世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2019

第1問(20点)
 マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡を中心に300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 西アジアで最初の文字記録は、メソポタミア(現在のイラク南部)でシュメール語の楔形(くさびがた)文字によって残された。シュメール人の国家が滅亡した後も、シュメール語は文化言語としてこの地域を支配したセム語系の民族(アムル人)によって継承・学習された。シュメールの文化や言語を受け継いだ古代メソポタミアの社会構造を知る手がかりとなる(1)ハンムラビ法典碑は、アムル人が建てたバビロン第1王朝時代のものである。この王朝は、前2千年紀前半アナトリアに興ったインド=ヨーロッパ語系の言語を使用していた(2)ヒッタイト人の勢力によって滅ぼされた。
 前2千年紀後半になると、(3)アラム人、(4)ヘブライ人、(5)フェニキア人などのセム語系民族の間で表音文字アルファベットの使用が始まり、前1千年紀に入ると、この文字体系が西アジア、ヨーロッパ地域に広まつていった。ギリシア文字の使用は前9〜8世紀に始まり、やがてイタリア半島でもラテン文字が使用されるようになった。前6世紀ペルシアに勃興して(6)西アジアとエジプトにまたがる大帝国を建てた[  a  ]朝では、王の功業などを記録する楔形文字と並んで、行政や商業にはアラム文字が使用されていた。マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の結果、前330年この大帝国は滅亡し、西アジアやエジプトでも一部ではギリシア文字が使用された。古代エジプトで使用されていたヒエログリフが記された(7)ロゼッタ=ストーンは、エジプトを支配していた(8)プトレマイオス朝時代に作成された石碑で、ギリシア語の文章が併記されていたことがヒエログリフ解読の契機となった。
 アラム文字は西アジアや中央アジア地域でその後使用された多くの文字の原型となったが、紀元後7世紀にアラビア半島に興り、その後1世紀余のうちにイベリア半島から中央アジアにまで拡大した(9)イスラーム勢力の支配領域において使用されたアラビア文字は、その最も繁栄した後裔(えい)と呼ぶことが出来よう。アラビア文字は、イスラーム教徒(ムスリム)にとっての聖典『クルアーン(コーラン)』を記す文化的な核心を成す文字とされ、その使用はムスリムの活動範囲と重なって拡大した。イスラームに改宗した(10)イラン系、(11)トルコ系の人々も、アラビア文字の表記をそれぞれの言語に合わせて少しずつ改変して使用した。[  b  ]帝国を廃して成立した(12)トルコ共和国では、1928年からラテン文字に基づくトルコ文字の使用を法律的に義務付けた。中央アジアや(13)アゼルバイジャンで独立したトルコ系民族を主要な構成要素とする諸国の多くも、現代ではラテン文字やキリル文字を基礎とする各国文字を使用している。


(1) この法典碑は1901〜02年にイラン南西部の遣跡スーサで発掘されたものである。当時イラン(国名はペルシア)を支配していた王朝は何か。その名を記せ。
(2) ヒッタイト人の国家は前2千年紀の後半エジプトと外交関係を持ち、それは1887年エジプトで発見された楔形文字によるアマルナ文書にも記録されている。この文書が作成された時代に、従来のアモン神からアトン神へと信仰対象の大変革を行ったとされるエジプトの王は誰か。その名を記せ。
(3) アラム人は大きな国家を形成することなく、シリアの内陸部ダマスクスなどの都市を拠点に交易に従事していたとされる。前1千年紀前半、これらのアラム人を支配下に置き、西アジアで大きな勢力を持つようになった国家は何か。その名を記せ。
(4) 前6世紀、新バビロニア(カルデア)王国の攻撃でヘブライ人の王国(ユダ王国)の首都イェルサレムが陥落、王族や主要な人物はバビロンヘ連行され、捕囚となった。これを行った新バビロニアの王は誰か。その名を記せ。
