世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2003

第1問(20点)
 中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された。皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(16)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 陳独秀は1879年に安徽省安慶で生まれた。陳は幼少の頃より(1)科挙の勉強に励んだが合格することができず、(2)康有為や梁啓超を信奉するようになった。
 1901年(3)日本に渡り、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学した。陳は日本で反清革命に傾き、帰国後は安慶で革命運動に従事した。1911年湖北省の[ a ]で軍隊が蜂起(ほうき)すると、1か月足らずの間に多くの省が相次いで独立を宣言した。陳は安徽省軍政府の秘書長として招かれたが、1913年に袁世凱の専制と国民党弾圧に反対した[ b ]が失敗すると、陳は重要犯人として指名手配され、(4)上海に逃れた。
 1915年9月、陳は『青年雑誌』を創刊した。この雑誌はのちに『新青年』と名を改め、西洋の近代的合理主義にもとづき、(5)中国の旧(ふる)い思想・道徳・社会制度を徹底的に攻撃した。一躍、新文化連動の旗手となった陳は、1917年に蔡元培の招きで北京大学文科長に就任した。
 1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を話し合う[ c ]が開催された。(6)山東省の旧ドイツ利権が中国に返還されず日本に与えられようとしたことから、北京で学生らによるデモが行われ、(7)運動は全国に波及した。結局中国はヴェルサイユ条約調印拒否を声明するに至った。[ c ]に対する期待が失望に変わっていく中で、『新青年』の紙面も創刊当初の西洋賛美の論調が次第に変化してきた。陳独秀はマルクス主義に傾斜していき、1921年7月李大 (金+リ) らと(8)中国共産党を結成した
 1924年中国国民党第1回大会が開かれ、孫文の掲げた「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が採択され、(9)共産党との協力体制が実現した。1926年7月[ d ]を総司令とする国民革命軍は(10)北伐を開始した。その途上1927年4月[ e ]が起こり、共産党は大きな打撃を受けた。陳はその責任を負わされて総書記を解任された。以後、歴史の表舞台に立つこともなく、1942年四川省でその生涯を閉じた。

(1)科挙が廃止された年はいつか。
(2)彼らを登用して戊戌の変法を断行した皇帝は誰か。
(3)ヴェトナムでもファン=ボイ=チャウらが維新会を組織して日本留学運動を推進した。この運動を何というか。
(4)上海など5港の開港を定めた条約の名を記せ。
(5)「文学改良芻議(すうぎ)」を発表して白話運動を提唱したのは誰か。
(6)1898年ドイツが宣教師殺害を口実に清朝から租借したのはどこか。
(7)同じ時期、ソウルで大規模な民族独立運動が起こった。この運動を何というか。
(8)このあと、ヴェトナムでも共産党が結成された。その指導者で、のちにヴェトナム民主共和国の初代大統領となったのは誰か。
(9)1937年にもう一度両党は協力して抗日民族統一戦線を成立させた(第二次国共合作)。そのきっかけとなった、前年に起こった事件は何か。
(10)国民革命軍は1928年6月に北京を占領した。それまで北京を支配し、奉天に帰還する途中で日本軍に爆殺された軍閥の首領の名を挙げよ。

B 古代の西アジアでは、さまざまな民族の興亡が繰り広げられたが、やがて政治的統合が進み、史上いく度か西アジアを広くおおう大帝国が成立した。
 西アジアの主要部に最初の政治的統一をもたらしたのが、セム系のアッシリア人である。アッシリア人は前2000年紀のはじめ頃から[ f ]川流域のアッシュールを拠点に交易活動に従事し、前9世紀から活発な征服活動を行った。その軍隊は、(11)鉄製の武器、戦車および騎馬隊をそなえ、広く西アジアを征服し、前7世紀前半にはエジプトをも版図に加えた。アッシリア帝国は征服地の各州に総督を派遣して直接的に統治したが、被征服民に対する強圧的な政策がわざわいし、前7世紀末に滅んだ。アッシリア帝国滅亡後、(12)西アジアとエジプトには4つの王国が並立した
 西アジアの政治的統一を回復したのは、(13)イラン人が建国したアケメネス朝ぺルシアであった。前550年キュロス2世が同じイラン系の[ g ]王国を減ぼして建国し、第3代の王[ h ]のときには、東は中央アジア・インダス川流域から西はエーゲ海岸・エジプトにおよぶ大帝国となった。領土の各州にサトラップ(知事)をおいて統治させたほか、監察官の派遣、税制の整備、被征服民への寛容な政策など、アッシリアの帝国統治法をさらに高度なものへと発展させた。アケメネス朝はアレクサンドロス大王の東方遠征によって前330年に滅んだ。アレクサンドロス没後は、(14)シリアを拠点とするセレウコス朝をはじめ、各地にギリシア系の国家が誕生してヘレニズム文化が栄えた
 ヘレニズム時代を経て、ふたたび西アジアを政治的に統一したのがササン朝ペルシアである。ササン朝は226年アルデシール1世が[ i ]王国を倒して建国した。第2代の王シャープール1世のとき、東方ではインダス川流域にまで進出して[ j ]朝から領土の大半を奪い、(15)西方ではシリアに進出してローマ帝国と対抗した。5世紀から6世紀にかけては、中央アジアの騎馬遊牧民[ k ]の侵入を受けて苦しんだが、6世紀半ば、ホスロー1世のときに最盛期を迎え、[ k ]を滅ぼした。しかし、7世紀半ばのアラブ軍の侵攻には対抗できず、ササン朝は651年に滅んだ。
 アラブ軍の征服活動は[ I ]朝成立後も活発に進められ、8世紀はじめ、その領土は、東は中央アジア・西北インドから西はイベリア半島にまで達した。イスラム教の浸透とアラビア語の共通語化によって、広大な領域における共通の文化の基盤が形成され、(16)やがてアラビア語以外のさまざまな言語もアラビア文字で記されるようになった

(11)最初に鉄器を使用し、製鉄技術を独占していたとされる、アナトリアの古代王国の名を記せ。
(12)この4つの王国のうち、ある王国は、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を支配し、首都の繁栄でよく知られている。(ア)その王国の名を記せ。(イ)その王国の首都はどこか。都市名を記せ。
(13)イラン人は言語的には何語族に属すか。語族名を記せ。
(14)セレウコス朝から独立した、あるギリシア系の王国は、現在のアフガニスタンを主な領土とし、西北インドにヘレニズム文化を伝えた。その王国の名を記せ。
(15)対ペルシア遠征に失敗し、260年エデッサでシャープール1世に捕らえられた、ローマ帝国の軍人皇帝は誰か。
(16)アラビア文字が普及する前の西アジアの文字の多くは、あるセム系言語の表音文字を母体としていた。(ア)前1000年紀に楔形文字に代って西アジアに広まった、この表音文字は何か。(イ)この文字を母体として中央アジアで生まれた文字には何があるか。1つ記せ。

