世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2016

第1問 (20点)
 西暦8世紀半ば、非アラブ人ムスリムを主要な支持者としてアッバース朝が成立したことを契機に、イスラーム社会の担い手はますます多様化していった。なかでも9世紀以降、イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々は、そののち近代に至るまでイスラーム世界において大きな役割を果たすようになる。この「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワードを両方とも用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

  マムルーク カラハン朝

 

第2問 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(18)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答構に記入せよ。

A [本文中の漢字にルビがふってある場合は( )で示しています]中国歴代王朝は自らの正統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢はそうした瑞祥の一つである。戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢納したという伝説が見える。粛慎は(1)「海内(かいだい)」の中国と大海で隔てられた[海外」に住む神話的な存在ともされ、したがって、その朝貢は、子の徳が世界の果てにまで及んだことの証として、第一級の瑞祥となる。
 (2)後漢末の群雄割拠に際し、(3)遼東郡では公孫氏が自立した。曹丕が後漢の禅譲を受けて魏を建国すると、劉備・孫権も蜀・呉を建国した。呉が遼東公孫氏・高句麗と結んだため、魏は遼東公孫氏を滅ぼし、高句麗に出兵した。魏の進出にともなって、東北アジアに関する豊富な知見が獲得された。このことを反映して、『三国志』の烏丸(うがん)鮮卑東夷伝には、東北アジア諸民族に関する現存最古のまとまった記述が見える。これら諸民族の一つが挹婁(ゆうろう)である。(4)『三国志』の本紀には、粛慎の朝貢が見えるが、これは伝説上の粛慎と同じく「こ(木+苦)矢」と石鍛を用いていた挹婁を「古(いにしえ)の粛慎氏の国」として朝貢させ、粛慎朝貢の瑞祥を演出したものである。(5)前漢・後漢あわせて400年にも及ぶ漢帝国が崩壊したのちの分裂に際して、魏は自らの正統性を喧(けん)伝するための瑞祥を切実に必要としたのである。
 その後、[  a ](西晋の武帝)が魏の禅譲を受けて晋を建国した際や、西晋滅亡後、江南において東晋が成立した際にも、粛慎が朝貢している。一方、華北でも後越の(6)石勅(せきろく)・石虎、前秦の(7)苻堅(ふけん)のもとに粛慎が朝貢している。これらも挹婁を粛慎と称したものである。
 『三国志』についで東北アジア諸民族のまとまった記述が見えるのは、鮮卑[ b ]部が建国した王朝を扱った『魏書』である。『魏書』によれば、勿吉(もつきつ)が北魏・[ c ]に29回朝貢し、うち7回「コ(木+苦)矢」を貢納している。勿吉を「旧(もと)の粛慎国」として瑞祥を演出したものだが、頻繁な朝貢が瑞祥の希少価値を減じたためか、「コ(木+苦)矢」の貢納は517年が最後である。高洋が[  c ]の禅譲を受けて北斉を建国すると、粛慎が朝貢し(8)靺鞨(まつかつ)をとくに粛慎と称し、建国の瑞祥としたものであろう。


(1) 戦国時代の鄒衍(すうえん)はこうした地理認識を発展させた「大九州説」を唱えた。鄒衍は諸子百家のうち、何家に属するか。

(2) この時期、黄巾の乱を起こした張角が創唱した宗教結社の名を記せ。

(3) 戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた。遼東郡を設置した国の名を記せ。

(4) (ア) 本紀と列伝を中心とする歴史書の形式である紀伝体を創始した人物の名を記せ。
 (イ) 『三国志』の本紀において「大月氏」と称された、1〜3世紀に中央アジアから北インドを支配した王朝の名を記せ。

(5) 前漢の禅譲を受けて新しい王朝を開いた人物の名を記せ。

(6) (ア) 石勒は五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族の出身である。この民族の名を記せ。