(5) フェニキア人は海洋民族として活躍した。彼らの活動の根拠地となった現在レバノン領の港市の名を一つ挙げよ。
(6) 前7世紀にカルデアやリュディアと並んで強力となったイラン西部に本拠を置いた国は何か。その名を記せ。
(7) ロゼッタ=ストーンは、ナポレオンの工ジプト遠征の際、イギリス軍の襲来に備えてロゼッタ(ラシード)の城塞を修復中に偶然発見されたものである。1822年にこの石に刻まれた銘文を参照してヒエログリフの解読に成功したフランス人学者は誰か。その名を記せ。
(8) この王朝は前30年ロ一マによって滅ぼされた。ヘレニズム時代、この王朝に対抗してシリアを中心とした西アジアを支配し、前1世紀前半に滅亡した王朝は何か。その名を記せ。
(9) この宗教は南アジアを経て東南アジアヘと伝播し、この地域で多数の信者を獲得するまでになった。1910年代の初め、現在のインドネシアで結成された、この宗教を基盤とする民族運動組織は何か。その名を記せ。
(10) 11世紀の初め、アラビア文字を用いたペルシア語で、神話・伝説・歴史に題材を採った長大な叙事詩『王の書(シャー=ナ一メ)』を書いたイラン東部出身の詩人は誰か。その名を記せ。
(11) この民族の一部は、中央アジアを中心に国際的な交易に従事するイラン系民族と密接な関係を持ち、その民族が用いていたアラム系文字を使用するようになった。そのイラン系民族は何か。その名を記せ。
(12) この国の成立に当たって、アンカラに本拠を置く政府が1923年に第一次世界大戦の連合国と締結し、国境を画定した国際条約は何か。その名を記せ。
(13) 16世紀初頭、現在のイラン領アゼルバイジャン地域で建国し、その後、現在のアゼルバイジャン共和国領まで支配領域を拡大し、十ニイマーム派を奉じた王朝が、16世紀末から首都を置いた都市はどこか。その名を記せ。

B 16世紀半ばをすぎると、明朝は(14)周辺の諸勢力との抗争によって軍事費が増大したため、重税を課すようになり、天災や飢饉なども相侯(あいま)って、各地で反乱が頻発し、次第に支配力を失っていった。1644年、[  c  ]の率いる軍が北京を陥落させると、最後の皇帝であった(15)崇禎帝は自殺し、270年あまり続いた明朝の命運はここに尽きることになった。
 その後中国本土を支配したのは清朝であった。1661年に即位した康熙帝は、呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧した。また、(16)オランダを破り(17)台湾に拠って清に抵抗していた鄭氏政権を滅ぼした。これによって雍正帝・乾隆帝と三代つづく最盛期の基礎が築き上げられた。対外的には、ジュンガルを駆逐してチベットに勢力を伸ばすとともに、東方に進出してきたロシアとのあいだに(18)ネルチンスク条約を結んで国境を取り決めた。また国内では、キリスト教(カトリック)(19)宣教師の一部の布教を禁止したほか、字書や(20)類書(事項別に分類編集した百科事典)の編纂など文化事業を展開した。
 雍正帝のときになると、用兵の迅速と機密の保持を目的に、政務の最高機関である[  d  ]が設置された。1727年にはロシアとキャフタ条約を結び、清とロシアの国境を画定した。
 乾隆帝の時代には、「十全武功」と呼ばれる大遠征が行われた。(21)西北ではジュンガルを滅ぼし、天山以北の草原地帯と以南のタリム盆地を征服した。ー方、南方では台湾・(21)ビルマ(現ミャンマー)・(23)ベトナム・大小両金川(今日の四川省西北部)にも出兵した。これらの遠征は必ずしもすべてに勝利を収めたわけではなく、ビルマ・ベトナムではむしろほとんど敗北に近かったのであるが、それでも清朝はユーラシア東部の大半をおおうような巨大な版図を形成することになった。
