世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

阪大2018世界史(外国語+外国語以外の第3問)

(Ⅰ)
(1) 次の文章は古代インドの世界観を伝えた、玄奘の『大唐西域記』の一節を抜粋したものである。これを読んで、以下の問1〜問4に答えなさい。

 時によって、転輪王(古代インド思想における理想的な王を指す概念)が世に出てこない場合は、贍部洲(ぜんぶしゅう、人間世界)の地には四人の君主が出る。南方には象主がおり、その地は暑さがきびしく湿気が多くて、象の生育に適している。西方には宝主がおり、そこでは海に臨み、財宝が充満している。北方には馬主がおり、その地には寒さがきびしく、馬の飼育に適している。また東方には人主がおり、気候は穏やかで人が多い。
 故に、象主の地は、人々が剛直で気骨があるとともに学問に熱心であり、様々な技芸をよく身につけている。また、服装は布きれを横ざまに巻きつけ、右肩にを露わにしている。(中略)
 宝主の地では、形式や儀式が重んじられずに、人々は財宝を貴んでいる。服は短く左襟前にし、髪を切り髭をのばしている。城郭をそなえた居所をつくり、①商取引のを利を追っている
 馬主の地の習俗は、生まれつき粗野で荒々しく、人情は殺戮を意に介さない。フェルトの帳(とばり)に、穹廬(テント)に住まいし、鳥の如く此処(ここ)かしこと居を移し、草を追い牧畜をしている。
 人主の地は、その気風は機知に富んで賢く、仁義がはっきりしている。人々は冠をつけ帯をしめ、右襟前の衣服を着る。(中略)②君臣上下の礼、③法度典章・文字車軌のとりきめに至っては、人主の地はもはや加えるものがないほどである。(水谷真成訳『大唐西域記』平凡社、1971年を一部改変して引用。)

問1 歴史上、「世界」に対する多様な見方が存在するが、中でも左記の世界観はアジアを客観的に風土によって4つの地域に分類している。玄奘がインドに出発した当時(629年ころ)、「人主」の地は唐朝が支配していた。その他の3種[象主・宝主・馬主]の地は、それぞれどのような王朝ないし国家によって統治されていたか。その名前を書きなさい。

問2 「四主」からなるアジアでは、他民族・他宗教からなる帝国がしばしば成立し、そこでは「内部」と「外部」にまたがって、いろいろな強さや形態の支配が行われていた。
 (1) 下線部②の規範を持つ「人主」の地では、どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し、また外交関係を結んで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に述べなさい(150字程度)。

 (2) 下線部③に関して、北朝期から唐代にかけて形成された諸制度は、周辺国家にも継受された。こうした制度のうち、日本に取り入れられたものを具体的に1つ挙げよ。

問3 「宝主」の地では、7世紀後半に新たな帝国が成立し、それまでと異なる世界観が広まるとともに、その社会や国家のあり方も大きく変化した。どのような社会や国家となったか述べなさい。その際、解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)
   シャリーア  ウンマ  カリフ

問4 「馬主」の地では、「宝主」の地の周縁より下線部①の特徴をもつ人々が移住し、彼らのコロニーが形成された。そうした彼らの7〜9世紀の「馬主」の地における政治・宗教・文化面での貢献について述べなさい(120字程度)


(Ⅱ)
 次の文章は、とある世界史の授業での芸術好きなAくん、中国好きなBさん、先生の会話である。その内容をたどりながら、以下の問1と問2に答えなさい。

先生:今日の授業では、みんなの知識を活かしながら、異なる時代、異なる場所で描かれたふたつの孔子の像を比べて、描かれ方の違いを議論してみましょう。図1は8世紀頃の中国で活躍した呉道玄が描いた《先師孔子教像》と題された孔子像で、図2は1687年にパリで出版された Confucius Sinarum Philosophus という本の挿絵にある孔子像です。この本の名前はラテン語で「中国の哲学者孔子」という意味です。

 

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Aくん:図1は版画のようだね。中国や日本の絵画に似たような絵があるから、たくさん複製されたのだろうね。この図には孔子だけが描かれているけれども、右上には「徳侔天地 道冠古今 刪述六経 垂憲万世」という漢文が書かれているね。Bさん、どういう意味か教えてくれない?

