世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・朝鮮史

朝鮮史の疑問
Q1 高麗では10世紀に武人、豪族に代わって両班が台頭したとありますが12世紀末に軍人(武人)が政治の実権を握ると教科書に書いてありますが両班が衰えてしまったのですか?
武臣と武人はちがうのですか?

1A 高麗は科挙を採用しますが、科挙の合格者たる両班はまだ実権をにぎっていません。科挙を採用しても新羅以来の有力者・貴族の子弟でなければ官吏になる道は閉ざされていました。さらに高麗政府の信仰は仏教(禅宗)であり儒教ではなかったのです(『高麗版大蔵経』)。
王建は豪族連合政権として出発したため、4代目の光宗(位949〜975)になって豪族・軍人を抑制するために科挙を始めました。しかし5代目の景宗(位975〜981)になると、豪族たちは合格した高官たちを殺し、豪族の子弟を高官にして実権を握り、高官は恩蔭(朝鮮では恩叙といいました)といって無試験で高官になれるようにしました。表向き文班の支配ですが、中身は豪族で、これらが特権層になるので韓国の教科書では高麗を「貴族社会」と説明しています。この表向き文治主義の支配も12世紀には武班(武人)に奪われることを日本の教科書はどれも書いています。つまり中国的な文官支配はほぼなかったといっていいのです。日本の専門家も高麗時代は李朝で両班の支配が確立するまでの過渡期ととらえています。旗田という朝鮮史の専門家は高麗は新羅と李氏朝鮮の間に位置する「未熟な官人国家」と呼んでいます。荒巻著『世界史の見取り図』(ナガセ)の中には、高麗の科挙採用を、「新たな支配層となる科挙官僚=両班が登場します」として両班支配ができたかのように書いてしまっています。そのことを後でも、「李氏朝鮮の支配層は両班です。高麗と変らないんだね」と念を押しています。これは、まちがいです。
 武臣と武人は同じです。武班でも同じです。ただ高麗時代はまだ武科挙(武術・戦術の試験)はなく、文人だけの科挙しかなかったようです。文科挙に合格した者が官僚になる機会は生まれました。儒教の伝統で文班がいばりだすと武人としては我慢ならなかったのでしょう。


Q2 『論述練習帳』の知識篇の朝鮮史の3番に、日本は不平等な日朝修好条規を強制して開国させ、従属関係に変えたと書いてありますが、どのような点から従属関係といえるのですか?教えてください。

2A 日朝修好条規の、「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」と書きながら、この第一款と矛盾する「不平等」とされるものは、(1)日本の領事裁判権(第10款)、(2)無関税(日朝往復書翰)、(3)開港場における日本貨幣の使用(付録第7款)の三つです。第一款にしてもねらいは何も平等に朝鮮とこれからつきあいましょうという確認ではなく、中国の支配を排除することがホンネです。だから日清戦争の下関条約でも、日朝修好条規に反発していた中国に対して、まず何よりも、第一条でこのこと(朝鮮自主)をくりかえさねばなりませんでした。日本の軍艦6隻を江華島に突き付けて結ばせた条約が平等であるはずはありません。 


Q3 なんで朝鮮の政権が上海に樹立されるるんですか。ある解説に「大韓民国臨時政府の初代大統領に就任したのは若き李承晩で上海で樹立宣言が行われたが、戦後の大韓民国にはつながらなかった。」と。ん〜っわかったようなわからんような……。

3A 当時は日本の植民地だったからです。亡命地でつくったということでしょう。三・一独立運動に刺激されて、国内外の独立運動家たちが上海に参集してつくった亡命政府です。李承晩はこの臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領にも就任します。またワシントンに臨時政府欧米委員部を開設しています。外から、日本の支配を認めないぞ、いずれわたしたちの時代が来るのだと待ち構えていたわけです。


Q4 一橋1992年の第3問(イ)で、「05年から抗日義兵闘争が激化」と先生の解答にありますが、旺文社の『世界史事典』には、「1905年の第二次日韓協約以来の日本の対韓植民地政策に対する朝鮮官民の反抗が、1907年の韓国軍解散を契機に激化し」とありました。

4A どちらで書いても問題ないです。というのは義兵闘争は19世紀末からあり、それは併合後も続いてたので、どこで「激化」を言うかは諸説あるからです。大学教授は「諸説」を知っていますから、どちらで書いても可としてくれます。

 東京書籍の教科書では、
1905年ソウルに韓国統監府を設置して、露骨な内政干渉を開始した。そのため韓国では義兵闘争(反日武装闘争)が激化した。1907年に日本が韓国の軍隊を解散させる(第3次日韓協約)と、義兵闘争は全国に広がり……

 山川の用語集では、
反日義兵闘争 ⑨ 朝鮮民衆の反日武装闘争。閔妃殺害事件後の1896年に初期義兵闘争がおこった。1905年以降にふたたびおこり、07年の朝鮮軍解散の強制でいっそう激化した。朝鮮全土に広がり、ほぼ10年間各地でゲリラ戦を展開して、日本の統治を困難にした。

 2014年に出た新用語集では次のように書き換えています、
義兵闘争 ⑦ 朝鮮民衆の反日武装闘争。朝鮮では、1895年の閔妃暗殺と開化派政権による断髪令への反発から、翌年、各地で儒学者を指導者とする義兵闘争がおこった。一般民衆をも指導者とする義兵闘争は1905年の斡国保護国化後に始まり、07年の第3次日韓協約による韓国軍解散に抗して兵士が合流し、全土で14年頃まで統いた。

 ここには激化ということばはありませんが、指導者が誰かということに重点をおいた説明になってます。


Q5 植民地化した朝鮮の近代化のために、多額の日本の資金を投入したので、それを返してほしい、という講師がいましたが、先生はどうおもわれますか?

5A 「朝鮮の近代化のために」というところが怪しいですね。植民地にした国のために、という目的は植民地化した国の第一の目的であるはずがないでしょう。イギリスはインドを第一に考えて植民地化したおもいますか? フランスはアルジェリアの近代化のために植民地化したのですか? どこも自国のためでしょう? 「植民地」は自国に利益をもたらすはずとして植民地化する、という当たり前のことが分かりませんか?
 次のサイトに朝鮮近代化と日本の関係について説明しています。お読み下さい。

Q&A 4 日韓関係・植民地支配 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任 - 東アジアの永遠平和のために