世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2018


 次の文章を読んで、問いに答えない。
 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまだ生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が……始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)


 近代ドイツの史学史に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 総じて言えば、一概に古代経済史研究とは称しても、歴史学派〔経済学〕におけるものと〔近代歴史学の〕古典古代学におけるものとは、研究への志向の契機においても、事象の対象化の方法においても、ひとしからざるものが存するのである。歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであって──即ち歴史学ではないのであって──古代にも生活のー特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機を形作ってゐるのに、古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機になってゐる。歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐるのに、古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として、又等質たるべき両世界として表象することが主要問題になってゐる。古典古代学にも発展の理念は存するけれども、それは等質の両世界における、同一律動のそして自界完了的なる発展の理念であって、全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念ではない。古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学における方法であるのに、古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう
 (『上原専祿著作集3 ドイツ近代歴史学研究新版』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部について、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい。(400字以内)


 次の文章は、ある朝鮮人革命家が、アメリカのジャーナリストに語った回想を元に書かれたものである。これを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 先生は、中学校の教室の前に芝居じみた厳粛さで立ち、生涯忘れられない美しい言葉のあふれる演説をした──今日それはなんと反語的に響くことか!
 「この日、朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和なデモ行動が行われよう。われわれはただ独立と民主主義を求めるのみだ。誰もわれわれの正当な要求を拒むことはできない。」
 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。
 デモの途中、町の中で大衆集会が開かれ、そこで新たな独立宣言が読みあげられた。この宣言は国際主義的心情の色彩が濃く、平和精神と万国の国際的信義の擁護とをうたっていた。また中国とインドに共闘の呼びかけを行っているが、中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた
 私は世界的大運動に重要な役割を演じているような気持ちで、至福千年がついに来たのだと思いこんでいた。しばらくして伝わってきたヴェルサイユの裏切りのショックは大変なもので、私などまるで心臓が裂けてとび出すかと思った。
 (ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌』より引用。但し、一部改変)

問1 この文章全体で描写されている運動と下線①が示す運動について、それぞれの名称を示しなさい。

問2 下線②で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を論じなさい。

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コメント

第1問
 過去問1982年の導入文・問題とほぼ同じものでした。ちがうのは300字から400字になっていること、「政治」が「社会」に置き換わったことくらいです。過去問とほぼそっくりな問題を出すということは朝鮮史でも見られますが、この大学の怠慢性を表しているのか、受験生はそれほど古い過去問は解いてこないはずとナメているのか?
 1982年の問い方は以下のものです。このブログの1982年は導入文を省略していますが、ほぼ2018年と同じです。

 中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ。

 この問い方は「以前の空間意識と対比しながら」と今年の「変化」という問いかたより明快性を求めているようにとれます。ただ「変化」とはbeforeとafterであり以前の空間から以後の空間と相違をはっきり書くことは変りません。
 また「中世中期」という言葉が分かりにくかったためか、今年は「11〜13世紀」と時期を指示しています。もしかして出題者はかつての受験生だったのかも知れない。中世は300年ずつ分けて前期・中期・後期と区分するのでなく、前期ははじめの500年間を指し、11〜13世紀を中期とし、後の14〜15世紀を末期(後期)とします。この時代区分は拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも指摘しています。

 問われているのは「「空間革命」……(1)それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような⑵経済・⑶社会・⑷文化上の変化が生じたか」でした。(1)は十字軍・東方植民・レコンキスタの三個です。ともに軍事行動です。東方植民は過去問2013年度に出題されたテーマであり、『北の十字軍 ヨーロッパの北方拡大』ともいう行動です。これらの軍事行動を初期膨張ともいいます。「きっかけ」は何かが動き出す、ここでは革命がおきる際の勢いを指しているので、たんに気候の温暖化とか、三圃制という技術では弱い「背景」的なものです。
 ⑵⑶⑷はそれぞれ「変化」を書くので、以前と以後を双方とも書けば6つの課題が課せられています。

 ところで空間革命とは何かが気になります。ヒントは導入文にあり、「別の大きさ、深み、そして別の地平……新しい土地、新しい海……、新しい学問、新しい秩序」と書いていて、質的な中身の変化でなく三次元的な広がりを強調しています。
 たとえば次のような解答例があります。

