世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・西欧近世史

西欧近世史の疑問

Q1 近世と近代はいっしょですか?

1A 教科書ではルネサンスや大航海時代の説明からを「近代ヨーロッパ」という題をつけています。つまりほぼ16世紀からを「近代」としています。ところが『詳説世界史』のこの題をつけたすぐ下の囲み記事には、この時代区分をいきなり否定するような説明をしています。「第9章では、15世紀末から17世紀前半の近世・近代初期のヨーロッパをとりあげる。15世紀末から、ヨーロッパ人は海外進出にのりだし……」と「近世」という表現と「近代」とを並列しています。また「第11章 欧米における近代社会の成長」と題したところの説明文では「第11章では、18世紀の後半……これら両革命は、近代市民社会の原理を提起するものであった」と近代市民社会が18世紀後半から始まったことを指摘しています。これはいったいどういうことなのか。学生を混乱させます。実際、2005年度の一橋の問題(「身分制議会」と呼ばれるが、その歴史的な経緯と主な機能、そしてその政治的役割について、特に近代の議会との違いに留意しながら具体的に述べなさい。)を中世の議会と絶対王政の議会とを比較した受験生もいるはずです。しかし絶対王政の議会と比較すると「違い」はあいまいにならざるをえません。
 山川出版社が教師用に出している「詳説世界史・教授資料」の第9章の初めには「ヨーロッパは、近世と呼ばれる15世紀末から18世紀末の時期に、遠洋航海の拡大によって……この時代にヨーロッパは、ルネサンスや大航海、宗教改革、絶対王政、資本主義の発達といった経験を通じて近代世界の主要な要素を準備した」と。この「教授資料」が正しい説明です。ヨーロッパ史学では modern ということばで16世紀以降のすべての時代をくくる名称にしていますが、本来は16世紀(15世紀末)からを「近世」として本格的な「近代」を18世紀末(1760年代)からと表現すべきです。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」にはこうした時代区分をハッキリさせています(p.41)。


Q2 大航海時代に伴って生じた「商業革命」「価格革命」という概念についてです。価格革命とは、スペインが新大陸経営に力を傾注し、エンコミエンダ制を強化して、(なかば対価なしという状態で)ポトシ銀山を初めとする銀山から大量の銀を採掘させ、これをヨーロッパにもたらしたことで、銀の価値暴落がおき、物価高騰を引き起こしたものである、と解釈しています。
 いっぽう、商業革命については、理解に困るところがあるので、解説してください。
 なぜ、地中海世界が「没落」したといえるのか、ということです。商業革命とは、相対的な意味で「大西洋沿岸が中心に移った」ということですか? それとも、絶対的に地中海沿岸は商業面で衰退してしまったということですか? 地中海地方が絶対的に衰退した、と仮定します。マムルーク朝がエジプトに介在していたことで東方のモルッカ諸島原産の香辛料というヨーロッパ食文化の必需品は、イスラム商人(カーリミー商人)を経てヨーロッパにもたらされた時点では値段が上がっているはずです。このことに対する不満として「新航路開拓」が進んだ、ととらえることができ、カーリミー商人を介さない形での貿易の運営、即ち東廻りインド貿易路を用いた貿易の運営(つまり地中海都市の東方貿易はすたれる)へと変わっていった、ということぐらいが、地中海⇒大西洋へと中心地が移ったことの背景として
考察できるのですが、以上のような理解でよいでしょうか?

2A 価格革命はOKです。商業革命も基本的にはそれでいいです。ただすぐ地中海商業圏ないしイタリア商人が衰えたのではありません。16世紀にイタリア商業は一時復興したりしますが、ゆっくり衰えていったのは事実です。地中海にはオスマン帝国の船の他に、スペイン・オランダ・英仏の船が入り込んできます。これらの国々との競争に負けていったのです。15世紀までさかえた理由のひとつに造船があったのですが、木材が不足して造船できなくなったためも一因です。繁栄は衰退を準備したともいえます。また不安定な商業に投資するより土地購入に傾いていった点もあげられます。土地で穀物をつくり売る方が安定していると。
 現象的には商業の指導国が「地中海⇒大西洋へと中心地が移った」でいいですが、それ以外に商業圏の変化(中世の地中海・バルト海・北海→全世界、五大陸)もあります。セビーリャ商人とカディス商人を主体とするスペインによる大西洋(西インド)貿易、リスボンのポルトガルを中心とする東洋=東インド貿易という商圏が世界的規模に拡大されたこともさしています。換言すれば、イタリア商人はゆっくり衰えたが、東方貿易が衰えたのではない、ということです。これ以降のことは、Q42 の答えに説明があります。


Q3 重商主義政策というのはどういうものなのかいまいちよく分りません。山川の用語集p.187には、絶対王政下で重商主義政策は行われるとあるのですが、イギリスとかオランダでも絶対王政でなくても重商主義政策が採られたと思うんですが……。

3A 用語集は舌足らずですね。アメリカの13植民地に対してイギリスがおこなった政策、このときは名誉革命後で絶対王政が倒れた後の、議会主権のできている時期の重商主義政策です(用語集p.195)。
 疑問のとおり、重商主義には2つあり、絶対王政のとる重商主義を「王室的」重商主義といい、絶対王政が倒れた後の重商主義を「議会的」重商主義といいます。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」p.56下段の4に「イギリスの議会的重商主義を、米大陸への植民地政策を例にして述べよ」という問題があり、右のページにも上にあげた説明を書いています。教科書がつかっていない用語ではありますが。『国富論』を読むとわかるのですが、重商主義とは近世の西欧諸国が経済を管理し、貿易収支の黒字をはかり、輸出を助成し、国内産業を育成した政策です。この定義でわかるように「商」だけ重んずるのでなく、経済全般であることです。かんたんにいえば、国家の経済介入政策です。この政策をとる国家の形態はなんでもいいはずです。ニューディール政策を支持したした経済学者(ケインズたち)がこの重商主義に共鳴していたのもうなずけるものです。東インド会社解散や穀物法廃止によってイギリスは重商主義政策をやっと放棄します。国家の介入をやめる自由主義政策への転換です。このように重商主義は19世紀半ばまでつづいていたのです。


