世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2004

 

第1問(20点)
 セルジュク朝、モンゴル帝国、オスマン朝は、ともにトルコ系ないしモンゴル系の軍事集団が中核となって形成された国家であり、かつ事情と程度は異なるものの、いずれも西アジアおよびイスラームと深くかかわった。この3つの政権それぞれのイスラームに対する姿勢や対応のあり方について、相互の違いに注意しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部
 (1)〜(14)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 碑文を石に刻んで立てるという行為は世界各地で行われてきた。中華世界もその例外ではなく、碑刻には様々な意味が付与されてきた。
 まず、(1)始皇帝が天下統一後行った巡幸の先々で石碑を立てたように、時の支配者の権威の誇示ということがある。始皇帝と同じく泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行った唐の[ a ]の皇后武氏は、のちに革命に備えて則天文字を作った。この文字を刻んだ碑が盛んに作られたのにも、政治的な意味がある。
 軍功を記念して石碑が作られることもしばしばであった。匈奴遠征を行った竇憲(とうけん)の功業をたたえて班固が作った碑文は范曄(はんよう)が著した史書[ b ]に載せられている。また、唐朝の政府軍が節度使の反乱を平定した時、これを記念して(2)韓愈が作った碑文は後世まで名作とうたわれた。
 周辺諸国にも、立碑の象徴的意義は理解されていた。730年代に(3)オルホン河畔に立てられた碑文は突厥の復興を称揚したものであり、823年[ c ]と唐の講和を記念してラサに石碑が立てられたのは、国内に向けて平和外交を強調したものとも考えられる。
 宗教関係の碑文も数多い。その中には、政府の保護下にあることを誇示するために作られたものがある。(4〉西域取経の旅から戻った玄奘の求めに応じて皇帝が作った(5)「大唐三蔵聖教序」は碑に刻まれて、仏典翻訳事業への支持を示すものとなった。781年に立てられた「大秦[ d ]流行中国碑」もキリスト教ネストリウス派の中国伝来以後の歴史を述べた後、立碑時点における政府の保護を強調している。
 石碑は儒教の経典のテクストを確定するためにも使われた。2世紀後半に帝都[ e ]に(6)「熹平(きへい)石経」が作られ、その近くに241年[ f ]王朝のもとで石経碑が立てられた。これは儒教に限られない。唐代には、(7)『老子』に対して皇帝自らが付けた注釈が石に刻まれて、天下に公表された。仏教の石経の代表例としては、(8)現在の北京郊外の房山で隋代以来長期にわたって刻まれたものがある
 石碑は多くの人の目に触れるので、碑文が称賛する対象や立碑にかかわった人々の権威を顕示することになる。また、書物が希少で失われやすく、書写を重ねるうちに誤りが多く生じた時代には、石碑の恒久性と安定性に大きな価値が認められていた。
 実際には、政治情勢の変化や戦乱により碑が倒されて、権威の誇示という立碑の意図が必ずしも生かされないこともある。しかし、いったん埋もれたネストリウス派の碑文が数百年の時を経て(9)17世紀前半に再発見されたケースのように、当事者のおもわくを超えた反響を呼ぶこともある。記録性という点で、石碑がすぐれた媒体であることは否めないのである。

(1)始皇帝の丞相で、この碑文の字を書いたとされるのは誰か。
(2)彼と同時代の人で、古文復興の担い手として並び称されたのは誰か。
(3)この碑文の一面に刻まれた漢文を書き送った、当時の皇帝は誰か。
(4)玄奘が5年間学んだ、当時のインドの仏教教学の中心僧院の名称を答えよ。
(5)この文章は、のちに東晋時代の名筆が書き残した字を寄せ集めて、改めて碑に刻まれた。その名筆とは誰か。
(6)この石経の文字を書いた大学者蔡 (巛+巴、さいよう)は、元代末期に江南で書かれた長編戯曲の中で妻を裏切る出世主義者として登場する。その戯曲の題名を答えよ。
(7)1973年に漢代の諸侯家の墓から、『老子』の古いテクストが出土した。この時同じく出士した文献の中に、戦国時代に合従策を説いたとされる人物の活躍を記したものがある。その人物とは誰か。
(8)なかでも、11世紀には盛んに石経が作られた。当時、この一帯を支配していた王朝名を答えよ。
(9)この時、碑文の拓本を広めるのに尽力したキリスト教徒で、『農政全書』などの著述があるのは誰か。

B 中国明朝の外交政策は、伝統的な朝貢政策をべースにしつつ、中国人の海外渡航を禁止したうえで朝貢に伴う貿易だけを認め、これをもって周辺諸国・諸民族をコントロールしようとしたところに特徴がある。この政策は、自らの文化を周辺の「野蛮人」のそれに比べて格段に高いものとする華[ g ]思想(中華思想)に裏打ちされたものであったが、現実には格段に強力な軍事力を背景としてはじめて有効であった。永楽帝が[ h ]を南海に派遣して朝貢を促すことができたのも、また(10)ヴェトナムが反抗的であるとして大軍を派遣しこの地を国内に組み入れることができたのも、当時なお強大な軍事力があったからにほかならない。ところが1449年になると、(11)皇帝自らがモンゴル討伐に出て、逆に捕虜にされるという大事件が起こっている。この事件の発端は、モンゴルが明朝の朝貢規定に従わないのみか朝貢の道筋で殺戮(さつりく)を行い、さらに幾度も侵略を繰り返していたところにある。また、東南アジアの一朝貢国であり、かつ明朝に忠誠を誓って何度も[ i ]を受けた国でもある[ j ]が[ k ]によって1511年に占拠された時には、明朝は保護義務があったにもかかわらず、見殺しにするしかなかった。このような外交政策は、16世紀中頃に東シナ海沿岸で[ l ]が猛威をふるった後に一部変更を余儀なくされ、(12)中国人の海外渡航は許可されるにいたったが、外国人が中国に入る時には、少なくとも表面的には進貢を目的としてやって来たとしてはじめて可能であった。(13)ヨーロッパからキリスト教の布教のためにやってきた[ m ]会士も、その例外ではない
 清朝の外交政策は、いくつかの点で明朝のそれとは異なっている。最も大きな違いの一つは、モンゴルやチベットを服属させて[ n ]とし、朝貢国とは違う管理をした点である。しかし、朝貢政策を外交のべ一スとした点では変わりがなく、また厳重な貿易統制を行った。これが可能であったのは、強大な軍事力がその背景にあったからである。イギリスは19世紀のはじめに[ o ]使節団を送り、より自由な貿易を求めようとしたが、清朝はこれを朝貢使節と見なしただけでなく、皇帝に対して無礼であるとして北京から退去させた。最終的に朝貢が廃棄されるのは、(14)朝鮮の支配権をめぐって日清戦争が勃発(ぽっぱつ)するまで待たねばならなかったのである。

