世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2010

第1問(20点)
 中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(12)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代オリエントでは、大河の流域で、はやくから灌漑(かんがい)農業が行われ、定住が進み、都市を中心とした文明が生まれた。メソポタミアでは、前3000年頃からシュメール人が、[  a  ]川下流域のウル・ウルクなど様々な都市国家を築いた。前24世紀頃これらの都市国家を征服してメソポタミアを統ーしたのがセム語族の[  b  ]人である。その後、同じセム語族の(1)アムル人が強力な国家を建設し、前18世紀前半ハンムラビ王のとき全メソポタミアを支配下に置いた。この王国は、小アジアに建国したヒッタイトに滅ぼされた。一方、エジプトでは前3000年頃までに最初の統一王国が生まれ古王国はメンフィス、中王国はテーベを中心に栄えた。新王国では、前14世紀半ば(2)アメンホテプ4世が改革に着手して遷都すると、新都を中心に写実的な[  c  ]美術が生まれた
 エジプト王国とヒッタイト王国が弱体化するとシリア・パレスティナでは、セム語族の3民族、[  d  ]人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。(3)[  d  ]人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍し、フェニキア人は沿岸部にシドン・ティルスなどの都市国家をつくり、地中海交易を独占した。前7世紀前半に古代オリエントはアッシリア王国により統一され、その崩壊後はイラン人が大帝国[  e  ]朝ペルシアを建設したが、前4世紀後半アレクサンドロス大王がこれを滅ぼした。
 アレクサンドロス大王没後そのアジアの領土はセレウコス朝に受け継がれたが、前3世紀半ばにはバクトリアが独立し、またイラン系のパルティアが建国された。パルティアが[  f  ]川河畔に築いたクテシフォンは、パルティアおよびこれを倒した王朝の首都となった。ヘレニズム時代に最も繁栄したのがプトレマイオス朝で、首都[  g  ]には研究所・図書館が建設され、学問の中心となった。プトレマイオス朝が滅びローマ帝国が拡大すると、(4)アラビア半島やシリア砂漠のオアシス諸都市は隊商都市として繁栄した
 7世紀初めアラビア半島西部の交易路上の都市にイスラームが興った。預言者ムハンマドと第3代までの正統カリフは[  h  ]を活動の拠点としたが、その後成立したウマイヤ朝はダマスクスを首都とした。(5)8世紀後半にアッバース朝が新都バグダードを築くと、この都市は、13世紀後半カイロにとって代わられるまで、イスラーム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄した。東方では10世紀にサーマーン朝の首都[  i  ]、11〜12世紀にはセルジューク朝下の主要なイラン都市においてイラン=イスラーム文化が栄えた。

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(1) (ア)この王国(王朝)の首都の名を記せ。
  (イ)この首都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(2) この新都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(3) ダマスクスの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(4) シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。
(5) バグダードの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。

B 16〜17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが、国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(6)ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった[  j  ]はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴォルガ流域を制圧し、(7)そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(8)ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで[  k  ]というモンゴル国家が存在し続けた。
 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺(だいこうあんれい)以東の[  l  ]族のなかからヌルハチが台頭し、1616年にはハンを称した。ついで、(9)その子の[  m  ]は1636年に、本来は“主人筋"であった内モンゴル諸王侯に推戴(すいたい)されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(10)清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。
 (11)康熙帝・[  n  ]から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は、外モンゴルおよび[  o  ]仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ[  p  ]と激しく争いあう時代でもあった。(12)清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、1793年に乾隆帝のもとを訪れた[  q  ]が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。


(6) ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこのモンゴル国家は何というか。
(7) 1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(8) ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(9) このときの首都はどこか。
(10) このときの清朝の皇帝は誰か。
(11) 康熙帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(12) このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。

第3問(20点)
 古代ギリシア・ローマと西洋中世における軍事制度について、政治的・社会的な背景や影響を含めて、それぞれの特徴と変化を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章CA、B、C)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代末期にはじまる東西のキリスト教会の対立は(1)8世紀の聖像をめぐる論争によってますます深まり、11世紀には両教会は完全に分離するに至った。この東西教会の分離に先立って、ビザンツ帝国はスラヴ諸民族のあいだにキリスト教の布教活動を展開していた。9世紀には(2)ギリシア出身の修道士の兄弟がビザンツ皇帝によってモラヴィアに派遣され聖書と典礼書を現地の言語に翻訳し、布教を試みた。10世紀末には、キエフ公国の大公[  a  ]がビザンツ皇帝の妹との結婚を機にギリシア正教に改宗した。
 (3)1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、モスクワ大公[  b  ]は最後のビザンツ皇帝の姪と結婚して(4)ツァーリを名乗り、自らをローマ帝国の継承者とみなした。また、コンスタンティノープル総主教のもとに従属していたモスクワ府主教は、1589年に総主教の地位に格上げされ、ビザンツ滅亡後の正教世界においてロシア正教会が指導的役割をはたすべきであるとする主張の実現が目指された。
 他方、(5)ローマから西方のキリスト教を受容したポーランド・リトアニアでは、(6)16世紀後半から、対抗宗教改革の一環として、カトリック教会がウクライナの正教徒社会への布教活動を推し進めた。西方のラテン=キリスト教文化の影響が浸透することによって、正教会の内部には対立が生じた。1652年にモスクワ総主教に就任したニコンは教会儀礼の改革を断行したが、かえってロシア正教会の分裂をもたらした。さらに、俗権に対する教権の優位を主張したニコンは、やがて(7)ツァーリであるアレクセイ=ミハイロヴィチと対立して総主教を解任された。18世紀前半、ピョートルl世は総主教制を廃止し、宗務院を設置して正教会を国家機関のなかに組み込んだ。この状態は、ロシア革命後に宗務院が廃止されるまで続いた。


(1) 8世紀前半に聖像崇拝を禁止する布告を発したビザンツ皇帝の名を記せ。
(2) この修道士の名前を1人挙げよ。
(3) このときコンスタンティノープルを攻略してアドリアノープル(エディルネ)からこの地に首都を移した君主の名を記せ。
(4) この称号の語源となった古代ローマの有力政治家の名を記せ。
(5) ポーランド人と並んで、ローマ=カトリックに改宗した西スラヴ系の民族を1つ挙げよ。
(6) このときカトリック布教の中心となった修道会は、1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動を行った。この修道会の名称を記せ。
(7) このツアーリの治世下、1670年から71年にかけてヴォルガ川流域からカスピ海沿岸にかけての地域で大規模な反乱が発生した。
 (ア) この反乱の中心となった戦土集団の名称を記せ。
 (イ) この反乱を指導した人物の名を記せ。