Q4 宗教改革の時に、カール5世はなぜルターに異端的な説のとりやめを要求したのですか?ルターは諸侯や市民や農民の支持をうけていたのだから、教皇側に立つのは不利に思えるのですが。それに、十字軍以後は教皇権は弱体化したのに、わざわざそんなことをする程の結びつきがあったのかが少しよくわからないのですが。

4A カール5世だけでなく、ルターを異端とおもう多くのひとがいました。諸侯や市民や農民の支持をうけていたといっても全部ではありません。教皇権は弱体化していたのは事実ですが、カール5世にはローマ帝国皇帝であるという誇りがつよく、自分が全欧の責任者であるという自覚から、異端問題を解決して全欧に自分の力を示したかった。この自覚はトリエント公会議でも新旧両派を呼んでなんとか和解させようという点にも現れています。旧教徒しか集まらないので、そうはなりませんでしたが。息子のフェリペ2世にはこの自覚がはじめからありませんでした。


Q5 カール5世が、西はイタリア戦争でフランスと争い、東はオスマン帝国の侵入におびえる、という国際情勢のもとで、勝手気ままな政策を行なった(第1回、第2回シュパイエル帝国議会)ので、シュマルカルデン同盟が組織され、戦争が起こったようです。そして、カール5世が勝ったのにもかかわらず、なぜルター派の言い分も取り入れたような形で「アウグスブルクの宗教和議」を取り決めたのですか? 当時のカール5世(ハプスブルク家)としては、カトリック政策を進めたかったはずですから、シュマルカルデン戦争で、ルター派に勝利した以上、ルター派への譲歩は必要なかったはずです。場合によっては、国策に反抗し、国王に抵抗してきた罪でルターが処刑されてもおかしくなかったはずです。だのに、なぜ、アウグスブルクの宗教和議では、ルター派への譲歩が見られたのでしょうか。

5A シュマルカルデン戦争(1546〜47)は皇帝側の勝利になっているのですが、その続きがあります。皇帝側についていた選帝侯が1552年反旗を翻して新教側にまわり、新教側はフランス王アンリ2世と組んで皇帝派と戦い、このときフランス軍がライン川流域を占領するという事態にまでいきました。プロテスタント派が優位の状況です。カトリックのフランスがなんで、という疑問はわきますが、当時の戦いは必ずしも宗教的団結だけでないことは、イタリア戦争でフランソワ1世とカール5世がカトリック同志でありながら長いこと戦いつづいたことでも分かるでしょう。それでカール5世は失意のうちに退位し、弟のフェルディナントに委ねてしまいます。このフェネディナントの下でアウグスブルク和議が結ばれました。


Q6 フランスにユグノーが元々あまり浸透していなかったのは農業主体の国だからでしょうか?

6A 面白い疑問ですね。都市にカルヴァン派は浸透するので、あまり中世都市の発展しなかったフランスには理由のひとつになるでしょう。そういえば産業革命がなかなか進行しなかった、緩慢であった、というのも農業主体だったからでした。きわめて保守的な国なのかも知れません。良くいえば、新しいものには軽々しく付いていかない。


Q7 フランスは旧教国なのに、カトリーヌ=ド=メディシスはどうしてユグノー寛容策をとったのですか?

7A カトリーヌ=ド=メディシスは一貫性のある女性ではありません。はじめは寛容精神で(一般にカトリックの方がプロテスタントより寛容です)、新教も認める立場でしたが、それが挫折すると新教徒の弾圧・抹殺に走り、サン=バルテルミーの虐殺もおこしています。これは西太后が義和団を利用して欧米に宣戦布告をしたものの劣勢になると撤回して、今度は義和団の弾圧を命じたのと似ています。


Q8 山川の教科書の159ページの3行目から8行目なんですが、1522年春という風に明確な時期が分かっているからには何か具体的な出来事があったのですか? 細かいことですが少し気になりました……。

8A ウォルムス国会のルターの英雄的な発言が伝わりながら、その帰途の1521年、ルターがザクセン公の城にかくまわれて1年間近く(21年5月〜22年3月)姿を消したことから、ルターの教説を独自に解釈する者たち(騎士・農民・貴族)が現れ、分派し独自の教義をつくりだしていったようです。そのため城から出てきたルターと対立することになります。ルター派内部の分裂です。


Q9 「宗教改革運動と国民国家の形成との関連」の問題について質問があります。“国民国家”とはどのようなコトをいうのでしょうか。

9A 国民国家とは、教科書『詳解世界史』(三省堂)では「長期にわたる戦争は終わった。この戦争の結果フランスでは諸侯・騎士が勢力を失い、これに対し、国民感情の覚醒と常備軍の設置を背景に王権がさらにのび、シャルル8世のときには絶対主義への道が開かれた」にいくらか記載してある「国民感情の覚醒」の部分です。
 もっと明解に書いているのは山川の教科書『世界の歴史』では「中世末から17〜18世紀にかけて王権が強大になり、絶対主義国家がうまれると、国家の支配・統合機能が格段に強まり、これとともに政治的共同体としての民族あるいは国民(ネーション)が形成された。それは通常有力な中心民族に複数の周辺・少数民族を加えて、政治権力の上からの操作によってつくられることが多い。その際、当時各国で資本主義経済の発展につれてうまれていた全国市場や、市民層が育てた国民文化が政治的統合の基礎になった。……しかし絶対王権は国民を統合の対象として受け身の立場にしかおかなかった。これを逆転させ国民を主権者にしたのが市民革命であり、これとともに一つの政治・法律制度をそなえ、国民に主権者としての権利とともに納税・教育・兵役などの義務をおわせる近代的な国民国家が成立した」と。
 まとめれば、近世に絶対王政が国境・民族・言語・信仰をまとめ、近代になって市民が国家の土台となって下からつくりあげた、ということになります。


Q10 山川の教科書に「グスタフ=アドルフの戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦したとあります。それはとりあえず、宗教戦争は終わったと仏は見なして、今度は権力争いとして公然と参戦したということでしょうか?

