世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・西欧中世史

西欧中世史の疑問

Q1 「国王」と「皇帝」の違いはなんですか。特にヨーロッパのことについてお願いします。

1A カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝で両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。それがカール1世の登場で、その実力から東の皇帝に対抗して西側からも皇帝を出そう、ということになり、東の皇帝に軍事的圧力もかけて無理矢理みとめさせています。加冠したレオ3世はカール1世に恩義があって何かお礼をしたかったのです。
 皇帝というのはヨーロッパでは王の中の王です。King of kingsです。王の中のだれが就任してもいいのですが、後の神聖ローマ帝国皇帝が由緒あるヨーロッパの諸王のだれかから、たいていは裏では金が動いて7人の選帝侯が選ぶかたちをとります。フランスの王がなってもいいし、スペイン王がなってもいいのです。イギリスの王が立候補したこともあります。16世紀にフランスのフランソワ1世とスペインのカール5世が立候補してカール5世が皇帝の地位を落札したのは有名です。じっさいには、1438年から消滅する1806年までハプスブルク家がかぶりつづけました。


Q2 ヨーロッパの皇帝とか教皇というのはイマイチわかりにくいです。これはなんですか?

2A 皇帝は「諸王の中の王」という意味で、中国のように始皇帝からはじまる「惶々(こうごう)しい上帝(じょうてい)」という宇宙の神といった意味で皇帝を使いません。ヨーロッパの皇帝の由来はローマ帝国皇帝にあり、以後はその継承者を任じているのです。西欧ではカール大帝やオットー1世が名高いです。古代ローマのコンスタンティヌス帝がそうであったように教会の問題にも介入できる(ニケーア公会議)くらいの教会の保護者も任ずる立場です。ところが次第にローマ教皇が頭をもたげてきて十字軍のように欧州全体を動かすくらいの権威をもってきます。しかも教皇を頂点とするキリスト教会は西欧の土地の3分1を所有している世俗的な面ももった大領主の集団でもあります。奥の手の「破門(はもん)」の権限も世俗の皇帝・王たちにとっては怖い存在でした。この皇帝(世俗のトップ)と教皇(教会=聖界のトップ)のどちらが真の西欧の支配者かをめぐる争いが叙任権(じょにんけん)闘争でした。たぶん教皇がお坊さんのトップなのに何故こんなに偉そうなのだ、と疑問をもっているのかもしれません。教皇は教皇領をもつイタリアの大領主であり陸軍・海軍をもっていますから、むしろ坊主頭の国王と考えたほうが良さそうです。プレヴェザ海戦やレパント海戦に教皇の艦隊がでてくることを想起してください。


Q3 フランクを主とするゲルマン人少数者がラテン人を支配し、カトリック信仰をもっていた……の所で、ゲルマン人が少数者だったのはなぜでしょうか。そしてラテン人はどのくらいいたのか。

3A ローマ帝国という都市も農村も発展したところへ、ライン川・ドナウ川沿いにいた都市をもたない農狩をかねたゲルマン人は数はひとつの大集団民族とて数万人という規模です。歴史書ではだいたい10%前後がゲルマン人の王国の住民比率とみています。90%前後がラテン人(ローマ市民)でした。


Q4 テマ制とプロノイア制はどうちがうのですか?

4A ともにビザンチン帝国の土地制度と結びついた軍事制度ですが、前者は7世紀につくられ、この制度の崩壊とともにできてくるのが11世紀ころからのプロノイア制です。テマ制は、帝国を軍管区(テマ、テーマ)に分け軍隊を駐屯させて、それぞれの区ごとの長官(ストラテゴス)がその地の行政権・軍事権を握っていました。唐の節度使ににています。このテマに兵士を供給するために、兵士に世襲できる「兵士保有地」を与えてて自作農とし、租税負担を軽くして平時は農業に従事させました。コロヌスやスラヴ人移民がこの屯田兵士となります。軍管区制と屯田兵制はセットの制度ですからテマ制を「屯田軍管区制」と訳すものもあります(一橋系の学者による『体系経済学辞典』東洋経済新報社)。しかし唐の府兵制の崩壊が均田法の崩壊とセットであったように、9世紀頃から貴族・豪族による大土地所有が進展し、一方屯田兵は長期の遠征のため没落していき、11世紀にはテマ制は解体しました。代わって登場するのがプロノイア制です。これは功績のあった将軍・貴族・地方有力者に皇帝が国有地とそこの農民とともに貸与し、租税徴収権・用役権を与え、その代償として軍事的奉仕を課す制度です。はじめは一代かぎりだったのが世襲化します。この変化はイスラームの封建制のイクター制とにています。これは発展して地主が農民にたいする支配を強め農奴制を成立させて行きました。また地主の権限が強まり地方分権化します。(プロノイア制については異論もありますが、ここは教科書的な解説です)
 テマ制は自作農民兵にたより、プロノイア制は地主戦士にたよる軍事制度です。


