世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2018

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
 内外の圧力で崩壊の危機に瀕(ひん)していた、近代のオスマン帝国や成立初期のトルコ共和国では、どのような人々を結集して統合を維持するかという問題が重要であった。歴代の指導者たちは、それぞれ異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 秦王扇政(えいせい)は、前221年に(1)を滅ぼし「天下一統」を成し遂げると、「王」に代わる新たな称号を臣下に議論させた。丞相らは「泰皇」なる称号を答申したが、(2)秦王はこれを退け「皇帝」と号することを自ら定めた。以来二千年以上の長きにわたって、「皇帝」が中国における君主の称号として用いられることとなった。
 「皇帝」は、唯一無二の存在と観念されるのが通例であるが、歴史上、複数の皇帝が並び立ったことも珍しくない。たとえば「三国時代」である。220年、(3)後漢の献帝から帝位を禅譲された(4)曹丕が魏王朝を開き洛陽を都としたのに対し、漢室の末裔を標榜する[ a ]は成都で皇帝に即位し(蜀)、次いで孫権が江南で帝位に即いた(呉)。魏は263年に魏軍の侵攻により滅亡、呉も280年に滅び、中国は再び単独の皇帝により統治されるに至るが、魂も265年、可馬炎が建てた晋に取って代わられていた。
 晋による統一は八王の乱に始まる動乱の前に潰(つい)え去り、江南に難を避けた華北出身の貴族らが晋の皇族を皇帝と仰ぐ政権を建康に樹立、その後、(5)門閥貴族が軍人出身の皇帝を奉戴する王朝の時代が百数十年の長きにわたって継続した。華北では、「五胡十六国」の時代を経て、(6)鮮卑による王朝が5世紀半ばに華北統ーを果たした
 隋末の大混乱を収拾し中国を統一した唐王朝は、(7)第2代皇帝太宗の時、北アジア遊牧世界の覇者であった東突厭を服属させ、太宗は鉄勒諸部から「天可汗」の称号を奉られた。(8)統一を果たしたチベットに対しては、皇女を嫁がせて関係の安定を図った。
 唐の第3代皇帝高宗の皇后となった(9)武照(則天武后)は、690年、皇帝に即位し国号を「周」と改めた。(10)中国史上初の女性皇帝の誕生である。後継者に指名されたのは彼女が高宗との間にもうけた男子であったが、彼の即位直後、国号は「唐」に復された。
 10世紀後半に中華を再統合した宋王朝は、(11)失地回復を目指して契丹(遼)と対立したが、1004年、両国の間に講和が成立した。「澶淵の盟」と呼ばれるこの和約では、国境の現状維持、宋から契丹に(12)歳幣をおくることなどが取り決められた。両国皇帝は互いに相手を「皇帝」と認め、名分の上では対等の関係となった。
 12世紀前半、女真の建てた金に都を奪われ、(13)上皇と皇帝を北方に拉致された宋では、高宗が河南で即位したものの、金軍の攻撃を受けて各地を転々とした。やがて杭州を行在(あんざい)と定めると、高宗は、主戦派と(14)講和派が対立する中、金との和睦を決断する。この結果、准水を両国の国境とすることが定められたほか、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年貢納品をおくることとなった。


 (1) 戦国時代、斉の都には多くの学者が招かれ、斉王は彼らに支援の手を差し伸べたとされる。「稷下(しょっか)の学士」と称されたこれら学者のうち、「性悪説」を説いたことで知られる人物は誰か。
 (2) このとき彼は、自らの死後の呼び名についても定めている。その呼び名を答えよ。
 (3) この時代、ある宦官によって製紙法が改良された。その宦官の名前を答えよ。
 (4) 彼が皇帝に即位した年に創始された官吏登用制度は何か。
 (5) この時代、対句を用いた華麗典雅な文体が流行する。その名称を答えよ。
 (6) 華北を統一してから約半世紀後、この王朝は洛陽への遷都を行う。この遷都を断行した皇帝は誰か。
 (7) 彼の治世に陸路インドに赴き、帰国後は『大般若波羅蜜多経』などの仏典を漢訳した僧侶は誰か。
 (8) 7世紀前半、チベットを統一した人物は誰か。
 (9) 仏教を信奉した彼女は、5世紀末から洛陽南郊に造営が始められた石窟に、壮大な仏像を造らせた。その仏教石窟の名称を答えよ。
 (10) 皇帝とはならなかったものの、朝廷で絶大な権力を振るった女性は少なくない。このうち、清の同治帝・光緒帝の時代に朝廷の実権を掌握した人物は誰か。
 (11) ここで言う「失地」とは、契丹が後晋王朝の成立を援助した代償として譲渡された地域を指す。その地域は歴史上何と呼ばれているか。
 (12) 歳幣として宋から契丹におくられた品は絹と何か。その品名を答えよ。
 (13) 文化・芸術を愛好し、自らも絵筆をとったことで知られるこの人物が得意とした画風は何と呼ばれているか。
 (14) 高宗を金との和平に導いた講和派の代表的人物とは誰か。