10A 「戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦」は途中をだいぶ省いた記述です。アドルフは戦死しましたが、スウェーデンが全般では勝利しました。しかしその後の戦闘ではまた旧教側の神聖ローマ帝国・スペインが挽回しています。それで小康状態「平和」になっていたのですが、1630年からスウェーデンが参戦し、このスウェーデンに資金支援をしたフランスとしては、どうしてもハプスブルク家をたたきたい、また領土もほしい、ということで黒幕であったフランスが表立って出てきた、という順です。


Q11 三十年戦争の際、フランスは旧教国でありながら、リシュリューの提案により自国の利益を優先するため新教国側として参戦した、とあるのですが、ここでいう「自国の利益」とはどのようなことをいうのですか?

11A フランスにとってハプスブルク家の台頭はお隣でもあり安閑としておれない。三十年戦争の4回の戦争(ボヘミア戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、フランス・スウェーデン戦争)のうち前半二回は神聖ローマ帝国の勝利でした。これを見ておれないフランスは三回目のスウェーデン戦争のときからひそかにスウェーデンを経済支援していて、とうとう四回目にフランスという黒幕がでてきた、ということになります。宗派は同じでもお隣に大国がないことを望んだのです。16世紀のヴァロア朝とハプスブルク家の対立は17世紀のブルボン朝とハプスブルク家の対立として宿命的な戦いをつづけたのです。こうした国威(国家の威信)を保ちたいことの他に、領土の拡大も「自国の利益」目的にはあります。


Q12 主権国家というものが僕にはいまいちわかりません。主権国家体制はヨーロッパで確立されたと書いてありますが、この時期に例えばオスマン帝国など他の地域における主権国家はないのですか?

12A 主権国家のかんたんな定義は、国内最高権力と対外独立が実現している国家のことです。国内で最高の暴力をもち国家以外の、貴族といえども、だれもこれに抗えないほどの権力です。中世の国家では神聖ローマ帝国が代表ですが、これだと皇帝の権力は各小国(領邦と呼んでいるもの)に対して皇帝権は及びません。そこに帝国官僚も入ることができません。皇帝は三十年戦争を待たなくても名目です。前をたどっても1981年の東大の問題にもあったように、実態はカールと伯との個人的な結びつきにすぎないのが西ローマ帝国でした。伯や巡察官はまともな官僚とはいえないものでした。それが官僚を派遣して中央の法と裁きを受けさせるようになれば、主権国家です。
 これだけとれば明清もオスマン帝国も主権国家といえます。ただ対外独立は実現していません。対外的にはどこの国にも従属していない状態でなくてはなりません。しかもそれは他の国々、あるいは列強でもいいのですが認めてもらわないといけません。神聖ローマ帝国はウェストファリア条約で各領邦ごとにこの対外独立、いいかえれば、どこにも属さない、おうかがいをたてなくてもいい外交権をもらいました。英仏などは実質、百年戦争終了の段階でもっていたのですが、やはりウェストファリア会議でそれは確定しました。この会議で外交する場合には、どういう身分のもの同士が話し合うか(領事→大使→外務大臣→首班)、派遣された外交官はその国を代表していなくてはならない、という取決めをしました。アジアの国々はこういう外交の取決めの圏外にあったため主権国家とはいわないのです。日本がワシントンでの条約改正に関する交渉が始まって国務長官フィッシュから使節に対し、天皇の委任状を持っていないので交渉はできないと言われ、やむなく大久保と伊藤は委任状を得るために遠路を帰国し、やっと5ヶ月余後に委任状を携えて戻った、という話は、まだ主権国家として認められていない、また西欧型の外交を知らない日本のすがたを示していました。もちろんこれは欧米の勝手な国家の見方です。当時はしかしこれをルールとしておしつけていったわけです。
 日本国憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」とあるのが主権国家のもうひとつの定義です。
 現代でも、国家の要件を満たすにもかかわらず、国家として承認を得られていない国家も存在します。中華民国(台湾)がそうです。中華民国は主権国家(完全に独立した国家)として国家承認すると、台湾は自分のものだと主張する中華人民共和国と対立することになります。


Q13 ウェストファリア会議がどうして「ヨーロッパ最初の国際会議とされる」のかわかりません。西欧と北欧だけの会議ではありませんか?

13A たしかに戦場となった地域や分割された地域をみると西欧・北欧ですが、ヨーロッパどころか、全世界的に見て近代的な外交のスタートと見られているのです。その理由は、(1)宗教をめぐる戦いで教会はまったく平和をもたらす勢力になりえなかったこと、というより殺戮をあおるものでしかないことが明らかになったことです。宗教抜きの純政治的会議となりました。(2)「外交」というもののはじまりになりました。1644〜48年と時間がかかった理由は、66ヶ国もの代表が集まり会議を開くとして、いったい国を代表する資格はだれにあるのか、どこにどこの国が、どんなテーブルに座るのかをめぐって長い時間を要したのです。このことから、国を代表する専門職としての外交官の身分が確立します。完成はウィーン会議ですが、外交官の職制や儀礼、大使・公使・代理大使の地位、席次は同一階級内では着任順とするなどの外交規則の原型ができます。(3)国家権力を代表するものの集まりであったということが新しい意味をもっていました。傭兵をやとって戦争することが当り前であったとき、最終的に傭兵制をやめ国家総動員体制で戦うことが慣例になっていくはじめでもありました。戦争をおこなうものと政治指導者はかならずしも一緒ではなかった時代から、国家のみが暴力を独占し、暴力装置を独占する主体であることを、結局は、傭兵でも教会でもなく国家(政治権力者)が政治と戦争の主体であることを明らかにする絶対主義時代の会議でもありました。


Q14 ウェストファリア条約で主権国家が確立されたと政経の教科書に書いてあったが、中世のイギリス・フランスなどは主権国家と言わないのですか?