エルベ川以東への東方植民やセルジューク朝の圧力を受けたビザンツ帝国の要請による十字軍遠征、イベリア半島でのキリスト教徒によるレコンキスタが行われ、ノルマン人も南イタリアやシチリア島を征服した。

 これは「きっかけ」にあたる軍事行動そのものですが、さてこの行動の「結果として」どのような「空間革命」が起きたといいたいのでしょうか? 書いてありません。結果として、エルベ川とピレネー山脈とカルパティア山脈の中に閉じ込められていた閉鎖的な空間(before)が、その東部(東欧)に南部(イベリア半島)に東南部(バルカン半島から小アジア・レヴァント)にと広げられ、ヨーロッパが拡大されたヨーロッパ(after)に変貌してきました。
 先の作答者は「きっかけ」と「背景」を混同しているようです。この解答文の前に、「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して」と書いています。この内容は「きっかけ」でなく背景です。
 「きっかけ」と「背景」はどうちがうのでしょう? 前者は、導入文に「クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって」とあるように何か革命が起きる「前進……爆発」という事件を指しています。「背景」なら学問が該当します。先の解答例の温暖化・三圃制・安定は事件がおきるバックグラウンドや状況のことです。「きっかけ」は「起爆剤・引き金・端緒・呼び水」になるものを指しています。
 次のような解答例はどうでしょうか?

人々の移動が活発化し、都市への人口流入も進んだ。遠隔地商業も発達し、北イタリアのヴェネツィアなどはレヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも貨幣経済が浸透し、定期市も開催され、中世都市は特許状を得て自治権を獲得した。

 これは経済の変化を書いたのでしょうか? またbeforeの空間がどういものかかがはっきりしません。これはafterを書いているのですが、その内容に空間的なものとしては、「都市への人口流入……レヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも」といった点が該当するにもかかわらず、空間革命としてこれらを説明していません。
 つまり以前に中世都市という空間はなく、この11〜13世紀に農村と都市の二重空間に変貌したのです。また商業空間は地中海世界にほぼ限られていたものが、北海・バルト海・レヴァント(東地中海)もふくむ全欧に広がったのです。
 「人口流入も進ん……貨幣経済が浸透」は空間というよりも質的な変化なので書かなくていいものです。
 また「社会」の変化はどれがそうなのかはっきりしません。経済と社会をいっしよくたにしたのかも知れません。しかしこれでは得点はとりにくい。「社会」と指定されたら、特別に社会の変化はこうだと説明すべきです。どうやら都市への人口流入を社会的変化としているようで、それなら「社会」を書いてから「経済」を書いたという順が、課題文と合っていません。できるだけ、経済空間の革命は……、社会空間の革命は……、という順で説明すべきです。
 「社会」は政治以外のことを書けばいいのですが(拙著『世界史論述練習帳new』のコラム「社会とはなに?」を参照)、すでに「経済」「文化」は別枠になるので、それ以外とすれば、都市と農村、民族、共同体のあり方、などが考えられます。都市と農村の二重構造はすでに説明しました。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人(ビザンツ帝国)に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒の集団が進出して、自己の世界を拡大しました。十字軍は当時は巡礼とみられていましたが、その巡礼が盛んとなり、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラへ、イェルサレムへと足が伸ばされました。旅行の空間が拡大しています。

 「文化」空間の革命はどうでしょう? 次の解答文はどうでしょう?

イスラーム世界との接点となったパレルモやトレドではギリシア語やアラビア語文献がラテン語に翻訳され、古典古代文化やイスラーム文化が西ヨーロッパに流入してスコラ学などの発展を促し、新知識を求め人々が集まった都市には大学が設立された。

 書いてある内容にまちがいはありませんが、空間として書かれているのは大学だけです。以前の空間は何だったのでしょう? 修道院や宮殿でした。カロリング=ルネサンスの宮殿、クリュニー修道院のような狭い空間に学問は限られていました。それが11〜13世紀に次々と大学が創設され、学問内容もカトリック教会内の狭いものでなくイスラーム文明の広範な学問を取り入れました。このイスラーム文明を受け入れる「12世紀ルネサンス」という翻訳活動もさかんでした。以前はアーヘンの宮殿でラテン語の復活やカロリング小字体で古典の写本をつくることに専念していました。それがアリストテレスという広い学問を導入して、体系的なスコラ学を完成しました。学問領域も神学だけでなく、法学・医学も加わり、練金術も研究されました。
 また都市には、暗いロマネスク様式に代わり、ギルド毎のゴシック様式の教会が建てられ、ステンドグラスの輝く空間が出現しました。
 他人の答案を批判対象にしたので、わたしの答案もあげておきます。批判の対象にしてください。

