世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・南・東南アジア史

南・東南アジア史の疑問

Q1 インダス文明って、インドの文明じゃなく、パキスタンの文明なんですか?

1A 両方とも正解です。現在の国境からはインダス川はパキスタンにありますからパキスタンの文明といえますが、過去には現在のような国境はできていませんからインド亜大陸の文明という点からはインドの文明です。教科書もインドの文明として書いています。


Q2 バラモン教とマヌ法典は関係があるのですか?

2A うすいですが関係はあります。バラモン教や、これの亜流であるヒンドゥー教徒たちの生活のあり方はどうあるべきか説明した教訓・戒律的なものがマヌ法典です。女を盗むものは来世では熊に生まれ変わるよ、という調子です。バラモンの教義内容に深くかかわるようなものではなく、バラモン中心の四種姓=カースト体制維持に貢献したとは言えます。


Q3 ヴァルナとカーストの違いを教えてください。

3A 前者はカースト制度の元になった4階層(4身分制)をあらわし、後者はこの4階層がさらに職業別に3000をこえる身分制に複雑化したものをさしています。このジャーティとよばれる制度を、後に15世紀末からきたポルトガル人が自国の身分にあたる用語であるカスタをあてたためカースト制と呼ばれるようになった、ということです。


Q4 ブッダもシャカもゴータマ=シッダールタも仏も菩薩(ぼさつ)も、みんな一緒なのですか? ちがいはなんですか?

4A ブッダ(仏陀)は、サンスクリット語で「目覚めた人」「真理を悟った人」「覚者」という意味で、仏教の開祖たるゴータマ=シッダールタをもともと指していません。真理を悟った聖者の意味でした。ただ、仏教徒にとっては最初の覚者であり、また仏教徒はその境地を求めるため、修行者の達成目標としてブッダがあります。大乗仏教の場合は崇拝・帰依(きえ)の対象としても仏(ほとけ、ぶつ)があります。また日本のように死者・先祖をそのまま仏(ほとけ)という言いかたもします。
 シャカはゴータマの出身種族の名シャカ族(シャーキャ族)からきています。だからゴータマ=シャーキャムニ(釈迦牟尼、釈迦族出身の聖者)という呼びかたもあります。「釈尊(しゃくそん)」もこの派生で、「釈迦族の尊者」の意味です。
 ゴータマ=シッダールタのゴータマは姓、シッダールタが名です。
 菩薩は、小乗仏教では、覚者になる直前のシッダールタをさし、大乗仏教では、覚者になる直前のすぐれた人物、徳のすぐれた人物、悟りを開いた人物などをさし、シッダールタ以外の人物や想像の存在で、この世で衆生済度(しゅじょうさいど、万人の救済)を実践する救済者とあがめられ、実際上は神に近い存在にまでまつりあげられています。観世音(かんぜおん)菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、阿弥陀(あみだ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩などの名で知られています。


Q5 『サンスクリット語は古代インドの文語。民衆語に対して「完成された雅語」』と山川の用語集に書いてあったのですけど、とゆーことは、『古代インドはインダス文字とサンスクリット語の2つを持っていて、「インダス文字が民衆語」で、「サンスクリット語が格式高い言葉」だった』とのことですか?

5A いいえ。文字と言語とはちがいます。インダス文字は解読されていない文字で、この文明が滅びるとともに使用されません。その後はちがう文字(ブラフミー文字など)が使われ、時代によって流行る言語によって文字もいろいろ変化したのです。サンスクリット語はアーリア人種の使用言語です。土着の民衆語ムンダ系・ドラヴィダ系言語と区別して、「古代インド=アーリア語」とも呼ぶそうです。ヴェーダに使用された「ヴェーダ梵語(サンスクリット)」は、前7〜後8世紀ごろ「古典梵語(これが典型的サンスクリット)」に変化し、現代にいたるまで学術語としても使用されています。


Q6 グプタ様式の仏像はあるのですか?

