世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大模試雑感

A模試
 問題

 8世紀頃のユーラシア大陸では、商業ネットワークの拠点でもある大都市を都とする3つの帝国が繁栄した。それぞれの帝国の権力のあり方と、それを支える法体系や宗教・文化は、支配地域のみならず周辺の地域や人々にも影響を与え、特徴ある各地域世界を形成する基盤となった。また、他の地域世界の成立に影響を与えることもあった。3つの帝国を結ぶネットワークも成立し、交易活動を担う勢力が活躍して、帝国の都はさまざまな言語が行き交う国際都市となった。
 以上のことを踏まえて、8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 儒教 シャリーア コンスタンティノープル
 スラヴ人布教 啓典の民 朝貢
 ダウ船 カール戴冠

 解答

長安を都とする唐は、仏教を保護し国家の安寧を図る一方、儒教を体制教学と定め皇帝を天子とし、律令を整備した。周辺諸国とは君臣関係の冊封や親族関係を結び唐中心の国際秩序を構築し、朝貢を促した。日本や朝鮮は、朝貢使節とともに留学生を派遣し仏教・儒教・律令・漢字を移入し、東アジア文化圏を形成した。バグダードを都とするアッバース朝は、カリフが政教の両権を握り、イスラーム法であるシャリーアを整備した。信徒の平等を実現し非アラブ人ムスリムのイラン人などを登用し、ユダヤ教徒・キリスト教徒を啓典の民として処遇し、アラビア語を共通語とするイスラーム世界を確立させた。コンスタンティノープルを都としギリシア語を公用語としたビザンツ帝国は、皇帝がキリスト教を国教として教会組織を影響下に置き、ローマ法を整備・体系化し、スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立したローマ教会では、教皇がビザンツ皇帝権からの自立を求め、イスラーム勢力を退けたフランク王国に接近し、カール戴冠でラテン語・カトリックを特徴とする西欧世界を形成した。長安とバグダードを結ぶ内陸交通路では、突厥やウイグルの保護下でイラン系ソグド人が活躍し、のちムスリム商人も進出した。ムスリム商人は海の道を通ってダウ船で広州に到来しコンスタンティノープルと東方世界は陸路と海路で結ぼれた。

▲コメント
 課題は「8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ」でした。このうち「帝国と、それらが各地域世界の形成」にかかわる内容は導入文の「法体系や宗教・文化」であるらしい。
 解答文で「法体系」にあたるものは、唐「律令」、アッバース朝「シャリーア」、ビザンツ帝国の「ローマ法」とあり、フランク王国には法の言及がありません。それと「3つの帝国……3つの帝国」とあるのにここには4つの帝国が書いてあります。なぜ? 東大過去問に似た時代のものとして、1981年の「9〜10世紀西欧・東ローマ帝国・イスラム世界の対比」というものがありました。しっかり3つの帝国名を指定しています。なぜこの模試はそうしなかったのか? 不明です。「王国」だから「帝国」ではない? 800年も「8世紀」の中に入るし、「戴冠」の後の文章も他の3つの帝国同様のこと書いています。3と4のちがいが分からなかった? もしこの問題文に合わせた解答文にするとすれば、フランク王国のサリカ法典(サリカ法)をあげなくてはならないはず。
 この法とともに唐「皇帝を天子」、アッバース朝「カリフが政教の両権を握り」、ビザンツ「教会組織を影響下に置き」と君主の権力について言及があり、やはりフランク王国の権力については書いておらず、「戴冠」で示唆したつもりかな? どの帝国も戴冠はしているはずですが。
 「宗教」については、唐「仏教を保護……儒教を体制教学」、ビザンツ「キリスト教を国教……ギリシア正教」、フランク王国「カトリック」としています。やはり4つ書かせたかったのか?
 「文化」については、唐「仏教・儒教・律令・漢字」、アッバース朝「アラビア語」、ビザンツ「ギリシア語」、フランク「ラテン語」と唐と比べて言語ばかり書いて「文化」にしています。公用語だけで「文化」? 要するに過大な課題だったということです。フランク王国に言及しなければもっと書けたのに。
 対外関係は「各地域世界の形成に果たした役割……他の地域世界の成立に影響」にあたります。唐「周辺諸国とは君臣関係の冊封……東アジア文化圏を形成」、アッバース朝「信徒の平等を実現し……イスラーム世界を確立させた」、ビザンツ「スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立」、フランクは「西欧世界を形成」の他は書いてありません。
 最後は「同時代における商業勢力の活動」という課題についての解答文です。唐とアッバース朝をつないた「ソグド商人」と「ムスリム商人」、「ダウ船」とし、フランク王国が含まれるのかどうか定かではありませんがコンスタンティノープルは陸路と海路で「結ばれた」として誰が担手「商業勢力」なのか言及していません。
 大風呂敷の課題に小さい中身。自作問題に自ら応えられなかった、という「模範」答案でした。

 

B模試

 問題

 13〜14世紀のユーラシア大陸では、モンゴル帝国のもとで広域的な商業ネットワークが構築されたと考えられているがそれに先立つ時代すでに複数の地域的商業ネットワークが成立していた事実を忘れてはならなし、なかでも11世紀以降の西欧と宋代の中国で農業・商工業が発展した結果、ネットワークの拠点となる商業都市の成長とこれに伴う社会変化がもたらされた。以前とは異なる新たな支配層が台頭し彼らを中心に新しい文化も生まれたのである。
 以上のことを踏まえて11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し必ず次の8つの語句を一度は用いて、その詩句に下線を付しなさい。