14A 少なくとも、中世末の百年戦争後はいえます。「主権」とは国内の最高権力と対外的独立の二つを意味するので、この二つが備わっていれば主権国家といえます。西欧でいう絶対主義とともに成立しました。百年戦争の結果、フランスからイギリスの領土がなくなり、フランス王はほぼフランス全土の最高権力者になったといえるからです。もちろんまだ完全ではなかったのですが、ローマ教皇を頂点とする教会の上に、封建的な地方権力たる貴族層の上に、身分制議会の上に、ギルドの上に絶対王政は存在することになったからです。これはフランスから追い出されたイギリスが、ばら戦争の後に、並ぶもののない王権を確立したテューダー朝の段階でいえます。レコンキスタを完成してキリスト教的な宗教的王権を樹立したスペインもポルトガルにもいえることです。こうして、主権国家は、まずは君主主権という形をとってスタートしました。


Q15 絶対主義の所に出てくる、主権国家という言葉がどういう意味なのかよくわかりません。どういう国家のことですか?

15A 主権をもつ国家、という意味です。主権とは、対内に(国内に)最高の権力(暴力・武力)をもっていることと、対外的にはどこにも属していない独立国である、という二つの要素をもった国家です。これは中世のようにいろいろな封建関係が結ばれていて、どの領主も中世都市も小さい権力しかもっていない状態から、絶対主義の王権が常備軍と官僚組織・徴税のシステムをととのえて、対内最高権力と対外独立をもつようになったので主権国家ができたといいます。現在はそれがもっと強化されたたくさんの主権国家のあつまりとなっています。植民地・属国だったらこの主権にまだ到達していないことになります。


Q16 三十年戦争後にハンザ同盟は衰退した、というのを読んだことがあります。その後、どうなったのでしょうか?

16A ある事典に明快に述べているものがありました。引用します。  
 15世紀以後、同盟は衰退過程に入る。各都市は内部では商人層の寡頭支配に対するツンフトそのほかからの対立抗争という問題をかかえ、対外的には国家的主権を強める領邦君主と激しく対立することになる。こうして始まる諸都市の弱体化は同盟にも影響し、もともと強固でない組織をいっそうゆるめていった。加えて絶対主義諸国はその重商主義政策を進めるにあたってハンザ商人の特権を奪い、国民国家への展開と国内産業の振興に支えられた外国商人の進出に対する同盟の競争力は弱められた。すでに1441年に同盟はオランダ商人のバルト海航行を認めねばならず、また1487年にはノブゴロドの商館を放棄し、それは1494年に閉鎖された。16世紀になると、同盟はスウェーデン・デンマーク・イギリスでの特権を失い、ブリュージュからも後退した。そして1598年にはロンドンの商館も閉鎖されて、このとき同盟は事実上解体する。最後のハンザ会議はなお1669年に開催されるが、そのあいだに諸都市の領邦国家への服属は進み、三十年戦争以降もハンザ都市の名称と自治権を維持するのは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3市のみであった。(世界歴史事典)


Q17 ウェストファリア条約は三十年戦争の講和条約で、ロンドン会議はギリシア独立戦争の講和会議なのになぜ、それぞれ無関係なオランダの独立やベルギーの独立の話が出てくるのでしょうか?

17A 無関係ではありません。オランダは三十年戦争のときにスペインと戦争を再開しています。オランダ独立戦争は80年戦争ともいって、1568〜1648年までつづいたと見なします。三十年戦争の前には「休戦」していますが。
 ベルギー・ギリシアの独立はウィーン体制の維持か廃棄かをめぐる問題もかかえていますので、ギリシア独立戦争に参加した英仏露の協議は双方に及んだのです。トルコはアドリアノープル条約で認めているのですが、西欧は西欧で承認をめぐって話し合っていたということです。


Q18 私は高校から第一学習社の「最新世界史図表」を愛用しているのですが、その p.150 に、 第3次英蘭戦争の絵と解説があって、「オランダは陸上でフランスの侵攻を受けて苦戦していた」とあるんですが、これはオランダ侵略戦争のことですかねぇ……?

18A そうです。第三次英蘭戦争は英仏が同時に展開する戦争ですが(フランス側の表現ではルイ14世のオランダ戦争)、イギリスは早く撤退してしまう(1672〜74年)のですが、ルイ14世がしつこくオランダ攻撃(1672〜78年)をやっていたのです。とくに1672年にフランスに国土深く侵入され大きな損失をこうむっています。


Q19 オランダ東インド会社をVOCと略語でいうようですが、何の略かわかりません。

19A オランダ東インド会社の正式名称が「連合ネーデルラント東インド会社」でオランダ語のスペルは
 De Vereenigde Nederlandse Oost-Indishe Compagnie
というものです。「連合(合同)」を意味するのがこの  Vereenigde です。De は冠詞でしょう。英語では Dutch United East India Company とか The United Dutch East Asia Company とつづるそうです。乱立した会社のうち6つを合同したため「United 合同(連合)」がついています。Oost は East です。
 

Q20 清教徒革命の時、スコットランドの「長老派(プレスビタリアン)」が出てきます。この「長老派」と、ピューリタン革命で独立派と対立した「長老派」はどうちがうのか、生徒に分かりやすく説明するにはどうすればいいのでしょうか? 長老教会制度を両者とも主張しているのですよね? 「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」という説明は乱暴でしょうか? 教養文庫:世界の歴史6には「政治上の長老派、独立派は宗教上のそれとぴったり一致するものではない」と書かれているのをみて、頭が混乱しています。

20A  「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」は正しいです。どちらもPresbyteriansで長老派(プレスビテリアン・チャーチ)と訳しています。長老派とは、教会を信徒が選んだ長老によって経営してもらう、という民主的な組織です。ちがいは、スコットランドの長老派は議会で承認された全国民的な組織であるのに対して、イングランド「ピューリタン革命」での長老派は一部の議員と一部の信徒にしか組織化されていないことです。王政復古の後は多くの信徒・議員が国教徒に改宗(転向)しますから余計少数派になりました。学生に説明するのはこの点だけでいいのではないでしょうか。
 スコットランドの全国組織は、末端の各教会に牧師がおり、そばに教会員から選出された一定数の長老 presbyter がいて運営に共に参加します。それらの教会が地方ごとに長老会を組織し、さらに数地方の長老会をもって大会がつくられ、その上に全国総会がおかれる、という全国的なものです。


Q21 旧教徒のジェームズ2世(旧教徒)の子メアリ2世や妹のアンはなぜ新教徒なのですか?

