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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2017

1 (20点)

 中央ユーラシアの草原地帯では古来多くの遊牧国家が興亡し、周辺に大きな影響を及ぼしてきた。中国の北方に出現した遊牧国家、匈奴について、中国との関係を中心にしつつ、その前3世紀から後4世紀初頭にいたるまでの歴史を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

2(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(19)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 梁啓超は、近代中国において多方面で活躍した人物で、史学の分野においては「新史学」を提唱した。大学での講演をもとにして1922年に刊行された『中国歴史研究法』に、彼のいう史学の革新を見て取ることができる。
 彼は、中国の史学は(1)二百年前までは世界で最も発達していたとするが、伝統的な史学を評価していたわけではなく、歴史家[  a  ]が始めた、王朝史(断代史)のスタイルを厳しく批判した。また、(2)唐朝の『晋書』編さんによってそれ以前の「旧著十八家」がすたれたとして、正史の弊害を指摘する。旧来の史書の中でほめたのは、通史である(3)「両司馬」の作品などわずかだった。
 彼が目指したのは、死者への評価を主としてきた旧来の史学を、現に生きている国民の為の新しい史学に改造することだった。具体的には、(4)時代精神の推移の把握」や、(5)史学以外の学問の導入などを主張するとともに、とくに史料の収集・鑑別に注意を払った。文献だけではなく、遺跡・遺物の重要性を説き、(6)5世紀に開削された雲崗石窟や、(7)元代の天文観測器などを例に挙げる。そして、史料保存の必要性を説き、三十年前に外務省にあたる[  b  ]から借覧した、(8)康熙帝の時代にロシアと交わした往復文書の存否に思いを馳せている。また、外国文献のユニークさに注目して、彼が近時の外国人排斥運動にちなんで「千年前の[  c  ]」と呼んだ(9)黄巣軍の外国人殺害がアラビア語の記録に残されている例を挙げる。
 梁啓超の「新史学」は、日本を介して西洋史学の影響を受けており、本書でも西洋の中国研究の進展に注意しているが、日本の研究に対する評価は低い。だが、同時代には国外の中国研究の中心として(10)パリとともに京都を挙げる中国人もいたし、梁自身かつては日本の研究成果を高く評値していたのである。当時の代表的な東洋史家の一人である桑原隲蔵(じつぞう)は本書に対する書評において、日本の研究に対する評価の変化に触れつつ、史料論における欠陥を痛烈に批判した。外国の史料に目を向けるのはよいが、なぜ日本や(11)朝鮮の史料に注目しないのかという指摘は、彼一流の皮肉と言えよう。
 本書さらには梁啓超の学問全体について、中国でもその欠点が指摘されてきたが、彼が個別の学問を越えて近代中国に与えた影響は否定すべくもない。


(1) 梁啓超は清代を学術復興の時代と評する一方、史料の欠乏は清代ほど甚だしいものはないとしている。そうなった理由を簡潔に述べよ。

(2) 唐の太宗は「晋書」において、愛好した書の名人の伝記の賛(末尾のコメント)を自ら著している。その名人の名を答えよ。

(3) 「両司馬」の作品のうち、一つは可馬遷の『史記』である。もう一つの作品名を答えよ。

(4) 梁啓超は、対立するかに見える儒教と仏教の発展に共通項があることを指摘し、六朝隋唐時代にはともに経典注釈が流行したが、宋代に入ると儒教では内容的な「新哲学」がおこり、仏教においてもある宗派が他を庄したとする。その宗派の名を答えよ。

(5) 梁啓超が重視した学問の一つが心理学である。たとえば、ヴェルサイユ条約締結の過ちには戦勝国の首脳の心理が作用したとしている。中国がこの条約に調印できなかった国内事情について簡潔に述べよ。

(6) この石窟はインドの仏教美術の影響も受けている。当時、インド北部を支配していた王朝の名を答えよ。

(7) 元代にイスラーム圏の天文学を取り入れて暦を作ったのは誰か。

(8) 康煕帝の時代にロシアとの間で締結された条約名を答えよ。

(9) 外国人殺害がおきた、南海交易の中心部市の名を答えよ。

(10) フランスで中国研究が盛んになったのは18世紀以降である。盛んになった理由を簡潔に述べよ。

(11) 隲蔵は実例を挙げていないが、康煕帝の時代に南方で起きた出来事に際しての清と朝鮮の関係が、朝鮮史料に豊富に残されているということがある。その出来事とは何か。

