世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・西欧古代史

西欧古代(ギリシア・ローマ)史の疑問

Q1 ミケーネ文明はドーリア人の南下に加えて海の民の攻撃があって崩壊したのでしょうか? 山川の教科書には海の民とミケーネ文明に関連する記述がないのですが、別の山川の文献にはそれをほのめかすようなことが書いてありました。どちらなのでしょうか?

1A 詳解世界史(三省堂)には「ミケーネ文明は崩壊した」の注に「ミケーネ文明崩壊の原因については、これまで、おくれて南下したドーリス人の攻撃によるものと考えられてきた。しかし、近年はむしろ、この時期に出没した「海の民」の攻撃を受けて滅ぼされたとする説が注目を浴びつつある」
 センター試験(1993年度)でも「前12世紀ころになると、3)「海の民」と呼ばれる混成の外来民族の襲来や、ギリシア人の別な一派の南下などの民族移動の結果、ミケーネ文明の諸王国は滅亡した」とあります。


Q2 新聞で「ローマ時代の平均寿命は22歳だった」ということが書いてあるコラムを読みました。それを読んで、ギリシアの民主政治が完成した時、参政権は「成年男子」に限られていたことを思い出しました。今まで「成年男子」という記述を見て「20歳以上の男子」という意味だと思っていました。ギリシアの成年って何歳ですか?

2A アテネは18歳です。スパルタは20歳です。平均寿命というのは幼児死亡率が高すぎるためそうなってしまう数字で、子供を「生き抜いた」人は長生きして50〜60歳まで生きています。ペイシストラトスもアイスキュロスも70歳くらい、ペリクレスは66歳まで生きています。ペイシストラトスの長男のヒッピアスは、アテネ市を追放されて、復讐のためにペルシア軍の先導役としてマラトンに上陸した(前490年)、という話しは名高いものですが、あるとき笑ったら歯が全部抜けた、といわれています。ヒッピアスはもう70歳でしたから。日本の明治時代の平均寿命も30歳くらいです。明治の人の伝記を読むと兄弟が小さいときに死ぬ場面がよくでてきます。現代より身近に「死」があったのです。


Q3 陣形について勉強を始めようと思っているのですが、日本では、戦国時代に陣形は使われたと思うのですが、世界史では、「陣形」というものはあるのですか。あったらどういう風に使われたのかを教えてください。

3A 陣形として世界史の中で名高いのは、レウクトラの戦い(前371)でテーベの将軍エパメイノンダスが考え出した「斜線陣」によるスパルタに対する勝利です。他はインターネットの中に地図で陣形を描いたものがたくさんあるはずです。Military History で検索すればたくさん出てきます。


Q4 イデア論について40字で説明せよ(By慶応大〈商〉)。答えを見てもいまいち意味がわかりません。イデア論ってなんですか?

4A イデアについて答えられない場合は、「プラトンが唱えた理論」でいいです。もう少しつっこんで「プラトンが理想とした価値」。40字なくても正しければ答えないよりいいです。もっとつっこんで、「プラトンが究極的価値とみなした真善美のかたち」or「時間・空間のちがいによっては変化することのない善そのもの」or「絶えず流動変化していると見える世界はイデアの影であり、真の理想的な価値がひそんでいる」と。たとえば。描いた見えるかたちの丸い円には太さ、厚みなどがあり、ところによって鉛筆で書き損じたため太かったりしますが、その見えるかたちは無視して完全な丸として計算します。その場合、完全な丸は見えないのに見えているかのようにしています。人間のものを見る行為の中に完全さを知っているかのように動きます。この完全なかたちがイデアです。この世に完全な四角も三角形もないのですが、あるかのように計算します。なぜか人間は知らず知らずのうちにイデアという完全形を知っているから。

Q5 『世界史用語集』のアウグストゥスのところに「内乱後の秩序を回復し、市民=戦士の原則を復活」とありますが、これはアウグストゥスが常備軍を設置したことと矛盾しませんか?