B 現在、中華人民共和国には4つの直轄市が存在する。北京市を除く3つの直轄市にはかつて租界が存在した。
 最も早くに租界が置かれたのは1842年の南京条約によって開港された上海であった。1845年にイギリス租界、1848年にアメリカ租界、1849年にフランス租界が設置され、1854年にはイギリス租界とアメリカ租界が合併して共同租界となった。租界はもともと外国人の居住地であったが、(15)太平天国の乱によって大量の中国人難民が流入したことを契機として、中国人の居住も認められることになった。共同租界には工部局、フランス租界には公董局と呼ばれる行政機関が置かれ、独自の警察組織や司法制度を有していた。租界は中国の主権が及ばず、比較的自由な言論活動が可能であったことから、(16)革命活動の拠点のーつとなった。
 上海は中国経済の中心でもあった。1910年代から1930年代にかけて、上海港の貿易額は全中国の4割から5割を占めた。また、上海には(17)紡績業を中心に数多くの工場が建てられた。上海の文化的繁栄はこうした経済発展に下支えされていた。1937年、日中戦争が勃発すると、戦火は上海にも及び、租界は日本軍占領地域のなかの「孤島」となる。1941年12月、日本軍が上海の共同租界に進駐した。1943年に日本が共同租界を返還すると、(18)フランスもフランス租界を返還し、上海の租界の歴史は幕を閉じた。
 直轄市のうち最も人口が少ない[ b ]市は、1860年の北京条約によって開港され、イギリス、フランス、アメリカが租界を設置した。次いで、(19)日清戦争後の数年間にドイツ、日本、ロシア、(20)ベルギーなどが次々と租界を開設した。この前後の時期、直隷総督・北洋大臣の(21)李鴻章や袁世凱が[ b ]を拠点に近代化政策を相次いで実施した。(22)[ b ]は政治の中心地である北京に近いこともあって、数多くの政治家、軍人、官僚、財界人、文人が居を構えていた。[ b ]には最も多い時には8か国の租界があったが、(23)1917年にはドイツとオーストリア=ハンガリーの租界が接収され、1924年にはソ連、1931年にはベルギーの租界が返還された。さらに、1943年には日本租界を含むすべての租界が中国側に返還された。
 直轄市のうち人口も面積も最大の[ c ]市に租界があったことはあまり知られていない。というのも、[ c ]の租界は、上記の2都市とは違って、政治的、経済的影響力をほとんど持たなかったからである。[ c ]で唯一の租界である日本租界は1901年に設置されたが、1926年になっても[ c ]に居留する日本人は100名余りで、このうち租界に居住していたのは20名余りにすぎなかった。[ c ]の日本人居留民は中国人による租界回収運動により、たびたび引き揚げを余儀なくされた。1937年の3度目の引き揚げ後、国民政府は日本租界を回収した。翌年、(24)国民政府は[ c ]に遷都し、抗戦を続けた。