(10)その後、明朝の占領軍を撃退して成立した王朝名を答えよ。
(11)(ア)この事件を何と呼ぶか。(イ)また、この時にモンゴル側の事実上の指導者であったのは誰か。
(12)海外へ渡り、そこに住み着いた中国人を何と呼ぶか。
(13)宣教師が中国で作った世界地図の名称を答えよ。
(14)朝鮮のこの時の国王は誰か。

第3問(20点)
 4世紀のローマ帝国には、ヨーロッパの中世世界の形成にとって重要な意義を有したと考えられる事象が見られる。そうした事象を、とくに政治と宗教に焦点を当てて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A シベリアという地名は、(1)16世紀、ロシアのウラル山脈以東への進出にともなって征服されたシビル=ハン国の名称に由来する。ロシアは、毛皮や鉱物資源を求めてシベリアの開発を進め、17世紀前半には太平洋岸に達した。このためアムール川(黒竜江)流域をめぐって中国と利害が衝突し、1689年に清朝とのあいだでスダノヴォイ山脈(外典安嶺)を境界とする条約を結んだ。
 18世紀にはいると(2)ロシアは2度にわたってカムチャツカの探検を組織し、アラスカに到達した。伊勢国出身の船頭、大黒屋光太夫が遠州灘で遭難し、アリューシャン列島に漂着したのは、18世紀末のことである。光太夫はシベリアを横断してロシアの当時の首都[ a ]に至り、(3)エカチェリーナ2世に拝謁したのち、1792年に帰国した。1847年、初代東シベリア総督に任命されたムラヴィヨフは武力でアムール川地方を占領し、(4)1858年に清朝との間に条約を結んでアムール川以北をロシア領とした。さらに(5)1860年の北京条約によりウスリー川以東の沿海州がロシア領となった。1891年よりシベリア鉄道の建設を始めたロシアは、(6)1896年中国領内を経由して沿海州に至る[ b ]の敷設権を獲得し、1903年にこれを完成した。シベリア鉄道は日露戦争にさいして兵員や物資の輸送に利用されたが、ロシア革命後の対ソ干渉戦争によって大きな被害を受けた。
 19世紀をつうじてシベリアは、ツァーリの支配体制に反抗する政治犯の流刑地でもあった。デカブリストの乱やポーランドの反ロシア蜂起の参加者たち、1870年代の(7)ナロードニキ、90年代以降のマルクス主義者をはじめとする革命家たちの多くがシベリアに送られた。

(1)このときシビル=ハン国の首都を占領し、ロシアの本格的なシベリア進出のきっかけをつくったドン=コサックの族長は誰か。
(2)この探検によって、北極海と太平洋を結ぶ海峡の存在が確認された。この探検隊の隊長の名を記せ。
(3)大黒屋光太夫は、日本に対して通商を求めるロシアの使節の船で帰国した。この使節は誰か。
(4)この条約は、イギリスとフランスによる中国への侵略戦争に乗じて締結された。この戦争の名称を記せ。
(5)1860年に建設が開始され、のちにロシアの極東政策の拠点となる沿海州の港湾都市の名を記せ。
(6)同じ頃、ヨーロッパのある国が西アジアヘの進出を図り、アナトリアからペルシャ湾に至る鉄道の敷設権をオスマン帝国より獲得した。この国の名称を記せ。
(7)この人々の考え方を簡潔に説明せよ。

B 17世紀から18世紀にかけて、北米大陸の大西洋岸にイギリスが建設した各植民地は、成立の経緯も、経済的基盤も、支配のあり方もそれぞれに異なっていた。ロンドン会社による入植が行われたヴァージニア植民地では、[ c ]のプランテーションが成功し、大土地所有が進んだ。一方、(8)ピューリタンによって建設されたマサチューセッツ植民地では、宗教的な規律が重視される政教一致の体制が築かれ、またそれを嫌う人々によって他の植民地が分離、成立した。カトリック教徒が入植したメリーランドや、クェーカー教徒によって建設されたペンシルヴァニアもあった。独立前、最後に建設されたジョージアの場合は、当初、本国の債務者監獄の囚人を解放して入植させ、同時に南からのスペインの侵攻に備えるために計画されたものであった。
 このようにばらばらな北米大陸の植民地に一体感をもたらしたのは、むしろイギリス本国が植民地に課した重商主義的な規制であったといえよう。1651年の航海法をはじめ、17世紀後半から18世紀前半にかけても重商主義的な立法は存在したが、それが厳格に強制され、また(9)新たな規制および課税の攻勢がかけられるようになったのは、(10)七年戦争の結果、北米大陸にあったフランスの脅威が取り除かれて以降のことである。植民地は本国議会に代表を送っていないにもかかわらず課税されることに強く反発し、(11)抵抗を開始した。本国政府は抑圧をもってそれに応え、対する各植民地は代表を[ d ]に送って、1774年、最初の大陸会議が開かれた。こうして植民地間の結合がもたらされたのである。
 (12)本国との戦争、独立宣言の公布を経て、1783年パリ講和条約でアメリカ合衆国の独立が承認された後も、かつての植民地は州として、個別の政治体としての性格を維持した。1787年に開かれた憲法制定会議では、(13)中央政府の権限を強化しようとする人々と、制限しようとする人々との間に対立が見られたが、翌年発効した合衆国憲法は、権限を中央政府と各州に分配しながらも、外交や軍事、課税にとどまらず、州際通商の規制など比較的広範な権限を中央政府にあたえ、アメリカの統合を目指すものであった。