B 現在エジプト国民の約1割がキリスト教徒とされ、その起源は非常に古い。キリスト教は3世紀頃までにローマ帝国全土に広まり、エジプトにおいても4世紀末の国教化以前から優勢となっていた。ところが、451年の[  d  ]公会議で単性論や(12)ネストリウス派の主張が退けられると、エジプト・シリアなどで反発がおこった。(13)離脱した者たちは独自に教会を組織し、エジプトにはコプト教会(コプト正教会)が生まれた。コプトとはエジプトのキリスト教徒を指す言葉である。その後コプト教会はときに東ローマ帝国から弾圧された。
 7世紀前半アラビア半島におこったイスラーム国家は、政治力・軍事力を強めて領土を拡大し、第2代正統カリフ[  e  ]の指揮下に(14)エジプト・シリア・イラクを征服して軍営都市を建設した。このときエジプトやシリアのキリスト教徒からは激しい抵抗はなかったという。追害を受けていたコプト教会の信徒たちはイスラーム教徒の支配下で「啓典の民」として安定した法的地位を得ることになった。その後エジプトはウマイヤ朝、アッバース朝、(15)アッバース朝から事実上独立した諸王朝に支配されてイスラーム化が進行し、10世紀後半には(16)シーア派を奉じるファーティマ朝の支配を受けることになった。ファーティマ朝はキリスト教徒やユダヤ教徒に対しておおむね寛容であった。
 12世紀後半にファーティマ朝を滅ぼした[  f  ]朝はスンナ派を復興するとともに十字軍に反撃し、1187年イェルサレムを奪還した。この時期を含む、十字軍とイスラーム勢力との長期的な戦いは、イスラーム王朝の下でときに弾圧されてきたコプト教会の立場をさらに苦しいものとした。13世紀半ばエジプトに侵入した十字軍は、[  f  ]朝にかわったマムルーク朝によって撃退された。このとき頭角を現わした[  g  ]は、(17)1260年モンゴル軍をやぶった後に即位し、マムルーク朝繁栄の礎を築いた。
 16世紀前半にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国の支配下では、納税を条件にキリスト教徒やユダヤ教徒に慣習と自治が認められた。しかし、この頃すでにコプト教会信徒の人口は、現在と同じくエジプトの総人口の1割程度となっていたようだ。オスマン帝国では強力な中央集権体制がとられたが、18世紀までには[  h  ]制(軍事封土制)が徐々にくずれまたエジプトほかの属州に中央権力が及びづらくなった。(18)18世紀のアラビア半島では預言者ムハンマドの教えに立ちかえる運動や神秘主義教団の改革運動がおこり、19世紀後半にはイスラーム圏全域に広まった
 1805年エジプトではムハンマド=アリーがオスマン帝国から総督に任命された。(19)彼は対外的な軍事行動でオスマン帝国の要請に応える一方、国内では近代化政策をおしすすめた。エジプトは近代的な世俗国家への道を歩み始め、コプト教会の信徒たちはその後アラブ民族運動に積極的に貢献した。


(12) (ア) これに先立つ431年の公会議では、ネストリウスが異端とされた。この公会議はどこで開かれたか。都市名を記せ。

(イ) その後ネストリウス派はある王朝の下で活動し、メソポタミアで勢力を拡大した。この王朝の名を記せ。

(13) このような教会は、エジプト・シリア以外でも組織された。かつてソ連に属し、現在、教会の総本山の建造物・遺跡で有名な地域はどこか。現在の国名で記せ。

(14) この頃の征販活動にともなう軍営都市を意味したアラビア語の単語を記せ。カタカナ表記でよい。

(15) アッバース朝のトルコ系軍人がエジプトでトゥールーン朝をおこした頃、中央アジアにはイラン系の王朝が成立した。この王朝の名を記せ。

(16) ファーティマ朝はシーア派の中のイスマーイール派に属したが、現在シーア派最大の宗派は何か。その名を記せ。

(17) このときイル=ハン国君主フラグはモンゴル帝国皇帝の死去にともない前線を離れていた。死去したモンゴル帝国皇帝は誰か。その名を記せ。

(18) 19世紀前半にメッカで創設され、のちにリビアに進出して植民地支配への抵抗の核となった神秘主義教団は何か。その名を記せ。

(19) (ア) ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に応じてアラビア半島に出兵し、1818年ある王国を一度は滅ぼした。その王国の名を記せ。

(イ) 1839年オスマン帝国でも近代化改革の指針となるギュルハネ勅令が出された。このときのオスマン帝国皇帝の名を記せ。

3(20点)
 社会主義世界は、1980年代に経済面および政治面で大きな変革をせまられた。ソ連、東欧諸国、中国、ベトナムにおける当時の経済体制および、政治体制の動向を、それらの国・地域の類似点と相違点に着目しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

4(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(16)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答楠に記入せよ。