Q5 前々から頭を悩ませていたことなんですが、山川の教科書に、「カール大帝が西ローマ皇帝として戴冠すると、ビザンツ皇帝も聖像崇拝を認めざるをえなくなった」という一文があるのですが、なんで?????の一言なんですが……。
 また、なんで聖像崇拝について、キリスト教が、イスラーム教から非難されらなあかんのですか。イスラーム教に口出しする権利はあるんですか。それだけイスラーム教が当時勢力が強かったってことですか。

5A 大まかには、カールもカールを皇帝に仕立てたローマ教皇も聖像容認の立場であり、和解のためには西欧側の言うことをビザンツは認めざるをえない、ということでしょう。詳しくは、ということは教科書に書いてない事柄ですが、カールはビザンツ帝国領の中にあったヴェネツィアやダルマティアの沿岸を占領しており、もしこれを返還してほしければ皇帝位を認めろ、というヤクザ的圧力をかけていました。それと当時、ビザンツ帝国は女帝イレーネが君臨しており、ローマ教皇はこんな女の皇帝は認められない、東の皇帝は空位である、と。さらにカールは妻が亡くなったこともあり、イレーネとカールというババとジジの結婚話しも教皇はもちだして、旦那であるカールに結局は皇帝位が移るはずですともちかけました。この話しにカールも乗り気で、じゃ、わしの認める聖像をイレーネも認めねばならんと条件をだしました。ビザンツ帝国としては当時ハールーン=アッラシードとカールが同盟関係も結んでいて帝国に南からも圧力がかかっていました。コンスタンティノープルとアーヘンで使節が行き交い、この縁談にイレーネも気が向いたのですがクーデタがおきてイレーネは失脚してしまい、縁談はなかったことになりました。でいったん両国の交渉は切れましたが、ヴェネツィア返還で東側はカールの皇帝位を認めることになります。これらの妥協・譲歩の中にカールの聖像容認も含まれていた、ということです。
 イスラーム教の聖像口出しについて、実は本当のことは分からないのです。一応、いろいろな説を紹介します。
 (1)イスラーム教徒に占領されたトルコ・シリア・エジプトに残っている教会がイスラーム教側から偶像崇拝と非難された。(2)レオン3世の部下で、かれの影響下にいるトルコ地域の軍人が、イスラーム教徒の影響も受けて禁止を求めた。しかし、この説は戦っている相手の批判を受け入れることになり考えにくい。でも教科書にはこの説が書いてある。(3)聖像賛成派の年代記者がレオン3世のことを「親イスラーム教徒」と呼んで蔑視し、イスラーム教徒と結びつけようとして書いたことから生じた後世のひとの誤解であろう。これは、いくらか納得できる説です。(4)イスラーム教徒が占領したところで、タリバンのバーミャン破壊と同じようにキリスト教会の聖像を破壊したことがあり、この影響ともいう。
 726年以前からキリスト教会内に、聖像は偶像崇拝にあたるから破壊すべきだという議論があり、そこへ偶像破壊に使命をもっているイスラーム教徒が入ってきて刺激され、論争にまで発展し、皇帝自身の信仰の熱心さによって破壊を命じたり、いいやと許したりを繰り返した、ということではないでしょうか。


Q6 神聖ローマ帝国とドイツは一緒ですか?

6A 地域として現在のドイツとイコールではありません。中世のドイツ王が神聖ローマ皇帝を名乗ることは慣例でしたが、かといって現在とは同じではありません。領域が現在のドイツより広い点がちがいます。ボヘミアという現在のチェコスロヴァキア西部やスイス、北イタリアもその中に入っていました。またネーデルラントやオーストリアなども入っていました。


Q7 「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」とはどういう意味ですか?

7A このことばはピレンヌが書いた『中世都市』(創文社歴史叢書)の第二章に「マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と書いていることからきています。イスラーム教側の包囲がなければ中世の封建社会はありえなかった、という意味です。


Q8 「マホメットなくしてカール大帝なし」ってことばは西欧世界がイスラームの影響を受けたってことだと思いますが、具体的にどういう影響を受けたのですか?

8A かんたんにいえば、イスラーム勢力に包囲されて欧州が閉鎖的な中世社会になったという説です。これはベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌのことばです。「マホメット」でイスラーム教勢力を表現し、「カール大帝」で西欧封建社会を代表させています。この双方のかかわりで中世はなりたっている、いや始まっている、というものです。
 なにか判りにくいですが、実はこのピレンヌの主張には二つの歴史用語があります。ひとつは「古代連続説」、もうひとつが「商業ルネサンス」です。この双方のことばとも関連をもっています。古代連続説とは、古代は一般に476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのですが、ピレンヌはこの時代区分に異議申し立てをしているのです。古代はそんなことで終わったのではない。ゲルマン人の大移動でもない。西ローマ帝国滅亡後も古代的状況はつづき、イスラーム教勢力が7〜8世紀にかけて地中海に押寄せてきてから、中世ははじまった。メロヴィング朝からカロリング朝への転換と重なります。また逆に11世紀以降に十字軍やレコンキスタでイスラーム教勢力に対抗して攻勢に出ることで地中海商業は活況をとりもどし、それが波及して全欧に「商業ルネサンス」がおきた、との説です。つまりヨーロッパをヨーロッパの中だけでみても判らない。イスラーム教勢力との関係で時代区分すべきだ、というのです。
 古代は5世紀に終わったのでないということです。たしかに東ローマ帝国も6世紀までは古代的な要素をもったままでした。ユスティニアヌス帝を「さいごのローマ皇帝」ともいいます。イスラーム側の攻勢に対応して、7世紀には大転換をとげてビザンツ帝国(ギリシア帝国)に変貌します。これらのことは論述向きにおぼえておくと便利です。1992年の一橋大学の第一問、1986年と1995年の東大の第一問などに応用できます。


