世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

欺史作家の『日本国紀』─2

 p.326に「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」とある。
 「収奪型」でない植民地経営などあるものか。

(1)棉花
「欧米諸国のような収奪型」としては英国のインド支配が典型である。イントがたとえ「豊富」であっても、英国の都合の良いようにつくり変えるていった。つまり、在来手工業を破壊し、英国工業のための原料供給地化・食糧供給地化・英国商品のために市場化する、そのため農業は混栽を止めさせてモノカルチャー(単一栽培)を強制していく、というやり方である。またインドへの課税が最大の収入源で、現地の地主勢力を温存し、下のものに重税を課けて土地を奪っていく。
 教科書(詳説世界史)では次のように書かれている。

 植民地政府の最大の目的は、より多くの富を効率よく収奪することにあった。最大の収入源は地税であった。その徴収に関しては、政府と農民とのあいだを仲介するものに徴税をまかせ、その仲介者に土地所有権をあたえるザミンダーリー制や、仲介者を排除して農民(ライヤット)に土地保有権をあたえ、農民から直接に徴税するライヤットワーリー制などが実施された。

 植民地下の朝鮮を旅した中野正剛は次のような記事を書いている。→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953853 (これは朝日新聞の記者をしていたとき[1909-1916]に書いたものとおもわれ、後に『我が観たる満鮮』政教社として出版、大正4年(1915)、p.23〜26)

 由来韓國時代より綿は全羅南道の特産物……総督府も日本全國に於て適産地なき棉花の栽培が、全南に於て好成績なるを見るより頗る興味を催し百方之が奨励に力を盡せり。今や総督府は全南の九分九厘……原料を悉く外國に仰がざる可からざるは、國家の経済を憂ふる者の常に遺憾となす所なり。今総督府が其管轄區内に棉花の適産地あるを知りて、熱狂して栽培の奨励をなすは、是れ實に國を思ふの至情なり。……又棉花の産出増加せしと共に、著るしく蔬菜雑殻の産出を減じ、農民の生活に不便を来せしは、何人も疑はざる所なり。然れども此等は利の害を償ひて餘りあるを以て、多く悲しむに足らすとするも、全南を以て全然棉花の單一作地とするの不可なきや否やは、大いに考慮せざる可らず。由来棉は暖地の産物にして、如何に之を朝鮮にて奨励するも、到底印度に於けるが如き好成績を収入め得べきに非ず況んや歳によりて早寒の憂あるをや。又朝鮮は地勢上自作自給の小農に適し、決して満洲の如く、或單一なる生産をなし、貿易によりて生活するに適せざるを知らざる可らざるなり。
 以上の説、或いは一半は杞憂ならん。然れども総督府が棉花栽培の奨励より一歩を進めて、例の官権万能主義を振廻し、棉花販売施設を行ふに至りでは、吾人は農民に代りて、其弊に堪へざるを訴えざる可からず。
………………………………………
 これを読んで分かるように、日本で栽培がうまくいかない棉花栽培が「全南」ではうまくいく、「熱狂」している日本人にとってい良いが、朝鮮農民にとっては単一栽培を強制されて「不便……堪へざる」状態だと訴えている。インドと同じやり方だ。
 これは次のような文章に現れている。この文章は綿業だけではないが、朝鮮を造り替えるために、綿業が大きい比重を占めたことがわかる。

 三井系統の南北綿業・郡是製糸・東洋製糸・小野田セメント、三菱系統の朝鮮重工業、ニチメン (日本綿花)系統の朝鮮綿花・全南道是製糸、鍾紡系統の鍾淵紡績、片倉系統の片倉製糸、東拓系統の朝鮮煉炭、浅野系統の浅野セメントスレートなどの14の工場が設立された。この数字は以前と比較してはるかに多く、この時進出した大資本の大部分が1930年代にも朝鮮工業の発達を主導していく資本系統となった。(許粹烈『植民地期朝鮮の開発と民衆』明石書店、p.117)

(2)コメ
 農業でいえば何より「産米増殖計画」について日本史・世界史を学んでいたら知っているだろう。朝鮮半島の米がなければ日本の食卓を維持することはできなかった。山川の『日本史用語集』ではこう説明している。

 日本国内の人口増加と工業化・都市化による米需要の増大や米騒動で露呈された食糧危機に対応するため、植民地朝鮮で行おうとしたコメの大増産計画。1920年から灌漑施設の拡充、耕地整理の強行による安価なコメの内地移出を目指す(「内地」とは日本のこと──中谷の注)。