 人口の増減や移動はヨーロッパ近代史を強く規定した。
 大航海時代の幕開けとともに、ヨーロッパの人々はヨーロッパの外の世界からのさまざまな影響にさらされるようになった。(8)中世後期に激減した人口の回復基調とも重なり、また、南米から大量の銀が流入し、物価騰貴がもたらされたことも刺激となって、(9)16世紀には、商業活動が新たに盛り上がった。しかし、17世紀に入ると様相は一変し、深刻な人口停滞と経済不況を含む(10)「17世紀の危機」と呼ばれる状況があらわれた。
  危機の時代を経て、ヨーロッパは新たな局面に入った。ある推計によると、ヨーロッパの人口は、1750年に1億4400万人であったが、1850年には2億7400万人、1900年には4億2300万人と、(11)未曾有のペースで増加した。これは、同じ時期にヨーロッパ社会を大きく変容させることになった一連の産業革命の原因であり、また結果でもあった。
 たとえば、世界最初の産業革命の地イギリスにおいては、農業生産方式の革新が、都市の人口、言い換えれば商業や工業を担う人々を支えた。(12)1851年には、イングランドの実に37.6%の人が人口2万人以上の都市に住むようになった。そして、こうした都市民を中心に構築された巨大な消費市場は、世界中の商品を引き寄せた。
 上述の人口推計には、(13)ヨーロッパの外への移民の数は含まれていない。その数は、20世紀の最初10年間だけで、約120万人にも及んだ。それほどヨーロッパにおける人口の伸び、したがって人口の圧力には、著しいものがあった。


(8) (ア) この時期の人口激減のもっとも大きな要因になった病気の名前を記せ。
  (ィ) パリに生まれ、ナポリやフィレンツェに暮らしたある人物は、(ア)の要因をきっかけに集まった10人の男女が順に話を語り継ぐ、10日間の物語を書いた。この人物の名を記せ。
(9) 一方で、それまでヨーロッパ経済における一大勢力であったイタリア諸都市は、相対的重要性を次第に低下させただけでなく、政治的にも混乱し、イタリア戦争の舞台となった。この戦争に中心的に関わった二つの王家を挙げよ。
(10) 17世紀の危機は三十年戦争に代表されるように戦争や反乱の頻発という形でもあらわれた。この時期フランスで起きた大規模な貴族反乱を記せ。
(11) 18世紀の末、このような人口増加の問題について鋭い診断を下して、大きな衝撃を与えた学者の名を記せ。
(12) (ア)同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベントが催された。それは何か。
  (イ) 産業革命期、急激に人口が増え、コブデンやブライトが活躍したことでも知られる都市の名を記せ。
  (ウ) 1871年の段階で、ドイツの同じ数値は7.7%であった。しかし、その後ドイツは急速な都市化と工業化を遂げ帝国主義的拡張を追求するようになり、イギリスの脅威となった。このような「世界政策」を行った皇帝の名を記せ。
(13) (ア) 19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民の大半が向かった国はどこか。
  (イ) アイルランドから大量の移民を出すことになった大きなきっかけは何か。

C 西ヨーロッパ世界の外部への拡大過程で、東南アジアは次第に世界経済に組み込まれ、19世紀末までにその大部分が西ヨーロッパ諸国の植民地に編成されていった。
 16世紀には、スペインとポルトガルが、香料などを求めて東南アジアに進出した。スペインはフィリピンを領有したが、ポルトガルは(14)東南アジアではごく小さな領土を保持するにとどまった。17世紀にはオランダとイギリスそれぞれの東インド会社が勢力を競ったが、まもなくオランダが優位を築き、のちに(15)オランダ領東インドとなる東南アジア島嶼(とうしょ)部の広大な領域を勢力下におさめていった。一方、イギリスはナポレオン戦争後に海峡植民地を建設し、同植民地はのちの(16)イギリス領マラヤ」の中心となった。インドシナ半島では、19世紀後半にフランス領インドシナ連邦が建設された。
 20世紀初頭には東南アジア各地で(17)植民地支配に抵抗しさらには政治的独立を要求する民族運動が勃興した。第二次世界大戦中にこれらの地域の植民地政府が一時的に崩壊すると、独立への動きが加速した。インドシナでは、大戦終結の直後にベトナム民主共和国の独立が宣言されたが、(18)植民地支配の回復を求めるフランスとの戦闘が1954年まで続いた。オランダ領東インドでも、(19)インドネシア共和国の独立が宣言され、オランダとの武力闘争を経て、1949年に正式な独立が認められた。イギリス領マラヤは1957年にマラヤ連邦として独立し、(20)1963年に周辺のイギリス領を加えてマレーシア連邦を形成した


(14) 旧ポルトガル領で、1976年にインドネシアに併合された後、2002年に完全独立した地域の名称を記せ。
(15) 輸出用作物の栽培を促進するためにオランダがジャワ島に1830年代に導入した制度の名称を記せ。
(16) イギリス領マラヤから輸出された主要な鉱物資源は何か。
(17) 1910年代のオランダ領東インドで最も大きな勢力を誇った民族主義組織の名称を記せ。
(18) 1954年に締結されたジュネーヴ協定においてベトナムについて合意された内容を簡潔に説明せよ。
(19) 1960年代後半にインドネシアの実権を掌握し、開発独裁体制を築いた指導者の名前を記せ。
(20) マレーシア連邦の結成に参加したある地域は、1965年に連邦から分離独立した。
 (ア) この地域の名称を記せ。
 (イ) 分離独立の背景を簡潔に説明せよ。
………………………………………
コメント
第1問
 ここに各予備校のHPで公表されている答案例を陳列します。
 他人の解答を掲載する際にはルールが必要です。出典を示すこと、また引用したものはあくまで従であり、わたしの文章が主になっていなくてはならないことです。▲の横から始まるコメントがわたしの文章(見方)です。

