世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室:東欧・ロシア史

東欧・ロシア史の疑問(ビザンツ帝国史も入ってます)

Q1 1480年のモスクワ大公国がキプチャク汗国から自立って、「自立」って具体的にどういうことですか。

1A イヴァン3世が都サライに持って行くべき税収をもっていかなくなり、キプチャク汗国から討伐軍が二回来たのですが、二回ともイヴァン3世がこのモンゴル軍を破ってしまったため、キプチャク汗国としてはモスクワ大公国に対してまったく制裁を加えることができなくなり、事実上独立したことを指しています。キプチャク汗国はまだ滅んでいなかったのですが。


Q2 ロシアの「農奴制マニュファクチュア」ってなんですか?

2A ピョートル1世が急激な近代化をするためにマニュファクチュアの経営者に農奴を買う権利をあたえ、農奴という地位の農民にただ働きをさせてでも工業化をすすめようとしたものです。ロシアらしい賃金労働者によらない企業経営です。


Q3 ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」に興味を持ち、色々調べているのですが、とても基本的なようですがいまだに気になっている事があります。
 ギュンター・グラスはなぜ、ドイツ文学者なのですか? グダニスクはポーランドにあって、グラスの母親もポーランドのカシューブ地方出身ですが、ドイツ語で小説を書いているからドイツ文学者なのですか? まだまだ不勉強なのですが、ブリキの太鼓を読んで、ダンツィヒ生まれと本の頭に書いてあったので、ポーランド人作家だと思ったのですが、何で調べてもドイツ人作家グラスと書いてありますよね。グラスってドイツ人なんですか?

3A ギュンター・グラスの本は恥ずかしながらわたしは読んでいません。ただダンツィヒ(グダニスク)生まれ、ということであれば想像はつきます。母がスラヴ系少数民族・カシュバイ人であっても、グラスの父はドイツ人と書いてありますから、混血ということですね。それに歴史的には、ダンツィヒはドイツ人がつくった都市ですし、この都市よりもっと北のロシア領にあるカリーニングラードという都市には終生このまちを離れなかった哲学者としてカントという人物がいました。つまり中世以来バルト海の沿岸線を開拓したのはドイツ人たちでした。リガという、バルト三国のうちのラトビアの首都もドイツ人がつくったものです。もちろんドイツ語が語られているのです。
 ギュンター・グラスが「あなたはいったい何者か」と問われたとき、「半分はポーランド人、半分はドイツ人、そしてまるでユダヤ人」とかれが答えた、という記事も調べてみるとのっています。小さいときからドイツ語で育ったと思われます。あのダンツィヒの地域はもともとドイツ領だったということです。
 なにかの機会に、あるいは本棚にあれば、世界史の教科書でも歴史地図でもいいですが、中世からずっ〜と開いて見られると、ドイツ騎士団領、後にはプロイセン公国、さらに後にはドイツ帝国の領土としてもでてくるはずです。
 いまとちがってポーランドは中世から第一次世界大戦まで海岸をもっていなかったのです。ドイツ人がたくさん住んでいました。


Q4 「(オスマン=トルコの西方進出によって)東欧では西欧輸出向けの農産物を輸出するグーツヘルシャフトが成立」とあるんですけど、具体的にトルコの西方進出がどのようにグーツヘルシャフトの成立に貢献したのかがわからないので、教えてください。