第3問(20点)
 第一次世界大戦は予想をはるかに越えて長期化し、これにかかわったヨーロッパのおもな国々は本国の大衆を動員しただけではなく、さらには、植民地や保護国を抑えつけながらも、同時にその力を借りて戦わねばならなかった。このことに関して、イギリスを例にとり、インドおよびエジプトに対して大戦中にどのような政策がとられたかを、そのことが戦後に生み出した結果にも触れつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 都市と都市国家は、古代地中海世界を構成する最も重要な政治的単位であった。(1)紀元前15〜13世紀にギリシア本土のミケーネやティリンスで栄えた国家は、なお専制的な支配者をもつ小王国であったが、紀元前8世紀以後、アクロポリスやアゴラを中心とする集住によってポリスが成立すると、ギリシア世界は大小の独立都市国家によって構成されるようになった。また(2)ポリス市民は盛んに黒海沿岸から地中海各地に植民都市を建設し、海上交易をおこなった。
 ポリスは軍役義務を負う住民の共同体であり、この義務を担うことによって、住民の政治的権利も拡大した。このような「戦士共同体」としての都市国家の性格は、ローマにおいても同様であった。イタリア中部の都市国家として出発したローマは、他の都市国家を征服し、服属させることによって地中海世界を統一した。こうしたローマの版図拡大において軍役を担った市民は、(3)紀元前4〜3世紀には政治的権利を発展させたが、(4)軍役の長期化は次第に自作農でもある市民の没落をも招き、民主政は危機に陥った。この危機と権力闘争の中からやがて、帝政ローマが誕生する。
 ローマ帝国は、地中海世界のみならず、ほぼライン川とドナウ川までの地域をも支配した。帝国は、(5)地中海世界のような都市文明を持たなかったアルプス以北のこの地域にも都市を建設し、都市を中心とした行政単位を設けて統治したのである。これらのローマ都市は、とくにアルプス以北では、ゲルマン民族の移動と西ローマ帝国の滅亡後の混乱の中で衰退した。しかし多くのローマ都市では、人口減少や市域縮小をともないつつも、司教座などの教会を中心とする都市の核は存続し、11世紀以後のヨーロッパにおける遠隔地商業の復活により、商工業都市として、あらたな発展を開始した。またライン川以東の、ローマ都市が存在しなかった地域では、12、13世紀以後、国王や諸侯によって都市が建設された。とくに(6)ドイツ北部からバルト海地方にかけてのハンザ商業圏では、こうした建設都市が多い
 ヨーロッパ中世都市においても、市民は都市防衛のための軍役を負い、都市は城壁で囲まれた。一般に中世都市の自治権は、城壁内とその小さな隣接地域に限られ、大きな領域を持つ都市国家へと発展することはなかった。また13、14世紀以後の各地域における国家統合の進展の中で、都市自治は次第に制限されていった。しかし(7)イタリア北・中部の諸都市は、広い領域を持つ都市国家を形成し、(8)ドイツの有力な帝国(自由)都市もまた、イタリア都市のような国家形成は実現できなかったものの、その政治的自立性を維持した

(1)(ア)このミケーネ文明において使用された文字を何というか。
    (イ)またこの文字を解読したイギリス人学者の名を記せ。
(2)紀元前500年ころペルシアに対して反乱した、イオニアの中心的な植民都市の名を記せ。
(3)平民会の議決が元老院の承認なしでも法律となることを認めた、紀元前287年に制定された法を何というか。
(4)自作農没落の原因として、軍役の長期化以外にどのようなことが考えられるか。1点のみ簡潔に記せ。
(5)次の都市のうち、ローマ都市に起源を持つものを1つ選んで、記号で答えよ。
     a ケルン   b ニュルンベルク
     c ベルリン  d プラハ
(6)ハンザの盟主的存在であった、バルト海南部の建設都市の名を記せ。
(7)12世紀にロンバルディア同盟の中心となり、また14、15世紀にはヴィスコンティ家の支配下で大きな国家を形成した都市の名を記せ。
(8)都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を、簡潔に述べよ。

B ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターが、95箇条の改革意見書を公表して始まったヨーロッパの宗教改革は、信仰の実践と教会のありかたについて、真摯(しんし)な問い直しをおこなって多くの支持者を集め、ヨーロッパに新たな生活の指針や社会の原理を提供した。しかしそれは同時に、宗教的な対立にもとづく迫害や戦乱を引き起こす原因ともなり、また政治的な抗争の口実として利用されることにもなる。1524年に西南ドイツの農民が起こした反乱に、最初ルターは好意的であった。だが、(9)反乱が中部ドイツに拡大して再洗礼派の影響の下に急進化すると、ルターはこれを非難し、以後ルター派の運動は領邦君主や都市の市民と結びついて支持を得た。1529年、神聖ローマ帝国皇帝はシュパイエルの国会でルター派の布教を禁止したが、諸侯・都市はそれに抗議し同盟を結成して皇帝に対抗した。ドイツにおける宗教問題は、(10)1555年のアウグスブルクの和議で一応の決着をみたが、(11)対立はその後もつづき、1618年には、ベーメン(ボヘミア)で王の即位に反対した新教徒を、皇帝の軍隊が弾圧したことをきっかけに三十年戦争が開始された。この戦争は、(12)新教徒擁護を口実とした外国勢力の介入を招いて長期化し、とくに戦争末期にはフランスまでもドイツに遠征して皇帝の軍隊と戦った。
 フランス国内では16世紀に、救済は予定されていると説いたジュネーヴの改革者ジャン・カルヴァンの教義が、都市の商工業者を中心に支持を拡大し、宮廷にも勢力をもつにいたった。ここでも新旧の信仰は、貴族間の対立と結びついて30年以上にも及んだ(13)ユグノー戦争を引き起こした。この戦乱のなかでフランスの[ a ]朝は断絶し、あらたに即位したブルボン家のアンリ4世は、自らカトリックに改宗するとともにナントの勅令を発してユグノーの信仰を承認し、混乱を収拾することに成功した。
 イギリスではすでに、ヘンリー8世と議会がカトリック教会から制度的に離脱して国教会制度を誕生させていたが、改革は比較的穏健なままにとどまっていた。(14)カルヴァンの改革の影響はイギリスにも及んで改革を先鋭化させ、教会のありかたにあきたらない諸勢力は多くの教派をうみだした。国教会に対する批判はやがて国家と国王に対する反抗となって共和政の実現をもたらした。革命で議会軍を指導した独立派のオリヴァー・クロムウェルは、政治上の実権を掌握すると、禁欲的倫理にもとづいた厳格な神政政治を実施し、またカトリック教徒の多く住む[ b ]への軍事遠征をおこなった。共和政が短期間で終了した後、(15)1673年に制定された審査法は、新王のカトリックヘの復帰を警戒した議会による立法であったが、同時に非国教会諸教派の権利をも抑圧することになった。

(9)この反乱を指導したドイツの宗教改革者は誰か。
(10)この和議によって、帝国内の宗教問題はどのように決着したか。簡潔に説明せよ。
(11)19世紀に成立したドイツ帝国においても、カトリック、プロテスタントの対立は顕在化した。この時期のカトリック教徒を代表した政党の名は何か。
(12)この戦争に介入したプロテスタント国1つの国名と、その国王の名を記せ。
(13)この戦争中の1572年、多数の新教徒が殺害された事件を何と呼ぶか。
(14)スコットランドではカルヴァン派は何と呼ばれたか。
(15)この法律が19世紀に廃止された際の経緯を簡潔に記せ。

C つぎの〔ア〕〔イ〕は、元徒刑囚を主人公とする(16)(17)フランスの歴史小説(1862年刊)から引用したものである。〔ア〕は、登場人物の一人マリユスが、1827年17歳の時、復古王政支持者からナポレオン支持者へと転向をとげる場面を描いている。〔イ〕は、その約1年後、マリユスが、共和主義者に論争を挑んだあげく論破され、ナポレオン崇拝熱から冷めていく様子を描いている。

