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疑問教室・中国史〔元朝まで〕

中国史〔元朝まで〕問Qと答A

Q1 あるブログに、「鉄製農具の出現によって「耕地は従来の山麓の湧水地帯や氾濫の恐れのない河岸の低地から、広大な黄土平原に拡大された」この点で、中谷臣『世界史論述練習帳 new』(パレード)の資料編(p.176)の京大1991年に対するコメント「天水高地農耕→灌漑平地農耕」という指摘は、灌漑平地農耕への変化はいいとしても、その前を「天水高地農耕」とまとめるのには少々疑問……とあるのですが、「天水高地」はまちがいではありませんか?

1A そのブログと引用された文章は狭い見方ですね。「天水高地」は言い換えれば、旱地(乾地)農法による黄土台地(黄土高原)ということです。この広大な高原(標高約1000〜1500m)で、「湧水地帯……河岸の低地」だけで生きていけるかどうか考えたらいいのです。
 たとえば、「周の支配領域である華北の地は雨量が少なく、大規模な灌漑工事の行なわれる戦国時代までは、降水による水分を最大限維持して畑作を行なう旱地農法が主で」(堀敏一他著『概説東洋史』(有斐閣選書)の中の「中国古典文化の形成」(p.19)とあります。また「黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活のできる場所ではなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵が選ばれた」(ニッポニカ「黄河文明」の項)のです。
 また中国人研究者の著した本には「古代の北方畑作地帯は、主として秦嶺と淮河以北の広大な領域を指す。この地帯の降雨量は少なく、その分布は不均衡で、常に旱魃の脅威を被り、これらの特色が、この地帯の土壌耕作の中心課題が保沢防旱であることを決定した。われわれの先人たちはこれらの特色を熟知し、長期にわたる旱魃との闘いの中から豊富な経験を蓄積してきた」(郭・曹・宋・馬共著、渡辺武訳『中国農業の伝統と文化』(農文協))と記して、土地に則した耕作・時期に則した耕作・作物に則した耕作と種々の方法を詳述しています。粟・黍という華北の作物は乾燥・半乾燥地帯に適した作物でした。「仰韶文化期の社会では、アワを主として、一部では稲や野菜を作る乾地農耕を行なう」(『アジアの歴史と文化1 中国史─古代』同朋舎出版、このシリーズは京大教授たちの執筆)。
 また黄土台地を畑としてつかったことが結果的に黄土を砂漠化したことを明らかにしたのが上田信著『森と緑の中国史』(岩波書店)でした(p.106)。
 これはなにも中国でなくても、日本でも西アジアでも、初めの農耕は天水・高地であることは常識的なことです。たとえば、「日本の灌漑」については、「水田開発がもっとも早く行われたのは、現在のような大河川下流部の平たん地ではなく、きわめて単純、小規模な、あるいは自然のままでも容易に引水しうるような谷間の小平地や山麓部であり、以後、時代が下るに従って平地に進出した。……天水や谷間の渓流を利用しての水田であったことが多い」(平凡社百科事典)。人類最初の農耕遺跡といわれるイェリコやジャルモも高地(標高約800m)にあります。仰韶文化の代表的な遺跡・半坡村は厚い黄土からなる台地の上にあります。これは東大の過去問もあります(1970年第3問)。教科書(詳説)では「初期農耕は雨水にたよる乾地農法であり、肥料をもちいない略奪農法であった」と“文化から文明へ”に書いてあります。


Q2 中国ではいつ頃から絹織物、綿織物を作っていたのですか? あと、毛織物は作ってなかったのですか?

2A 絹織物は仰韶文化のときからつくっていますから古い。中国はほんとに古くから絹の国なのです。
 綿織物は宋の時代からですが、政府が大々的につくらせたのは元朝のときです。北の寒いモンゴル人が中国の綿織物が気に入りつくらせました。また明朝の永楽帝が漠北親征のときにつくらせて兵士の寒さを防いでいます。絹織物とともに大衆的な商品としてつくりだすのは、明朝の後半16世紀からです。
 毛織物は動物の「毛」を編んでつくるものですから、毛織物のない人間の世界はないといってもいいでしょう。モンゴル人やインディオなどでも、かれらの歴史とともに古いでしょう。中国もいつとはわかりませんが、古くからあるようで、記録には南北朝からあります。唐代の実物が出土していますし、正倉院には唐や新羅製の毛織物が保存してあります。


Q3 「万里の長城」はほんとに「万里」あったのですか?