Q9 西ローマ帝国って、476年にオドアケルに滅ぼされましたよね。じゃあ、山川出版の教科書のp.117の図の下に書いてある「カール大帝の『西ローマ帝国』」って何ですか? 「カール大帝の」ってあるからカールがたてのですか? もしそうだとしたら、レオ3世から帝冠が与えられるまでに、カールはフランク王国の王であり、その西ローマ帝国の皇帝だったということですか?(これらの疑問は友達と話してる時に「なんでカール大帝ってフランク王国やのに大帝っていうんやろう」という話がでたので調べている内にでてきました。)
 カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝だったということですか?

9A そうです。両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。800年まではゲルマンの王たちは東の皇帝にたいして「父よ」と呼び、子の立場でしたが、800年からカールは「兄弟」と呼ぶようになります。


Q10 800年にカール大帝にローマ皇帝の帝冠を与えた教皇の名前は、『レオ3世』でも『レオン3世』でも、どっちでも良いのですか?

10A レオ3世はローマ教皇で、レオン3世は東ローマ皇帝をさすので、区別して使うのが慣例です。


Q11 山川の用語集の『聖象禁止令』の項目で、”偶像崇拝を禁止するイスラーム勢力に対抗してだされた”とありますが、ビザンツ文化で『イコン』が存在しているのに、あまり理解出来ません。禁止令は843年解除されたということは、ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期ということなのでしょうか。

11A 禁止令は843年解除……これは「ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期」というイスラーム教側の事情とは直接関係がありません。小学館の百科辞典には「皇帝レオン4世の没後、皇妃イレーネが787年ニカイアで第7回公会議を開催し、イコン崇敬を公式に宣言し、第一期のイコノクラスムは終結した。しかし、帝国の政治情勢は混乱を続け、813年に登位したレオン5世は、軍隊の意向を無視できず、ふたたびイコノクラスムが始まった。しかし第二期は長続きせず、首都のストゥディオス修道院を中心とする修道院側の抵抗も強かった。そして皇帝テオフィロスの没後、皇妃テオドラが843年に開いた主教会議で、イコン崇敬の復活が公式に宣言された。〈森安達也〉」とビザンツ帝国内の是認派と否定派の争いが終結しました。


Q12 中世ヨーロッパで意味がわからないのですが、843年ヴェルダン条約とか870年のメルセン条約でフランクが分裂して…とかはわかったのですが、しばらくして十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになってしまっているのですが、王国はどうなったのですか? 急に言い方が変わって、話も飛び飛びでわかりません。

12A 教科書は各国史で説明していないから分かりにくいですね。十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになって……ということはありません。英国は600年頃からアングロ=サクソン七王国があり、それは1016年にデーン朝、1066年にノルマン朝でまとまります。フランスはメルセン条約(カロリング朝の分裂)によって確定し、ずっとフランス王国(カペー朝)として登場してきます。ドイツ=神聖ローマ帝国と考えてください。


Q13 西欧世界について。資料集とかには封建制度は政治に分類されていましたが、農耕社会というのはどちらかというと経済です。構想メモを書く時にまず政治、文化、経済などでまとめることを試みましたが、封建制度は農耕社会への移行の中で形成されたものですから、政治と経済とに離して書いていいのか迷いました。そこの引っ掛かりが取れなかったので仕方なく国別に書きました。この引っかかり(もしくは僕の勘違い?)が解消できる説明があればお願いします。

13A 当然の疑問です。両方ともまたがった概念だからです。
 世界史の観点からは、封建制度とは領主と領主の主従関係です。これは狭義の封建制度です。この狭義のほうを世界史は採用しています。人間のなかでは権力のトップにいるひとたち同志、領主と領主の関係です。土地もち同志の防衛同盟です。
 ところがマルクス主義では、領主の下にいる農奴と領主の関係をいいます。古典荘園ともいっているものです。つまりマルクス主義では封建制度は農奴制と言い換えてもいいのです。ひとりの人間がおおくの農民をしばっている、という状態です。領主からすれば守ってやっている、かわりに農民ははたらく、ともいえる政治と経済のミックスした関係です。
 ところがこの二つの見方以外に社会学のものがあり、これは頂点は皇帝・国王から下は農奴・奴隷までの身分の上下関係だけをさして封建制度といっています。この見方は世界史では無視しています。
 これを難しいことばで説明したのが小学館の事典です。「大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)」と。
 マルクス主義的には古典荘園は下部構造であり、領主同士の主従関係は上部構造ということになり、一体のもとみなしていいのです。政治で書いても経済のほうで書いても許容される用語です。