 この頃のユーラシア東方世界を考えるとき、注目すべきなのは、チベット仏教が急速に浸透していったことであろう。たとえば1780年、乾隆帝とチベットの活仏パンチェン=ラマ4世の会見が実現すると、元朝の帝師[  e  ]と世祖(24)クビライの関係を再演してみせようとして、パンチェン=ラマはみずからを[  e  ]の転生者と称し、乾隆帝を転輪聖王と称揚した。つまりモンゴル・チベット・東トルキスタン・漢地などをふくむ「大元ウルス」の大領城を「大清グルン」の名のもとにほぼ完全に「復活」させた乾隆帝は、クビライの再来として転輪聖王と認識されたと考えられる。チベット仏教に基づく権威によって王権の正統化が図られたといえよう。
 しかし嘉慶帝・道光帝.咸豊帝の頃になると、清朝の勢力は次第に衰え、19世紀半ば、(25)アヘン戦争とアロー戦争(第二次アヘン戦争)が相次いで発生すると、ヨーロッパ列強との間に南京条約など不平等条約の締結を強いられた。


(14) このような諸勢力のうち、明の北方辺境を侵したモンゴルの君主は誰か。その名を記せ。
(15) この皇帝の祖父の時代、各種の税と労役を一括して銀で納入する方法が広まっていった。この税制は何か。その名を記せ。
(16) 当時オランダがヨーロッパにもたらした中国の陶磁器は世界商品であった。その陶磁器の生産で名高い中国江西省の都市はどこか。その名を記せ。
(17) 台湾は日清戦争の結果、1895年に日本に割譲され、第二次世界大戦後には中国国民党の率いる中華民国政府が移転してきた。2000年には総統選挙によって初の政権交代が行われた。この国民党に代わって政権を担った政党は何か。その名を記せ。
(18) この条約を結んだときのロシア帝国の皇帝は誰か。その名を記せ。
(19) フランス出身でイエズス会に所属し、ルイ14世の命令でこの時期に訪中した宣教師らが測量・作製した中国全土の地図は何か。その名を記せ。
(20) 康熙帝のときに編纂が開始され、雍正帝のときに完成した類書の名を記せ。
(21) 1884年、これらの地に設置された省は何か。その名を記せ。
(22) 18世紀半ばに内陸のビルマ人勢力が建国し、ほぼ現在のミャンマーの国土と等しい領域を支配し、さらにタイのアユタヤ朝を滅ぼした王朝は何か。その名を記せ。
(23) 当時ベトナムでは、北部の鄭氏と中部の阮氏が対立していたが、18世紀後半に起こった反乱によって両者はともに滅亡した。この反乱は何か。その名を記せ。
(24) クビライは日本遠征を行い、その軍には高麗軍も参加していた。現在は朝鮮民主主義人民共和国の南部に位置する高麗の首都はどこか。その名を記せ。
(25) これらの戦争に敗れた清は列強に対して大幅な譲歩を余儀なくされ、国内体制の「改革」をせまられることになった。これを洋務運動という。この運動に見られた、儒教などの精神を温存しつつ西洋の技術を導入するという考えは何か。その名を記せ。

第3問(20点)
 15世紀末以降、ヨーロッパの一部の諸国は、インド亜大陸に進出し、各地に拠点を築いた。16世紀から18世紀におけるヨーロッパ諸国のこの地域への進出の過程について、交易品目に言及し、また、これらのヨーロッパ諸国の勢力争いとも関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 人類は、結婚や相続といった枠組みを通じて、有形無形の財産や権利を受け継いできた。古代ギリシアのポリスでは、参政権は成人男性市民が有し、女性の発言力は家庭内に限られた。これに対して、アテナイの喜劇作家[  a  ]は『女の平和』という作品で、女性たちが性交渉ストライキで和平運動に参画する姿を描き、時事風刺を行った。
 古代ロ一マでは、カエサルの遺言で養子になったオクタウィアヌスが元首政を開始した。そしてこの帝位を継がせる者として、[  b  ]を同じく養子とした。(1)ヘブライ人の王の子孫とされるイエスに対する信仰は、社会的地位において劣るとされた女性や下層民を強くひきつけた。この信仰を中心とするキリスト教は、後の欧州世界を大きく規定した。
 古代末にドナウ川中流のパンノニアを本拠としたフン人の中では、伯父から王位を共同で継承した兄弟王権が成立した。兄ブレダの死後、(2)単独支配者となった王は大帝国を建設したが、その死亡に伴い帝国は瓦解した。東ゴート人は、(3)テオドリックを指導者とし、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。この国はロ一マ由来の制度や文化を尊重したが、後に(4)東ロ一マ皇帝により滅ぼされた。
