世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2019

第1問
 1989年(平成元年)の冷戦終結宣言からおよそ30年が経過した。冷戦の終結は、それまでの東西対立による政治的・軍事的緊張の緩和をもたらし、世界はより平和で安全になるかに思われたが、実際にはこの間地球上の各地で様々な政治的混乱や対立、紛争、内戦が生じた。とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至るが、それらの歴史的起源は、多くの場合、オスマン帝国がヨーロッパ列強の影響を受けて動揺した時代にまでさかのぼることができる。
 以上のことを踏まえ、18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 アフガーニ一 セーヴル条約 ミドハト憲法 ギュルハネ勅令 日露戦争 ロンドン会議(1830) サウード家 フサイン=マクマホン協定

第2問
 国家の歴史は境界線と切り離せない。境界をめぐる争いは絶え間なく起こり、現地の生活を無視して恣意的に境界線が引かれることも頻繁であった。このことを踏まえて、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 19世紀半ば以降、南アジアでは英による本格的な植民地支配が進展した。英領インドを支配する植民地当局は1905年にベンガル分割令を制定したが、この法令は、ベンガル州をどのように分割し、いかなる結果を生じさせることを意図して制定されたのかを3行以内で説明しなさい。

問(2) 太平洋諸地域は近代に入ると世界の一体化に組み込まれ、植民地支配の境界線が引かれた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

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(a)地図中の太線で囲まれた諸島が、19世紀末から1920年代までにたどった経緯を2行以内で説明しなさい。
(b)ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 1990年代後半より、中国と韓国の間で、中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立が生じた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、2行以内で説明しなさい。
(b)中国は、渤海の歴史的帰属を主張している。その根拠の1つとされる、渤海に対する唐の影響について、2行以内で説明しなさい。

第3問
 歴史上、人の移動によって世界各地の異なる文化が交わり、知識や技術、ものが伝播し、その結果、人々の生活や意識に変化がもたらされた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。
問(1) アレクサンドロス大王の東方遠征によりエジプト、ギリシアからインダス川に至る大帝国が樹立されると、その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考えが生まれてきた。このような考え方を何というか、記しなさい。
問(2) 季節風の発見により活発になったインド洋交易は、各地の産物のみならず、様々な情報ももたらした。1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物の名を記しなさい。
問(3) ユーラシアの東西に位置した後漢とロ一マ帝国は、何度か直接の交流を試みた。97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名を記しなさい。
問(4) 唐の時代、多くの仏教僧がインドを訪れ、経典や様々な清報を持ち帰った。それらの仏教僧のうち、海路インドを訪れ、インドおよび東南アジアで見聞した仏教徒の生活規範・風俗などを『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名を記しなさい。
問(5) ノルマン人は8世紀後半から海を通じてヨーロッパ各地へ遠征し、河川をさかのぽって内陸にも侵入した。彼らの一派が建てたキエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名を記しなさい。
問(6) インド洋交易の主役となったムスリム商人は、10世紀以降、アフリカ東岸のモンバサやザンジバルなどに居住した。彼らの活動に伴ってアラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名を記しなさい。
問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。また十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)も、貴重な報告書を残している。これらの修道士の名を、冒頭に(a)·(b)を付して記しなさい。
問(8) ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服が、労働力としての酷使や伝染病の伝播によって先住民に災厄をもたらした一方で、アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名を、2つ記しなさい。
問(9) インドの伝統技術によって生産された、ある植物の花から紡がれ織られた製品は、丈夫で洗濯に強く、染色性にもすぐれていることから、17世紀にはヨーロッパでも人気を博し、さかんに輸入されるようになった。この製品の名を記しなさい。
問(10) 宗教の自由を求めて英から北米大陸に渡ったピューリタンは、入植地をニューイングランドと呼んだ。やがて東部海岸地域に英の13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ記しなさい。

