世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2006

第1問
 16世紀以来オスマン帝国領であった中東アラブ地域のうち、エジプトやクウェートは19世紀末までに英国の保護下に置かれ、第一次世界大戦後、残りの地域も英仏両国により委任統治領として分割された。やがて諸国家が旧宗主国の勢力下に独立し、ついにはその勢力圏から完全に離脱するに至った。1910年代から1950年代までの、この分割・独立・離脱の主要な経緯について300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(15)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A およそ300年間続いた唐は[  a  ]の乱によって実質的に崩壊し、節度使と呼ばれる軍閥が各地に割拠するようになった。 907年の唐滅亡後、(1)五代十国の分裂時代を経て、960年に宋が樹立された。宋は約20年をかけて[  b  ]を除く中国内地の統一を完成し、徹底した[ c ]によって唐末以来の軍閥勢力を抑圧することに成功するが、かえって軍事力の低下を招くことになった。また宋は北方のステップに興った契丹族の遼の軍事圧力によって11世紀初めには屈辱的な[ d ]を締結することを余儀なくされた。さらに東北地方に興った (2)女真族の金によって(3)都城開封府を攻陥され、華北全域を占領された。これ以後を (4)南宋という。南宋の初期には和親派の秦檜が主戦派の[ e ]らを排して金と和議を成立させ、(5)国境線の画定などにより、その後およそ150年間続く南宋の基礎を固めた。次いで南宋はモンゴル族に滅ぼされ、全中国がその支配下に置かれることになった。モンゴル族による元朝の統治下では西方出身の[ f ]が重用され、かれらは特に財政面で大きな役割を果たした。元代の財政や経済を支えた通貨は、 (6)古くからの伝統ある銅銭に替えて(7)紙幣を主要通貨とした。膨大な紙幣の発行を可能にした背景には、宋代以来の製紙業の発達と[  g  ]技術の普及があった。しかし元代半ば以降になると、放漫な財政運営に加えて、紙幣の発行が銅銭鋳造に比べてはるかに容易であることなどによって濫発されるようになり、元末には天文学的なインフレーションが生じて、(8)元朝滅亡の一因となった。
        

 (1) 五代最後の王朝の名を記せ。
 (2) 金では自国民の女真族を独自の軍事・行政制度に編成した。この制度の名を記せ。
 (3) この事件の名を記せ。
(4) 南宋は臨安府を仮の都とした。この都市の現代名を記せ。
(5) 国境線とされた河川の各を記せ。
(6) 中国での銅銭の形態上でのモデルとなった秦の始皇帝の時に用いられた円形方孔の統一貨幣の名を記せ。
(7)元の紙幣の名称を記せ。   
 (8) 元朝滅亡の大きな原因となった反乱を何と呼ぶか。

 清朝は、一方では満州族(女真族)、および早期に帰順した[  h  ]族と(9)漢族の一部を、社会組織兼軍事組織たるハ旗に編成し国軍の中核に置いた。他方では旧明朝の漢人部隊を再編成した[ i ]を各地に配し治安維持等の任務に当たらせた。その軍事力を背景に、康煕帝は自ら大軍を率いて当時急速に勢力を伸ばしていた[ j ]軍を破り外モンゴルなどを領土に収め、また乾隆帝は更に大規模な遠征軍を派遣し(11)東トルキスタン地方をもその支配下に入れた。                  
 しかし、清代後期になると、八旗の部隊は商品経済の庫展に伴う一般満州族の生活困窮化により、また漢人部隊は兵の質の劣化により、いずれも次第に弱体化してゆく。 18世紀後半以降、農民反乱が頻発し、これら正規軍の無力が露呈すると、在郷知識人や地方官たちは、郷村自衛の必要に迫られて、農民・遊民を集やた義勇軍だ弔[  k ]を各地で独自に組織するようになる.その方式はやがて清朝国家自身によって広く承認・推奨されるに至り、19世紀半ばに全国を揺るがした (12)太平天国の動乱の時期ヒぽ、[ I ]が郷里・湘南省で組織した湘軍などが、かえって(13)清朝側軍事力の中核として働いた
清末には、清朝自らが[  m  ]と総称貪れる西洋式軍隊を創建する。しかし、清朝にとっては不本意なことに、これらの将兵の中にも革命思想は浸透し、1911年10月に[  n  ]省の軍内の一部将兵が武昌で起こした武装蜂起が革命の幕を開いた。そして最後に北洋軍を率いる袁世凱が革命派と手を結ぶことによって清朝は終わりを告げる。
 清朝崩壊後も、それら各地の軍隊の多くは、指揮官であった旧清朝高官の私兵として生き残り、(14)今度は軍閥として新生中華民国の統一を妨げることになる。そこで初期には軍閥の一部と手を組んで革命を目指した孫文たちも、1924年の中国国民党一全大会で、中国共産党との提携(第1次国共合作)を決定し、これを背景にして[  o  ]軍が成立する。この軍隊は1926年に蒋介石を総司令として北方諸軍閥打倒のための進軍(北伐)を開始する。しかし翌1927年にはその蒋介石が起こした反共クーデタにより国共の合作は早くも崩れ、中国共産党も労働者農民を基盤とする新しい革命軍の組織に着手し、これが後に紅軍となる。その後の中国近代史は、(15)の二つの党の協同と対抗を基軸にして進むことになる


(9) 清朝は、初期に投降し中国平定に積極的に協力した一部の明の武将に、藩王という高い位を与え南方各地の支配を任せた。雲南の藩王に封じられた人物の名前を記せ。
(10) 明朝では兵役は世襲の軍戸によって担われた。それら軍戸が配属された各地の軍営を何と呼ぶか。その名称を記せ。
(11) 清朝は征服後にこの地を何と呼んだか。その呼称を記せ。
(12)後に太平天国の指導者となる洪秀全が、それに先だって組織したキリスト教的色彩を持つ宗教結社の名前を記せ。
(13)太平天国軍の鎮圧には、西洋人を指揮官とする「常勝軍」も加わった。「常勝軍」の創設者であるアメリカ人の名前を記せ。
(14)袁世凱の後継者の一人で、安徽派と呼ばれる軍閥の首領となった人物の名前を記せ。
(15) 紅筆は、1937年に第2次国共合作が成った後、蒋介石の統一指揮下に入り抗日戦の一翼を担う。その中で華北に配置された部隊の名前を記せ。