21A ジェームズ2世は幼少からプロテスタント(新教徒)として育ったのですが、最初の妻が死の前年にカトリック(旧教)に改宗したことの影響から、自分もカトリックたることを公言するようになりました。再婚した後、兄をついで王位にのぼりカトリック化政策を推進します。娘の信仰は実はこの父親でなく、まだ王位にあった兄のチャールズ2世が、弟の子供たち(メアリ2世とアン)は新教の信仰をもつように強く説いたせいだそうです。チャールズ2世はカトリックに同情的に行動し、また臨終の床でカトリックになることを告白した人物。意図は謎のままです。ただ、西欧の親子は、日本のように大学卒業後もくっつきまわるベッタリ親ではなく、まして王となれば直接こどもの養育をするわけでもない、ということを踏まえておかなくてはならないでしょう。貴族の子も早く寄宿舎に入れる、職人の子は徒弟に出す、できるだけ他人のなかに育ったほうが早く大人になるという信念の親とは大部ちがいます。親子の信仰がちがっても構わないと考えているようです。


Q22 山川の詳説世界史p168を参考に見ているんですが、近代においてブルボン家のフランスとハプスブルク家は仲が悪かったようですが、フランスブルボン家のルイ13世、ルイ14世紀はそれぞれスペインのハプスブルク家から妃をもらっています。フランスから見て敵方のハプスブルク家から妃をもらっている理由はなぜですか?政略結婚か何かでしょうか? 参考とされた文献等も教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

22A ルイ13世は結婚するスペイン王女アンヌのことは顔も見たことがなく自分の意志ではありませんでした。対立しているスペインとの和平のための政略結婚です。ルイ14世は恋人がありながらスペイン王女マリアとの結婚は、マザランと母親(アンヌ)が決めたことであり受け入れざるをえませんでした。参考になるのは、長谷川輝夫著『聖なる王権ブルボン家』講談社選書メチエ(1700円)です。


Q23 イギリスの話でよく分からないのが、慣習法(コモン・ロー)の話です。法律というと成文法しかイメージできないのですが、成文法ではなくても法律としてうまく機能するのでしょうか。文章化されていないということは、微妙なズレ等が生まれたりもしそうですし。

23A 判例法ともいうように、この判例文は全国で参照され、むしろ判例にしたがって他の裁判も判決を出すように相当規制されます。紛争の解決にあたっては裁判所の先例(判例)を検討することによって結論を導き出すことにしているのです。具体的・融通のきくかたちともいえます。ローマ帝国の法も制定された法もありましたが、判例が準法律のあつかいをうけました。それが煩瑣になったり、矛盾が出てきたため6世紀に『ローマ法大全』による統一見解集を出すことになりました。


Q24 山川から出されている世界史B問題集で「グロティウスは自然法の父」という記述があって答えは「自然法の父」が間違いとかいてあるんですが??

24A 追試の問題の文章は「グロティウスは、民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて、「自然法の父」と呼ばれた。」です。「自然法の父」の部分は正しくても「民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて」はザヴィニーというドイツ人のことなのでまちがいなのです。またグロティウスも厳密には自然法を初めて考え出したひとではないので、「近代自然法の父」とした方が正確です。


Q25 イギリス市民革命について。最初は清教徒が中心だったのにチャールズ2世が即位(ジェームズ2世か?)すると審査法で「国教徒のみ」とあり、清教徒の立場は?って感じなですが……清教徒はその後どうなったのですか?

25A 清教徒革命のときは、国王が国教徒と組み、非国教徒と対立するのですが、王政復古後は、国王がカトリック側にたち、国教徒と対立する、というちがいのことですね。
 これは王政復古があったときのはじめは、ピューリタンたち非国教徒も国王チャールズ2世を迎えるものの、国王が非国教徒の弾圧をはじめると、多くのピューリタンたちは命が危ないので国教徒に宗旨変え(転向)してしまうのです。議員たちも、長老派など、かつては非国教徒が多かったのに、国教徒の多い議会に変貌しているのです。このことはちゃんと教科書は書いていません。カトリックを復活させようとするチャールズ2世に対して、議会側から国王のカトリック化政策に反対する法案が通ります。 弟のジェイムズ2世は即位前から自分はカトリックだと公言しているものの、この国王の排斥案がトーリー党の反対で通らず、しかたなくカトリック王の就任となります。しかし待てば娘のメアリーは新教徒(国教徒も非国教徒も新教徒です)なので、がまんをすれば、いずれジェイムズ2世は死んで、新教の女王就任になるはずでした。しかしジェイムズ2世に子供が産まれ、それも男の子でしたから、いくら娘のメアリが大人でも、男の子から就任することになり、長いことイギリスではカトリックの支配がつづく可能性がでてきました。それで折れたトーリー党とホイッグ党が組んで、メアリーと旦那のウィリアムを招いた、ということになります(名誉革命)。

 

Q26 ルイ14世が行ったファルツ継承戦争の事で質問なんですけど、ファルツの場所ってどの辺りですか? 

26A フランスの東で、現在ドイツ南西部です。ライン川支流マイン川以南のライン両岸の地域(ラインラント、ライン川流域の意味)です。18世紀の歴史地図でパリの東をまっすぐ横に見ていくと書いてあるはずです。


Q27 問題集に1688〜97年のファルツ戦争にオレンジ公ウィリアムが活躍した。とあったんですけど、このオレンジ公ウィリアムは1581年のネーデルラント連邦共和国の独立に活躍した、あのオレンジ公ウィリアムですか?

27A いいえ。のちのイギリス王ウィリアム3世です。名誉革命のとき妻のメアリ2世とともにイギリスにわたりメアリ2世とともに共同統治者となります。オランダの王様はみな似た名前ばかりです。オレンジ(オランダ語でオラニェ)は王家の名前で、果実のオレンジからきています。オランダのサッカーの色はオレンジ色にしているのは王家を表しています。


Q28 資本=お金ですか?