4A オスマン=トルコの西方進出→グーツヘルシャフトが成立……これは間接的な関連です。トルコの西方進出で東地中海がトルコの海になると、トコロテンのように西欧を海外探険「大航海時代」に押し出していき、それとともに商業革命がおきました。それが西欧に商業・工業を発展させ、発展する西欧で穀物・木材(造船のため)の需要を増して、東欧のこれらの商品がそれまでもハンザ同盟、オランダ商人によって運ばれていたのですが、もっと必要性が増してきて(西欧の14〜15世紀は疲弊していたが)、16世紀の西欧に売るための増産と経営を考え、農民の自由を奪ってでも働かせることにした、というものです。
 教科書で見てみると、三省堂は「プロイセンは、大航海時代の経済変動のなかで西欧に穀物を輸出する後進地域となり、土地貴族(ユンカー)が農民にきびしい賦役労働を課す農場領主制(グーツヘルシャフト)とよばれる大規模農業経営が広まっていた。」と書いています。
 山川の『新世界史』では「経済活動の重心が地中海から西北ヨーロッパに移るにつれて,ヨーロッパの内部で東西の分業がうまれた。ネーデルラント・イギリス・フランスが毛織物や奢侈工業製品を輸出する経済的先進地域となるのに対して,ドイツ東部・ポーランドなど東ヨーロッパが西方への穀物輸出国となった。このため東ヨーロッパでは,領主が,それまで身分的に自由な農民を農奴とし,その賦役で輸出用穀物を生産する農場領主制(グーツヘルシャフト)を採用した。」


Q5 「1863年のポーランドの反乱は1861年のロシアの農奴解放と密接な関係に……」という説明をしてくださいましたよね。なんかようわからんかったんですが、もう一回説明してくれませんか。

5A これはロシア領ポーランド側(当時はポーランドの東側はロシア領だった)の農奴も解放してくれ、という要求です。61年のときはロシアでしか農奴解放はされず、ポーランド側は無視されたからです。


Q6 1846年のクラクフ蜂起というのはどんな事件ですか?

6A このポーランド南部にある都市(西方50kmにかのアウシュヴィッツあり)は、当時はオーストリア領であり、その中で自治権をもった事実上の都市国家でした。しかしオーストリアがこの都市を併合するような干渉を強めたため、市民が反オーストリアの蜂起を起こしたものです。蜂起は失敗しオーストリアに併合されます。失敗の理由はこの都市の貴族(シュラフタ)がおこし、農民の解放も唱えたものの農民は信用せず、貴族にたいして逆蜂起したためでした。


Q7 武装中立同盟っていうのはイギリスに対抗するために結成されたんですか? 中立という名前でも?

7A 「対英武装中立同盟」ともいうように対英です。対英の宣戦布告をした国フランス・スペインを除いた中立国の結束です。ロシアのエカテリーナ2世が提唱し、これにスウェーデン・デンマーク・ポルトガル・プロイセンなどが加盟して、対英の戦いに備えたものです。つまり実戦には参加はしないので中立だが、事実上はイギリスを敵視し、もし英軍とこの中立同盟に加わっている国々と一国でも交戦することになれば、一緒になって戦いますよ、というイギリス孤立化をねらった同盟です。戦ってはいないが、アメリカへの支援同盟です。反英諸国が結束して間接的にアメリカ独立を援助したものです。


Q8 どこの本を見ても、1873年の旧三帝同盟も、81年の新三帝同盟も、その解体理由として、「オーストリアとロシアがバルカン問題で対立したため」とあります。でも、旧三帝同盟の場合は、「露土戦争の結果のサン=ステファノ条約が原因」という具体的な事件を明示してあるのに、新三帝同盟の場合は、どこを探しても具体的な背景、事件が書いてありません。具体的には、どんな対立があったのでしょうか?

8A ひとつはブルガリア事件(1885〜87)をめぐる列強間の対立、二つめはブーランジェ事件(1886)です。
 前者はブルガリアの南のトルコ領であった東ルーメリアのブルガリア人が武装蜂起して独立宣言を出し、かつブルガリア公国との統一を求めました。ベルリン条約を破る動きです。ブルガリア公はこの要求を受け入れたのですが、ロシアは反発しました。しかしイギリスがこの統一を支持表明します。この混乱を利用して西どなりのセルビアがブルガリアに宣戦布告をして侵入してきました。それをブルガリア軍は撃退しただけでなく、ベオグラードにまで進撃する勢いでした。そこでセルビアと同盟を結んでいたオーストリア(=ハンガリー二重帝国)がブルガリアに警告を発して侵入を止めさせ、また和解させました。1886年には親露派の軍事クーデタによって公は退位させられ、この後ブルガリアの政治は長く親露派・独立派・反露派の対立がつづき1887年、次の公にオーストリア出身のフェルディナント(在位1887〜1918)が選ばれました。こうした列強間の対立が1886年の段階で、三帝同盟の来年の更新はおぼつかなくなりました。1887年が更新の年でした。
 もうひとつのフランスにおけるブーランジェ事件は、陸軍大臣に「復讐将軍」ブーランジェが任命され(1886)、独仏戦争の危機が訪れました。このとき上の事件もあり、ロシアが三帝同盟を離れフランスを支援するのではないか、という可能性がでてきました。そこでビスマルクは三帝同盟の更新をあきらめて、オーストリアには秘密の二重保障条約をロシアととりきめることで乗り切ることにしました。