(8)これらの植民地が存在した地方を何と呼ぶか。
(9)この時期の規制・課税立法の例を一つあげよ。
(10)このできごとについて説明せよ。
(11)この時期の抵抗の例を一つあげよ。
(12)この戦争の期間中、本国からの独立と共和政の樹立の正当性を主張して大きな影響のあったトマス=ペインの著作は何か。
(13)この人々を何と呼ぶか。

C つぎの文章は、(14)(15)後年ノーベル文学賞を受賞することになる作家が、1947年に発表した寓意小説の冒頭部分から引用したものである。舞台は、この作家が生まれ育った故郷にある一港町であり、かつてヨーロッパで(16)黒死病とも呼ばれて恐れられていた伝染病に仮託され、人生そのものにつきまとう死や病などの「悪」、そして貧困や戦争などの社会悪に対して、人間はいかに立ち向かうべきなのかが問われている。

 この記録の主題をなす奇異な事件は、194*年、オランに起こった。通常というには少々けたはずれの事件なのに、起こった場所がそれにふさわしくないというのが一般の意見である。最初見た眼には、オランはなるほど通常の町であり、(17)アルジェリア海岸におけるフランスの一県庁所在地以上の何ものでもない。(宮崎嶺雄訳)

(14)作家名(ア)と、小説名(イ)を記せ。
(15)(ア)この小説にうかがえる文芸・哲学思潮について、それが一般に何と呼ばれているかを明示したうえで、その思潮の特徴を簡潔に説明せよ。
(イ)この思潮を20世紀中葉のドイツにおいて代表する人物で、ナチスの積極的加担者であったと後に批判されるようになる哲学者の名を記せ。
(16)この伝染病の病原菌は、ある日本人学者によって1894年香港で発見された。かつて彼が師事していたドイツ人で、細菌学の祖と呼ばれる人物の名を記せ。
(17)(ア)1954年に始まったアルジェリア戦争では、アラブ世界がアルジェリア民族解放戦線側に有形無形の支援を行った。1956年、この支援に対抗することを目的の一つに、フランスはイギリスとともにアラブ世界への軍事介入を行う。この介入によって起きた紛争が一般に何と呼ばれているかを明示したうえで、その紛争へのイスラエルの関わり方と、その紛争の終結にいたる過程を、簡潔に説明せよ。
(イ)アルジェリアは1962年に独立する。当時のフランス大統領の名を記せ。
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コメント 
第1問
 問題は三つの王朝・国(セルジュク朝、モンゴル帝国、オスマン朝)の「それぞれのイスラームに対する姿勢や対応のあり方について、相互の違いに注意しつつ」というものです。
 比較の問題です。「相互の違いに注意しつつ」をどれだけ出せたかで差がつきます。三つの王朝・帝国について「イスラームに対する姿勢や対応」を書いてもだめです。それが「違い」を表していないとだめです。もし三政権の対応を書くだけでいいのなら、この「違い」という要求はなくても良かったはずです。実際、違いを求めない類題が一橋の2004年度の問題にあります。それは「この三つの王朝の崩壊過程から、イスラーム世界の近代は生まれる。その一つは、イスタンブルを首都とするオスマン朝であるが、あとの二つの王朝は何か。その名前を述べ、それぞれの王朝の成立経緯(いつ、誰によって建設され、どの地域を、どのような理念で統治したのか、など)を簡潔に述べなさい」というものです。ここには違いが要求されていません。京大のこの問題も「それぞれの対応のあり方について述べよ」で問題文は終わってもよかったのですが、「相互の違いに注意しつつ」と踏み込んだ要求をしています。「注意」したかどうかは、心の中のことでそんなの分かりっこない、というとらえかたなら甘いですよ。答えというものは、文章で「注意(東大がよく使う用語なら「留意」)」したことを表現しないと応えたことにならないのです。過去問でも京大は違いを要求しています(1992、1997)。
 自分の書いた解答が問題に対応した解答になっているかどうかを判断するひとつの方法は、解答の文章に題をつけてみることです。友人に付けてもらうともっといいでしょう。「三政権のイスラームへの対応の違い」という題はつきますか? 三政権のイスラームとのかかわり、という題にはなるでしょう。それぞれの対応は書いていても「違い」は書いてありますか? A朝は□□したが、Bはそうせず、○○した、とかC帝国は●●だったが、A朝は△△だった、と。こう書かないのであれば 、採点官におまかせ、ということになります。解答した受験生に代わって採点官が違いを探してくれるのでしょうか? まさか。違いではなく共通点を書いていませんか?
 宗派は宗派で、カリフに対してはどういう態度をそれぞれがとったのか、またスルタン位はどうなのかを検討してください。ばらばらに書いても比較したことになりません。ちなみにイル=ハン国の7代目ガザン=ハンがイスラム教を国教にしたときの宗派はスンナ派です。 弟の8代目オルジェイドゥ(知らなくていい名前)のときにシーア派に変更します。
 比較の問題は、すこし考えたら出てきます。考えなかったら出てきません。これは学生であるとないとは関係のないことです。どんなに長いこと教師をしていようと無思慮な「教育(?)」をしてきたものには困難です。受験生の方がときにすぐれた解答が書ける理由はこの差です。
 違いは、ある一点に視点をさだめて三つの政権の対応を比べたらいいのです。
 たとえば、カリフに対する三政権の対応を比べましょう。セルジュク朝はスルタンの称号をもらってカリフから政治的権限をうばったものの、カリフを保護しました。が、イル=ハン国はカリフを殺しています(アッバース朝滅亡、これには異論がありますが、ここは一応教科書に合わせておきます)。オスマン朝はカリフ家の存続していたカイロを占領し(1517)、後にこれを根拠にスルタン・カリフの両称号を名乗ります(18世紀)。保護・殺害・僭称の違いです。
 イスラーム教という宗教にたいしては、セルジュク朝は初めから信仰し、イル=ハン国は初めキリスト教と友好関係を保ってイスラム世界とは対立していたのを転換し、途中から信仰します。オスマン朝は初めから信仰し、スルタンがカリフを名乗って教主にまでなりました。
 シーア派にたいしては、セルジュク朝はシーア派のブワイフ朝を追放し、イル=ハン国はシーア派になり、オスマン朝はシーア派のサファヴィー朝と対立しました。
 さらにムスリム(イスラム教徒)との融合という面では、セルジュク朝はニザーミーヤ学院をつくってイスラーム学術の振興につくし、イル=ハン国は自民族への信仰の拡大と、中国の画家を連れてきたためミニアチュール(細密画)ができあがります。オスマン朝は現地のこどもたちを徴集して強引にイエニチェリ(軍人)や官僚に仕立てました。それぞれ学問・芸術・軍事政治と分野は違い、自発と強制の違いはあるものの融和に成功しています。
 イスラーム世界の中では、セルジュク朝もイル=ハン国も王朝としては短命で分裂していきましたが、オスマン朝は稀にみる長期の政権となり、かつ広大な領域を支配しつづけ、イスラーム世界に安定をもたらしました(三つの比較ですから、このように二つが同じで他のひとつと違うというばあいもあります)。
 とまあ、いろいろあるはずです。ひとつでも書いたらいいのです……。