28A いいえ。たんなるお金ではありません。資本はよりお金を生みだすお金のことです。たんに財布にお金があったり、ラーメンを食べるために支払うだけのお金は資本ではありません。お金をより産みだすためのお金を資本といいます。「元手」とか、貸付けによって利子を獲得するための「元金」とか、営業に必要な「資金」のことです。銀行資本とはたいてい銀行をふくむ金貸し業です。帝国主義時代には、資金を後進国の政府に貸して利子でもうけようという資本のことです。


Q29 山川出版の用語集162ページの第二次ウィーン包囲の説明で、オスマン帝国はロートリンゲン公とポーランド軍に撃退されたとありますが、ウィーンのハプスブルク家は何もしなかったんですか? なぜポーランドなのか分かりません。あとロートリンゲンとはロレーヌのことですか?

29A もちろんウィーンはハプスブルク家の本拠地ですから戦っています。トルコ(オスマン帝国)とは1662年から長い戦いをしていて、この第二次ウィーン包囲と、1699年のカルロヴィッツ条約が最終的なハプスブルク家の勝利となります。用語集は不要な細かい説明をすることがあり、これもその一例です。なぜポーランドなのか……は歴史地図を見られると氷解するはずです。16〜18世紀のポーランドは現在のポーランドとちがってでかい国です。ベラルーシやウクライナももっている大国でした。正確にはリトアニア・ポーランド王国です。分割される前のポーランドの大きさを想起されてもいいでしょう。トルコとも長い国境線をもっていて何度も国境紛争がおきていました。
 ロートリンゲンとはロレーヌのこと……です。ロレーヌを相続したカール(Charles of Lorraine)がフランスから追放されて、神聖ローマ帝国の家臣として仕えていました。このひとは王の居ないポーランドの王候補に二回あげられた人物でもありました。受験上は要らない知識ですが。


Q30 ピューリタン革命の開始年が1640(42)となっている本があるんですけど、どうしてですか? 中学校の参考書なのですが…

30A 長期議会の召集(1640)とともに革命に入ったととるのが研究者では一般的です。高校の教科書が1642年にしているのは内戦が始まった年からです。どちらでも良いとも言えます。山川出版社の最近出た『世界史小辞典』では1640年にしています。いずれこの年代に変わるでしょう。


Q31 ピューリタン革命や名誉革命で生産の自由な発展を妨げる特権が廃止されたと言う記述が山川の『新世界史』にあったのですが、具体的には発展を妨げるどんな特権が廃止されたのですか?

31A 特権廃止の最大のものは封建的土地所有の廃止です。封建的土地所有とは国王が全土をもっているという原則に立つものです。この制度が廃止になると、領主やブルジョアたちは法的に個人的な所有地として自分の土地を認めてもらうことになりました(私有権)。それまでは国王から封土していただいた土地だったのが、国王の承認なしに自由に土地の売り買いが可能になりました。土地も商品のひとつになったのです。またギルド制の廃止、国内関税の廃止などの国内に自由に商品が流通する風通しのいい経済、全国的な市場もできあがりました。ギルド制では個人の発明があると、他の親方たちの脅威になって抑えられてきましたが、その抑止もなくなりました。自由に競争してもいい経済、また創意工夫が開放された経済になりました。


Q32 農奴・ヨーマン・土地所有農民などのちがいはこんなかんじでいいでしょうか。
農奴(地代あり・経済外強制あり、ただし領主裁判権にいたる高度のもの、普通程度の土地保有権)、
農奴解放(地代あり、経済外強制なし、普通程度の土地保有権)、
ヨーマン(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)、
ユンカー経営(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)
コロヌス(地代あり、経済外強制あり、ただし土地緊縛はあるが領主裁判権まではいかない、普通程度の土地保有権)

32A 書いてあることはだいたい正しいですが、ヨーマンのところは、(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)ですが、18世紀には資本主義的農業経営者になるものと賃金をもらう農業労働者に分化します。
 もうひとつ「ユンカー経営」のところは、ユンカーという経営者のことより、その下ではたらく農民のことですね? つまり(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)は法的にはそうなのですが、「解放」された農民は自分の土地所有権が与えられたものの、実態は旧領主のもとで種々の農奴的扱いをうけつづけました。


Q33 グーツヘルシャフトという経営はいつまでつづいたのですか?

33A 15世紀末から18世紀までです。厳密にプロイセンだけに限ると1807年のプロイセン(シュタイン・ハルデンベルクの)改革までです(この改革以降は「ユンカー経営」と言い換えます)。農奴制をもとにして西欧向けの商品(穀物・材木)をつくる大農地経営をさします。農奴制自体は、古代末から近代の市民革命までつづいた長い長い制度です。グーツヘルシャフトはしかし、中世でなく、近世(16〜18世紀)にあった新しい制度です。しかも西欧の閉鎖的な荘園(自給自足の経済)とはちがった西欧市場めあての経営です。ドイツ語表現だからといってプロイセン(ポーランド北部)にだけあった制度でなく、当時のポーランド・ボヘミア・ハンガリーにもありました。エンゲルスが「再版農奴制」と呼んだものです。一応、次のように西欧との時期のずれを見ておくといいでしょう。
    西欧     東欧
中世: 農奴制    自由農民
近世: 解放へ    農奴制の成立
近代: 市民革命で  解放へ
    解放完成   (ロシアは1861年)
           完成は20世紀の社会主義革命で


Q34 12世紀ルネサンスや、カロリングルネサンス、商業ルネサンスと言いますが、なぜルネサンスというように呼称するのでしょうか? そして、イスラーム世界や、ビザンツ帝国から、古代ギリシアの学問などが流入したことが、ルネサンスに影響したと習ったのですが、それまではイタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか? かつてのギリシアの地に古典が眠っていて、そうした研究は専らビザンツやイスラーム世界でおこなわれていて、それが、十字軍などで西ヨーロッパ世界の人々がそれに触れることとなり、ルネサンスが起こったということなのでしょうか?