 課題は「中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ」でした。主問は共産党史であり、副問として「国民党との関係」が付いています。時間は1921年から1949年までです。どれくらい中国共産党史に迫った内容になっているかが判定基準です。この基準は大学が求めていることであり、受験生も、たぶん(?)予備校も求められる基準です。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの支援のもと上海で結成された。そして中国国民党と第1次国共合作を行い、軍関打倒をめざす北伐をともに始めたが、上海クーデタ後に合作が破綻すると、紅軍を組織して各地の農村に根拠地を建設し、1931年瑞金で毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。しかし国民党の攻撃を受け、長征を開始して延安に移動した。その間に八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成を訴えると、西安事件が起こり、日中戦争の勃発後、第2次国共合作が成立して両党は抗日戦を展開した。戦後、国共内戦が本格化すると、土地改革で農民の支持を得た共産党が勝利し、1949年中華人民共和国を建国した。
▲まちがいのない解答ですが、共産党史という主題において、コミンテルン・八・一宣言の詳しめの説明は不可欠ではありません。紅軍を書いたのであれば、むしろ発展した八路軍・新四軍などを入れた方がより党史になります。それでいえば「1949年中華人民共和国を建国」とするより、「1949年人民解放軍が統一した」とすれば一貫性があります。また長征途中の遵義会議を入れて毛沢東の実権確立を入れた方が瑞金での毛沢東が「主席」だという借りものにすぎなかった地位の説明より大事でしょう。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
中国共産党は第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に結成され、その後軍閥打倒のため国民党と第一次国共合作を行って北伐を開始したが、国民党の蒋介石による上海クーデタで合作は崩れた。その後、日本の満州進出が激しくなるなか、瑞金の中華ソヴィエト共和国に対し蒋介石が猛攻を加えたため、共産党は長征を行って拠点を延安へ遷す一方、八・一宣言を発して一致抗日を呼び掛けた。これに呼応して張学良が起こした西安事件を機に両党の話し合いが始まり、日中戦争の勃発直後に第二次国共合作が成立し、両党は協力して抗日戦を遂行した。しかし、日本が敗れると内戦が再開され、勝利した共産党が中華人民共和国を建国し、国民党は台湾へ逃れた。
▲「第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に……その後、日本の満州進出が激しくなるなか……日本が敗れると内戦が再開され」は共産党史という主題の中では無くてもいいものです。日本との関係を問うているのではないし、どうしても当時の東アジアの全体状況を書いてしまいやすい傾向があるので、これを抑えて党史に集中した解答にすべきでした。紅軍・八路軍・遵義会議・土地改革などを入れた方がベターです。
 下の解答例は皆同じコメントでいい。たがいに見合いながら書いたかのように酷似した答案で上の答案と同じ欠点をもっています。合格者の再現答案と比較したら、密度の点で、ということは得点の取り方の点で予備校の解答が薄っぺらい解答であることが判別できるでしょう。(→こちら)

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの指導で結成された。その後24年に中国国民党と第一次国共合作を成立させて北伐を行ったが、国民党の蒋介石による弾圧を受け内戦が始まった。日本の侵略激化のなか、31年には江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国を成立させたが,国民党の攻撃にあい本拠地を陝西省延安に遷す長征を開始した。この途上で共産党がハ・一宣言を発して一致抗日を唱えると,国民党側にも同調者が現れ蒋介石が監禁される西安事件が発生した。この事件が共産党の調停により解決すると第二次国共合作が成立したが,終戦後には内戦が再開され、共産党は最終的に勝利して49年に中華人民共和国を建国し、敗れた国民党は台湾へ移動した。(297宇)

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
【解答例】
11921年、コミンテルンの支援により中国共産党が結成され、24年には国民党との第一次回共合作が成立した。26年に北伐が発動されたが、総司令の蒋介石が上海で反共クーデタを起こし、国共合作は崩壊した。共産党は農村に拠点を移し、31年には瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が成立した。日本軍の脅威が迫るなか蒋介石は共産党攻撃を優先させ、共産党は拠点を放棄して長征を開始した。この途上共産党は八・ー宣言を発して抗日統一を呼びかけ、これに共鳴した張学良が起こした西安事件をきっかけに第二次国共合作が成立した。日本が敗退すると国共は再び分裂し、49年に中華人民共和国が建国され、敗れた蒋介石は台湾に逃れた。(300字)

 なお、どの解答例も西安事件について言及しつつも、共産党の関わりを積極的に書いているのは(東進)のものだけです。山川用語集には「中国共産党の周恩来らの説得によって」と書いてあります。説得の必要性は、すぐは折れない蒋介石に対して、張学良と楊虎城の名で、全国に向かって内戦停止、一致抗日を訴えたため国中が粉糾しだしたからです。中国の最高指導者の監禁という異常な事件に対して、裁判や公開処刑の声もあがっていました。張の依頼を受け、周恩来・葉剣英らが延安から飛来して、蒋介石を説得するとともに、南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、和解に達したのは共産党の働きです。この会談の結果、すぐ第二次国共合作ができたのではないが内戦停止にはなりました。共産党の関わりなしに解決できない事件でした。
 ベネッセ(http://tk.benesse.co.jp/k_conquest/prompt_report/k_w_history_10.html)の解説には「西安事件など、共産党と関わりの薄い事項は適宜削除することも必要だ」とありますが、「国民党との関係を含めて」と要求されている問題に、こういうアドバイスする気が知れない。もちろん、ここに書いているわたしの意見は、わたし個人の意見であり、眉唾つけながら読んで下さい。冷静な目を。

第2問
A
 上から順に空欄・下線の区別なしで解説します。地図以外はほぼセンター試験のレベルです。
空欄a ウルやウルクが何川下流域かと問うている細かい問題です。地図にあるK・L側がユーフラテス川、J側がティグリス川です。Lの周辺にあったと思い出せたら正解です。拙著『センター世界史B各駅停車』(以後『各駅』と省略)p.135にもウルとウルクの位置が地図が載ってます。

空欄b 「メソポタミアを統ーしたのがセム語族」とあるのでサルゴン1世の国・アッカド王国で、アッカド人となります。シュメール→アッカド→バビロン第一王朝の順は「朱赤はびこる」で覚えます(『各駅』p.132)。

下線部(1) (ア)この王国はバビロン第一王朝(古バビロニア王国)であり、王朝名のようにバビロン第一王朝が都です。(イ)その位置を地図上のK。反対側にあるJは問(5)のバグダードです。

下線部(2) テル=エル=アマルナの位置はナイル川沿いの都市Aアレクサンドリア、Bメンフィス、C正解、Dテーベが分かればいい(『各駅』p.128)。Bメンフィスの位置がちと下がりぎみではあります。

空欄c 写実的なという形容がつくこの首都の名前をとった言い方です。ありのまま写すように奨励したためアメンホテプ4世は妊娠した腹のように突き出た姿を後世にさらすことになりました。