第3問
 ベルギーの中世史家アンリ・ピレンヌは、古代の統一的な地中海世界が商業交易に支えられて、8世紀まで存続したと考えた。しかしこの地中海をとりまく地域の政治状況は、8世紀以前、古代末期から中世初期にかけて大きく変化した。紀元4世紀から8世紀に至る地中海地域の政治的変化について、その統一と分裂に重点を置き、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B、C)の[    ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 14世紀の半ば、ヨーロッパを広く襲った疫病の流行によって、イギリスでも短期間に多くの死者が出た。流行が去った後に残されたのは、人口の減少による労働力の不足であった。直営地における労働を農奴に依存していた領主層にとってとりわけ危機は深刻であった。そのため賦役の強制や賃金の規制など(1)領主層による反動が一時的に見られたが、土地に縛りつけられていた農奴も移動の自由を得て、 (2)イギリスではこの世紀中に農奴身分は消滅に向かった
  農民の中には土地を集積して富裕になる者、また土地を失って零細化する者が現れた。(3)集団による共同耕作と、比較的均等な土地保有とに基盤を置いた伝統的な農業は、農村における階層の分化と競争の激化によって徐々に崩壊し始
めた。散在していた農民の保有地も一箇所に集中されることが多くなり、そのような土地では占有を示す指標として周囲に垣がめぐらされた。15〜16世紀に進行した囲い込みでは、労働力をあまり必要としない牧羊が主に行われた。囲い込みによって生計を失う農民も多く出て、 (4)人文主義者トマス・モアは、 「羊が人間を食う」さかさまの関係をその著書で指摘した。
  14世紀頃からイギリスでは輸出用の毛織物生産が増大していた。大陸の毛織物生産と対照的に、イギリスのそれは農村に展開した。そのため都市の[  a  ]の規制を受けることなく、価格を低く抑えまた需要に応じて生産を拡大することが可能で、順調に成長をつづけた。地主化した農民の中には、囲い込みによって原料である羊毛を確保し、同時に低廉化した労働力を組織して織布工場を経営するなどして大きな利益をあげ、さらに社会的な上昇をとげる者もいた。
 彼らや、土地を購入した商人、あるいは官僚として王権に協力し俸給を土地に投資した人々など、この時期に出現したジェントリと呼ばれる新しい地主層は、この世紀以降もさらに土地集積を重ね、地方行政や国政においても大きな権力を獲得して、この国の寡頭的な支配体制を築きあげることになる。一方17世紀後半における[   b  ]作物の導入に始まった農業の改良は、資本主義的な農業経営を導き、大規模な排水工事や土壌改良などを通じてさらに土地の収益性をあげることになった。 (5)18〜19世紀に実施された第2次囲い込みは、(6)穀物生産を目的としており、産業革命期の増大する人口に食糧を供給することを可能にした。


 (1) このような反動に抵抗して、14世紀中頃にフランス北部で、また世紀後半にイングランド南部で起きた反乱を、それぞれ何というか。
 (2) 近世に入って、ドイツのエルベ川以東では逆に農奴制が強化された。このような農奴制に基づいて行われた、この地域における大規模農業経営を何というか。
 (3) 中世西ヨーロッパに特徴的な、この農業における土地利用の方式を何と いうか。
 (4) 大法官であったトマス・モアは、国王の政策に反対して1535年に刑死した。この政策は何であったか。
 (5) 第2次囲い込みを、第1次囲い込みと比較した場合の、本文に述べた以外の特徴を記せ。
 (6)1815年に制定された穀物法には、安価な外国産穀物の流人をさまたげて、地主の利益をまもる狙いがあった。外国産殿物の流入が予測された理由は何か。

B 産業革命期の工業化は、欧米諸国の政治・経済・社会に大きな変動をひき起こした。 18世紀後半にいちはやく工業化を経験したイギリスでは、人口移動 の問題や新たに台頭した産業資本家の政治参加要求に対応するため、1832年に第1回選挙法改正が行われた。(7)この際に選挙権を与えられなかった労働者は、議会の民主化や男子普通選挙を求めて議会への請願を含む政治行動を起こしたが、要求を実現するには至らなかった。一方、1840年代には関税の引き下げが行われ、イギリスは自由貿易体制に向かったが、このことは海外における軍事力の行使を排除するものではなかった。たとえば、(8)イギリスはアヘン戦争を通じて中国に5港の開港を強い、列強による中国従属化の口火を切ったのである。
 フランスでは、七月革命後に工業化が本格化し、その過程で力をつけつつあった中小資本家と労働者の政治参加要求が強まった。 (9)二月革命は、このような政治参加要求の帰結であったが、臨時政府のもとで実施された男子普通選挙では農村部の支持を得た穏健共和派が勝利し、政府の保守化に不満をもったパリの労働者の蜂起は政府によって鎮圧された。やがて成立した第二共和政においては秩序の回復を標榜する保守勢力が優勢になり、さらに(10)大統領によるクーデタを経て、フランスは第二帝政の時代に突入していった。
 アメリカ合衆国では、(11)19世紀前半から工業化を進めた北部と.、奴隷制にもとづく農業を基幹産業とする南部との間に、利害対立が深まった。南北戦争の結果、奴隷制は廃止され、北部の利益に合致する強力な連邦政府が確立したが、(12)南部においては黒人を従属的な地位にとどめておく経済的な制度があらたに出現した。


 (7)この政治行動の名称を記せ。
 (8)(ア)この戦争の終結時に、イギリスと清の間に締結された条約名を記せ。
   (イ)(ア)の条約によって、清がイギリスに割譲した地名を記せ。
 (9)(ア)革命に際して亡命した国王の名前を記せ。
   (イ)革命が勃発した年に綱領として発表され、のちの社会主義運動に大きな影響を与えた著作の名称を記せ。
 (10) 大統領の名前を記せ。
 (11)アメリカ合衆国の通商政策をめぐる北部と南部の対立を、イギリスとの関係から説明せよ。
 (12)南北戦争後のアメリカ合衆国南部において,J黒人を土地に縛りつけるために導入された制度の名称を記せ。

 第一次世界大戦のさなか、ロシアで革命が起こり、ソヴィエト政権が誕生した。その中心となったのはレーニンが指導するボリシェヴィキで、 (13)1918年。大戦が終結するころには共産党の一党支配体制を作り上げた。社会主義社会建設の成否が先進資本主義国における革命にかかっているとみた彼は、(14)1919年にそれを促進するための機関を創設した。しかし、新国家の前途は内でも外でも多難であった。
  まず、ソヴィエト政権は国内の反革命勢力、およびそれと結びついた諸外国の武力干渉と戦わねばならず、経済は危機的状況に陥った。これを乗り切るためにとられたのが、 (15)戦時共産主義と呼ばれる政策である。だが、強権的な政策に対する農民らの反発は強く、外国の干渉が結局ほぽ失敗に終わったこともあり、レーニンら指導部は (16)1921年に自由主義経済の復活を一部で認め、国内の安定を図った。また翌年には、資本主義国との関係改善を目指してドイツとの間で友好関係を取り結んだ。
  1922年末、4つのソヴィエト共和国が連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ進)を形成し、やがて新たな指導者スターリンの一国社会主義論に基づく道を歩み始めた。 1928年からは、(17)重工業化の推進による社会主義社会の建設を目指し、農業面でも機械化とともに集団化が、抵抗を抑え込んで強力に推進された。
  1929年末から多くの資本主義国は世界恐慌の影響を受けて苦しむが、ソ連はそれを回避することができた。しかし、世界恐慌の深化やナチス=ドイツの出現でヨーロッパの情勢が緊迫すると、1935年、ソ連はその革命運動において(18) 共産主義の主要な敵はファシズムであるとする戦術を採用し、また同年、 (19)今度はフランスとの間に友好関係を強化する取り決めを結んだ。しかしドイツはこの関係を口実として、1936年、第一次大戦後に形成された (20)ヴェルサイユ体制の破壊をさらに進め、ヨーロッパの秩序は、混迷の産を深めた。