3A 始皇帝のころの長城は調査の結果では、約5000kmあったことが分っています。現在の1里=4000mで換算すると「万里」はなかったことになりますが。しかし始皇帝の時代は1里が400mです。「0」がひとつ少ないのです。これで計算すると約1万2000里になり「万里」であったことになります。


Q4 讖緯(しんい)説・五行説とむすびつく赤眉の乱は宗教的農民反乱とみなすべきですか、みなさないべきですか、また、農民の反乱といってよいでしょうか。

4A 一般には農民反乱ととるはずです。東大の教授たちが書いた新版の『世界史小辞典』にも農民反乱と書いてあります。宗教的かどうかは読んだことがありません。もともと海賊から始まってそれが陸の内乱に発展しているので宗教はないようにおもいます。なにかまとまった宗教組織とかかわるとはおもえません。


Q5 南北朝以前の大土地所有者への課税です。漢代のころから、徐々に大土地所有が始まっていくように思えますが、漢代に大土地所有を拡大していった者への課税は行われなかったのでしょうか。

5A もちろんあります。始皇帝の時代の過酷な税制(泰半の税は3分の2)を改めて、所有面積に応じた基本原則はずっとあり、地主に対して、平均して高祖は15分の1にし、景帝のときには30分の1、後漢になると、100分の1となり、結果的には豪族優遇税制であったということです。資産別でありながら、ほとんど意味のないくらい安いものだったようです。一般農民はこうした田租は安くても、算賦(口賦、人頭税)・徭役(兵役も含む)が加わり没落したようです。土地を借りている小作人は収穫の半分は取られましたから、いくら免税でもやっていけない。ここらあたりが豪族が大きくなる背景のようです。


Q6 「魏は後漢の正統な後継者をもって任じ、」とありますが、意味がわかりません。

6A 「正統な後継者」とは、三国に分かれて、それぞれが後漢の後継者を名乗っている状態があり(とくに蜀の劉備は漢をうけつぐ劉家、真偽は不明ですが)、禅譲の儀式をおこない幼い皇帝から皇帝の位を譲りうけたと。中国の支配者は一人でなくてはならないと思っているからです。他はまちがって皇帝を名のるケシカラン奴だと。


Q7 絹の道はいつ頃から繁栄しいつ頃まで続いたのですか? 張騫が契機となり甘英頃から繁栄したと思うのですが……

7A 張騫のときからは中国側としてはそうですが、もう少し前の戦国時代からあるようです。絹の需要が高いことを帰国した張騫が述べているのですから。13世紀のモンゴルの時代も栄え、16世紀の海の道の方に物資が運ばれるようになって衰えます。オアシス・ルートのことを日本では絹の道と言っていますが、絹は海路でも運ばれた商品なので、ビザンチン帝国に蚕(かいこ)が伝わり、西欧にも中世に伝わって絹織物の製造もおこなわれ(15世紀にジェノヴァ・ヴェネツィア、16世紀にフィレンツェ)、中国の絹の需要がなくなります。しかし中国の絹織物は技術的に高いため高級な貿易品としては18世紀くらいまで取引されました。


Q8 後漢末から地方の豪族が力をつけはじめたのはなぜですか?

8A 農民反乱に中央政府がどうすることもできないため自衛しなくてはならなかったことが一番大きいでしょう。各地に強大な私兵をもつ豪族が割拠しました。中央政府は宦官と外戚の争いに明け暮れていたことが、この背景にあります。


Q9 中国の三国時代の時代に、魏について教科書には「司馬炎が国をうばった」とあるのに、晋は魏帝から禅譲をうけたと書いてあるのですが?

9A 司馬炎が国をうばった、が実質で形式的に「禅譲をうけた」という儀式をします。つまり同じです。


Q10 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何「系」と判断しているのでしょうか? 