空欄d セム語族でダマスクスを中心に交易、とあればアラム商人です。

下線部(3) ダマスクスの位置は、現シリア南部Fです、海岸線はレバノンになるのでEはフェニキア人の街ビブロスかシドン、Gはイェルサレムでしょう。

空欄e アッシリア帝国崩壊後の大帝国は四国分立後のアケメネス朝ペルシア帝国しかありません。それにアレクサンドロスによって滅ぼされる(前330)のですから。

空欄f クテシフォンはバグダードのあるティグリス川沿いを下っていくと東南にあります。クテシフォンの位置を確かめて勉強したひとはどれだけいるでしょうか?(『各駅』p.138,140の地図)。パルティアとササン朝の双方とも都になったので、「PSフォン」と覚えます。

空欄g プトレマイオス朝の首都なので、アレクサンドリア市。王立研究所ムセイオンは名高い自然科学の場でした(1998年度に出題)。

下線部(4) これはセンター・レベルではありません。「シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し」でも分からない、「現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ」といわれても受験生にとって有名ではないという世界遺産はたくさんあります。これはできなくていい問題でした。山川の用語集では頻度2ですが、わたしの持っている教科書7冊の中には記載したものがありません。もちろんパルミラのことはオリエント史の本を読めば出てくるので、そんなに細かいとは言えないが、受験生はそんなに歴史書を読めるはずがないので、できなくていい、と言ってます。なーに1点減点で恐がる必要はないのです。私大でもたまにしか出ません。最近では学習院(10・文学部)と慶應(07・法学部、語群にあるだけで正解ではない)で。

空欄h 正統カリフ時代の都ですから、メディナ(マディーナ、当時の名はヤスリブ)です。ムハンマド(マホメット)の母親の故郷であり、ムハンマドの墓地のあるところです。地図のIがメッカ(マッカ)で北のHがヤスリブです。

下線部(5) バグダードの位置はティグリス川沿いのJです。「ググ」と覚えます。出題されなかった地図のイラン(ペルシア)のMはスサで、Nはペルセポリスです。

空欄 i 地図の範囲外なので載っていませんが、地図の東側をもっと拡大すればアラル海に注ぐ南側の川にアム川というのがあり、その中流域にある都市です。ここを16世紀に支配したウズベク族が分かれてブハラ(ボハラ)=ハン国になるところです。イブン=シーナー(スィーナー、アヴィケンナ、980〜1037)がここの医師として名高い都市です(『各駅』p.144)。

B
下線部(6) 「ルーシと呼ばれた地域」とはロシアのこと。ロシアを支配したモンゴルの国、という易問です。

空欄J 「16世紀半ば、王となった」とあるのでイヴァン4世です。「半ば」は大雑把すぎますが、即位は1533年(『世界史年代ワンフレーズnew(以下『ワン』)』の語呂では「イヴァンナ、先1公5め3メ3ッ」)です。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国はキプチャク=ハン国が分解して、ヴォルガ川上流にカザン=ハン国、下流にアストラハン=ハン国ができました。イヴァン3世はモスクワの北部を4世は南部を征服しています。

下線部(7) 年代に諸説ある場合の注釈を吉川弘文館の世界史年表・巻末の解説でおこなっています。この場合も1年と2年説があり、「イェルマクがシベリア遠征隊を組織したのが1581年であり,遠征隊がウラル山脈を越えてシビル汗国を滅ぼしたのが1582年である」と。しかしこれも確かなことは分からず、「82年10月にハーン国の首都シビルを占領した。しかし3年後の85年(一説に84年)8月クチュム・ハーンの夜襲をうけて負傷,イルティシ川の支流で溺死した。残されたコサックはシビル市を捨ててロシアに帰ったが」(平凡社百科辞典)とあるように、失敗しています。オランダが独立宣言をしたのが1581年なのでいっしょに覚えます(『ワン』では「オランダ・シベリアは、人155倍81」)。

下線部(8) 「ある山脈を境」はすでに(7)で越えています。シビル=ハン国はウラル山脈を越えたところにありました。「シビル=シベリア」です。

空欄K ヒントは空欄の前の「1783年」です。この頃の女帝エカチェリーナ2世(18世紀後半はすべて彼女と覚えておきます、位1762〜96)が黒海の北にあるこの国を滅ぼしてセヴァストポリ要塞を築くことになる、クリム=ハン国です。この地域のモンゴル人はクリミア・タタールといい、トルコ人と相当混血したものらしい。スターリンによって中央アジアに追放されました。しかし1991年にタタール人の集会(クリルタイ)が開かれ、帰還を決め、今は25万人が帰っています。

空欄 l 「ヌルハチ」とあればジュルチン(女真)族です。

空欄m 後金創始者ヌルハチは、1624年、チンギスの弟の血をひくホルチン部族の領主と婚姻をむすんで同盟し、1636年の大清と国号を改称したホンタイジ(皇太子)は、元朝皇帝の後裔から旧元朝の皇帝玉璽(ぎょくじ)を献上してもらい支配の正統性を引き継いでいます。ホンタイジの皇后は皆モンゴル人で、三人はホルチン部族出身、残りはチャハル部族のリンダン汗の未亡人でした。一方のロシアは、1575年イヴァン4世の時に、キプチャク=ハン国の後裔の汗から位を継承する手続きをと取っています(詳しくは山内昌之著『ラディカルヒストリー、ロシア史とイスラム史のフロンティア』中公新書、第一章)。イヴァン4世自身の母方はチンギス汗の男系子孫ではなかったが、モンゴル有力部族の出身であり、モンゴル民族からは「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれていました。

下線部(9) 清朝の初期の都を問うています。瀋陽は1634年には盛京、1657年には奉天(府)と呼びました。これは細かい。

下線部(10) 北京入城は1644年で3代目の5歳の子供でした。フリンが満州名ですが、かれから順治帝と中国風に呼びます。

下線部(11) ロシアと清朝の最初の国境条約で、センター・レベルです。

空欄n 康煕帝と乾隆帝との間の皇帝名という、センター・レベル。漢字が正しく書けるかどうか。

空欄o この空欄oとpが迷うところですが、ヒントは空欄の前の「外モンゴルおよび」とあるので地名であること、空欄の後の「仏教文化圏」とあるので仏教と関係のある地名であること、三皇帝の時代が西方に領土を拡大し藩部にしていったこと、それが乾隆帝で完成することを考慮します。仏教関係国としては東方の朝鮮も日本も関連はあるものの藩部になったのではないので、残るはチベット(西蔵)しかありません。

空欄p 空欄の後の「モンゴル帝国以来の由緒」とあるのでモンゴル系であること、「激しく争いあう」関係になったものたち、とは「パミール以東」=回部(新疆ウイグル自治区)をめぐる争いでもあったこと。康熙帝がこの民族のガルダン=ハンを追放したが、天山山脈の北にあって雍正帝・乾隆帝と争い、乾隆帝のときにとうとう「制圧し」た、となればジュンガル(部)となります。

