世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

18.11模試の添削

A模試

問題

 古来、ハンムラビ法典や中国の律に見られるように、為政者が被治者を統治するための手段として法が用いられてきた。しかし、13世紀のイギリスでは、貴族らが国王に大憲章(マグナ=カルタ)を承認させたように、法を通じて為政者の権力を統制しようとする動きが見られた。その後、自然権を国家権力の上位に置く思想が現れ、18世紀のアメリカ独立革命やフランス革命を経て、基本的人権を保障する近代国民国家が、欧米に始まり世界各地に広まった。近代国民国家では、被治者の人権を保護するため、法を通じた国家権力の統制が試みられるようになった。しかし、為政者側の抵抗や恣意的利用などによって、対立を引き起こしたり、限界や挫折を露呈したりすることもあった。以上のことを踏まえて、17世紀後半から1910年代までの世界各地で見られた国家権力に対する法による統制の試みについて、その限界や挫折、問題点にも触れつつ、具体的に記述しなさい。600字以内。
 (指定語句→)権利の章典(1689年)・十月宣言・大統領緊急令・大日本帝国憲法・反連邦派・フランクフルト国民議会・変法運動・ロシア=トルコ革命(露土戦争)
(解答例)
イギリスは名誉革命で権利の章典を定め、議会主権の立憲王政が確立した。アメリカ合衆国は三権分立・連邦主義に立つ成文憲法を定めたが、州権主義に立つ反連邦派との対立が起こった。フランス革命では人権宣言を含む1791年憲法で立憲王政を定めたが、続く憲法で共和政を規定するなど政体は不安定だった。ウィーン体制崩壊後のドイツではフランクフルト国民議会で自由主義者が統一と憲法制定を討議したが挫折し、プロイセン主導の統一後、欽定憲法が成立した。オスマン帝国はミドハト憲法を定めたが、ロシア=トルコ戦争を機に停止しスルタン専制に戻った。青年トルコ革命で憲法は復活したが、政治的混乱は続いた。イラン立憲革命は列強の介入で挫折した。明治日本が定めた大日本帝国憲法は、欽定憲法で天皇の広汎な権限を定めた。ツァーリ専制下のロシアでは日露戦争中に革命が起こり、ツァーリが十月宣言で国会開設と憲法制定を公約したが、のち専制へ戻った。ロシア革命で成立したソヴィエト政権は憲法制定会議を開いたが、ボリシェヴィキ独裁へ至った。日清戦争敗北後の清は変法運動で立憲国家を目指したが挫折し、光緒新政下で憲法大綱を発表したが辛亥革命で滅んだ。中華民国では袁世凱が臨時約法を尊重せず独裁的権力を築き、死後は軍閥抗争が起こった。第一次世界大戦後のドイツは、社会権を保障したヴァイマル憲法を定めたが、大統領緊急令はのちに議会を形骸化させた。

▲ 「試みについて、その限界や挫折、問題点にも触れ」という副問は幅が広すぎて何でもありの解答文が可能です。ある法制には限界、別の法制には挫折、さらに問題点をあげてもいいとなれば、誰が採点者か、どんな採点基準であるかによって、恣意的に採点される可能性があります。
 また近代的な憲法なり法制なりが定められた意義を求めているのでなく、あくまで限界・挫折、いわばマイナス面ばかり書かせることになり、これは何か意味があることなのでしょうか? もちろん憲法には権力の「抑制・制限・縛り・対立・抵抗」という面があり、限界・挫折ばかりを言い立てていくことは、それなりに意味があります。この作問者にそういう観点はあるのか、なさそうです。解答例を見るとわかるように、立憲にかかわる事件の羅列史です。

(解答例) 下のように文章毎に分解して分かることはそのアンバランスです。

1 イギリスは名誉革命で権利の章典を定め、議会主権の立憲王政が確立した。……これは課題の「法による統治」なのでしょうが、「対立・挫折・問題点・限界」は一切書いてありません。書かれた文章の内容だけでも「被治者の人権を保護」にどうなっているのか説明不足です。

2 アメリカ合衆国は三権分立・連邦主義に立つ成文憲法を定めたが、州権主義に立つ反連邦派との対立が起こった。……「対立」は書いてありますが、これだけでいいのか? そんな単純な問題なのか? この作問の意図は2009年度の宗教に関して国家と個人、2017年の古代国家の比較、2018年度の女性参政権に刺激されてのこととおもわれ、思い切った良問です。いろいろな解答文が可能という面でも良問です。ただ下の解答例でも見るように余りに表面的・短絡的な解答内容です。

3 フランス革命では人権宣言を含む1791年憲法で立憲王政を定めたが、続く憲法で共和政を規定するなど政体は不安定だった。……革命は試みの連続だから不安定は当り前ですね。それより独裁化(第一帝政)した点を「挫折・限界」として挙げる方がいいのでは? さすれば「為政者側の抵抗や恣意的利用」の実例となるのではないか?