 フランク王国は、分割相続を慣習とし、カール大帝を継承したルートヴィヒ1世が死亡すると、3人の子の間で闘争が激化し、(5)王国は3つに分割された」。その後、中部フランクが東西フランクに併合され、イタリア・ドイツ・フランスの基礎が築かれた。
 ノルマンディー公国では、フランス貴族との通婚により生まれた次男・三男以下のノルマン騎士が、傭兵や征服者として欧州各地に出かけた。イタリアでは、(6)半島南部とシチリア島の領土を継承した王が、両シチリア王国を誕生させた
 この時期、封建貴族に支配された農奴は、地代として生産物の貢納と、領主の農地を耕作する賦役とを課された上に、結婚税を労働力移動の補償として、死亡税を保有地相続税として支払うなど、(7)多岐にわたる負担を義務づけられた。
 ロ一マ=カトリック教会は、修道士を通じて民衆教化を進めた。教会には、国王や諸侯から土地が寄進され、聖界諸侯が政治勢力となったが、現実的には教会は世俗権力の支配下にあり、また腐敗も進んだ。こうした世俗化や腐敗を批判する教会内部の動きは、フランスのブルゴーニュ地方にあった[  c  ]修道院が中心であった。司教職などを相続や取引の対象とすることや、戒律に反する妻帯慣行も非難の対象であった。
 イングランドでは王位を巡る混乱が生じた。結果的に、フランスのアンジュー伯が(8)ヘンリ2世として即位したが、アキテーヌ女公と結婚しフランス西部を領有するに至り、大陸とブリテン島にまたがる大国が建設された。他方でフランス側では、カペー王家の断絶に伴い、ヴァロア家のフィリップ6世が即位すると、大陸におけるイングランド勢力の一掃を図ったが、これに対してイングランド王(9)エドワード3世は、フランスの王位継承権を主張した
 中世後期のイタリアには、ロ一マ教皇領の北に、コムーネと呼ばれる自治都市が成立した。フイレンツェでは、商人や金融業者などの市民が市政を掌握した。やがて、(1O)有力家系が、その後数世代にわたり寡頭政を敷いた
 北欧では、混乱を平定したデンマークの王女マルグレーテが、ノルウェー王と結婚し、父王と夫との死亡により、デンマークとノルウェー両国の実権を掌握した。さらにスウェーデン王を貴族の要請で追放すると、(11)3国を連合することとなった。これはデンマーク主導による連合王国を意味したが、後にスウェーデンとの連合は解消された。


(1) 『マタイによる福音書』によれば、イエスはヘブライ人の王の子孫とされる。息子ソロモンと共に王国の基礎を築いた王は誰か。その名を記せ。
(2) この王は、カタラウヌムの戦いで西ロ一マ・フランクなどの連合軍に撃退され、イタリアでは教皇レオ1世との会見を経て撤退した。この王の名を記せ。
(3) テオドリックは、フランク王の妹と結婚した。このフランク王はキリスト教(アタナシウス派)に改宗したことで知られるが、その王は誰か。その名を
記せ。
(4) この皇帝はその后テオドラとともに、北アフリカを征服するなど、地中海帝国を再現させた。この皇帝は誰か。その名を記せ。
(5) この王国の分割を決定した条約は何か。その名を記せ。
(6) 伯父と父より継承し、南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か。その名を記せ。
(7) 教会は、農奴からも税として収穫の一部を徴収した。この税は何か。その名を記せ。
(8) ヘンリ2世が開き、2世紀余り続いた王朝は何か。その名を記せ。
(9) エドワード3世がフランスの王位継承権を主張した血縁上の根拠を簡潔に説明せよ。
(10) 金融業で資金を得て、学芸を庇護し、政治権力を維持した一家は何か。その名を記せ。
(11) マルグレーテはデンマークとの国境に近い町に3国の貴族を集め、養子のエーリック7世のもとに3国が連合することを承認させ、その実権を握った。この連合は何か。その名を記せ。

