世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・20世紀史

現代史(20世紀史)の疑問

Q1 オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908)がパン・スラブ主義とパン・ゲルマン主義の対立を増長させたのはなぜですか?

1A かんたんに言えばオーストリアとロシア(パン・スラブ主義)が領土と勢力圏の拡大をねらっているからです。オーストリアが青年トルコ党革命(1908)のすきをねらった火事場ドロをやったことは、バルカン半島全域にオーストリアの支配がおよぶかもしれない危機とみなし、ロシアは同じスラヴ人同士としてオスマン帝国支配下のスラヴ人を「助ける」という口実で、このオーストリアの南下を阻止したい、ついでにオスマン帝国の領土をそぎたい、という意図です。これはロシア主導のバルカン同盟結成(1912)、バルカン戦争(1912,1913)に発展します。オーストリアが西の海をふさぐかたちで領土をとったことは、西海岸もほしがっていたセルビア人がとくにカッカきています。ロシアはこれを支援します。半島にロシアの影響が増します。


Q2 山川『詳説世界史』 p.293の3行目、「ヴェルサイユ条約の責任を共和国に負わせる反共和勢力……」とあるのですが、具体的に「反共和勢力」って何ですか。

2A 「(ヴァイマル)共和国に負わせる反共和勢力」は20年3月、一部の軍人・右翼政治家が政治家カップを首相として一揆を引き起こし一時的に政府をつくり帝政復活を企図したことがあります。ヒトラーのミュンヘン一揆もそのひとつでしょう。また25年エーベルトの死後に行われた大統領選挙で、保守派の推す大戦中の「英雄」ヒンデンブルクが当選したため、政府もしだいに保守色を強めていくことも国民的な意志でした。さいごには反共和勢力がナチスに結集します。


Q3 第三次産業革命ってなんですか?

3A 原子力の軍事目的の開発をはじめとし、レーダー、ロケット開発とつづいた革命です。それにコンピューター、ロボット、トランシーバー、レーザー、ジェット機なども入ります。つまりは第二次世界大戦末期からの戦後の技術革新をさしています。


Q4 なぜデンマークは一次大戦中に中立を守ったんですか?

4A まず、デンマークだけが中立を保ったのでないことを言わねばなりません。1914年12月にノルウェー、スウェーデンとともにマルメ市で3国の中立宣言がおこなわれています。
 デンマークが当時、社会主義政権であり、中立政策に戦前から積極的であったこともあげられます。デンマーク人にはシュレスウィッヒ・ホルシュタイン問題でドイツ人は嫌であり、反独的な感情は強いのですが、そうはいっても戦争は亡国の危機も生みますので、戦争にはかかわらないほうが国の保障には得策、まして強力なドイツとは戦争は避けた方がいいと考えたようです。といって完全な中立が保てたのでもありませんでした。戦争がはじまると、ドイツはデンマークの海峡に機雷を敷設をしよとし、それを受けいれざるをえませんでした。イギリス海軍に対抗するドイツの戦略です。デンマーク国王はイギリス国王に自国の苦境を訴えてこのことを知らせます。イギリスも理解してデンマークに制裁処置をとりませんでした。それでもデンマークの商船がドイツの機雷に触れて沈没したそうです。


Q5 ヴァイマル共和国時代のドイツで、1923年11月にミュンヘン一揆がヒトラーによって起こされたと思いますが、その政治的背景と歴史的背景について教えてほしいのです。一応自分でも研究はしているのですが、なかなか見つからないので教えてください。

5A アラン・ブロック著『対比列伝・ヒトラーとスターリン』草思社の第一巻を読まれてはいかがですか? そこには実に詳しくミュンヘン一揆のことが書いてあります。


Q6 第一次世界大戦のあとの「ドーズ案」「ヤング案」についてです。1924年の「ドーズ案」ではドイツの賠償金を減額はして「いない」というふうに習いました。講師も、減額を「した」のは「ヤング案」だから、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し……」なんていうものに引っかかるなよ、と言っていました。