 (15) (ア) 太平天国軍を平定するために曾国藩が組織した軍隊は何か。
 (イ) 太平天国軍との戦いでウォードの戦死後に常勝軍を指揮し、のちスーダンで戦死したイギリスの軍人は誰か。
 (16) 1921年に上海で組織された政党の創設者の一人で、『青年雑誌』(のちの『新青年』)を刊行したことでも知られる人物は誰か。
 (17) 日本人が経営する紡績工場での労働争議を契機として1925年に起こった反帝国主義運動を何と呼ぶか。
 (18) 日本の圧力を受けてフランス租界を返還した対ドイツ協力政権を何と呼ぶか。
 (19) 日清戦争の契機となった甲午農民戦争は、東学の乱とも呼ばれる。東学の創始者は誰か。
 (20) フランドル(現在のベルギーの一部)出身のイエズス会士で、17世紀半ばに中国に至り、アダム=シャールを補佐して暦法の改定をおこなった人物は誰か。
 (21) (ア) 李鴻章と伊藤博文は朝鮮の開化派が起こしたある政治的事件の処理を巡って1885年に条約を締結した。この政治的事件は何か。
 (イ) (ア)の政治的事件は、対外戦争での清の劣勢を好機と見た開化派が起こしたものである。この対外戦争とは何か。
 (22) この都市の日本租界で暮らしていた溥儀は、満洲事変勃発後に日本軍に連れ出され、1932年に満洲国執政に就任した。それ以前に中国東北地方を支配し、のち西安事件を起こした人物は誰か。
 (23) 中国が連合国側に立って第一次世界大戦に参戦したことがこの背景にある。同年、アメリカも連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。アメリカ参戦の最大の契機となったドイツ軍の軍事作戦は何か。
 (24) (ア) 1938年12月にこの都市を脱出、1940年に南京国民政府を樹立して、その主席に就任した人物は誰か。
 (ィ) 1919年に上海で樹立された大韓民国臨時政府は、1940年にこの都市に移転する。大韓民国臨時政府初代大統領で、1948年に大韓民国初代大統領となった人物は誰か。

 

第3問(20点)
 中世ヨーロッパの十字軍運動は200年近くにわたって続けられた。その間、その性格はどのように変化したのか、また、十字軍運動は中世ヨーロッパの政治・宗教・経済にどのような影響を及ぼしたのか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A エジプトに、都市[ a ]が建設されたのは紀元前4世紀のことであった。地中海世界の東西南北から文物の集まるこの都市に開設された図書館は名高く、膨大な蔵書を誇った。エジプトがローマ帝国の支配下にあった紀元2世紀半ば、[ a ]で、この知的伝統の上に立って、『天文学大全』でも知られる[ b ]が『地理学』を書いた。同書は天文学と(1)幾何学を用いて地球の形態や大きさを測り平面地図に表現する方法を記し、既知世界の8,000以上の地点を経度・緯度で示した。オリジナルは失われているが、後に(2)ビザンツ帝国で作られた写本には、地図が付されている。
 12世紀の半ばには、(3)コルドバに学んだイドリーシーが、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の共存する(4)シチリア王国の国王のために、南を上にした数十葉の地図を付した『世界横断を望む者の慰みの書』を著した。[ b ]やラテン語の地理書に加え、この頃すでに数百年の伝統を築いていたアラブの地理学のエッセンスを吸収した成果であったが、キリスト教世界、イスラーム世界双方で影響は限定的だった。
 中世ヨーロッパの地理的世界観をよく表すのは、(5)1300年頃の作とされる、イギリスのヘレフォード図である。中心に聖地を置き、上部にアジア、右下にアフリカ、そして左下にヨーロッパが配される。
 新しいタイプの地図は近世に生み出された。1512年に東フランドルの小都市に誕生したメルカトルは、ルーヴァン大学などで(6)人文主義教育を受けた。1536年には卓越した銅版彫刻の技術を駆使して、(7)地球儀の製作にかかわった。順調に評価を高めていったが、1544年には(8)ルタ一派の異端として一時投獄された。その危機を乗り越え、1569年には、彼の名を後世にとどめることになるメルカトル投影図法による世界地図を発表した。これは、球体を円筒に投影して平面に展開したところに特徴がある。目指す方角を正確に示すこの地図を、彼は、(9)当時世界の海にのりだしていくようになった航海者たちのために作成した。
 1666年、ルイ14世は(10)科学アカデミーを設立し、翌年パリ天文台を建てた。ここで4代にわたり天文台長をつとめたカッシーニ家は、天文学の技術を地図作成に応用し、三角測量によって、内政や軍事に求められるフランス王国の正確な地図を徐々に完成させていった。1793年、こうして作られた地図一式は、カッシーニ家から没収され国有化される。それ以降、カッシーニの地図は、王の版図ではなく単一のフランス「国(国民)」を象徴するものとなり、カッシーニの科学的測地法は他の国々に採用された。地図は、19世紀以降の国民国家や海外植民地帝国の形成に大きな役割を果たし、(11)「ラテンアメリカや「中央アジア」のような新たな地域概念は、現代まで世界認識を規定している。