4 ウィーン体制崩壊後のドイツではフランクフルト国民議会で自由主義者が統一と憲法制定を討議したが挫折し、プロイセン主導の統一後、欽定憲法が成立した。……三月革命と統一を話すためのフランクフルト国民議会、プロイセン国王の帝位拒否で挫折でした。次のプロイセン主導も統一問題が第一の課題で、これでは「法による統制」と少し離れたテーマになるのではないか? 三月革命の場合はどこでも挫折したが、プロイセンはこの時点で独自の三級選挙法を定めていて、1848年革命の中で唯一成功した革命と評価する史家もいます。しかし「三級(財産別選挙権)」には進歩した面と差別的な面とが共存する限界をもっていました。

5 オスマン帝国はミドハト憲法を定めたが、ロシア=トルコ戦争を機に停止しスルタン専制に戻った。青年トルコ革命で憲法は復活したが、政治的混乱は続いた。……これは「為政者側の抵抗……限界や挫折を露呈」の実例になるのでしょう。しかし憲法そのものについての意義はないのでしょうか? アジア初の憲法であり、二院制と市民的自由をかかげた民主的なものでした。ムスリムと非ムスリムの平等をかかげていました。復活後の「政治的混乱」は何に起因するのか説明不足です。現象を描いているだけです。

6 イラン立憲革命は列強の介入で挫折した。……これはこれで史実ですが、一文で書いたことの意味はあるのでしょうか? 要するにこうした事例をたくさん挙げよ、という意図がこの文章で示されています。

7 明治日本が定めた大日本帝国憲法は、欽定憲法で天皇の広汎な権限を定めた。……ここには限界・挫折はないのでしょうか? 何か日本国憲法を否定してこれに帰れ、と唱えている日本会議と自民党に共鳴しているような書き振りです。

8 ツァーリ専制下のロシアでは日露戦争中に革命が起こり、ツァーリが十月宣言で国会開設と憲法制定を公約したが、のち専制へ戻った。ロシア革命で成立したソヴィエト政権は憲法制定会議を開いたが、ボリシェヴィキ独裁へ至った。……これはまた長い解答文です。憲法ができるまでの経緯・背景まで描いており、その上で専制復活、ボリシェヴィキ独裁へとしています。ボリシェヴィキ独裁の限界はないのでしょうか? いやこれが限界と言いたいのか?

9 日清戦争敗北後の清は変法運動で立憲国家を目指したが挫折し、光緒新政下で憲法大綱を発表したが辛亥革命で滅んだ。中華民国では袁世凱が臨時約法を尊重せず独裁的権力を築き、死後は軍閥抗争が起こった。……清朝が滅んだのはこの通りですが、憲法という近代的なものの運命としては、清朝滅亡とか軍閥抗争とかより、憲政の必要性が辛亥革命とその後にも約法復活運動として孫文に、蔣介石に受け継がれることのほうが重要なのではないか?

10 第一次世界大戦後のドイツは、社会権を保障したヴァイマル憲法を定めたが、大統領緊急令はのちに議会を形骸化させた。……これはめずらしく憲法の内容たる「社会権を保障した」と書き、またもう一つの内容である「緊急令」もあげて、それが議会形骸化につながるとしています。これだけがこの問題の中で異例なものとなっています。

わたしの解答例
 「法を通じて為政者の権力を統制しようとする動き」と「しかし、為政者側の抵抗や恣意的利用などによって、対立」とあるように為政者と国民(被為政者)のせめぎ合いのような問いなので、これは立憲主義(政府・君主の権威・権力を憲法の制限下に置く)は成立したのか、それを政府・君主は阻止したのかの争いと捉えての解答文にしました。理想的には、問題も各国の憲法制定の意義と限界、というストレートな問題にすべきだとおもいます。
 
英国は権利章典によって議会主権が成立し、18世紀には責任内閣制も成立した。ジョージ3世の反動がありながらも定着した。合衆国は独立とともに中央政府をめぐる連邦派と反連邦派の対立を生んだが連邦派の望む憲法を制定した。だが女性・黒人・先住民を排除したため修正を繰り返さねばならなかった。フランス革命は共和政を志向しながら帝政の「ナポレオン法典」で完結し、二月革命で第二共和政が成立しても第二帝政を生んだ。ドイツはフランクフルト国民議会で決めた統一をプロイセン王の拒否に遭い挫折したが、プロイセンは欽定憲法で三級選挙法、さらに帝国憲法で男子普通選挙を実現した。しかし議会主権は成立せず疑似立憲主義のままであった。大日本帝国憲法はこのドイツを模倣し、天皇に統帥権をもたせたため議会政治を有名無実化する危険性をもっていた。清朝の変法運動は挫折したが憲法大綱を発表した。それは中華民国に受け継がれる。トルコは西欧的な市民権と議会政治を導入するミドハト憲法を制定したが、露土戦争を機にスルタン=カリフが停止した。しかし青年トルコが復活する。第一次ロシア革命の十月宣言で立憲政治が実現したかにみえたがドゥーマは閉鎖された。ロシア革命は立憲主義を実現しつつも共産党独裁に陥った。第一次大戦後のドイツ革命でヴァイマル憲法が制定され、社会権を認めた最初の憲法となったが、大統領緊急令という危険分子はファシズムを準備する。