34A その通りです。ルネサンスは「復興」ということなので、以前にそうした繁栄期があったことを指しています。
 「12世紀ルネサンス」も「カロリング=ルネサンス」も古代ローマ文明の復興を意味しています。
 「商業ルネサンス」も古代ローマ帝国時代の地中海世界の貿易が再現したことを意味しています。違うのは、古代になかった北海・バルト海も商業圏に入ってきたことです。
 イタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか?……そうです。ゲルマン大移動(4〜6世紀)の頃から正しいラテン語のつづりも忘れられ、わずかに修道院で細々と古典の筆写がおこなわれる程度でした。それが11世紀から大学ができ、この大学や研究所で、とくに12世紀に相当数のアラビア語からラテン語への翻訳、またギリシア語からラテン語への翻訳もあり、またイスラーム・ビザンツからの学者流入もあり、14世紀以降これらをやっと消化して独自の文化をつくりだしたのが、14〜16世紀の「(イタリア)ルネサンス」です。
 教科書には載っていませんが、アッバース朝ルネサンス、宋代ルネサンス、という言い方もあります。前者は古代メソポタミア文明の復興を指し、後者は春秋戦国時代の諸子百家・前漢後漢の文芸などの復興を指しています。


Q35 『センター世界史B各駅停車』のp.252「ユグノー戦争」に下記の記載があります。カトリーヌ=ド=メディシスはユグノー戦争の打開を図るために、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたはずなのに、どうしてユグノーを虐殺したのでしょうか。かえってユグノーとの関係が悪化するのではないでしょうか? それとも、初めからユグノーを虐殺することを目的として、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたのでしょうか?

35A 内戦が長引き、カトリック側が今ひとつ弱いときに、カトリーヌ=ド=メディシスは自分の子どもたちの担っている王家を守りたくて、ユグノーのアンリ4世と組むことが、宗派はちがっても和解の方策になると考えたようです。サン=バルテルミの虐殺はカトリーヌの意図ではなく、過激なカトリック側の貴族たちが起すと、それが次々と虐殺を呼び込んで暴走してしまったようです。


Q36 教科書p202「アジアへの進出でポルトガルにおくれたスペインでは、1492年に女王イサベルが…」とあるのですが、1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということでしょうか? 1498年のカリカット到達が最初のアジア進出と認識していました。

36A 1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということはないですね。「ポルトガルにおくれた」といっているのは、エンリケ航海王子(1394〜1460)の頃からアフリカ西岸の探検、インド航路開拓を企図したことを指しています。かれは航海学校をつくり、探検家・地理学者・天文学者を集めて王室として推進したことから、スペインは「遅れた」意識をもっていました。


Q37 P139「封建社会が安定し農業生産が増大した結果、余剰生産物の交換が活発になり…」この部分の、余剰生産物の交換を行ってるのは、農奴でしょうか? 領主でしょうか? 農奴は余剰生産物の交換を認められていたのでしょうか? P142「農民は市場で生産物を売り…」の部分は、西暦1300年頃からだと認識しています。

37A 貨幣地代の普及が原因ですね。地代を納める方法として、労働地代→生産物地代→貨幣地代がありますが、領主が貨幣を要求してきたら、貨幣で納めるほかないです。貨幣を農民が得るためには市場に作物を持っていき、それを売って貨幣に換えて、その中から決められた地代を払うことになります。
 しかしこの貨幣地代の段階になると、地代はいくらかと決めて納めさせるので、固定した地代をとる領主は、もう領主というより地主と表現した方がいいような、農民とは経済だけの関係になっていて、「純粋荘園(純粋に経済だけの関係)、つまり「古典荘園(領主・農奴関係)」から地主・小作人関係への転換です。人格的・政治的な支配(領主裁判権)を農民に及ぼさなくなり、その権限はむしろ強化されていく王権が吸収していきます。王権は地方の裁判権を奪っていきます(巡回裁判所、治安判事など)。


Q38 教科書p217「…オランダ・イギリスなどの新興国の攻撃を受けて、その力は低下していった」ここにおいて、オランダが新興国の扱いをされるのはわかるのですが、イギリスが新興国の扱いをされているのはなぜでしょうか?

38A 中世までは羊毛原料の輸出国で植民地にひとしい国でしたが、百年戦争のためフランドルの技術者たちが亡命してきて毛織物工業がおき、毛織物を輸出するくらいに成長してきました。また16世紀の末スペイン艦隊を破り(1588)、海軍国としても台頭しました。


Q39 教科書p224「ヨーロッパは18世紀に再び成長期を迎えるが……」とあるのですが、18世紀の前の成長期とは、16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期のことでしょうか?

39A この文章の前に「17世紀の危機」という表現があり、この危機を克服して18世紀の繁栄ということです。推測された通り「16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期」が以前の状況です。これらは気候の温暖期、17世紀は寒冷期「小氷河時代」、18世紀は温暖期と関連しています。


Q40 大航海時代がなぜポルトガルとスペインが発端となったか。
「レコンキスタを終えた国」というのは分かるのですが、なぜわざわざ海外へ進出する必要があったのか分かりません。ポルトガルとスペインにとって、宗教的・経済的にどのような利点があったのでしょうか。

40A 宗教的にはカトリック教会がレコンキスタの支援者であり、戦士も商人も「聖戦」をたたかったキリスト教圏拡大の意志をもったひとたちであったこと。経済的には、スーダンの金と奴隷の獲得、アジアとの直接商業の実現をめざす、といった目的があり、目の前にアフリカの大地が見え、その征服に燃えていたことです。


Q41 「肉食の普及に伴う香辛料の需要」についてよく「肉食の普及とともに香辛料の需要が高まり…」との説明がありますが、肉食の普及は誰に対しての普及で(富裕層か農民か)、それはどのようにして進んだのでしょうか。

41A 「肉食の普及」は先史時代から現代まで地域によって違いますが、基本的にどこでもみられた現象なので、富裕・農民に関係なくあることとおもわれますから、回答できません。また香辛料も絶えることなくいつの時代にもあります。ただ西欧側がアジアに求めた商品として17世紀ころまで輸入は盛んでした。ポルトガルがインドで得た香辛料は西欧では60倍に売れたので大儲けできます。ただそれが食材が豊富になったせいか、1650年ごろを境に香辛料がふりかかっていれば御馳走という時代がおわります。供給過剰・暴落もあり香料貿易は衰退します。