5A 用語集のまちがいでしょう。「市民=戦士の原則」は自費で装備をととのえる武装自弁の原則でもあるのですが、こういう市民の義務としての兵役はマリウスの兵制改革(前106)ですたれています。土地を失い都市に入りこんだ無産市民から志願兵をつのり、武器をかれらに支給して連れていくことになっています。これらは、もう慣例になっており、かれらに多くの戦利品を与えられるものが有力者となっていくという過程です。前31年に「内乱の一世紀」が終ったときは、60もの軍団からなる大部隊にふくれあがっていました。元首政をはじめたアウグストゥスはこれを28軍団に減らして常備軍としました。この常備軍の兵士は、従軍の期間が20年と定められ、年に900セスナルティウスの給料を支払うことになっています。こういうものが「市民=戦士の原則を復活」とは……。元首政が共和政の要素を含んでいる、という点の拡大解釈でしょう(注:今の用語集にはこの文はありません)。


Q6 今日コンスタンティヌス帝が「コロヌスの転職の制限を実施した」と習ったんですが、これってコロヌスに限られた話じゃないですよね。 コロヌスは山川によると「隷属的」な小作人なんですよね。じゃあ、コロヌスも奴隷も一緒ちゃうのん???って思うんですが。。。。なんか要するに私はコロヌスと奴隷と中世の農奴の違いがわからんようです。

6A 「自由民」は奴隷でないという意味です。転職の制限を実施した……すべての職業です。奴隷は人格が否定されていて自由はまったくありません。奴隷自身が道具・財産のひとつであり売り買いされます。自分が働いて収穫したものも自分のものではありません。
 コロヌスは土地に縛られた移動の自由のない自由人です。売り買いまではされません。人格が認められています。農奴も移動の自由がありませんが、領主裁判権の下にあり、コロヌスよりもっと自由がなく拘束されている人々です。ただし奴隷のように売り買いまではされません。自分が働いてえた収穫は半分くらいは自分のものになります。これは中世の荘園の中の農民のすがたです。
 このように移動・人格・生産物で比べるとハッキリしてきます。
 奴隷→農奴→コロヌスと自由度が増します。
 ただし歴史的な成立の順番は、奴隷→コロヌス→農奴ですが。


Q7 古代末期のローマというのは具体的にいつのことを言っているのですか? 古代末期ってのはローマ帝国が東西に分裂する前までってことですか?

7A ローマ帝国史は二分して前期帝政、後期帝政といいますが、前期は前1世紀から3世紀(軍人皇帝時代)まで、後期はドミナートゥス制から西ローマ帝国滅亡までです。この後期帝政のことを「古代末期」といいます。「古代」はローマ史に限れば前500年(前509)の共和政から始まり、500年の西ローマ帝国滅亡(476年)まで約1000年間の歴史をもっています。この1000年間の中で「古代末期」は4〜5世紀のことです。


Q8 325年のニケーア公会議において「父なる神と子なるキリストの同質」を説くアタナシウスの説が、これらに加えて精霊(原文のママ、正しくは聖霊)をも同質とする三位一体説として確立され正統派と改めて確認されたのは381年のコンスタンティノープル公会議においてではないでしょうか。

8A そのとおりです。「確立された」のは。しかし三位一体説の原型はニケーア公会議で出されており、それを後で「確認」したという順です。教科書でもニケーア公会議の説明のところで、「アタナシウスの説は、のちに三位一体説として確立した」(詳説世界史)「のちに三位一体説として完成されるアタナシウスの説が正統と認められ」(詳解世界史)
と書いています。だからニケーア公会議の段階で書いてもいいのです。わたしの解答例の中では「確立」ということばは使っていません。「ニケーア公会議で三位一体説をとるアタナシウス派を正統とし……」となっています。


Q9 城攻めの時使われた攻城兵器は、大概古代ローマ帝国に由来するもののようですが、歴史的に初めて登場する、ローマ由来ではない兵器はtrebuchetとかいうもので間違いありませんか?
 昨日、映画ロード・オブ・ザ・リングを見てきましたが、クライマックスは攻城兵器でした。弾丸を撃ち込むのや、はしごを城にかけて攻めたり、城の門をぶち抜くのだったりです。弾丸や大きい矢を打ち込むのがtrebuchetかと思います。あまり知りません。日本ではなぜ、こういった兵器が使われなかったのでしょうか?