B 世界史の中で19世紀は「ナショナリズムの時代」と言われるように、様々な地域で国民国家の形成が目指された時代だった。しかしそれは同時に、かつてない規模の人々が生地を離れて新天地に向かった「移民の時代」でもあった。エ業化に伴う社会経済的な変動を背景とするこの時代の移民は、(12)16世紀以降盛んになった大西洋を横断する強制的な人の移動と移動先での不自由な労働との対比で、「自由移民」と呼ばれることがある。
 ヨーロッパから海を渡った「自由移民」の代表的な行き先は、アメリカ合衆国(以下、合衆国)であった。合衆国はそもそも移民によってつくられた国であったが、(13)19世紀半ばごろから急拡大した労働力需要は、新たな移民をひきつけ、世紀後半には中国や日本からも多くの移民を迎えた。しかし、(14)これらの新しい移民と旧来の移民やその子孫との間には、摩擦も生まれた。同じころ(15)オーストラリアや南アフリカにも様々な地域から多くの人が移民として向かったが、いずれにおいても白人至上主義の体制が敷かれた。
 19世紀以降の大規模な人の移動を物理的に可能にしたのは、鉄道や蒸気船などの交通手段の発達だった。合衆国では1869年には大陸の東西が鉄道によって結ばれ、大西洋側と太平洋側のそれぞれの港に到来する移民の動きは、国内での移動と連結された。同じころスエズ運河も開通し、地球上の各地はますます緊密に結びつけられるようになった。しかし、こうした陸上および海上の交通網の発達は、人々の自由な移動を推し進めただけではなかった。(16)列強は帝国の拡張や帝国主義的進出のために各地で鉄道建設を進め、原料や商品の輸送のために鉄道を利用するばかりでなく、軍隊を効率的に移動させ抵抗を鎮圧するためにも利用した。それゆえ、(17)鉄道はしばしば、帝国主義に抵抗する民衆運動の標的ともなった
 20世紀に入ると新たに飛行機が発明され、長距離の移動はさらに容易になる。ただし、発明からまもない時期の飛行機の実用化を促したのは、旅客機としての利用ではなく、軍事目的の利用だった。飛行機を使った空中からの爆撃が広範に行われたのは第一次世界大戦中であったが、歴史上最初の空爆は、(18)1911〜12年のイタリア=トルコ戦争においてイタリア軍によって実行された。
 国境を越える人の移動が拡大すると、それぞれの国家は、パスポートを用いた出入国管理の制度を導入して人の動きを管理しようとした。また、(19)大規模な人の移動は感染症の急速な伝播などの危険を増すものでもあったため、各国は港での近代的な検疫体制を整備した。こうした出入国管理や検疫の制度は、その運用の仕方次第で、移民を差別あるいは排斥する手段ともなった。
 このように、19世紀以降に拡大する人の移動とそれを支えた交通手段の発達は、単純に人々の自由な移動の拡大を意味したのではなかった。第二次世界大戦期およびそれに先立つ時期にも、「不自由」な移動は大規模に発生した。その極端な形は、ドイツ国内やドイツの占領地におけるユダヤ人をはじめとする人々の強制収容であったが、「亡命」を余儀なくされ国を出る人々も多数あった。たとえば、(20)著名な物理学者アインシュタインは、この時期に合衆国に亡命した1人である
 (21)第二次世界大戦後も、戦争や内戦により、世界の様々な地域の人が「難民」という形で望まない移動を強いられてきた。アジアでは1970年代後半から80年代に、(22)インドシナ半島で多数の難民が生み出され、多くは合衆国などに向かい、一部は日本にも向かった。
 以上のように見るならば、19世紀以降、今日に至る時代は、大量の「強いられた移動」に特徴づけられた時代とも言えるのである。


(12) この強制的な人の移動について、欧米では18世紀末から19世紀に入るころに反対の気運が高まる。1807年にそのような移動を廃止したのはどこの国であったか。その名を記せ。
(13) (ア)1840年代から50年代にかけてヨーロッパのある地城は合衆国に向けてとくに大規模に移民を送り出した。この地域とはどこであったか、そしてこの地域が大量の移民を送り出した事情とは何か。簡潔に説明せよ。