10A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴は居るのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系と言います。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q11 均田法にかんして豪族に優遇したものではない、というのは分かりますが、この場合、豪族というのはどういったものなんでしょうか? たんに大土地所有者というイメージしかありませんが。

11A 荘園という広大な敷地に屋敷をかまえ、周囲に高い垣をもうけ、そのまわりに深い堀をめぐらします。さらにそのまわりにこの豪族たる地主の土地・畑が広がり、そこには地主に頼る農民の小屋がたっています。大豪族になると、この土地の中にいくつもの山や川が流れています。穀物・野菜など多くの農産物が栽培され自給自足ができました。また牛・馬・羊・豚・ニワトリなどが飼われています。手工業もあります。酒・醤油・砂糖・染色・機織りもでき農具も兵器もつくりました。多くの農民・職人がここに住んでいました。数万人という農民・奴婢をかかえた豪族がいました。これを守るための私兵も養っています。いずれ後漢末期の騒乱時には、この私兵軍団が大きくなり400年の分裂(魏晉南北朝)のもととなります。こうした豪族がゆっくり育っていくのが後漢時代でした。


Q12 「華北仏教は鎮護国家的性格が強く、……」とありますが、『鎮護国家的性格』とはどんなんでしょうか。

12A これは異民族王朝(とくに北魏)が漢人を支配するさい、仏教の平等・平和の考えを利用して支配思想とした、ということです。鎮護国家(思想)とは、乱をしずめて外敵・災難からまもる役割を仏教がはたすという考えです。北魏が漢人のみなさんを守ります、と宣伝しているのです。そのため僧侶も政府の保護にこたえて、国を守るための法会(ほうえ)や祈祷(きとう)を行います。雲崗石窟・龍門石窟をつくったのも、ときの皇帝の顔に似せて彫り、皇帝即(そく)如来(にょらい)といって仏を拝むように皇帝も拝ませる、と支配のために政府は利用し、仏教側も利用されることで国家とむすびつき、廃仏を逃れようという魂胆です。こういう権力にすりよることを否定する仏僧もいました。ただ北魏の仏僧は「すりよる」性格をもっていた、ということです。


Q13 中国で、たとえば隋の楊堅っているじゃないですか? この人は文帝とも呼ばれてますよね? この、別名みたいな、〇帝や〇宗とかも関関(関西学院大学・関西大学)には問われるのですか?

13A 問われます。とくに魏の文帝(曹丕)と隋の文帝(楊堅)はカッコの中だけで出すとすぐ分かるためにわざと文帝という謚(おくりな、死んでから付ける名前)で出ます。たとえば、関学の次の例のように。
 隋の文帝の時に施行されなかった事項はどれか。
 a.科挙制 b.均田制 c.府兵制 d.囲田制(解答 d)


Q14 教科書の唐のところで、三省の中書省・門下省・尚書省が書いてあったのが、明になり「中書省の廃止」ということが唐突に書いてあります。門下省や尚書省はどうなったのですか?

14A 教科書はどこの出版社であれ、系統だった説明をしている歴史書ではありません。ポツポツとその時期ごとの重要事項を羅列しているだけです。こういう質問がでても不思議ではありません。途中の宋や元の時期はどうだったかを省いたためです。宋のところで「宰相の権限を分散して、軍事・行政・財政のすべての政策決定権を皇帝がにぎる君主独裁政治」と説明している(第一学習社の『世界史B』)ものはありますが門下省・尚書省のことに言及しない点は他の教科書と変りません。元について「元は、中央に中書省(行政)……、地方には中書省の出張機関として行中書省を置き」と書いている教科書(三省堂の『詳解世界史』)もあります。宋になり貴族がいなくなると貴族の牙城(がじょう)であった門下省の存在意義がなくなり、中書省に吸収されてしまいます。名称も中書門下省となり、その長である宰相を同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)といいます。尚書省は元のとき廃止されます。明清のときも尚書省はなく、六部の長官を尚書といいました。したがって明の中書省廃止は三省の廃止を意味し、三省のしごとをぜんぶ皇帝がひとり担うことになります。忙しすぎるので永楽帝のとき内閣大学士をおきます。
 唐 中書省 門下省 尚書省──六部
 宋 中書門下省 尚書省──六部
 元 中書省 六部
 明 六部


Q15 都護府と折衝府はどうちがうのですか?

15A 唐代の都護府は辺境においたもので、折衝府は国内の軍事訓練の場所です。


Q16 唐の貴族に課税はあったのですか?