Q14 アルビジョワ十字軍とドミニコ修道会の関係がさっぱり分かりません。教えてください。

14A アルビジョア派という異端の他にも12〜13世紀は異端の乱立期でしたので、はじめ破門だけで対処していたのが、数がふえていくと、異端に対抗するために教義のわかる学僧に説教をしてもらったり、異端者を裁判して罪の有無を判定したりする必要性がでてきました。それでドミニコ派(ドミニコ修道会)という、フランチェスコ派より学問的なドミニコ派のほうが、この審問に活躍した、ということです。異端審問の法廷は、1229年のトゥールーズ公会議と1232年のグレゴリウス9世勅書で制度的に確立をみます。これは教皇直属の特設非常法廷で、司教の統制を受けず、逆に司教や世俗権力(皇帝・王・諸侯・騎士)は無条件に協力すべきものとされました。告訴を待たずに活動するという積極的な異端狩りです。拷問が公認され、密告が奨励されました。14世紀、ドミニコ派のベルナール・ギーが著した『(異端)審問官必携(提要)』が審問の方法を確立したものとして知られています。

 

Q15 模試の解答・解説p12問5、上のほうの太文字「……という価格革命の主要な原因となった」とあって、次に、(むろん銀の流入だけが価格革命の原因ではなく、ペストの終息以後ヨーロッパで起こった顕著な人口増加なども物価騰貴の原因として注目される)とありますよね。ペストの流行は1348〜50でしょう。価格革命は16C半ばでしょう。あまりにも時間の間隔が広くないですか? 人口が増えるのにこんなに時間がかかるもんですか。

15A 実は黒死病の後の15世紀の1世紀間全体が人口減少がおきていて、減少はもちろん黒死病の1348年前後が特にひどかったのですが、なんどもその後もおきています。また15世紀の気候が寒く作物もとれなかったことも人口減少の原因らしい。
 16世紀の価格革命と結びつけるのは、そういう学説があったとしても余り説得的ではないので、使わないほうがいいでしょう。経済の流れとして、だれでも判るのは、もの(銀)が増えたら、ものが(銀が)安くなるということと、逆に今までの商品が、銀で買いやすくなり商品価格をあげたということです。
 一応の概算ですがヨーロッパの人口数をあげておきます。
10世紀 3800万人
12世紀 5000万人
13世紀 6000万人
14世紀 8000万人(黒死病流行直前の数字)
15世紀 5000万人 
16世紀 7000万人


Q16 『世界史A・Bの基本演習』の90ページの解説の2行目に「中期11〜13世紀(レコンキスタ・十字軍・東方植民=初期膨張…)」で、「東方植民=初期膨張」はドイツ騎士団の行為の事ですか? あと、「初期膨張」って事は、これ以外に『中期膨張』や「後期膨張」みたいな何かあるのですか?

16A そうです。騎士団だけではありません。騎士団ができたのは12世紀末なので、それより1世紀前(11世紀末)からエルベ川を越えてどんどん植民したドイツの若者たちがいたのです。かれらが最初です。その後に追いかけるように第三回十字軍に失敗して帰ってきた連中が騎士団(正式には騎士修道会)が行きます。
 「初期膨張」は16世紀以降の世界への膨張(地理上の発見)を「本格的膨張」といって、初期のときは膨張といっても西欧の周辺にすぎないので、その西ヨーロッパが全世界へでかけるようになったことを指しています。ヨーロッパ史を膨張史として見る見方です。


Q17  中世イングランドです。ノルマン朝のウィリアム1世が作成した土地台帳「ドゥームズ=デー=ブック」による、ノルマン朝の土地支配は、他のヨーロッパ本土の中世国家と性質を異にしていたといいますが、どういう点がイングランドと欧州本土とでは異なっていたのでしょう?

17A  「イングランドと欧州本土とでは異なっていた」は封建制度のちがいです。七王国(ヘプターキー)を全部征服して、その土地をうばい、家臣に分配・封土しているのは、フランス・ドイツで見られた偽装的な封土ではなく、奪って分配したから実質的な封土である、という点がちがいます。これをドゥームズディ=ブックに記載しています。国王が全土の5分の1もとってしまう、という点でも権力の大きな基盤となり、中世封建制度の西欧のなかでも例のない強力な王権を築けた根拠です。封建制度では王権が弱いのが当り前でした。ばら戦争による反テューダー派貴族の没落も手伝ってはいますが、絶対主義のイギリスには常備軍も官僚制の発達もないのに「絶対主義」とヘンリ7世から言える理由もここにあります。


Q18 わたしの予備校では、東ローマ帝国の最盛期は、ユスティニアヌス大帝の治世時期だと習いました。つまり6Cです。ビザンツ帝国の最盛期を描け、と言われたらユスティニアヌス帝の時期を描けば必要十分かと思いますが。あとは、せいぜいヘラクイオス帝のテマ制、屯田兵制あたりまででしょうか。レオン3世、バシレイオス2世、アレクシオス1世のころは最盛期ではなく、あくまで「中興」に過ぎないと思いますが、いかがでしょうか?