(イ) 1840年代後半から移民を多くひきつけた合衆国側の事情について簡潔に説明せよ。
(14) 合衆国におけるこのような動きは1924年の移民法に一つの帰結をみた。この法の内容を簡潔に説明せよ。
(15) これら両国が20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位はどのようなものであったか。その名称を記せ。
(16) ロシアがアジアヘの勢力拡大の手段としたシベリア鉄道はある国の資本援助を受けて建設された。その背景には、その国とロシアの同盟関係があった。この同盟は何か。その名称を記せ。
(17) 19世紀末の中国山東省で生まれ、鉄道の破壊を含む運動を展開した集団は何か。その名を記せ。
(18) この戦争でイタリアが獲得した地域は、今日の何という国に含まれるか。その国名を記せ。
(19) 1918年から翌年にかけて、インフルエンザが世界中で大流行し、多数の人が命を落とした。この時期にこの伝染病を世界規模で急拡大させた要因の一つとして、大規模な人の移動があった。その移動はなぜおきたのか。簡潔に説明せよ。
(20) 第二次世界大戦下の合衆国で活動したアインシュタインはその経験を踏まえ、戦後、哲学者ラッセルらとともに一つの運動を提唱した。この運動は何を目指すものであったか。簡潔に答えよ。
(21) 第二次世界大戦後、イギリスの委任統治の終了を機に急増し、現在も世界で最大規模の難民集団をなす人々は何と呼ばれるか。その名を記せ。
(22) この難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化について簡潔に説明せよ。

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第1問
 この問題で一番受験生が困ったのは「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)」という地名だったでしょう。地図を見ながら世界史を勉強してきたひとには容易でしたが、そうでなければ、「4世紀から」の歴史を想起することは難しく、せいぜい10世紀の契丹(遼)ぐらいしか浮かばなかったという受験生も多いはず。朝鮮史を地図とともに学んでいたら、容易に高句麗が想起できたはずです。高句麗がたんに北朝鮮だけの国でなく、マンチュリアで建国して朝鮮半島に南下している国であるからです。
 高句麗は、マンチュリアに住んでいた夫余(ふよ)族・靺鞨(まっかつ)族も支配下においておいていました。首都になったらしい集安(吉林省)も桓仁(遼寧省)も中国側、つまりマンチュリアにあります。
 前漢・新・後漢と国境紛争をしながら台頭し、三国魏と組んで遼東を支配した公孫(こうそん)氏と戦っています。しかし魏とも戦い、八王の乱以後の西晋の混乱を利用して鴨緑江を越えて楽浪郡と帯方郡を併合しています(313)。
 4〜5世紀の広開土王(好太王、391〜412)のときに百済・新羅・倭(任那)との戦いをし、長寿王(413〜491、79年の在位?)のときに平壌に遷都しました。
 6世紀に平壌を中国式の都城制に見習って造りかえ、世紀末から中国を再統一した隋と国境紛争がおきました。2代煬帝が3回の遠征(612、613、614)を敢行しましたが撃退に成功しています。唐の2代高宗も高句麗に派兵しました(645)が撃退しています。
 唐3代高宗のとき、実権は武后にあったさいに新羅と組んで百済が滅亡し(660)、ついで高句麗も滅亡(668)しました。組んだ新羅と唐との唐羅戦争は新羅の勝利となり、唐は撃退されました。
 滅亡した高句麗の遺民は、マンチュリアに退くも、北朝鮮の半分(大同江以北)と中国東北地方と沿海州(ロシア極東の一部)とを領有する渤海国を建国します(698)。初め国号は「震国」でしたが、唐・玄宗に朝貢して「渤海(郡王)」にしてもらいました(713)。10世紀には遼東に台頭した契丹(遼)に滅ぼされます(926)。この滅亡には諸説があり、そのうちの一つが白頭山の噴火との関係です。ヴェスヴィオ火山の噴火を越える灰が朝鮮半島から日本の東北地方・北海道に降り積もったためで、真の滅亡は939年の噴火の年だという説です。日本から渤海への使節が930年代にも派遣されているので926年滅亡説は変だと。