16A 農民には租庸調ですが、といって貴族に免税特権はありませんでした。貴族に地税・丁税がかかります。農民への租庸調が国家の主たる税ですが、農民にも地税・丁税が同時に課せられていました。このあたりは教科書・参考書に書いてないことですね。租庸調よりは軽いものではあったようですが、いずれ租庸調が崩れてくると、この二つの税が顔を出してきて、両税法となります。
 以下は、『世界歴史事典』平凡社(昭和31年版)の隋唐時代の税制の項目にありました。

 隋開皇5年毎年秋に戸ごとに粟黍1石以下を出して義倉(凶作のときに無償で配布するための貯え)を維持させることとし、ついで16年改めて州県に社(村落)倉を設け、各戸より上戸は粟1石、中戸は7斗、下戸は4斗を限度として納めさせ、これを貯えて凶歳の賑貸に備えることとしたが、唐でも太宗の貞観2年(628)同じく義倉を設けその維持のために、今度は「青苗の畝頃(耕地面積)」をはかって毎畝2升の粟か麦か稲かを徴した。のち商戸や田無き戸からも9等の戸等に応じて5石から5斗(下戸は免除)を徴した。これがしだいに義倉米の意味を失って地税という政府の正式の税収となってきた。……特別会計に属するものであったが、ところが一般会計ともいうべき租庸調による収入が国家財政を賄えない状態になると、ようやくこの2税(地税・丁税)が一般会計にくり入れられ、やがて租庸調とその位置を転倒するにいたった。すでに有名無実の存在と化してしまった租庸調を廃棄したのが、一般に徳宗の建中元年(780)における両税法の発布として理解されている改革である。(引用終了)

 義倉を設ける必要は、農民の余剰分はほとんど取られてしまうくらいだったので、一度凶作にみまわれると餓死・逃亡・盗賊化・反乱があいついでおこる危険性があった、という厳しいものであったためでした。耕地面積をはかって、というところが両税法の資産別と同じです。


Q17 山川の教科書には『白楽天は唐末の詩人』と書いてあって、山川の資料集には『中唐の詩人』とあったのですけど、どっちなのでしょう? あと、盛唐はいつですか?初唐?中唐?唐末?

17A 初唐は高宗まで、中唐・盛唐は玄宗皇帝のころ、安史の乱の終わった以降は唐末とすることが多いですが、それほど固定した時代区分ではありません。だから白楽天が双方で書いてあってもまちがいとはできないでしょう。安史の乱以降のひとなので唐末が一般的でしょう。時間的には乱は755〜763年で唐のど真ん中ですが。


Q18 鎮市ではなく、よく「鎮・市」と中点がふってあるが、「鎮」と「市」はそれぞれ別のものですか? 草市は草市でひとつなのか?

18A 鎮も市も州県の下にくる半公認の地方行政区です。もとはいえば唐末からの経済発展の結果でてきた新しい地方町です。分けて、鎮とも市とも言います。まとめて言ってもいいわけです。草市は「粗末な地方の」という形容で、行政区でなく、漠然と呼んだ形容なので「草市」は「草」「市」と分けることはできません。この草市が大きくなれば鎮や市になります。
 『詳解世界史』では「定期市はいたるところに設けられ、草市が発達して鎮・市とよばれる郷村の小都市が数多く出現した。」と書いています。『詳説世界史』でも「さらに地方には小規模な交易場の草市が発展し、鎮・市とよばれる小商業都市も発生した」と表現しています。
 州──県──鎮・市←……草市


Q19 漢時代の市と草市、宋時代の市・鎮と草市は同じ名前で別物ですか。

19A 別物です。「市」はいつの時代でも「市場 market」を意味しますが、これは都市のなかの一ヶ所に集中している市場です。つまりは役人に管理されている市場です。「草市」の「草」は「地方の」「粗末な」という意味です。漢代の草市は地方の末端行政区分の「県」のなかにある市場を言ったり(これも管理されています)、ときに県城の外にできた城門外の臨時の市を草市と呼んでいます(これは管理されなかったみたい)。唐末五代からは役人の管理がなくなり、「市」はどこでも店が並べば市場になり、もう一ヶ所に限定された場所ではなくなります。また「鎮」「鎮市」はもともと唐末から節度使(藩鎮)たちが割拠したとき、地方の軍事、商業の要所に軍事基地(鎮)をおいたものが経済的に発展したものです。明らかに唐末五代から登場した新しい都市です。景徳鎮などのように今もその名をのこしているものがあります。唐末五代の「草市」は商業経済の発達によって地方農村に無数の市が発生し、それらぜんぶを総称して草市といったそうです。具体的にある特定の市場をさしていない表現です。ただ入試上は漢代の表現は出ませんから、内容的には唐末五代のだけでいいのです。役人の規制がなくなり、あちこちに市場ができた、と。


