世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・アメリカ史

アメリカ史の疑問(ラテンアメリカ史も含む)

Q1 世界史と関係性があるのかわからないのですが、先日、本で「超古代文明」というものがありました。パラパラと覗いてみたのですが、太古の昔には飛行機があったとか、ナスカの地上絵など色々書いておりました。飛行機などは信じれないのですが、ナスカの誕生は非常に気になります。ただ、これらの超古代文明が単なる趣味の世界じゃないかと思うのです。もし、これらが本気で勉強できるのであれば、是非してみたいのですが、やはり趣味の世界なのでしょうか?

1A いいえ。趣味の世界ではないでしょう。古代史の勉強をすればするほど、なぜここまで出来た文明が突然登場するのか不思議です。なにかそれ以前に成熟した文明が存在したのではないか、という疑いをもちます。甲骨文字の前に、文字があったはずとか、恐竜は最近まで生きていたという証拠がでてきたりします。エジプトの文明がなぜ前3000年にあれほどのものができるのか不思議です。天文観測がどうして正確にできるのか、なにか消えた文明の遺産を受け継いでいるのかも知れない、ともおもいます。古代ほど魅力的な世界はないでしょう。たとえ趣味とみられても好きなものを追求することほど生きがいはないですよ。


Q2 用語集の「チチメカ族」のところにアステカ文明などを築いた、とあるのですが、すぐ下に書いてある「アステカ族」がアステカ文明を築いたのではありませんか?

2A 用語集の説明不足です。まちがいではありません。チチメカとは、メキシコ中央高原の住民たちが北方の蛮族につけた呼び名です。「犬の血統」という意味らしい。民族の識別としてではなく漠然と呼んだ呼称です。その「チチメカ族」の一派がアステカ族です。


Q3 居留地の先住民は南北戦争以前に市民権はみとめられていたのですか?

3A 1924年にいたって市民権が認められたものの,白人市民と完全に平等になったわけでもない。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は,救済を宗教に求め,ゴースト・ダンスやサン・ダンスやペヨーテ信仰が流行しました。 

Q4 ウィーン会議ですが、「ブラジルは、ポルトガル王を頂いて……」とありますが、「頂く」ってどういう意味ですか。

4A 「上の者として敬い仕える」という意味です。「主君としていただく」って使います。つまりブラジルの君主です。この部分の教科書は「ポルトガル王子を頂いて独立帝国(1889年以後共和国)となった」とあるところですね。ナポレオンが半島に侵略してきた時ブラジルの王家は植民地のブラジルに逃げました。戦争が終わって帰ったのですが、息子のペドロ君は帰還せず、のこりました。それを幸いにブラジルの地主(クリオーリョ)たちが本国の父王から独立してブラジルだけの君主になってください、とけしかけたのです。ペドロ君は「う〜ん、ぼくちんが王様か、良か、良か、はよう王様になりたかったんだわいな〜っ! 」と感激していると、家来たちが、「いいえ陛下、王様ではござりましぇ〜ん。皇帝になっていたただきとうございますです」。「ななんと……こ・こ・皇帝? 王様よりかっこええだないの〜。うん、なるなる。よきにはからえ。」と言って即位したまいました。戦争なしの親子離別のブラジル帝国の成立です(なおセリフは何弁かわからない言語による創作です)。


Q5 「南アメリカでは19世紀末までイギリスが市場を支配していた」と教科書にありますが、どうして合衆国でなくイギリスなのですか?

5A イギリスのラテンアメリカへの進出のきっかけは1703年のポルトガルとのブラジル貿易を許可したメスエン条約からです。フランスのルイ14世(位1643〜1715)の周辺侵略に対抗する意味で、ポルトガルをオランダ、オーストリアとともに同盟に加えて反フランスの包囲網をつくりました。このメスエン条約はイギリスの毛織物を買ってもらい、ポルトガルのワインを買う、という条約でした。ポルトガル産ワインの輸入関税率をフランス産の3分の2に抑えました。また、1713年のユトレヒト条約締結により、スペインから、その植民地での奴隷貿易独占権(アシエント権)をイギリスにあたえられたため,戦争に勝利したイギリスが新大陸への黒人奴隷貿易を独占します。さらに独立戦争のとき、ラテンアメリカ諸国が戦争の費用をイギリスに金を借りたため、担保としてラテンアメリカの鉱山・農園などがあてられました。そして独立を達成したラテンアメリカ諸国に新たな借款を供与しています。こうしてイギリスはスペインが後退したあとのラテンアメリカに入り込み、ラテンアメリカでこれから起ろうとしていた産業を壊滅させ、市場として組み込んでいきました。19世紀にはモノカルチュアー(単一栽培)経済がつくられます。ブラジルのコーヒー、アルゼンチンの牧畜と小麦、チリの硝石と銅、ベネズエラのカカオ、ボリビアの銅などです。『詳解世界史』に「19世紀の前半のラテンアメリカ諸国は、独立戦争による経済の疲弊によって、どの国も財政破綻にみまわれ、地方勢力間の政争に明け暮れる混乱の時代であった。……また外国資本の積極的な導入による経済開発は、輸出商品作物を中心とする栽培を拡大して国民の食糧生産を犠牲にするほか、経済の対外的従属をまねいた」とある点に進出したのがイギリスでした。


Q6 エンコミエンダ制(委託制)とアシエンダ制はどうちがいますか?