6A ロンドンで決まった払い方では、総額1,320億金マルクの支払を年44億ずつとしていたのを、ドーズ案はむこう5年間は過渡期として支払い額を25億と軽減したものです。この案では総額の減額はありません。このドーズ案でも、ドイツの賠償支払いが不可能であることがわかったので、さらに1929年のヤング案では総額を358億マルクと減額し、支払年限59年のうち、第1期37年の間は年額20.5億マルクの支払いと減額し、その後はさらに減少させるというものです。
 講師の、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し・・・」なんていうものに引っかかるなよ、というのはまちがいです。正しくは「債務金額の総額を減額し」で、それだったら引っかかってはいけないでしょう。


Q7 イギリスの選挙法第五回改正は何内閣なのか、用語集に記述がなくてよくわからないのですが、よかったら教えてください。

7A 保守党のボールドウィン内閣(1924〜29)です。この後に労働党のマクドナルド内閣がきます。


Q8 山川出版社『詳説世界史』p.239の「1926年からイギリス連邦という呼称になった」p.253「1931年、ウェストミンスター憲章でイギリス連邦が成立」とあるのですが、1926年の方は名前だけ変わったということですか?

8A そうです。「イギリス帝国(日本では大英帝国ともいいました)」に代わって、1926年のバルフォア宣言は旧植民地たる自治領(ドミニオン)が独立化の傾向をつよめたため、自治領は本国と対等で、国王に対する共通の忠誠によって結ばれる、としました。1931年のウェストミンスター憲章(条例)は、このバルフォア宣言の趣旨を法律化したものです。イギリス本国の承認なしに自由に憲法を制定できることになりました。


Q9 1931年のウェストミンスター憲章で、教科書には、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるんですが、こんなん対等ちゃうやんって思うんですけど……。

9A  1931年のウェストミンスター憲章で、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるのは、本国の承認なしに憲法が制定できると規定しており、内政干渉はまったくできなくなります。たんに英の国王としてあがめるだけです。今でもオーストラリアでこれが問題になっていますよ。英国王がなんでオーストラリアの国王なんや、と。飾りに過ぎないもんを、なんで崇めなあかんのーっ、と。
 ニュース記事「1999年11月6日挙行された豪州国民投票は、オーストラリアがエリザベス女王を国家元首とする現在の立憲君主制から、大統領を元首とする共和制に移行するかどうか、世界とりわけアジア諸国の注目を集めていたが、開票結果は移行を否決した。
   共和制移行     反対 『NO』   約54%
             賛成 『YES』  約45%
 この結果、エリザベス女王を盟主とする(英国以外の)英連邦53ヶ国のうち、15ヶ国が引き続き女王を国家元首とする立憲君主制を維持することとなった」エリザベス女王は、オーストラリアの女王でもあり、オーストラリアでは、総督が女王の代理人として政府の推薦で任命されています。


Q10 世界恐慌の各国別の影響を見るとフランスはその波及が遅いのはなぜでしょうか?「フランスは農業国なんで」というのではいまいち納得できないのですが。

10A 「フランスは農業国なんで」は答えになりませんね。他の西欧の国々と同様に25年くらいまで戦後の回復はできなかったのですが、それがフランスの場合は長引き、1926年からの左派に代わった右派ポアンカレ政権になって回復のきざしがでてきます。この政権は財界の協力を得つつフランの切下げと安定に成功し、インフレをしだいにおさめていきます。また1926〜29年のあいだに、自動車産業など新型重化学工業が成長していき、フランスは戦前の「農業国」から「工業国」へ離脱したといいます。それで1929年に世界恐慌がはじまっても、フランスにまで波及するのは1931年の末からです。このようにフランスは1920年代の復興がおそく、恐慌の少し前くらいからやっと回復してきたため、恐慌の影響はすぐにはあらわれませんでした。しかし周辺の国々がフランスの商品を買ってくれなくなるとじわじわと効いてきます。


Q11 「アイルランドの独立派がエールの名で独立を宣言し、イギリスもこれを承認した」(詳説世界史)んですよね。この1937年の時点でアイルランドは脱・自治領じゃないんですか。というのも、別のところには「エールはイギリス連邦を脱して49年アイルランド共和国となった」とあるから、私が言いたいのは、エールの名で独立を宣言したら、イギリス連邦もなんも関わり無くなったんちゃうの? ということです。

A11 1937年の時点で脱・自治領じゃありません。憲法を自ら制定して実質、独立国家になったのは確かですが、連邦内なのです。もちろん連邦離脱の手前ではあります。離脱は1949年です。


Q12 『社会主義』は『ファシズム・全体主義』と同じ内容・考え方ではないですよね?