Q20 貨幣経済が普及するとどうして貧富の差が出てくるんですか?

20A 貨幣経済でないときの取引は物々交換です。物々交換だと、取引は小規模で利益も大きくありません。ところが貨幣で取引するともののやりとりは活発になります。交換の手段としての貨幣が物と物の交換をスムーズにしてくれるからです。物々交換だと、欲しいひとをさがすのが大変です。ところが貨幣経済の場合は取引がさかんになり、経済が活況になると、だれでも利益をあげるわけではなく、富の配分がかたよるのです。一様に貨幣が平均にまわる、ということは難しい。失敗するひとたちもたくさんできます。だまされるひとも多くなります。賢いひとほどもうけが大きい。豊かになるときは平均して豊かにならない、というのが人間社会の避けられない法則のようです。


Q21 労役とは具体的に何をさせられるのか? 

21A 唐代を例にとれば、租庸調の「庸」は中央政府にかんする労働奉仕で、20日間と決まっていました。仕事がないときはそれに代る納税(布・絹)をしなくてはならず、ときに留役といって30日を限度として、つづけて働かされることもありました。中央の役は正役ともいいます。プラスアルファの「雑徭(ぞうよう)」は地方の労働奉仕で、その内容は40〜50日の門夫の役(門役ともいい門番として、城門・倉庫門の出入りを守り、監視する)、水手(すいしゅ、橋梁の番兵や船こぎ)、駅家(関所のしごと諸々)、防閤(ぼうこう、役所の守りと貴族・役人の身辺護衛)、庶僕(しょぼく、いろいろな雑務)、白直(はくじき、当直・宿直・巡回)、貴族・官人の身辺雑務にあたる士力(しりき)・執衣(しつい)など召し使いのしごとです。なにか雑徭の項目を見ていると、貴族の「こらあーッ」、庶民の「へい」という声が聞こえてきそうです。
 雑徭という労働ができない場合は代償として課税されます。逆に租調が納められない場合は、すべてこの庸・雑徭に換算して働いても良かった。その場合、年間150日分になり、国家のために150日もただ働きをしなくてはならなかった! 日本でもこうした労役を経験することはできます。犯罪を犯して、懲役何年と判決が下ればいいのです(^^;)。


Q22 宋代の士大夫と形勢戸の違いがよくわからないので教えて下さい。

22A 士大夫は科挙を受験しようとする知識のある人、受かって官僚になったひとです。形勢戸はたんに経済的に豊になった新興地主の意味です。科挙とは関係がありません。ただ科挙の勉強は大変なので長い時間がかかり、たいてい形勢戸のような豊かな家のおぼっちゃましか受験勉強はできないものですから、形勢戸の子弟が受験して士大夫になります。受かれば形勢官戸という名でよばれたりします。ただし形勢戸の家の子はみな優秀であるはずはなく、形勢戸イコール官戸ではないし、士大夫でもありません。


Q23 どうも新法の募役法がよくつかめません。労役をしてくれる人にお金(山川の用語集でいう雇銭)を払ったら、何の利益も残らない……?