6A あります。アジャンタ・エローラに描いたり彫ってあるものがそうです。雲崗石窟の仏像はガンダーラ様式とグプタ様式の二つともあるとのことです。それが龍門石窟になると中国様式に変化したといいます。


Q7 <東京大学1994年度第1問>の解答例に対する質問です。題意は「モンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について論ぜよ」とありますが、陳朝がチュノムを作字したというの入れてもよろしいのでしょうか?というのも、確かにモンゴルの進出に起因しているんでしょうが、チュノムは独自の民族文字と聞いたものですから・・・「融合」や「衝突」のどちらにも該当しない気がするんですが。もし、この文字を書かせたいのなら、問題は「そこにみられた衝突・融合とそれがもたらした影響に触れながら論ぜよ」となるのではないでしょうか?僕はそこ
が一番この問題で引っ掛かるんです!

7A たとえばニッポニカという百科事典には「なお,字喃の起源については諸説があり定かではないが,中国の元朝の侵略を撃退して民族主義が高揚した陳(チャン)朝には字喃で書かれた詩すなわち国語詩が盛んにつくられ,阮詮(グエン=トゥエン)の「披沙集」や朱文安(チュ=ヴァン=アン)の「国語詩集」などが代表作である。」とあります。文化的な対抗意識ですから「民族」の面の「衝突」の例として描いてあってもいいはずです。
 それと「独自の」といっても字喃を実際に見られたらわかりますが、漢字とほとんど変わりません。中国文化との「融合」の例でもあります。問われているのは、モンゴル人の文化の融合・衝突ではありません。モンゴル人が広大な帝国を築いたために、従来にはなかった文化間の交流がうまれ、それが「衝突」になったり「融合」になったりしたものです。


Q8 「イスラーム化」とは「イスラーム帝国の支配」をさすのか。それとも「地域のイスラム教化」をさすのか? 調べると、「インドではイスラーム教改宗者は少なかった」と書いてありました。

8A あいまいなことばなので双方解釈できます。一般には後者の「地域のイスラーム教化」でしょう。中央アジアがイスラーム化した、というばあいは中央アジアのひとびとがイスラム教を信じた、と説明するときに使います。しかし問題の「インドのイスラーム化」という問いならば、支配の拡大のほうが主でしょう。というのはヒンドゥー教が前提である世界で、イスラーム化がイスラム教浸透とはとりにくいからです。また現在からの目もあります。イスラーム教徒はそれほど多くないのを知っているので、イスラーム教パキスタン成立の背景はなにか、ということであってインド全体がイスラーム教浸透とはとりにくいからです。これきイスラーム化の初期の動きのことです。
 インドのイスラーム化とは長い時間(8〜17世紀)をかけた影響です。「化」の指標になるのは三つ、①イスラム政権の支配下に入ること(上の問い)、②イスラーム教信徒が増えること、③イスラーム教との融合文化ができることです。


Q9 ガズナ朝やゴール朝はインドの侵略に成功していながら、なぜデリー=スルタン朝からが「インドの」イスラム王朝なのですか? またゴール朝はイラン系ですか?

9A 前二者はアフガニスタンを根拠(ガズナもゴールも首都名)にしたので、インドの王朝とはいいません。デリー=スルタン朝はまさにインドに首都をおいているのでインドの最初のイスラム教政権とみなします。奴隷朝の創始者クトゥブ=ウッディーン=アイバクはゴール朝の部将でインドを任されていたのですが、主人のムハンマド=ゴーリーが暗殺されたのを機にデリーで独立します。

詳説世界史(山川) アフガニスタンにトルコ人のガズナ朝とゴール朝が建設されてからである。
詳解世界史(三省堂) トルコ系のガズナ朝とゴール朝の軍が、カイバル峠を通って北西部インドヘの侵入をくり返した。
新世界史(山川) トルコ人のガズナ朝とイラン系のゴール朝が勢力をもつようになると侵入は本格化し
改訂版 詳説世界史(山川) トルコ系のガズナ朝と、ガズナ朝から独立したイラン系とされるゴール朝の両イスラーム勢力は、
用語集(山川) イラン系と称するゴール朝

