世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2019

第1問
 次の文章は、14世紀半ばに書かれた年代記の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 主の生誕より400年あまり、マジャール人がパンノニアに到達してから29年目の年、マジャール人すなわちフン人たぢは、それまで司令官の一人であったペンデグーズの子アッティラを、ローマ人の風習に倣い、一致した意思でもって自らの王に据えた。アッティラは、弟ブダをティサ川からドン川に至る地の太守とし、自らはマジャール人の王にして、大地の怒り、神の鞭と名乗った。(『彩色年代記』より)

問1 10世紀に東ヨーロッパで王国を建てたマジャール人は、この年代記の中で自らをフン人と同ー視し、フン人の王アッティラを自らの起源として位置付けることで、新興勢力である自分たちの由緒を美化した。このマジャール人が建てた王国を含め、カトリックに改宗してこの時期に国家形成した東ヨーロッバの王国を3つ答えなさい。

問2 上に引用した年代紀の記述では、アッティラは、人々の意思で王となったことになっている。ー堂に会した人々(有力者たち)が自らの指導者を選ぶというこの内容は、マジャール人の年代記では『彩色年代記』に先立ち13世紀後半から14世紀にかけて現れた。このことは、西ヨーロッパをはじめとしてヨーロッバ各地で、まさにこの時期に、君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みができたことを反映している。この仕組みとは何か、複数の具体的な事例を挙げ、中世から近代にかけての変化を視野にいれて説明しなさい。

第2問
 第二次百年戦争とも呼ばれるイギリスとフランスとの争いについて、両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史にどのような影響を及ぼしたかを述べなさい。(400字以内)

第3問
 1960年代後半に書かれた以下の文章を読み、下の問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 国父、孫文先生が革命を唱えて以来、すでに70余年になる。われわれはこの間に絶えず敵と戦闘して何回も失敗を重ね、あるいは無数の勝利を得たが、今日もなお最後の成功を得られず、1949年には空前の大失敗。つまりソ連と[ ① ]とは最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠したのである。
 このため、われわれは父祖の地を追われて台湾に撤退したが、決して気を落とさず、今日こそ弱から強、危から安へと転換できる機会であると信じている。
 この大難を経験することによって、われわれでさえ敵に屈服せず、死を誓って奮闘すれば、戦うほど強くなり、さらに大きな勝利を獲得することができるのである。なぜならば、われわれの従事している戦争は革命の戦争であり、国家民族のために独立を争い、同胞のために自由と正義を勝ち取るための戦いだからである。
 われわれは革命戦争が必ず勝利をおさめる信念をもって清朝を打倒し、軍閥を消滅し、そして日本帝国主義をうち破った。今日もそれと同じ信念のもとにソ連を打倒し、[ ① ]を消滅しなければならない。
(蒋経国『わが父を語る』より引用。但し、一部改変)

問1 ①に入る語句を記しなさい。
問2 ここで対立する両勢力の関係と1949年に至るその変遷についてまとめなさい。

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第1問
問1 
 課題は「カトリックに改宗してこの時期に国家形成した東ヨーロッバの王国を3つ」でした。10世紀頃の東欧の3国とは、マジャール人、すなわちハンガリー王国を1000年頃に建国しています。オットー1世とレヒフェルトの戦い(955)に敗れて、後にパンノニアに帰還してカトリックに改宗し、アルパート朝を興しました。この王国より早く960年にポーランド王国・ピアスト(ピャスト)朝ができてます。建国年は中国の北宋と同年です。ベーメン(ボヘミア)も9〜11世紀にかけて建国していて、プシェミスル朝が現在のチェコにあたる地域を支配していました。これが神聖ローマ帝国の一領邦となり、選帝侯にもなりました。三つの二つ書けたら合格です。
問2
 課題は「西ヨーロッパをはじめとして……君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みができたことを反映している。この仕組みとは何か、複数の具体的な事例を挙げ、中世から近代にかけての変化を視野にいれて説明しなさい」でした。要するに身分制議会について説明しなさい、という問題で、一橋は過去問で問うてきたものです。2005年、1981年がそれです。
 時間が「中世から近代にかけての変化」なので代表的な、つまり教科書にのっている国々、英仏の議会史を説明したらいいです。じっさい身分制議会は英国型と仏国型に分けるのが学会での習わしでもありますから。英国はマグナ=カルタからピューリタン革命、責任内閣制、19世紀の選挙法改正で男子普通選挙になるまで。仏国は三部会からフランス革命、第三共和政の普通選挙まで書けたらいいです。教科書の記事をまとめる程度で解答になります。

第2問
 課題は「第二次百年戦争とも呼ばれるイギリスとフランスとの争いについて、両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史にどのような影響を及ぼしたか」で、これは2009年第2問の「18世紀のグローバルな紛争」の焼き直しみたいな問題でした。この過去問にあるような「これらの紛争では先住民や移民など植民地に住む人々や、ヨーロッパの外にある独立諸国が、すでに「主体」として一定の役割を果たしていた」という部分は描かなくてもいいだけ楽かとおもいます。
 背景は植民地争奪戦であり、結末は英国の勝利と獲得地を書き、影響は勝利した英国と敗北した仏国、英国側で勝利したプロイセン王国に分けて書いてもいいでしょう。英国の産業革命、仏国の革命、プロイセンの強国化です。

第3問
問1 空欄は「ソ連と[ ① ]とは最も卑劣……ソ連を打倒し、[ ① ]を消滅しなければならない」と国民党・蔣経国が敵意を剥き出しに語っています。敵は(中国)共産党です。
問2 課題は「両勢力の関係と1949年に至るその変遷」でした。国民党と共産党の対立を結成から、「1949年」の中国から台湾に国民党が追放されるまで書くということで、これも容易な問題でした。
 国民党と共産党ができて第一次国共合作(1924)ができ、孫文の死後、蔣介石が中心になって北伐(26〜28)を敢行、途中の上海クーデタ(1927)で共産党と決裂、北京入城・張作霖爆殺事件で一応の北伐完了。国民党の共産党包囲作戦がはじまり(国共内戦)、そこへ日本軍の満州事変(31)、満州国(32)成立がおき、国民党側からの八・一宣言(35)と西安事件(36)で合作の準備、盧溝橋事件から日中戦争となり第二次国共合作が実現、しかし太平洋戦争がはじまると国民党の共産党への圧迫が加わり、日本撤退(45)後に内先外後再開となり、敗北した国民党は台湾へ(49)となります。

 第1問から第3問まで、一橋らしい詳細で難解な問題がまったくない年でした。昨年の狂問を反省して、こんな問題になったのでしょうか? 毎年こんなだったら良いのに。
 第1問から第3問まで、一橋らしい詳細で難解な問題がまったくない年でした。昨年の狂問を反省して、こんな問題になったのでしょうか? 毎年こんなだったら良いのに。