 いずれにしろ契丹(遼)がマンチュリアとともに中国の燕雲十六州まで南下し(936)、このモンゴル系の契丹を、後にジュルチン(女真族)の金(1115〜1234)が南下して宋と組んで挟み撃ちしました(1125)。完顔阿骨打です。マンチュリアと淮水以北を抑え、猛安謀克制で支配しました。
 13世紀にはチンギス=ハンの攻撃、次いでオゴタイ=ハンが攻撃してきて金は滅亡します。受けついだ元朝もマンチュリアを支配しました。
 元朝を北に追放した明朝はマンチュリアをどうしたのか?  3代永楽帝の漠北親征は外モンゴルへの遠征であり、マンチュリアには及んでない。「五出三犁」と誇ったものの、オイラト・タタールたちは全面戦争を避けたのであり、勝手に永楽帝のほうで誇っているだけです。ウィキペディアの「永楽帝」では「中国東北部へ出兵、黒竜江付近まで進出して女真族を支配下に置いた」と書いてありますが、まるで軍事的な征服であるかのようで、誤解を生む書き方です。建州衛という衛所制に組み込んで間接統治しただけであり、征服して直接支配したのではありません。吉川弘文館の『標準世界史地図』にある「属領」という記載が正しい。平凡社の解説「ヌルガンとし【奴児干都司】には、
1409年(永楽7),黒竜江(アムール川)下流の特林に置かれた明の軍政機関。正式には奴児干都指揮使司という。明代の初め,明の影響力がしだいに中国東北部から沿海地方に浸透していったが,永楽帝の時代,ここに居住する女直族を招諭し,女直の部族長に官職を与えるとともに,〈衛〉と呼ばれる組織に編成した。これらの衛所を統轄するための上級機関として設けられたのが奴児干都司である。明から派遣された兵士が常時500人から2000人駐在し,その影響力はサハリンのアイヌにまでも及んだ」とある。軍事的な征服ではなく、「女直の部族長に官職を与える」(引用終了)
とあるように現地の族長を中国の末端官僚であるかのように偽装して「統治」するというやりかたで、唐の羈縻政策と変わりません。
 16世紀に明朝は衰え、この建州衛のにらみも効かなくなり、女真族は完全に独立していました。17世紀にはこの建州衛の女真(女直)から後金ができて、順治帝のときには中国本土の支配者になっていました。

第2問
A 容易な問題が多いなかで、問(10)の『王書』の詩人名を問うたのは奇問にちかいものでした。2014年版の『世界史用語集』には詩人フィルドゥシーも作品の『シャーナーメ』も頻度4で載るようになりました。日本に現存する最古のペルシア語の文書は1217年(北条義時の時代)に渡来したペルシア語の詩句で、『王書』の1節らしい(岡田恵美子『言葉の国イランと私 世界一お喋り上手な人たち』平凡社)。
B 問(17)も奇問にちかいものでした。古い用語集も新しい用語集も頻度3で載っているものです。むしろ李登輝(頻度5)の名を問うべきでした。

第3問
 第3問は欧米史でありながら、インド進出史ということで、アジア史にひとしい問題でした。時間が「16世紀から18世紀」、テーマは「進出過程」でそれに副問として「交易品目」「ヨーロッパ諸国の勢力争い」があります。欧州列強による「進出」は貿易基地を築くことだけでなく、領土の争奪戦があり、また土地と資源の収奪も含みます。植民地化という観点でいえば、経済的な侵略も含み、英国が最終的な勝利者ということになります。
 16世紀のポルトガルはボンベイ(ムンバイ)・ゴア・ディウ・カナノール・コーチン・ジャフナ・コロンボに貿易基地を築き、香辛料を主に交易しました。
 17世紀のオランダはこのポルトガルの基地を奪うことで進出します。コロンボ・ジャフナ・コーチンを奪い、プリカットにも基地を築きました。交易品はインド産と限定していないので、香辛料はもちろんのこと、日本銀を使い中国の絹織物・生糸・陶磁器を仕入れて西欧に送っています。漆器・毛織物・綿織物・工芸品・武器・火薬・船なども。