Q9 露仏同盟とロシアのシベリア鉄道建設について質問があります。学校の授業で,「ロシアは露仏同盟を背景にフランスから資本を導入し、シベリア鉄道の建設に着工した」と習ったのですが、実際にはシベリア鉄道の建設起工のほうが先ですよね? そうすると、これはまちがいなんでしょうか?

9A ロシアはドイツ帝国なくしては財政的にやっていけないくらいに依存していました。ドイツが引き受けたロシア国債の割合は3/5〜4/5といわれるくらいの依存度です。ロシア帝国のあらゆる事業にドイツ資本が注入されていた、と考えていいようです。それが91年5月に三国同盟が12年間という長期の期限で更新されると(この5月の末にシベリア鉄道建設開始)、反仏・反露の三国同盟に対抗してロシアとフランスは接近し、91年8月から露仏同盟を結成することになりました。シベリア鉄道建設のスタート時点(着工)ではフランス資本ではありません。


Q10 山川出版社『世界史B用語集』p.242の「ソ連の承認」というところに「イギリスのソ連承認〔9〕1924 労働党内閣による。公式承認1号。」とありますが、左側に書いてある「ラパロ条約」のところにドイツとソ連が条約を結んでいるから、ソ連を承認したのはドイツが第1号なのではありませんか?

10A そうです。ドイツが第1号です。念のため、以前の『用語集』にはドイツが第1号とあったはずなのになぜ消してしまったのか、直接山川出版社に問い、ファクスで送ってもらった返事は以下のようなものでした。
 「ご指摘通り、英国が1924年に承認する前に、独ソ両国は1922年のラパロ条約で国交を樹立しております。従いまして『用語集』で古い版ではそうしておりました。しかし、この出来事を以てソ連が国際社会の一員となった、との見方に疑問を呈する説もございます。1例を挙げますと、小社世界歴史体系『ロシア史』3 p129には、「……ラパロ条約をもって当時の国際秩序のアウトサイダー同志の結合であったからである。……」とあります。従いまして、詳しいことは未だ調査中ですが、現行『用語集』ではこの説によって英国を「公式(引用者、この2字に点々が上に付いています)承認第1号」としているものと思われます。この段、記述が安定せず誠に申し訳ございませんが、事情をご理解頂けますと幸甚です。」
 この返事は答えになっていないですね。この返事をハッキリ言えば、こういうことでしょう。国際秩序が英仏中心でうごいているから、英仏が認めないかぎり「公式」ではないのだ、と。これは「この説」などというものでしょうか? 引用文じたいはなにも第1号であることを否定していません。それに国家というものは独立しており、どの国とどういう関係を結ぼうが他国の知ったことではありません。当時の国際秩序に加わっていようと、いまいと、どんな時代でも国家は一国として国家です。公式も正式も、条約を結ぶ段階では、互いに独立した主権国家と認めるから締結されます。「国際社会の一員となった」と見るかどうかを何も問うていません。どこの国が第1号か、という単純な問題です。別の「説もございます」という言い訳は、まちがいをハッキリ認めたくないときに使う常套句です。


Q11 1919年のパリ講和会議の時の西ヨーロッパとソ連との関係のことなのですが、模試の問題で八つの独立国を示す地図を選ぶものがあって、解説にはヨーロッパを東西に分かつ防波堤の役割を果たしたとありました。これはどういう意味ですか? あとソ連が講和条約に不参加だった理由も教えて下さいm(_ _)m