Bさん:「孔子の徳は天地に等しく、彼の教えは古今に比べられるものはない。彼は六経を編んで、永遠に手本となるものを残した」といった意味かな。六経というのは儒教の経典のこと。唐朝の時代になると、そのうち五つの経典の解釈が『五経正義』にまとめられたと習ったわ。

Aくん:図1は孔子を褒め称えた絵のようだね。そういえばインターネットで中国や台湾のホームページを見ていたときに、「徳侔天地 道冠古今」といった言葉が掲げられている寺院のような建物の写真を見たことがあるよ。

Bさん:その建物は孔子を祀っている霊廟の事じゃない? 孔子廟といって、中国や台湾だけでなく、韓国やベトナム、そして日本にもあるのよ。建物といえば、図2の孔子は図1と違って建物の中に描かれているわ。

Aくん:僕もそのことが気になっていたんだ。なんとなくルネサンスに活躍したラファエルが描いた《アテネの学堂》と似ている気がするんだよ。

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Bさん:《アテネの学堂》は、プラトンやアリストテレスを中心に古代ギリシアの哲学者たちが一堂に会している上だったよね。そういえば図2をよく見ると、孔子の字(あざな)である「仲尼」と言う文字を中心に、壁画の面には儒教の経典や孔子の弟子たちの名前も漢字で書かれているわ。

Aくん:もしその弟子たちが人として描かれていたら、図2は《アテネの学堂》の中国版といった感じになるかのかな? 先生、図2の「国学」という漢字の下に“Gymnasium Imperij”と書かれていますが、どういう意味ですか?

先生:Aくん、いきなり答えだけを求めないように。現代社会の授業で世界の教育制度を調べたときに、ヨーロッパの中等教育機関にギムナジウムという学校があったことを覚えていませんか? それから英語には“Imperial”や“empire”といった単語がありますよね?

Aくん:だとすれば、《帝国の学堂》といった意味かな。それにしても図1は孔子が崇拝の対象のように描かれているのに、図2は古今の知識が集まる「帝国の学堂」の中に孔子が描かれている。図2の頃のヨーロッパではアジアとの交流も盛んになり、フランスでは学士院のような組織もつくられていたことを思うと、図2は当時のヨーロッパの学問を反映した孔子像なのかもしれないね。

Bさん:それはヨーロッパの文化に詳しいAくんらしい意見ね。でも中国でも清朝では『四庫全書』が編纂されて、漢字で書かれた古今の書物が集められたと習ったわ。古今の知識を集めたのは近世のヨーロッパだけではないのよ。でも不思議ね。『四庫全書』がまとめられた清朝にせよ、『五経正義』がまとめられた唐朝にせよ、異民族の王朝だと習ったのに、なぜ中国古来の書物をまとめたのかしら?

先生:良い質問ですね。清朝だけを例にとっても「異民族の王朝」という非中華的なイメージと「歴代中華王朝の最後のもの」というイメージの両方がありますよね。それでは宿題として、このような二つのイメージの共存がどのような清朝の特徴から導き出されるかについて調べてきてください。これで今日の授業は閉じることにしましょう。

問1 この会話の内容を踏まえながら、図1が描かれたころのアジア、図2が描かれたころのヨーロッパ、それぞれの学問・思想をめぐる文化的な背景について述べなさい(200字程度)

問2 下線部で先生が与えた宿題に対する答えを述べなさい(180字程度)。

 