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コメント

第1問
 課題は「18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。つまり時間が「18世紀半ばから1920年代まで」、テーマが「オスマン帝国の解体過程」、副次的な要求は「帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。
 まず「18世紀半ば」の段階でのオスマン帝国の領土がどんなものであったかの前提が必要です。導入文に書いてある「支配領域」のことです。教科書では、『詳説世界史B』ならp.195に、『新世界史B』ならp.176に、帝国書院の『新選・世界史B』ならp.179に、実教出版の『高校世界史B』ならp.119に地図が載っています。それぞれ最大版図の時期のもので、「18世紀半ば」では、ピョートル1世にアゾフ市を奪われた(1696)こと、またカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーを失っていること、2点だけは地図に書いてないが、他は「18世紀半ば」でも持っていました。すると一番端の部分は、北アフリカではアルジェリア(なぜモロッコが征服できなかったかはウィキペディアの「サアド朝」を参照)、東はアラビア半島、北ではバルカン半島の西のスロヴェニア、黒海の北岸ではウクライナ南部で、その西方ではベッサラビア(モルダヴィア)の地域が領域になります。
 予備校の「模範」答案では、アルジェリア・チュニジア、クリミア半島以外の黒海北部周辺を書いたものは一例もありませんでした。どうして? 「解体」というのは急激に消滅するのでなく、ゆっくり砕けていく過程が想像されいるはずです。そのためにも「支配領域」が削られていく過程を丹念に描く必要がありました。教科書の地図もちゃんと見ていないため、前提となる「領域」から出発できない。予備校の講師も含めて、これから学ぶひとは地図をよく見て勉強しましょう。

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わたしの授業プリントから



 もう一つの課題として「民族運動や帝国の維持を目指す動き」と2つの要求があり、前者はオスマン帝国自身も自己を守るための「民族」意識の目覚めはあるものの、つまりこれは「維持」にあたるので、ここは主に帝国内諸民族の独立運動のこと。オスマン帝国に対する独立運動が「民族運動」であり、同時にオスマン帝国領をねらう新たな侵略者たる西欧列強に対抗することも課題でした。「民族」側に二つの課題、オスマンからと西欧からの2つの解放運動が必要でした。
 離れていった地域にみな民族運動があるのですが、しかし、民族「運動」らしく描いた解答例は少ないですね。ムハンマド=アリーと、指定語句のアラビア半島のサウード家と、指定語句のフサイン・マクマホン協定にのっかるアラブ人、どの民族とはいえないパン=イスラーム主義を遊説して回ったアフガーニーくらいで、これも指定語句でした。指定語句にないもので民族運動は書けなかったのか? 例年とちがい今年は60字増えたので、書けそうですがね。アルジェリアのアブドゥル=カーディル、エジプトのウラービー、アルバニア人、ユダヤ人、クルド人などです。ユダヤ人の民族運動シオニズムも現在の紛争の要になるものですが、これを書いた解答例も少ない。
 指定語句の多さから、どうしてもオスマン帝国の内政にあたる「帝国の維持を目指す動き」に集中した解答例が多かった。それだったら「とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至る」という過去と現代をつなぐ問題でなくてもよかったのでは?

第2問
 「境界線」の問題は過去問にもありました(1978年)。そこに紛争があり条約が結ばれるから出題しやすいテーマです。
問(1) ベンガル分割令の内容「どのように分割し、いかなる結果を生じさせる意図」を問うています。教科書(詳説世界史)では「イギリスは,ヒンドゥーとイスラームの両教徒を反目させて運動を分断することを意図して,1905年にベンガル分割令を発表した」と意図を書いていますが、「どのように」は書いてありません。東京書籍では双方とも書いていて「イギリスは宗教的な対立を利用して民族運動を分裂させようと,1905年に反英運動の中心であるベンガル州をムスリムの州とヒンドゥー教徒の州に分けるベンガル分割令(カーゾン法)を発表した」とあります。三省堂のは「インド総督カーゾンは、1905年に民族運動がとくに進んでいたベンガル州を、ヒンドゥー教徒の多い西部地域とムスリム(イスラーム教徒)の多い東部地域とに分割して運動を分断した(ベンガル分割令)」とあります。専門書では「地形・言語・経済など多くの点からみて一体をなすベンガルの真中を、なんら特別の必然的理由もなく区切るものであった。たったひとつ、宗派別人口構成からみて、ヒンドゥーの多い地域とムスリムの多い地域を区別する線が、ほぼこの分割線と一致するだけであった(山川『各国史・インド史』)」とあります。この他にベンガルに敷かれていたザミンダーリー制をライヤットワーリー制に変える意図も含まれていました。これは教科書に書いてないので、書けなくてもいいです。

問(2) 
(a)太平洋諸島の「19世紀末から1920年代までにたどった経緯」でした。地図中の引っ込んだ地域にグアム島(米領)があり、他の地域はドイツが取った植民地でした。マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島です。「1920年代まで」ということは第一次世界大戦での変化を書け、ということで、ドイツが失い、日本が委任統治領として取った、ということを書けばできたことになります。ただ、ドイツ領であったビスマルク諸島は英豪の委任統治領になっていますから、すべてのドイツ領が日本のものになったのではありません。