B模試

問題
 (史料省略──長い史料文は過去問に例がないものです。また内容から特に必要ともおもえない)
 以上の点を踏まえて、19世紀前半から20世紀前半にかけて起きた自由貿易や保護貿易などの貿易政策をめぐる対立や衝突とその結果について、経済的・社会的背景も視野に入れながら論じなさい。解答は解答欄(イ)に20行(600字)以内で記し、必ず次の9つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお数字・アルファべットは1マスに2つまで記入してよい。また国名に関しては、英·米など漢字の略字表記でも構わないものとする。
 (指定語句→)帝国主義 ドーズ案 リスト 経済ブロック(プロック経済) 南北戦争 「十四カ条」 産業革命 広州 GATT(関税と貿易に関する一般協定)
 ※経済プロック(プロック経済)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)については、どちらかを一方を使用すればよい。

解答例
木綿工業を中心に産業革命が進展した英では、議会に進出した産業資本家を中心に自由貿易を推進、工業製品の翰出拡大を目指した。アジアでは清朝がヨーロッパ諸国との貿易を広州のみに制限し公行が取引を独占していたため、英は貿易制限の打破を目指し、アヘン戦争、アロー戦争で清朝を自由貿易体制に組み込んだほか、オスマン帝国にも自由貿易を強要した。ー方欧米では、後進国がリストの主張した保護貿易で英に対抗、独では普を中心に関税同盟を結成、統ー後のドイツ帝国も保護貿易政策を進め、米も南北戦争で勝利した北部が主導して保護貿易政策を採り、両国とも重化学工業中心の第2次産業革命を実現して急速に工業化、英に迫った。1870年代に大不況が始まると、蒸気船など海運の発達を背景に、列強は新たな資源や資本主義輸出先獲得のため帝国主義政策を展開、その対立から第ー次世界大戦を招いた。大戦中、米大統領ウィルソンは「十四カ条」の中で関税障壁の撤廃を訴えたが戦後、米のドーズ案でヨーロッパ諸国の復興が進むと、米は高関税政策を採り、各国も保護貿易で対抗したため世界貿易が縮小、世界恐慌を招いた。恐慌後、各国では経済ナショナリズムが高まり、英・仏・米は経済プロックを構築して保護貿易政策を採ったが、日・独・伊は対外侵略で打開を図ったため、第二次世界大戦に至った。戦後、米が主導してプレトン=ウッズ体制を形成し、自由貿易を推進するためGATTが成立した。(600字)
▲ (1)「議会に進出した産業資本家を中心に自由貿易を推進」はまちがいです。選挙法改正で産業資本家が選挙権を得たとしても、議員になった訳ではありません。自由貿易の推進は地主議員たちが決めたことであり、産業資本家が議席を得るのは20世紀になってからです。勘違いしているようです。
 (2)課題に「19世紀前半から……貿易政策をめぐる対立や衝突」とあるのに、大陸封鎖令とロシアの封鎖令破りと、対抗してロシア(モスクワ)遺征があるのに書いてないのはどうしてか?
 (3)「米も南北戦争で勝利した北部が主導して保護貿易政策を採り」と何か初めて高関税政策を戦争後に始めたかのように書いていますが、1816年の関税法(20〜25%)、1824年(37%)、1828年(40%)と南北戦争以前から高関税でした。これは20世紀になっても一貫した政策で、「米は高関税政策を採り、各国も保護貿易で対抗したため世界貿易が縮小、世界恐慌を招いた」としていますが、第一次世界大戦後も高関税政策は19世紀と同様に続けたのであり(1925年29%(工業製品35%)『近代国際経済要覧』から、恐慌が起きてからの1930年は40%)、これを世界恐慌に結び付けたのはおかしい。戦後に25年頃から西欧が復興して生産量が上がってきたため生産過剰になり暴落が始まりました。関税政策のためではありません。
 解説(② 19世紀後半〜第ー次世界大戦)では「19世紀に工業生産が世界1位だったイギリスが自由貿易政策を推進した点との対比となるので、きちんと論じたい。しかし.世界1位の工業力を誇るアメリカが保設貿易政策を採ると、各国も保護貿易で対抗せざるを得ないため、結果的に世界貿易の編小を招き、これがアメリカ企業の業績悪化につながつて世界恐慌の一因となった」という風に19世紀から1929年の恐慌期まで一気に説明して高関税政策を「採る」と、何か大きな政策転換のように書いていますが、数字はそれを否定しています。