 (イ) 亀茲(クチャ)に生まれ、4世紀前半、石勅の帰依を受けた仏僧の名を漢字で記せ。

(7) 苻堅は淝水(ひすい)の戦いの戦いで東晋に敗れた。この時の東晋軍の主力である北府軍の下級軍人から立身した劉裕が、東晋の禅譲を受けて開いた王朝の名を記せ。

(8) (ア) 靺鞨の一部は高句麗遺民とともに渤海を建国した。今日の黒龍江省寧安市の東京城遺跡にあった湖海の国都は、当時何と呼ばれたか。

 (イ) 靺鞨の一部である黒水靺鞨の後身が女真である。12世紀、女真は金を建国した。金が女真人に対して採用した行政・軍事制度の名を記せ。

 (ウ) 17世紀、女真は後金を建国した。この建国者の名を記せ。

B 20世紀初頭までの中国では、「党」とは、官僚やその予備軍である知識人が、個人的な交友や一定の政治理念を基に結んだグループのことを指した。だが、こうしたグループの形成は王朝の禁じるところであり、史書では非難や弾圧の文脈で登場している。
 例えば、後漢の時代には(9)二度にわたる「党人」に対する弾圧が行われたし、唐王朝では、二つの官僚グループが数十年にわたって「党争」を繰り広げている。10世紀に[ d ](太祖)が打ち立てた王朝は、官吏登用試験に(10)皇帝が試験官となる出題を加えたが、これはそれまであったような、試験官と合格者が私的な関係を取り結ぶことを妨ぐためであった。しかし、この王朝でも、(11)ある政治家が提起した諸政策の是非をめぐり、「党争」が何十年も続いた。このほか後年の王朝で、17世紀初め設立の[ e ]書院を基礎に形成された政治グループが、やはり「党人」として弾圧されたし、弾圧した側の宦官にくみした官僚たちは、史書で「エン(門+奄)党」(宦官党)と呼ばれている。
 したがって、中国では「党」とは決して良いイメージの言葉ではなかった。20世紀初め、知識人や(12)留学生たちが共和国樹立を目指し、(13)国外で近代的な政治結社を結成した時にも、彼らはその名称に「党」を用いることはなかった。やや後の、彼らと違って(14)立憲君主制を主張して組織された政治団体にあっても、そのことは同様である。
 こうした状況が一変するのは、(15)共和国が成立した」のち、中国史上初の国会議員選挙が行われる過程においてである。中国の政治家たちはこの時、以前から近代政治結社を「党」と称していた近隣国家の例にならい、共和・統一・民主などの語と「党」を結びつけたのだった。そして、共和国樹立を目指した前述の結社は[ f ]と改名してこの選挙に勝利し、国会で多数を占めたのだが、(16)時の臨時大総統の暴力の前に、政権掌握を阻まれた。同党の政治勢力はその後、党名と組織形態の変更を繰り返したのち、国際的な共産主義組織の働きかけで、別の政党との協力関係樹立に踏み切る。以後、(17)この二つの政党の協力と対立が、(18)中華人民共和国成立までの中国政治の一つの軸を構成することになる。


(9) この弾圧は、中国の歴史上どのように称されているか。

(10) この皇帝が試験官となる試験は、何と呼ばれるか。

(11) この「諸政策」のねらいを、農民・中小商人の保護のほかに二つ挙げよ。

(12) 中国からその近隣国家に赴いた留学生の数は、20世記初めに急増したが、このことは1905年に行われた中国政府の政策決定と関係している。この決定とは何か。

(13) この「近代的な政治結社」は、政治主張を三つにまとめたことで知られる。この三つの主張のうち、漢民族の独立(少数民族による支配の打破)以外の二つの主張を記せ。

(14) 19世紀末に中国が対外戦争に敗れた際、知識人によって立憲君主制導入を中心とする制度改革が主張された。この改革は当時何と呼ばれたか。

(15) 「共和国が成立した」ことの背景の一つに、政府がある事業を国有化しようとした結果、中国のさまざまな階層が広く反発したことが挙げられる。この事業とは何か。

(16) この「共和国臨時大総統」は、対内的には政党を解散させて独裁権力を握る一方、対外的には近隣国家による大規模な権益拡大の諸要求を承認したことでも知られる。この諸要求は何と呼ばれるか。

(17) この「二つの政党の協力」のうち二回目のものは、1930年代半ば、中国の内陸のある都市で起こった事件を契機に成立している。この都市の名を記せ。

(18) この国家では1960年代、党の最高指導者が自らの党組織に対する攻撃を呼びかけ、大規模な政治運動が始まった。この運動は何と呼ばれるか。

 

