世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2017


 16世紀半ばに書かれた次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 あらゆる商品の価格は、その必要性が非常に高く、かつ提供される量が少ないときには上昇する。貨幣もまた、それ自体で売買され、かつあらゆる契約取引の対象となる以上は一つの商品であり、したがってその価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される。実際にフランスではスペインよりも貨幣の量が少なく、パン、布、労働力の値段がスペインよりもはるかに低い。またスペインでも、貨幣の量が少なかった時代には、インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代よりはるかに安い値段で商品や労働が提供されていた。
(マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)より引用。但し、一部改変)

問い この文章中で述べられている現象が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 黒人奴隷制に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ユネスコが1994年に奴隷貿易、奴隷制の記憶を掘り起こす「奴隷の道」プロジェクトを開始して以降、21世紀に入り、環大西洋世界の奴隷貿易に再び注目が集まっている。国連総会では、①ハイチ革命」200周年にちなみ、2004年を「奴隷制に対する闘いとその廃止を記念する国際年」とすると宣言され、また1807年に世界に先駆けて奴隷貿易を禁止したイギリスでは、200周年を前に首相が「遺憾の意」を表明した。
 下の表は、16世紀以降の環大西洋圏の地域別奴隷輸入数を示したものだが、従来、大西洋奴隷貿易は、英仏などヨーロッパ諸国を起点にアフリカとカリブ海域を結ぶ、主に北大西洋で展開された三角貿易に関心が向けられてきた。だが、表からもわかるとおり、最も多くの奴隷を輸入したのはポルトガルの植民地、ブラジルであり、近年の研究では、②ラテンアメリカ地域」、とりわけブラジルとアフリカを直接結ぶ南大西洋の奴隷貿易について、その独自のメカニズムに関心が集まっている。

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問1 15世紀末にスペイン、ボルトガルの両国が定めた、支配領域の分界線を定めた条約を何というか。

問2 下線部①にあるハイチ革命を契機に、南北アメリカ大陸における奴隷貿易廃止、奴隷解放の流れは加速した。最後に奴隷制が廃止されたのは、最も多くの黒人奴隷を受け入れてきたブラジル(1888年)であった。この19世紀の南北アメリカ大陸で達成された奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか簡潔に答えよ。(100字以内)

問3 下線部②にあるラテンアメリカ地域では、1810〜20年代に多くの国々が独立した。その独立運動は、いかなる契機から始まり、どのような人々により担われ、独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか、述べなさい。(275字以内)


 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 われわれが海を渡り、最初に到着した町はザイトゥーンの町であった。そこは壮大にして、規模の大きな町であり、カムハー織り(錦紗)やビロード織りの布地(緞紗)がそこでは製造されており、それらはその町に由来する名で知られている。その布地は、ハンサー織りやハンバーリク織りよりも上等である。
 そこの停泊港は、世界の数ある港のなかでも最大規模の港の一つ、否、間違いなく最大のものであり、私は実際にその港で、約100艘の大型ジャンクを見た。さらに小型船に至っては、多くて数え切れないほどであった。そこの港は陸地に入り込んだ海からの大きな入江で、やがてその海は大河と混じり合う。この町は、他のすべてのシナ地方と同じく、住民のための果樹園、田畑と屋敷が町の真ん中にあって、ちょうど、我が国のスィジルマーサの町とよく似ており、他ならぬこのために、彼らの町は規模が大きくなっている。
 (イブン・バトゥータ著、家島彦一訳注『大旅行記』より引用。但し、一部改変)

問い ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を論じなさい。(400字以内)

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第1問
 史料の文「その価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される……インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代」とは価格革命の説明だと推理できます。神学者マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)という出版年もそれを示唆しています。
 課題は「現象(価格革命)が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響」でした。
 つまりスペイン本国と他の国に与えた影響の双方を書かなくてはならない、ということです。新大陸から大量の金銀を獲得したことでスペインはどうなったのか、それが流入しなくなるとどうなったのか、他のヨーロッパの国々はどんな影響を受けたのか、ということです。後者は教科書に必ず書いてある一般的なことを書けばいいですね。たとえば、詳説世界史ならこうです。

 1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2〜3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。
 西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。

 これだけで254字です。受験場でこれだけキッチリ書けないので、200字くらいとします。また「ヨーロッパ」とあれば西欧と東欧の双方も含むことも注意です。詳説世界史の記事はその前に商業革命のことも書いてあり、これも含めることができます。記事は以下、