(わたしの解答例)
きっかけは十字軍・レコンキスタ・東方植民などの遠征である。経済面の商工業空間は地中海商圏だけであったが、革命の結果、北海・バルト海商圏、中継地のシャンパーニュ、フランドル、更にレヴァント地方も含む全欧的な空間に広がった。社会面の以前は、領主・農奴による古典荘園で孤立していたが、革命後は中世都市とギルドが生まれ、農村と都市の二重構造に変った。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒が自己拡大をとげた。巡礼はサンチャゴ=デ=コンポステラやイェルサレムへと足が伸ばされた。文化面は文字文化が宮廷や修道院の閉鎖的空間に限られていた。「12世紀ルネサンス」による革命後は大学の学問、世俗文学、都市のゴシック寺院に拡大した。神学だけでなく、アリストテレスを軸とした広い学問領域に拡大し、医学も法学も練金術も研究するように変った。

第2問
 一橋の特徴がよく表れた問題です。大学の講義・試験をそのまま高校生・受験生にぶつける、という落差の大きさです。悪くいえば、あまりの鈍感さです。高校生がどういう世界史を学んできたのか考慮せず、自分の学問が高校生にも分かるはずだという、自己陶酔的・自閉症的な問題です。古代経済史研究(近代歴史学)と歴史学派経済学の比較を求められても、近代歴史学による古代経済史研究がどのようなものか教科書には一切書いてないし、「歴史学派経済学」としてリストの名は挙がっていても、それがどのような経済学なのかハッキリしません。

先駆者リストは、古典派経済学とことなり、おくれた発展段階にある国民経済は国家の保護を必要とすると説いて、ドイツ関税同盟の結成に努力した(詳説世界史)
ドイツのリストは、後発資本主義国の立場から、国家による産業の保護育成の必要を唱え、のちの歴史学派経済学の先がけとなった。(東京書籍)

 という二つの教科書では、「国家の保護」は共通した説明をしていますが、前者の「発展段階にある国民経済」、後者の「後発資本主義国の立場」が「歴史学」派のなんらかのヒントにはなっているとまでは推理できます。しかし古代経済史研究がどのようなものか分からない場合、比較のしようもありません。

 近代歴史学についての教科書の記事は、

ランケらが史料の厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた(詳説世界史)
近代歴史学の基礎を固めたランケ(東京書籍)

 これをもとに歴史学派経済学は「史料の厳密な検討によって正確な史実を究明」しない学問なのか……、と疑ってみてもらちの明かないことでしょう。受験生の手元にこれを証明する何があるのでしょうか?
 受験生としてはこの問題に対して白紙で返すのが、一つの抗議の姿勢になります。たぶん白紙の多さに採点したひとたち(教授)も納得したのではないでしょうか? 自分が高校生だったときにこの問題は解けたか? 無理だなあ、という感想になるでしょう。
 それでもなんとか書かなくては、という脅迫の中で、考えるとすれば、導入文の文章しか手がかりはありません。文章を拾ってみると、
 
(1)歴史学派経済学は経済学
  全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する
  全人類的発展の観念
  古代の事象は、それが経済世界を構成する方向
(2)(近代歴史学による)古典古代学は古代世界への親炙が研究契機
  古代と現代とを本来等質の両世界として表象
  自界完了的
  古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向

 難解そうな言いまわしがあるけれど、単純化すれば(1)の研究対象は経済学であり、(2)は歴史学なので、ちがうのだ、という馬鹿馬鹿しいくらいの主張です。(1)は経済だけを対象にしていて、(2)は経済も含む古代世界全体を対象にしている、(1)は「古代経済を排列する」とあるように、現代までつづく経済の発展に関心があり、(2)にはそんな関心はない、というものです。