第3問 (20点)
 18世紀のヨーロッパでは、理性を重視し、古い権威や偏見を批判する啓蒙思想が有力となった。イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第4問 (30点)
 次の文章(A,B,C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代以来、西洋では船が運輸と軍事で重要な役割を果たした。フェニキア人は二段櫂(かい)船などを用いて海上輸送を行い、地中海沿岸に(1)植民市を建設した。ギリシア人は衝角を備えた三段櫂船などの艦隊を用いて、前480年[ a ]の海戦でペルシア臨隊に勝利した。ローマ人も軍事用に擢船を用いたが、(2)前1世紀頃までに地中海がほぼ平定され、遠隔地交易が活発になると、帆船が発達した。
 9〜11世紀の地中海では、ビザンツ帝国の艦隊とシリアや(3)アンダルスなどから出撃するムスリムの艦隊が、ともに三角帆を備えた櫂船などで覇権を争ったが、イオニア海以西ではしだいにイタリア諸都市と(4)ノルマン人が勢力を伸張させた。7回に及んだ十字軍の遠征では、第1・2回においてその主力は陸路でシリア・パレスチナへ進軍したが、第3回以降は海軍と海上輸送される兵士が中心となった。兵士や馬に加え、多くの(5)巡礼者と物資を輸送するため、ヴェネツィアやジェノヴァでは多くの櫂船と帆船が建造された。
 13世紀末、ジェノヴァの船がジブラルタル海峡経由でフランドルへ到達し、[ b ]と地中海という二つの海域を結ぶ航路が開設された。この頃、[ b ]・バルト海間の通商では、ハンザ伺盟の盟主[ c ]とハンブルクをつなぐ河川路・陸路が主軸であったが、15世紀以降、[ b ]とバルト海をむすぶ(6)エーレスンド(ズント)海峡の通航量が増大し、バルト海沿岸から西欧へ生活物資が大量に帆船で運送されるようになった。地中海でも商用帆船は発達したが、軍事用では櫂船が16世紀に至るまで支配的であった。


(1) フェニキア人が北アフリカに建設した代表的な植民市の名を記せ。

(2) 地中海をかこむ諸地域を支配下に入れたオクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて、ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩を書いた人物の名を記せ。

(3) 8世紀半ば以降、コルドバを首都として、この地域を支配していた王朝の名を記せ。

(4) 12世紀前半、ノルマン人が地中海域に建てた国の名を記せ。

(5) 巡礼者の保護などのために設立された代表的な宗教騎士団の名を二つ記せ。

(6) 15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名を記せ。

B 支配的な権力や勢力に強制されて、あるいはよりよい機会を求めて、故地を出て各地に離散した人々やその状態をあらわす、(7)ディアスポラという概念がある。この切り口から見ると、ヨーロッパ近世・近代史は、たえずディアスポラを生みだす歴史であった。
 (8)コロンブスがサンサルバドル島に到達した年、数万人のユダヤ人がスペインから追放された。彼らは西欧諸国およびオスマン帝国へと移住し、商業などで目覚ましい活躍をする者もあらわれた。また、同じくスペインから、モリスコ(キリスト教に改宗した元イスラーム教徒)が、(9)1568〜71年の反乱の鎮圧を経た後の17世紀初頭、約30万人追放された。そのうちの大部分はモロッコなど北アフリカに逃れた。
 宗教改革の影響で、新教・旧教の双方からディアスポラが発生した。ヘンリ8世によって国教会体制が敷かれたイギリスでは、(10)カトリック教徒が厳しい制約の中でひそかに信仰を守ったが、一部は国外へ逃れ、故郷の同宗信徒との関保を保った。フランスでは、16世紀後半の宗教内乱を経てしばらくはユグノーの信教は許容された。しかし、(11)1685年にナント王令が廃止されるなどしたため、多くのユグノーがイギリスやスイス、オランダやプロイセンへと逃れ、共同体をつくり、またフランスで迫害に遭っている仲間の救済に尽力した。
 政治闘争の敗北者たちが一種のディアスポラを形成することもあった。名誉革命で王位を追われたジェームズ2世はフランスにわたり、やがてパリ西方のサン=ジェルマン・アン・レーに亡命宮廷を構えたが、ここは、(12)ジェームズの王統をなおも信奉する人々、ジャコバイトにとって物心両面での拠り所となった。また、(13)フランス革命の際にはエミグレ(亡命貴族)が発生し、異郷で反革命を画策し、帰還の機会をうかがった
 経済的要因が強く作用したディアスポラの例もある。たとえば、ヨーロッパ人が深く関与した奴隷貿易によって(14)膨大な数の黒人がアフリカから離散した。また、(15)南ロシアで1881年に大規模なポグロム(ユダヤ人に対する襲撃)が生じたことも手伝って、その後、(16)多くのユダヤ人が住んでいた場所を捨て、西方のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移民していった
 このような各種のディアスポラは国の枠を越えて拡大し、ヨーロッパ諸国にとっては、これらの人々をどのように処遇するにせよ、つねに憂躍すべき要素となった。