 (1) この学問の祖と言われる人物の名を記せ。
 (2) 11世紀頃から行われ始め、この社会に大きな変容をもたらしたプロノイア制について、簡潔に説明せよ。
 (3) この地出身のイブン=ルシュドは、ある哲学者の作品に高度な注釈を施したことで知られる。その哲学者の名前を記せ。
 (4) 13世紀末にこの国から分離独立した王国の名を記せ。
 (5) この頃の大きな出来事であるアナーニ事件の概略を説明せよ。
 (6) 「人文主義の王者」とも称せられた、ネーデルラント出身の学者の名を記せ。
 (7) この製作を依頼したのは、東フランドルを含む広大な地域を支配したカトリックの皇帝である。その名を記せ。
 (8) 彼に数年遅れ、1519年にチューリヒで宗教改革を始めた人物の名を記せ。
 (9) この時代に行われたマゼランの大航海が目指した、香料の特産地の名を記せ。
 (10) フランスにおけるアカデミーは1635年設立のアカデミ一=フランセーズをもって嚆矢(こうし)とする。ルイ13世の宰相でこれを設立した人物の名を記せ。
 (11) この呼称は、19世紀後半にアメリカ大陸への進出をねらうフランスで用いられるようになった。1861年にナポレオン3世によってなされた軍事介入の対象となった国の名を(ア)に、この介入を撃退した大統領の名を(イ)に、それぞれ記せ。

B 近現代史家エリック=ホブズボームは、産業革命とフランス革命という「二重の革命」に始まり第一次世界大戦で終わる時代を「長い19世紀」と位置づけた。ホブズボームによれば、「長い19世紀」とは、「二重の革命」を経て経済的・社会的・政治的に力を蓄えていったブルジョワジーという社会階層と、ブルジョワジーの地位向上とその新たな地位を正当化する(12)自由主義イデオロギーの時代であった。
 イギリスの産業革命は、イギリスの対アジア貿易赤字に対応するための輸入代替の動きを大きな契機として始まった。イギリスではそれに先行する時代に、私的所有権が保障され、(13)農業革命が進行するなど、工業化の条件が整っていた。綿工業から始まった産業革命は、19世紀が進むにつれて、鉄鋼、機械など、重工業部門に拡大していった。この過程で、(14)資本家を中心とするブルジョワジーが経済的・社会的な力を強め、新たな中間層の中核を形成する一方、(15)伝統的な中間層の一翼を担った職人属はその少なからぬ部分が没落し、新たな下層である労働者層に吸収されていった
 フランス革命は、貴族層の一部、ブルジョワジー、サンキュロットと呼ばれた都市下層民衆、および農民という、多様な勢力が交錯する複合革命であった。「第三身分」が中核となって結成された議会は、封建的特権の廃止や人権宣言の採択、および立憲君主政の憲法の制定を実現したが、憲法制定後に開催された議会では、(16)立憲君主政の定着を求める勢力がさらなる民主化を求める勢力に敗北した。(17)対外戦争の危機の中で新たに構成された議会の下で、ブルジョワジーとサンキュロットが連携し、王政が廃止された。まもなく急進派と穏健派の間に新たな対立が生じ、急進派が穏健派を排除して恐怖政治のもとで独裁的な権力を行使するようになったが、対外的な危機が一段落し、恐怖政治に対する不満が高まると、(18)権力から排除されていた諸勢力はクーデタによって急進派を排除した。しかし、穏健派が主導する新政府は復活した王党派とサンキュロットの板挟みとなって安定せず、フランスを取り巻く国際情勢が再び緊迫する中で、ナポレオンが台頭する。(19)民法典の編纂(へんさん)や商工業の振興に代表される彼の施策は、おおむねブルジョワジーの利益と合致するものであった
 「二重の革命」の影響は広範囲に及んだ。フランスにおいて典型的に実現されたとされる「国民国家」は、ヨーロッパ内外を問わず政治的なモデルと見なされるようになった。これが近現代の世界におけるナショナリズムの大きな源流のひとつである。(20)1848年にハプスブルク帝国内に噴出した民族の自治や独立を求める動きや、イタリアとドイツの統一国家建設は、「国民国家」という新たな規範がヨーロッパの政治に与えたインパクトを物語るものであった。また、多くの欧米諸国では、国民の権利意識や政治参加を求める主張が強まり、一定程度の民主化が進展した。民主化の潮流は、一方では、(21)労働者層の権利意識を高め、ブルジョワジー主導の自由主義的秩序の変革を目指す社会主義思想の普及につながったが、他方では、拡張的な対外政策への大衆的な支持の高まりや、(22)「国民」とは異質な存在と見なされた集団への差別にもつながった。「長い19世紀」を終わらせることとなる第一次世界大戦は、こうして蓄積されていたナショナリズムのエネルギーの爆発という側面を有した。
 一方、ヨーロッパとアメリカ合衆国で工業化が進展した結果、欧米世界は、世界の他地域に対して圧倒的に強力な経済力と軍事力を獲得していった。(23)欧米以外の多くの地域では、工業化した諸国に経済的に従属する形で経済開発が行われ、19世紀以前とは大きく異なる貿易パターンが出現した。国民国家の建設および工業化を進めた諸国とそれに遅れた諸国との間の力関係は、前者の後者に対する圧倒的な軍事力の行使や、不平等条約として表面化した。(24)19世紀中葉から後半にかけて、欧米以外の諸国における上からの改革の動きは、経済や軍事の面で欧米諸国に追いつくことを大きな目標としていたが、その多くは挫折することとなった。のちにフランス革命前の「第三身分」になぞらえて「第三世界」と呼ばれるようになる地域の多くは、19世紀末までに欧米諸国の植民地や勢力範囲に分割されることとなる。これらの地域に台頭する(25)反植民地主義的ナショナリズムは、ホブズボームが「短い20世紀」と呼ぶ時代の世界史を大きく動かす原動力のひとつとなっていく。


