世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

山川か東京書籍か

山川か東京書籍か

 教科書の良し悪しを判断するといっても、ここでは受験参考書の一つとしてどちらが良いか、という観点から判断するのであって、歴史叙述のあり方を問題にするわけではありません。
 また受験用にどちらか、ということであり、その場合どの大学に適合するのか、という観点も必要です。千差万別の大学の入試問題をここで網羅することは出来ません。そこで観点を東大に絞ります。そうすれば、東大タイプの問題でない他の出題のあり方からは、ちがう教科書の方が良い、という判断も出てきます。

 それと東大には東京書籍の方が良い、という評判があるので、いろいろ調べてみても、なぜ東京書籍が良いのか根拠を示したものはなく、良いらしい、という評判の評判しかありません。
 特にこの東京書籍を薦める論述の参考書としては山下厚『東大合格への世界史』(データハウス)があり、その引用した文章も含めて何も推薦する理由にならないことを明かしています(http://www.ne.jp/asahi/wh/class/goukaku_critic.html)。このわたしの記事の末尾に「著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。」
 この「明らかに」がこの文章の果たす役割です。
 そこで実際に出題された入試問題と教科書を付き合わせる、という方法をとります。いろいろな出版社の教科書はあるものの、ここでは山川の詳説世界史(2008年発行、以下「詳説」と略)と東京書籍の『世界史B』(2007年発行、「東書」と略称)を比較の対象とします。大中論述にあたる第1問と第2問が主たる対象です。

1.東大入試問題と教科書

 2011年度・第1問
 異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった……13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動き

 という課題に対して、山川はインドへの影響として、「仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用……ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設」と述べ、イベリア半島へは「高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった」と述べていて、「生活様式の多様化や変容に大きく貢献し」たことを書いてます。
 このうち東京書籍では、仏教衰退や建築への言及は一切なく、「サトウキビ、バナナ、オレンジ」については西アジアに入ってきたものとして述べているが、影響としては書いてない。もちろん「棉(木偏の原綿)」のことも記事はない。

 2011年度・第2問
 問(2) 明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら

 という課題に対して、山川は明朝の対応を「明は海禁をゆるめざるをえず」と書いているのに、東京書籍は「明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」とまちがった説明をしてます。緩和が正しいのであり、解除はしてません。明清が朝貢貿易という制限のきつい対策(海禁)をなくしたことは一度もなく、アヘン戦争敗北まで基本的には存続しました。

 2010年度の問題については、第1-3問のすべてで特にどちらが有利ということはなかった。双方とも書いてあるものと書いてないものは同じでした。

 2009年度の第1問(国家と宗教団体・信徒)に関して、中国・チベット関係の部分は「詳説」がピッタリの文章になっていることは以下の記述比較で判断できます。

「詳説」清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは,中国内地・東北地方・台湾であり,モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が,チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが,新疆ではウイグル人有力者(ベク)が,現地の支配者として存続し,清朝の派遣する監督官とともに,それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず,とくにチベット仏教は手あつく保護して,モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。
「東書」清帝国の広大な版図は,本部(直轄地)と藩部に分けて統治された。本部とは,首都圏の直隷省と地方の各省から構成され,藩部は,つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり,藩部を管理する理藩院が設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が,今日の「中国」という地域名称と重なり,また清朝の風俗や文化が,「中国人」のイメージのもととなった。

 ルター派・領邦教会制の説明でも「詳説」の方が合ってます。また「詳説」は「諸侯は……領内の教会」と分かりやすく書いているのに対して、「東書」は「領邦では,国家が」と分かりにくい。

「詳説」ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ,領内の教会の首長となって(領邦教会制),修道院の廃止,教会儀式の改革などをすすめた。
「東書」ルター派の領邦では,国家が信教を監督する領邦教会制が成立して,君主の支配権が強化された。