(7) この語は古代ギリシア語に起源を持つが、もっぱらパレスチナ地方を追われたユダヤ人と関連付けられてきた。19世紀末になると、各地に散ったユダヤ人の間で民族的郷土の建設を求める運動が活発化した。この運動を何と呼ぶか、記せ。

(8) この追放令が発せられた時のスペインの女王の名を記せ。

(9) これと同じ時期にスペイン王を悩ませる大規模な反乱を開始し、十数年後に独立を宣言した国がある。その国の中心都市で、17世紀に国際金融の中心となった都市の名を記せ。

(10) そのような状況にもかかわらず、彼らは16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ。

(11) この頃プロイセンを統治していた家門名を記せ。

(12) 彼らは18世紀初頭にイギリスで王朝交代があったその翌年に、ジェームズ2世の息子を奉じて反乱を起こした。これを撃退したイギリスの新しい王朝の名を記せ。

(13) 反革命の動きに対抗して、革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国の名を記せ。

(14) 彼らが輪送先のプランテーションで栽培に従事した主な作物を二つ記せ。

(15) 1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ、それがボグロムの引き金となったとされる。この人物の名を記せ。

(16) ユダヤ人など多くの移民を生み出したロシア・東欧と並んで、1880年代にエリトリアを植民地化したある国からも、アメリカ大陸への移民が増大した。この国の名を記せ。

C 第二次世界大戦後に出現した、アメリカ合衆国とソ連を頂点とする二極構造の国際システムは、時間の経過とともに、より多極的な構造に移行していった。
 非共産主義世界では、(17)西ヨーロッパ諸国と日本が急速な経済成長を遂げたことで、アメリカの経済的地位は相対的に低下した。(18)ベトナム戦争の長期化により、アメリカの経済的疲弊はさらに深まった。(19)1970年代初頭、アメリカが自国の経済的利益を優先する政策を採用したことを契機に、ブレトン・ウッズ体制は大きく変容することとなった
 社会主義国よりなる東側陣営では、(20)1956年にソ連のフルシチョフが新たな政治路線を打ち出したことを大きな契機として、陣営内でさまざまな変動が生起した。中国はフルシチョフの新たな路線を批判し、(21)中ソ関係は国境をめぐる軍事衝突が発生するまでに悪化、最終的に中国は東側陣営から事実上離脱した。一方、東ヨー口ッパでは、抑圧的な国内政治体制と、ソ連の支配への批判がまり、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで政治的自由化に向かう動きが断続的に発生した。
 かつて植民地や半植民地などとして経済的に従属的な地位に置かれていた地域は、政治的独立を果たした後にも、低開発に苦しむことが多かった。しかし、このような地域の中からも、韓国・(22)台湾・シンガポール・香港・ブラジルなど、比較的早い段賠から急速な経済成長に成功する国や地域が現れた。これらが、のちに(23)新興工業経済地域(NIES)」と呼ばれる地域のさきがけとなった。


(17) 古ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が結成される契機となった提案を行ったフランス外相の名を記せ。