 (13) このときに排除された主要な政党の名を一つ記せ。
 (14) この機関名を記せ。
 (15) この政策の工業面、農業面それぞれの中心になったのはどのようなことか。
 (16) この年に自由化を求めて水兵・労働者が起こした反乱をなんと呼ぶか。
 (17) このために策定された政策の名称を記せ。
 (18) この戦術を何と呼ぶか。
 (19) 友好関係を定めたこの条約名を記せ。また、このときのフランス側の狙いは何か、簡明に記せ。
 (20) このときドイツが口カルノ条約を無視して進めた行動は何か。

………………………………………

コメント
第1問
 またイスラム史かいな、と中国史の古いところがこんどは絶対でるぞ、といわれて臨んだ受験生はがっくりきたかもしれない。実は文学部の歴史関係にイスラム史専門の研究室がある珍しい大学が京大なのです。そのホームページの口上には次のようなことが書いてあります。

 西南アジア史学──本研究室は、すでに故人となられた宮崎市定(東洋史学)、足利惇氏(梵語学梵文学)両教授らの尽力により、西アジア・中央アジアを中心とするイスラム世界の歴史と文化の研究・教育を推進するため、昭和44年(1969)に開設された。我が国の国公立大学には、このような内容を持つ研究室は、最近設置された九州大学のイスラム文明学科以外には他に存在しない。そのため、全国的にもユニークな研究室として注目されている。学会「西南アジア研究会」の事務局が置かれ、その機関誌『西南アジア研究』発行の中心としても機能している。

 また来年もイスラム史かいなあ、とおもっていると、中国史がでます。京大の過去問一覧をご覧になれば、けっこう出していることがわかります。イスラム恐怖症にかかる必要はありませんが、京大のことですから、出してもそれほどムズイ?イィィ ものはだしませんから。
 さて、問題の導入文には概略を記して、それを具体的に肉付けして説明せよ、というのが京大のいつもの問い方です。今年は「16世紀以来オスマン帝国領であった中東アラブ……離脱するに至った」という問題でした。その上で、時間の設定「1910年代から1950年代まで」がしめされて、この時期の「分割・独立・離脱の主要な経緯」を述べよ、というのです。そしていつものように「300字以内」で述べよ、という字数制限です。

1 地域  この問題の意外な穴は「オスマン帝国領であった中東アラブ地域」という地理の設定にあります。このオスマン帝国領であった地域のうち「エジプトやクウェートは……残りの地域も……」とあって大まかにヒントにもなる地域名もあげて問うています。  
 「オスマン帝国領であった中東アラブ地域」とはエジプト・クウェート以外に「残りの地域」とは何にあたるのでしょうか? ヒントになる「委任統治領」からはシリア・レバノン・イスラエル(パレスティナ)・イラク(メソポタミア)・ヨルダンが浮かんできます。しかしこれで「中東アラブ」のすべてではありません。他にサウディアラビア……エジプトの西のリビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコも入ります。これらはすべてアラブ人の血が混ざっています。
 教科書で「中東」とはどこかを書いたものがありました。三省堂の『詳解世界史』ではこう書いています、

中東・中近東:中東(MiddleEast)という言葉は、1902年にアメリカの退役軍人がペルシア湾を中心とするアラビアとインドのあいだの地域をこう称したことに始まる。その後、イギリスが第二次世界大戦にさいし、中東総司令部を設置してから一般化し、大戦後に国際連合により採用されて頻用されるようになった。今日では一般に、東はアフガニスタンから西はモロッコまで、北はトルコ共和国から南はスーダン、大サハラ地域までを称する……  

『平凡社百科事典』でも、

英語の Middle East またはフランス語の Moyen orientなどの地域概念に相応する訳語。東はアフガニスタン、イランから西はモロッコなど北アフリカの大西洋岸まで、北はトルコから南はアラビア半島全域ないしアフリカの角やスーダン、サハラ地域までを包含する地域を指す。(百科事典なんて、と馬鹿にするなかれ、だいたい百科事典はその道の権威が書くものです。かのBritannica もそうです)

 もちろん問題は「アラブ」とあるのでイランやアフガニスタン・トルコなどは度外視です。するとシリア・イラク南部から北アフリカの地域ということになり、これらはオスマン帝国領であった地域です。これらの地域の「分割・独立・離脱の主要な経緯」を書くことです。ただモロッコはアラウィー朝がオスマン領には入らず、第二次モロッコ事件(1911)とフェズ協定(1912)でフランス・スペイン領になったので、アラブ人の国とはいえ省かざるをえません。

 ネット内の解答で、サウディアラビア・リビア・チュニジア・アルジェリアについて言及したものがあるか見てください。ないでしょう? サウディアラビアぐらい書けよ、と言いたいところです(書いていたのはYだけでした)。もちろんアラビア半島の東岸も西岸もオスマン帝国領でした。サウディアラビアはアラブ人でない? アラブ人の先祖の先祖といっていいひとびとです。言い換えれば、現在、アラブ連盟に加わっている国々がそうだともいえます。サウディアラビアはもちろんのこと、その周辺諸国、リビア・スーダン・チュニジアなどが入っているのは言うまでもありません。
 委任統治領とエジプトだけのせまい歴史を書くと、問題に充分こたえたことになりません。

2 1910年代
 もうひとつ。「分割・独立・離脱」はどこからの分割・独立・離脱なのか、という点。この地域にかかわった西欧列強だけではないことです。まずなによりも支配者であった「オスマン帝国領」からの分割・独立・離脱でもあることです。とすると、なぜ「1910年代」からなのに、リビア(トリポリ・キレナイカ)が1911-12年にイタリアにとられて(伊土戦争で)オスマン帝国から「離脱」したことから書かないのか? このあたりは清朝からの離脱→独立→日本・西欧の植民地化→独立、という東アジア史にも類似の歴史があります。
 また戦争の直前に(1913)「砂漠のライオン」といわれたイブン=サウードがアラビア半島東部でオスマン帝国から独立してネジド王国をつくっています。これを書いたものも皆無でした。
 たいてい戦争中のサイクス=ピコ協定から書いていますが、こんなものなくてもいいでしょう。それじしんは何も離脱・分割そのものではないからです。むしろ書くべきはアラブ人のフサインに約束したフサイン・マクマホン協定のはずです(1915)。このフサインがアラビア半島の西部でトルコとの戦争をやって戦争末期に独立をすること(1916)の方が、戦後の委任統治領の設定より早いのです。
 また、戦争の開始とともにイギリスはトルコ帝国の外交権をうばい、エジプトを保護国化しています(1914)。これを書いたものも皆無でした。もっともそんなに書けないよ、とはいえます。300字以内ですから。ただ書いてもいい、ということです。
 問題文に時間の設定が「○○世紀(年)から」とあれば、必ずその年代から書いてほしいという強い要求があるととるべきです。この問題の場合は1910年代から必ず書かなくてはならないということです。しかしネット内の解答は戦争中の約束は書いていても、実際に離脱・独立したことは1920年代から書いていて、1910年代がスッポリ欠けています。つまり答案として落第です。