11A 模試を見ていないですが、8つの独立国とは、「ふぇらりポチはゆこ」うというフィンランドから始まって東欧のユーゴスラヴィアまでの国のことですね。これはドイツとソ連の間に壁として築くことで、ソ連の共産主義が西方に伝染しないようにという壁のつもりです。ソ連が講和条約に不参加だった理由というより、もともと呼ばれなかったのです。また革命干渉戦争の最中でもあり、パリ講和会議は革命干渉会議でもありました。


Q12 なんでソ連は1939年にフィンランドに宣戦したんですか。フィンランドじゃないとだめやったんですか。

12A フィンランドはかつてロシア領でした。ナポレオン戦争のときに火事場ドロボー的にとったところです。ウィーン会議でも認められました。ロシア革命とともに離れたのですが、ヒトラーとの独ソ不可侵条約の秘密協定(バルト三国もソ連がとる)にしたがって宣戦布告をし、とりあげたのです。表向きの理由はレニングラードの防衛でした。勝手なものです。


Q13 ベルリン封鎖で西側の通貨改革が実行されるとソ連は東ドイツの経済混乱をおそれて……って、はて「通貨改革」っていかなるもんですか。

13A 「通貨改革」は、西ドイツの三ヶ国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に中央銀行としてドイツ・レンダーバンクを設立し、新通貨「ドイツ・マルク」を発行することです。1ドイツ・マルク=10旧ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連管理区)では使えない貨幣を流通させることです。経済的な独立宣言です。
 終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。大戦中に通貨量が膨張していたにもかかわらず、物は約1938年の半分しか流れていない。これを打開するために上のような新紙幣と旧紙幣の比率で交換することにしたのです。この通貨改革の安定で闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定をソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」に入るのです。3日後にソ連もドイツ・マルク(オスト・マルク、東独マルクともいう)を発行します。


Q14 ポーランドの「連帯」を封じ込めるためにヤルゼルスキ第一書記が「戒厳令をしいた」とある場合の「戒厳令」とはなんですか。

14A 非常(緊急)時に、軍隊に本来もっていない行政権・裁判権をゆだねてしまうことです。軍政とほぼ同じ意味です。連帯の活動は禁止され多くの活動家が逮捕されました(1981年)。歴史的には、フランス革命中の1791年にはじめて出されたそうです。一般に、戦争・内乱の危機や、戦争でもないのに独裁(全体主義)的な政権が頻繁に発布する法令です。世界史の他例としては、1936年の二・二六事件のとき、フィリピンのマルコス大統領の共産主義にたいする対策として(1972年)、1980年韓国の光州事件のとき、1989年の天安門事件のときなどがあります。


Q15 ビザンツ帝国において、テマ制が崩れた理由を教えてください。コロナトゥスは、異民族の侵入によって成り立たなくなったと思っているのですが、屯田兵制が行われているにもかかわらず、軍管区制はなぜ崩れたのでしょうか?

15A テマ制が崩れたのは、屯田兵が委託された土地を売り出したからです。コロヌスが国から土地をもらい自作農になったのですが、それは元々国有地であり、売ってはならないものですが、階級分解がおき、貧しくなったものは売りはらい、それを買い占める者も現れたからです。唐の均田法と同じで、これも売買で崩れました。その代わり、土地を買い占めた大土地所有者にその地方毎の軍事を委ねたため、各地の軍団長の意味がなくなりました。


Q16 第一次世界大戦の敗戦と独立の混乱期にハンガリーではハンガリー革命が起こったが、ホルティがそれによってできたハンガリー=ソヴィエト共和国を圧殺しました。その後、ハンガリーは1930年代からドイツ、イタリアに接近した、と第一学習社の最新世界史図表に書いてあります。
これは、ハンガリーが独裁体制を固めるために接近した、と考えて良いのでしょうか。