 形勢戸 交子・会子 三圃制 十字軍
 スコラ学 鎮・市 特許状 木版印刷

 解答

西欧では森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した。十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した。都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した。また都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった。中国では長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した。唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した。都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った。北方民族に圧迫された宋が戦費確保のために物資や税を集めたこともあって貨幣経済が発達し銅銭のほか、交子・会子が紙幣として流通した。新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた。

▲コメント

 課題は「11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい」でした。
 ネットワークを使う必要性がよく分からない問題文ですが、ただ問われている第一のことは「対比させながら」です。
 「対比」とは「二つの物を比べて、その違いを見ること」(新明解国語辞典)です。「対比させながら」ということは西欧と中国を比べて、その違いを説明することです。英語では contrast にあたります。
 解答文を見てみると、西欧は「森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した」にたいして中国は「長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した」と。
 ここに「違い」が示されているでしょうか? 「森林の開墾」と「長江下流械が囲田など干拓地の増加」は違いでしょうか? 穀物生産地の増加という点で共通しています。それぞれの歴史の名称はラベルであって中身の違いまでは示していません。畑作と水田という違いが示されているわけでもない。「三圃制や有輪犁」と「占城稲」という技術と新品種の導入という内容のちがうことを並べて、どんな違いを示しているのか? 「商業が発展し、定期市」と「客商」はともに遠隔地商業のことで類似点です。どこに違いの説明があるのか?
解説文を見ても違いは示されていません。

 西欧の「十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した」と、中国の「唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した」とあります。西欧では遠隔地商業の発展要因として十字軍があげてあり、中国ではそういう外的要因がなく、市内の規制が崩れたといきなり書き、西欧では中世都市への発展と金貨・銀貨の流通が書いてあり、中国では鎮・市のことを書いています。どういう「対比」がここで成立しているのか? 西欧の金貨・銀貨に対して下の方で「交子・会子が紙幣として流通した」としていて対比にしているようですが、本来、解答文は上に書いた順に下でも書かないと、採点官に「対比させる」つまり対比しているかどうか探させることになり、こういう順を乱した書き方はマイナスです。解説文に「分野別に順を追って書く」と自ら書いているのに。
 金貨銀貨の西欧と紙幣の中国の対比は成り立ちますが、中国は銅銭の流通が主であり、西欧の金貨銀貨とてその純度は低く銅貨に変わらないものでしたから、対比するほどのものでもない、と言えます。中国でも宋代には「銅銭のほか金銀も地金のままもちいられ(詳説世界史)」とあり、それほどの違いはないでしょう。中世西欧でも金貨銀貨を使ったのは一部の人たちでしたから。
 また「十字軍に対比できる、物資の流通を促した宋代の軍事行動は、遼・西夏などの遊牧国家に対抗する戦費や物資の調達である」と解説文にありますが、これは「対比=相違点」になるでしょうか? 類似の軍事行動です。このあたりでこの作問者が「対比」という言葉を「対応 correspond」「類似現象 similar phenomenon」と混同していることが次第に分かってきます。

 西欧では「都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した」に対して中国では「都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った」とあります。西欧では生産した物が何か書いてなく、中国では「陶磁器や絹織物」と商品名をあげているのは、どういう対比なのか? 組合は「ギルド」と「行、……作」とあげ、西欧では「自治権を獲得」と書いていても中国の行・作がそれを得られなかったことは、解説文には書いてあるものの、この解答文に書かなかったら「違い」にならなのではないか? それは読み取ってくれよ、という言い訳は解答文として失格です。対比は鮮明さが大事です。
 都市同盟は中国の場合はどうなのか、何も言及がありません。中国と対比しようがないコムーネや帝国都市をなぜ書いているのか? 対比しにくいものは省くべきです。

 西欧の「都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった」にたいして中国では「新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた」とあり、これは対比でしょうか? 
 「支配層」として聖職者と形勢戸をあげていますが、この対比は適格でしょうか? 中世西欧の支配層の大半は剣をもった領主層であり、聖職者を兼ねる領主もいますが、たいていは文盲の「戦う者」たちです、それと形勢戸は対比できますが、一部の聖職者で対比は無理でしょう。
 スコラ学と宋学は対比に解説文ではしていますが、いったい二つの学問にどういう相違点があるのでしょうか? ラベルが違うことは中身の違いを表わしません。骨品制とヴァルナ制と並べて、違いを示したことになる? そんなことはありません。スコラ学も宋学も既成の身分秩序を正当化する封建思想であることは共通しているのでは?
 解説文では「宋代の木版印刷に対応できる西欧の出版は写本である」と書き、やはり「対比」と「対応」を混同しているようです。この解説文はむしろ「対応」のところは「対比」がかえって良いとおもいますが。宋代には活版印刷術の発明もありましたが、木版印刷が主流でした。

 解説文の終わり頃に「以下のような要素が並べられるだろう」と採点基準らしいものが33個書いてありますが、不思議なことに「対比」したかどうかを検討する箇所はどこにもなく、それを採点するつもりもないことが分かります。だらだら西欧と中国について指定語句をちょっと説明しながら書いたら、ある程度の得点にたっすることが分かります。そんなことでいいんですかね?