A 歴史上において、人はしばしば集団をなし、大規模な移動を行ってきた。西洋の前近代においても、移動の顕著な例がいくつも見られる。それらには、強力な武器を持った戦士集団が周囲に拡大するように移動した事例が含まれてはいるものの、生命の安全と生活の糧を得るためにやむなく集団で移動するに至った、近代以降の移民や難民に似た事例も少なくない。
 西洋史上で注目される最初の大規模な移動として、前2000年頃より北方からバルカン半島に南下したギリシア人のケースをあげることができるだろう。彼らは(1)ミケーネ文明の担い手となり、(2)さらに東地中海地域に広く分布して、ポリスと呼ばれる独自の都市国家を多数形成した。また、西方のイタリア半島にも前1000年頃に古代イタリア人が南下したが、その一部であるラテン人がテヴェレ川の河畔に建てた(3)都市国家ローマが、やがて帝国を築くに至った。
 こうした地中海周辺地域での動きとは別に、アルプス山脈の北側では別の移動があった。ヨーロッパの中央部では、前8世紀頃から鉄製の武具を装備した戦士集団が拡大するように東西に移動し、西はイベリア半島、東は小アジアまで達した。彼らは[  a  ]人と総称されるが、前1世紀にローマがアルプス山脈の北にも征服を進めると、ガリア地方に居住する[  a  ]人はその支配下に組み込まれ、次第に同化した。しかし、(4)彼らと接してその北東のゲルマニアに住んでいた人々は、一部はローマ帝国の支配下に置かれたものの、多くは帝国の外に居住し、ローマと交易をしたり、掠奪のために帝国領に侵入したりした。
 4世紀後半になって、東方から[  b  ]人の移動に押されたゴート人が、生命の安全と生活の糧を求めて移動を開始し、ローマ帝国に救いを求めて376年にドナウ川を渡った。しかし、帝国領に入った人々に対してローマ帝国側が苛烈な敢り扱いをしたため、(5)移住者たちは反乱を起こて、ローマ軍を撃破し、皇帝を戦死させるに至った。これ以後、ゲルマニアやその東方に居住していた人々が集団をなして続々と西へ移動を始め、5世紀になるとローマ帝国の西半は大混乱に陥った。
 この大移動の結果、長らくローマ帝国統治下にあった西ヨーロッパでは、政治秩序が大きく変化した。(6)イタリアは東ゴート人が統治する国となり、イベリア半島には西ゴート人が王国を建てた。アルプス山脈の北でも、[  c  ]人の諸集団が(7)ク口一ヴィスによって統合されてガリア北部に王国を形成し、さらに南へと勢力を拡大していった。ブリテン島では、口ーマ帝国の支配が終わった後、島外からの来襲が繰り返されるようになり、アングル人やサクソン人の定住と支配が進んでいった。
 こうした古代の終焉期の大規模な移動によって大きく変化した陸ヨーロッパは、9世紀初めに(8)カール大常によってその大部分が統一された。(9)大帝は、数世紀前よりヨーロッパ中央部に移動して強勢をなしていた遊牧民を制圧してもいる。しかし、この頃、新たな移動が本格化した。ユトランド半島やスカンディナヴィア半島を本拠とするノルマン人は、8世紀後半からヨーロッパの各地に来航し掠奪や交易を行っていたが、次第に内陸部に到達するとともに、定住を開始し、閤家建設も始めたのである。そして、西北フランスにノルマンディ一公国を建て、イングランドをも征服した。シチリアにも王国を建て、ロシアにノヴゴロド国、次いで(10)キエフ公国を建てた。


(1) ミケーネ文明の実態を知ることができるようになったのは、出土した粘土板に書かれた文字をイギリスのヴェントリスらが解読したからである。この文字は何と呼ばれているか。

(2) ギリシア人は方言の違いからいくつかの派に分けられるが、アテネを築き、小アジアの西岸にもポリスを数多く建てた一派は何人と呼ばれるか。

(3) 都市国家ローマは、その初期、イタリア半島の先住民の王によって支配されていた。ローマの国家形成や文化に大きな影響を与えたこの先住民の名を記せ。

(4) 口ーマ人の記録によれば、ゲルマニアの往民は、集団にとって重要な決定をある機関で行っていた。その機関の名を記せ。

(5) この皇帝の敗死後に即位し、ゴート人を帝国領内に定住させて混乱を一時的に収めたローマ皇帝は、キリスト教を帝国の国教とする政策も実施した。この皇帝の名を記せ。