〔ア〕マリユスは屋根裏の小さな自分の部屋にひとりでいた。ナポレオン軍の公報を読んでいた。ときどき亡父の名が出てきたし、皇帝の名はしょっちゅう出てきた。大帝国全体が彼の目の前に現れた。ときどき、父親が息吹きみたいにそばをとおりすぎ、耳もとに話しかけるような気がした。彼はだんだん妙な気持ちになってきた。太鼓や大砲やラッパの響きや、軍隊の整然とした歩調や、騎兵隊のかすかな遠い早がけの響きが聞こえるような気がした。胸がしめつけられるようだった。感動で身をわななかせて、あえいだ。ふいに、心のなかでなにが起こったのか自分がなにに服従しているのかわからないままに、立ちあがって両腕を窓のそとに突きだし、闇(やみ)や、静けさや、暗い無限や、永遠のひろがりをじっとみつめて叫んだ。「皇帝ばんざい!」
 この瞬間で、すべてが決まった。皇帝は、崩壊を建てなおす驚異的な建築家であり、シャルルマーニュや、ルイ11世や、アンリ4世や、リシュリューや、ルイ14世や、(18)公安委員会などの後継者だった。あらゆる国民に、フランス人を「大国民」とほめさせる使命をになった人物だった。いやそれ以上だった。剣をにぎってヨーロッパを、光りを放って全世界を征服するフランスの化身そのものだった。マリユスは(19)ボナパルトのなかに、つねに国境にすくっと立って未来を見守る、まぶしくかがやく幽霊を見た。
〔イ〕「いったい、きみたちは、皇帝を賛美しないとすれば、だれを賛美するんだ!彼にはすべてがそなわっていた。完全だった。ユスティニアヌスのように法典をつくり、カエサルのように命令し、談話では、タキトゥスの雷撃にパスカルの稲妻を混じえた。歴史をつくり、歴史を書いた。(20)ティルジットでは皇帝たちに尊厳をおしえた。このような皇帝の帝国に住むことは、国民としてなんとすばらしい運命だろうか。しかもその国民はフランスの国民であり、フランスは自分の天才をこの男の天才につけ加えたのだ! 山が四方にワシを放つように、地上のあらゆる方面に軍隊をとひたたせ、征服し、支配し、粉砕し、勝利をつぎつぎに勝ちとってヨーロッパのいわば金色にかがやく国民となり、歴史をつらぬいて巨人のファンファーレを鳴りひびかせ、征服と眩惑(げんわく)によって二度世界を征服する。これは崇高なことだ。これより偉大なことが、いったいあるだろうか?」
(21)(22)「自由でいることだ」とコンブフェールが言った。
 こんどはマリユスが顔を伏せた。この簡単な、冷たい言葉は、鋼鉄の刃のように、彼の叙事詩のような熱弁をつらぬいた。彼は心のなかで熱情が消えさるのを感じた。(辻 (永+日)訳 訳文は一部省略した)

問(16)小説名(ア)と、作者名(イ)を記せ。
(17)(ア)作者は、古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛した文芸思潮を代表している。その文芸思潮名を記せ。
   (イ)また、その文芸思潮の特徴を、批判内容に言及したうえで、引用文を参考にしながら簡潔に説明せよ。
(18)公安委員会がおこなった土地改革を10字程度で説明せよ。
(19)ボナパルトが1802年にイギリスと結んだ協定を何と呼ぶか。
(20)このときに結ばれた条約の結果として建国され、フランスの従属国家となった国を1つ記せ。
(21)自由主義の精神は、1820年代、ヨーロッパ各地に広がっていった。ロシアにおいて自由主義を掲げ1825年に立憲君主制確立などを唱えて蜂起した人びとは何と呼ばれているか。
(22)1820年代当時のブルジョワジーがよりどころにした自由主義経済学は、前世紀にイギリスで誕生した。この経済学の体系的創始者名(ア)と、その主著名(イ)を記せ。
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コメント
 相変わらず、第2問第4問は易しい問題で得点源であり、第1問第3問の論述が合否の決めてであることは従来と変わっていません。

第1問 
 問題の要求は「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ」というものです。問われているのは、軍事制度でも、官吏登用法でもなく、経済政策でも、農村の組織(隣保制度)でもありません。「政治」制度です。それも「中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された」政治制度です。君主独裁化の制度だけを書きなさい、という要求です。軍事も官吏登用法も経済政策なども皇帝権強化のための制度だと広くはとれないこともないのに、「……経るにしたがって強化された」制度ですから、君主に直接かかわる政治の制度でなくてはなりません。それは皇帝と官僚の関係、決裁のありかたがどう変遷したのかを問う狭い問題です。
 しかし、この一つのテーマを追いかけて書くのは意外と難しいかもしれません。なにしろ予備校の解答を見ても、ちゃんと一つのテーマを追いかけていないものが結構あるからです。問題を勝手に都合よく書きやすいテーマに変えて書いてしまっています。
 教科書では三省のことは唐で説明があり、その後は消えて、たいてい明朝になって中書省を廃止した、と突如でてきます。つまり途中の経過が書いてなくて、門下省・尚書省はその間、存在したのかどうかさえ分からない。学生にとっては迷うのは当り前ですが、予備校もそうだというのは哀しいことです。インターネットでも解答例(速報)を予備校は出していますから、一緒にご覧いただくといでしょう。

 宋代:ここで独裁化がスタートしますが、その発端は唐末に表れていました。唐ははじめ皇帝の下に三省六部で中央官庁をはじめましたが、この三省のうち門下省という貴族の牙城があまりに強かったため、次第にその権限を削っていきました。宋代には三省はなく、中書省と門下省をくっつけた、というより中書省が門下省を吸収して、中書門下省と変え、責任者も同中書門下三品、あるいは同中書門下平章事(のち同平章事と略称)と呼びます。ちなみに、このことは『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)の巻末問題に問い、かつ解答しています。
 問「宋皇帝と唐皇帝の権力のちがいについて説明せよ。(指定語句→)門閥貴族 殿試」
 解答「唐では法案の決定権と人事権とが門閥貴族に奪われていたのに対し、宋皇帝は中書門下省により決定権と、殿試により人事権を掌握した。(注:中書門下省とは中書省と門下省がくっいたもの、換言すれば、門下省が中書省に吸収された。これは貴族という批判勢力がなくなり無意味になったための処置。)」
 つまり宋代は、唐代の三省六部を継承しません。また貴族勢力が強かった門下省の権限を削滅するのは唐の中期からおきていることがらであり、宋になってからやったことではありません。だいたい宋代にはもう貴族がいません。唐末五代に消滅したからです。このあたりは中国史の基本といっていいでしょうが、それさえ分かっていない解答もあります。
 殿試によって皇帝と官僚の関係を強化した、と書いても「関係」がどういうことなのかサッパリ分かりません。「官僚の人事権を天子がにぎり、旧貴族の復活の道をふさいだ。さらに全国的に行政官の職務権限の分割と行政監察の徹底をはかり、ついに軍事・行政・財政のすべての最終の裁決権を天子一人に集中する君主独裁制を確立した」(『新世界史』山川出版社)という風に書かないと独裁皇帝と奉仕する官僚の構図が見えてきません。
 この教科書の記述のように官庁の長官を複数にして、一人に権限を集中させず、皇帝のみを最終決定者としたことを「複数宰相制」といいいます。「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変」という問題からは、これは是非とも書かなくてはならないことです。これを書いた答案が見られないのは、理解に苦しむことです。
 これが書けないとしても文治主義を書いてもいいでしょう。これなら書ける……いや、これさえ書いてない予備校の解答もあります。必要のない軍事制度について書いています。
 文治主義(文政)により軍人から軍政権をうばい、科挙により選抜された文官官僚が軍政を統括するように変えました。中央から文官を派遣して地方政治を文官の支配下におき、徐々にそれまで節度使がもっていた民政・財政・軍事の3権力をうばっていきました。このように軍人の上に文官を置く文官優位の体制を文治主義といいます。五代十国の武断政治を代えた制度です。
 しかしこの文治主義はあくまで、それまでの武断政治から離脱したことに強調点があり、軍事制度も、たとえば禁軍を説明すると、この後もずっと軍事制度を書いてしまう、という愚を犯すことになります。