 下線部の「もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう」は分かりにくい文章です。「論争」ってどんな「古代経済に関する」論争があったのか日本の高校生が知っているのでしょうか? もし経済学部の大学生に聞いたら知っている学生は何人いるでしょうか?
 導入文のどこにも精神的・文化史的な説明がありません。この下線部を根拠にして、課題文は「歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい」は難題・奇問・狂問です。歴史的コンテクスト(歴史的背景)の「対比」といっても同じ「近代」の中での対比です。

 導入文をもとに、それを受験生なりに説明してみることの他、手だてはないようです。「導入文の解説」が問題なの? ということに疑問に感じつつも、やっみることにします。

歴史学派経済学は全欧的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する、ということを課題にしており、ギリシア・ローマの歴史はドイツ近代の歴史につながる土台として位置づけようとした。そこには啓蒙思想の影響がみられ、たんなる過去の過ぎ去った歴史とはとらず、連続した全人類的発展の観念をもち、古代の事象は、それが経済世界を構成する方向性をもったものととらえる。とくに歴史学派は当時の経済問題の解決策の一つとして古代史を論争の対象にしていた。そこにはどのような政策が現今の問題を解決するかという実践的な課題をかかえていた。しかし近代歴史学による古典古代学は、古代世界そのものが研究の契機であり対象である。古代は古代として現代と切り離して考察の対象としており、人類史の初期事象として考えるような連続性は意識しておらず、古代は古代で完結した、現代とは必ずしも関連性をもった歴史とはみなしていない。まして政策的な課題を自己の課題としてはいない。

 といったことになるでしょう。
 しかし、これでいいのか、晴れないので、導入文の原文を読んでみることにしました。
 導入文の「総じて言えば」で始まる論文の題は『歴史的経済派の古代経済史研究』というもので、たくさんのドイツ人歴史家の著書・論文を紹介しています。だが、この問題の課題である「近代歴史学」との比較をしている部分はありません。ランケのことを述べた個所もなくて、ただ歴史学派の古代研究を解説してから、結論として、いきなり、「総じて言えば、」と近代歴史学との比較論に入っています。出題者はこの導入文を大学の講義で解説しているのかも知れませんが、受験生には知りようもありません。
 歴史学派経済学の中にマックス=ヴェーバーを入れて、彼について結構書いてありますが、ヴェバーはヴェーバー独自の法制史・社会史の研究があり、古代研究の一面を提示しています。しかし、受験生がこのヴェーバーを使えるとはおもえません。
 またアダム=スミスとフリードリヒ=リストの相違点を明解に書いていますが、これは経済学と経済学の英独間の論争であり、ここで問題になっている古代経済史論争ではありません。
 受験生の立場にたてば、リストとランケでしか「歴史学派経済学と近代歴史学の相違……対比させつつ考察しなさい」の解答は出せそうにありません。ところが上原專祿がこの論文に書いているようにリストは「主著『政治経済の国民的体系』が問題になる限りにおいては、古代経済について関説するところは極めて少い(p.42)」「古代経済に積極的関心を示して居らない(p.51)」のです。ならばリストが言及していない古代経済について、さも言及したかのように作文をすることになります。
 こういう論文を元にこの問題が出題されること自体が異常というほかありません。
 ランケが「厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた」と言ったとしても、その著作を読んだひとは、そうは受けとらないはずです。西欧至上主義に毒されていて、上原專祿も別の論文でビスマルクの考えに近いことを説明しています。こうなると、どういう対比が可能なのか、ますます怪しいことになります。リストもドイツ優遇の政策をとるべきと唱えた人物で、共通性が多いといわねばなりません。
 予備校の解答例をネットでご覧ください。「対比」にはならず、共通点を書いています。どこがどう対比されているのか作答者たちも訳がわからなくなったようです。たいていどちらも国家の保護・国民固有の歴史・国民国家の強調(ナショナリズム)などとを書いていて、対比になっていません。

第3問
問1 「描写されている運動」と「下線①が示す運動」の名称。
 引用文の「朝鮮独立の宣言……平和なデモ行動」とあるので朝鮮の三一運動(三・一独立運動)と推理できます。また山東利権(二十一カ条要求の一部)をめぐる同時期の中国の運動として五四運動(五・四運動)が想起できます。