とまあ、いろいろです。同じ山川出版社のものでも二つあるというのが変ですが、従来よりはイラン系が多くなってきたというところです。このように断定しにくいのは、建国者が○○○系であったとハッキリしている場合は、そのまま○○○系とするようです。しかしその部下たちは全部非○○○系だったらどうするのか、という疑問もわきます。当時の王朝は基本的にいろいろいな民族・部族のよせあつめである場合が多く、判然としないのが普通です。「称する」はティムールがチンギスの子孫やと言ったという、この嘘つきの嘘をそのまま信じていいのかどうかも考慮すると、決めがたい。ただ授業では、トルコ人の一連の移動期の中にこれらの王朝も登場するので、いまのところトルコ人としておく、と話しています。
 学問的な結論は、断定できない。どちらでもいい。入試でどちらで出てきても年代や説明文で判断する。もし何系か、と問うた大学には受かっても行かない(-_-;)。そんな問題を出すこと自体が不見識だからです。


Q10 先生の参考書に「キャラコはイギリスの産業革命を刺激した」とありますが、これは少し言いすぎだと思うのですが…。

10A イギリスにキャラコ論争というのがあり、だから英和辞典にのっているくらいの単語 calico です。1700年ちょうどにイギリスではキャラコ輸入禁止法が成立し、それでも入ってくるので1720年にはキャラコ使用禁止法ができるくらいにイギリスにとっては脅威の商品でした。清水書院の教科書に次のようなコラムがありますので、お読みください。
[ コラム25 インド=キャラコとイギリス ]
 物の名には地名に関わるものが多い。日本でも小麦粉のことを,アメリカ産ということでメリケン粉と称したが,同様の例は外国にもある。イギリスでインド産綿布のことを,積み出し港のカリカットの名をとってキャラコ(キャリコ)とよんだのもその一つである、なお,カリカットといえば,1498年に,ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが到達した港市でもある。
 イギリスとインド・キャラコとの出会いは、東インド会社が設立された1600年以降のことである。ヨーロッパ人がアジアに求めた物産としては,香辛料と絹織物・陶磁器が有名であるが,東インド会社はこのほかにも茶・コーヒー・キャラコなどをもたらし,西インド産の砂糖の流入とあいまって,17世紀後半から18世紀のイギリスに生活革命をひきおこすことになった。キャラコに色鮮やかな文様をフリントしたものを更紗といい,インド更紗は古代ギリシア人にも知られていたが,東インド会社がもちこんだのは,インド西北岸のグジャラート地方の更紗であった。当時のインドはムガル帝国の支配が安定し,伝統技術を生かした綿工業がグジャラート地方,ベンガル地方,東南部のコロマンデル海岸などを中心に発達し,都市や港は活気に満ちていた。
 イギリスでは,インド更紗は女性のドレスや下着,テーブルクロス,ベッドカバーなどに利用された。ヨーロッパの毛織物にくらべて,キャラコは軽くて吸湿性に富み,洗濯も容易なことから大変な人気を博したが,その輸入の増大は伝統産業である毛織物工業を圧迫し,政治問題化していった。そこで,議会は1700年と1720年にあいついでキャラコの輸入と使用を禁止する法律を制定したが,かえってキャラコの需要を高める結果となった。香辛料や茶・コーヒーと同じく,綿花も気候の関係でヨーロッパでは栽培できないが,原料の綿花が安く手に入れば,自前で綿布を織ることができる。そう考えたイギリス人によって,紡績機や織機が次々に発明され,産業革命が開始されたのである。


Q11 1905年のベンガル分割令の狙いについて先生は二点挙げいらしたんですが、一つ目のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離、これは教科書にも載っていてよくわかるんですが、二つ目の税制についてようわからんかったので、もう一回説明してもらえませんか……

11A ザミンダーリー制という、ザミンダールという地方の大領主に徴税を任せる方法(手数料がこの領主の懐に入ります)と、ライヤットワーリー制(ライヤットは農民のことで、イギリス側の徴税官が農民から直接徴税する)と二つあり、北部では前者、南部では後者の税制がしかれていました。ベンガルも前者だったのですが、後者のより税収のあがるものに変えようとしたのです。