6A エンコミエンダ制は、インディオの土地を奪わず労働を強制し、かれらの収穫を納めます。ただし人格的な拘束はしていません。アシエンダ制はインディオの土地を奪って大土地所有を実現し、インディオを賃労働者にし身分的にも拘束した。これによってプランテーションを経営しました。


Q7 「アメリカ南北戦争の後、黒人と女性に参政権が与えられた」という文章は間違いですよね。解説書には『女性はまだ……」と書いてあるんですけど、黒人についての記述がありません。南北戦争の後で黒人は参政権を得たのですか?

7A 参政権もえました。女性はだめでしたが。女性は白人と同じ1920年の修正19条によってです。1865年に、憲法修正第13条によって黒人は自由の身となりました。1868年には憲法修正第14条によって市民権、1870年には第15条によって選挙権も与えられました。ここまでなら一応法的には、黒人にも白人と同じ権利が与えられたようにみえます。しかし、北軍が南部から撤退してしまうと、1883年には、各州の権限を憲法修正第14条より優先させる最高裁判決が行われて歪められます。さらに1896年には、生活のあらゆる面で白人と黒人を別々にすることが最高裁判決によって認められ、白人の黒人に対するリンチも激増して、差別が南部全体にわたって定着しました。なんと、まあ……というところです。


Q8 アメリカは1919年のドイツと連合国とのヴェルサイユ条約にも調印せずその結果国際連盟不参加となったのですか? 国際連盟加盟にはヴェルサイユ条約調印が必要不可欠ってことですか? ヴェルサイユ条約調印は国際連盟加盟につながるのですか?? ちょっと書いていてこんがらがってきてしまいました。

8A その通りです。推理された通りです。敗戦した各国との条約(ヴェルサイユ条約やトリアノン条約など)には各国とのとりきめについて書いてある前に、必ず連盟規約というのが第一章に付いていて、その後第二章から敗戦した国々の領土をどのように分配するかが書いてあります。つまり規約と条約はセットなのです。ヴェルサイユ条約が一番大事な条約ですから教科書はヴェルサイユ条約のことを書いていますが、どの条約であれすべてに連盟規約が書いてあります。ということは教科書に書いてないから分かりにくいのは当前ですね。


Q9 『練習帳』の「基本60字」の19世紀西欧史の5(60ページ)「アメリカ産業革命〜」という問題に関連して質問がございます。アメリカ産業革命とは、ずばりどのようなものなのでしょうか。私はアメリカ産業革命というと、真っ先に第二次産業革命のことが思い浮かびます。確かに英米戦争ののち、綿工業中心にアメリカの産業がイギリスからある程度独立して産業革命への道が開けた、というのはわかるのですが、アメリカ産業革命はやはり重工業中心の工業革命がメインなのではと思ってしまいます。三省堂の用語事典でもアメリカ産業革命は19世紀後半のことを指していると見受けられます。しかしこの問題の回答を見てみると、私の解釈は間違っているような気がします。私は、イギリスとアメリカの対比を、軽工業と重工業、蒸気中心の技術と電力中心の技術、自由競争と独占資本、といった形でまとめました。これは誤りでしょうか。

9A イギリスとアメリカの対比を、軽工業と重工業、蒸気中心の技術と電力中心の技術、自由競争と独占資本」という特色はそのとおりです。
 わたしもこのアメリカの産業革命をいつに設定するのか諸説があり、分からなくなり、経済史の本を読みあさったことがあります。
『詳説世界史研究』でも以下のように書いてあり、
 アメリカでは19世紀初めから綿工業が発達したが、本格的な産業革命は南北戦争後におこった。ドイツとアメリカの産業革命によって1870年代からイギリスは「世界の工場」としての地位を失った。

 ということで戦争後の産業革命には「本格的」という形容が付いています。開始期については、もっと前のページの南北戦争が始まる前の段階では、次のように書いてあります。
 北部は、産業革命が1840年代以降本絡的に進行することになって、技術・生産の面で進んでいたイギリス本国の工業とは競合する関係にあった。(p.364)

 またここでも「本格的」が付いています。この記述の注には、こう書いてあります。
 注:アメリカの産業革命の開始期については諸説あるが、 1812年の戦争のころから徐々にその姿が現れはじめたので、1815年を産業革命の開始期とする考えもある。しかしこれは木綿工業に機械が導入されたが動力は水力であり、 製鉄、石炭、動力としての蒸気機関の導入は1840年代から南北戦争前夜にかけてであるので、これを開始期とするのが一般的である。