 明代:この時代では、中書省(元朝が名前を中書門下省から「中書省」と変えています)の廃止、六部直轄は不可欠です。皇帝が唐代の三省のしごとをすべて引き受けるからです。この忙しさから内閣が生まれてきます。しかし内閣制度を書いたものはほとんど見られません。これも政治制度ですから書いても不思議はないのですが……。補佐機関だから書かなくてもいだろう……と済ませていいものでしょうか?
 たくさんの仕事をこなすことができず、建国者の洪武帝のときに「殿閣大学士」を置いたのが起源です。永楽帝のとき、これを「内閣」と称します。永楽帝を継いだ短命な仁宗のときから内閣の大臣を「内閣大学士」と呼ぶことがはじまります。初めは、その地位は低かったのですが、皇帝のそばにいて補助する仕事は次第に重きを増していきます。とくに「票擬」といって、臣下からの上奏(申請)文に対する皇帝の決裁文をあらかじめ用意するようになります。内閣はしだいに明の中心的政務機関となり、内閣大学士は実質的な宰相となります。教科書でもこのことを指摘しています。「内閣大学士は洪武帝が皇帝の親政を補佐させる殿閣大学士をおいたのに始まる。行政権はもたないが宰相に近い権力をもった。(新世界史)」「のち大学士の筆頭が事実上の宰相となった。(詳解世界史)」と。明代の皇帝独裁は、この内閣との合作であったのです。皇帝独裁を代行した張居正という人物は必ず教科書にでてきます。
 また「(永楽)帝は、宦官を重く用い(『詳説世界史』)」を用いて、東廠(とうしょう、西廠)という秘密警察を設けたことに言及してもいいでしょう。
 「衛所制」を書いたものもありますが、むしろ内閣を書くべきでした。軍制を書くとすれば、衛所制ではなく五軍都督府をとりあげた方がいい。衛所制はこの五軍都督府の下の制度であり、直接的には皇帝独裁につながるものではないからです。明の初期は、軍事の最高機関として宋代以降の枢密院が置かれていましたが、中書省が廃止されるとともに五軍都督府になり、いざ戦争というときには、皇帝自らが、どの部隊をだれに指揮させるかを決定し、六部の中の兵部がその命令を都督府に伝える順で下に降りていきます。ここにも皇帝独裁を維持する線が守られています。しかしこれは軍制であり、やはり無くてもいいものです。
 まして「里甲制」について言及する必要はありません。この農村を統制する郷村組織は、政治制度ではありません。ここで里甲制を書いても、他の宋・清朝では郷村組織は、じゃどうだったのか、ということになり一貫性も整合性もなくなります。論述の一つの課題を忘れて、王朝毎に特徴的なことをなんでもかんでも入れ込んだという無茶な答案になります。

 清代:満漢併用制とか思想統制を書く必要はありません。これは民族政策です。皇帝権強化のための政治制度ではありません。馬鹿のひとつ覚えのように、清朝とあれば満漢併用制だと書いてしまったのでしょうが、「皇帝独裁制……経るにしたがって強化された」政治制度という問題を忘れなければ、満漢併用制はテーマからはずれる、とすぐ認識できるはずです。漢民族を統治するためのアメとムチ、あるいは二重統治策は、異民族支配者(征服王朝)の問題には不可欠な知識ではありますが、ここでは要らない。もちろん八旗・緑営などの軍事制度は要りません。必要なのは「政治制度の改変」です。京大の過去問に「唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ」(1990年度)とあるように、政治制度と軍事制度とは別のものです。もちろん完全に無関係ではないが、問題というのは、要求されたことは目一杯書くのが原則です。余計なことは書かない。2003年度の問題は「軍事制度も書け」とは要求していないのです。だいたい軍事組織のない王朝はありえないし、王朝創建のさいに母体となった軍がその後も軍の中枢を占めることは当り前のことです。
 思想統制(文字の獄)は清朝からはじめたのではなく始皇帝以来の歴代の王朝がやってきたことです。とくに清朝になって「強化された」制度でもありません。
 書くべきは軍機処です。清朝は政治制度はほとんど明の制度を受けついでいて、内閣も受けつぎました。内閣が国家の最高行政機関でした。軍事は後金建国以来の満州貴族でかためた議政王大臣がとりしきっています。ところが、ジュンガル部討伐のため5代目の雍正帝が臨時の軍需房を設けたことから、次第にこの軍略専門の官庁が重きをなしていきます。なぜそうしたのかは、内閣の庁舎が遠いところにあったり、内閣に関係する人間が多過ぎて機密が漏れる恐れがあったことを危惧したためらしい。これを臨時でなく常設の軍機処とします。そして軍略だけでなく一般行政に関することも合わせて管轄するようになり、従来の議政王大臣と内閣の職権を兼ねる国政の最高機関にしあげていきました。内閣の大学士や六部の官僚の中から信頼できる人間を集め、4〜5人の軍機大臣を常時出仕させて皇帝のもとで働かせます。宮崎市定著『雍正帝』(中公新書)に副題が「中国の独裁君主」となっている理由です。
 