18A 「ビザンツ帝国の最盛期」といったばあい、「東ローマ帝国の最盛期」となっていない点がまずユスティニアヌス帝のときととるのは無理があることです。「ビザンツ帝国」とは、古代的なローマ帝国の継承面が薄れて、ギリシア的な要素がハッキリしたことをさしています。もちろんこのことについて問題文がなにも言及していないのは不親切であるという欠陥を指摘しても、一般にはユスティニアヌス帝のことを歴史家たちは「ローマ帝国の完成」と表現するように、地中海帝国としてのローマを再現した人物とみなします。コロヌス制がつづいていますし、皇帝本人も古代の復活をほこっていました。「最大版図を形成」は全盛期を表現するひとつの指標ですが、しかしこれは今説明したように古代の再現としての版図です。東西分裂をした後もまだギリシア的要素が出てきていない時期です。教科書『新世界史』では「ローマ帝国の延長として繁栄を続けた第1期」と書いている点です。「延長」です。他の山川の教科書では「復興」「回復」ということばをつかって表現しています。いや東ローマとビザンツはたんなる言い換えにすぎないではないか、というのは表面的な総括です。紹介された予備校テキストの「ユスティニアヌス大帝の死後は、東ローマは急激に衰退」とは単純です。失った領土は大きいですが、だからこそギリシア人の住む小アジア・ギリシア本土・イタリア半島南部というギリシア語の通じる世界がかえってできあがり、古代的・ラテン的な東ローマ帝国は、ここにギリシア的要素のつよい「ビザンツ帝国」に変貌したとみなします。学者の中には、もっとこのことを強調して「ギリシア帝国」ともいいます。7世紀から「ビザンツ」帝国に変わったということです。経済的にもコロヌス制にかわって自作農づくりをして、かれらに屯田兵にもなってもらいテマ制が成立しました。このせまくなった領土を回復した9〜10世紀がビザンツ帝国としての最盛期といえます。
 これは明朝の最盛期を永楽帝にもっていくのと似ていて、3代目で、つまり明朝ができたばっかりが最盛期というのはどうもおかしい。後はみな衰退期だとすると、200年をこえる衰退期となります。1368〜1644年間の明朝史は276年間の歴史のうち、明朝らしさがでてきたのは初期だけで、後は衰退といったばあい、あまりにも単純に明朝史を切ったことになります。明朝は前半と後半(16世紀以降)で性格ががらり変わる面をもっています。それを無視してやるのは最大版図にだけ目を向けた政治的な面だけの指摘です。わたしは宮崎市定のように16世紀前半に生きた世宗(嘉靖帝)のころが全盛期とみています。明朝の体制の安定と経済・文化的な面も繁栄した時期です。


Q19 わたしの予備校のテキストに、十字軍の影響、と題して5点が指摘されています。そのうちの「5.」にギリシア古典文化のことが書かれています。間違ったことを書いているのでしょうか?

19A 詳解世界史には「十字軍の時代にヨーロッパに伝えられたアリストテレス哲学をとりいれて体系化されていった」とは書いていますが十字軍がアリストテレス哲学をもたらしたとは書いていません。「時代」と時期が同じだったといっているだけです。テキストの「5.東方貿易を通じて、ギリシア・ローマ古典文化やイスラーム文化が流入した………イタリア=ルネサンスを促進した。」は十字軍そのものではないでしょう? これは影響の影響です。時期は同じですが。十字軍の時代を問うているのではなく、この問題は十字軍「遠征」の意義を問うているのです。十字軍が文化的なものもたらしたことは歴史家も認めるところですが、それは学問的なものではなく(兵士はほとんど文盲でしたし、イスラーム教は多神教で悪魔の宗教とおもってきたひとたちが、なぜ学ぶのでしょうか)、歴史家が「物質文化」といっている、ソファ、シャーベット、築城術、紋章などです。詳説世界史なら「多数の人々が東方とのあいだを往来したため、ヨーロッパ人の視野は広がり、東方の文物が流入した」とぼかして説明しています。三省堂のは「遠征によって、東方との貿易や交流がさかんになったため、貿易港であるイタリアのヴェネツィアなどの都市が繁栄するとともに、イスラーム世界やビザンツ帝国のすすんだ学問・文化が西ヨーロッパにもたらされた」と遠征→貿易・交流→学問・文化としています。遠征→学問・文化ではありません。遠征が直接もたらしたものではないのです。


Q20 『練習帳』の「基本60字」のほうで質問があります。P.47 11「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」という設問がありますが、これに対する右側の解答の内容は、アルプス以北のドイツの都市という、地域的に限定された姿ではありませんか?
 アルプス以南のイタリア都市は、教科書によれば、諸侯との直接的な武力的抗争を経て自治権を獲得していった、とあります。「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」では、中世都市一般ということになりませんか?