(b)「ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化」は特異な問題でした。もともと英領であったのが1907年に自治領になり、それが「30年代」に入れるとなると、全自治領に該当する新法として、ウェストミンスター憲章(1931)で「完全」な自治、つまり英国本国の承認なしに自主的な憲法制定が可能になりました。自治領優遇により恐慌対策(善隣外交)を円滑にしようとした政策でした。
 今年(2019年)3月15日にニュージーランド、クライストチャーチ市のモスクで50人が死亡した銃乱射事件がおき、この事件に対する首相アーダーンの対応が見事でした。スカーフをかぶり、遺族の話に耳を傾け、有名になりたがっている加害者の名を「名無し」のテロリストと呼び、事件の動画を見ないように呼びかけました。容疑者の人種差別的な「マニフェスト」の所有、配布を禁止しました。憎しみを煽り立てる傾向を抑えようとしていて、こうした姿勢は、愚昧で冷酷なトランプ、ヘイトスピーチを放置する安倍とは対照的です。「事件後すぐの記者会見では、「They are us. 彼ら(殺されたムスリム達)はわたしたち(ニュージーランド国民)だ」と強調し、思いやりや共感、愛を持って対応することを主張し、銃規制と被害者への経済的な支援も公言した。(HUFFPOST、3月26日の記事)」

問(3) 「中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立」についてでした。不思議なことに京大でも今年の第1問に「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡」というテーマが出題されました。

(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、です。
 「4世紀」は高句麗の台頭期であり、313年に楽浪郡・帯方郡を併合しています。しかしその後は南部を支配する新羅・百済との三国抗争を展開し、唐と組んだ新羅に北部に押しやられてしまいました。それで先住の靺鞨族(書けない場合は先住民)とともに渤海を建国します。
 「令和」の出典は万葉集だと喧伝していますが、『文選』にも似た表現があり、当時の渡来人にとっては『文選』に学ぶことは教養でした。歌人たちにとっても教養の一つだったでしょう。編者らしい大伴氏の先祖をたどれば高句麗にたどりつくようです。高句麗は今の北朝鮮にあたります……。「国書」? ラクスマンが国書を持って日本を訪れた、ペリーが大統領フィルモアの国書を徳川幕府に提出した、といった場合の国書は外交文書のことです。国産の意味ではなかった。以下にも
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64241

(b) 「渤海に対する唐の影響」についてでした。初めは「震国」と名乗っていた渤海は唐(玄宗)との外交交渉で「渤海」名を認めてもらっています。2代目は唐と対立しましたが3代目以降は唐の文化・制度を真似ていて、都城の制で上京龍泉府をつくり、律令格式・儒教・仏教を受容し、科挙も導入したらしい。

第3問
問(1) 「アレクサンドロス大王の東方遠征……その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考え」という問いは容易でした。世界市民主義(コスモポリタニズム)です。今は拡大して地球市民と訳したりしています。マケドニア王国の支配下はいった各ポリスは自身のポリスの法を執行することができなくなり、マケドニアの命令に従うことになりました。良く取れば、市民はみな平等だということで、地域主義を打破せよ、ということになります。

問(2) 「季節風の発見により活発になったインド洋交易は、……1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物」は『エリュトラー海案内記』と言われていて、この海はたぶん今アラビア海のことであろうと見られています。「諸港市やそこで扱われる交易品」はウィキペディアの「エリュトラー海案内記」に地図がのっています。英文のほうが詳細な説明をしています。

問(3) 「97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名」とは、班超です。使者は甘英。大秦というローマ帝国には着けなかったようですが、パルティア(安息国)までは到達していて、張騫よりは西方に距離を伸ばしています。

問(4) 「『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名」という易問。南の海に寄って帰ってきたので、水っぽい名の義「浄」さん。玄奘の「奘」ではない。

問(5) 「キエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名」はドニエプル川。この川沿いにキエフ市があります。現在はウクライナの首都です。少し北に事故をおこしたチェルノブイリ原発があります。

問(6) 「アラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名」とあるのでスワヒリ語です。現地の言葉であるバントゥー語とアラビア語が混ざってできました。

問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。インノケンティウス4世が派遣したプラノ=カルピニです。
 十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)……これはルイ9世が派遣したウィリアム=ルブルクです。会ったのがモンケ=ハーンなので、ル(ルイ)ンル(ルブルク)ンモーケ(モンケ)と覚えます。

問(8) 「アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名」はジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ。

問(9) 「インド……植物の花から紡がれ織られた製品」はキャラコ(キャリコ)。

問(10) 「13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ」は難問・奇問でした。合衆国全体の東北地方の端に存在する6州ですが、マサセチューセッツ州は書けても後は書けなくてもいい。他はメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、ロードアイランド州、コネチカット州の5つ。アメリカのひとが東京の周辺の県名を言えないからといって軽蔑すべきことではないのと同じ。