第2問
A 第1問問が中国史でなかったため、ここでA・Bともに中国史となり、いかにも京大の中国史重視があらわれた部分です。第1問は昨年も一昨年も中国史でしたから、今年はちがうと見ていました。それでこんどは中国史がここに集中しています。碑文について説明しながら設問を出しているので、表向きは難しそうな早稲田・立命館風かと思いきや、意外とかんたんな設問が並んでいます。こういう問題文を見て、早稲田・立命館のように中国史を細かく勉強せなあかん、文化史講座をとれ、とわめく先生がいるかも知れませんが、問題をよく見たらそんなものでないことが判明します。

 下線(1) 空欄・下線に分けないで問題文にあわせて上から順にいきます。下線(1)は設問の問題文に「始皇帝の丞相」とあり「碑文の字を書いた」のは誰かは分からなくても答えられる易問です。センター試験では1988年度に出ています。
 空欄a 問題文の「唐の[ a ]の皇后武氏」から武后さんの旦那だ、と推測がつきます。高祖(李淵)・太宗(李世民)とつづいて、3代目の皇帝です。周辺の侵略戦争がある程度成功して各地に都護府を設置することにになった皇帝です。この夫婦はセットでセンター試験1992年度に出ているくらいの基本人名です。
 空欄b 「班固----范曄が著した史書[ b ]に」とあり、ちと難しい。それでも班固につづく史書とみて『漢書』につづく次の書だと推理したら答えがでてきます。
 下線(2) 韓愈に「彼と同時代の人で、古文復興の担い手」とあり易問です。韓愈・柳宗元とつづきでおぼえておくべきものです。センター試験の1991年度に二人はセットで名前が出ています。
 下線(3) 難問みたいな問い方ですが、しかし下線部分の文章や設問文より、下線部前の「730年代」のほうがヒントです。ここから755年の安史の乱を想起することはそれほど難しくはないでしょう。乱のときの皇帝はだれか、という問です。 もちろん皇帝と乱はセットでセンター試験にはよく出されています(1992 、2001追、 2003)。
 空欄c 空欄の前の「823年」で分からなくても、後の文「ラサに石碑」とチベットの都市をあげていますから、チベットを唐の時代に統一した政権の名称は出てきますね。唐と吐蕃の関係もセンター試験でよく出ています(1989、1991、1992、1997、2001)。
 下線(4) 玄奘が学んだ僧院の名前という易問です。この寺院についてもセンター試験では過去3回出しています(1991、1992、2000追)。
 下線(5) 難しそうな「大唐三蔵聖教序」のことをきいているのではなく、東晋の名筆はだれかと、書聖といわれる『蘭亭序』の作者を問うています。これも易問です。しつこいですが、これもセンター試験では出ています(2001追、2003)。漢字が正しく書けるかどうかのほうが問題です。
 空欄d この用語を全部書かせると、なかなか正しく書けない碑文の名前です。大秦中国流行碑、中国大秦景教碑、景教中国流行碑とか、採点していて楽しくもある学生たちの迷いです。センター試験でもこの用語全部では出題されたことありませんが、空欄の解答になる景教自体は、なんども出ています(1990追、1993、1996追、1997、2002追)。
 空欄e これも空欄の前の「2世紀後半に帝都」とあるところがそのまま答えを導きだしてくれます。この都市は地図でも正誤判断の文章でも7回、センター試験で出ています。
 下線(6)「熹平(きへい)石経」とは難しそう、しかし設問では「元末……戯曲」とあるので、前漢末の王昭君の物語・元曲『漢宮秋』ではない、とすれば『琵琶記』か『西廂記』か。この二つの物語の内容を知っているかどうかが問われています。どっち? センター試験では後者が出たことがありますが(1997)、前者はありません。用語集の頻度からは出題されても不思議ではないくらいの未出題基本データです。夫は科挙に受かったまま高官になるべく故郷に残した妻娘をおきざりにして重婚罪を犯しており、故郷では姑の面倒をみた後、家を出て琵琶を鳴らしてお金をもらいながら、帰ってこない夫を探して三千里という話です。
 空欄f 空欄の前の「その近くに241年」がヒントです。洛陽を含む華北を支配した三国時代の王朝はなんですか、という問です。魏蜀呉のうちどれですか、というかんたんすぎる問です。
 下線(7) 老子とは関係のない合従策を説いた人物を問うています。合従策で秦を阻止しようとした人物です。センター試験でも出たことがあります(1998追)。
 下線(8) 設問文では「11世紀……この一帯を支配していた王朝」ですから北京(燕州)と大同(当時は雲州)のあいだの地域十六州をもっていた王朝です。これもセンター試験では出過ぎています。燕雲十六州も2回出ています(1992追、2003)。
 下線(9) 『農政全書』はだれが書いたか、という易問です。センター試験では3回(1990、2000追、2001追)出ています。作者も3回出ています(1990、2000追、2002追)。
 これで判明したように、いくらか答えに迷うのは空欄bと下線(6)だけではないでしょうか。
第2問
B 「朝貢」という名の中国と周辺国の独特の外交関係をテーマにした問題です。
 空欄g 中華思想を他の言い方でなんといいますか、という易問。1997年度のセンター試験では「朱熹(朱子)は、華夷や身分の別を否定し、平等を説いた。」とまちがった文章で出てきているものです。