Q12 山川の教科書p.300の10行目、「大戦中から反英的な姿勢を見せていた全インド=イスラム連盟……」とあるのですが、何が契機となって全インド=イスラム連盟はそんな姿勢をとるようになったんですか。Z会の問題集のリード文にその説明がしてあるんですが、ようわからんし……

12A 全インド=ムスリム連盟の反英性は、第一次世界大戦にイギリスが同じイスラム教の信仰をもつトルコと戦っていることの不満がありました。カリフの運命はどうなるのか、という不安もありました。また自治を約束しておきながら、具体的にどうするのか具体案が何も示されないことの不満。また戦争が長引き多くのインド兵が亡くなったことの不満も。最初の信仰を別にすれば、他はヒンドゥー教徒と同じ不満であり運動を提携してやれるようになったのです。戦争直後は共闘できたと言えます。しかし自治を求めていくとイスラム教徒がその将来の自治国の中で少数派になることは目に見えているので次第に自己主張するようになり、また離れていきます。全インド=ムスリム連盟は1940年にヒンドゥー教徒とは分離した「イスラーム国の樹立」を決議しています。


Q13 イギリスの東インド会社は1858年に解散してインドを直接統治してるのに、インド帝国ができるまでに約20年もかかってるのには何か理由があるんですか?

13A 20年間の意味はあまりありません。インド自体よりイギリスの方で女王を皇帝にしたてる王位称号法ができてイギリス国王兼インド皇帝を名のるようになった、というのが実状です。この形式をだんだん下に降していって、皇帝・帝国への功績ありと認められたインド人にさまざまの名誉称号をおくることでインド人の忠誠心を養うためでした。親英的なインド人を官僚として雇い、帝国の組織にインド人を組み込んでいくのも目的です。国際的な背景は、ロシアの南下にそなえて防衛体制を強化するためでもありました。


Q14 新インド統治法(1935)で自治を認められますが、自治領になるということとは違うのはなぜですか?

14A 新インド統治法の自治は地方の州の自治だけです。インド全体の決定権は英国にありました。つまり全体はイギリス人総督が自由に州知事を任免できます。州の決定もくつがえせます。中央政府はイギリスが握りますから外交権もイギリスが行使します。各自治領では住民の選挙よる代表が集まる州政府(官僚)によって統治されます。イギリスは白人支配のはっきりしているオーストラリア・南アフリカのようなところしかこの完全な自治権(dominion 自治領)は認めませんでした。この自治領は第一次大戦後は外交権も獲得し独立国に等しくなりました。


Q15 ベトナム戦争では北をソ連と中国が支援していますが、その頃ソ連と中国の関係は悪くないのですか?

15A 悪いです。中国は表向きは支援表明をしましたが実際にはほとんど支援の物資も武器も送らなかったようです。北爆(1965)が始まっても、その後に文化大革命(1966-76)があり、中国も支援どころではなかったのです。またこの間、米日と結んだ中国は信用ならないものでした。ソ連は援助しましたが、それほどの量ではなく、ヴェトナムはほぼ独力で勝利した、といっていいようです。ソ連にとってヴェトナムはあまり意味のない地域だったためです。社会主義国同士は冷たいものです。


16Q 「南ヴェトナム解放民族戦線」のことを「ベトコン」と呼ぶのは差別表現であり使ってはいけないと先生に言われたことがありますが、どうしてなのかよく分かりませんでした。なぜなのですか?