23A  農民が担当しなくてはならない役(えき、労働して払う税のこと、お金の税金以外に必ず払わなくてはならないものだった)は負担が重く、破産する農民も多かった。そのめための農民救済法です。というのは、税としての米を運ぶさいその運賃を払ったり、自分で運ぶとすれば、役所のある都市までの費用・宿泊費も負担しなくてはならず、ときに役人に必要以上のお金を用意しなくてはならない。税としての米を決まった額だけ集めれなかったらその分を自分が負担しなくてはならない。その間の農作業は休まなくてはならない。また土木工事にもかりだされるが、その間の食費も自分で用意しなくてはならない。治安は住む村・町の犯罪調査告発・見回りなど警察のしごとです。もちろんこれをやったからとて国から給料をもらうわけではない。
 そこで、役を基本的には農民からとらないことに(免除)し、その代わり、ある程度のお金を払わせてお役御免にし、役をやってくれる人民を募って給料を与える方式に改めます。運搬・土木などを、たいていは失業しているものが応募して担当したので仕事を与えたことになります。また役のもともと免除されている偉いさん(官戸=たいていは地主、寺観=仏教の寺、道教の寺を道観といいます、他に住所の定まらない商人)などからも助役銭を徴集して、給与の財源にあてます。差引ゼロになったとしても、運搬・土木・治安のしごとははかどります。農民の没落を防げます。三省堂の教科書『詳解世界史』の注には「募役法(徭役免除の特権をもつ官吏や僧侶らには助役銭を、一般農民には免役銭を課し、それを財源として労役に従事する人を雇う策)」と説明してあります。


Q24 五代十国・金のときは科挙はどうなっていたのですか?

24A どの時代も実施しています。五代十国時代は武断政治といわれますが、軍人の危なさを軍人出身の皇帝たちほどよく知っており、集権的官僚制をつくりあげるべく、文治主義を徹底しようとしました。皇帝が節度使出身であるために「武断」と言われるのであって、官僚制は文治主義なのです。宋代の歴史家が五代の武人支配を必要以上に悪しき時代として描いたことから野蛮な時代のイメージがつくられました。この科挙によって新興の地主・富豪・豪商たちの子弟を吸収しています。しかしこれは華北の五代政権に該当しますが、中部・南部の十国では、あまり科挙は実施されませんでした。難民として南下してきた唐代の貴族の子孫、儒者たちを積極的に採用したため科挙が必要なかったといわれるくらい文治主義的だったためです。
 異民族の遼金でも科挙は実施されています。遼で50回以上おこなったとの記録があり、1036年には殿試も加わり、四試制となっています。宋より早く殿試が行なわれています。というよりまだ北宋が成立していない段階ですね。漢人のための試験であって契丹族は別でありながら、いずれ西遼(カラ=キタイ)を建国する耶律大石が1115年に受験して合格し、進士となっています。金では36回行なわれたことの記録があります。ここも猛安謀克の女真族は受験対象外です。異民族が漢人を文官として採用するための試験としてあったためです。しかし女真族のための科挙が設けられたときもあります。


Q25 なぜ西夏は征服王朝に入らないのですか?

25A 征服王朝の定義は故地(北アジア地域)と中国領の双方をもつことと、二重統治の体制をしいたことにあります。西夏がもっていた甘粛省の地域がいつも中国領だったわけでなく、漢唐のときくらいだけで、また二重統治体制をとった訳でもないことから征服王朝としません。


Q26 『燕雲十六州を遼に譲ったのは五代後晋』とあったのですけど、後晋は三代じゃないのですか?

26A 中国には王朝名が教科書に書いてある以上にたくさんありますから、区別するために、五代十国時代の後晋ですと説明的にいっているのです。たとえば戦国時代にも魏という国があり、三国時代にも魏という国がありました。この場合、三国魏という言い方をすれれば、三国時代の方の魏なんだと分かります。戦国魏、といえば戦国時代の魏となります。


Q27 ワールシュタットの戦いと、バトゥがオゴタイが死んだので引き返した時の戦いって違うものなんですか?

27A バトゥの本軍は先ずハンガリーに進撃し、副司令官スブタイが指揮する別働隊にポーランド方面(ワールシュタットの戦い)の進出を任せます。その後、この本軍と別働隊の両軍は合流しブダペストを陥落させました。その後で1242年の冬にオゴタイ=ハン(41年に死去)の訃報(ふほう)が伝わってきて全軍が少しずつ帰還していく、という順です。


Q28 科挙が元の時代の何年に廃止されたのですか。

28A 元朝のはじめから実施していないので、廃止された年代というのはありません。復活したのが1315年です。これより過去をたどれば、南宋(滅亡が1279年)で1274年、当時北を支配していた金(滅亡が1234年)で1230年がさいごの各王朝の科挙です。どれもモンゴル人に滅ぼされる直前まで実施していたことになります。


Q29 元朝において、科挙により選抜された人々は、どういった職に就いたのでしょうか? また、科挙に合格する意義のようなものとは、どういったものなのでしょうか?