 空欄h 永楽帝という皇帝名があれば派遣された人名は容易でしょう。センター試験でも6回出ています(1988、1992追、1993追、1999追、2001、2002追)。この鄭和の一行がコロンブス以前にアメリカ大陸に到達したと主張しているのが、ギャヴィン・メンジーズ著、松本剛史訳『1421―中国が新大陸を発見した年』(ソニーマガジンズ)です。
 下線(10) 永楽帝の明朝軍を追放してできたヴェトナム王朝名です。漢字が正しく書けるかが問題でしょう。センター試験では問題文に出たことがあり(1992)、正誤判断しなくてはならない問題文にはでたことがありません。しかし頻度(山川の用語集では頻度19)からは基本的なもので、これからの出題が予想されます。
 下線(11) 下線の前の年代「1449(石敷く)」がヒントです。(イ)は事件名、(ロ)はオイラート部の君主名ですが、「事実上の指導者」とややこしい表現をしている理由は、まだ正式にハーンになっておらず、事件の後の1453年が即位の年です(もちろんビザンツ帝国滅亡・百年戦争終結の年)。ただし翌年殺されます。センター試験では事件名が2001年に出ています。
 空欄 i 「を受けた」という表現で分かるかどうか。冊封です。それほど難しい語句ではありません。センター試験でも出ています(1988、1992追、1995、2001追)。冊封の「冊」とはその際に金印とともに与える冊命書、つまり任命書のことで、「封」とは皇帝の家臣の国「藩国(地方の国)」として認めること、換言すれば、「封建(封土/封邑)」することです。前漢のときに、郡国制というのをならいますが、これの拡大版です。つまり中央には郡県制を、そして周辺には封建制をとるという二重の統治方式があったのですが、それを中国大陸につながっている周辺国にも広げ、さも自国の領土の一部であるかのようにして家臣国として認めてやる、という偉ぶった外交関係を表しています。しかし周辺の小国にはこの世界の中心とみなしていた大国の中国から認可を受けて国内統治に利用しているわけで、それなりの利点があったのです。
 空欄 j ヒントは空欄Kの後の「1511年に占拠され」です。16世紀の初めにやつてくるひとびとによって滅ぼされることになった国はどこか。東南アジア最初のイスラム政権としても名高い王国です。センター試験頻出国といっていいものです(1990、92追、96、97追、99追、2000追、01、02追、03、04追)。
 空欄k これは国でも人名でもいいですが、国名がかんたんです。
 空欄 l 空欄の前の「東シナ海沿岸」と空欄の後の「猛威をふるった」で、ああ、あの海賊のことだ、と推理できるでしょう。またしつこくセンター試験を言わなくても出ています。
 下線(12) これも説明の不要な易問です。
 下線(13)空欄m  (13)の漢字が正しく書けるかどうかだけの易問です。地図の名はセンター試験では3回出ています(1988、1992追、2001)。
 空欄n 清朝の周辺の自治国をなんというか、という問です。理藩院が管理した地域です。センター試験では4回(1991追、1994、1996、2003)です。
 空欄o マカートニーはルイ16世処刑の年1793年に訪れ乾隆帝に会っていますが、この空欄の前に「19世紀のはじめ」とあるのでマカートニーの後にきたひとだと推測できます。センターでは2003年に出ている人物です。マカートニー→アマースト→ネーピアの順(まあね)です。私大だったらこの3人ともおぼえなくてはなりませんが、センター試験ならはじめの二人でいいです。
 下線(14) 日清戦争勃発当時の国王名です。Aの空欄a と同じ答えです。お父さんの実権者・大院君はセンター試験で3回も出ていますが、このひとは出たことがありません。ちと細かい。でも細かいのはこれだけです。

第3問
 この問題は東大の過去問とよく似ています(1978)。

 つぎにかかげる8つの事項は、すべて、ある同一の世紀に属している。それは何世紀か。その世紀における、これらの事項が関係する地域の特徴を論述せよ。その際、この世紀に見られるそうした特徴が、それ以後の発展に対してどのような影響を与えたかという点に、とりわけ留意すること。 
 キリスト教の国教化 フン族の西方移動 コンスタンティノープル遷都 コロヌスの土地緊縛令 西ゴート族 キリスト教徒大迫害 ニケーア公会議 ドミナートゥス

 東大は「特徴」を書かせた上で後世への「影響」はなにかと問うていますが、この京大のは「4世紀のローマ帝国には、ヨーロッパの中世世界の形成にとって重要な意義を有したと考えられる事象が見られる。そうした事象を、とくに政治と宗教に焦点を当てて、300字以内で説明せよ」と「中世世界」とリンクになることにしぼらせ、「重要な意義を有した」事象を書けと、古代と中世の関連づけを求めています。たんに古代ローマ帝国の4世紀の歴史を述べただけでは解答としては不完全です。東大は「それ以後の発展」とばくぜんとした問い方ですが、京大は「中世世界の形成」ともっと歴史的な時間・空間を指摘しています。
 さて中世世界とはなんでしょうか? これがやっかいです。分かりますか? これが分からないと、4世紀の何を書くかが決まりません。4世紀のローマ帝国についてなんでも書いたら、自然と後の中世につながるんじゃないの……という甘い期待のもとに書かざるをえません。
 一橋でも、過去問にこんな問題を出しています(1992)、