 インターネットにのっている各予備校の解答を見てみたら、不十分な点はあるものの予備校(K)の解答がもっとも問題の要求に合った解答になっています。上述した誤解や、不要なことをよく書いた非「模範」答案の予備校もあります。こういう答案では論述も中国史も教えられるのか、なんとも怪しい。
 2001年度の第1回京大実戦模試でわたしのアイディア「中国皇帝の専制化(宋〜清)」というテーマを、わたしではない作問者は「中国では10世紀以降、漢人・異民族の支配が相半ばした。そして諸王朝の下で軍事・文治の両側面が整えられて次第に皇帝権力が強化される。10〜17世紀の諸王朝で皇帝権力を支えた軍事・行政の制度の特徴について、王朝間の継承や担い手にも留意しながら300字以内で述べよ」という問題にしました。この問題になると、今回の京大の問題より要求項目が多い。軍事が入り、元朝も入り、担い手も要求しています。初めのわたしのアイディアの方が単純で今回の問題に近かかった。
第2問
A
問(1) 過去問に「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について」(1998年度)という問題が出されています。この「20世紀初め」が何年かと問うています。
 この問題文のはじめ出てくる改革派のひとたちはみな科挙に苦杯をなめさせられた経験の持ち主です。陳独秀は17歳のとき科挙予備試験に合格して「秀才」となったものの、あとの郷試で落第しています。自伝で、科挙は、まるでサーカスの猿か熊のようで、長年にわたってずっと繰り返しているもの……中国の他の制度は等しく腐敗してる、と疑問をていしています。
 梁啓超は17歳で郷試に合格して挙人となりますが、翌年の会試に失敗しました。
 康有為は17歳のときの郷試に失敗し(1876年)、ふたたび郷試受験のために上京したとき官僚の腐敗と無能を指摘する上書(意見書)を提出しました(1888年)。しかし、彼が進士でなかったため上書の資格に欠け、皇帝のもとには届かなかったのです。こんどは会試受験のため上京し、また上書したのですが受け入れられませんでした。1895年になってやっと殿試に合格して進士となります。20年間の受験勉強の終了です。かれが四書五経を学びだしてからは、30年間と言うべきでしょうか。変法運動のひとつとして科挙の改革があったのは自然です。2000年前の四書五経で列強に対抗できない。あまりの時代錯誤でした。
問(2) よく問われる人名です。センター試験でも過去3回確認できます(89年、92年追試、99年)。この弱い皇帝は、ある朝早く西太后にたたき起こされ、こんなことはもう止めなさい、と言われ、そのまま幽閉されました(戊戌の政変)。なんともあっけない変法運動でした。この皇帝は西太后の妹の子で、4歳のときに西太后が皇帝にしたてた人形でした。改革をつぶすのは容易なことでした。
問(3)「ファン=ボイ=チャウ」の運動もセンター試験で出ています(98年度)。「日本留学」運動そのものを漢字で言い直します。日本は東にあり、留学は遊学ともいいます。ファン=ボイチャウ(1867〜1940年)は1900年の地方試験に合格します。同時に、かれは明治維新・変法運動に動かされ、「維新会」という反仏の秘密組織をつくります(1904年)。この年、武装闘争を考えていたかれは、日露戦争をチャンスと見、武器援助を求めて来日しました。犬養毅や亡命中の梁啓超の助言もあり、まず武器でなく人材をと説得され、ヴェトナムの青年たちを日本に留学させます。200人ほどの学生が来日しました。フランスはこれを嫌い、日本と日仏協約を結んで、すべての学生を退去させます。日本は信頼できる国ではありませんでした。見透かしていたホー=チミンはフランスに留学します。
 空欄a 「1911年湖北省」「軍隊が蜂起」「多くの省が相次いで独立を宣言」は辛亥革命です。西洋式の軍隊「新軍」の兵士3000人が10月10日夜に蜂起したものです。鉄道国有化問題に対して四川暴動の鎮圧のため湖北の新軍が西に派遣され、答えの町に残った兵士が少なくなったこと、ロシア租界で密造中の爆弾が破裂したことから同志が逮捕されたこと、などから6日の蜂起の予定が10日になりました。
 空欄b 1911年を第一革命として1913年の反袁闘争を第二革命、1915年の反袁闘争を第三革命といいます。奇数(1、3、5)ごとに革命のやり直しです。日本では一般的ではありせんが、護国軍起義・雲南護国運動などともいいます。袁世凱は民主的な仮憲法である臨時約法を停止し(1914年)、大総統の権力強化をねらった新約法を制定しており、儒教の国教化をはかる尊孔運動までやりだしていました。
問(4)「上海など5港の開港」とあればアヘン戦争の結果としての条約です。この条約もセンター試験で4回でています。私大なら5港全部が出ます。「清は香港の割譲、長江以南の[ ア ]・[ ウ ]上海・寧波・厦門の5港の開港(法政大)」、「清を破ったイギリスは1842年に条約を結び、[ a ]を割譲させ、[ b ]・福州・[ c ]・[ d ]・広州の5港を開港させた(立命館大)」のように。
問(5) この人物もセンター試験で過去3回出ています(1989年、1996年追試、2003年追試)。「文学改良芻議」の正式名は「文学改良についての卑見」で、内容の一部はこうです。「今日、文学の革命を唱えようとすれば、次の八項から着手する必要があると思います。それは、
 一、典故を用いない。二、常套句を用いない。三、対句を使わない(文章では駢文を、詩では律詩を廃止すべきである)。四、俗字俗語を避けない(口語で詩作することも排さない)。五、文法構造を追求しなければならない。以上はいずれも形式上の革命です。六、悩みもないのに深刻ぶらない。七、古人を模倣せず、一語一語に個性がなければならない。八、言葉に中身がなければならない」(西順蔵編『原典中国近現代史 第四冊』岩波書店)。
 空欄c 「ヴェルサイユ条約」「期待が失望に変わって」というのは第一次世界大戦の戦後処理会議の開催地の名前が付いています。
問(6)文中に「山東省の旧ドイツ利権」とあります。この湾もセンター試験で3回出ています(1996追試、2001年、2003年)。私大では書かされます。書けますか?
問(7) 1919年、この設問の朝鮮半島における運動も刺激になり、五・四運動が北京ではじまります。韓国の教科書では「韓国独立万歳」を叫んだことになっていますが、ほんとは「朝鮮独立万歳」です。「朝鮮」という名をなんとしてでも使いたくない、ということでしょう。もちろんセンター試験で出ています(1996年、1998年、2000年、2001年の追試)。
問(8) 読んできたひとは、この答えがすでにあったことを知っているでしょう。日本に留学しなかった人物です。「ヴェトナムでも共産党が結成され」とあるように、ヴェトナム共産党をつくりますが、インドシナ全域の解放を目指そうと目標を大きくして「インドシナ共産党」に名称を改めました(1930年)。かれの戦いの生涯はその終結を見ず閉じてしまいました(1969)。
問(9) この問題を作問する頃の昨年6月、事件をおこした張学良(1901〜2001、100歳でハワイで亡くなった)の証言がコロンビア大学で公開された、と新聞が報じていました。1936年12月、軍閥の楊虎城将軍と組んで西安で蒋(漢字は古いものを使うのが正式)介石を監禁し、これまでやってきた共産党掃討を中止して、挙国一致の抗日作戦に転換しようと迫ったのです。蒋介石が投宿していたのは西安郊外の華清池という楊貴妃が湯浴みしたとされる温泉です。突然の銃声に寝室を飛びだした蒋介石は、わずかな護衛兵とともに裏山へ逃げましたが、中腹の岩穴に潜んでいるところを、張学良の東北軍に発見され連行されます。しかし蒋介石は共産党掃討中止をすぐには承諾しないため、延安の周恩来にきてもらい、やっと蒋介石が承諾した、という事件です。
 空欄d 「総司令……国民革命軍」は問(9)でしぶしぶ抗日を認めた人物です。
問(10)張学良の父です。小さいとき朝早く農家の納屋に火をつけ、農家のひとをドンドン戸をたたいて起こし、一緒に消火をして、よくぞ早く知らせてくれた、大事に至らなかったと感謝されて金をもらった、という幼くて暴勇の人物でした。
 空欄e 「北伐……途上1927年4月[ e ]が起こり……共産党は大きな打撃を受けた」という共産党員虐殺事件です。上海のヤクザ青幇が労働組合と共産党をつぶす陰謀を蒋介石にもちかけます。蒋介石がこの話にのり、ヤクザに資金援助を見返りに承諾しました。4月12日の明け方、共産党員を逮捕し、街頭で首をはねていきます。諸説ありますが、3日間で3000余人が殺され、5000人が行方不明になったらしい。