29A 官僚(役人)です。科挙は官僚になるための試験ですから。官僚といっても、はじめはたいてい地方官をつとめ功績をあげれば中央にとりたてられます。科挙の試験の成績が抜群であれば、はじめから中央の官僚という場合もあります。元朝のときに科挙に合格することは、世襲制でしたから子供にじぶんの地位を受け継がすことができ、一族の繁栄を保証します。もちろん元朝が存在するかぎりのことでしたが。合格しても官僚になれるかどうかはコネ次第でした。


Q30 教科書「新世界史」p.151の5〜8行目に「元は南宋を滅ぼし(1279年)、チベット・朝鮮を服属させた。さらに日本・ヴェトナム・ジャワ・ビルマ(現ミャンマー)にも遠征して威信を示し、服属関係におこうとしたが、これらの遠征は失敗した。」とあるんですが、山川用語集の“フビライ=ハン”の項目(p,83)では「……ビルマを服属させ……」と書いてあるんですが、どちらが本当なのでしょうか?

30A どちらも本当です。少し説明が必要です。引用された『新世界史』の説明はまちがいとも、まちがでないともとれる曖昧な表現です。まず「ミャンマーでは最初の統一王朝パガン朝が、13世紀に元の侵入をうけてほろんだ。」(『詳説世界史』)ことを確認しておきます。これは他の教科書も同じです。『新世界史』はハッキリ書いていませんが。
 この後のビルマはどうなったか、というとシャン人勢力がパガン朝の滅亡した後のビルマの実権をにぎり、元朝に服属します。これを用語集はとっていると好意的にとっておきます。滅ぼした王朝のことを書いてないのは片手落ちですが。しかし他の民族(ビルマ人・モン人・ヤカイン人なども)が抗争をつづけ安定した統一政権をつくれないままでいました。つまり16世紀のトゥングー朝までです。


Q31 山川の教科書のp.93に元代の文化の説明があるのですが、公用語にモンゴル語を使用したのに公文書にウイグル文字やパスパ文字を使ったのは固有の文字がなかったからですか? あと、どうして上のような文字を代わりに選んだのですか?

31A 言語と文字はちがいます。推測は正しく、初め「固有の文字がなかったからです」。後になってモンゴル文字を作成します。他の民族の文字をつかって自分たちの言語を表記していたのです。とくにパスパ文字は使いにくく、作らせたもののほとんど使わなかったようです。官僚として仕えさせたウイグル人(色目人の中心)の文字を一番使ったそうです。


Q32 「宝鈔」という紙幣は元朝でも発行されたのでしょうか? 教科書では元が交鈔、明で宝鈔とありますが?

32A 発行されました。多くの教科書にのっている紙幣の写真の上のほうを見ると「○○○○宝鈔」という字が見えるはずです。「宝鈔」も交鈔のひとつです。『日本大百科全書』の「交鈔」の項には「元は金の制度を受け、1236年以来交鈔を発行した。中統元宝交鈔(10文〜2貫文)、至元通行宝鈔(5文〜2貫文)はその代表である。……明も元の制を受け、大明宝鈔(100文〜1貫文)を1375年に発行した。(斯波義信──山川出版社『新世界史B』の著者のひとり)」とあります。ここには交鈔(総称)として「交鈔」と「宝鈔」が並列されています。「中統元宝」「至元通行」は一般に省略して言うのは慣例(省略表現は京大東洋史辞典にもあります)としてあり、大明を明と省略するのと同じです。『平凡社世界大百科事典』につぎのような記述があります。カラ・ホトの項に「西夏、金、元の貨幣や元の紙幣である宝鈔も見つかっている。(岡崎 敬)」、交子の項に「なお、中国の紙幣は交鈔のほか元・明・清に流通した宝鈔が知られる。(草野 靖)」とあります。省略表現としての宝鈔の例です。


Q33 元時代、元曲を作ったのは当時失業していた儒学者ですか? なんでそういうひとたちが作ったものが流行るのですか?