 この注では、1840年代が開始期だといっています。だいたい教科書もそのようです。
 (南北戦争の始まる前の説明として)産業革命がすすみ資本主義の発達した北部は、イギリスに対抗するため保護関税政策と連邦主義を主張し……(詳説世界史)
 アメリカ合衆国では、1810年代の米英戦争のころから機械化がはじまり、南北戦争期に北部で本格化した。(東京書籍)
 東京書籍のはあいまいです。米英戦争中のものはほんの2,3の工場ができた程度なので、開始期というのはどうも無理があります。また、アメリカは広いので、開始としてもそれは北部の東海岸だけでのことであり、西漸運動が続行中というやややこしい面をアメリカは持っています。それで経済史の専門家の書いたものを調べてみると、1830年代に設定するのがどうやら的確だということが分かってきました。

 山川の各国史シリーズ『アメリカ史』に次の記事があります、途中省略が多いですが、年代に注目して、
 1830年代以降のアメリカは、イギリスとはかなり異なる仕方で、独自の産業革命を展開しはじめていた。……30年代以後の北部全体の資本主義を保証した。……。マサチュセッツ州では、1820年代に、はやくも、株式会社の綿工場が60社以上設立され、10パーセントから20パーセントにいたる配当を行なっていた。この傾向は30年代にいたって一層顕著となった。1830年代には115の綿工業株式会社が設立され、約2580万ドルの(授権)資本が投下され、……1830年当時すでに1000万人を大きく超える広大な国内市場を占有して、粗綿布を中心に、大量の綿製品を生産する、……合衆国の本格的な産業革命は1840年代・50年代に、アメリカを「世界の工場」といわれたイギリスにせまる世界第二の産業資本主義国にのし上げたが、……(p.136)

 別の経済史の本では、
早くも1820年代より家内工業などの急速な衰退がおこり、これと前後して近代工業が目覚ましく発展しはじめている。(『概説西洋経済史』有斐閣選書、p.215)
 ……東部の商工業および金融業の発展(都市化)だけに注目すれば、アメリカ産業革命は早くも1830年代末から1840年代に完成期にはいり……第1期は建国から1830年代半ばまで.第2期は1830年代半ばから南北戦争まで.第3期は南北戦争から1870年代末まで。(『講座 西洋経済史』同文館、p.149〜150)
 アメリカの産業革命は1840〜1860年の期間にその「離陸」を完了し、南北戦争後に産業資本は確立したとかんがえられている……1830年においてすでにイギリスについでアメリカ綿工業は世界第2位の地位にのしあがっており、綿花の人口1人当たりの消費量についてはイギリスを追い抜いてすでに世界ーにたっしている。(『図説新版西洋経済史』学文社 p.106-107)

 おおよそ
開始期は1830年代ですが、「本格的」と付ける場合は、40年代から60年代まで幅がある、という結論です。この場合はもちろん綿工業です。南北戦争前後から重工業の発展があるのはいうまでもありません。


Q10 プレゼンで世界史について発表することになり、わからないことがあったのでメールをしました。【質問】なぜアメリカは2つの大戦中にイギリスを支援し続けたのですか?

10A 第一次世界大戦のときは、1917年にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言し、指定する航路外の船舶を無警告で攻撃した。このためアメリカはドイツと外交関係を断絶し、4月ドイツに宣戦した。このときイギリス船籍のルシタニア号が撃沈され、乗客1,198名が死亡しましたが、その中にアメリカ市民犠牲者が128名いました。(ウィキペディアの「ルシタニア(客船)」も見てください。絵は→http://www.mapsofworld.com/on-this-day/january-31-1917-germany-resumes-unrestricted-submarine-warfare)(ドイツ側の潜水艦は→U-boat Campaign (World War I)、下に無制限地域を示す地図もあります)

第二次世界大戦では、1941年3月武器貸与法によってイギリス・ソ連などに武器や軍需品をおくり、反ファシズム諸国支援の姿勢を明確にした。このことにより、事実上アメリカは参戦したことになります。それが本格的には、12月8日、日本軍はハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲し、マレー半島(コタバル)に軍を上陸させて、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した。……この内、コタバルの方が真珠湾奇襲より早いです。ウィキペディアで「真珠湾攻撃」を見て、船艦の沈む写真を見せたらいいでしょう。ここに真珠湾の地図も付いてます。

 まとめとして、
 (1)二つの大戦に共通するのは、船の沈没であること、(2)攻撃はドイツと日本という独裁的な軍事国家であること、(3)共に勝利に貢献したこと、が挙げられます。(4)共に「自由」を犯す国を打倒するという目的で参戦したこと。(5)どちらも戦争の途中から参戦していること、(6)イギリスや西欧を故郷にしている人々が合衆国の大半を占めているため、心情を同じくする者を支援しやすいこと。国民の支持もあること。「イギリス」だけ支援した、ということはないです。イギリスがアメリカから一番近いのでそう思ってしまいますが、支援した国々は一国だけではないです。第一次世界大戦のときは英仏、第二次世界大戦のときは全ヨーロッパとアジアの中国・東南アジア・インド・オーストラリアと支援しています。