Q42 なぜオスマン帝国の台頭によって東方貿易が困難になったのか。東方貿易のルートとして、紅海(アレクサンドリア)、ペルシャ湾(バグダード・コンスタンティノープル)というルートがありますが、オスマン以前も、ティムール朝やマムルーク朝、ビザンツ帝国などの支配下にあったはずです。

42A 教科書(詳説)では「ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)」と書いていますが、東方貿易が衰退したとは書いていません。中心の移動ではあっても、貿易衰退とまでは言いにくいのです。東京書籍の教科書では「フランスの商人にも(トルコ)領内での安全保障、免税、治外法権などの特権(カピチュレーション)を与えた。この特権はやがてイギリスやオランダの商人にも与えられ、西ヨーロッパとの交易がさかんになった。このため、世界の交易網の結節点となった首都イスタンブルは、西方世界最大の都市として繁栄した」と書いてあります。東方貿易は衰えていません。英仏の商館が首都やシリア(アレッポ)に建てられました。「地理上の発見」があって南アフリカ回りで行く航路は開かれません。やはり遠回りなのです。地中海→紅海→インド洋、の古い航路も相変わらず使われていて、ナポレオンがエジプト遠征の目的としてイギリスのインドへの道を塞ぐため、ということでしたが、それはこの古い道のことです。まだスエズ運河も開かれていませんが、このことは地中海→紅海→インド洋のコースが使われつづけたことを示しています。2015年センターの第2問cに次のような文がありました(引用文の中の⑦〜⑨は下線部分を示す記号です。」は下線位置)「アナトリア(小アジア)西部の港町イズミル(スミルナ)は、オスマン帝国の支配下で、17世紀半ば以降、⑦イラン産生糸やアナトリア産綿花」などをヨーロッパヘ輸出する拠点として急速に成長した。国際的な一大商業都市に発展したイズミルには、⑧フランス人、イギリス人などの外国商人」が多数居住した。しかし、ヨーロッパとの商取引を支配したのは、オスマン帝国内の非ムスリム商人であり、特にギリシア人は、綿花輪出において中心的な役割を果たした。⑨オスマン帝国から、ギリシアが独立した」後も、ギリシア人は、トルコ共和国成立期に至るまで、イズミルの商業活動の主要な担い手であり続けた。」と。


Q43 16世紀ごろに宗教改革が起こり、あらゆる地域でルター派とカルヴァン派になり、つまりは信仰義認説を重んじる風潮になっていたなか、なぜ同じ時期に主権国家(絶対王政)が興るのでしょうか? 主権国家体制(絶対主義)は王権神授説を基盤としていることと矛盾しませんか?

43A 信仰義認説はルター個人が新約聖書・ローマ人への手紙を読んでいて閃いた考え方で、それが大学の教授たちを主に広がったものです。権力者側ではないです。
 主権国家は14-15世紀の国家間戦争や内戦を通して次第にできてきたもので、百年戦争で英仏の主権国家体制はでき、スペイン・ポルトガルはレコンキスタを通してできたものです。つまり宗教改革以前です。ドイツは遅れて17世紀の三十年戦争後に主権国家ができました。
 ところが国家(国王)が自己の権力をより高めようとしているときに宗教改革が起きました(16世紀)。この宗教改革は教皇の権威から離れる動きであり、教皇(教会)の権威は全ヨーロッパをおおっていましたから、この権威から離れることで自国の権威を高めることが可能になりました。教会も国王は自己の統制下におく、ということです。フランスはカトリックのままでありながら、国王が教会を統制できるよう努力してきました(ガリカニズム=国家教会主義)。実例としては三部会・アナーニ事件・アヴィニョン移転などがそうで、それが16世紀の宗教改革でもカトリックにとどまりながら、教会を国家の統制下におくことができました。もちろん英国は首長法で国王が英国教会の教皇の地位に就きました(英国国教会)。ドイツは領邦ごとの教会(領邦教会)をつくりました。つまりどの国も教皇の権威から離れることで、国内最高の権威を獲得したのです。
 信仰義認説の新教であれ、それを認めない旧教(カトリック)であれ、教皇から離れる、国家内の問題(宗教問題も)に教皇を介入させないという点ではみな一致しています。教皇でもなく教会でもなく、自己の国王としての権威は神から直接きているのだという主張が王権神授説ですが、これはこの教皇の仲介を拒否した主張です。それまでは、神─教皇(教会)─王、でしたが、神─王─教会、の順に上下を位置づけるものです。
 信仰義認説が教皇のそれまでの権威を否定したように、王権神授説も教皇を否定したもので共通しています。
 教会に加わっているだけで、天国行き(救済)を保障していた教会(教皇)は、義認説によって、教会に参加不参加に関係なく信仰のみで義認(救済される資格)が得られるとする説です。
 国王も教会からでなく自己自身の権威で戴冠したかった。時間はずれますが、ナポレオン1世がローマ教皇を戴冠式に呼びながら、教皇がかぶせようとして差しだした王冠をとりあげて自分の手で自分の頭にのせた絵がダビッドによって描かれています。この姿が王権神授説をよく表わしています。


Q44 かつて東方貿易を独占的に支配していたマムルーク朝が1509年のディウ沖の海戦でポルトガルに敗退し香辛料貿易独占が崩れるという一件で、その頃のヴェネチア東方貿易の状況には何かしら影響を与えなかったのでしょうか?セリム1世がマムルーク朝を征服した時はヴェネチアにも東方貿易独占に打撃があったというのに…

44A ヴェネツィアへのオスマン帝国進出による影響は15世紀には出ています。東地中海にオスマンが進出したことで次第に収益が少なくなり、そのことで東方貿易の危機をどう打開するかをめぐって、イタリア諸都市でシニョーレ制(独裁制)が一般的になったのはそのせいです。フィレンツェはメディチ家、ミラノはヴィスコンティ家という風に。その後は書かれたようなマムルーク朝征服、イエメン占領のようなことでますます悪い状況になります。
 ただ今ほど交通・通信網は早くはないので、影響はゆっくり現れていきました。Q42に、その後の東方貿易についての説明があります。