B
 空欄f 「アッシュール」というアッシリア帝国のもとになった都市がユーフラテス川沿いにあるのか、ティグリス川沿いにあるのか? バグダードはティグリス川沿いにあり、バビロンはユーフラテス川沿いにあります。さてアッシュール(Ashur,Assur)市は? ティグリス川の上流にあることは、つぎの地図で確かめられるでしょう。http://www.nineveh.com/whoarewe.htm
問(11) 「最初に鉄器を使用」で分かるはず。「アナトリア」という地名はローマ時代からの「アジア」と同じ。現在のトルコ領西部で、北は黒海、西は地中海に囲まれたところ。しかし、アジアという概念が東へと広がったため、この地は小アジア(Asia Minor)と改められた。「アナトリアAnatoliaともよばれるのは、ビザンティン帝国の14のテマ(軍管区)に分けたとき付けられた名前からです。次のホームページの地図の28 Asia がそれに当たります。
http://www.dalton.org/groups/rome/RMap.html
問(12)(ア) 「4つの王国のうち」「肥沃な三日月地帯」であるメソポタミアを支配した王国は何か、(イ)その王国の首都はどこか、という、これも地図を見ていないと迷う問題。つぎのホームページにのっています。http://www.biblestudy.org/maps/assybaby.html
この中の Chaldaean Empire が答えです。別名「新バビロニア(王国)」とも「バビロン第10王朝」ともいいます。
問(13) 「イラン人」はペルシア人ともいいます。ペルシア北部のメディア人も、小アジアのヒッタイトも、メソポタミア北部のミタンニも、南部のカッシートも、インダス川に入ったアーリア人も、そしてヨーロッパに入った5民族もみな同じ語族です。みな青銅剣・戦車をもち、この戦車をひっぱる馬を連れています。1995年度に「問(2)ローマ人の母語であるラテン語と同じインド=ヨーロッパ語族に属する言語を、次の〔1〕〜〔4〕から1つ選んで記号で答えよ。〔1〕トルコ語 〔2〕アラビア語 〔3〕アラム語 〔4〕ぺルシア語」という問題が出ています。
 空欄g 「前550年キュロス2世が……を減ぼして建国」というのは歴史家の評価で、キュロス「2世」から「建国」という表現に疑問をもつひともいるでしょう。アケメネス家では、前700年から王国時代がはじまっていて、それまで服属していたメディアの都エクバタナを陥落させてペルシア全体の支配者になったのが前550年だからです。
 空欄h 「第3代の王」「大帝国」は、古典ペルシア語ではダーラヤヴァウシュ(ダラヤウァウシュ)ともいう人物です。この大帝国に自分の肖像をかたどった金貨ダレイコスを発行し、史上はじめて貨幣で徴税したひとでもあります。この金貨は次のホームページで見ることができます。
http://www.coin-gallery.com/cgearlycoins.htm
問(14) アレクサンドロスの遠征は、たんなる征服だけでなく、ギリシア人の拡大とみなすことができ、それは建国、都市建設、植民、商業、コイネー(共通ギリシア語)の普及を伴ったものでした。いわゆる「ヘレニズム文化」といわれるものの拡大でした。西欧人のサイドで名前はヘレニズムとなっていますが、アレクサンドロスの軌跡をたどれば、ギリシア人の方がオリエントの影響を強く受けていることが分かります。大王が死ぬと、東方の大半の征服地はセレウコス1世が受けつぎ、この王朝が西のプトレマイオス朝エジプトとシリアの領域をめぐって長い戦争に入ると、セレウコス朝のもっとも遠い方から独立していきます。それがこの問題のアフガニスタンにおけるギリシア人将軍ディオドトスによる独立・建国です。国名にわざわざ「グレコ(ギリシア)」とギリシア人による国であることを示す表現もあります。しかし、20世紀後半にその遺跡が発掘されるまで、その痕跡はコインとギリシア人による書籍しかなく幻の王国といわれていた国です。日本最高の博物館ミホ美術館で「古代バクトリア遺宝展」を開催しています。開催期間は2003年3月15〜6月8日。
http://www.miho.or.jp/japanese/inform/inform.htm
この答えの王国もセンター試験ではよく出ています(1996年、97年、2000年追試、2003年追試)。
 空欄 i 問(14)と同じ頃(前250年)にセレウコス朝から独立し、南下してイラン全土を支配した王国です。甘英が来訪してここを「安息国」と名づけたことでも知られています。この国も過去のセンター試験では9回出ています。
 空欄 j 3世紀頃にインダス川流域にあった国はなにか、と問われています。45年頃から450年頃まで存在した大月氏の後継者です。カニシカ王のいた王国といえば分かりやすい。風邪をひいているみたいな名前です。  
問(15) この皇帝は1990年のセンター試験の追試でも出たことがあります。なにかしつこくセンター試験のことを書いていますが、京大の問題は基本問題ですよ、と言いたいためです。京大の世界史は得点源。第2問第4問の計60点問題で、50点を越えることは容易です。第1問第3問の論述で半分しかとれないとしても、70点を越えることは確実。
 なにか幸福な感じになりますが、この皇帝は捕虜になってすぐ死んだという説と、生涯奴隷であったとの説があり、分かりません。いずれにしろ不幸でした。割れないですよ、と聞こえる皇帝です。
 空欄k 「5世紀から6世紀」とあったら反射的に出てこなくてはいけない民族名です。センター試験にすでに5回出ています。  
 空欄1 空欄の後の「8世紀はじめ」の王朝です。8世紀半ばの750年からアッバース朝です。
問(16) 「アラビア語」が普及する以前の西アジア地域の国際語であり文字でもあったのが、問(ア)の文字です。それが中央アジア(その中心都市がサマルカンド)の商人の文字になります(イ)。六朝時代から隋唐にかけて中国に頻繁に訪れたひとびとの文字です。(ア)は今年も含めてすでにセンター試験で2回でました。(イ)も2回出ています。

第3問
 京大は南アジア史はこれまで論述で皆無でしたが、とうとう出題しました。この3問目は例年、欧米史の出題でしたが、イギリス中心ではあれ、アジア史がもろに問われたのは珍しい。問第1問に回しても良かったはずです。植民地・半植民地への「イギリスの政策」を問う、という点ではこの第3問が欧米史だという分野は守られています。
 構想メモとしては、インド政策→戦後の結果、エジプト政策→戦後の結果、という順で書いていくのがひとつ。インド政策→エジプト政策、戦後のインドとエジプトの結果、という時間順に書いてもどちらでもいいでしょう。
 「大戦中にどのような政策」はインドでは、なにより自治の約束をあげなくてはならないでしょう。一方的にイギリス側からの発案で自治の約束があった訳ではありません。戦前から自治の要求はあり(カルカッタ大会のスワラジ)、戦中もガンディーがアフリカから帰国して政治活動をはじめており(「1915年にはガンディーの政治活動も始まり」三省堂の『詳解世界史』)、全インド=ムスリム連盟と協定を結んで自治要求運動を展開しています。さらに何より、「約150万人もの兵士が強制的に徴募された(同じ教科書)」という事実。これはイギリス帝国全土の中で、インド兵が他のどんな地域より「桁はずれに多くの人々が動員された(木畑洋一著『支配の代償 英帝国の崩壊と「帝国意識」』東京大学出版会)」ことと関係しています。インドに次ぐ動員は、カナダ約63万人、その次がオーアストラリアの約41万人です。この二国はもう自治領でした。
 なお予備校の中には、国民会議派と協力した「全インド=ムスリム連盟」の名前を「全インド=イスラーム連盟」などと解答しているものがありますが、こんな名称はありえません。All India Muslim League (All India Moslem League)は「全インド=ムスリム(イスラム教徒)連盟」と訳します。
 戦後の結果は、自治の約束を果たすことがなく、イギリスはむしろより強圧的なローラット法という民族運動弾圧法をしいています。「逮捕状なしの逮捕、普通の裁判手続抜きの投獄など、民族運動に対する法外な弾圧を目ざす治安維持法である(平凡社)」と「法外な」といっていいものでした。ある予備校は「強圧的な支配」を「続行」と書いているものがありますが、むしろ「強化」に訂正した方がいいでしょう。Anarchical and Revolutionary Crimes Act が正式名で、「無政府・革命分子犯罪取締法」とか「刑事緊急権限法」とか訳します。ローラットは1917年にインドの治安調査委員長の名前です。この悪法はインド人の激しい抵抗を引きおこします。すでにあった不満に火をつけた、といっていいでしょう。このローラット法制定の翌月、アムリッツァー市で開かれた抗議集会にダイヤー将軍率いるイギリス軍が包囲して発砲し子供を含む1000人強の死傷者を出しています。ここでガンディーを指導者に全国的な非暴力不服従(サティヤーグラハ)運動もはじまります。まさに結果は全国的・全民族的で組織だった反英運動に発展します。