16A 「ベトコン(ヴェトコン Viet Cong、Vietcong)」と表現しても差別になりません。すでに解散した組織であり、この表現によって今は誰も差別を感じませんから。ヴェトナムのホーチミン・ルートのヴェトナム人観光案内が外国人向けに使ってもいる表現です。確かにはじめは内実がわからず、南ヴェトナム解放民族戦線を純粋にゴ=ディン=ディエムという南の独裁者に対抗して南だけでつくられた民族主義者らの自由を求めた組織であると信じられていました。この時期、アメリカがこれをヴェトナムのコミュニスト(共産主義者)と決めつけて呼んだアメリカ側からの蔑称表現でもありました。しかしこれは今は的をえた表現であったことが判ってきています。
 「1959年、ベトナム労働党中央委員会の第15回会議で解放戦線の結成を決定したのでしたね」という問いに対して、ファン・バン・ドン元首相が「そうです。同時に、南の全人民を動員して抵抗運動に立ち上がらせることも決定しました。それは一斉蜂起運動です」と。結成の決定は労働党つまり共産党が1959年1月13日に秘密裏におこないました。この組織の結成年は一般に1960年となっていますが、くわしくは1960年12月20日です。約2年かけて南での結成に動いたということです(『社会主義の20世紀』第5巻・日本放送出版会)。メンバーの多くが共産党員であるにもかかわらず隠して参加したことは歴史家たちも認めるところです。
 ベトコンという用語を説明すべき語句としてあげている主なものをあげると、大修館の辞書『GENIUS』、『国語辞典』(集英社)、『広辞林』『ハイブリッド新辞林』(共に三省堂)、『京大新編東洋史辞典』(東京創元社)、『世界史小辞典』(山川出版社)、『詳解世界史用語事典』(三省堂)の索引では、「南ヴェトナム解放民族戦線」に括弧を付けて(ベトコン)と入れています。
 教科書も内実が分かるにしたがって説明文を変えてきています。「反政府の南ヴェトナム解放民族戦線が結成された」(詳説世界史、山川出版社、昭和56年版)、「北の支援をえて、1960年12月に、南ヴェトナム解放民族戦線を結成した」(詳解世界史、三省堂、平成7年版)、「ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)の支援を受けて、60年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され」(詳説世界史、山川出版社、1997年版)という具合です。君の先生は学生運動に加わったことがあり、いまもその時の頭のまま時間が経過していない方なのでしょう。


Q17 ソンミ村虐殺事件とはどのような事件でしょうか?

17A 1968年3月、アメリカの海兵隊が南のソンミ村を襲い、無抵抗の農民500人を虐殺した事件で、虐殺が明るみにでると、米国内でベトナム反戦運動が高まる契機となり、テト攻勢(1968)とともにジョンソン政権にダメージとなりました。


Q18 シンガポールはマレー連合州、マラヤ連邦に加盟していたのでしょうか。

18A 前者はいいえ、です。シンガポールは海峡植民地の一部として連合州(1895)とは別個に存続しました。第二次世界大戦後、海峡植民地は解体され、ペナンもマラッカも海峡植民地から離れてマラヤ連邦(1957)に含められましたが、シンガポールは単一のイギリス植民地でした。それが1963年、マレーシア連邦の結成に一州として参加します。このマレーシア連邦から65年に独立する、という過程です。


Q19 ヒンドゥー教の基礎となっているカースト制が東南アジアにも定着したという話は調べても見つける事が出来ませんでした。なぜ?

19A 確かに。カースト制度はアーリア人がインドの先住民を差別するためにつくったものですから、東南アジアにアーリア人が入れば、つくったかも知れません。しかしこの侵入はありませんでした。


Q20 カースト制無しにヒンドゥー教は機能したものなのでしょうか?

20A まずカースト制度というのは長い時間をかけて出来たもので、インド商人が東南アジアに入っていく2〜4世紀のころ、カースト制度(2種類あり、ヴァルナ制とジャーティ制、前者が4身分、後者が職業別に3000種類)といっているものはジャーティ制のことで、東南アジアに商人が入った頃でもまだインドにこのジャーティ制はできていませんでした。まだできあがっていないものは入ってこれない、ということです。ましてヴァルナ制という上から順にバラモン・クシャトリア・ヴァイシャの上位3身分はどれもアーリア人です。
 機能面は多神教の東南アジアに別の神々としてヒンドゥー教の神々や物語が入ってきました。つまり東南アジアにはヒンドゥー教の根本経典たるヴェーダが入ってきていない、という欠点もありました。多神教の一つとして機能し、また物語は演劇・舞踊・影絵として今も生きてます。
 また職業別の複雑なジャーティ制は都市の発達した地域でできあがったものなので、人口の少ない東南アジアの地域には育ちようがなかった、という環境もあります。