下線部(12) 「パミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャー」とあってこのシャーの名前は知らなくても、「パミール……西南」とあれば地図からアフガニスタンしかない。

空欄q ヒントは「1793年に乾隆帝……使節団」です。マカートニー一行がやって来ました。アメリカはホイットニーの綿繰り機発明、ヨーロッパはジャコバン派政権のフランス革命の年です。

 30点中、26〜28点は取れる問題でした。京大をこの世界史で受験するひとはセンター試験で世界史はとらないとしても、センター試験は世界史の基本でもありますから、センター試験の問題を解くといいです。

第3問
 課題(主問)は古代と中世の軍事制度について書けということですが、「政治的・社会的な背景や影響、それぞれの特徴と変化」とうるさいくらいの副問がくっついています。後半の特徴は比較することで表れる違いですから、内容的に違いが出ておれば、わざわざ「特徴は……」と書かなくても良いでしょう。それと古代から中世にかけて制度の変化を書かざるをえないので、これもわざわざ「変化は……」と書かなくていいはずです。となれば、「「政治的・社会的な背景や影響」は欠かせない。
 「政治的」は政治体制、君主、市民権、民会(元老院)、法などいろいろありますが、いちばん書きやすいのは政治体制(政体)でしょう。西欧古代史・中世史なら国家の規模も特殊です。都市国家から世界(多民族)帝国に発展し、それが分解して部族国家・中世都市・荘園と小さい単位になり中世末に次第に国民国家(権力面から絶対主義国家)に変化しました。君主の面では、初めはギリシア民主政・ローマ共和政から始まって、アテネ帝国・マケドニア王国の支配へと移行し、これらはローマに吸収されて君主のいないローマの帝国的発展があり、とうとう皇帝が登場して専制君主政にまでいき、瓦解してゲルマン人王の支配へと変化しました。
 「社会的」は京大がよく問う問い方でした。過去問では、1991,1993,2000,2008年などに表れています。「社会的」と問われて何を書くかは拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)のコラム(ここだけの話)に「社会って何?」というのがありますから詳しくはこれをお読みください。かんたんに言えば政治以外のすべてです。民族・身分・経済・文化とみなこの「社会」の中にはいるのですが、とくに経済史です。経済がいちばんよく教科書に書いてあるから、という事情もあります。古代・中世史なら、奴隷制からコロヌス制、そして農奴制と農奴解放へ、という働き手の地位変化です。商業面でなら地中海世界全体の商業圏から、次第に都市の衰えた農村中心の自然経済(貨幣流通のない経済)、そして11世紀から全欧での商業ルネサンス・貨幣経済・中世都市の発展です。

 さて肝心の軍事制度に注目しましょう。古代ギリシアもローマ共和政前期も武装自弁・市民皆兵の原則という制度でした。しかしギリシアもローマもこれは市民経済の破綻・戦争の頻発による荒廃の結果、維持できなくなり、傭兵・志願兵制に依存するようになりました。
 ギリシアの傭兵は外国人(他のポリス市民やスキタイ人)です。
 ローマの場合は外国人傭兵依存ではありません。ポエニ戦争までは、ローマ市民権をもち、財産をもっていて武装できるものたちが義務として参戦しました。ポエニ戦争以降はマリウスの兵制改革がおこなわれ、志願兵制(職業軍人制)になりました。財産資格を撤廃し、武器は国家が用意する、この兵士たちは征服地を退役とともに分配してもらう、ということになり、分配してくれる将軍たちの私兵のような存在になりました。しかしこれは傭兵=外人部隊ではありません。私兵的な要素をなくして国家の軍隊に転換したのが、元首政の常備軍(軍団)・親衛隊(近衛軍)の設置です(拙著『センター世界史B各駅停車』p.191)。これを明快に書いた教科書が見当たりませんが、専制君主政のところに軍備増強は必ず書いてあり、この増強する軍隊(30万→70万)が、要するに常備軍です。
 この常備軍を知りたければ、ウィキペディアの「ローマ軍団」を見るといい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ローマ軍団
 しかし3世紀の危機(軍人皇帝時代)から属州民の兵士を徴収したり、ゲルマン人を傭兵として雇うようになり、4世紀からは侵入するゲルマン人をローマ同盟軍として懐柔しました。常備軍以外のものが増えていきます。ゲルマン兵は、ますます領内に食い込んでいき、西ローマ帝国滅亡時には、イタリア半島は傭兵オドアケルの支配下にありました。このゲルマン人たちがローマ市民権をもっている多数のひとびとを支配する王国ができます。中世の始まりです。残った東ローマ皇帝から西方の総督の称号をもらって、かたちとしてはローマ帝国が存在しているかのような体制でした(中世ローマ帝国)。
 これらの王たちが支配できたのは小さい領域であり、王の家臣たち、つまり領主たち(諸侯・騎士)も小さい空間(荘園)を支配していました。軍事制度といっても、この小さい空間の支配のためであり、いざ外敵が現れるという危機のためだけ封建制という主従関係が機能しました。ばらばらな軍人をまとめられるのは教皇という宗教的権威だけです。その結果として十字軍・レコンキスタ・東方植民という集団的軍事行動が可能でした。
 中世末になると貨幣経済の浸透、火器の登場により、主従関係は崩れだし、封建契約も貨幣代納金を払うことで済ませるようになり、金を集めた国王が武器・兵士を雇って常備軍をつくるようになります。封建契約の下にあった領主たちは次第に官僚、傭兵軍の指揮官として生きていくように変化します。
 しかし中世末から現れる常備軍はすべてが傭兵ではありません。百年戦争のような国民的戦争になるとイギリス兵はイギリス人がほとんどであり、けっして外人傭兵軍ではありません。フランスは傭兵を雇っている間は勝てなかったので、シャルル7世が教区毎に徴兵する制度にし、国民軍に近い常備軍をつくりました。傭兵は2ヶ月契約が一般的であり信用できない兵士なので、こればかりを使って戦争はできません。国を守る、という意識はないし、戦争が終われば強盗になります(詳しくは『百年戦争のフランス軍 1337〜1453』新紀元社)。
 