 (12) 主著『経済学および、課税の原理』で、比較優位に基づく自由貿易の利益を説いた人物の名を記せ。
 (13) 18世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスにおいて議会主導で行われた農地改革を何と呼ぶか。
 (14) 1830年代末から1840年代にかけて、イギリスでは、ブルジョワジーがみずからの利益を実現するために、ある法律の廃止を要求する圧力団体を結成し、法律廃止を実現した。この法律の名称を記せ。
 (15) イングランド北・中部の手工業者や労働者が起こしたラダイト運動とは、どのような運動であったか。
 (16) この勢力を何と呼ぶか。
 (17) この議会の名称を記せ。
 (18) この事件を何と呼ぶか。
 (19) 19世紀前半のフランスでは、工業化をめざす政策が採用されたにもかかわらず、実際の工業化の進展は緩慢であった。その理由を述べよ。
 (20) このときに、ある民族集団は、一時的にハプスブルク帝国から独立した政権を樹立した。この民族集団の名を記せ。
 (21) 1886年にアメリカ合衆国で結成された、熟練労働者を中心とする労働組合の名称、を記せ。
 (22) 19世紀末のフランスで発生したある事件は、反ユダヤ主義を反映するものであるとして、ゾラなどの知識人から批判を浴びた。この事件の名を記せ。
 (23) 19世紀前半に、イギリス、インド、中国の間に出現した三角貿易を通じて、イギリスは対アジア貿易で黒字を計上するようになった。この貿易黒字は、どのようにして実現されるようになったのか。イギリスとインドの貿易商品に言及しつつ、簡潔に説明せよ。
 (24) 19世紀後半に清で行われた富国強兵をめざす改革運動を何と呼ぶか。
 (25) 1925年にホー=チ=ミンが結成し、のちにベトナムの独立運動を中心となって担っていく組織の母体となった団体の名称を記せ。

 

コメント

第1問
 課題は「崩壊の危機に瀕していた……異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って」でした。
 危機に対する解体防止策を時間順に書いてくれ、というものでした。4つの人物・団体について、「異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合」したか、をていねいに解説することが求められています。
 ミドハト=パシャにとっての危機は、タンジマート(恩恵改革)の下で西欧的な工業化をすすめていくうち、「土着産業の没落をうながし、外国資本への従属がかえってすすんだ(詳説世界史)」ことでした。クリミア戦争に勝利しながらも、戦費を借りたたために大きな負債が重なりました。またボスニアの反乱に対するオスマン帝国の対応に対してロシアの非難がかまびすしく、戦争も予想される状況でした。この危機をどう打開するかが課題でした。
 あらゆる面での遅れを痛感したミドハト=パシャは、近代的な憲法を制定することで課題の答えにします。近代的な市民の権利をもとに二院制議会と責任内閣制を原則にしました。議会や内閣の権限を拡大することはスルタン権力を規制するものでした。ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等も規定しています。「安倍談話」の中でアジア最初の憲法を日本国憲法と勘違いした表明がありましたが、このミドハト憲法がアジア最初の憲法です。そのようにセンター試験でも出題されました(1998年度問7)。「特定の人々」とは近代化を推進してきた立嫌派です。これに該当する表現としてしは、2014年度に改訂した用語集に「新オスマン人」が加わりました。頻度は少なく2です。説明ではこうあります。