33A それは適切な説明ではありません。科挙に受かっていない知識人(読書人とも士大夫ともいいます。受験生とも言えます)です。脚本を書けるには文字の読み書きができないといけませんが、だいたい文字の読み書きができるのは限られた人でしたし、脚本はある程度過去の歴史を知らないと書けない。科挙の受験は3年に1回しかありませんから1回失敗したら3年後ということになり、また何度も失敗すると諦めてしまい、塾の教師をしたり、このように脚本書きになったりしました。受験する人たちはだいたい豊かな家の子弟でもあったので、暇仕事でもありました。50歳、60歳になっても受験していた異様な世界です。受験も一種の事業のような、宝くじのような感覚だったのでしょう。当たれば大もうけできる。3年間地方官を勤めたら孫の代まで食える、といわれるくらいワイロが入りました。


Q34 高校の授業で、交鈔の乱発について皇室がチベット仏教に傾倒したことが原因のように聞きましたが、実際元朝は国が傾くほどのお布施をしたのでしょうか? 

34A ラマ教というのは「ラマ(僧侶)」という意味が示すように僧侶中心の宗教です。僧侶が非常にいばっている、あらゆる点に口出しをし、金を巻き上げていくという宗教です。大規模な法会を行い、国家経費の3分の2はラマ教への布施にあてられたようです。


Q35 2009年の東大世界史第1問
・東アジアについて書く際に日本におけるキリスト教弾圧も書くべきか
・儒教を宗教とみなしてもよいか

35A もちろん東アジアの中に日本も入りますから書いて良いです。
 儒教も宗教です。典礼問題が知られているように、典礼とは上帝(中国人が考える宇宙の神)・孔子・先祖を崇拝する儒教の儀礼です。村上重良著『世界の宗教』 (岩波ジュニア新書) に、原始宗教から三大宗教、儒教・道教、ヒンドゥー教にジャイナ教なとど宗教して儒教をあげています。


Q36 東大2007-1の解答に「江南の士大夫文化を支えたこと」とありますが、「文化を支える」とは具体的にはどのようなことをいうのでしょうか。

36A 江南という穀倉地帯に集まった士大夫(読書人・官僚層)は形勢戸という新興地主層でもありました。かれらが宋代以降の文化の担い手でした。朱子学を構想して普及させ、詩・詞をつくり、書・画・散文をこなし、青磁・白磁を楽しむひとびとです。


Q37 魏の時代、九品中正の本来の目的が果たされず、地方豪族が高級官僚を独占した状態、いわゆる門閥貴族の形成を憂い、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉ができたと聞いております。一方で、魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化したことに対して、治安維持・徴税・徴兵などを目的とする改善策であったのだろうと思います。もしこの推測が正しいとするならば、地方豪族の台頭を促進させている九品中正を隋代まで待たずとも早めに廃止すれば良かったのではないかという疑問が生じました。何か廃止できない理由でもあったのでしょうか?

37A 初めの「地方豪族による大土地所有化を抑制しようと九品中正を制定した」がまちがいです。九品官人法(これが九品中正より正しい表現です)は大土地所有を抑制するための法ではありません。黄巾の乱以降に埋もれた文人たちを魏という曹家という文人一族が掘り起こしたいと意図して始めたものです。
  次に「魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化した」もまちがいです。これらの政府による土地分配政策は成功していて、それぞれの王朝の経済基盤になりました。この土地政策はあくまで王朝政府が抑えている公有地で行っていて、豪族=大土地所有者の土地に対して実施したものでなく、それらは放置して公有地でおこなったのであり、豪族とは無関係です。というか豪族がこれ以上農民の土地を取り上げないように政府が管理している土地だけで実施したものです。もし青木の実況中継にある、これらの土地政策が豪族に有利だった、という邪説をもとにしてたら青木に依拠しないように警告しておきます。
 末尾の「地方豪族の台頭を促進させている九品中正」は「台頭」させているのは土地のほうでなく政治に関わるようになった、という意味でなら正しいです。
 土地政策(均田法)が隋唐まで続けられたが、則天武后の時代から傾きだしたのは、人口の増加が原因です。政府が管理している土地では増えた人口に合わせて土地を分配できなくなったからです。魏の屯田法の頃の中国全土の人口は約500万人です。つまり土地は余っています。唐初には5000万人に増えています。