(18) ベトナムからのアメリカ軍の撤退を定めた和平協定が締結された都市はどこか。

(19) 1971〜73年にブレトン・ウッズ体制に生じた変化を、それに関連するニクソン政権の政策と合わせて、簡潔に説明せよ。

(20) このときフルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について、簡潔に説明せよ。

(21) 1969年3月に、ソ連と中国の間で領有権をめぐって大規模な戦闘が起こったのはどこか。

(21) 1988年に総統に就任し民主化を推進した人物の名を記せ。

(22) 新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴を、簡潔に説明せよ。

………………………………………

コメント

第1問 
 課題は「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワード(マムルーク カラハン朝)を両方とも用いて」でした。このイスラーム化の中身は前半の文「イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々」と説明してあります。つまり宗教を受けて入れただけでなく、「イスラーム文化」を受容したことも入っています。大きくは「文化」の中に「宗教」もはいりますが、ここでは分けて問うているので「宗教以外の文化」ととればいいでしょう。自分・他人(予備校も含む)の解答を批判するときに、宗教以外の文化がどれだけ考慮してあるか見るといいのです。この考慮がないとたんなるトルコ人のイスラーム王朝興亡史になります。
 たとえば以下のような解答。

アッバース朝の下でトルコ人は軍人奴隷であるマムルークとして組織され、イスラーム世界で軍事力の中核を担うようになった。他方、トルコ人のウイグルがキルギスにより崩壊すると、彼らの一部が中央アジアに移動し、イスラーム教を受容してカラハン朝を樹立した。これ以降、トルコ人の間でイスラーム化が始まった。彼らはアフガニスタンにガズナ朝を樹立し、次いで北インドへと侵攻した。さらに中央アジアで成立したセルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その後アナトリアにも進出し、この地域のイスラーム化を進めた。また彼らはエジプトで成立したアイユープ朝でもマムルークとして活躍した。

▲トルコ人がイスラーム化した、つまりイスラーム教という宗教に改宗したのは、中央アジアに移動してからですが、それまでは何を信じていたのでしょう? マニ教や仏教です。また指定語句のカラ=ハン朝から中央アジアのトルコ(人)化(トルキスタン化)も始まりました。印欧語系のひとびと(ソグド人)のところがトルコ人の住む地に次第に変わったのは、このトルコ人の中央アジアへの大移住の結果でした。またイスラーム化したため、アラビア語(文字)の採用も伴ったはずです。アッバース朝下のマムルークになった時点ではアラビア語の採用は確かです。これらが文化です。ただ、まだトルコ=イスラーム文明(文化)という点にまで発展していません。いずれティムール帝国(14〜15世紀)になって完成します(トルコ文学、細密画、天文学)。

第2問
 難解そうなところだけ解説します。大半はかんたんな問題なので。
A 空欄[ c ]は下に2回目に出てくるのがヒントです。「高洋が[ c ]の禅譲を受けて北斉を建国」とあり、北斉の前が何かを推理する。北魏が分裂して東西に分かれ、東魏・西魏となり、それぞれ北斉・北周と受けつがれます。それで東魏が正解。統一の方向は東魏でなく、西魏→北周→隋という順でしたが。

問(3) 「遼東郡を設置した国の名」のヒントは「戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた」という前文です。七雄の中で遼東半島に一番近い国、北京(当時の名は薊)の支配者はなんという国か、ということ。燕雲十六州でも表現している国名・都市名です。

問(6) (ア) 「五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族」とは五胡を全部数えたら出てくるかも知れない。匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の中の羯(けつ)です。氐と羌はチベット系。

問(8) (ア) 「渤海の国都」は、教科書によっては長安、平城京とともに碁盤の目の都城図が載っているので覚えているひともいるだろう。

第3問
 課題は「イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか」でした。ここにはいくつもの要求があります。まずなにより英普の比較です。自分と他人(予備校も)の答案を批判する際に、この比較ができているかどうか、つまり啓蒙思想の受容が英普でどうちがったのか、政治への影響のちがい、社会への影響のちがい、がそれぞれ3点書いてあるかどうか。「比較しながら」はこの3点全部に及びます。