 「新オスマン人」:宗教の違いをこえて「オスマン人」として共存・協力を呼びかけるオスマン主義にたち、自由主義的立憲運動を推進し人々。

 ミドハト=パシャ自身がこれに該当し、反専制・自由主義・立憲を主張する人々のことでした。しかしこの誤句が使えなくてもいでしょう。つまり西欧的な立憲政治を導入すべきと考えていた人々です。

 しかし君主権の強化をねらっていたアブデュルハミト2世は、即位したばかりであり、憲法は容認しながらも、露土戦争が始まったので非常時大権を利用して憲法を停止しました。立憲君主政は、1年2ヶ月しかつづきませんでした。叔父アブデュルアズィズがミドハト=パシャによってクーデターで廃位され、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位しました。このような弱い地位をなんとか強力なものにしたいと考えたようです。スルタン=カリフ制を強化することが危機への対応でした。「特定の人々」とは専制政治を支持する保守派です。パン=イスラーム主義(西欧に対抗してムスリムの団結を)を固辞し、皇帝は秘密警察を結成して密告を奨励し、軍部を利用して厳しい弾圧を行ないました。
 
 統一と進歩委員会(青年トルコ党、青年トルコ人)は、憲法復活をねらう知識人・開明的軍部グループの団体です。ロシア第一革命(1905)、イラン立憲革命(1906)という周辺国の立憲の動きが憲法復活を求める運動を促します。またアブデュルハミト2世の軍隊の一部だけ優遇したり、給与遅配、兵器不足など、冷遇に不満をもっているグループ・青年将校たちがおり、かれらが「特定の人々」です。自己の危機を打開するものが憲法の復活でした。サロニカ市の軍が蜂起して、かれらの革命が成功しました。再び立憲君主政となります。

 ムスタファ=ケマルの危機は、モロッコ事件を契機とする伊土戦争、バルカン戦争による領土縮小、そして第一次世界大戦の敗戦です。どの戦争にも参戦して負傷したケマルは、啓蒙思想に心酔した士官学校卒業のエリートで、アブデュルハミト2世の姿勢に反感を持っていました。第一次世界大戦終結とともに、イスタンブールのスルタンに対してセーヴル条約がつきつけられ、帝国の大幅な領土縮小が強制されました。ここに危機は全国民的なものになりました。オスマン帝国議会議員たちはアンカラで大国民議会を開きます。条約で認められた地帯を奪うべくギリシア軍が入ってきました(イズミル出兵)。ギリシア軍に対して、ケマル=パシャ率いる抵抗軍「国民軍」が対抗し勝利します。アンカラ政府は大国民議会で、スルタン制廃止を決議することになりました。イスタンブールとアンカラの二重権力をアンカラに一元化しました。ケマルは議会にカリフ制の廃止も決議させ(1924)、政教分離の新国家体制をつくりあげます。これらは啓蒙思想の実現でした。脱イスラムの動きは、一院制議会、主権在民、任期4年の大統領制、一夫一婦制、女性のチャドルを廃し参政権を認めて女性解放も実現、イスラーム暦やトルコ帽の廃止、文字改革(ローマ字採用)と矢継ぎ早に改革を実行しました(トルコ革命)。セーヴル条約はローザンヌ条約に改訂させました。ここでの「特定の人々」は青年将校に一般の人々も入ります。