(6) イタリアに進撃して東ゴート人の王国を建てた王は、口一マ帝国の統治と文化の継承をはかったとされる。この王の名を記せ。

(7) クローヴィスが行った宗教的な措置は、その後の[  c  ]人の国家発展の基礎となった。この措置の内容について、簡潔に説明せよ。

(8) カール大帝は、広大な領土を集権的に統治するためにどのような行政上の措置をとったか。その内容を、役職名を示しつつ、簡潔に説明せよ。

(9) この遊牧民の名を記せ。

(10) キエフ公国に最盛期をもたらしたウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とし、ある国の専制君主政治をまねた。ある国とはどこか。

B 16世紀以降、バルト海周辺地域の覇権をめぐって諸国の争いが繰り返された。

 スウェーデンとデンマークの対立によってカルマル同盟は解体し、両国はともにルタ一派を受容しつつ戦争を続けた。[  d  ]を中心都市とする(11)ドイツ騎士団」領でも、騎士団総長がルタ一派に改宗し、1525年にプロイセン公としてカトリックのポーランド国王に臣従した。さらに16世紀後半には口シアも、バルト海への出口を求めて争いに加わった。
 1625年、デンマークは三十年戦争に参戦したが、神聖ローマ帝国の皇帝軍に敗北した。(12)スウェーデンは1630年に参戦し、フランスと同盟を結んで皇帝軍を破った。スウェーデンはデンマークとの戦争でも勝利を重ね、17世紀後半には「バルド海帝国」と呼ばれる権勢を誇った。
 1700年からの北方戦争では、デンマーク、ポーランド、ザクセン、ロシアが同盟してスウェーデンと戦った。スウェーデン国王カール12世は各国の軍を撃破したが、1709年にウクライナのポルタヴァでロシア軍に敗れ、南に敗走して[  e  ]に亡命した。ポーランドやロシアと対立していた[  e  ]は翌年にスウェーデン側に立って参戦するが、スウェーデンの劣勢を挽回するには至らなかった。その後、ロシアによる黒海沿岸の[  f  ]併合に[  e  ]が抗議して1787年にロシアと開戦すると、翌年にはスウェーデンもロシアに宣戦布告している。
 北方戦争の結果、口シアは今日のエストニアとラトヴィアの一部を獲得した。戦争中にロシアは新首都ペテルブルクをバルト海沿岸に建設し、バルト海経由の交易を増大させた。また、1701年にプロイセン公国は王国に昇格したが、国王フリードリヒ1世は[  d  ]で戴冠式を挙行している。その後、ポーランド分割でロシアはリトアニアなどを、プ口イセンは港湾都市[  g  ]などを獲得した。ロシアの発展にバルト梅沿岸在住のドイツ人が大きく関与するようになり、また、(13)プロイセン領[  d  ]の大学からは重要な思想家や作家が輩出した
 (14)1756年に始まる戦争で、スウェーデンは当初中立を保ったが、イギリスによる中立国船舶の掌捕(だほ)政策に抗議し、デンマークとともに武装中立を提唱しのちに対英戦争に参戦した。(15)1780年の武装中立問盟の結成も、1778年にスウェーデンが戦時中の中立国船舶の保護を訴えたことに端を発している。これは国際法における中立国の権利に関する考え方を発展させるきっかけになった。
 フランス革命勃発後、スウェーデンとロシアは革命の波及を恐れ、ともに1805年の第3回対仏大同盟に参加したが、口シアはナポレオン軍との戦闘で敗退を重ね、1807年にフランスと講和を結んだ。その後ロシアは一転してスウェーデン領[  h  ]に侵攻し、[  h  ]は1809年にロシア皇帝が大公を兼任する大公出となった。
 ナポレオンの没落以降、第一次世界大戦までバルト海沿岸をめぐる大きな国境の変更はなかった。(16)第一次世界大戦に際しスウェーデンは中立を維持したが、バルト海南岸はロシアとドイツの戦場となった。口シア革命が勃発すると、バルト3国は口シアから独立した。独立を回復したポーランドも、いわゆるポーランド回廊でバルト海に接することとなり、また[  g  ]は自由都市となった。ドイツ系住民が大多数を占めていた[  g  ]のドイツへの返還要求が、ドイツのポーランドに対する宣戦布告の名目のーつとなった。
 1939年、ソ連は[  h  ]に侵攻し、1940年にはバルト3国を軍事的圧力のもとに併合した。翌年からの独ソ戦でバルト3国の住民は両陣営に分かれて戦うこととなった。[  d  ]とその周辺は、大戦末期の凄惨な包囲戦と戦後のドイツ系住民追放を経てソ連領となり、市名もカリーニングラードと変えられた。