Q21 『練習帳』別冊「基本60字」の32ページの16世紀のムガル帝国の支配体制についての問題です。解答ではマンサブダールが徴税権を持っていて給与は与えないと書いてあります。しかし私の持っている『タペストリー』という資料集にはマンサブダール制は皇帝が軍人・役人に俸給を与え、皇帝が農民から直接地租を徴収するという図が載っています(写真を添付しました)。これらは矛盾していると思うのですがどちらが正しいのでしょうか。

21A 添付された図のアクバル帝にマンサブダール制とあり、皇帝が「任免・俸給」を「軍人・役人(官位をもつ)」に与えることになっています。「俸給」が具体的に何を意味しているのかが、ハッキリしません。さも皇帝が農民から徴集した現金を給付するような図になっていますが、これはまちがいです。給金をあたえるのでなく、徴税権を給与代わりに与えるもので、じっさいに農民から徴集するのは軍人・役人たちです。徴税する土地のことをジャーギール(地)といいますので、土地の所有権はないけれど、そこの収穫物をとりあげる権利(地租の徴税権)をもらうのです。

 ジャーギール(地)は位階(マンサブ)に比例して与えられたので、ジャーギールダール制はマンサブダール制と表裏一体であり、マンサブダール(マンサブ保有者)はジャギールダールでもあったのです。

 東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)はマンサブダールのところで次のように書いてます。

マンサブダールはマンサブ(職責)に応じて、俸給額と維持すべき騎兵軍団の規模とを定められた。俸給は現金給付ないし地税の分与であったが、ほとんどの場合、後者が行われた。これがジャーギールであり、その保持者をジャーギルダールという。

 またジャーギールのところでは、

高官・武将が土地から受取るべき一定の税収権、およびその土地。アクバル時代中期にムガル官僚制が整備され、マンサブを得たマンサブダール個人の給与やその保持すべき兵士・騎馬の手当は、一定の土地から上がる税収でまかなわれるとととなった。現金で給与・手当を支払われるマンサプダールは少なく、大部分のものは数か所に分散した土地から上がる税収が、給与・手当に見合うようになっていた。

 と書いてます。つまりはイクター制と同じです。割り当てられた土地の税収が給与になるということです。言い方を換えれば、地方官僚(総督)は徴税官を兼ねる、ということで、役人の数を少なくする方法でもあります。
 右側の図のジャーギール制はなにか勘違いした図です。アウラングゼーブ帝の変化は徴税請負制を始めたことです。徴税請負制は一定の地域を一人の大領主(ザミーンダール)に任せて徴収する制度ですが、これは官僚による(中央集権的)支配がうまくいかなくなった時に生まれてくるもので、アッバース朝でもムガル帝国でも衰退期に現れるものです。中央に入ってくる税収は全額の20%ですが、入らないよりマシ、という制度です。これをとくにジャーギール制とは言いません。


Q22 山川の「詳説世界史B」P.290の「インド大反乱とインド帝国の成立」という章で「19世紀前半のインドは、税負担の増加による経済的疲弊がすすみ、沈滞した状況が続いた。19世紀後半にはいると、“世界的な経済活動の回復”と連動して、インドにおいても少しずつ経済回復の動きがみられるようになった」とあります。ここでの“世界的な経済活動の回復”という記述がよくわからないのですがこれはどういうことなのでしょうか?