 大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。

 盗み取ったり、強制的に採掘させて獲得した銀でアジアに買い物に出かけたことが「世界商業圏の形成」になりました。五大陸間貿易の開始という言い方もあります。
 スペイン史の「盛」は書けても「衰」は意外と難しいかも知れません。たんに銀の流入が止まった、だけでは衰退理由になりません。
 また「17世紀」についてどれだけスペイン史が書けるか。予備校の解答例を見て、17世紀に該当する内容を書いたものはどれだけあるでしょう?
 17世紀のスペイン史にとってオランダ(低地)の独立承認にいたるまで、鎮圧費の負債が大きくなりすぎて休戦し(1609)、さらに三十年戦争の開始(1618)とともにオランダとの再戦になり、これでも赤字を増やしました。戦後の1647年(三十年戦争は1846年に事実上終わっています)、53年、6O年、62年と不払い宣言を出しています。
 ポルトガルを併合したのが1580年でしたが、1640年にはポルトガル王国は復活して、スペインからすれば失い「太陽の沈む国」になります。スペインの横暴に嫌気がさして、イギリスの援助を得てスペインからの分離独立を実現します。
 このポルトガルをまだ持っていた時期と失う時機に、躍進してきたオランダにポルトガルの基地が奪われました。マラッカはポルトガルが1511年に王国を滅ぼしましたが、次世紀にオランダが1619年に占領します。アフリカ西岸のエルミナもポルトガルが築いた奴隷貿易の最大の基地でしたが(1482)、1637年にオランダが乗っ取ります。セイロン(現スリランカ)は1505年に築いた貿易基地でしたが、1658年にオランダに奪われました。またサファヴィー朝アッバース1世によってホルムズ島からポルトガルは追放され(1622)、オマーン・マスカットも彼に奪われました。こうして大西洋とインド洋の重要な拠点を失っていきます。

 詳しい『詳説世界史研究』ではスペインの衰退について、こう書いています(p.302)。

スペインの繁栄は長くは続かなかった。その担い手であったムスリムを追放したことがおもな原因となって、毛織物工業などの手工業が衰退してしまったことも、スペインの経済的没落の一因であった。
 1588年にはスペインの誇った無敵鑑隊(アルマダ)が、へンリ8世の宗教改革以来、宗教問題やアメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイギリスの海軍に大敗し政治・軍事的にも衰退にむかった。このような衰退過程を決定的にしたのは、17世紀初頭になって、アメリカからの銀の流入が激減したことである。また1640年には、 イギリスの援助をうけたポルトガルが、ブラガンサ朝のもとに再独立を果たした。

 この引用文の初めに書いてある「担い手であったムスリムを追放」を不思議におもひとがいるかも知れません。レコンキスタとともに追放したのではないかと。留まる者はキリスト教への改宗を強制されました。かれらをモリスコと呼びますが、改宗してもキリスト教徒との共存が難しく、多くの軋轢(あつれき)が起きていました。とうとう当時の国王フェリペ3世は、モリスコ追放を承認しました(16O9)。約30万人が半島から脱出します。かれらモリスコは優秀な農民や手工業者であったため、米とサトウキビの栽培が著しく減少し、小麦も不足し、カスティーリャやイタリアのサルデーニャから輸入せざるをえなくなります。かれらだけでなくても、スペイン人自身が17世紀の再流行したペストや凶作、諸戦争の徴兵と戦死、またアメリカへの移住、などでも減少しました。
第2問
問1 易問でした。調印された都市はスペイン北部にあり、ポルトガルの国境に近い。

問2 課題は「奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか(100字以内)」でした。
 過去問(2003)に類題がありました。「奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい(指定語句→砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ)」です。

 過去問は奴隷貿易全般がテーマでしたが、今年の問題はハイチと合衆国と限定して、「他とは異なる特徴」という比較の問題です。「奴隷解放の歴史」と問われても、「異なる特徴」をすぐには思いつかないものです。構想メモをつくって比べてみないとハッキリしません。ただ「他とは異なる」といっても、この「他」はラテンアメリカ全体なので、ハイチはその一国として共通点もあります。3者(ラテンアメリカ・ハイチ・合衆国)の比較が必要です。そこからハイチと合衆国の特殊性(相違点)はどこにあるのか探る、という仕事です。それもたった100字でという字数が苦しい。
 予備校の解答例を見ると、どれもラテンアメリカの奴隷解放がどんなものだったかを書かず、ハイチと合衆国を書いただけでは「特徴(相違点)」が分からないままです。下の設問・問3と重なっているため、それは避けたのかも知れませんが、これはこれで完答すべきです。