わたしの解答例
ナポレオン1世の大陸封鎖令は自国産業の保護政策であったが、産業革命を推進した英に対抗できず、英は自由貿易政策を進め、それは西欧各国に工業化を促した。米英戦争は米も工業化の契機となり、1830年代から産業革命が始まった。欧州でも工業化が始まり、対英のためにプロイセンが主導してリストの保護貿易の主張を反映した関税同盟を結成した。英は広州一港しか開かない清朝に戦争をしかけて開国させ、自由貿易を強制した。米は南部の自由貿易と北部の保護貿易の対立があり南北戦争に突き進んだが北部の勝利となり、保護貿易政策を行なった。米独は第二次産業革命を推進し、英を追い上げた。しかし大不況が要因となり、欧米列強は帝国主義政策をすすめ、アジア・アフリカに安い資源・労働力と市場を求めた。日本は江華島事件で韓国を開かせ、英独は建艦競争を繰り広げた。こうした市場争奪戦は第一次世界大戦を招き、大戦中、ウィルソンは「十四カ条」で関税障壁の撤廃を訴えた。独の賠償問題に対して米はドーズ案・ヤング案で援助したため、西欧が復興してくると生産過多となり世界恐慌が勃発、米英仏はブロック経済を、日独伊はファシズムという自国経済圏の拡大を侵略で形成しようとした。それが第二次世界大戦に発展し枢軸国工業地帯の爆撃を敢行した。戦後は自由貿易推進と経済破綻防止のために、GATTと世界銀行を設立し、米ドルを軸にブレトン=ウッズ体制を始めた。


C模試
問題
 大唐帝国を中心に形作られていたユーラシア東部の国際秩序は、10世紀に唐の滅亡をきっかけに大きく変容することになった。中国の北方のみならず他の周辺地城でも、新たに民族が台頭し、またそれまで栄えていた諸国が滅亡して新しい政治勢力に代わった。10世紀から12世紀における日本を除く中国の周辺諸地域の政治的動向について、中国の王朝と周辺諸地域の政治勢力との関係にも触れて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答梱に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
解答例
唐が滅亡し五代十国時代になると、中国の北方では契丹が遼を建国して中国東北地方の渤海を滅ぼし、五代の後晋から燕雲十六州を獲得した。その後、遼は燕雲十六州の奪回をはかった北宋に侵入して澶淵の盟を結び和睦した。中国北西辺境ではタングートが西夏を建国し北宋に侵入した後、和議を結んだ。ついで東北地方に興った女真の金は、北宋と同盟して遼を減ぼし、さらに南下して開封を攻略し北宋を滅ぽした。後に金は江南に成立した南宋を臣下とする和議を結び、淮河を国境とした。ー方、朝鮮半島では新羅に代わって高麗が成立した。ペトナムは中国支配から独立し、その後李朝が樹立され宋軍を撃退した。雲南でも南詔に代わって大理が建国された。
▲ 課題に「中国の王朝と周辺諸地域の政治勢力との関係にも触れて」とあるが、それを書いた箇所は一カ所「南宋を臣下とする」だけ。他の国々との関係、すなわち外交関係はどうなったのか、和議(戦争が終わった後の解決)を結んだとしても、それはどういう外交関係を結んだと書いているのか、書いてない。他の国々は興亡史になっていて外交関係は無視しています。というのは、中国と周辺国との外交関係は冊封体制といって、中国皇帝が世界の君主であり、周辺国は家臣という立場をとる、というのが基本なので、それがどう変わったのか、変っていないのか、が中心的な課題であるからです。ちょうどこの問題の時期がそれが変り始める時期なので、この問題も出題されているはずです。

わたしの解答例
蒙古系の契丹族が遼を建国し、後晋の石敬瑭から燕雲十六州を獲得し、11世紀宋とは澶淵の盟で宋兄遼弟の関係を結んだ、これは北アジアを保ちつつ中国領をもつ征服王朝の初めとなった。12世紀にタングート族の西夏・李元昊とは慶暦の和を結び歳幣を納める約束をしたが、関係は伝統的な冊封体制であった。女真族の金・完顔阿骨打に淮水以北を取られ、歳幣を贈る約束の他に外交関係は金君宋臣の関係であった。これは中国史上初めてのことであった。朝鮮は新羅から高麗に代わり、またベトナムは中国の支配から脱却して李朝大越が成立したが、両国とも伝統的な冊封関係であった。雲南は南詔から大理国に代わったが外交関係は冊封体制であった。