3 1920-40年代  セーヴル条約(1920)では確定しなかった委任統治領はローザンヌ条約(1923)で確定しました。フランスとイギリスがトルコ共和国の南に位置するシリア(初めはレバノンを含む)・メソポタミア(イラク)・パレスティナ(現イスラエル)・ヨルダンを委任統治領としました。
 ワフド党の運動の結果、エジプトが名目的な独立をし(1922)、アラビア半島では独立していたネジド王国が、ヒジャーズ王国を併合します(1924)。次にヨルダンが立憲王国となります(1927)。
 1930年代にはイラクが委任統治終了で独立した同じ年に、イブン=サウードは統合された国の名をサウディアラビアと改称します(1932)。これらは年代を入れていますが、サウディアラビア以外は細かいので年代は書けなくていいです。
 イギリス・エジプト条約でエジプトは主権を回復(1936)して国際連盟に加入し、レバノンはシリアと分離して、ともに独立を果たします(1943)。また30〜40年代、ファシズム・ナチズムは英仏に軍事的脅威をあたえたためアラブ人はこの強権体制を支持しました。逆に、ナチスの迫害をのがれてユダヤ人がパレスティナへやってきました。それがいずれ大きな問題になることを自覚させものも現われます(種々の衝突事件)。
 第二次世界大戦が終る直前にアラブ連盟が本部をカイロにおいて結成され、反シオニズムをかかげました(1945)。しかしパレスティナ分割案(1947)にしたがってイギリスが撤退すると、イスラエルの独立宣言とともに第一次中東戦争が勃発します(1948)。しかしアラブ側が敗北したため、アラブ難民が流出し、各国にこの敗戦の責任問題がかかってきました。
 なお、ヨルダンの正式な独立は1947年です。

4 1950年代  リビアがイタリアから独立し(1951)、フランスからチュニジア、イギリスからスーダンも独立し(1956)、アルジェリアでフランスからの独立運動が始まりました(1954)。もっともフランス政府がこの運動を「独立」運動とみなしたのは1999年になってからで、たんにテロといっていました。
 第一次中東戦争の敗北から軍人が蜂起してエジプトは共和国になり(1952)、その上でスエズ運河国有化を断行したことから(1956)、スエズ動乱(第ニ次中東戦争)となり、国有化に成功します。このことでナセルはアラブ人の英雄となり、アラブ・ナショナリズムが高揚してシリアとエジプトが合邦してアラブ連合共和国ができあがりました。
 イラクでは、ハーシム家のファイサル国王を社会主義に共鳴したバース党が追放して共和政になり(イラク革命、1958)、親西欧的王政から離脱します。その結果、バグダード条約機構(METO)から離脱することもおきます。この機構はイギリス中心の反共同盟でしたから。

 あれもこれも書けませんが、できるだけ広く書くと、ネット内の答案よりいいものができます。「広く」といっても、なにも問題を拡大解釈するということでなく、ありのままにすぎませんが、委任統治領とエジプトだけの歴史を書くと満点はとれませんよ。いかにアラブ人が広く住み多様であるかを雄弁に語る本が出ています。宮田律著『中東イスラーム民族史──競合するアラブ、イラン、トルコ』中公新書のp.3-15。もちろんアラブ人はモロッコまでたどっています。最近のイスラーム史としては出色のものです。3民族の対立を軸に現代史まで詳細に語っています。また列強のひとつ、とくにアフリカに深くかかわったフランスの植民地について書かれた優れた歴史書には平野千果子著『フランス植民地主義の歴史』人文書院があります。教師の方にすすめたい。

 京大はこの問題をみても分かるように、過去問を解く意味がありません。地域が同じでも、テーマは同じものがまったくないからです。京大は過去問にないものを出題しようと腐心しています。類題などというものは出ません。過去問を解くのでなく、過去問を見て何がでていないかを探ることが対策です。今年のこの問題はすでに予想していたことでした。オスマン帝国の崩壊と諸民族の独立、というテーマは論述としてはありうるテーマでしたから。過去問の練習をすることは無駄です。実際、今年の問題は過去のどの問題を解いたらできるようになったのか、と過去問をたどってみたらいい。どこにも類題は見つけられません。さらに前の年、前の年とたどってみたらいい。でも過去問を解くことが対策の常道とおもいつづけるひとは、解いたらよい。東大・一橋なら過去問研究は役に立つが、京大はちがうのです、と口を酸っぱくしていっても納得しないひとがいます。常識から離れられない。どうぞおやりください。時間を無駄にしてください。

第2問
  (A) 4問全体の構成が、第1問が中国以外である場合は第2問はかならず中国史です。それほど中国史を重視しているといえましょう。この問題は問題文をそのまま論述問題におきかえることもできます。10〜13世紀の北アジアと中国との関係を300字で述べよ、その際、中国支配のあり方と外交関係はどのようなものであったかに留意せよ、と。これも論述としては京大未出題問題です(2007,2017年に出題)。もちろん、わたしが教えている駿台生にはすでに解かせています。

 空欄と下線設問という構成もいつものとおりです。出たところ順で解説します。

空欄a 「唐は[  a  ]の乱によって実質的に崩壊し、節度使」とあるので黄巣の乱(875)がでてきます。

下線(1)  五代の王朝を順におぼえていますか? 「後」という字はみな「こう」と読みますが、これを省いて「梁唐晋漢周」と一気におぼえてしえばいいです。統一政権の前は「周」とおぼえてもいい。秦の前は東周(春秋戦国)、隋の前は北周、そして(北)宋の前は後周と。

空欄b これは「[  b  ]を除く中国内地の統一」とあるように元々中国領だったところで、遼(契丹)に奪われた土地です。かの『実況中継』でも地図にまちがった字があるように、「燕」という字をまちがわないように、鳥のツバメという字です。草冠でない。

空欄c これは後の文章「軍閥勢力を抑圧することに成功するが、かえって軍事力の低下を招く」で文治主義と判断できます。ついでにいっておくと、文治主義は宋だけとおもっている学生がいます。この五代十国だけが武断政治であり、唐までの中国、元朝は問題があるものの、明清も文治主義です。武科挙の合格者より文科挙の合格者が上で、この文人が全般をとりしきることが中国の常識でした。科挙のない時代も貴族たちが教養の担手でしたから。

空欄d これは漢字「セン」淵の盟と正しく書けるかどうかの問題です。

下線(2) これも「猛」や「謀克」の字が書けるかという漢字の問題です。

下線(3) これも漢字の練習。「靖」康の変。

下線(4) 臨安杭州とくっつけて覚えておくといい都市です。「杭」の字を「坑(焚書坑儒)」「抗(抵抗)」にしないように。

空欄e 排してとあり、金と戦うべきと唱えた岳飛のこと。少し細かい。

下線(5) 漢字「淮」水の字を二水にしてしまいやすい。三水です。

空欄f 「重用され、かれらは特に財政面」とあるので色目人がでてきます。色目人の代表例は耶律楚材とマルコ=ポーロです。

下線(6) 「円形方孔」というのは、「方」は四角、「孔」は穴のことですから、中の穴を四角にきりとったことを意味します。武帝の五銖銭と区別できたかどうか。拙著『センター世界史B 各駅停車』には双方のちがいのかんたんな覚えかたが書いてあります(宣伝!)。 

下線(7) 元朝の紙幣は2つあり、交鈔という金からうけついだものと、末期に発行した宝鈔とがあります。「鈔」の字も正しくかけるか。

空欄g 紙幣を造るのに紙と他に何が必要か、みたいな子供並みの質問です。印刷が答えなのか……。そうではない、とすれば、銅活字か、鉛活字か……。いや木版印刷? 宋から活字があったとしても中国は木版印刷が主流でした。