 さて以上のことを踏まえて、予備校の答案を添削してみましょう。どれもほぼ同じようなことが書いてありますから、個別に点検する必要もないですね。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
古代ギリシア・ローマで、は富裕化した平民が重装歩兵として、貴族に代わって国防の主力となった。彼らは政治的発言力を強め、やがて戦士が市民団を形成して政治をになう体制を実現した。しかし戦乱が続いて貧富の差が拡大していくと重装歩兵軍団は解体し、市民皆兵の原則は崩れ、傭兵の使用が流行した。西洋中世ではノルマン人の侵入などの社会の混乱の中、ゲルマンの従士制とローマの恩貸地制が結合して封建制が成立し、封土を受けて軍事奉仕を行う騎士層が成立した。騎士は荘園領主として地方を支配し、分権的な社会を形成した。しかし商業の発達による荘園制の解体などにより騎士は没落し、中央集権を進める国王により傭兵が導入されていった。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
古代ギリシア・ローマでは、初め貴族の騎兵が軍隊の主力であったが、やがて中小土地所有の平民が自弁で武装すると、その重装歩兵が軍事力の主力となった。彼らは参政権を要求し、貴族の政治独占は打破され貴族と平民の法的な平等が実現した。しかし戦争などにより兵力の担い手であった市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった。西洋中世では、外民族の侵入による混乱を背景に、主君が臣下に封土を与えて軍役を課す封建制が形成され、その下で騎士軍が軍隊の主力となった。その結果、諸侯や騎士が権力を握り地方分権的体制が広がった。しかし中世末期には諸侯・騎士が没落し、中央集権化を進める王権の下で傭兵が重用されるようになった。

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
古代ギリシア・ローマでは、当初、貴族による重装騎兵が軍事力の中心であったが,平民の武器自弁が可能になると彼らによる重装歩兵が中心に変化した。この結果、平民は貴族に対して参政権を求め始め,しだいに政治参加が実現すると市民皆兵の原則も確立されていった。しかし度重なる戦争などで平民が没落するとこの原則も崩れ,傭兵の使用や職業軍人制が開始された。一方、西洋中世では諸民族の侵入などを背景に主君と臣下の契約による封建的身分秩序が形成され,諸侯や騎士などが軍事力の中心となった。彼らは荘園を経済的基盤として地方分権社会を形成したが,中世末期に彼らが没落し王権が強化されると傭兵の使用が本格化するようになった。

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
古代ギリシア・ローマでは初め貴族層が国防の担い手であったが、やがて武器の自弁が可能となった平民により重装歩兵軍団が構成され、戦いの主力となった。こうして平民の発言力は強まり民主化も進んだが、長期間の戦争などで平民層が没落すると、軍団は傭兵に支えられるようになった。ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入などで混乱した西ヨーロッパでは、主君が家臣に封土を与える代わりに軍事奉仕を求める封建的主従関係が成立し、西洋中世では騎士を中心とする戦士団が戦いの主力となった。しかし、中世後半に封建制が衰退し、戦術の変化などによって騎士層が没落すると、国王による中央集権化が進み、傭兵で組織された国軍が活躍した。

▲書いてあることは、古代については、
政治的背景・影響 貴族戦士が市民団を形成して政治をになう体制→貴族と平民の法的な平等
社会的背景・影響 中小土地所有の平民が自弁/富裕化した平民
軍事制度 平民が重装歩兵……国防の主力→重装歩兵軍団は解体→傭兵の使用
 となりますが、政治的背景としての政体が不明。帝政期のローマ(世界帝国)はどこへ行ったのでしょう? 約500年は無視? 京大の問題文は特にローマ共和政期に限定していません。東大が「ギリシアのポリスと共和制期の古代ローマ国家との間に共通に見られる重要な特徴を三つ挙げよ(1980)」と問う場合、「共和政期の」と限定しているのは、帝政期に入るとギリシアとの共通点がなくなるからです。しかし京大はそういう限定なしで出しているということは、帝政期も考慮していいということです。それに約500年間(前27〜476)と長い期間を無視できません。予備校の解答は古代の半分を勝手に削っています。いやマリウスの兵制改革(前110年頃、志願兵制)以降を書いてないので約600年間の削除です。東進は「職業軍人制」は良いのですが、これを常備軍に転換した元首政のことは書いてありません。
 との答案例も「市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった」とギリシアの外国人による一時的な傭兵と、ローマの自国民志願兵に武器・給与(補償)を与えて長期に(25年)従軍させる常備「傭兵」とを区別していません。
 古代末期にゲルマン人を傭兵にする、といっても、傭兵だけで戦争はできません。主力はあくまで常備の正規軍団です。傭兵を強調しすぎてます。

 中世については、
政治的背景・影響 (外民族/ノルマン人の侵入?)封建制(恩貸地制・従士制/封土と軍役)→中央集権化を進める王権
社会的背景・影響 何も書いてない/騎士は荘園領主として地方を支配→荘園制の解体などにより騎士は没落
軍事制度 軍事奉仕を行う騎士層→傭兵が導入/重用

 古代は平民・市民とあり、中世は騎士、ということで特徴は出ているものの(厳密には、平民・市民と騎士はちがうものです、後述)、最後には古代も中世も「傭兵」依存・多用・重用ということなので「特徴(違い)」は出ていません。それに常備軍が傭兵で占められたように書いているのは、中世末であっても、上で説明したようにまちがいです。
 政治的背景・影響の面でも古代と中世ではかみあわない。法的な平等と封建制? どうちがう? これでは「それぞれの特徴」が表れない。
 どの答案も封建制と、その由来として恩貸地制(封土)と従士制(軍役)を説明していますが、封建制は軍事制度そのものではありません。社会的経済的なものも含んだ主従関係を指しており(特に、土地所有の承認・継承)、「従」の騎士にだけ軍事奉仕を書いて、軍事制度を書いたつもりでいます。しかし軍事の担当者は「主」の立場の皇帝・国王・諸侯も含むのであり、封建関係の契約者は互いに「戦う人」でした。むしろ中世西欧における封建制は、軍事制度としては、「君主の君主は君主でない」「家臣の家臣は家臣でない」というように、きわめて分権的で不安定な性格をもったものであった、ということです。古代との比較でいえば、軍事の担当者は市民・農民ではなく領主であったという点です。古代では市民を必ず書きながら、中世でこの領主を鮮明に指摘しているものはありません。
 どの答案例も古代から中世への変化が欠けています。「外民族」侵入をあげて、それに対する対応策としての封建制を挙げているのですが、しかし封建制ができる時期は9〜10世紀です。「封建的主従関係は……フランク王国分裂以後,本格的に出現した」と書いてあります(詳説)。「10世紀には……西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明確な姿をあらわしてくる」ともっと遅く10世紀からと説明をしているもの(東京書籍)もあります。この外民族に「ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入」としているもの(代々木)は的外れです。だいたいゲルマン人が中世前期(6〜10世紀)の支配者であり、かれらの間で封建制はできあがるのですから、ゲルマン人の侵入に備えてゲルマン人が封建制で対応した、という変なことになります。これ以外の解答例は、明示しない(駿台・東進)か、ノルマン人(河合塾)としていますが、そうすると、中世の初めにあたる5〜6世紀からは8世紀までは空白になります。いやマリウスから書いてないのですから、前1世紀から後8世紀まで9世紀間が無視されています。
 社会的背景・影響では、中小土地所有の平民と、中世の何が対応しているのか? 書いてない。奴隷制と農奴制という基本的な社会基盤への言及が欠けています。書いてあることに間違いはなくても、分解してみると整合性のない無茶苦茶なものであることが判明します。
 生意気なことを書いている、と思わる方は注意。これを書いているわたしは誰かが大事ではありません。わたしが書いている内容が真実かを吟味してください。

