世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2017年11月模試雑感

A模試
第2問
問(3) 在地の伝統文化が、他地域との交疏を通じて、さまざまな変容をみせることがある。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a) ・(b)を付して答えなさい。

(a) 中国を訪れたイエズス会宣教師は、ヨーロッパの天文学・数学・建築などを伝え、明末から清代にかけての中国に文化的影響を与えた。このことについて、3行以内で説明しなさい。

 課題は「などを伝え……影響を与えた。このことについて」でした。つまり宣教師が伝えたことと、中国側の受けた影響の双方が「このこと」です。

①ヨーロッパの天文学をもとに『崇偵暦書』が作成され、清代の時憲暦につながった。……天文学が中国側が与えられた「影響」です。

②マテオ=リッチは徐光啓と共にエウクレイデスの幾何学を翻訳し、カステイリオーネが円明園の設計に加わった。……これは宣教師が伝えたことそのものです。

 ①に書かれたことだけが中国側への影響は変です。教科書(詳説)には「明末文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりである。『本草綱目』(李時珍著)、『農政全書』(徐光啓編)、『天工開物』(宋応星著)、『崇禎暦書』(徐光啓ら編)などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響をあたえた。当時の科学技術の発展には、16世紀なかば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要な役割をはたした」と書いてあります。つまり実学と呼ばれるものの発展は宣教師の影響があります。
 また「中国では、明末清初期以降、イエズス会宣教師の渡来による「西学」の流入が、清朝考証学の生成に対しても一定の影響や作用を及ぼしたが」(辻本雅史、徐興慶 編『思想史から東アジアを考える』)とあるように、イエズス会宣教師がもたらした西欧の広い理知的な学問と技術が、中国人学者を刺激して実証的な考証学を産み出しています。これらのことを解答文に入れるべきでした。

B模試
 問「クリミア戦争後から、2度の革命が勃発したロシア帝政下で採られた農村近代化政策とその影響、およびソヴイエト政権が革命直後に行った経済政策を説明しなさい、その際、次の語句を必ず使用し(指定語句→ミール(農村共同体) 社会革命党 戦時共産主義)」というものでした。
 解答文中に「農民は工業化を支える労働力を提供したが」とあり、
 解説文には「農奴解放令のポイントは次の4点である
①農奴の身分は解放され(自由民となり)、移住も可能となる

 これらの解答と解説にまちがいがあります。
 まず解答に「農民は工業化を支える労働力を提供した」とあるのは、イギリスのエンクロージュアと間違えており、ロシアはこれから工業化を始めようという時(本格的には1890年代から)に、行くべき工場がまだ建っていません。もともと農民は解放令以前から地代を稼ぐために都市に出稼ぎに行っていましたが、その際も、「国内パスポート」を持って行っていましたが都市に定住する権利はありませんでした。なぜならミールから離脱することはできなかったからです。こういう状態を「移住も可能」とは言いません。山川・各国史『ロシア史』p.314には次のように書いてあります。

ロシアの農奴制は、農民に対する地主の支配と、農民の土地への緊縛という二つの要素のうえに歴史的に発展してきたものであるが、1861年の農奴解放が前者を廃しても、後者を手つかずに残したことは注目しなければならないところである。解放された旧農奴は、従来存在していた共同体を基盤にして組織された村団の一員として、村会の承認なしには村団から脱退も家族の分割も自由にはおこなうことができず、分与地の割替や払い戻し金の支払いも義務づけられたのである。換言するならば、ロシアの農奴制は形をかえて20世紀初頭まで残ったのであった。

 別の研究書(『ソ連経済(構造と展望)第3版』P.R.グレゴリー、R.C.スチュアート共著、教育社 p.34)では、

 農村から都市への移動は制限されていた。都市で働くことのできた小農も彼の主人にその報酬の大きな部分を支払う義務を負うだけでなく、彼の主人から村に帰るよう命令されれば帰村しなければならなかった。これは西欧の慣習で農奴が都市に住む自由を得ていたのとは異なっていた。

 有償の支払いは連帯責任であり、ミールを離脱することは認められていません。教科書に「工場労働者を創出して工業化への道を開こうとするものであった(東京書籍)」とあるため、これをそのまま、すぐ実現したかのように勘違いしたようです。実現するのはストルイピンが借金を棒引きにし、移住の自由を与えた農業(土地)改革(ミール解体、1907)からです。