 「古代」、「中世」、「近代」という時代区分はヨーロッパ史をモデルに設定されたもので、非ヨーロッパ世界の歴史に対して、それをそのまま適用することはできない。しかし同時に、非ヨーロッパ世界の多くが、その前後の時代と異なる「中世」的な時代をへたこともまた歴史的な事実である。そこで、イスラム世界を例に、以下の二つの字句を説明するなかで、「中世」という時代の政治体制、思想状況の特徴を述べよ。なお、その際、字句は重複使用してもよく、また、字句の下には下線を付せ(200字)。(指定語句)マムルーク スーフィー信仰

 この問題は拙著『練習帳』にも扱いました。そこでは古代・近世と比較してあいだにあたる中世とはどんなイメージをもてばいいのか説明しています。ここには、中世を分裂・割拠、封建制、王権弱体、教皇と皇帝、家臣はわずか(家臣の自立)、戦士(王・騎士)に実権、と政治上の項目をあげています。この問題のばあいは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)については省いていますが、京大の今回の問題のばあいは西ヨーロッパとは限っていません。『練習帳』でも、p.92で「ヨーロッパとあれば東欧も入れる」と注意を促しています。
 中世世界の政治と宗教について、すぐ想起できなければ、4世紀のあとの5世紀、6世紀を考えてもでてきます。ただし世紀、世紀で論述問題は出題されるのに、通常のまとめのノートのような要約した参考書で勉強してきたひとには、ぱっと受験場で世紀ごとのデータがおもいつかないはずです。受験勉強の方法がまちがっているからです。教科書の巻末についている年表よりもう少し教科書のデータを網羅した年表ののった図説の年表を利用して、世紀ごとに歴史の流れがどう展開するか、あえていえば「世紀の概念」というものを通常からつかんでおかなくてはならないのです。拙著『センター世界史B 各駅停車』(パレード)ならつかめます。しかし勉強法はこれ以上は省きます。
 なによりゲルマン民族の国家建設がすすんでいます(415 西ゴートの建国、429 ヴァンダルの建国、443 ブルグントの建国、481 フランクの建国、493 東ゴートの建国)。さらにこれらの国々のうち、6世紀にはユスティニアヌス帝の東ローマ帝国にヴァンダルと東ゴートは吸収されます。北ではフランク王国だけが成長していきます。ここに統一のない西欧と統一のとれた東欧(東ローマ)が表われています。皇帝権の保持されいる東にたいして西は皇帝はいなくなり(476 西ローマ帝国滅亡)、官僚制も東にのこり、西ではローマ教会にうけつがれるだけです(ヒエラルヒー/教階制)。皇帝教皇主義は東にあり、西では教皇と弱体なゲルマンの王たちが対等な関係になります。もっと全体的には地中海を土台としたヨーロッパ政治はアルプスの北にゆっくり移行する契機でした。それでも中世前期は東ローマ帝国に軸があります。というのはゲルマン人の王たちは東の皇帝に総督の称号をもらって自己を正当化し権威づけるという、権威の面では800年のカール大帝まですべて従属した地位にあったのです。ゲルマンの王たちはカール大帝も含めて東の皇帝を「父よ」と呼んでいました。東は東で強力な皇帝権をバルカン半島出身の軍人によって常備軍をかため、能力主義の官僚制を徹底させていきます。
 宗教の面では、東西にちがう傾向が表われてきます。五本山のうちのローマだけがゲルマン人に囲まれた中で生きていかなくてはならなくなり、政治的バックボーンであった皇帝の保護を失います。だからこそ、いずれフランク王国に頼ります(山川の教科書『世界の歴史』に「フランクと協力して勢力を拡大したのがローマ教会である」とある部分)。東の四本山は皇帝の保護下にあります。ローマ教会は孤立した中でひとつの政治勢力として成長しゲルマン諸国に影響をあたえていきます。西は古代ローマ帝国の公用語たるラテン語をつづけ、東は7世紀に住民のことばギリシア語に変更します。西は支配者ゲルマン人の信仰しているアリウス派(三省堂『詳解世界史』「アリウス派を多く信奉していた他のゲルマン諸族よりもはるかに強力となったフランク王国は、西ヨーロッパに君臨する基盤を築いた」)やケルト人の信仰する土着の宗教(ドルイド教、これは書けなくてもいい名称)と対立・融合があり、東はシリア・エジプトに普及した単性論と対決します。異端との対決は中世1000年間の一般的な傾向でした。
 これらの5世紀以降にあらわれる傾向、つまり中世世界に見ら傾向は4世紀にすでに表われいるはず、という問題です。さかのぼって4世紀を見れば(見る、というほど4世紀の事象・傾向・世紀概念が読者にありますか)、これらの傾向の源流になるものが容易に出てくるのではないでしょうか? こういう中世へのつながりがほんの申し訳程度しか書いてないものがネットに模範解答として出ています(K、S)。 