第4問
A
下線部(1) 聖像禁止令を出した皇帝名です。『各駅』の覚え方(p.238)は「聖像冷温」です。聖像って冷たい感じがしますね。レ(ー)オン3世のことですが。8世紀前半とは726年です、『ワン』の語呂は「聖像、77踏2む6」。

下線部(2) 兄弟のうち一人ということです。キリル文字(グラゴル文字)を考案したということになっているキュリロス(キリル、キリール、スラヴ語のアルファベットをつくった「南スラヴの使徒」)、兄メトディオスか。

空欄a ウラディミル(ウラジーミル、ヴォロディーメル)1世が皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚というロシアに正教が伝わる起源となった出来事。

下線部(3) メフメト2世はセンター・レベルです。2003年追試に出ただけですが、いずれ本試験でも問われるはず(じっさい「メフメト2世が、コンスタンティノープルを占領した」と2011年に出題されました)。

空欄b 空欄の後に最後の皇帝の姪と結婚してツァーリを名乗りとあるので、イヴァン3世です。この皇帝の約30年後に登場するのが第2問・問(7)に出てきのたイヴァン4世(雷帝)です。

下線部(4) ツァーリの語源になる人物名です。易問すぎる。

下線部(5) 西スラヴ人とはポーランド人の他にかつてのチェコスロヴァキアを構成したチェック人、モラヴィア人、スロヴァキア人です。これらは皆カトリックでした。すぐ南のハンガリー(マジャール)人もカトリックを信仰しますが、スラヴ人ではありません。

下線部(6) ウクライナへの布教という奇異なことがあげてっても、設問文「1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動」がヒントです。ヘンリ8世の首長法とイエズス会設立は同年なのでいっしょに覚えます。『ワン』では「首長家は人1混5み3よ4」。布教はある程度の効果があったようで、いまでもウクライナに8%のカトリック教徒がいます。

下線部(7) この皇帝名を知らなくても、設問文「1670年から」が大きいヒントです。ロシア史には2つしか反乱名はなく、それは(イ)ステンカ=ラージン(1670)とプガチョフ(1773)と1世紀開いて二つ(『ワン』では「ステンカに、ボ1ル6シチ7を0」)。どちらも(ア)コサックです。

B
下線部(8) (ア)病気の名は黒死病。最近の小説ではケン・フォレット著『大聖堂─果てしなき世界』ソフトバンク文庫に詳しい。黒死病と農民の賃金高騰を分かりやすく説明してます。中巻の後半から・下巻前半に14世紀のイギリスの実例が書いてあります。1ペニーだった賃金を2ペニーに上げて農民を募集した女子修道院院長カリス、高賃金を求めて逃げた農民夫婦ウルフリックとグヴェンダ、逃げた農民を追いかける領主ラルフという具合です。この小説は百年戦争の初期の戦闘シーンも臨場感あふれる描写で書いてます。
 (ィ) 「10日間の物語」=十日物語ともいう『デカメロン』の作者です。デカメロンといえば、ボッカチオのポッカメロンです(『各駅』p.231)。

下線部(9) イタリア戦争に関わった二つの王家とはカール5世のハプスブルク家とフランソワ1世のヴァロア家をあげればいい。イタリア戦争は広義では1494年からで同時多発テロのフランス王はルイ12世ですが、その後の代表的な王の名前で覚えておくといい戦争です。

下線部(10) 「17世紀の危機」は三十年戦争の他に、清教徒革命(イギリスの内乱)があり、そして「フランスで起きた大規模な貴族反乱」もあります。三十年戦争が終わったのに戦争中の重税を課けつづけることに対する市民の反発もありましたから、貴族だけの反乱ではありません。貴族の官職保有者は4年間の給与カットに怒っていました。反マザラン闘争です(1648〜53)。

下線部(11) 時間が「18世紀の末」、「人口増加の問題について鋭い診断」とあれば人口論のマルサスです。

下線部(12) (ア)「同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベント」は万博(万国博覧会)です。ロンドンについでパリ(1855)、3回目もロンドン(1862)でした。
 (イ) 産業革命の中心都市、ビートルズの生まれた街です。
 (ウ) 「世界政策」を行った皇帝はビスマルクを辞めさせた人物。

下線部(13) (ア)「アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民」とは西欧移民の多かったそれまでの傾向の転換でした。サラダ・ボール(人種の坩堝)になる国です。
 (イ) 「アイルランドから大量の移民」はジャガイモ飢饉といわれる大惨事でした。これは約110万人が餓死したといわれる災害です。1845年から1849年はヨーロッパ全体が寒冷であり、ジャガイモは寒さに弱い。とくにアイルランドに入ってきた種類は病害に弱いものでした。小麦はとれたそうですが、これはイギリス人がもっていってしまい、アイルランド人の口には入ってこないため、人災的飢饉となったものです。しかし冷害は全欧にあり、イギリス本国でも影響がでてきてコブデン・ブライトの運動はあっても、穀物法を廃止しないと本国でも餓死者が増えることになり撤廃にふみきった、ということです。この冷害は1848年革命(二月革命・三月革命)の背景でもあります。今の日本でもジャガイモは生のままでは輸入できないことになっていて、ゆでてマッシュにした冷凍品だけです。国が指定したジャガイモ(馬鈴薯)の原種をつくる専用の農場があり、そこでウイルスのついていない種を作って管理し、ジャガイモ生産農家に配布するようになっています。

C
下線部(14) 2002年に完全独立とあれば、相当新しい独立国です。2006年と09年にセンター試験(本)で出ています。「20世紀後半に、東ティモールはオランダから独立した」「フィリピンから分離した東ティモールが、2002年に独立国となった」とどれも誤文でした。