(11) ドイツ騎士団がこの地域の植民を進めたのは、13世紀前半以降である。12世紀末の結成当初の活動目的を答えよ。

(12) スウェーデンとフランスとの同盟は、三十年戦争の性格の変化を端的に示しているといえる。なぜそのようにいえるのか、簡潔に説明せよ。

(13) この大学の総長も務め、『純粋理性批判』などを著した哲学者の名を記せ。

(14) (ア) この戦争の名称を記せ。
(イ) この抗議の思想的根拠として、17世紀オランダの法学者の議論が参照された。『海洋自由論』などを著したこの法学者の名を記せ。

(15) 中立国船舶の航行の自由などを宣言した1780年の武装中立同盟は、誰がどのような目的で提唱したか、簡潔に説明せよ。

(16) (ア) 第一次世界大戦の開戦当初は、多くの国が中立を宣言したが、その後いくつかの国が参戦に転じた。1917年に参戦した国名を一つ挙げよ。

(イ) その後もスウェーデンは独自の外交政策を展開した。スイスは19世紀に国際会議で永世中立を認められている。この会議の名を記せ。

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第1問
 問われているのは「匈奴について、中国との関係を中心にしつつ」と、時間は「前3世紀から後4世紀初頭」という容易なものでした。容易なので余り差がつかないものでしたが、きっちりこの関係史をつづると300字オーバーになりそうな問題です。
 前3世紀は始皇帝による中国統一の世紀(前221)ですが、予備校の解答例には前6世紀からあるスキタイの影響を書いたものもあり、これは特に書かなくてはならないデータではありませんでした。「中国との関係を中心に」とあるので、これに集中すべきでしょう。
 前3世紀は統一前の戦国時代の末期でもあり、七雄の北部に位置していた燕・趙・秦はみな匈奴との騎馬戦に備えなくてはなりませんでした。趙がいちばん早く匈奴式の服装「胡服騎射」を採用したことでも知られています。この胡服騎射は、明治天皇が「服制を改め風俗を一新し尚武の国体を立てる」むねの勅諭を出した、とのことですが、この際に議論を主導したのが副島(そえじま)種臣で、この胡服騎射の故事を引き合いに出したらしい(http://www.yohfuku.or.jp/history1.html)。まさに匈奴らしくズボンをはいて「尚武の国体」侵略国に変貌する転機でした。
 長城はなにも匈奴対策が唯一の目的ではなく、七雄同士の戦いの中で各国が造ったものでした。始皇帝は国内の統一を実現すると、匈奴対策にならない長城を壊し、北方の長城だけ残し連結します。当時の長さで「万里」あるようです。
 黄河の中国側のオルドス(河套、かとう)に匈奴が住んでいるので、蒙恬(もうてん)を派遣し、河を越えた北のゴビ砂漠に追いやり、次の戦いに備えて直道(じきどう)という対匈奴の軍事専用道を築いています。
 しかし始皇帝が死ぬと陳勝呉広の乱と同年の前209年(『世界史年代ワンフレーズnew』では「ブ2レ0ーク9する」の語呂)に冒頓単于が父を殺して即位します。こんどは匈奴側の復讐です。西域・オルドスに侵入します。東胡・月氏を合わせて全モンゴル地域を征圧しました。
 前200年に前漢高祖は32万の大軍を率いて匈奴に攻勢をかけました。しかし平城(山西省大同)郊外の白登山で40万の匈奴騎兵部隊の包囲攻撃をうけ、7日間の攻防の末、屈辱的な和議を結んで脱出できました。和議とは、漢から公主をおくる、毎年、絮(わた)・繪(かい、刺繡のある衣、絹織物)・酒・米その他の食料を与える、両者は匈奴を兄とし漢を弟とするという、11世紀初めの宋兄遼弟を逆転させたような匈兄漢弟の関係でした。これが和親策と呼んでいるものの内容です。
 これを七代目の武帝が積極策という軍事行動に転換しました。まず偵察と外交のため張騫を派遣しましたが成功せず、帰国が遅すぎて待ちきれず、衛青・霍去病ら、武帝が愛した貴妃たちの親族に戦闘行動を起こさせ、西に河西四郡、北に朔方(さくほう)郡を設置することに成功します。
 しかし漢も匈奴も疲れ果て、前60年頃、匈奴には内紛が起こって5人もの単于が立ち、残った二人の単于(東西分裂)のうち東の呼韓邪(こかんや)単于が漢の保護を受けることになりました。もう一方の西単于は漢軍に撃たれ、呼韓邪はオルドスに帰還して再びモンゴルに統一をもたらしました。後に公主・王昭君をもらうことになります(前33)。
 紀元後の48年に東匈奴は南北に分裂し、東西分裂のときは東が、こんどは南が中国に服属します。どちらも中国に近い方が服属しています。北匈奴は鮮卑や南匈奴との戦い、さらに後漢班超の征討軍に追い立てられ、西走して2世紀にはヴルガ・フンとなり、4世紀にはゲルマン大移動を起すことにつながりました。
 残った南匈奴は西晋の混乱から八王たちは匈奴他の騎馬兵を雇って軍の強化につとめたため、五胡たちの台頭の契機となりました。そのうちの匈奴で漢の外甥として劉氏を称した匈奴は、永嘉の乱をおこして西晋を滅ぼし、漢国(後の前趙)を建てました。五胡十六国時代の劉氏の他に、北涼の沮渠氏、後趙の石氏らは南匈奴の出身です。