下線(8) 紅巾の乱ないし白蓮教徒の反乱。

 このように、ほとんどセンター試験レベルの問題です。漢字が正しく書けるかどうかだけが問題でした。

(B) こんどは清朝。

空欄h チャハル部にいたモンゴル人。チャハル部を平定した清朝2代目ホンタイジは、じぶんにチンギス=ハンの受けた天命がうつったと解釈し、瀋陽に満州人、内蒙のモンゴル人、遼河デルタの中国人代表を召集しクリルタイで、3民族共通の皇帝として選れ、新国号を大清と定めました(1636)。ホンタイジの皇后は皆モンゴル人です。4人のうち1人はチャハル部族のリンダン=ハンの未亡人でした。満州族によるモンゴル帝国の再現をねらっていくわけです。ある程度、それに成功した王朝でした。

下線(9) 三藩のうちでも覚えるべきはこの人物だけです。センター試験でも本試でも出ている人物です。

下線(10) 話が明朝にもどって、衛所制の衛所です。

空欄 i 清朝の軍隊の一翼をになった漢人の軍隊の名称です。これはセンター試験では出されたことはないものの、漢人八旗のように、八旗に漢人の軍隊があったかどうかを問うています。もちろんこの名称のように存在しました。

空欄 j 「外モンゴル」にいた「当時急速に勢力を伸ばしていた」という「軍」とよべる民族名か国名か。これは漢字で準部ともいっている民族です。

下線(11) 東トルキスタンは天山山脈と崑崙山脈の間に存在する地域をさしています。「征服(1759)後」から新疆(新しい国境、new frontier)という呼び方があらわれます。ただ、ここに住んでいるウイグル族を呼んだ呼び方でもあるので「回部」でもいいでしょう。新疆は天山山脈の北のジュンガル部(準部)と合わせて、19世紀(1884)になって新疆省の名が正式にとられます。

空欄k この解答は空欄iの後に「郷里の湖南省で組織した湘軍」というところにヒントはあります。総称です。

下線(12) 上帝とは中国人が考える宇宙の神です。典礼のひとつとして上帝をまつる儀式があります。キリスト教ではエホバ(ヤーヴェ)にあたります。いやこれはユダヤ教の神ではないですか、と質問する学生がいますが、もちろんユダヤ教の神でもありキリスト教の神でもあります。キリストはこの父なる神エホバの「子なる神」なのです。

空欄 l 曾国藩と弟子の李鴻章の郷勇があり、どちらがどっちだったか分からなくなるものです。「そうしょう」がその覚え方。センター試験でも「曾国藩は、義勇軍(郷勇)を組織した」とでていました(2004)。

下線(13) 後期の指揮官ゴードンでなく創設者を問うた問題。ウォードは少し細かいか。もともとは洋槍隊といった軍隊は強すぎて「常勝軍 Ever Victorious Army」と呼ばれました。ウォード (1831〜62) は船乗りとして傭兵として世界中をまわった男ですが、クリミア戦争のとき上官に反抗したため解雇されたことがあり、上海にわたって外国人商人と漢人財閥と組んで太平天国からの防衛隊を組織します。商売では詐欺・密輸で生きてきた男がこれまでのいくつかの戦闘の経験から頭角をあらわし、外人部隊を指揮するようになりました。

空欄m 「清末」とあるので、光緒帝代につくられた軍隊です。正式には「新建陸軍」でその略称です。日清戦争に負けて袁世凱を監督とする7300名の新軍が発足しました(1895)。従来の八旗軍に代る西洋式軍隊の登場です。拡充されて約17万人を擁するくらいになります。

空欄n 武昌蜂起の場所は湖北省です。この省と湖南省で湖広というヤツです。

下線(14) 安徽派は細かいですね。ただ「袁世凱の後継者の一人」は大きいヒントです。北京政府の国務総理となりました。漢字の「祺瑞」が難しい。

空欄o 合作の軍隊は国民革命軍といいます。北伐のための軍隊です。

下線(15) 発音からはパーロと日本人が呼んでいた軍隊です。本多勝一・長沼節夫著『天皇の軍隊』(朝日文庫)にでてくる中国軍はほとんどこのパーロで、これと日本軍との戦いです。私大なら華中(長江流域)の共産党の軍隊は? と問います(新四軍)。

第3問
  ピレンヌの説については、拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)のp.80-81にも「知っておくべき歴史学説」の一つとして説明しています。「古代の統一的な地中海世界が商業交易に支えられて、8世紀まで存続したと考えた」と導入文にある説は「古代連続説」といいます。古代は一般に日本の今の教科書も西ローマ帝国の滅亡(476)をもって終わったとしていますが、それに異議を唱えたものです。古代が終わったのは、イスラーム勢力の進出によってカロリング時代以降のヨーロッパは地中海から遮断されたため、自然経済・農業社会へと後退した。いいかえれば、古代ローマ帝国の都市的・商業的な南欧からしめだされて内陸に顔を向け、農業的・農村的な社会・経済・政治の形成にむかった、と。それがイスラーム勢力の進出でやっと古代は終わり、8世紀くらいからが中世ととるべきだ、という説です。このことを「マホメット(イスラーム進出)なくしてシャルルマーニュ(フランク王国による統一)なし」と主張しました。
 これにつづく続く説が「商業ルネサンス」です。
 中世西欧は、11・12世紀になると、イスラーム勢力・ノルマン人の後退、農業生産の進展や人口増加に支えられて、途絶していた地中海貿易がふたたび復活する。これと平行して、フランドル地方を起点としてロシア、スカンジナヴィア諸国にいたる北海・バルト海貿易も興り、この両者が合してヨーロッパ全体に貨幣経済を普及させ、それが中世都市の成立を促した、というものです。これを「商業ルネサンス」といいますが、このことばもピレンヌの造語です。両説ともイスラームとの関係でヨーロッパ中世史を見るべきだ、という説です。日本史を東アジア史の中に位置づけて見るべきだ、という説ににています。

 この問題は(古代連続説)に書いてある時代に該当しています。一昨年の問題の続編といっていいような問題です。一昨年の問題はこうでした。

 4世紀のローマ帝国には、ヨーロッパの中世世界の形成にとって重要な意義を有したと考えられる事象が見られる。そうした事象を、とくに政治と宗教に焦点を当てて。

 これを見て類題だ、やはり過去問をやっとくべきだ、ととるひともいますか? じゃ、この問題を解いたら今年の問題が解ける? そんな甘いもんじゃないですよ。よーく見なはれ。
 この問題の主問は、時間が「紀元4世紀から8世紀」、地域は「地中海地域」、テーマは「その政治的変化について」、副問は「その統一と分裂に重点を置き」、事務的には「300字以内で説明せよ」ということです。統一と分裂は、たんに統一→分裂、で終わりではありません。分裂の後に統一もあります。
 もともと地中海世界はローマ帝国にひとつにまとまっていたのですが、それが3分裂したが、また3世界それぞれに統一と分裂がありました、それを書いてくれ、ということです。3世界毎の分裂・統一という言い方をしましたが、分かりましたか? ローマ帝国がひとつの世界、それが3分して終わり、ではないということです。それぞれの世界で離合集散がありました。「政治状況は、8世紀以前、古代末期から中世初期にかけて大きく変化した」とあるので、政治体制が8世紀までにどうなったのか言及できたらかんぺきです。というのはネット内の答案は、1→3という分裂過程を書いているだけで終わっているからです。3分ごとの統一はどう行われたかも重要です。
 この問題の類題が他大学で出ていました。一橋の1992年に、筑波の1998年に、都立大学の2001年に出ていました。一橋の例をあげると、こうでした。