問2 下線②で示されている会議(ヴェルサイユの裏切り)に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を、という課題。三一運動と五四運動の双方とも背景・展開・意義を書かなくてはならないので、6個の要求があります。予備校の解答例では、両国に共通する国際的な背景を書いていても、双方でちがう背景もあるのに書いていません。どれが意義に当たるのか明快な説明もありません。採点官にこれがそうだろうなあ、と推測させるものになっています。課題文のように、背景は……、展開は……、意義は……、と書くのが望ましい。自分の解答を明解にします。

 共通する国際的な背景が「ヴェルサイユの裏切り」、つまり十四ヵ条の民族自決が適用されなかったこと、二十一カ条廃棄が認知されなかったことですが、その他にロシア革命、東欧諸国独立のニュース、アジア諸国の独立運動のニュースがありました。裏切られた、といっても東欧諸国は18年の段階で独立運動と独立宣言を行っていて、パリ講和会議の承認をまっていたのですが、アジアでは戦争中に独立宣言を出したところはないので、遅れた運動であったこと、アジアの独立を認める考えが西欧列強にこの段階ではなかったことも考慮すると、「裏切り」は無理な表現ともとれます。
 しかしロシア革命の影響は大きく、各地でソヴィエト政権ができる情勢でした。北京大学の李大釗はロシア革命を「庶民の勝利」とマルクス主義研究会をつくりました。これが後の共産党に発展します。

 朝鮮の背景は、19世紀末からの義兵闘争がありながら、日本軍は韓国を併合して植民地化していました。すでに過酷な武断支配が10年つづいていて、その間、約2万人の義兵を殺害しています。「保安法」「新聞紙法」「出版法」「朝鮮笞刑令」などによって言論・集会・結社という市民的な自由を奪い、「三人以上集会スルヲ許サレズ」という圧迫を加えていました。
 経済面では、「土地調査令」「森林令」などの法令により莫大な国有地や民有地を略奪し、東洋拓殖株式會社という土地売買の会社を皇室・財閥によって設立し、これを日本人移民に安く払い下げる事業をすすめました。日本人地主は1909〜15年の間に692人から6969人に増えます(朴慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社)。「日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった」といわれました(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店)。
 文化的には、「朝鮮教育令」(1911)を公布し、日本語の使用を強制し、朝鮮の歴史、地理を教科目からなくしました。書堂(私立学校)に対する規制をきびしくし、法令違反にたいしては学校閉鎖を断行したため、1910年に1973校あったのが、19年には742校となり、学生数も8万余から3万8千余に減ってしまいました(朴慶植・前掲書)。
 1919年1月幽閉されていた高宗が突如死去しました。日本人による毒殺とみられています。

 展開過程は、まず1月からのパリ講和会議の開催にともない、日本に留学していた学生たちが独立宣言書を書いて日本政府・朝鮮総督府・各国大使館などに送り、2月8日にYMCA会館で留学生大会を開き、独立宣言書を読んで「大韓独立万歳」を叫びました。逮捕される者が増えていきましたが、韓国内に刺激をあたえ、パゴダ公園で独立宣言書が読まれてデモ活動に入りました。すると日本から帰国するものたち(約360人)も加わり、全国的な運動に発展しました。学生・市民・農民・工場労働者・儒生・宗教家・官吏(両班)など全階層が参加します。
 非暴力(無抵抗主義)の原則としてデモをしましたが、日本側の対応は銃殺でした。弾圧による朝鮮人の死者は、日本側の発表で7509名、負傷者1万5849名、被逮捕者4万6306名、被焼却民家715戸、同教会47、同学校2となっていますが、実数は数倍になるでしょう。まるで戦場で掃討作戦をおこなったような弾圧です。
 なかでも韓国で知られていて日本で知られていない殺戮は「水原提巌里」のものです。