 そもそも啓蒙思想家を想起できるかどうか、ですね。教科書では啓蒙思想家とあればフランス人で埋まっていますが、英国ならロックとアダム=スミスくらいでしょうか。ロックは17世紀のひと(1632〜1704)ですが、その影響は18世紀にもあります。アメリカの独立宣言に彼の思想が息づいていることは学んでいるはずです。つまりそれだけ読み継がれているということです。この他には? いますよ。
 選挙法改正運動をおこなったベンサム(1748〜1832)もいます。選挙法改正は第1回は1832年に実現し、この年にベンサムも死去しますが、運動自体は18世紀末からありました。かれの「最大多数の最大幸福」の主張は1768年の著書から現れていて、これを実現する方法が選挙法改正でした。
 奴隷貿易の廃止は1807年に、奴隷労働の廃止は1833年に実現しますが、その代表的な運動者ウィルバーフォース(1759〜1833)が生きていたのも18世紀です。「1787年にウィルバーフォースの友人、グランビル・シャープが1786年に設立した奴隷貿易廃止促進協会にウィルバーフォースも参加した」とウィキペディアの記事にあります。
 トマス=ペイン(1737〜1809)はアメリカ人? いいえ、イギリス人です。用語集に「イギリス生まれの文筆家・革命思想家。76年に「コモン=センス」を著し、独立への気運を高めた。のちフランス革命で国民公会の議員を務めた」と書いてありますよ。つまり英仏米で活躍した人物です。イギリスで出版した『人間の権利』(1791)で貴族攻撃をしたためイギリス政府に追放され、パリに渡ってフランスの市民権を得、国民公会では新憲法の草案作成委員会にまでなるという特異な人物です。
 また『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作者デフォー(1660〜1731)もあげることができます。「その『イングランド人民全体の本源的権力の検討と主張』(1701)によって、ロック思想の普及者となった、といわれる。この書物は、ケントの地主が提出した下院への請願の内容が不穏当であるとして請願者が逮捕されたのに抗議し、人民の権力こそあらゆる権力の根源であることを主張したものであり、そのほかのいくつかのパンフレットにおいても、デフォーは王権神授説批判、社会契約説、抵抗権論などを展開している。しかしこのことはかれが体制批判者であったことを決して意味しない。かれは抵抗権を主張しつつ、革命には反対なのであり、名誉革命を支持しつつ、クロムゥェルの共和制に対しては最大級の非難をなげかけるのである。こういう態度はデフォーだけでなく、当時ふつうにみられたところであったが」(浜林正夫著『イギリス民主主義思想史』新日本出版社,p249)。
 ドイツの啓蒙思想家にはライプニッツやカントが含まれますが、大陸合理論のライプニッツには民主主義に関する言論がありません。観念論のカントは、立憲君主政の主張者だが、ロックのような市民の抵抗権・革命権は認めず、服従を解いた思想家でした。フランス革命に拒絶反応を示したことでもそれは表れています。
 イギリスはアダム=スミスだけあげて、プロイセンは啓蒙思想家を挙げない解答も変な者ですが、そういう解答例ばかり見てきたでしょう。
 またイギリスでは議会とか責任内閣制のことが書いてあるのに、プロイセンで議会がどうだったのか何も書いてないものも多い。また影響としてプロイセンでは農奴解放ができなかったのに、さも出来たかのように書いてある答案例も見たでしょう。「比較」の問題が出題されると、どうしようもない程ひどい答案を書いてしまうものです。「比較」文を書く方法論がないためです。

第4問
 難問だけの解説です。
A 
(2) 「オクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて」では分からなくても「ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩」=『アエネイス』の作者は誰か、という問題。ラテン語の発音としてはウェルギリウス、ヴェルギリウスも可。

(6) 「15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名」とは、カルマル同盟(1397)以来のデンマーク王国。16世紀(1523)にスウェーデンが独立するまでのこと。

B
(10) 「彼ら(カトリック教徒)は16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ」という問。「16世紀半ば」とはエリザベス1世(1558)の前がカトリックの女王でした。ブラッディ・メアリーという名をもらうことになった迫害を行った。映画『エリザベス』では新教徒に改宗した牧師たちを火刑にする場面からでした。

(12) 「18世紀初頭にイギリスで王朝交代……イギリスの新しい王朝」という問題。アン女王で断絶したステュアート朝の後はドイツからジョージ1世が来ました(1714、『ワンフレーズ』の覚え方ではでは「歯NO婆、どないしょ」)。この王朝名は?