20A なぜそうするかというと、中世都市は北ドイツの都市で代表・典型とするからです。60字の字数の中で相違点もふくむ解答は無理です。古体の都市の防衛は問われればアテネを代表として書きますが、スパルタはどうしたローマ帝国はどうしたとは書けません。そこまで広げたばあいはそれなりの設問の拡大が必要です。教科書の中世都市の「都市の自治」は北ドイツの都市のことを説明しています。


Q21 ドイツでシュタウフェン朝断絶後に大空位時代になるという説明がありますが、ドイツは神聖ローマ帝国で、さらに時代ごとに〜朝というのがあったということなのですか?シュタウフェンとゆうのが唐突すぎてよくわからなかったのですが。

21A たしかに大空位時代でいきなりでてきます。でもこの王朝は1138年から皇帝位をうけついでいて、名高い皇帝としては第三回十字軍の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)、第五回十字軍のときのフリードリヒ2世(18世紀のプロイセン王とはちがうひと)などがいます。


Q22 フリードリヒ2世は用語集にはプロイセン王とありますが、神聖ローマ皇帝とは別なのでしょうか?

22A フリードリヒ2世は第五回十字軍のときの指揮者として神聖ローマ帝国皇帝でした。プロイセン王と同名ですが、時代がまるでちがいます。


Q23 「ギルド独占・ギルド強制により競争からの自由・生業の安泰はある」はどういう意味ですか?

23A 既存の店に規制を守らせることで、その代り店を増やさない、自分たちの店舗で商品は独占し、価格をつりあげたり下げすぎたりしない、バーゲンもしないので、ギルド同士はたがいに共存共栄をはかれます。競争しなくてもいいということは倒産する心配がなく、勝った負けたの資本主義の弱肉強食という荒々しい商売合戦をしなくてもいいということです。そういう意味での「安泰」があります。これでは互いに良い商品をつくって儲けよう、他の会社をつぶしてでもひとり勝ちしようという精神(野心)は要りません。しかしこれでは近代の資本主義には合わないので、市民革命で排除される規制です。


Q24 中世都市の「自由」は普遍性と人権思想を 欠いている……この意味がいまいち分かりません。

24A この「自由」は全世界・全人類にも通じるような自由ではなく、中世都市だけに通じる狭い自由です。すべてのひとは平等な権利を法の前で持っている、という「人権」の考えは、啓蒙思想からくる近代の基本的な考えで、日本の憲法もこれにしたがってつくられています。そういう国も人種もこえた思想ではなかった、と限界を指摘しています。


Q25 ブールジュ宗教令とは、仏の都市ブールジュでシャルル7世のだした国家教会主義、ガリカニズム、ガリア人主義、1438年発布。……こういう解説にあるガリカニズムとはなんですか?

25A ガリア人主義という意味で、この場合のガリア人はフランス人のことです。フランス人中心主義といっていいのですが、フランス国王の決定権を教皇の上にもっていくことです。フランスの教会で問題がおきたときに、その裁定を教皇庁の裁判所にゆだねたりしないようにフランス国内で国王の下で裁かせよう、また聖職者が昇進すると初任給の10分の1を教皇に納めなくてはならないことになっていたのですが、それを納めなくてよい、と。こうしたことに表れるフランス人とフランス国王を主にするやり方をガリカにズムといいます。同じことはイギリス人も持っていたので、イギリスの場合はアングリカニズムといい、いずれこれは国教会の成立につながります。


Q26 中世末にオーストリアのハプスブルク家がネーデルラントを政略結婚で獲得したと教科書にかいてあるんですが、誰と誰の結婚なんですか?

26A 細かいですね。当時ネーデルラントはブルゴーニュ公の領土でした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1452〜93)の息子マキシミリアン(位1493〜1519)と、ブルゴーニュのシャルル豪胆公の娘マリー(マリー・ドゥ・ブルゴーニュ)との結婚により(1477年)、ブルグンド(ネーデルラント)を得たできごとです。この二人のあいだにフィリップが生まれ、フィリップと狂った母フアナとの子がカール5世です。


Q27 百年戦争の発端が、ノルマンディー公ギョームのイングランド征服に始まるといわれているとおもいますが、なぜ、フランス王フィリップ1世の家臣(家臣といえるかどうかはわかりませんが)であるギョームがイギリスに渡って王朝を打ち立てたのですか?

27A このギョームとは一般に教科書でいうところのウィリアム1世のことです。またイギリスを征服する前はノルマンディー公ウィリアムですが、征服後は王になって1世がつきます。フランスでは家臣で、イギリスでは国王という奇妙なかたちは中世らしさをよくあらわしています。人が国をまたがって領土をもつことは中世ではあたりまえのことでした。
 さて征服の理由ですが、当時のイギリス全体を代表する国王はウェセックス伯ハロルド(1022〜66)でした。このハロルドが王になる前のことでしたが、ノルマンディー海岸で難波したときに助けてやったこと、そしてハロルドが自分ウィリアムに臣従を誓い、そしてウィリアムにイギリス王位を約束して帰国しました。ハロルドがこの約束を破って王位についたことを理由に征服します。このあたりを描いたのがフランスのバイユー修道院にあるタペストリーです。このタペストリーの写真はかならずといっていいほどどの教科書にものっています。ルーヴル美術館にはラテン語・英語訳・フランス語訳のついたミニチュアが売っています。実物の10分の1でミニチュアでも7mあります。
翻訳して説明しているものが下記のホームページにありますのでご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/tapestry.html
 

Q28 山川教科書p122、「西ゴート人は410年ローマを略奪したのち、ガリア西南部とイベリア半島に移動して建国した」
p124 フランク王国が、「6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一したが…」と、書かれていました。
西ゴート王国は滅亡していないのに、全ガリアを統一という記述に不思議に思ったのですが、この過程で西ゴート王国は、滅ぼされるまではいかなくても、支配権を縮めたという解釈でよろしいでしょうか?