12A そうです。必ずしももイコールではないです。
 社会主義の政治体制として全体主義をとることがこれまでのソ連・中国・北朝鮮・東欧にあったということであり、西欧の社会主義のように、多党制と議会政治も認めた、つまり全体主義でないものもあります。ファシズムは30年代に現れ、「社会主義」ということばを使いましたが(国家社会主義ドイツ労働者党のように)、中身は社会主義ではなくたんに労働者の面倒も見ているという「つもり」に過ぎません。


Q13 ナチスの正式名称って「国家社会主義ドイツ労働者党」ですよね?あれれ?ナチスって右翼では……? なぜに党名が社会主義?っていう質問です。

13A 「国家社会主義ドイツ労働者党」右翼でも当時、「社会主義……労働者」と、ある程度の社会的政策(失業・保険・雇用)をとらなければ労働者の支持を受けることができませんでした。初めは不労所得の廃止、利子奴隷制の打破、トラストの国有化、土地改革、地代の廃止など資本家と地主に対決する姿勢を示しています。支持を受けると次第に中間層→資本家・地主に支持をうけるように主張も変えていきました。政治ですから党名は必ずしもホンネを表わしていません。ホンネは最初の「国家」の強化・膨張でした。


Q14 なぜ対独宥和政策をとることが、ヨーロッパにおけるアメリカの干渉を排除することになるのでしょうか?

14A どういう文脈で問われているのか分かりませんが、一応こういうことではないかと、というわたしなりの考えを書いてみます。少なくとも軍事力行使という想定はなく、介入するとしても外交だけと考えられます。連盟には参加しなくてもすべての連盟の委員会にオヴザーヴァーとしてアメリカが参加していました。完全な孤立主義外交をとっていませんでした。
 そしてアメリカ市民の中でもっとも数が多いのはドイツ系であり、ヴェルサイユ条約調印を拒否したように、ドイツいじめにはアメリカは反感をもっています。アメリカも反共産主義であり、ナチスがねらっているのは西欧ではなく東欧・ロシア(共産主義)であり問題はないとアメリカは見ていました。それにナチスによるドイツの復興は恐慌にあえぐアメリカにはもうけになるのでナチスに対して好意的でした。ユダヤ人の強制収容所における殺戮を知りながらなんらのアクションもとっていません。それを批判したチャップリンが共産主義者だと断定され戦後アメリカから追放されています。自動車王のフォードがナチス党への資金援助をしていたことを知りませんか?


Q15 1944年6月のノルマンディー上陸作戦の日をD-Dayと呼ぶそうですが「D」とは何の略でしょうか。決定的(desisive)とかの略ですか?

15A いいえ、コードネーム Debarkation Day (上陸の日)の略語です。これは最初の日だけのコード・ネームですが作戦全体のコードネームは Operation Overlord (大君作戦)でした。


Q16 第二次世界大戦開始のあとにいろんな会談がありますよね?フランスがどれにも参加していないのには何か理由があるんですか?ポツダム協定ではどうして米、英、ソに加えて仏がドイツを分割占有できたんですか?

16A 「フランスがどれにも参加していない」のはフランスがドイツに占領されていて、ヴィシー政府というドイツに協力する政府があったためです。ロンドンに亡命しているド=ゴールは自分を代表に加えないのを歯ぎしりしてくやしがっていました。1944年にはド=ゴールはパリにフラン軍とともに帰ってきました。フランス軍も再建して、戦後体制には、この後から加わることができました。それでもド=ゴールの恨みは大きく、かれが第五共和政を築いてから、NATO脱退を決め、英国をECに加わらせない、という政策をとったのは恨みを晴らしたかったからです。


Q17 西ドイツの通貨改革が東ドイツに経済的混乱をもたらす、と教科書に書いてありますが、具体的にどのような形で混乱を与えるのですか?