第2問
 今年は第2問と第4問が難化しました。京大らしくない瑣末な問題を問うています。試験も教育の一環であることを忘れたようです。
A
 下線設問(1) 「史料の欠乏は清代ほど甚だしいものはない……そうなった理由」というのですが、変な問いでもあります。考証学という史料を重んずる学問の時代が清朝だったことを想起すると、この問いでいいのか、と思ってしまいます。清朝憎しの梁啓超のプロパガンダか、と疑ってしまいますが、文字の獄を答えざるを得ません。どの王朝でも中国は思想統制をしてきているので、清朝だけに限ったことではないし、清朝の検閲の範囲がどのようなものか、相当詳しいひとでないと分からないことですね。
 空欄a ヒントは後の「王朝史(断代史)」です。司馬遷の紀伝体を踏襲しながら、司馬遷とちがい前漢一代史を書きました。この一王朝史を書くスタイルがこれから正史(国定史書)に受け継がれます。
 設問(4) 「宋代に入ると儒教では内容的な「新哲学」がおこり、仏教においてもある宗派が他を圧したとする。その宗派の名を答えよ。」は教科書(詳説)に「宗教では禅宗が官僚層によって支持され」たものです。京大では朱子学のことを「新」哲学、「新儒学」とも呼ぶのは仏教が入り込んできたからでした。
 設問(5) 「条約に調印できなかった国内事情」は日本が第一次世界大戦に火事場ドロをした地域と、戦争中に袁世凱につきつけた二十一カ条要求の廃止を学生・市民は求めていました。
 設問(6) 「仏教美術の影響」とされているのは、仏像の光背に描かれた炎の文様です。
 空欄b 「三十年前に外務省にあたる[  ]から借覧した」のうち「三十年前」に意味はありません。中国で外務省にあたるものは3つあります。古いのでは礼部、藩部だけの理藩院、1860年にできた総理各国事務衙門(総理衙門)です。このうち「借覧した」内容が「康熙帝の時代」とあれば、礼部です。ネルチンスク条約のときに総理衙門はまだありませんから。
 設問(9) 「黄巣軍の外国人殺害がアラビア語の記録……外国人殺害がおきた、南海交易の中心部市」はアラブ人が来ている都市です。史料は阪大の過去問にありました(2002)。

次に掲げる資料は、ペルシア湾岸のシーラーフ出身の文人、アブー・ザイドが著した『シナ・インド物語第二巻』の一節である。これを読んで、以下の設問に答えよ。
 ( A )という名の人物が、王家の出身ではなく、彼ら[民衆]のあいだから起って旗揚げした。この男は、はじめ狡智と義侠心で世に認められ、やがて武器をとり、掠奪を行ない、多くの不逞の徒が彼のまわりに集まってきた。ついに彼の勢力は強大となり、その数は増加した。このようにして、彼の野望は強く広がり、あまたあるシナの町のなかで、ハーンフーに進撃するようになった。ハーンフーは、アラブ商人たちが赴く町で、海から数日の距離に位置し、大河の岸にある。そこで、その水は淡水である。町の住民は抵抗したので、この男は長期間この町の住民を包囲攻撃した。この事件はヒジュラ暦(ヒジュラを元年とする暦)二六四年に起ったことである。
(藤本勝次訳『シナ・インド物語』関西大学出版広報部、一九七六年、三三頁より)

 この史料の中の「ハーンフー」が広東(広州)です。「……営んでいたイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、合わせて12万人を彼は虐殺したとのことである。虐殺されたこれら4つの宗教の信者数が正確に知られているのは、シナ人が彼らの〔頭〕数で課税しているからである」とあります。
 設問(10) 「フランスで中国研究が盛んになったのは18世紀以降である。盛んになった理由」の18世紀は啓蒙思想の盛んな時期ですが、その刺激はイエズス会士たちが「中国通信」として中国の報告を出しいたからでした。
 設問(11) 「康煕帝の時代に南方で起きた出来事」とあり、康煕帝が自治国の三藩の「乱」を鎮圧して満州人支配を完成したことは教科書の知識として、「清と朝鮮の関係」がひっかかります。要するに服属したている朝鮮と三藩という自治国は同じではないか、という「皮肉」なのでしょうか?