28A そうです。西ゴート王国は初めフランス西南部に国を建てたのですが、クローヴィスに追い立てられて(ガリア=フランスの統一)、スペインに逃げたのです。スペインに行った時点で第二次西ゴート王国というのですが、一般にこの「第二次」を付けないで表現しているため判りにくくなっています。


Q29 ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違い、ギリシア正教会とコンスタンティノープル教会の間における違いがあるのか、それとも同じものと考えて良いのか、を教えて欲しいです。

29A ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違いは、前者が中心・頂点で後者がローマ教会ほか西欧全体の旧教の総称です。この関係は正教でも同じで、コンスタンティノープル教会が中心・頂点で、ギリシア正教会が総称です。ただギリシア正教はロシア正教・セルビア正教などもふくんで全体の総称としても使います。とくに日本では曖昧で、東欧・ロシアも含む正教全体の正式名称は今は「東方正教会 Eastern Orthodoxy Church」といいます。


Q30 教科書p142の「アウクスブルクのフッガー家のように皇帝に融資してその地位を左右したり…」における、その地位とは、フッガー家のことでしょうか?皇帝のことでしょうか?

30A 皇帝です。「地位」は高いもののことを指していて、それを裏で、金で左右するのがフッガー家だという意味です。皇帝が選挙で選ばれるように融資して、結果的に皇帝を傀儡(かいらい、人形、操り人形)化することです。一方、メディチ家のように教皇に融資して教皇を操った例もあります。レオ10世自身がメディチ家のひとでした。


Q31 自治都市と自由都市(帝国都市)は違うものでしょうか? 教科書p140から141にかけて、「各地の都市は次々に自治権を獲得し、自治都市になった」とあるのですが、もし違うとしたら、自由都市は、この記述には当てはまらないということでしょうか?

31A どちらも同じです。自治はその都市の市参事会が自ら運営できるので「自治」都市といい、自由も皇帝以下の諸侯から特許状によって認められているので「自由」都市と言います。「帝国」は皇帝から特許状を得ているので呼ぶ呼び方です。特許状によって皇帝や諸侯から自由を得るかわりにわずかですが代金を払います。といって隷属しているのではないので諸侯と同じ地位をもっています。国家に近い権利の保障をされています。


Q32 山川『世界史小辞典』で、コムーネ、を調べてみたら、叙任権闘争により教皇、皇帝ともに権威を失墜した、と書いてありました。叙任権闘争では、教皇が力を増大させ、皇帝が力を失ったと間違って認識していました。叙任権闘争で、教皇がどう権威を失墜させたのでしょうか?

32A 山川の辞典の内容は「皇帝と教皇が叙任権闘争で互いに権威を失墜させたので、両者の任命する都市領主(伯、司教)の地位も弱化した」とある部分ですね。イタリアの場合は皇帝党と教皇党で争い、長い分裂と抗争を繰り返したため、かえって各都市が自立する機会になりました。しかし神聖ローマ帝国(ドイツ)の場合は、皇帝はオットー1世のときに帝国教会政策をとり、はじめは皇帝が強かったのが叙任権闘争の結果、次第に教皇の地位が高まりだし、インノケンティウス3世で頂点となりました。しかし十字軍失敗・アナーニ事件・コンスタンツ公会議・ウィクリフの批判などで失墜し、皇帝は大空位・金印勅書で失墜しました。この二つの巨頭の失墜によって西欧では各国の君主が自立していきます。


Q33 貨幣地代が広まるのは封建社会が崩れ始めた1300年頃からだと認識していたのですが、11-12世紀に、すでに貨幣経済だけでなく、貨幣地代も発達していたのでしょうか?

33A 広がったのは1300年前後からで、それもイギリスだけです。15世紀にはフランスでも広がりますが不徹底でした。イギリスは小さい島であり、貨幣の普及が早かったこと、もともと農奴が少なかったことなどが理由として挙げられます。


Q34 十字軍の派遣を決定したクレルモン公会議ですが、なぜ開催地がクレルモンなのでしょうか? ローマ教皇ウルバヌス2世に救援要請がきたのだから、ローマでやればいいと思ったのですが…

34A ウルバヌス2世はクレルモンの近くで生まれたフランス人の教皇です。ドイツはどうしても皇帝との争いが起きやいこと、クレルモンで大聖堂(ノートルダム・デュ・ポール大聖堂)が完成に近づいていて、そこで演説がしてみたかったこと、らしいです。岩波新書の『十字軍』が参考になります。


Q35 中世や近代では、荘園制やグーツヘルシャフトというような農業面に関して複雑に思える情報が多くあるのですが、中でも農業を営む人々、つまり、
古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス、
中世ヨーロッパのヨーマンや
近代ヨーロッパのユンカーなど、
ほぼ地域で区別しているという感じで本質理解せずただ暗記してしまっている状態なのですが、このような農業に従事する人々の差異について教えていただけないでしょうか?