17A 西側だけの通貨改革は、東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、事実上の物々交換の状態のところへこれを発行すると、東側に住むひとは、使っている戦前からのライヒスマルクの価値の下落と、物価上昇においつけないからでしょう。西側にとっての、いわば経済的な独立宣言でした。


Q18 1945年7月のイギリスで、労働党が勝利したのはなぜですか? つまりチャーチルはなぜ敗れたのですか?

18A チャーチルは人気のある政治家でしたが、保守党に対する人気は落ちていました。恐慌時の失業、ナチスに対する宥和政策、戦禍などのためです。ドイツの空襲で家を焼かれ地下鉄の底での暮らしはたえがたかった。また労働党の福祉政策や家持ち政策に国民が魅力を感じていました。戦争を勝利に導いている首相であるにもかかわらず国民はチャーチルを捨てたのです。労働党が393議席、保守党が213議席で圧倒的な勝利でした。


Q19 冷戦終結の背景についてです。つまりはゴルビーの登場(新思考外交)などの背景。これはいろいろあるとは思いますが一番の理由は米ソの予算問題でしょうか? 同時にヨーロッパ、日本の経済的台頭も考慮に入れてオーケーですか?
 冷戦の終結までの過程を問う模擬試験で「経済的に大国化した日本や統合して経済力を強化する欧州を前に米・ソは冷戦終結を急いだ。」と締めくくった部分に加点されなかったのです。やや不安だったので。

19A 冷戦はなぜ終わったのか……という問いは、これからも問われていく世界史的な問題です。
 米ソの予算問題……互いに経済的に軍拡が無理なところまできていたのは事実です。
 「ヨーロッパ、日本の経済的台頭も」いいです。なぜなら、西欧・日本と比較してソ連・東欧経済があまりに遅れている、という認識が社会主義を崩壊させたからです。具体的には品質の悪さ、計画経済の破綻、無責任体制などです。倒産のない経済は不健全なものなのに、いつまでも悪い商品を産みつづけたためです。テレビや映画で西側の生活がまるでちがうことを見せつけられていたし、党幹部は西欧の衣服、家具、台所用具を買っていました。
 試験は採点する側の容量とも比例します。採点基準に君の書いた部分がポイントとしてなければ加点してもらえないのです。
 河合塾の模試で隋の科挙を選挙と書いてまちがいと採点されて、なぜときいてきた学生がいました。隋唐の時代は科挙と言わないで、選挙と言っていたので正しいのですが、採点する河合塾の側でそれを知るものがいないとなると、まちがいになるのです。科挙は宋からの名称です。


Q20 教科書に書いてある「54年のパリ協定で主権を回復した」という場合の、主権回復ってどうなることですか?

20A 占領軍による統治が終わり、占領されていた国・民族が、国家として内政・外交の仕事をはじめることです。日本にとってはサンフランシスコ講和条約がそれにあたります。占領軍がにぎっていた全権が主権回復国に返還されます。主権とは、国内における最高権力と対外的独立を意味します。ドイツも日本もそうでしたが、主権回復後に、占領軍とは条約により駐留する基地を与えられ、そのまま残ったのですが、内政・外交に干渉する権利は駐留軍にはありません。ただ日本の場合は日米合同委員会・日米地位協定があり、外交権は事実上アメリカにあります。まだアメリカの属国です。日本州というひともあります。


Q21 ECについての話で、「1960年代後半、イギリスもECへの加盟を強く希望するようになるが、フランス(  )政権がこれに強く抵抗した」とリード文があって、(  )にはド=ゴールが入るんですが、その解説が「ド=ゴールはイギリスの加入は、イギリスとアメリカとの関係からヨーロッパの独自性を損なうという主張で反対した」と。「イギリスとアメリカの関係」っっ?てなんですか?