B 空欄d 「単性論」を異端にした公会議は細かいですね。
 設問(12)(イ) 「ネストリウス派はある王朝の下で活動し、メソポタミアで勢力を拡大した。この王朝の名」という問い。ローマ帝国の周辺だということは分かりますが、「ある王朝」となると帝国の周辺に現れ帝国の脅威となったペルシアの王朝です。用語集のネストリウス派のところに「エフェソス公会議で異端とされたキリスト教の一派。ササン朝を中心に東方に伝わり、唐代の中国では景教と呼ばれた。」と説明があります。
 設問(13)(ア) 下線部「離脱した者たちは独自に教会を組織し」も細かい問いです。条件は「エジプト・シリア以外」でソ連領内だった、ということ。用語集の「単性論」には「単性論を信奉する人びとの集団。カルケドン公会議で異端とされたが、6世紀以降、コプト教会(エジプト)・シリア教会・アルメニア教会などを建て、イスラーム勢力の伸張後も独自の活動を展開した」とあります。出題者は凝り過ぎですね。「教会の総本山の建造物・遺跡で有名な地域は」とは修道院のことですが、しかし日本で「有名」ですかね?
 空欄e ウマル、オマルですが、これも細かい人名です。イスラーム史の専門家がいる慶應大がよく出す問題です。用語集(最新版)の頻度で2。
 設問(14) ミスルも細かい。カイロの基になったフスタートが知られています。
 設問(15) 「トゥールーン朝」自体が細かいですが、「アッバース朝……イラン人系の王朝が成立」とあれば、アッバース朝が衰退する9〜10世紀頃だと推測ができたらしめたもの。センター試験でも出るイラン人の王朝とあれば、サーマン(サーマーン)朝とブワイフ朝です。前者が早い(『世界史年代ワンフレーズnew』では「サーマン、花87よ4」という語呂)。
 設問(16) 「現在シーア派最大の宗派は何か」とはイランの宗派は何か、という問いでもあります。イラク南部にも多数のこの派の人たちがいます。十二(12)イマーム派です。これも細かい。頻度1。
 空欄g これも細かい。センター試験では出ないような人名です。頻度2。
 設問(17) 下線部「1260年モンゴル軍をやぶった」時点でフラグが留守で、それはハンが死んだからだ、それは誰、という問いです。これも細かい問い方。フラグはモンケ=ハンやフビライ=ハンの弟になります。
 設問(18) 「19世紀前半にメッカで創設」という新しい教団で、リビア王国を創設します。サヌーシー教団は頻度2。これもまた細かい。
 設問(19) (ア) 「ムハンマド=アリー……ある王国を一度は滅ぼした」というイブン=アブドゥル=ワッハーブがおこした、彼の名のついた王国です。
 (イ) 「1839年……ギュルハネ勅令……オスマン帝国皇帝の名を記せ」これは別名タンジマートと呼んでいる改革で、「ジ……ト」の付いたスルタンです。アブドゥル=メジト1世。ミドハト憲法のときのアブデュル=ハミト2世と間違わないように。
 この第2問Bの難易度を「標準」と分析した予備校がありますが、節穴ですね。それより京大はこの出題者を来年から追放せよ。

第3問
 これは比較の問題でした。次の解答文が「類似点と相違点に着目しつつ」書いた答案かどうか検討してみてください。

ソ連では共産党独裁下で経済が行き詰まり、1985年に登場したゴルバチョフがペレストロイカによる市場経済の導入と政治体制の改革を始めた。東欧諸国では以前からポーランドの「連帯」による運動など、社会主義に対する反発が高まっており、ソ連の改革に後押しされ民主化運動が高揚した。その結果、東欧諸国では1989年に相次いで一党独裁が崩壊し、市場経済と議会制民主主義に移行した。中国では鄧小平による改革・開放路線が進められ、社会主義市場経済が行われてきたが、1989年の天安門事件で民主化を求める運動を弾圧し、共産党独裁が続いた。ベトナムもソ連・中国の改革の影響でドイモイにより市場経済が導入されたが、一党独裁は維持された。