9A わかりません。城の構造とかかわりがあるのではないでしょうか? 高い壁になっていて、それも分厚すぎる壁をこわすことは容易ではなかったでしょう。日本でも投弾帯(とうだんたい)という石や土の弾丸を投げつける武器はあったようです。ローマ型の台をつけた装置ではなく、手で振り回すだけのものですが。


Q10 問題集の答えにポリビオスの著したローマ史では混合政体がローマの強みだと主張されているらしいんですが、それは複合政体と同義ですか? あとエウセビオスやカラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大ではでますか?

10A 混合政体と複合政体と同義です。王政=独裁官、貴族政=元老院、民主政=民会という三つのちがう声を代表する機関があったからです。エウセビオス、カラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大で……出ます。前者は関関同立、早稲田・慶応・法政に出ています。後者は軍人皇帝時代のスタートを切るので出ます。関学・近畿・早稲田・慶応・法政に出ています。


Q11 ギリシア・ローマ時代、市民が重装歩兵となって従軍したのは従軍=参政という構図から、これを『民兵一致』とするのは間違いでしょうか? 山川の用語集にも市民=戦士制ともありますし。

11A 世界史のばあいは民兵一致という表現で出てくるのは、中国史の屯田制や府兵制などでつかいます。つまりこれは土地をもらった代償として義務を負わされたものです。農民であるものがときに兵士になる、という意味です。政治的な権利はありません。たとえ参戦しても政治にはノータッチです。ところが西欧のばあいは、おっしゃるとおり武装自弁の原則にたって、市民権が代償としてあたえられます。これは権利として投票権・被選挙権にむすびつきます。中国のばあいは食糧は農民も用意しますが、武器はたいてい国家が用意します。この点も西欧のばあいは自分で武器を用意できるものだけが参戦できます。経済の格差がそのまま軍隊の地位に反映します。つまり馬を用意して養うくらいの豊かなもの、馬は大食いですからね、位は高いのです。かんたんな武器しか用意できないものは、日本でいう二等兵にしかなれません。しかし中国のばあいは、地位の高い低いは農民にはなく、一律低いのです。指揮官に地位の差はあれ、これは一般の農民ではないのです。専門的な軍人です。ですから、西欧史にかんしては「民兵一致」はふさわしくないおもいます。


Q12 貨幣経済の進展についてです。
 「ペロポネソス戦争中におけるギリシャで貨幣経済が進展した」と用語集などに書いてありますが、その理由はなんでしょうか? 私は、長引く戦争のために農地が荒廃し、農作物がとれなくなったために、物々交換が不可になったためかなぁ…と考えました。しかし、「中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展は農業生産の増大による余剰生産物の発生で経済活動が促されたため」と用語集にかいてありました。となると、私の推測は間違いですよね……わかりません。