第4問
A 
 ここも下線・空欄を別々に説明せず、問題文に合わせていきます。
 下線(1) シビル=ハン国を征服したという部族長名です。この人物はセンター試験で4回(1988、1991追、1994追、2004)出ています。征服したかどうかは怪しい面をもっていますが、これはエピソードとして聞く機会もあるでしょう。
 下線(2) 海峡の名前になっているのでかんたんです。センター試験で問題に出たことはありませんが、「ピョ一トル1世は,イェルマークに命じて,カムチャツカを探検させた(1991追)」とまちがった文章の中に示唆されてはいました。
 空欄a 空欄のあとのエカチェリーナ2世はピョートル1世の後の皇帝ですから首都はもうモスクワではありません。まちがえて、この首都の名前をピョートル1世の名前をとったとおもっているひともいます。このホームページの「疑問教室」→「欧米史の疑問」のところで、もともとオランダ商人たちが開いた聖ペテロ(サン=ペテロ)市場の名が由来です、と答えています。センター試験では3回(1990、2000追、2002追)出ています。
 下線(4) この条約の理由となった英仏との戦争は何か、という易問です。6回もセンターで出ています。
 下線(5) ウスリー江以東、すなわち沿海州も獲得したため、最南端に位置し、シベリア鉄道の終着駅でもあります。「征服せよ(ウラジ)東方(ウォストーク)を」というロシアの侵略の意図を露骨に表した都市名です。センター試験でも4回(1988、1998、2000、2002追)出ています。
 空欄b シベリア鉄道につながる東アジア東北の鉄道名です。これもセンターでは3回(1988、1994、2002追)出ています。
 下線(6) 3B政策の鉄道です。カイザーひげと呼ばれるひげをはやして見映えを気にした威張りくさった男が皇帝になっている帝国です。センター試験では8回出ています。
 下線(7) 「ナロードニキの考え方」を説明しろという要求です。センター試験では6回(1990追、1994、1995追、1997追、2000、2004追)も出ています。この2004年の追試問題に「ナロードニキは,農村共同体を基盤とする社会主義を構想した」とあり、これをそのままでもいいでしょう。「ロシアのナロードニキは、農村共同体(ミール)を基盤にして社会を改革しようとした(2000)」も似た文章です。「ナロードニキは、農村共同体(ミール)を基礎に、西ヨーロッパと同じような資本主義が実現できると主張した(1994)」は資本主義のところがまちがいです。ここは農村共同体(ミール)と社会主義の二つがあって2点でしょう。
B
 空欄c 教科書で「ヴァージニアをはじめとする南部では,黒人奴隷を使用し,タバコ・米などを栽培する大農園がさかんであった」(山川・高校世界史)、「アメリカの南部では、タバコ生産を中心に奴隷制のプランテーションが発展してきた」(三省堂・詳解世界史)とあり、南部に属するヴァージニアははじめから綿花栽培でないことを示しています。19世紀からさかんになるのが綿花です。それまではインディアンから栽培方法を教えてもらったタバコ・米でした。センター試験ではタバコはいろいろなかたちで出ていますが、ヴァージニアと結びつけたものはありませんでした。ちと細かい。
 下線(8) 「ピューリタン」が主に住む地域の名前です。センター試験で出題されたことはないものの頻度からは出題されても不思議ではないデータです。ワスプ(WASP=White Anglo-Saxon Protestant)の地域でもあります。
 下線(9) 設問文の「この時期」は後の下線つき文章に「七年戦争の結果……以降のこと」とあり、まさに独立戦争勃発の原因となる税法であることが推測できます。ひとつだけあげたらいいので、易問です。センター試験では印紙法が5回、茶法が1回出ています。砂糖法やタウンゼント諸法(当時のイギリス蔵相の名タウンゼントのとった諸法のことで、紙・ガラス・ペンキなど日常的な品物に関税を課し、税収を植民地の駐屯軍や官吏の給与にあてるつもりだった)などでもいいでしょう。
 下線(10) 七年戦争は三大陸の戦争ともいうように、インドでのプラッシーの戦いとともにアメリカではフレンチ=インディアン戦争が戦われ、パリ条約が結ばれました。その結果としてイギリスはフランスから大きな土地をとりあげます。その地名をあげるといいのです。「フランス領ルイジアナのミシシッピ川以東は、パリ条約の結果イギリス領となった」と。これは1994年度のセンター試験追試の四択文そのままです。 
 下線(11) 課税に抵抗した例を、ということで印紙法一揆でもボストン茶会事件でもいいでしょう。とくに後者はセンターでは3回出ています。
 空欄d はワシントン市が完成するまで合衆国最初の首都にもなる町です。これもセンターで3回出ています。
 下線(12) 迷っているひとびとを愛国派に向かわせようとするパンフレットです。センターで6回も出ています。岩波文庫にある翻訳を読んでもらうのが一番ですが、つぎのページにもあります。いかに説得的な訴えであるかが分かるでしょう。
 http://www.bartleby.com/133/
 下線(13) アメリカ史ではヨーロッパ史とちがい「連邦」は中央集権を意味しています。この連邦の後に政府を加えて「連邦政府」と考えるとわかりやすい。ヨーロッパでは連邦がつけば地方分権を意味しています。ネーデルラント連邦共和国、イギリス連邦、ドイツ連邦などです。答えの用語はセンターで2回出ています。
  
C 奇をてらった設問のしかたです。
 下線(14)(15) ヒントは「ノーベル文学賞」という有名人、下線(16)の「黒死病」、引用の中の「アルジェリア……フランス」、下線(16)の設問(イ)に「ナチスの積極的荷担者」などです。これで分からなかったら仕方ない諦めるのが良いでしょう。できないものはほっておく。一応フランス人の作家で、黒死病と関係のある作品を書いている、ということが推測できます。センター試験でも出題されたことはありませんし、これからもないでしょう。これもちと細かい。
 作品の概略は以下にあります。
http://homepage2.nifty.com/tosyo/book16.html
 カミュへの批判はつぎが面白い。
http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/camus.htm
 (ア)「思潮」はすぐ分からなければ、(イ)の「思潮……ドイツにおいて代表する人物」も大きなヒントです。いかにもドイツ人らしい肺活量の要る発音のひとです。この思潮はセンター試験では1回出ています(2003追)。
 (イ)この人物はセンター試験では出る可能性は低いでしょう。すでにサルトルの方が出ています。設問文の「ナチスの積極的荷担者」という部分は、ヴィクトル・ファリス著・山本尤訳『ハイデガーとナチズム』(名古屋大学出版会)、小俣和一郎著『精神医学とナチズム、裁かれるユング、ハイデガー』(講談社現代新書)などの本で知ることができます。このような哲学者の過去を問うような問い方は京大としていいのでしょうか? 京大医学部は日中戦争のさなか人体実験のために多くの医師を満州国に派遣しました(常石敬一著『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書)。そのことについて京大はいつ弁明をしたのか? そういうことを自ら問う勇気はあるのか、と疑問に感じます。
 下線(16)「黒死病とも呼ばれ」という文章は少しおかしい。厳密には黒死病はペストの一種であって別名ではない。中世の黒死病にあたるのはペストの中でも腺ペストといって肌が黒紫色に変色するもの。症状を如実に描いているのはコニー・ウィリス著、大森望訳『ドゥームズディ・ブック』(早川文庫)で、そこには「オレンジのサイズにまで成長する横痃(おうげん、リンパ節の腫れ)、口いっぱいになるほど腫れあがる舌、体全体を真っ黒に変える皮下出血」と描いています。最近になってペスト菌というものが本当に原因であったということをDNAレベルで確かめられた、というニュースが以下にのっています。
http://www.appliedbiosystems.co.jp/website/jp/biobeat/contents.jsp?BIOCONTENTSCD=20642&TYPE=B
 「ある日本人」とは北里柴三郎のこと。かれが学んだ先生のドイツ人「細菌学の祖」を問うています。風邪をひいているような名前です。センターでも1回(2000追)出ています。
 下線(17)(ア)スエズ動乱(スエズ戦争/第二次中東戦争)はナセルのスエズ運河国有化宣言からおきてきた事件です。この問題のポイントは「イスラエルの関わり方」が、イスラエルから先ず攻撃をはじめたことが一つ、「終結にいたる過程」は、米ソの反対か国際的な非難、あるいは国連の停戦決議があることと、3国の撤退の三つです。センターでも4回この戦争の過程について問うています。
 (イ)このアルジェリア戦争を利用して大統領になった人物です。アルジェのコロン(フランス人植民者)たちが植民地政庁を襲って軟弱な第四共和政でなく強力な政府を、と蜂起した側がド=ゴール政権を要求してきたために下野していたド=ゴールが推されて登場したものです。いや、これはド=ゴール自身がしくんだという説もあります。フランス人は長い間このアルジェリアの独立戦争を、独立のための戦いでなく、たんなるテロだといっていました。カミュだけが特殊ではなかったのです。フランスが独立戦争と認めたのは1999年です。このずぶとさ ! フランスだけではないが……。センターではフランスとアルジェリア独立の関係は9回(1993、94追、06追、98追、2000、2000追、01、02追、04追)もきいています。ド=ゴールとの関係も「フランスのド=ゴール政権は、1962年に植民地アルジェリアの独立を承認した」(1998追)と正しい文章で出ています。