 エジプトに関しては、戦中は名目的なオスマン帝国の外交権をイギリスがうばい保護国とします(1914年)。その理由は「第一次世界大戦でトルコがドイツ側についたので、イギリスはエジプトを保護国とした(『要説世界史』山川出版社)」のでした。
 予備校の中には、エジプトにもインド同様に「戦後の自治を約束した」とか「将来の独立を約束して戦争に協力させた」とデタラメなことを書いているものもありますが、そんな約束はありません。「将来の(エジプトだけの)独立を約束」などというものはなく、フサイン・マクマホン協定(1915)というカイロの高等弁務官マクマホンとメッカの首長フサインとの書簡で、アラブ人の独立の約束があったものの、ここにエジプトは含まれていません。含まれているのは戦後に委任統治領にするところとアラビア半島です。むしろ「エジプトを保護国として最終的にトルコとの関係を断ち切らせたイギリスは、その支配力をさらに強化するために植民地として併合することをも、戦争中に検討していた」のが実状でした(木畑の前掲書)。(教科書に書いてないことは、書かない方が無難です。予備校のようにボロを出す可能性があります)
 しかし、米国大統領ウィルソンの民族自決に刺激されてワフド党のもとになる団体が18年から運動をはじめ、戦後激しい民族運動がおこります。全国的な反英運動を「1919年革命」とまで呼ぶ歴史家もいます。「エジプト人は街頭の主人であり、権力の主人であった。男、女、子供、ストやデモの参加者、すべての者の集合場所としての街頭は民族の全生命を吸い込んだ。政府はもはや存在しない(岩波講座『世界歴史』25巻、板垣雄三の論文「エジプト1919年革命」から)」と。こうした動きに促されてイギリスが戦後1922年に保護権を廃止し、独立を承認していきます。さらにイギリス軍が駐留する名目だけの独立に民衆は反発し、1924年の総選挙ではワフド党が政権をにぎるまでになりました。

第4問
A 
問(1)(ア)クレタ文明なら絵文字、線文字A。後を継いだ「ミケーネ文明」なら解読されています。つぎのホームページでこの字体と読み方を確かめることができます。
http://ancienthistory.about.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http%3A%2F%2Fwww.ancientscripts.com%2Flinearb.html
ミケーネ文明以前にも文字はあったのか、という問題がセンター試験に出ています(1996年度)。
(イ)14歳のときに、クノッソス宮殿を発掘したエヴァンズの講演を聞きに行き、線文字Bについて話しているのを聞いています。それ以来興味をもちつづけ、18歳で 雑誌 American Journal of Archaeology に線文字Bはエトルスキ文字と関連があるとの論文を発表しました。1952年にラジオで線文字B がギリシア文字の古い形であることを発表します。
(2)ペルシア戦争の発端となった反乱の都市です。万物の根源を「水」と唱えたタレースの出身地です。センター試験の過去問ではアリストテレスがここで活躍した、とまちがった文章で出ています。ここは現在のトルコ側です。つぎの地図でMiletos という文字が見つけられますか?
http://www.fsmitha.com/h1/map11ae.htm
(3)これは追試も含めるとセンター試験で5回も出題されている基本データです。「こうして共和政ローマは、法的には平等な市民によって構成される国家となった」という部分だけ注目するとローマ史を見やまってしまう法です。この文章の後の「が、現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった」とか、「しかし、このような改革にもかかわらず、非常時には貴族の独裁官(ディクタートル)が全権をにぎったりして、結果的には貴族と平民上層の富裕者が政治の実権をにぎる体制となり、ギリシアのポリスのようなより徹底した民主政とはことなった(『新世界史』)という点が重要です。
(4)「自作農没落の原因」のばいあの「軍役」の最大のものはポエニ戦争です。それはイタリア半島と農民にどんな影響を与えたのかを追っていけば、いろいろな解答が可能です。
 ポエニ戦争のときのカルタゴ軍の侵入による農村(耕地)の荒廃。農民とは逆にこの戦争の期間を利用して土地を拡大した元老院議員や騎士が農地を買い占めたこと。征服地を属州としていったたために、税として無償の穀物や、安価な穀物が輸入(流入)してきたため中小自営農は対抗できない。大土地所有者が経営する奴隷制という安上がりの労働力の経営に対抗できない。ラティフンディウムの「圧迫」に農地経営が行き詰まった、といってもいいでしょう。ポエニ戦争と農民の没落をあつかった文章もセンター試験では過去3回出題されています。
(5)aのケルンはローマ帝国時代の名前はコロニアです(Colonia Claudia Ara Agrippinensium、Colonia Agrippinensis、略称Colonia)。コロニア(植民市)がケルンという名前の起源です。ローマ帝国の国境線であるライン川・ドナウ川の地図を教科書・歴史地図でよく見ていれば、これはローマ時代からあったはずと推理できます。さて、きみどうでしょう? bのニュルンベルクは、歴史的にはナチス大会とナチスを裁く裁判の都市ですが、いつできたのか教科書・参考書では分からないものですが、こういうばあいは放っておく。cとdはローマ国境線外になるので、いくらなんでもちがうだろう、と推測できるはず。cのベルリンはエルベ川沿い、dはプラハはエルベ川の支流ブルタバ(モルダウ)川沿いにあります。ライン川とエルベ川の区別ができない? それでは地図をこれから勉強しましょう。
http://www.roman-emperors.org/nouest1.htm
 センター試験でも似た問題に次のようなものが出ています。
 ローマによって建設された都市ではないものを一つ選べ。  
 1 ロンドン  2 パリ  3 ベルリン 4 ウィーン(1990年、答えは3)
 なお、ニュルンベルク市は1050年に記録上はじめて確かめられる都市で、もともと皇帝ハインリヒ3世(位1039〜56)が築いた城に由来するそうです。特許状を得て一人前の都市となったのは1219年です。
(6)京大の過去問に「北海・バルト海商業圏が地中海商業圏と並んで重要な意義を持つようになった」に下線があり、設問は「この地域の商業上の最大の都市同盟を何というか」という、似た問題が出ています(1993年度)。論述問題としても「l1〜l4世紀のヨーロッパの遠隔地商業について、主な商業圏とその代表的都市および商品を挙げて、200字以内で論述せよ(1995年度)」と出ています。これは何も京大のよく出すところ、というより、どこでもよく出題している頻出分野です。論述であれ、かんたんな問題です。中世都市の問題はいろいろな角度から論述では問いますから、『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)に6問の中世都市の問題がのっています。
(7)ハンザ同盟はセンター試験で出ても、このロンバルディア同盟は出たことがありません。頻度からは出題されても不思議ではないものです。ロンバルディアはゲルマン人の「ロンバルド王国」が残した地名でもあり、もしかして映画ファンであれば「ヴィスコンティ家」といえばその子孫の映画監督の名に気がつくひともいるでしょう。この都市もローマ帝国の西方の中心として栄えました。前の設問(5)の地図の下方にMediolanum(「平野の真ん中の地」の意味)という文字が見つけられたら、それがローマ時代の名称です。
(8)予備校の解答はへんです。「分裂状態……強力な権力が存在しなかった」と解答しています。これは問題文に、すでに「都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を」と全体を統合する強力な政治的権力が存在しなかったことを示唆しています。都市の自立性は、それを統制・制限する中央集権的権力がなかったということであり、「分裂」が解答なら、そうした解答は問題文の言い換えにすぎません。問題文の「19世紀まで」は、19世紀まで両国が統一できていなかったことも示唆しています。分裂でなく、もっと明快な理由を説明すべきです。
 この問題の「背景」は「理由」に近いでしょう。京大の過去問に「ドイツの再統一は……その後の民族国家への歩みは、決して順調なものではなかった。このことを念頭において中世ドイツにおける国家の発展の特色を、画期をなすいくつかの事件をあげ、150字以内で述べよ。(1991年度)」と歴史的な事件をあげながら、統一しにくい理由を求めた問題です。この問題と共通する点が今回の問題にあります。これは時代を中世に限っていますが、今回の問題は19世紀まで広げています。なぜ中央集権が育たなかったのか? 統一国家的な絶対主義はなぜなかったのか? これに代わる存在としての皇帝と教皇がそれぞれ存在し、どこよりも地方(領邦)・都市の自治の発展したところでした。叙任権闘争による内戦、皇帝のイタリア政策は絶対主義を育成しませんでした。また近世(16〜18世紀前半)の時期に内戦(イタリア戦争、三十年戦争)が激しく外国の干渉・侵入も頻繁でした。