 さて、ソ連の改革がまず書いてあり、「ソ連の改革に後押しされ民主化運動が高揚した。その結果、東欧諸国では……一党独裁が崩壊し、市場経済と議会制民主主義に移行した」というのは正しい内容ですが、さてソ連共産党も崩壊したのかどうか明解に書いてありません。下の中国とベトナムは「共産党独裁が続いた……一党独裁は維持された」と書いてあります。
 またソ連も「民主化運動が高揚した」のかどうかも分かりません。「ゴルバチョフがペレストロイカ」とは上からの改革ですね。政府主導なら東欧の民主主義運動は、下からの運動なのでソ連との「相違点」のはずですが、それも特に指摘してありません。またソ連は民主化したのでしょうか? 当のゴルバチョフ自身が2011年に「ロシアの民主主義は中途半端」と批判しています(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5594)。旧ロシア共産党(現・ロシア連邦共産党)は1995,96年の下院選挙で第一党になっていて、その勢いは衰えていません。いまはプーチンの保守的な「統一ロシア」という与党に接近しています。「1980年代……動向」とあるので、最近のことは書かなくてもいいのですが、ペレストロイカが徹底していないことは否めません。
 中国も「天安門事件で民主化を求める運動」があった点は東欧との類似点ですが、東欧はそのまま突き進みましたが、中国のは弾圧された点は東欧との相違点になります。ベトナムにおける運動は知られていません。ソ連と同様に上からの改革である点が類似点です。4つも比較させる問題なので、三つが類似、一つが相違という場合もあります。この問題の場合、とくに東欧の相違が際だっています。

第4問
A
 設問(1) 「ヴェントリスらが解読した……文字は何と呼ばれているか」で線文字Bですが、「Bビエントリス」と覚えるといいです。
 設問(2)〜(7)(9)(10) 容易。
 空欄a〜c 容易。
 設問(8) 「カール大帝は、広大な領土を集権的に統治するためにどのような行政上の措置をとったか。その内容を、役職名を示しつつ、簡潔に説明せよ」でした。教科書(詳説)の文章そのまま引用すれば「カールは広大な領土を集権的に支配するため、全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の長官である伯に任命し、巡察使を派遣して伯を監督させた」が解答文です。この後の文章「こうしてフランク王国は、ビザンツ帝国にならぶ強大国となった」は誇張としか言いようがありません。ルーブル美術館にカールの騎馬像がありますが、あれは誰も皇帝という存在は知らないから、「わしが皇帝じゃーッ」と宣伝しないといけなくらい無名の存在であることを示しています。伯(グラーフ)や巡察使(ミッシ)はカールに協力してくれた地方の有力者に褒美として職名を与えたのであり、アーヘン宮廷から派遣した官僚ではありません。だいたい「皇帝」位はカールの側が東の皇帝に認めてもらったと錯覚しているようです(渡辺金一『中世ローマ帝国』岩波新書、p.64)。またカール1世の死後、帝国はまたたくまに分裂することでも「帝国」支配が偽装であったことを明らかにしています。

B 
 空欄d 「ドイツ騎士団」正式名ドイツ騎士修道会の首都を問うた奇問。用語集頻度ゼロ。
 設問(11) 「ドイツ騎士団……結成当初の活動目的」は東京書籍の教科書の注に「聖地の守備や巡礼者の保護のために結成された」と書いています。
 設問(12) 「スウェーデンとフランスとの同盟は、三十年戦争の性格の変化を端的に示しているといえる。なぜそのようにいえるのか」とあり、スウェーデン他の北欧諸国がみなルター派であることを知っていても、またフランスの参戦理由(領土・ハプスブルク家没落)を知っていても書けます。
 空欄e 「ウクライナのポルタヴァでロシア軍に敗れ、南に敗走」とあり、南の黒海周辺を支配した国を推理すればトルコ(オスマン帝国)が浮かぶはず。
 空欄f これも南の黒海周辺に突き出ている半島と周辺地域。エカチェリーナ2世が取ってセバストポリ軍港を築くことになります。
 空欄g いずれヒトラーが第二次世界大戦直前に要求する港湾都市、軍港でもあります。
 設問(13) この大学の総長も務め、『純粋理性批判』などを著した哲学者の名を記せ。……容易。「純粋」が付けばカント。
 設問(14) (ア) この戦争の名称「1756年に始まる戦争」とあるので、七年戦争ですね(『ワンフレーズ』の語呂は「七年、人1七7殺56す」)。
 (イ) 『海洋自由論』の著者は容易。
 設問(15) 問いは「武装中立同盟……目的」です。これも容易。
 空欄h ロシアの北の隣国。
 設問(16) (ア) 「第一次世界大戦……1917年に参戦した」のは、英国船ルシタニア号撃沈事件がおき、米国人128名が犠牲となったのがきっかけ。
 (イ) 「スイスは19世紀に国際会議で永世中立……会議」とはナポレオン戦争終結会議。