 西ローマ皇帝アウグストゥルスがゲルマン人傭兵隊長オドアケルに廃位されて以後 、8世紀半ばに至るまで、旧ローマ帝国領だった地中海地域には民族の移動を含む大きな政治的変化が生じた。これらの変化を、次の三つの人名を用いて説明せよ(400字)。  ユスティニアヌス帝 ムハンマド(マホメット) カール・マルテル(チャールズ・マルテル)

 さて3分されていく過程と統一した政体はどのようなものになったかを描くのですが、たんに流れとして経緯を書いていく構成と、3分は分かっているので3つの地域毎に書いていく構成とがあります。解説は後者でいきましょう。

 まず西欧から。
 4世紀はゲルマン大移動から始まるのではありません。分裂以前の「統一」された帝国の政体は、まずディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝によるドミナートゥス制(専制君主制)の形成があり、常備軍の強化(70万兵)と官僚制、全土の属州化、元老院のローマ市参事会への降格などがあります。またディオクレティアヌス帝がしいた分治体制をコンスタンティヌス帝が「統一」もしています。
 世紀の4分の3くらい行ったところで「大」移動がはじまります(375)。これを、しかし、「大移動の混乱のさなかローマ帝国は東西に分裂」と書くのはいかがなものか? その後の西ローマ帝国の滅亡については「ゲルマン人の侵入で混乱をきわめ、ついに 476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝は退位させられ、ここに西ローマ帝国は滅亡した(詳説世界史)」という記述はあるものの、東西分裂の段階でいうのは早すぎます。たとえ西ローマ帝国滅亡で「ゲルマン大移動の混乱の中で」という表現ももう止めにしてほしいものです。考えてもみたらいい。これは19世紀までの歴史観で、専門家はこういう言い方はもうしないですよ。東ゴート族に追われて西ゴート族がローマに助けを求めてドナウ川をわたったのが375年です。この事件でゲルマン人の移動が始まったとします。西ローマ帝国の滅亡が476年ですから、移動から滅亡まで100年も経っています。今の日本なら明治時代にあったことです。しかもゲルマン人の帝国侵入は、共和政の末期、つまり紀元前から移住は少しずつ始まっているのであり、それは日本でいえば、江戸時代のはじめですよ。実に長い移住の歴史があって、ゆっくり支配層がラテン人からゲルマン人に代っていったのであり、怒涛のごとく入ってきたため「混乱のさなか」に滅亡という言い方はいくらなんでも合いません。
 教科書にもこんな記述があります。

 375年、匈奴の一派といわれるフン族がヴォルガ川を渡って西進した。それにおされて約6万の西ゴート族がローマ領内に定住許可を求めて南下し(376年)(注)、ついに暴徒化してバルカン地方を略奪した。彼らはテオドシウス帝から正式に領内定住と自治を許され、軍隊を提供するかわりに年金をうけるようになった。……476年、ゲルマン人出身のローマ傭兵隊長オドアケルは、実権をもたない西のローマ皇帝位を廃した。これを一般に西ローマ帝国の滅亡とよぶ。(注 これは一般にゲルマン民族大移動の開始とよばれるが、ゲルマン人は共和政末期以来、少しずつ帝国内に移住し、ローマ軍に兵士として勤務し、当時すでに将軍にまで昇進した者も少なくなかった。)──山川・新世界史

 オドアケルが辞めさせた皇帝ロムルスという17歳の青年は年金をもらうことにして退位したのです。17歳で年金! なんと優雅な長い老後!このできごとはほとんどのひとが知らなかったそうです。後で大きなことだったと気がついたのです。「混乱のさなか」ではありません。帝国は静かに静かに死を迎えたのです(最近出た塩野七海著『ローマ帝国の終焉』新潮社 p.273に「蛮族でも攻めて来て激しい攻防戦でもくり広げた末の、壮絶な死ではない。炎上もなければ阿鼻叫喚もなく、ゆえに誰一人気づいた人もないうちに消え失せたのである」とあり)。
 このオドアケルのような軍人たちが西方属州に建国をしていき、帝国が侵食されていったのが5〜6世紀にかけてでした。6世紀には東方ユスティニアヌス帝の侵略をうけて、東ゴート、ヴァンダルらの王国が滅亡し、アングロ=サクソンがブリタニアに渡って王国らしいものを築いたのは、ようやく600年頃でした。
 これらの王国は、「王国」といってもゲルマン人が住民の10%前後で、90%の住民は従来の帝国市民ラテン人です。ゲルマン人は独自の法典(フランクのサリカ法典のような)をもち、ラテン人市民には帝国のローマ法があり二重の法の下にありました。ゲルマン人の王たちも、東の皇帝にお願いしてローマ総督の称号をもらい、ラテン人市民に君臨するという、これも二重称号でした。王はあくまでゲルマン人に対してだけの王でした。ひとりのローマ皇帝に顔を向けて生きた、という点では、ローマ帝国は滅んでいない、という主張につながる面をもっていました(渡辺金一著『中世ローマ帝国』岩波新書)。
 ゲルマン人が東から目を背けて西に重点をおくのはフランク王国カロリング家のしごとです。メロヴィング朝の創始者クローヴィス王のときに礎石は築かれながら、その後の混乱(『メロヴィング王朝史話(上下)』岩波文庫)のためにとどこおり、カロリング家が台頭してからでした。ピピンが教皇から「ローマ人の保護者(パトリキウス・ロマノールム)」称号を授与され、息子のカール大帝が西ローマ皇帝の称号をもらってからでした。その支配体制は、ゲルマン人たち諸王の盟主といった方がよく、けっして皇帝の体を成していませんでした。官僚制は未発達であり、伯や巡察使といってもアーヘンから派遣したわけではなく、じぶんに協力してくれた諸侯たちをそう呼んだにすぎません。まだ中世都市の発達していない農村中心の閉鎖的な空間の「皇帝」でした。封建制もできあがっていません。「カール大帝による統一が進み、封土を媒介に形成された幾層もの君臣関係をもち」と書いた答案がネット上にありますが、統一はできるとしても、幾層もの君臣関係=封建制は10世紀にできあがります。問題は8世紀までですよ。大丈夫なんですかね。こんな「模範」答案を書く教師に教えてもらうなんて? 「一見中央集権的であったが、実態はカールと伯との個人的な結びつきのうえになりたつものにすぎなかった。……封建社会は10〜11世紀に成立し、西ヨーロッパ中世世界の基本的な骨組みとなった。(詳説世界史)」