問3 課題は「その独立運動は、(1)いかなる契機から始まり、(2)どのような人々により担われ、(3)独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、(4)ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか」と4つもあります。
 (1) 本国(スペインとポルトガル)のあるヨーロッパがナポレオン戦争に巻き込まれ、スペインはフランス軍の占領下におかれました。ポルトガルはフランス軍に侵入されイギリス軍の援助でなんとか切り抜けたものの、その脅威があり、国王と親族はブラジルに逃れてきた、という本国の危機が何よりあげられます。また植民地の中の白人地主のクリオーリョ(クリオージョ)の中にヨーロッパに留学したり、啓蒙思想の影響を受けた地主層がいたこと、かれらが本国(イベリア半島)から派遣し、徴税している半島者(ペニンスラール)に反感をもっていたこと、などがあげられます。
 (2) 担手は何よりクリオーリョたちです。本国の国王─副王─半島出身の官僚(ペニンスラール)─クリオーリョ─メスティーソ─インディオ─黒人、という階層構造のうち、トップの副王・官僚を追放するのが独立戦争で、白人からの白人の解放だったことが特異です。また同じスペイン人がたくさんのスペイン人の国々をつくったため、国民国家の形成に失敗した、ともいいます。シモン=ボリバルの「大(グラン)コロンビア共和国」構想は失敗しました。それぞれの国境は植民地時代の行政区分がそのまま反映しました。
 (3) 植民地時代の農業モノカルチャー経済(コーヒーや砂糖)は変わらず、欧米を市場とする鉱業も変化がありません。欧米のような工業化を目標にせず、もっぱら欧米の工業製品市場にして利益をあげることを支配層は考えました。少しはあったマニュファクチュアは欧米工業製品に負けていき、農業も工業も、むしろ植民地時代より欧米経済とのリンクが深化しました。
 土地はインディオの共有地を地主たちが取りあげ、分配して大土地所有者が低賃金労働者の安い労働力をつかって利益をあげていく構造ができあがります(アシエンダ制)。
 (4) ブラジルは亡命してきた国王夫妻が本国に帰還した後、帰国しなかった息子のペドロ(ペードロ)がクリオーリョにたきつけられて独立し、しかも皇帝を名乗るという親子喧嘩で実現します。他の独立国のような戦闘もなく、また他国は独立と同時に奴隷解放もしますが、ブラジルだけは1888年まで奴隷労働制を維持しました。

第3問
 課題は「ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を」でした。
 もしザイトゥーンがなんという都市か浮かばなかったとしたら、「11〜13世紀の国際関係」に集中する他はないです。ただ泉州そのものはセンター試験頻出の都市ではあります。2015年第2問の導入文は以下。

泉州は、唐代中頃から、南海貿易の中心となった港の一つである。泉州には、様々な出自・信仰を持つ外来商人が住み着いた。ここを拠点に長年にわたって胡椒(こしよう)貿易に関わった蒲寿庚(ほじゅこう)も、アラブ系もしくはペルシア系ムスリム商人とされている。元朝は、蒲寿庚の持つムスリム商人の貿易ネットワークを利用して、南海諸国に対し朝貢を勧誘して貿易を促進した。このことは商船の誘致にもつながり、13世紀、泉州は東アジア海域とインド洋方面との結節点として、繁栄した。

 「11〜13世紀」という漠然とした時間設定なので、この時期の中国・インド・イスラーム世界の王朝を思い浮かべてみるといいでしょう。その上で、それぞれの経済についてメモしていきます。「当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係」といっても中国史だけではないはずで、この記事を書いたイブン=バトゥータ自身がモロッコ出身で、中国に来る前はデリー=スルタン朝のインドに寄ってから来ています。つまりはインド洋を軸にすえて東西を広く網羅した解答文です。