下線部(15) 「1830年」が大きいヒントです(『ワン』強制栽培せよ、千1葉8実3を0)。

下線部(16) 鉱山資源は錫です。イギリスはゴムのプランテーションでも儲けています。

下線部(17) 1911年中国では辛亥革命の年にできたイスラーム教徒の団体です。センター試験では2002年、04年、08年と出てます。

下線部(18) ジュネーヴ協定の合意内容です。インドシナからフランスが撤退し(=ヴェトナム・ラオス・カンボジアの独立)、北緯17度線を暫定的軍事境界線とし、南北で統一選挙(1956年7月)を行う、という3点ですが、このうち2ポイントがあれば満点2点のはずです。

下線部(19) アキノさんにやられるまで、日米が支えた開発独裁者の名前です。デビ夫人のダンナです。

下線部(20)  (ア) ある地域は、1965年に連邦から分離独立した。『ワン』の語呂は「シンガポール、行1け9る6こ5れから」。
 (イ) 分離独立の背景は、華僑が多数派のこの島、イスラーム教徒が多数派になっているマレーシアからの独立です。

 ここまで第4問のほとんどセンター・レベルでした。30点中28点は取れる問題です。第2問と合わせて54点以上取れ。第1問・第3問の論述40点中16点以上取れば合格圏です。

………………………………………
 上に予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳 new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例(非公開)をメールで配信しています。

第1問
マルクス主義研究会が元になり上海で結成した共産党は国民党と合作し、蒋介石とともに北伐を敢行した。上海クーデタのため合作は破れ、紅軍は根拠地を井崗山他に移した。31年瑞金で中華ソヴェト政府を設けたが国民党の攻撃が激しく、瑞金を捨てて長征に出た。途中の遵義会議で毛沢東の指導権が確立し、全国に八・一宣言を発して一致抗日を訴えた。西安事件に周恩来が介入し、盧溝橋事件・日中戦争開始後に再合作をし、抗日戦を八路軍・新四軍で戦った。解放区では減租運動を展開した。太平洋戦争が始まると国民党は攻撃を共産党に向け出し、日本撤退後は内戦となった。土地改革が勝因となり、人民解放軍が国民党を台湾に追放し全国を統一した。
(注:「蒋介石」の「蒋」は異体字。減租運動とは、小作料の額を下げさせることです。まだ土地をうばって農民に分配という共産主義的な改革まではやっていないが、このゆるやかな改革でも農民の支持をうけるに十分でしたし、表向きの国共合作を保つ方策でもありました。日本撤退後は「農村部で土地改革を指導して支持をかため、47年なかばから人民解放軍によって反攻にでた。(詳説世界史)」とある内の「土地改革」は中国土地法大綱のことです。戦中からの土地改革を継承・発展させたものです。八路軍は華北で新四軍は華中で抗日戦を戦った共産党の軍隊名です。)

第2問

空欄 aユーフラテス bアッカド cアマルナ dアラム eアケメネス fティグリス gアレクサンドリア hメディナ(ヤスリブ) iブハラ(ボハラ)
(1)(ア)バビロン (イ)K (2)C (3)F (4)パルミラ(パリミュラ) (5)J

jイヴァン4世 kクリム=ハン国 lジュルチン(女真) mホンタイジ n雍正帝 oチベット pジュンガル qマカートニー
(6)キプチャク=ハン国 (7)イェルマーク (8)ウラル山脈
(9)瀋陽 (10)順治帝 (11)ネルチンスク条約 (12)アフガニスタン王国

第3問
古代は小都市国家で官僚制未発達な民主・共和政であり、奴隷制に立脚した消費者市民が武装自弁で軍役を担った。ギリシア・ローマ共和政は戦争頻発のため疲弊し傭兵に依存した。大土地所有傾向は市民の自弁を不可能にする。世界帝国ローマはこれを転換して常備軍を設け、コロヌスに立脚した専制君主政は官僚と軍を増強した。次第にゲルマン人の傭兵・同盟軍に依存したため、かれらが自立してゲルマン人諸国が西方属州に樹立された。コロヌスから農奴に格下げされた農民の上に小領主の諸侯・騎士が軍の担い手となった。官僚制が未熟な封建国家は、中世末、農奴解放と火器の出現のため領主は没落し、常備軍を用意した国民国家・絶対王政が登場する。
(注:消費者市民とは、生産労働をせず奴隷のつくったものを消費し、政治軍事に専念する古代市民のありかたを表現したことばです。『体系経済学辞典』東洋経済にあることば。ここでは「市民は、原則として生産部門はもっぱら奴隷労働にゆだね、みずからは政治・軍事・学芸にたずさわる特権的な消費者階級であった」とある解説)
(別解)
都市国家は武装自弁による市民軍によって守られた。初めは武装自弁できる富裕層、次第に平民層にも広がり奴隷制立脚によって維持された。しかし都市間抗争が激しく、この抗争から抜け出たマケドニアによる世界帝国が形成された。ローマ共和政は中小農民兵を土台に半島の統一を実現、ポエニ戦争勝利後はマリウスの兵制改革により志願兵制によって世界帝国を形成した。帝政は常備軍によって帝国を守り、次第に属州兵・ゲルマン同盟軍を利用する。ゲルマン人諸国は領域内の小国家を諸侯・騎士という領主が守り、コロヌスを農奴に落した。都市は市民が武装し防衛した。中世末には農奴が解放され、分権を打破した国民国家ができ、常備軍が設置された。

第4問

空欄 aウラディミル1世、bイヴァン3世
下線部 (1)レオン3世 (2)キュリロス(メトディオス) (3)メフメト2世 (4)カエサル (5)チェック人(スロヴァキア人、モラヴィア人) (6)イエズス会 (7)(ア)コサック (イ)ステンカ=ラージン

(8)(ア)黒死病 (イ)ボッカチオ (9)ハプスブルク家・ヴァロワ家 (10)フロンドの乱 (11)マルサス (12)(ア)(第1回)万国博覧会 (イ)マンチェスター (ウ)ヴィルヘルム2世 (13)(ア)アメリカ合衆国 (イ)ジャガイモ飢饉

(14)東ティモール (15)強制栽培制度 (16)錫(スズ) (17)サレカット=イスラーム(イスラーム同盟) 
(18)ベトナム南北の暫定的軍事境界線を北緯17度とし、南北で統一選挙を行うことを約束した。
(19)スハルト (20)(ア)シンガポール (イ)ムスリムのマレー人と華僑の子孫たる中国系住民の対立。