 つぎは東ローマ帝国です。
 西欧のところで初めに書いたドミナートゥス制は西にはのこらず、東に継承されました。これはこの問題の時間である8世紀もそのままの体制でした。これを書いた答案は皆無ですね。政治とその統一・分裂が課題なのだから書いてあってもいいはずですが。とくに6世紀のユスティニアヌス帝のときがイベリア半島南部まで制圧してローマ帝国の復興となるも、死後は元にもどるより縮小傾向に拍車がかかりました。西方では7世紀にはランゴバルト王国にイタリア半島をうばわれ、東方ではアラブ人にシリア・エジプトを奪われました。それどころかイスラーム教徒は700年までにはモロッコに到達します。いっきにビザンチン帝国は領土を縮小させられ、残ったのは小アジア・イタリア半島南部・バルカン半島です。半島では主にギリシアとその周辺でした。こうしてギリシア語の通じる世界だけが残りました。イタリア半島の南部もギリシア語圏です。いまもギリシア人が住んでいます。DNA鑑定でいかに南部のひとたちが現在のギリシア人と同じDNAをもっているかは、ジェームズ・D・ワトソン, アンドリュー・ベリー著・青木薫訳『ゲノム解読から遺伝病、人類の進化まで』 (ブルーバックス)で見ることができます。かつてのラテン的ローマ帝国はギリシア的ローマ帝国、すなわちビザンチン帝国に変貌したのです。公用語はギリシア語になり、コロヌスを自作農に変える屯田軍管区制(テマ制)をしきました。8世紀には聖像崇拝禁止令を出して「ギリシア帝国」と専門家がいうくらいのギリシア的要素を濃厚にします。 こうした東ローマ帝国の変化を書いた答案もネット上では皆無です。たんに東ローマ世界ができたとだけ書いているものばかりです。それで答えかよ、と不思議なおもいにかられます。もちろん皇帝教皇主義は保持されています。ああ、これさえも書いたものがない。不作ですね。

 次はイスラーム世界です。イスラーム世界というと西アジア・中東だとおもっているひとがいますが、この問題で分かるように地中海世界のひとつです。いやこの世界の南ぜんぶを担っています。
 今のイスラーム世界とほぼ一致しています。ちがうのは、レコンキスタで追い出されるまではイベリヤ半島も支配していたこと、現在トルコ領西部(小アジア)のところがこの8世紀の段階ではビザンツ帝国がまだもちつづけていたことです。イスラーム教そのものは7世紀からですから、それまではローマ帝国、そして東ローマ帝国領でした。ウマイヤ朝が北アフリカをとり、8世紀のアッバース朝がうけつぐ、という順です。ただこの王朝交代はアラブ人の王朝でありながら、アッバース朝革命というくらいに変貌の大きいものでした(これも京大未出題)。カリフはイスラーム戦士団の長でしたが、ムスリム全体の長となり、たんなる政治的代理から宗教的な意味も帯びたカリフに変ります(カリフ神授説)。もちろんアラブ人でないムスリムのジズヤを廃止し、非アラブ人も官僚として採用する平等主義になります。ウマイヤ朝=アラブ帝国からアッバース朝=イスラーム帝国への変貌です。もちろんこういうことを書いた答案を見つけることは困難です。

第4問
  この第4問は西洋史と決まっています。第2問と同様に、空欄・下線設問は出たところ順で説明します。今年は主に経済史でした。易問ばかりで受験生にとっては楽しい時間でした。

A
下線(1) 中世末の英仏の農民反乱を書け、という易問です。フランスはあだ名でジャケットという着物の名とも通じています。イギリスは個人名です。わっとタイヤが燃えたような名前です。

下線(2) 「エルベ川以東」とはドイツ北部からポーランド北部にあったプロイセンのことです。ただ農奴制による大農地経営は東欧の他の国々(ポーランド・ボヘミア・ハンガリー)でも同じやりかたでした。エンゲルスのいう再版農奴制です。こうした農奴による経営をグーツヘルシャフト(農場領主制)といいますが、19世紀初頭のプロイセン改革以降は農奴制でなくなったため「ユンカー経営」と改称します。

下線(3) 「共同耕作」とは、一家では畑を耕すのに必要な数の牛、後には馬を養うことができないため、隣同士で家畜をだしあい、いっしょに耕作するためであり、また畑と畑のあいだに囲い込みのない状態(開放耕地制、open fields)で、隣同士に牛・馬を行き来させることができるようにしたものです。「比較的均等な土地保有」とは、一家の土地は地条(strip)といって細長い畑になっており(教科書の三圃制の図を見よ)、これがあちこちに分散して所有(正確には「保有」hold)していて、それにより土地の質を均等配分し、ときに病害の防止や共同負担に役立てた独特のものでした。

下線(4) モアが反対したのは国王至上法(首長法)です。要するに国王の教皇離れです。カトリックと縁を切る政策はその後の修道院領没収とつづきます。修道院は教皇の管轄区ですから。

空欄a この空欄のヒントはうしろにあります。「規制を受けることなく、価格を低く抑え」という文章なので、この規制をつくっている組織はなんというか、ということです。

空欄b これは少し難問。後の文章「作物の導入に始まった農業の改良は、資本主義的な農業経営を導き」は休耕地(休閑地)をおかない三圃制(改良三圃制)か四圃制(four-course system)になるのですが、その際、かつては休耕地にしていたところを何を植えることにしたのか、それは誰が食うのか、という問題です。カブ(かぶら)とクローバーは家畜の餌(飼料)です。カブは地面の下の方で育つため地表近くの栄養をとることがない利点をもち、クローバーは地表に近くに窒素を蓄えてくれるので、かえって土地を肥やすことになりました。それでいて飼料が増えることになるため、飼料があれば家畜をたくさん養うことができ、家畜がたくさんあれば、その糞により肥料は豊かになり、それだけ土地が余計に肥える結果となります。中世の「飼料がなければ肥料がなく、肥料がなければ収穫はない」という悪循環を断ち切ることができるようになりました。

下線(5) 「比較し……特徴」という場合の特徴とは相違点のことです。下線(6)にすでに、牧羊という第一次の目的に対して「穀物生産」とあり、空欄a以降の文章には、毛織物工業が農村で展開した、とあり囲い込みが農村向けであったのに対して、第二次は都市向け(産業革命期の増大する人口)であることも書いてあります。第一次は百年戦争後にさかんに行われたので、戦後でしたが、第二次は下線(6)の答えにもなるように、フランス革命とナポレオン戦争という大陸の危機の中で集中しておきたこと(18世紀後半〜19世紀前半の100年間ととる必要はありません)、非合法と議会立法、ヨーマンが育った第一次のことは問題文にありますが、第二次がヨーマンの土地を奪い、かれらを没落させたこと(最近は異説あり)は書いてありません。また教科書には「第1次囲い込み……その規模はまだ小さかった。18世紀の第2次囲い込みは……大規模におこなわれた(詳説世界史の注)」とあるように、第一次は全国の土地(総面積)の約2%程度(約30万エーカー)で第二次は約20%(600万エーカー)でした(経済史家により多少のちがいはあり)。解答はいろいろ可能です。

B 
下線(7) ヴィクトリア女王の即位と同年から始まり、1848年に終息した運動で、6か条の憲章(チャーター)をかかげたことから、この運動の名称があります。

下線(8) (ア)(イ)かんたんすぎる問題。(イ)は厳密には香港島です。現在のすべての香港が与えられたのではありません。

下線(9) (ア)は七月革命→七月王政の王は誰か、という易問。(イ)センター試験にも出ている易問(93追試、97本試、2000本試)。

下線(10) 普仏戦争中にセダンで捕虜になり、イギリスに亡命して死をむかえた人物。

下線(11) これは論述問題として京大は以下のように出題したことがあります。

 アメリカ合衆国において南北戦争がおこる重要な背景となった黒人奴隷制度をめぐる北部と南部の対立を、西部開拓の進展と関連づけて、150字以内で説明せよ。(1990)