 2009年度第2問(a)「殷王朝の政治の特徴」という課題に対しては雲泥の差があります。
「詳説」殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。
「東書」殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 2008年度第1問に関して、指定語句の「第1回万国博覧会」は、
「詳説」19世紀のなかば,イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄の絶頂にあった。1851年には,のべ600万人以上が入場したロンドン万国博覧会がひらかれ,人びとに近代工業力の成果を誇示した。
「東書」本文に記述なし。右下にクリスタル=パレス(水晶宮)の内部を描いた絵があり、「1851年ロンドン開催の第1回万博は、鉄とガラスの巨大建築で、新しい工業中心の時代の開幕を告げた」と注があります。

 指定語句「総理衙門」について、
「詳説」朝貢体制のもとでは,外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため,特別に外交を扱う役所は設けられていなかったが,1861年にはじめて,外務省にあたる総理各国事務衙門が設置された。従来清朝の支配が名目的・間接的にしかおよんでいなかった地域に諸外国が手をのばし,19世紀の後半にこれらの地域はつぎつぎと清朝の影響圏から分離していった。
「東書」清朝は,外国使節の北京駐在を許し,外務事務をあつかう総理各国事務衙門(総理衙門)を設置して,対等な外国の存在を認める外交をはじめた。

 2007年度第1問(農業生産の変化とその意義)に関して、課題は「11世紀から」とあるのが何故か分かりますか? 「東書」で勉強しているひとはこの教科書の時代区分が曖昧なために判断できにくい。

「詳説」 封建社会は11〜13世紀に最盛期をむかえた。農業生産が増大し人口が急増すると西ヨーロッパは拡大を開始する。

 「詳説」も「東書」も各章のはじめに概説を説いているところがあります。「詳説」はワクでかこんであり、「東書」はカラーの写真の中で白抜きの字のところです。「詳説」のp.126にある「ヨーロッパの形成と発展」のところ、そして「東書」はp.138-139「ヨーロッパ世界の成立と変容」のところを開いてください。読むと詳説の明快さがわかるはすです。
 「東書」では、p.138-39の時代区分のところでは「10世紀を中心とする民族移住の激動のなかから,西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明らかな姿をあらわした。さらに,農業の発展や人口の増加を背景に,西ヨーロッパ世界は外部への膨張に転じるようになる」と書いていながら、時代区分ではないところでは(p.150)、「11世紀になると,気候が温暖になり,外部勢力の侵入による混乱もおさまって,西ヨーロッパの社会も安定してきた。……人口は増大し,包囲され萎縮していたヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる」と書いています。つまり10世紀と11世紀とでずれています。
 この曖昧さは他にも見られます。「東書」p.203に「明代の社会と経済」とありますが、「詳説」はp.169に「明後期の社会と文化」という題になっています。「東書」に書いてある内容は明朝約300年間全体に該当するかのように書いてありますが、実は明朝後半からの社会経済の変化を書いているのです。「詳説」が正しい題名で説明しています。この違いは軽くありません。1983年度の第1問「16〜17世紀の中国の新しい動き」が書けるかどうかに関わってきます。

 2007年度第2問・問(1)
 設問は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」でした。
 この問に「東書」に「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い」とあり、「詳説」には書いてない、と書いているひとがいました。
 しかし「詳説」にも書いてあります。「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた」とあり、「東書」の方がいくらか分かりやすい説明になっています。これは珍しい例です。

 2007年度第3問・問(10)「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」
「詳説」 ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。
「東書」 記述なし。
 
 2006年度第1問(戦争の助長と抑制)で指定語句「徴兵制」に関して、フランス革命戦争での記載は、
「詳説」ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は,強大な権限をにぎる公安委員会を中心に,徴兵制の実施,革命暦の制定,理性崇拝の宗教を創始するなどの急進的な施策を強行……
「東書」記述なし。