16A ハンガリーはトリアノン条約で旧領の71%を取られて戦後のオーストリア=ハンガリー帝国からの独立が認められました。多くの賠償金もかけられたため、戦後からこのことに対する復讐の思いが強く、それは初めは連合国と友好の姿勢を示したホルティとてかわりありません。
 「独裁体制を固めるために接近」というのは当たらないとおもいます。独裁的な傾向は政権を獲得してからずっとあり、ファシズムの研究者たちはだいたい初めから一人のファシストとして説明しています。むしろ領土回復が何よりの願いで当時の勢いのあるドイツと組んだほうが奪回しやすいと予想を立てたものです。ナチスのユダヤ人絶滅政策には批判的でしたから、必ずしもヒトラーに共鳴しているのでもありません。


Q17 1992一橋大第2問について、「40年代のクラクフ、ポズナニの反墺、反独蜂起、60年代の反露農民蜂起」とあるのは何でしょうか?

17A Q6と共通する問題です。ポーランドは現在の国境とちがい、西はプロイセン領で、南はオーストリア領、東はロシア領と分かれていました。反墺はクラクフ市が南端にあることを地図で確かめられるとわかりますが、ここはウィーン会議でオーストリア領になっていて、ポーランド人はオーストリアに対して反旗をひるがえしたのです。一方キー北部にあるポズナニはプロイセンのドイツに対して反旗を翻しました。これは山川の用語集では、次のように解説しています、

ポーランド独立運動 ③ 1846年、南部のクラクフで革命政権が樹立されたが、ロシア・オーストリア・プロイセンの3国軍に鎮圧された。48年には中西部のポズナニで反乱が発生したが、ロシア軍に鎮圧された。

 ロシアは領域では関係がないのですがウィーン体制の憲兵を辞任するニコライ1世が介入しています。

60年代の反露農民蜂起……これは山川の用語集では次のように書いてあります、
 ポーランドの反乱(一月蜂起) ⑨ 1863 アレクサンドル2世の自由主義的改革に乗じて、ロシア領ポーランドのシュラフタ層がおこした反乱。列強からの援助はなく、農民の支持も得られずに鎮圧された。

 ここで、農民の支持も得られず、としているのは間違いで、ウィキペディアの「一月蜂起」を見られたらわかるように農民も参加しています。農民軍の写真が載ってます。
 昨年出た新しい用語集では、
ポーランドの反乱 ⑥ 1863-64 ロシアの「上からの改革」に乗じて、ポーランドの民族主義者がおこした飾起。蜂起は、ロシア軍の徹底的弾圧とポーランドへの農奴解放令発布により、終息した。


Q18 『練習帳』の大問2(啓蒙専制君主)の解答例や構想メモに共通特徴として宗教寛容策がありますが、ロシアではどの様な宗教寛容策が行われたのですか?

18A エカチェリーナ2世の寛容策で知られているのは、何よりロシア正教ではない信仰、つまり異教徒への信仰自由(寛容)です。これはプロイセンのフリードリヒ2世が即位(1740)と同時に発布した信仰寛容令にひとしいものです。また修道院領を世俗化して国家の管理下におき、領内農民の隷属性をなくしました。他には百科全書の出版支援、各種学校・病院・育児院の設立などがあげられます。


Q19 テマ制の目的について、大土地所有の傾向防止と書いてありますが、普通テマ制というとイスラームへの対抗というイメージですが、両方の利点があるということでよろしいのでしょうか。

19A テマ制をしいた皇帝はヘラクレイオス帝ですが、在位が610-641年です。つまりイスラム教ができたばかり(610)でイスラム教はまだアラビア半島を制圧していませんし、613年にササン朝ペルシア帝国によって領域であったシリア・トルコに迫られていて、戦っています。628年にクテシフォンを奪回しています。晩年にイスラム教徒は襲ってきてこの地域は奪われますが、当初はササン朝やブルガール人との戦いのための防衛体制としてテマ制は作られたものです。
 国内で「大土地所有の傾向防止」というのは聖像禁止令の目的でもあって、禁止令に違反する大土地所有者の修道院・教会の領地を奪ってそこをテマ制の領地にして農民を送り込み、結果的に軍備も強化するという目的をもっていました。(同類の疑問が西アジア・アフリカ史にもありますから、参照してください)