21A ド=ゴールは第二次世界大戦中に外向的な屈辱を味わいました。戦争指導会議(カサブランカ〜ポツダム会談)にフランスの代表はまったく出席していません。ド=ゴールは要求したのですが受け入れてもらえなかった。確かにフランスは当時ドイツの占領下にありました。この戦争中の屈辱を戦後晴らすべく、独自の外交を展開するのです。イギリスなんてヨーロッパの国でさえない。アメリカの子供にすぎん、と見なしていました。このド=ゴールからすれば親密な米英関係をヨーロッパ外の関係として突き放したかった、ということです。イギリスが、ECへの加盟を1963年と67年に申請しましたが、いずれもド=ゴールの反対にあって失敗に終わっています。ド=ゴールのこうした反米英的な姿勢は、共産圏への接近、核兵器の開発、NATO軍事機構からのフランス軍の引き揚げ、中国承認、アメリカのベトナム介入反対、フランス中心の金本位制の復帰など、フランスの自主独立の外交路線を強力に追求したことで表れています。フランスこそヨーロッパの中心だという誇り(思い上がり、埃に近いもの)を追求したのです。その鼻っぱしの強い姿勢から、ド=ゴール王朝とか、ルイ・ド・ゴールなんて呼んだりしました。


Q22 第一次世界大戦終了後、イギリスでは「労働党が保守党につぐ第二党の地位につき、1924年には労働党党首マクドナルドが自由党と連立内閣を組織した。この政権は短命におわったが」と山川出版社の詳説世界史にあります。大戦後の経済不況のなか、なぜマクドナルド内閣は短命におわってしまったのか教えてください。

22A 1924年にソ連と条約を結んだことがきっかけです。労働党ではない英国共産党の機関誌に、終わったばかりの戦争中に、兵士は争議中の労働者や戦争中の仲間の兵士に銃を向けるな、と呼びかけた論文が掲載されました。このことが戦後問題となり、非国民として告訴した者がいて、労働党がこの告訴を圧力で撤回させた、と保守党が言い立て、これに労働党内閣の一翼をになっていた自由党も賛同したためです。労働党内閣は自由党と労働党の連立でした。保守党が議席数では第一党でしたが、労働党と自由党が連立して数を超えてできた内閣でした。また条約の交渉をめぐって保守党が種々のデマを飛ばして労働党がさもソ連共産党と組んでいるかのように主張したことが、選挙民が労働党に賛同しなくなる要因でした。9ヶ月しか労働党内閣はもちませんでした。反共の気運が強いため、といえます。


Q23 国際連盟と国際連合の議決法には、前者は全会一致制,後者は多数決制という違いがありますよね。ある参考書に(一般的な記述ではありますが……)「第二次世界大戦を防ぐことのできなかった国際連盟の失敗を考え、総会の決議は国際連盟の<全会一致>に対して、国際連合は原則として<多数決>によることとし、さらに米英仏ソ中五大国を常任理事国とする安全保障理事会に、軍事的制裁を含む強力な平和維持の権限を与え、さらに常任理事国5カ国には拒否権を認めた」とあります。理論的には、正しく作用すれば、安全保障理事会の設置や軍事的制裁や拒否権が平和の実現につながるであろうことは理解できるのですが、どうも議決方法の変更は理解できません。
 これはどのような理論で多数決制が採用されたのですか?

23A 連盟の場合、主権国家はそれぞれ対等である、という原則に立って一国一票であり、全会一致で決めるのがふさわしい、と考えての票決方法でした。しかし枢軸国の横暴に対して対応の一致は難しく、一番無難な反対のない最低限の制裁にとどめるという意味での全会一致でした。しかしこれはかえって枢軸国の侵略を容認することになり、戦争の助長になってしまいました。
 連合は連盟よりたくさんの委員会を設け、かつ、連盟より多数の国々の加盟となったため、全会一致では何も決まらない事態を生みます。総会や委員会がみな多数決を採用する理由はここにあります。
 また弱い連盟では平和の維持はできないので、制裁力を強めるためにも、迅速に実行に移すためにも多数決が必要です。何か理論で多数決制が採用されたというより、実際の運用の都合から採用した、という言い方がふさわしいようです。
 しかし大問題の場合は安全保障理事会で討議し、ここだけは全会一致の原則を持たせています。ただしこれは、わずかな大国にしか権利がないことはご存知の通りです。
 ただ、これらがうまく機能しているか、というとそうではない、という結果になってます。