第2問 解説省略

第3問
 課題は「(1)性格はどのように変化したのか、中世ヨーロッパの(2)政治・(3)宗教・(4)経済にどのような影響を及ぼしたのか」の4点でした。
 (1)性格は初めは「聖地回復の聖戦」であったものが、どう変化したか、ということでもあり、これは明快に現れるのは第4回十字軍でした。依頼してきたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを陥れて、この都市を略奪し、帝国の所有していた商業基地をうばったことでした。ヴェネツィア商人の意図が第一に完徹された十字軍でした。今もヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の屋上に、そのときの戦利品が秘蔵されています。この第4回からを後期十字軍、第3回までを前期十字軍と区別します。商業的利益が優先し、聖戦でなくなったと、とるからです。この第4回十字軍の後には少年十字軍(1212)といわるものもあり、少年少女たちはムスリムに売り渡されました。
 ただし予備校の解答例にあるように「第6・7回十字軍でのエジプト・チュニジア遠征に見られるように世俗的要素が強まった」のではありません。「第6・7回十字軍」はルイ9世が指揮した十字軍であり、第6回はルイ9世がイェルサレム奪回のために指揮しており、何も世俗性はありません。「エジプトへ」行ったから「世俗的」というのも変なとりかたです。イェルサレムを支配していたのはカイロを都にしているアイユーブ朝であり、第1回十字軍からセルジューク朝とだけ戦ったのでなく、イェルサレムではカイロをつくったファーティマ朝と戦いイェルサレムを奪っていて、その後もアイユーブ朝・マムルーク朝というエジプトの支配者がイェルサレムを領有しており、イェルサレムを確保ししようとしたらエジプト遠征も不可欠であったのです。第7回もチュニジアのスルタンがキリスト教に改宗しそうだというガセネタを信じて指揮したもので、ここにも世俗性はありません。ルイ9世が死後に聖人になったのはこの行動のゆえでした。

 (2)政治への影響
 「中世ヨーロッパ」は西欧だけを考える必要はありません。とくに十字軍は東欧、とくに当時最大の帝国たるビザンツ帝国と関係した軍事行動であり、十字軍兵士は東欧諸国を通過していきました。この問題の類題は 2018年一橋第3問の空間革命があります。この問題文にも「ヨーロッパ」とありますが、東欧・ビザンツ帝国も考慮すると全体像が見えてきます。
 政治面の十字軍の影響は、以前の皇帝権の強い時代(オットー1世の時代)が、11世紀からの叙任権闘争と十字軍の初期の成功で教皇権がたかまっていくことでした。教皇権は宗教だから「政治」に入らないと考える必要はありません。当時の西欧の土地の3分1は教会領であり、そこに指令がだせるトップは教皇であり、たんにイタリア半島にある教皇領だけの領主でありません。ましてインノケンティウス3世のときには英王ジョンを破門にし、仏王フィリップ2世も破門し、ラテン帝国も破門にできる君主でした。ポルトガル伯爵をスペインから独立することを認めるとともに自己の家臣にしました。上記の英仏王も家臣として臣従させることで破門を解きました。皇帝に代わって全欧に軍事行動を呼びかけることのできる唯一の君主でした。十字軍はヨーロッパの最高権限が教皇に存在することを証明したデモンストレーションでした。
 しかし十字軍の失速とともに教皇に呼びかけに応じる各国の王・騎士は少なくなり、パレスティナにも十字軍の基地はなくなりました(1291)。しかしルイ9世のように率先して十字軍を指揮しようとするフランス王の権威はたかまりました。ただこれをもって西欧全体に「国内での中央集権化が進展」(ある予備校の解答)などと書いてはだめです。いくらなんでも絶対主義の時代がすぐ近づいたのではありません。権威がたかまるのと、集権という体制ができるのとはちがいます。教皇・貴族の没落(アナーニ事件・ばら戦争・ブルゴーニュ戦争)と身分制議会(模範議会・三部会)の成立という、14〜15世紀の2世紀がまだ必要です。