22A p.256に「産業革命は大陸諸国にも広がり、近代工業への移行が開始された。1848年革命とクリミア戦争後、列強諸国が国内問題に専念するあいだ、イタリア・ドイツは統一国家樹立に成功し、19世紀後半には新しい形で列強体制が復活した。一方、ヨーロッパの干渉を排除したアメリカ合衆国は南北戦争後産業の急速な成長と太平洋岸までの開拓をはたした。」
 この時期のことです。1848年革命で混乱はありますが、それが終わるとヨーロッパ全体が政治的な騒乱は少なくなり、とくに1850年代は鉄道ブームといわれヨーロッパ中に鉄道が敷かれ、流通が盛んになり、また1870年まで産業革命の全欧で展開しました。独伊とも国内統一は鉄道を敷きながら実現しました。つまり産業革命の進展と国内統一が同時進行した、ということです。
 『詳説世界史』のp.244の下の表をご覧になると、1851年の人口増加があげてあります。イギリスはすでに1830年頃には産業革命は完成しましたが(完成とは、当時の技術で手工業は機械工業に変わった)、他の国々にこれが普及します。1844年にイギリスは機械の輸出を解禁しましたから、この先進国・イギリスの機械を買って他国がイギリスに追いつけと機械化をすすめた時期でもありました。これらが50年代以降の繁栄につながりました。1851年にロンドンで第一回万国博覧会、パリでは1855年に第二回万国博覧会が開かれています。これは当時の経済発展を示す陳列場でした。
 『国際経済入門』(東洋経済新報社)という本には、「1800-1913年の間……同期間の一人当り貿易の伸び率は10年間に平均33%であった。ことに1840-70年の伸び率は、貿易全体をとっても、一人当りをとっても、最高であった。この結果、世界全生産高に対する世界貿易額(輸出入合計額)の比率は著しく上昇した」という風に書いています。


Q23 アショーカ王の磨崖碑、石柱碑の位置についてですが、山川教科書p57の地図を見ると、これらは、国境にあるのですが、異民族対策のためもありますか?または、川の辺りにあるから、水脈の目印か?または、マイルストーン的なものですか?

23A 支配領域を示しています。置かれた場所は古代の通商路や巡礼地に一致する、という説明(ウィキペディア)も同じです。ハンムラビ法典の発掘地スサもバビロン第一王朝からすれば辺境地ですが、そこまで支配したことを示しています。


Q24 2006年度東大過去問の第二問の(1)が要求する文化的側面について:スーフィーの活動というのは、問題の要求する「カイバル峠を通るルートによる」定着過程に入るのでしょうか? 『世界史アカデミア』や山川『詳説世界史』などを参照いたしましたが、記載がございませんでした。むしろ、帆船がスーフィーの活動に貢献した、といった記載がありました。

24A イエス、が回答です。以下の記事は主に東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)を利用しました。
理由① カイバル峠(アフガニスタンとパキスタンの国境線)を通って、ということは(イラン→)アフガニスタン・パキスタン・北インドへというルートになります。スーフィーの中心地の一つがヘラート市でした。アフガニスタンの西部にある都市です。ここで活躍したスーフィーの神秘主義者としてアンサーリー=アブドウッラー(1005-89)という人物が知られています。
理由② アム川の北シル川の下流域にホラズム(パキスタンの西)という地方があります。そこにナジュムッディーン・クブラー(1145-1220)という著名なスーフィーがいました。スーフィー教団の一つしてクブラヴィー教団の名祖であり、はじめハディース学者として各地を遍歴して学んだのですが、その途中でスーフィーとなり、ホラズムに戻って没するまで同地で過した、とあります。
理由③ 上と同じシル川の近くの都市テュルキスタン(トルキスタン)市には、12世紀のスーフィー聖者ヤサヴィー(1103-1166)の聖廟があります。
理由④ ブハラ市というアム川中流の都市(イブン=シーナーの生地)にナクシュバンド(1318-89)という人物がいます。著名なスーフィーでイスラーム世界全域に広がるナクシュパンディ教団の名祖でもあります。かれの死後はブハラの守護聖者として尊崇されるようになりました。
理由⑤ デリー=スルタン朝はカイバル峠を通過して南下したトルコ人が、インド北部に建設した諸王朝でしたが、この時期にイスラーム教が浸透します。かれらの寛容策もさることながら、スーフィーたちの活動もあり浸透しました。
理由⑥ パンジャーブ地方(パキスタン北部)におきたシク教が偶像祭祀を禁止し、苦行やカースト制度を否定したのは、スーフィーの影響とされます。また、グルドゥワーラー(シク教寺院)での祈りの後、信徒たちが一堂に会食する、ランガルという習慣がありますが、どれも平等意識のシンボルとしてスーフィーたちの始めたものだそうです。
 これらのことから、カイバル峠を通ってスーフィー(人と主義)が普及したことは否めない、とおもいます。もちろん海路は商人たちの通路でもあり、海路から伝わったことは当然あることでしょう。しかし陸路も否めないはずです。