 第2問第4問の2問で60点分あり、センター試験のような基本的な勉強していたら50点くらいとれることは分かったでしょうか。後の第1問第3問の論述で半分以上得点できるかに合否がかかっています。

解答例………………………………………
第1問
   (きみの答え)
第2問

A
空欄 a 高宗 b 後漢書 c 吐蕃 d 景教 e 洛陽 f 魏
下線(1)李斯 (2)柳宗元 (3)玄宗 (4)ナーランダー僧院 (5)王羲之 (6)琵琶記 (7)蘇秦 (8)遼 (g)徐光啓
B
空欄 g 夷 h 鄭和 i 冊封 j マラッカ王国 k ポルトガル(アルブケルケ) 1 倭寇(後期倭寇) m イエズス n 藩部 o アマースト 
下線(10)黎朝 (11)(ア)土木(土木堡)の変 (イ)エセン(=ハン) (12)華僑 (13)坤輿万国全図 (14)高宗

第3問
   (きみの答え)
第4問

A
空欄 a (サンクト=)ペテルブルク b 東清鉄道
下線(1)イェルマーク(エルマーク) (2)ベーリング (3〕ラクスマン (4)アロー戦争(第2次アヘン戦争) (5)ウラジヴォストーク(ウラジオストック) (6)ドイツ
(7)ロシアの農村共同体(ミール)を基盤に、西欧とは異なる社会主義社会の建設をめざした。
B
空欄 c タバコ d フィラデルフィア
下線(8)ニューイングランド (9)印紙法(砂糖法・タウンゼント諸法) (10)フランスはカナダ・(ミシシッピ以東の)ルイジアナなど北米の広大な領土を失った。
(11)ボストン茶会事件 (12)『コモン=センス(常識/良識)』 (13)連邦派(フェデラリスト)
C
下線(14)(ア)カミュ (イ)ペスト  (15)(ア)実存主義 自分の主体性と自由を回復しようとする思想一般/人間の実存を思考の中心にすえた哲学/現実的・具体的な個別者「私」の存在を強調する/人間存在を不条理な存在とみなし、その在り方を追求する/現実的存在におかれた個別的主体としての人間のあり方を問う哲学。 (イ)ハイデガー(ハイデッガー) (16)コッホ (17)(ア)スエズ戦争(第二次中東戦争/スエズ動乱) イスラエルが先ずエジプトを攻撃し、米ソの反対、国連の即時停戦決議などの国際世論に負けて英仏イスラエル軍は撤退した。 (18)(イ)ド=ゴール


   (きみの答え)
第4問

A
空欄 a (サンクト=)ペテルブルク b 東清鉄道
下線(1)イェルマーク(エルマーク) (2)ベーリング (3〕ラクスマン (4)アロー戦争(第2次アヘン戦争) (5)ウラジヴォストーク(ウラジオストック) (6)ドイツ
(7)ロシアの農村共同体(ミール)を基盤に、西欧とは異なる社会主義社会の建設をめざした。
B
空欄 c タバコ d フィラデルフィア
下線(8)ニューイングランド (9)印紙法(砂糖法・タウンゼント諸法) (10)フランスはカナダ・(ミシシッピ以東の)ルイジアナなど北米の広大な領土を失った。
(11)ボストン茶会事件 (12)『コモン=センス(常識/良識)』 (13)連邦派(フェデラリスト)
C
下線(14)(ア)カミュ (イ)ペスト  (15)(ア)実存主義 自分の主体性と自由を回復しようとする思想一般/人間の実存を思考の中心にすえた哲学/現実的・具体的な個別者「私」の存在を強調する/人間存在を不条理な存在とみなし、その在り方を追求する/現実的存在におかれた個別的主体としての人間のあり方を問う哲学。 (イ)ハイデガー(ハイデッガー) (16)コッホ (17)(ア)スエズ戦争(第二次中東戦争/スエズ動乱) イスラエルが先ずエジプトを攻撃し、米ソの反対、国連の即時停戦決議などの国際世論に負けて英仏イスラエル軍は撤退した。 (18)(イ)ド=ゴール