B
問(9)下線部の後に「ルターはこれを非難」とある農民反乱の指導者です。
(10)和議の内容はいくつもあります。領邦君主と都市(市参事会員)に信仰の選択権が認められたこと。個人の信仰の自由はないこと。ルター派は認めるがカルヴァン派は認めない。聖職諸侯がルター派に改宗するときは、その聖職と領土を放棄しなくてはならない。
(11)議会の中央の議席を占めたたため呼ばれるようになった政党です。
(12)ともにルター派であるスウェーデンかデンマークをあげ、その君主もあげる問題です。スウェーデンの国王はセンター試験で2回出ています。デンマークの王は出たことがありません。頻度からも出題の可能性がありません。
(13)映画『王妃マルゴ』でも描かれた凄惨な虐殺事件です。
空欄a 王妃はカトリーヌ=ド=メディシスの娘で、マルグリット=ド=ヴァロアといいます。 
(14)教会の経営において聖職者でない信徒(俗人)の長老たちPresbytersにゆだねたため、この名前があります。南のイングランドにも広がり、イングランドの長老たる貴族が政治を担当する議会政治を理想とする派としてピューリタン革命でも登場します。
空欄b クロムウェルの征服地です。これ以来の紛争が今も完全には収まっていません。
(15)この解答も予備校のは理解しがたいものです。たいてい、オコンネルとカトリックの反対運動の沈静化をあげているのですが、そうでしょうか? かれらカトリックにとってはカトリック教徒解放法(1829年)があり、オコンネルは確かに審査法廃止の前から活動しているものの、審査法廃止後もカトリック排除は変わらないから、かれを支持する運動が盛んになるのです。カトリックである者には被選挙権がないにもかかわらず、アイルランドのひとびとは選挙でオコンネルを当選させてしまいます。対立候補とは2057対982という圧倒的な差でした。それでカトリック教徒解放法が審査法廃止後に成立します。この問題は審査法廃止の経緯を問うているのであって、カトリック教徒解放法の成立の経緯を問うているのではありません。だいたいカトリック教徒だけが反対運動をしていた訳でもありません。なにより非国教徒がいます。教科書は審査法廃止をナポレオン戦争中からの自由主義改革の一貫として書いているのはそのためです。奴隷貿易禁止(1807)、手枷足枷の刑の廃止(16)、婦人の笞(むち)刑の廃止(20)、結社禁止法の廃止(24)、奴隷労働制の廃止(33)という一連の改革の中で、この審査法廃止もあります。非国教徒であるメソジスト教会やクェーカー派の運動があり、この時期のウェリントン内閣(1828〜30)で提案された審査法廃止は下院で圧倒的な支持を集めたのは、下院に非国教徒のホイッグ党員が多かったからです。こうした自由主義改革がつぎつぎと実現していく背景には、産業革命の進展と中産階級の台頭もあげることができます。この間の事情を説明しているのは教科書『新世界史』です、「1820年代になるとトーリー党内部にもカニングのような自由主義政治家が登場し、内政・外交に転換がおこった。内政面では1828年に審査法が廃止され……」と。『詳解世界史』でも「産業革命をいち早く遂行したイギリスでは、新興ブルジョアジーがしだいに力を増し、自由主義的な改革が進んだ。1824年の結社禁止法の廃止は労働組合の合法化に道を開き、1833年に工場法が制定された。1828年の審査法の廃止や翌年のカトリック教徒解放法の制定は……」と述べています。
 審査法廃止だけの経緯を書いた教科書はありません。教科書の記述に合わせた方が無難です。
 予備校や多くの参考書が、まちがった解説・解答(カトリックの運動)をこの設問にたいして出している理由は、非国教徒は国教徒でないものをさし、旧教徒(カトリック)も含まれる、と誤解しているためでしょう。信仰のことゆえ分かりにくいのはしたかないとしても学生に教える立場の人間もそうであるのはなさけない。国教徒も非国教徒も新教徒(プロテスタント)であり、旧教徒(カトリック)とは別です。これは清教徒革命を説明する際にも分かっていないといけないキリスト教の根本的な区別のはずですが……。

C
問(16)(ア)(イ) 小説名は「元徒刑囚を主人公とするフランスの歴史小説」で分からなければ、作家も無理でしょう。諦めても他の設問は難しくありません。
 小説の概要はつぎのホームページで知ることができます。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/2462/remizerasite.html
 また全文はテキスト・データで購入することもできます。つぎのホームページです。
http://www.gutenberg21.co.jp/miser.htm
 資料として作品の一部をもってきた推し量らせるというのは、特殊な問題ですが、作者とその時代自体は特殊ではありません。センター試験(2001年度)で次のように問題の導入部に出ています。

 19世紀フランスの生んだ文豪ヴィクトル=ユゴー(ユーゴー)は、政治家としても波乱に富んだ一生を送った。七月王政期に貴族院議員であったユゴーは、二月革命の際にも憲法制定議会の議員に連出された。1851年のクーデタに対しては、抵抗委員会を組織して共和政擁護を叫んだが失敗に終わり、19年間にも及ぶ亡命生活を余儀なくされた。その間、『レ=ミゼラブル』などの代表作を執筆した。帰国後、再び議員となり、パリで他界して国葬に付された。しかし、ユゴーが共和派の英雄としてまつられるに至った19世紀後半は、一方でフランスが対外的に侵略的姿勢を強めていく時期でもあった。

(17)(ア)「古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛」とあれば理性主義の啓蒙思想とフランス革命を否定した主義です。ロマンチックromantic(英語)、romantique(フランス語)ということばもここから出ています。伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として使われるようになります。理性・啓蒙思想の普遍主義(どこにも通じる主義)を拒否して、自国の歴史・伝説に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性をうたいあげようとするものです。理性至上が結果的に恐怖政治と戦争に陥ったことに対する反発です。ユゴーはロマン主義の戯曲『エルナニ』を書き、コメディ・フランセーズで初演します(1829年)が、観客が古典派とロマン派に分かれて乱闘騒ぎにまで発展するという事件もおきます。「エルナニ合戦」です。フランスではルソー・スタール夫人・シャトーブリアンを先駆者にしてユーゴー・ラマルチーヌ・ミュッセらが演劇を中心に活躍し、ユゴー・デュマ・ジョルジュ=サンドらが小説の分野でも見られ、イギリスでは、この主義の作家としては、ワーズワース・バイロン・シェリー・キーツらの詩人、ロシアではプーシキン、アメリカではエマソン・アーヴィング・ホイットマンらをあげます。
(18)ジャコバン政権のおこなった土地改革は? という問でもあります。
(19)パリ市をまっすぐ北のカレー市に向かうと、ちょうどその中間に位置する町で、そこにゴシックの大聖堂もあります。協定(和約)はこの大聖堂で結ばれました。年代もヒントです。もちろんセンター試験に出ています(2001年度)。
(20)1807年の「ティルジット」条約はフランスに敗北したプロイセンとロシア帝国との条約ですが、とくに前者は領土半減となります。この半減はもともとプロイセンのものではなく、ポーランド分割でとったところです。ポーランドでなにが何という国ができましたか、という問です。ナポレオンの没落とともに消えてしまう国です。
(21)ニコライ1世の即位式のときに、将校たちが新しいツアーに宣誓する前に立憲の要求をつきつけました。十二月です。
(22)(ア)1776年はトマス=ペインの『コモン=センス』も発表された年としても名高いものです。「経済学の体系的創始者」はマルクスが名づけた古典派経済学の創始者のことです。(イ)作品は英文で読むことができます。
http://www.bartleby.com/10/
 これまでの和訳に異議をとなえているホームページは以下。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/bn/WealthOfNation1-3.html