 (3)宗教への影響
 教皇の浮沈は上の政治で扱ったので、他の宗教面の影響を考えます。なにより十字軍が当時は「巡礼」の一つであったのように、巡礼熱が西欧全体に広がっていて、「開墾運動、オランダの干拓、エルベ川以東への東方植民、イベリア半島の国土回復運動、巡礼の流行などがそれである。なかでも大規模な西ヨーロッパの拡大が、十字軍であった。……この間、聖地への巡礼の保護を目的として、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で活躍した。(詳説世界史)」と。また東京書籍では「十字軍とその影響」という章で「キリスト教が庶民の世界にまで広まるとともに、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ=デ=コンポステラなどへの聖地巡礼がさかんになった。ところが、キリスト教の聖地の一つであるイェルサレムは、……」と書いてます。
 しかし宗教的な情熱は、他の宗教への排他的な運動にもむすびつきました。ユダヤ人迫害です。ユダヤ人は中世都市の一角ゲットーに隔離され、胸にユダヤ人の星マークを付けたり、ユダヤ人はキリスト教徒を告発したり,不利な証言をしたりしてはならない,キリスト教徒を食事に招待したり、また結婚したりできない、キリスト教徒を農奴その他として雇用することもできない、と2度のラテラノ公会議で(第3回1179,第4回1215)決定されました。これらは今もつづくユダヤ人迫害の起源です。
 また「北の十字軍」といわれる東方植民は、この問題の十字軍と連動してスラヴ人地帯への征服と布教がおこなわれました。たとえば北ドイツの諸侯は第2回十字軍に参加するかわりに、北方の異教徒(スラヴ人のこと)に対する十字軍を起こさせてほしいという要請に教皇は認可を与えています(1147)。異教徒であるがためにスラヴ人の多くの諸民族が虐殺され、子供は奴隷化され、ドイツ人の植民地にされました。現在のポーランドから南はウクライナの地帯までドイツ人騎士・商人・修道士たちが蹂躙していきました。
 教会建築では、イスラーム建築のもつポインテッドアーチという尖った屋根をつくることがはやり、ロマネスク様式をゴシック様式に変えました。どこまでも高く高く伸びようとする「石の森」といわれるゴシック教会が高さを競って建てられました。

 (4)経済への影響
 何より十字軍の後半はイタリア商人の利益が追求されたように、地中海世界におけるイタリア商人の地位が高まります。ヴェネツィアとジェノヴァが覇をきそい、とくに前者がイタリア半島から東地中海(レヴァント)貿易の覇者となりました。カイロのマムルーク朝との貿易は、インドのグジャラート半島(港ディウ)との交易につながっていました。地中海とペルシャ湾を結ぶ「東方貿易」は西欧商業の復興「商業ルネサンス」と呼ばれるほどに全欧にまたがる広域経済に発展しました。地中海世界が起点となり、北の北海・バルト海の交易圏、シャンパーニュを中心に途中の中継地交易圏も生まれました。
 しかしこの地中海を軸とするヨコの交易の発展は、それまでスカンディナヴィア半島とウクライナ、バグダードにいたるタテの交易を衰えさせ、東欧・ロシア諸国の分裂をきたすことになりました。さらに13世紀にモンゴル人の来襲がおき、都市の破壊と略奪がおきました。東欧は14〜15世紀の「名君の世紀」になって回復してきます。

第4問 解説省略
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解答例
第2問
A
a 劉備
問 1荀子 2始皇帝 3蔡倫 4九品官人法 5四六駢儷体(四六体) 6孝文帝 7玄奘 8ソンツェン=ガンポ 9龍門石窟 10西太后 11燕雲十六州 12銀 13院体画 14秦檜
B b 天津 c 重慶
問 15ア 廂軍 イ ゴードン 16陳独秀 17五・三〇運動 18ヴィシー政府 19崔済愚 20フェルビースト 21 ア 甲申事変 イ 清仏戦争 22張学良 23無制限潜水艦作戦 24 ア 汪兆銘(汪精衛)イ 李承晩

第4問
A a アレクサンドリア b プトレマイオス
1エウクレイデス 2貴族・将軍たちに軍事奉仕の代償に、国有地の管理を容認したが、分権化の要因となる。3アリストテレス 4ナポリ王国 5仏王フィリップ4世の聖職者課税に反対した教皇ボニファティウス8世を逮捕し、釈放後憤死せしめた事件 6エラスムス 7カール5世 8ツヴィングリ 9モルッカ諸島 10リシュリュー 11ア メキシコ イ フアレス
B 12リカード 13第2次囲い込み(エンクロージュア) 14穀物法 15ナポレオン戦争中におきた機械打ち壊し運動 16フイヤン派 17国民公会 18テルミドールの反動(9日のクーデタ) 19農業社会として安定していて、中小農民が多く、囲い込みが起こらなかったから 20マジャール人 21アメリカ労働総同盟(AFL)  22ドレフュス事件 23イギリス綿製品を買わない中国に対してインド産アヘンを密輸出することで得た銀で中国茶を買っても、銀が残った。24洋務運動 25ヴェトナム青年革命同志会