 中国の11世紀は北宋、12世紀に南宋、13世紀に元朝が現れます。北宋はとくに陶磁器・絹・銅銭の生産で知られていました。教科書(詳説)に「宋代の中国では、青磁や白磁など陶磁器の生産がさかんとなり、絹や銅銭とともにジャンク船によって各地に輸出された。中国商人による交易の範囲は、東シナ海から南シナ海・インド洋にまでおよび、陶磁器を主要な交易品とするこのルートは陶磁の道ともよばれる」とある部分です。
 11世紀のインドはチョーラ朝が栄え、「11世紀にスリランカやスマトラに進出し、インド半島から東のインド洋の覇権を握り、また南インドの水田開発をすすめて繁栄した。この王朝のもとで南インドのヒンドゥー文明が確立した(東京書籍)」とあります。11世紀は世界史としては膨張の世紀と知られ、何も十字軍だけでなくレコンキスタ本格化、東方植民があり、商業ルネサンスが開始された時期でもありました。その勢いは13世紀のマルコ=ポーロ訪中までつづきました。西アジアのイスラーム世界ではアッバース朝の衰退が目立ち、代わってカイロを建設したファーティマ朝が貿易保護政策をとり、次第にバグダードに代わってカイロがイスラーム世界の商業の中核となっていきます。
 西アジアでは「セルジューク朝以降、……地中海とインド洋を結ぶ商業活動は活発におこなわれた。ムスリム商人は、奴隷や香辛料の交易にたずさわるばかりでなく、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きな役割をはたした」とあります。
 またアフリカ東岸にもイスラーム世界ができて、インド洋貿易の一翼を担うようになります。「10世紀以降、その南のマリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市にムスリム商人が住みつき、彼らによるインド洋貿易の西の拠点として繁栄した。やがてこの海岸地帯では、アラビア語の影響をうけたスワヒリ語が共通語としてもちいられるようになった。さらにその南方、ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってモノモタパ王国などの国ぐにが活動し、その繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている」と。

 12世紀は東アジアでは金が南下し、西夏が西域を占拠してシルクロードの道をおさえ、南宋はこれら征服王朝下で苦しみながら、経済は「江浙熟すれば天下足る」といわれる繁栄をしていました。日本との日宋貿易(私貿易)として、敦賀・博多に来た宋人が高麗も含めた三国間貿易をおこなっていました。公貿易としては、平忠盛・平清盛による貿易振興政策がありました。インドの12世紀もチョーラ朝は東西交易の要でした。次第に東南アジアでもインドから来るダウ船がイスラーム教の普及ととともに商品を運んできました。「ダウ船とよばれるムスリム商人の船は、インド西海岸のカリカットやスーラトでインドの物産を積みこんでペルシア湾沿岸の諸港市に陸あげし、ここから陸路カスピ海南岸沿いにすすんでコンスタンティノープルやシリアの諸港に運ばれた。いっぽう、南インドの諸港からインド洋を西に横断した船は、アラビア半島の南をぬけて紅海沿岸に陸あげし、陸路、カイロを経由してアレクサンドリアやシリアの諸港に物資を運んだ(東京書籍)」と実に東西とも幅広い活動をしています。12世紀の西アジアの中心は上の記事の通り、やはりカイロで、「アイユーブ朝やマムルーク朝は、豊かな農業生産に加えて東西貿易の利益を独占し、首都カイロはイスラーム世界の経済・文化の中心地として繁栄をきわめた。このころインド洋と地中海を結ぶ交易活動をになったのは、カーリミー商人とよばれるムスリムの商人グループであった」(詳説世界史)とあります。

 13世紀はモンゴルの世紀「パックス=タタリカ(モンゴルの平和)」です。中国・北アジアではモンゴル帝国が現れ、イントではデリー=スルタン朝、カイロにはアイユーブ朝がファーティマ朝に交代します。
 『詳説世界史』の中国を中心に書かれた記事はこうです。

 元の時代には、中国もモンゴル帝国の広域的な交易網のなかに組みこまれ、長距離商業が活発となった。モンゴル帝国は、初期から交通路の安全を重視し、その整備や治安の確保につとめ、さらに駅伝制を施行した。その結果、おもにムスリム商人の隊商によって、東アジアからヨーロッパにいたる陸路貿易がさかんにおこなわれた。海上貿易も、宋代に引きつづいて発展し、杭州・泉州・広州などの港市が繁栄した。江南と大都を結ぶ南北の交通としては、大運河が補修され新運河もひらかれたほか、長江下流から山東半島をまわって大都にいたる海運も発達した。貨幣としては、銅銭・金・銀がもちいられていたが、やがて交鈔が政府から発行された。この紙幣は多額の取引や輸送に便利であったため、元の主要な通貨となった。不要となった銅銭は日本などに流出して貨幣経済の発達をうながした。

 西アジアについては上の12世紀の記事にもマムルーク朝(1250〜1517)という貿易保護政策をとった王朝のことが書かれています。日本と中国の貿易でも元寇のために一時は絶えましたが、その後は復活してきます。