラル・アーツという。中世の大学の基礎科目です。
 問(6) 『カンツォニエーレ』は教会でであった娘に恋をした詩人の苦悩詩です。

B 空欄c は「最後に残ったイスラム支配地」でナスル朝の都です。
 問(7) ルッジェロ2世が初代の王となるシチリア王国とナポリ王国の合体国家。
 問(8)前文に「1527年」とあり、このころの神聖ローマ皇帝はだれか、という問。1519年からスペイン国王カルロス1世(1516〜56)は皇帝となります。神聖ローマ皇帝はドイツ語表現が通例。ルターとウォルムス国会で対決した、アウグスブルク和議のときの皇帝、といえば判るのではありませんか。空欄d前文に「1571年」とあるので、空欄eのほうが先に判るでしょう。そうすると西欧側の戦力でスペインでも教皇でもないとすれば、「アドリア海の女王」といわれる海港都市です。この空欄dは後の文章でも「イタリア北部」とヒントがあります。
 問(9) 「君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家」といいながら当時は劇作家として名を成した人物。もちろん『君主論』の著者です。
 問(10) 「イタリア、エジプトでの軍事的成功」と「成功」まで下線が引いてあります。問は「主要な国」。イタリアは侵入してきたオーストリア軍との戦いがあり、これはいいとしましょう。エジプトはどうか。当時オスマン帝国領であり、ここのマムルーク軍と戦って勝ち、エジプトを占領する。マムルーク軍は火砲の威力の前に崩れ、カイロを明け渡しました。ただちにナポレオンは軍事政権を樹立し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進しました。カイロ入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされました。「成功」にこだわれば、答えはオーストリアとオスマン帝国(トルコ)です。
 問(11) はやさしい。「クーデタ」と名のつくものは一つしかない。
 問(12) 1861年のイタリア王国成立時点では、まだ教皇領は西海岸がのこっていました。それが普仏戦争でドイツ帝国と組み、西海岸も奪いローマ市も占領しました。事実上教皇領はなくなりました。教皇はヴァチカン宮殿にこもることになります。1929年のムッソリーニとのラテラン条約により領土喪失は年金で補償をしてヴァチカン市国が成立しました。問題文には「統一過程における」とあるのでラテラン条約に言及する必要はないです。
C 空欄fは細かい。 奴隷でありながら反乱を指導しました。フランス語で「抜け穴(ルーヴェルチュール)」の意味をもつくらい神出鬼没のゲリラ戦でフランス軍を悩ましました。
 空欄g 個人名でないことは後の「みなそうである」という文章で判ります。植民地生まれの白人地主の総称。
 空欄h ボリビアの国名で今もその名が残っている人物。
 問(13) イギリスに産業革命がおこっていた時期です。
 問(14) 西海岸の広大な州の名前。
 問(15)  3国が派兵しています。
 問(16) 奇問に近い。メキシコ干渉を充分説明された受験生はどれだけいるでしょうか? といってもメキシコ干渉(遠征)当時のヨーロッパの事件を推理する他はない。1866〜67年が撤退の時期でこの頃の事件にあたりオーストリアにもフランスにもかかわることがらといえば、ビスマルクの行った戦争しかないでしょう(普墺戦争は66年6月から7月)。それより前、南北戦争を終えたばかりの合衆国はナポレオン3世の行動を許さず、国境に軍隊を集結させて撤退を迫っていました(66年の2月から)。フランス軍は撤退しました(67年3月)。
 空欄 i 空欄の前の年号か後の「経済進出を意図」かで判らなくてはならない。
 問(17) メキシコ革命には多くの人物がかかわっているが農民反乱とあればひとりです。
------------------------------
第1問(君の解答)
第2問
A a 光武帝(劉秀) b 竜(龍)門石窟  c 朱全忠  d 王安石
問1 昭明太子  問2 仏図澄(ブドチンガ)  問3 斉  問4 平城   問5 杭州  問6 周  問7 玄宗  問8 白居易(白楽天)  問9 韓・魏・趙
B e ダウ(船) f 市舶司 g 朝貢 h ポルトガル i 鄭成功 j 海関 問10 法顕  問11 泉州  問12 陶磁器・絹  問13 モンテ=コルヴィーノ  問14 郭守敬  問15 海禁  問16 (メキシコ・墨)銀  問17 遷界令 
第3問(君の答え)
第4問
A
空欄 a コンスル(統領、執政官)  b レピドゥス
問 (1)(ア)無産市民を集めて武器をもたせローマ軍として雇った。
 (イ)雇った軍人はしだいに有力将軍の私兵と化し、それを背景に将軍たちの内乱を招いた (2) セレウコス朝シリア  (3) ガリア遠征  (4) アエネイス(アエネアス、アイネーイス)  (5) 自由七科  (6) ペトラルカ
B
空欄 c グラナダ d ヴェネツィア e レパント
問 (7) 両シチリア王国  (8) カール5世  (9) マキァヴェリ  (10) オーストリア、トルコ(イギリス) (11) ブリュメール18日のクーデタ、総裁政府  (12) 1861年に東海岸の領土をうばわれ、71年の普仏戦争でヴァチカン宮殿以外の西海岸の領土も奪われた。
C
空欄 f トゥサン=ルーヴェルチュール g クリオーリョ h シモン=ボリバル i パン=アメリカ会議(汎米会議) j パナマ運河
問 (13) 市場・原料供給地として重要視していたから  (14) カリフォルニア、ニュー=メキシコ  (15) イギリス、フランス(スペイン)  (16) 普墺戦争でオーストリアが敗北し勝利したプロイセンが台頭したため (17) サパタ