12A 確かに迷うような記事が書いてあります。教科書でも「このたえまない戦争で農業は荒廃し、ポリス社会は大きく変質していった。貨幣経済の浸透によって貧富の差が激しくなり、土地を失う市民が続出したため、傭兵の使用が流行して、市民みずからがポリスをまもる原則はくずれた。(旧詳説世界史)」と書いてあります。
 ペロポネソス戦争の前にある「用語集」の貨幣の使用、すぐ下のスパルタという用語の記事も見られたら、貨幣の登場は前6世紀くらいからリディアから伝わって流通しているのに、わざわざまたペロポネソス戦争のときに貨幣経済の浸透を言うのか、という点です。これはスパルタという独特の都市国家が貨幣を使用していなかったためです。全ギリシアというわけでなく、大きい都市国家のスパルタとそれに似た都市国家のことです。商業が発展して他のポリスとの交流がさかんになるとスパルタの厳しい体制を嫌がる市民が出てくるので、他のポリスとの関係がないように、貨幣も鉄の棒を代わりにつかっていました。鉄では価値がないと他のポリスの商人もスパルタと商取り引きはしない、というスパルタが意図して閉鎖的社会をつくっていたのです。閉鎖的であることが可能な農業の収穫があり自給自足ができた珍しい都市国家でもあったからです。豊かな農業があれば商業が生まれ、そして流通をスムーズにするために貨幣という手段も盛んになるのが、どこの社会でも見られるはずですが、それを無理に抑えていたのがスパルタでした。
 それがペロポネソス戦争という他のポリスとの長い戦争の中ではどうしても他の地域に行かざるをえず、実際勝ってアテネを一時支配します。すると閉鎖的であったスパルタは他のポリスのあり方=貨幣経済を知るようになり、またスパルタはもともと兵士をになう市民の数が少なく参戦できるものが少なくっていったため傭兵を雇いました。これは貨幣による戦争です。戦闘員の市民が少なくなり(市民数は、前480年に8000人、前371年に2000人、前242年に700人)、貨幣経済とともに市民間の貧富差も出てくると、貨幣でなんとか都市国家を維持しなくてはならなくなり、ギリシアにもともとあった貨幣経済の中に飲み込まれていったのです。
 「農業は荒廃」はギリシア本土のすがたですが、当時は地中海全域との関係ができあがっていて、農産物がなければ輸入したらよく、どこでもポリスの最大の輸入品は小麦でした。オリーヴ・葡萄のように痩せた土地でもできるものを輸出して穀物を輸入するというのが基本的な貿易のありかたでした。「荒廃」の理由は戦争の武器のためにたくさんの木を燃やしたためとも考えられています。環境破壊です。アテネのオリンピックのときにギリシアの映像がテレビでよく出てきましたが、かぼそい木々しか生えていないすがたは今も変っていません。中国でも戦国時代の森林伐採は武器の製造や青銅器をつくる燃料として燃やしたために、保水の力のなくなった自然のために黄河の洪水もおきてきた、と見ています。
 中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展……関連が……これは背景に農業の発展があり(三圃制・重量有輪犁・水車・風車の技術の進展)、その結果として人口増加があり、都市ができ、全欧的商業(商業ルネサンス)があり、十字軍をとおしてより遠方の物産に興味をいだいた結果です。どこの世界でも基本的には農業の発展は商業(貿易)を生む、といえます。中国でも春秋末、唐末五代、明末清初の3回が農業の発展があり、その上で商業の全国的な活動が見られる時期です。


Q13 帝政ローマ時代に、ローマは南インドのサータヴァーハナ朝と季節風貿易を行って、ローマはインドから綿や香辛料を輸入し、その対価として金銀を輸出していましたが、金銀の国外流出がローマの財政悪化を招き、衰退の原因を作ったそうですが、、、何故金銀の国外流失が財政悪化につながるのかがわかりません。国内にある金属(金)の量が国内の財政に影響を及ぼすメカニズムはどのようなものですか?(金本位制もこのメカニズムと同じ理屈で理解できるのでしょうか?金本位制もいまいちよくわからないのですが…)