 4月15日午後、日本軍一中尉〔有田俊夫ー引用者〕の指揮する一隊が水原郡の南方の提巌里〔郷南面ー引用者〕に入り、村民に諭示することがあると称してキリスト教徒および天道教徒30余人を教会に集合させた。そして教会の窓や戸を堅く閉ざし、ほしいままに兵隊は教会堂内に射撃を加えた。堂内の一婦人が抱いていた幼児を窓の外にだし、「私は殺されてもこの子の命は助けてほしい」とたのんだが、日本兵はその子の頭を突き剌して殺した。堂内の人々もほとんど死傷した。日本兵はさらに放火して教会堂を焼いた。洪某が傷を負って窓外にとびだしたところ日本兵はこれを射殺した。康某の妻は夜着(よぎ)でからだをつつみ、かきねの下にかくれたが、日本兵は銃剣で突き殺し、夜着をかぶせて焼いた。また洪夫人が火を消そうとしたところを射殺され、幼児2人もまた殺された。また1人の若い婦人はその夫を救おうとしてやってきて殺された。こうして教会堂内で殺されたものぱ22人、教会の庭で死んだものは6人で屍体は焼却された。日本兵はまた采巌里(ママ)の民家31戸に放火したが、火は8面15村落317戸に延焼し、死者は39人に達した。さらに近隣の村落で連日銃撃、焼却、殴打などの蛮行がおこなわれ、死者は千余人にのぼった。(朴殷植『朝鮮独立運動の血史1』p.212〜213)

 この半島の運動は、波及して上海に大韓民国臨時政府の設立に、朝鮮人が多く住む中国東北地方の間島や沿海州で活動につながりました。また日本側の軍事的な鎮圧は、この後に起きた関東大震災時における朝鮮人虐殺に連動しました。1919年当時、朝鮮で政務総監の水野錬太郎、警察局長の赤地濃、憲兵司令官の石光真臣、京畿道憲兵分隊長の甘粕正彦は、23年には日本に帰国していて、内相・警視総監・東京南部警備司令官・憲兵大尉となり治安の中心でした。日本で殺戮を再現する面々です。

 三一運動の意義は、第一に軍事的な弾圧にもかかわらず、全階層・全民族がこぞって参加したため、それまでの儒生や元兵士による義兵闘争とちがい非暴力の運動を展開したこと。第二に、周辺地域の運動にも影響をあたえました。とくに中国領内に亡命して伝えたものたちがいて、5月7日におこなうはずのものが「五四」運動に早まりました。第三に、日本は武断政治を文化政治に転換して、いくらか朝鮮語の新聞・雑誌の発行、社会.労働団体の結成などを認めました。

 中国の背景は、辛亥革命への失望があり、軍閥が割拠していて中国の行く末を多くのひとが心配していました。北京大学長の蔡元培は革新的な学者を招いて大学改革を実施しており、「新文化運動」がおこっていて、白話運動に共鳴した魯迅の『狂人日記』が発表されました。また陳独秀は雑誌『新青年』を発行し孔子を否定して「デモクラシーとサイエンス」先生に学ぼうと呼びかけていました。経済面では、第一次世界大戦間に欧米企業が後退したため、紡績、製粉、マッチ、タバコ、石鹸などの軽工業を中心に、民族産業が戦争中に発展しました。労働者の数も戦争中に60万人から200万人に一気に増えました。しかし長時間労働が課せられ、結社、集会、ストは刑罰で禁止されていました。戦争中に二十一カ条要求が日本からつきつけられ、それを容認した北京政府や日本から懐を暖めてもらっている軍閥への反発が強まっていました。
 運動の展開過程は、本来二十一カ条要求を受けて入れた「国恥」記念日たる5月7日に大規模デモを予定していたのが、北京大学の学生が4日に天安門広場で「二十一ヵ条を取消せ」「青島を返せ」「売国賊を懲罰せよ」とプラカードをかかげて市内をデモ行進したことが波及し、売国奴宅の襲撃、警察との衝突に発展、逮捕される学生もいました。逮捕のニュースは市民にも、全国の都市にも衝撃をあたえ、ストが頻発することになりました。これを受けて北京政府はヴェルサイユ条約の調印拒否、売国奴とされて高官の罷免を決めました。初めて女性たちも街頭に出てデモをした運動でした。
 意義は、5月4日を今も「青年節」として祝っているように、学生を中心に、いわゆる「大衆」、権力も金もない学生、市民、商人、労働者が運動の主体となり、それまで一部革命家・民族資本家たちの活動であったのが、そうではないひとひどが生活の場でたちあがったこと。第二に、排除すべきは、中国を圧迫する日本・英国などの帝国主義列強であること、その状態を許す古い勢力たる軍閥の打倒しなくてはならないこと、そのことを志向する中国国民党と共産党の結成されたこと、などです。

 上の解説を参考に、君の解答をつくってみてください。