(13) 「革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国」はマリー=アントアネットの出身国です。母はマリア=テレジア。

(15) 「1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ……この人物」ということは農奴解放令を発布した皇帝です。発布は20年前でした。

C
(20) 「フルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について」=「スターリン批判」の内外政策です。内は個人崇拝の否定、外は資本主義国と平和共存、あるいは暴力革命の否定です。

(21) 「1988年に総統に就任し民主化を推進した人物」。それまで長いこと総統は蒋介石、次に厳家淦(75〜77)、そして蒋の子(蒋経国、77〜87)が就いてきた。京大農学部で学んで共産党員にもなったが2年で離党した。戦後、米国に留学、帰国して大学教授となった。1971年に国民党に入党してから政界入りした。

(22) 「新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴」という課題なので、開発独裁といわれる政治的な要素は要らない。輸入代替型の工業化(輸入している工業製品の国産化)を進めていたが,その後輸出指向型の工業化(技術導入・研究開発を支援し、関税を引下げて外資系企業の誘致を促す政策をとり、輸出を促す)を推進したことを指し、1960年代から世界平均を上回る高度成長を遂げていきます。

(わたしの解答例)
第1問
9世紀ウイグル文字をもつウイグル人がキルギスに追放され西走すると、天山山脈西北にカラハン朝を建国した。かれらは更に西進し、中央アジアをトルキスタン化するとともに、マニ教・仏教の信仰からイスラーム教に改宗した。10世紀、サーマン朝を破り、トルコ人はマムルークとしてアッバース朝に雇われ軍事の中核となり、この頃アラビア文字を採用した。11世紀にセルジューク朝を建国、バグダードに入城してブワイフ朝を追放した。その結果トゥグリル=ベクはスルタン称号をもらいカリフを宗教的権威のみに落し政治権力を握った。ビザンツ帝国を脅かしたが、十字軍との戦いから分裂していった。マムルークたちはアイユーブ朝の軍事を担った。
第2問
空欄 a司馬炎 b拓跋 c東魏
(1)陰陽家
(2)太平道
(3)燕
(4)(ア)司馬遷 (イ)クシャーナ朝
(6)王莽(草冠+犬+草)
(6)(ア)羯 (イ)仏図澄
(7)宋
(8)(ア)上京竜泉府 (イ)猛安(・)謀克 (ウ)ヌルハチ
B
空欄 d趙匡胤 e東林 f国民党
(9)党錮の禁
(10)殿試
(11)財政再建、軍事力強化
(12)科挙廃止
(13)民権伸張、民生安定
(14)変法運動
(15)(幹線)鉄道
(16)二十一カ条要求
(17)西安
(18)(プロレタリア)文化大革命
第3問
英国で受容したのは産業資本家・革新的ジェントリーであり、市民政府論のロック、人権論のトマス=ペイン、自由放任のアダム=スミス、功利主義のベンサムの諸説を受け入れた。普国で受容したのは近代化を急ぐ国王と一部のユンカー層に限られ、大陸合理論のライプニッツ、観念論のカントの説を受容した。政治的影響は、英国では責任内閣制を実現して国王の権力を無力化し、議会政治の発展が見られ、選挙法改正運動が起きた。しかし普国では国王の権力強化・中央集権化に寄与した。官僚による統治は発展したが議会政治の発展はなかった。社会的影響は英国では奴隷解放運動に発展した。普国では宗教寛容令に表れたが農奴解放を実現しなかった。
第4問

空欄 aサラミス b北海 cリューベック
(1)カルタゴ
(2)ウェルギリウス
(3)後ウマイヤ朝
(4)両シチリア王国
(5)ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団・テンプル騎士団 (うち2つ)
(6)デンマーク(王国)

(7)シオニズム
(8)イサベル(イザベル)
(9)アムステルダム
(10)メアリ1世の旧教復活
(11)ホーエンツォレルン家
(12)ハノーヴァー朝
(13)オーストリア
(14)綿花(棉花)・サトウキビ・タバコ(うち2つ)
(15)アレクサンドル2世
(16)イタリア

(17)シューマン
(18)パリ
(19)アメリカがドルと金の交換を停止し,そのため固定相場制は変動相場制へと移行した。
(20)国内は個人崇拝否定によるスターリン批判、対外的には資本主義諸国との共存と平和革命の主張。
(21)ダマンスキー(珍宝)島
(22)李登輝
(23)それまでの先進国製品の国産化から、先進国の技術・資本を導入し、輸出へと転換した。