13A 確かに分かりにくいですね。金銀の流出だけが衰退原因という訳ではないけれど、一因としては言えます。基本的に金銀というそれ自身に価値のあるものを国家が失いはじめると、必要なためにそれでも貨幣を発行していくことになり、発行する貨幣の価値が落ちていきます。紙幣なら余計ですが(元朝の交鈔)、ローマ帝国は「貨幣を増発したために通貨の質が下がって物価が上がり、とりわけ帝国西部で商業活動はおとろえ、都市は没落した(詳解世界史の記述)」となります。「通貨の質が下がって」は悪鋳といいます。金貨・銀貨の金や銀の含有量が少なくなることです。「物価が上がり」の理由は、金や銀の含有量が少なくなって、貨幣それ自身の価値が落ちるため、むしろ金貨銀貨で給料をもらより物でもらったほうがいい、という傾向になります。この含有量の少なくなる点は、お持ちなら『各駅停車』の194ページに載っていますから見てください。
 信用のない貨幣より、貨幣で買うはずの物の値段(物価)の方が上がってきます。物の値段が上がることは交換・売買をとどこおらせ、かつ物々交換になると流通は貨幣による取り引きのときより遅くなります。また何も物の豊かな都市・市場に行かなくても安い現物のとれる田舎でいいことになります。これは都市を衰退させます。しだいに貨幣経済でなく自然経済(貨幣のない経済)に変ってきます。
 金本位制も推理のとおり基本的に同じです。金そのものをもっていないかぎり金を単位とする取り引きはできません。銀本位だった時代から金本位に変わっていく流れについては、このブログの過去問→東大→2004年度の第1問の解説にありますから読んで下さい。


Q14 ローマ史でいうところの「東方属州」とはどこを指すのですか?

14A 東西に分裂する(395年)ときの東西と一緒です。分裂する以前から東方・西方という表現をつかっています。つまり東方属州は東地中海の沿岸でもあって、ぐるりと「コ」の字のかたちで、バルカン半島・トルコ・シリア・パレスティナ・エジプト・リビア東部が入ります。
 

Q15 4世紀に「ヨーロッパ全体の商業活動が衰退して、西方属州の都市没落が進んだ」理由がわからないので、教えてください。 

15A これは専制君主政が都市に重税をかけたことと関係しています。都市の市参事会員がその都市の税額にたいして責任を負わされ、払えない市民の肩代わりもされられました。それで有力市民が都市を捨て、農村の地主として生きる道をえらびます。また、貨幣が西方では悪鋳されて価値がなくなり、物価が上昇します。具体的には、銀貨は260年頃にはアウグストゥス帝のころに比べて、銀の含有量が60%も減少していき、さらに270年頃には4%しか銀を含まないものになります。物価は260年の物価が305年には20倍にはねあがっていました。なので取り引きが物々交換になり、しだいに自然経済の方にむかわざるをえません。
 しかし東方属州ではソリッドス金貨、「中世のドル」といわれた金貨の金の含有量が98%を下らなかったといいます。わたしも一枚もっていますがピカピカに光っています。東方は都市が繁栄しつづけます。この差は人工数に表れていて、ユスティニアヌス帝が生きていたとき、ローマ市の人口が500人、コンスタンチノープル市は50万人でした。


Q16 山川の詳説世界史で「そのためローマ帝政後期になると、彼らはドナウ川下流域まで広がり…」ここにおけるローマ帝政後期とはいつからを指すのでしょうか。自分は、ここでのローマ帝政を前27年から395年までと考えて、ローマ帝政後期を軍人皇帝の時代体と考えたのですが、この解釈で合ってるでしょうか?

16A いいえ。帝政後期とはドミナートゥスからです。軍人皇帝時代まではまだ共和政的な要素が保たれていたので、専制君主政からです。この時期には元老院はローマ市の市役所に成り下がり、イタリアも属州の一つになります。


Q17 デロス同盟についてです。AとBのどちらが正しい認識ですか?
A アテネがデロス同盟をつくり、それに反発してスパルタがペロポネソス同盟をつくった。
B アテネがつくったデロス同盟に当初入っていたスパルタは、その同盟内でアテネに反発し、デロス同盟を脱退してペロポネソス同盟をつくった。
要するに、スパルタは当初デロス同盟に入っていたかどうかということです。

17A AでもBでもありません。ペロポネソス同盟は前550年にできていて、ペルシア戦争以前からあります。デロス同盟はペルシア戦争の後の前477年にできました。