 17世紀はオランダの世紀でしたが、フランスも来ています。フランスがポンディシェリ(1672)、シャンデルナゴル(1673)に、イギリスはマドラス(1640)、ボンベイ(1661)、カルカッタ(1686)に基地を築きました。この英仏の争いは、インド東南部をめぐる領地争いとなり、カーナティック(カルナータカ)戦争(1744〜48、1749〜54、1758〜63)が3回も争われ、イギリスが勝ちます。といってどこぞの予備校が書いているようにフランスが完全に駆逐されたのではありません。1954年(20世紀)までフランスはこれらの港町を所有していました。
 イギリスは18世紀に、プラッシーの戦い(1757)、マイソール戦争(1767〜69,80〜84,90〜92,99)、マラーター戦争(1775〜82)と征服戦争に勝利していき、同時に各地の綿織物工場破壊と職人殺害を実行していきました。キャラコの刺激を受けて、その物まね(産業革命)を始めた英国は、戦争で現地工業を破壊することによって市場づくりをしたことになります。
  出口治明が『全世界史 下巻(新潮文庫)』で、
一方で長い間、綿織物をほぼ独占して輸出産業の中心にしてきたインドは、すべてが熟練工による手作業でした。蒸気機関を使った機械との競争になったら、もう勝てるはずがありせん(引用終了)
と書いていますが、機械でつくったことが勝敗を決めたのでなく、英国がインドを征服する過程で綿織物業の工場破壊と技術者殺戮を実行したからです。インドで綿織物を生産できないようにしたことが勝利に、植民地化につながりました。大量生産は機械に負けるとしても高級織物は手作業でも優れたものをつくることができます。
 このことは、英国が中国を征服できず、19世紀全体でも南京木綿(nankeen)に勝てず、この中国産の綿布(土布)が流通したことでも証明されています。

第4問
A 空欄bのティベリウスは細かい。できなくてもいい問題です。用語集に載っていません。キリストを処刑したときの2代目皇帝です。
問(6) 「南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か」のルッジェーロ2世も細かい。用語集で頻度1。一冊の教科書にしか載っていないという意味です。
B
問(14) 1882年の「移民法」は中国人を排除し、1924年の移民法はアジア諸国からの移民を全面的に禁止しました。
問(15) 「20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位」は自治領 Dominion といって、白人支配が確定しているところを順次認めていきました。カナダ、オーストニリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、と。
問(22) 「難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化」はもちろんサイゴン陥落(1975)によりベトナム戦争が終結し統一(1976)が北によって実現したため、それを嫌ったひとたちがボートピープルとして大量に脱出したからでした。華僑を主に、100万人を越えるひとたちが、社会主義化と弾圧を逃れて欧米や中国にむかいました。映画『ディア・ハンター』の終わり頃にこの難民の映像が出てきます。
 この問題文は移民と難民をごっちゃ述べていますが、移民と難民の目的・原因はちがいます。わかりますか?
 日本人は移民・難民でできた民族であり、縄文人に一番近いのはバイカル湖の近くに住むブリヤート人で、それにジャワ島地域から北上したもの、弥生人たる中国・朝鮮から亡命・移民してきたものたちの混血です。いやもっと起源をたどれば皆アフリカから出発しています。そういうことは今は分かっているのに、移民・難民を受け入れず、かつ同民族の朝鮮人・中国人を嫌っています。伊勢神宮は新羅のひとたちが造ったのに、「日本精神」の起源のように錯覚しています。なぜこの神宮から朝鮮式土器が出土するのか? 「神宮」という表現自体が朝鮮的な呼び名で、明治になってから、明治神宮・平安神宮と真似していきました。なぜこうも歴史を等閑する「日本人」になってしまったのか?