(Ⅲ) 次の資料1と資料2を参照し、以下の問1と問2に答えなさい。

 資料1 ドイツ連邦共和国大統領ワイツゼッカーの演説(1984年6月11日)からの抜粋
 今日、私たちには挑むべき挑戦が二つあります。一つは、第三世界に関するものです。マーシャルは、飢餓、貧困、絶望そして混乱に立ち向かうと述べました。彼の計画は、被援助国が自力では困難を乗り越えられるように手助けをしました。彼が述べた「ヨーロッパ」という言葉は、ほぼ現在の「第三世界」という言葉に置き換えて理解することができます。(中略)今日のもう一つの挑戦は、ヨーロッパ人として、ドイツ人として、特に私たちの心と責任に迫る問題──東西関係に関するものです。(中略)それは、東も西も単独では解決できない、世界の人口問題、飢え、自然破壊、科学技術の発展に伴う倫理上の問題、東西の平和な関係の構築に関する多くの問題です。マーシャルの時代とは違い、巨額の贈与や借款の供与は不可能ですが、今日の東西関係には質的に全く新しい協力が可能です。(中略)私たちは、40年前にマーシャルが世界に送ったメッセージの遺産に恥じないような行動をとることを求められているのです。

 資料2 1990年国債ドル表示の1人当たり実質GDPの推移

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(アンガス・マディソン著、金森久雄監訳『世界経済の成長史 1820〜1992年』東洋経済新報社、2000年より作成。)

問1 マーシャルプランによる巨額の贈与や借款の供与は、西ヨーロッパ諸国の戦後復興のために大きな役目を果たしたが、資料1には、プランの実施が後世に及ぼした多様な影響が述べられている。その影響とは何であったか。資料1と資料2から情報を読み取って、1947年〜1970年のヨーロッパにおける経済と国際関係に焦点を絞り説明しなさい(150字程度)。

問2 資料1には、第三世界を援助の必要性が示唆されているが、第三世界の中には自力で人々の生活向上を目指そうとする諸国間協力の動きもあった。アフリカ統一機構(OAU)の発足などはその一例である。こうした動きは植民地に一挙に新興独立国が誕生したことにも関連している。資料2にの中でいわゆる「アフリカの年」に植民地から独立した国はどれか国名を一つ答えなさい。

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外国語以外の第3問

(Ⅲ) 次の文章を読んで、以下の問1問2に答えなさい。

 1920年、ちょうどハジ・ミスバー*が中央ジャワの砂糖地帯で革命を目指して政治運動を展開していた頃、植民地政府はその地で初めての「学術的な方法に基づくセンサス(人口調査)」を実施したのだ。その実施の時期は同時代の世界と比較すれば、わずかに遅かったことは否めないのだが、そうひどく遅れていたわけでもなかった。かつて新生独立国家アメリカ合衆国が1790年にあたふたと国民的人口統計を行ったことで、学術的手法の萌芽となるような行政府主導のセンサス活動に着手した初めての国家となった。それはフランス、オランダ、イギリスに10年ばかり先立つ出来事であった。
 だが、1850年に至るまで、算出は世帯単位で行われ、世帯主の名前のみが記録されていた。1880年になって初めて、ワシントンに連邦政府の国勢調査室が設置されたが、正式の政府内の部局として改編され、国家の常設専従機関になるのは1902年を待たねばならなかった。しかし、世界を見渡してみるならば、第一回国際統計学会議がブリュッセルで開かれ、センサスで得られた調査データを国家間で比較できるようにし、統一的な調査内容と手法を達成するための基礎となる「学術的」な条件規定を制定する決議を採択したのは、やっとのこと1853年である。つまり、ヨーロッパがナショナリズムの動乱でおおわれた1848年革命の余波の最中のことだったのである。
 (ベネディクト・アンダーソン著、糟谷啓介ほか訳『比較の亡霊─ナショナリズム・東南アジア・世界』作品社、2005年より引用。)
 *ハジ・ミスバー(1876-1926)……オランダ領東インドで活躍したムスリムの共産主義者。

問1 この文章で記された時期に欧米諸国で人口調査が確立されていった背景について、政治体制や社会体制の変化と関連づけながら述べなさい(120字程度)。

問2 本格的人口調査は、西欧諸国の植民地が数多く存在した東南アジアでも、19世紀以降に実施され、民族・人種的分類に基づくデータ収集が行われた。この人口調査が、植民地経営や、その地域におけるのちの政治動向に与えた影響を述べなさい(100字程度)。