 この問題と今年の問題にある背景は綿花栽培とその市場としてのイギリスです。西部開拓の中にあるのは白人のインディアン追放だけでなく、綿花栽培地の拡大でもあったからです。南部では、とくにホイットニーの綿繰器の発明(1793)によって綿花栽培が飛躍的に拡大し、奴隷の需要がますます高まっていきます。1807年に奴隷貿易が禁止されたにもかかわらず密貿易は絶えず、奴隷の多くは厳しい監督の下で綿花畑で働かされました。

下線(12) これだけが難問でした。教科書にはあまり制度名がのっていません。のっている詳説世界史には「南部諸州は1890年ころから州法その他によって黒人の権利を制限し、また社会的差別待遇をすすめたので憲法の条項は骨抜きになった。解放された黒人の多くは、シェアクロッパー(注)として苦しい生活をおくった。」とあり、またその注に「分益小作人ともいい、収穫の半分程度を地主におさめなければならなかった。」と書いてあります。小作人となった黒人の写真は以下にあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sharecropping  
黒人シェアクロッパーの告白は、以下に。
http://www2.trincoll.edu/~aweiss/sharecropper.htm

 
下線(13) ロシア革命のときに共産党の一党支配体制を作り上げるため排除された政党は? という問題。革命の初期に集まった政党で主なものは、なにより多数をしめた社会革命党(エスエル)左派(エスエルの全部ではなかった)、ボリシェヴィキ(後の共産党)、後は少数ながらメンシェヴィキなどもいました。ところが1918年1月5日に開催された憲法制定会議で「勤労被搾取人民の権利の宣言」の採択をめぐった紛糾し、ボリシェヴィキ(レーニン)は1日で会議を解散させてしまいました。というのは社会革命党が第一党でボリシェヴィキは第二党であり圧倒的に不利でしたから。このあたりは、センター試験でもこう出ています。

ボルシェヴィキは、十一月革命直後の憲法制定議会で第一党となった。(1990追試)  

 これはまちがい。第一党は社会革命党です。「農民を基盤とする社会革命党が第一党になると、レーニンは議会を解散させ、やがてボリシェヴィキの独裁体制を確立した。(東京書籍)」とあります。

下線(14) 「先進資本主義国(欧米─中谷の注)における革命にかかっているとみた彼は、……1919年、それを促進するための機関」とあるので第三インターナショナル(コミンテルン、共産主義インターナショナル、国際共産党)です。

下線(15) 分かりにくい設問です。「中心となった」という言い方がややこしくしています。問い方は、たんに「戦時共産主義の工業面と農業面を説明せよ」で良かったのではないか。どうしても専門家は知りすぎているため「中心」を使いやすいですが、教科書は中心しか書いてないものです。

企業の国有化を急速度ですすめたり、農民から穀物を強制的に徴発(山川・要説世界史)
農民から穀物を強制的に徴発し、都市住民や兵士に配給する戦時共産主義を実施(詳説世界史)
全工業を国有化し、農民からの食糧徴発、労働義務制などのきびしい戦時共産主義を断行(東京書籍)
銀行・大企業は革命後まもなく国有化されていたが、国内戦のさなかに革命政権は小企業も国有化し、また労働者・兵士の食料を確保するため、農民から穀物を徴発した(詳解世界史)
ソヴィエト政府は、土地を国有地として農民に分配し、工業を国営にして工場の管理を労働者におこなわせ、銀行・貿易を国家の手に移した。また干渉戦争と内乱に対抗するため、農民から穀物を強制的に徴発し、食料を配給制とした(山川・高校世界史)

下線(16) 「1921年」「自由化を求めて水兵・労働者が起こした反乱」は何か、という細かい設問。ペトログラードをつくったピョートル1世はこの都市を守るために要塞島もつくりました。大阪にとって淡路島のような位置にあるクロンシュタットです。人口は当時約45,000人で、水兵は10,000人、艦隊基地労働者は4,000人いたそうです。水兵や労働者は革命時にめざましい役割を果したのですが、しだいにボルシェビキ政権の独裁的なやりかたに反発していきました。将校の選出は兵士がするという民主主義ができていたのに、そこへ階級制が導入され任命制になっていきました。クロンシタット・ソヴィエトは当時おきていたペトログラードのストを支援し、秘密選挙、言論・出版の自由などの決議を行ないます。これをレーニンは反革命とみなし赤軍50,000兵を送り込み戦闘をおこなわせました。約8,000人がクロンシュタットを脱出してフィンランドへ亡命したことだけが分かっていて、他の者が戦闘で死んだのか、収容所群島に送られたかも不明です。しかし1994年、反革命の烙印をおされていたクロンシュタットの反乱者は、大統領令によって名誉を回復されました。70年間のソヴィエトの圧制を予知した事件でした。

下線(17) 「1928年から……重工業化の推進による社会主義社会の建設を目指し」とあるので第一次五ヵ年計画が浮かびます。

 第1次五か年計画の下で、集団農場であるソフホーズが全面的に組織された。

 というのがセンター試験の問題です(2001追試、1994追試では年代を問うています、年代は「五ヵ年計画で、一1気9に2離8さん」、これは『世界史年代 ワンフレーズ new』から引用。おまけの語呂では「池19庭28つくる」)。もちろん集団農場ではなく国営農場がソフホーズです。コルホーズとまちがえやすい。覚え方は、「ソ連国のソフホーズ」(拙著『センター世界史B 各駅停車』から。宣伝ばかり)

下線(18) 「1935年、……敵はファシズムであるとする戦術」は何か。年代もヒントです(前掲書の覚え方「人民方式、意1見9参3考5」、おまけの語呂では「人、線方式、引1く933個5」)。

下線(19) 「友好」は緊張からきます。1935年のナチスによる再軍備宣言です。戦争がはじまる、と確信できた年でした。ナチス・ドイツに対抗するためのはさみうちです。ヒトラーの方は、この宣言はやむをえないものである、なぜなら、軍縮すると言いながら軍縮をしない連盟の国々のせいである、再軍備をしても平和を求める意志に変わりはない、それに再軍備はソ連の共産主義拡大を防止してあげるのだから平和に貢献している、とうそぶいていました。

下線(20) 「1936年、…… このときドイツが口カルノ条約を無視して進めた行動」は非武装地帯と定められていて、英仏の監視軍がいたのですが大恐慌とともに撤退していて空白地帯でした。決行は週末の土曜日、午前4時、ラインラントに25,000の兵を進駐させました。ヒトラーはこの行動の直後にロカルノ条約を破棄した代わりに、イギリスとベルギーに25年間の不戦条約を提案します。そのため『ロンドン・タイムズ』はドイツ軍は「自分たちの裏庭を占領している」だけなのだ、という穏やかな見出しをつけました(アラン・ブロック著『ヒトラーとスターリン 第2巻』草思社 p.314)。だましの優秀性としてはヒトラーに勝るものはない、といっていいでしょう。