Q24 ベルリン封鎖の原因は、「ソ連が、西側の通貨改革に抗議した」ことだと学びました。西側の通貨改革が、どうしてソ連にとって不都合になるのか、いまひとつ理解できません。
 ウィキペディアの「ベルリン封鎖」の項では、
①ソ連が、6月24日に東側領域の通貨改革を実施すると宣言 ②西側も、6月20日に西側領域の通貨改革を実施すると宣言→西側通貨(ドイツマルク)は、マーシャルプランの保障を受けている→西側通貨が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗
という趣旨の解説がありました。疑問点は以下です。
①そもそも東西両陣営は、「改革」によって、それぞれ「何を何に」かえようとしたのですか。
②Wikipediaにある「西側通貨が力を持つ」とは、どのような事態を指すのですか。また、それがなぜ、東側にとって不都合なのですか。

24A 通貨改革ついては拙著『センター世界史B各駅停車』に次のように説明しています。
 西ドイツの3国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に新通貨「ドイツ・マルク」を発行する通貨改革を実施しました。1ドイツ・マルク=(旧通貨)10ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、いわば経済的な独立宣言といっていいものです。終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。この通貨改革によって闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定に対してソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」で対抗しました。ソ連は西ベルリンへの地上接近路をすべて閉鎖し、西ベルリン市民250万人を封鎖状態におきました。交通手段以外にガス、水道などの供給もすべてカットしました。飢えと凍えによって市民を屈伏させ、通貨改革を止めさせ、西ベルリンから英米仏軍を追いだそうと企てたものです。チャーチルは、「これはスターリンの前でどれだけ逆立ちができるかためされているようなもんだ」といいました。
▲通貨改革を実施したのは西側の3国であり、ソ連ではない、ソ連はベルリン封鎖で対抗した
 逆立ちはつづけられました。燃料(石炭)・医薬品・衣料をはこぶ大空輸作戦(「空の架け橋」作戦)がおこなわれました。3分に1機の間隔で大型飛行機がフランクフルトやビスバーデンの空港で荷物を積み込みベルリン空港に着陸しました。1日16000トンの運搬量で、これを320日つづけ、総計160万トンもの物資をはこんだことになります。かつて空爆にも参加していた米軍は、こんどは空輸によってベルリン市民を守る立場にかわりました。

 この説明から推理できますが、ソ連・東ドイツにとっては使えない通貨が西側だけで流通がはじまったため、このことは統一ドイツをどうつくるかの四ヶ国(中心は米ソ)の話し合いを打ち切りにする、ということであり、ハッキリ、ソ連の姿勢(共産党政権づくり)に反対を表明したことになりました。
 ご質問の回答は、
 ① 信用のなくなった貨幣の経済に、信用のある貨幣を流通させる。経済の回復、というのが目的です。それが結果的に政治的独立につながります。
 ② ソ連と東ドイツにとっては、これまでの通貨が無価値になり、貯金していたひとにっとては消えてしまうことにもなりました。
 じっさい、無価値になる旧貨のソ連地区侵入を防ぐためとの説明をして、交通制限がはじまり、東独と全ベルリンでのソ連による通貨改革も発表されました。しかしソ連は新紙幣が間に合わないため、旧貨に証紙を貼ることにし、24日開始を予定します。しかし西側がベルリンの西側地区ではソ連新通貨無効と宣言したので、ソ連は布告で「ベルリンの連合国管理機構はあらゆる意味で消滅した」と宣言したあと、ベルリンの西側地区への送電を停止し、西部ドイツから上記地区への食糧品・石炭の輸送を止めます。つまり「ベルリン封鎖」が始まることになりました。