 以上の最近の例をみても分かるように、「東書」は記述量が少なく、適格性にも欠け、何より時代区分が曖昧であることの欠点をもっています。
 この内、記述量は少なくといっても「東書」独自の記述量の多い記事もあります。それはこの教科書が東西交流に重点を置いているためです。
 たとえば、「港市国家」という用語は「詳説」では1回しか出てきませんが、「東書」になると、なんと35回も出てきます。「海域」という用語は「詳説」では1回、「東書」では15回出てきます。東西交易に重点を置いている、特に海に置いている、という傾向が分かります。しかしこんなに必要はないですね。しつこすぎます。

 「詳説」p.120-122の「アフリカのイスラーム化」と「東書」p.120-121の「アフリカの古王国とイスラーム化」という題の記事とは同内容の記事ですが、前者は651字、後者は1067字で書いてあります。後者の「東書」にはアクスム王国の詳しい説明、ラクダの利用が前者にはない説明です。ここでも交易路のことや商品のことが強調されています。
 この記事の前の「詳説」p.119-120「イスラーム勢力の進出とインド」と「東書」o.120「イスラーム勢力のインド浸透」は同類の記事ですが、前者の「詳説」には「東書」にはない、ハルジー朝の地租金納化、そのムガル帝国への継承、仏教の消滅、ヒンドゥー寺院の破壊、バクティ、ヨーガ、都市民・カースト下層民へのイスラーム教浸透、ペルシア語への翻訳など、ほぼ同字数(「詳説」676字、「東書」570字)なのに豊かな内容が盛り込まれています。中でも仏教消滅とイスラーム教浸透は重大事のはずですが「東書」には載っていません。

 しかし「東書」に長所もあります。コラム記事です。女性参政権というコラム記事は2010年度の一橋第2問にぴったりです。また東西交流、中でも東南アジア史をよく出題する阪大の問題にも適合しています。東大には合わない。
 「東書」には写真・絵が「詳説」よりたくさん載っていて楽しそうです。「詳説」より大判であり、本文記事の左右にコラム以外の小さい囲み記事や写真が付いています。見る世界史としてはとても良いものです。

2.入試問題の特色と教科書
 東大の問題は広くグローバルな問題を出しているため、そういう点をよく説明しているのが「東書」だと勘違いした教師や学生達が「東書」を推薦しているとおもわれます。確かに「東書」は東西交流をさかんに説明していて著者たちが序文で強調していることも世界の一体化ということです。また港市国家についての記述が異様に多いこともこれを傍証しています。しかし東大の過去問は「交流(交易)史」ではありません。
 問題の特色がつかめていないために「東書」を推薦していると、わたしは見ています。


 2010年度
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。
 この問題は東西交流史ではありません。もちろん「国家をこえた」とあるように、他国との関係、他国への影響なしに「役割」は書けません。対等に二つの国々の関係だけを問うのなら交流史ですが、これはあくまでオランダを視点に置いて、かつオランダを影響の起点に置いて他国のほうが受身で影響を受ける姿があって、オランダの「役割」・貢献が言えます。それに、「中世末から……現代まで」と長い歴史を問ういるため、ヨコ(交流)でなくタテ(時間順)にある程度比重をかけないと完結しない問題です。

 2009年度
 世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して……
 この問題を交流史ととるひとはいないでしょう。比較です課題は。

 2008年度
 1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか……
 これは交流史ともとれますが、あくまでイギリスと関わった国々が、イギリスに「組み込まれ」また「対抗した」かを紋って編集することが課題です。「東書」の交流は経済に比重のかかったものですが、この問題は政治と宗教です。また「対抗」することを「交流」ととるひとはいないでしょう。

 2007年度
 11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。
 これは交流史ではありません。農業技術や生産の変化と意義です。

 2006年度
 戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて……
 3つの戦争について一つ一つ助長と抑制を書きます。交流史ではありません。

 と最近のものを読まれたら、広い問題ではありながら交流史でないことがわかります。ばらばらなデータを一つのテーマに合わせて編集する能力を見ようとしています。ちがう国や時間のものを比較したり意義づけたりする編集能力です。こういう問題に対応するために交流史の多い「東書」を学んだから強くなる、ということはありません。わたしが添削して合格していった学生たちは「東書」をもっていない学生もいました。