35A 古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス……古代に「農奴」は一般にいないです。自由農民か奴隷かのどちらかです。スパルタの奴隷(ヘロット)は、奴隷ではなく農奴だという説はありますが。教科書の説ではありません。
 ローマ時代の3世紀にはコロヌス制ができますが、これは小作人です。地主から土地を借りて、借り賃の地代を払わなくてはならない農民です。ですが農奴のように移動・職業選択・結婚の自由がない存在ではなく、自由が認められていました。次第にドミナートゥスになると移動の自由は制限されていきます。
 中世ヨーロッパのヨーマン……ヨーマンの前に、上のコロヌス制の小作人(小作農)が移動の自由はなく、職業選択の自由もなく、結婚も領主の認可が必要、という状態の農民を農奴といいます。これはノルマン人・マジャール人の侵入を避けるために封建制ができる9世紀くらいからハッキリしてくる農民の状態です。
 この農奴の地位にありながら財力を蓄えた農民の中に、流亡・逃亡・破綻した農民を雇って経営者的な豊かな農民になったものをヨーマン(自営農民)といいます。イギリスで中世末以降に現れるひとびとです。事実上解放された自由農民です。
 近代ヨーロッパのユンカー……これはドイツ語圏で使う表現ですが、地主制のことです。ユンカーは英語のヤングにあたり、若い土地の経営者を指すことばから、次第にドイツの地主を指すことばになり、その下で働く農民は上の農奴ど同じです。この経営のあり方をグーツヘルシャフト(農場領主制/農奴制大農経営)といいます。しかし1807年のプロイセン改革で農奴解放がおこなわれ、それ以降は「ユンカー経営」と言いかえるようにしています。もう農民は農奴ではなくなったからです。


Q36 カール4世が金印勅書を発布した時、七選帝候を定めましが、なぜ?諸侯4、司教3なのですか?司教4人、諸侯3人ではないんですか? 自分の仮説、①1292年のアッコン陥落、②大空位時代は教皇が起こしたから、③司教の力を抑えるため。この内どれが答えですか?

36A 有力諸侯(大領主)が選挙人(選帝侯)で、聖職・世俗は無関係です。聖職者は同時に大領主でもありましたから。勅書の内容に、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などがあることからも推測できます。また聖界諸侯筆頭の地位にあるのがマインツ大司教で、選帝侯会議を召集し選挙管理もしており、この大司教は神聖ローマ帝国大宰相の最高官職を持っていました。トリエール大司教はブルゴーニュ王国大宰相を、ケルン大司教はイタリア王国大宰相の上級官職を兼ねていました。つまり聖職者たちは政治の中枢に就いてもいるのです。日本の大名たちの側に僧侶が政治・軍事の顧問として就いているのと似ています。 


Q37 センター試験の問題で、同職ギルドには親方のみが加入でき徒弟や職人は加入できないという趣旨の文章があったのですが、用語集には、同職ギルドの構成員は経営者である親方・徒弟・職人の3つの階級に分かれる、と書いてあります。親方の項目のところには同職ギルドの正式な構成員という記述があるのですが。この記述では、徒弟や職人も構成員であると見受けられるのですが、それは加入はしているということ、とは違うのでしょうか?

37A センター試験の「同職ギルドには、親方のほか、徒弟や職人も加入した」が間違いであるのは、ギルドが親方のクラブであり、職人・徒弟はたいてい親方の家に住み込みで働いている雇われた人であるからです。親方の下にいるのですから「構成員(メンバー)」ではあっても、下働きをさせられている人間であり、一人前と認められていないのです。技能的には親方が最も優れた作品をつくることができ、次に職人、下っ端に徒弟という順ですが、親方が経営者であり、職人が独立して店をもつことはできますが、非常に制限されたものでした。というのはギルドに親方として加入するには、加入金の他に親方全員を招宴する多額の費用が必要であり、高額なものだったそうです。
 たとえると、学生たちが集まって教室は構成されていますが、教室の経営は学生代表ではなく担任教師(親方)が経営・管理します。中谷が担任教師であれば、中谷が親方で中谷教室といっていい一ギルドを形成しています。この親方だけが職員会議(中世都市の場合は市参事会という親方だけが集まる市役所会議)に出席できます。とにかく中谷親方はいばりちらしているのです。
 中世都市では、鍛冶屋・金物屋・パン屋などの職業別の組合(ギルド)があり、このギルドのメンバーでないかぎり、都市内では仕事をしてはいけないことになっていて、換言すれば何らかのギルドの親方の下にいないと仕事はできません。一つのギルドは独自の守護聖人や教会を持っていて、ギルド毎に冠婚葬祭もおこないます。小さい教室(ギルド)がいくつも集まって学校(都市)を構成しています。