 コメに関しては、「供出」という名の収奪も盛んに盛んに行なわれた。『百萬人の身世打鈴』(前田憲二他、東方出版)はこの供出の証言に満ちている。一例をあげる。呉昞權(取材日・1997年9月9日、本藉・全羅南道光州市、現住所・同左、生年月日・1922年1月23日、取材者・沢沼紀子と李義削)さんの証言(p.88)。

 その当時はお米は全部供出させられるので、貧しい人はみんな困っていました。お米は貴重ですから、みんな少しでもとっておきたいから隠しておくんですね。そうすると、警察から人がやって来て、土の中に隠しているかどうか、地面を叩いて調べたり、家中を調ぺたりされて、見つかると、牢屋に入れられたり、拷問を受けたりしました。わたしもそういう光景を見たことがあります。全部供出してしまったら、後は配給になるんです。

 もう一人の高成春(女性)(1996年1月1〜3月、本籍・済州島、現住所・東京、生年月日・1916年10月1日、取材日・菅沼紀子と趙顕洙)さんの証言(p.320)。

 日本人の支配として今でもはっきりと目に焼きついているのは、供出の強制のことだ。芋だとか、豚、牛だとか、何でも持っているものは供出の命令がきて、それに逆らうと殺された。わたしの伯父さん、伯母さんがそうだった。年二回ぐらい、供出を迫られ、良いものは何でも出させられた。わたしの伯母さんの家(お父さんのお兄さんの妻)では警察が10人ばかりやって来て、金目のものから食べ物まで何―つ残らないほど取られてしま った。

(3)土地
 土台となる土地の収奪は東洋拓殖会社(略称は東拓)がやったことも学ぶだろう。併合後の土地調査によって農民に所有地の申告をさせ、日本式の書類に不備があったり申告しない場合、その土地をとりあげる。所有権の設定されていない国有地の農民は代々耕作権をもっていたが、それも取りあげ、これらの土地は日本の国策会社である東拓を設立して吸収した。また日本人地主の小作人への地代、全国民にたいする直接税・間接税の高騰も土地を放棄させる原因となり土地を奪った。日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった、といわれるほどであった(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店、p.24)。

 1910〜35年の間に、日本人所有耕地面積は6万9000町歩から45万2000町歩に6.5倍に増加したし、田面積は4万3000町歩から31万2000町歩に7.3倍、畑面種は2万7000町歩から14万町歩に5.2倍増大した。日帝時代を通じて朝鮮の耕地面積はほとんど変わらなかったので、日本人所有地の急増は朝鮮の耕地に日本人の占める割合が急増したことを意味する。(許粹烈、前掲書、p.296)

(4)課税
 収奪の典型例は英国のインド政策と同じで、課税は徹底していた(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配・上』青木書店、p.279)。

1 国税──地税、市街地税、営業税、鉱産税、鉱区税、酒税、所得税
2 地方税──地税附加税、市街地税附加税、戸税、家屋税、車輛税、漁業税、不動産取得税、屠場税、屠畜税、市場税
3 府面費──府税(市街地税附加税、所得税附加税、家屋税附加税、車輛税附加税、戸別税、営業税等)
 面費(地税割または市街地税割、漁業割、鉱業割、雑税割、営業割、林野割など)
4 その他──学校費(地税または市街地税附加金、営業割、戸税附加金、家屋税附加金)
 農会費(会費割および地税割)、水利組合費、各種農業組合費

 秋になると、これらの税と借金取りがやってきた。かれらのことを朝鮮農民たちは「鬼」と形容していた。流民にならざるを得ない農民たちは、半島南部のひとたちは主に日本に、北部のひとたちは中国東北に向かった。

(5)金
 また「資源が豊富ではなかった」は「作家」の無知である。
 鉱山資源が豊富だったことは、ウィキペディアの「朝鮮民主主義人民共和国の鉱業」という記事にある。

日本統治時代
 朝鮮半島における鉱業権出願の件数は韓国併合の前年の1909年から急増し、……朝鮮でも1916年に鉱業権の出願数が前年の3.8倍、1917年にはさらにその2倍に増加している。なお、1906年から1919年までの出願件数のうち、日本人は66%を占め、朝鮮人が37%、その他外国人が3%となっている。

 つまり日本人は鉱山資源を求め、「出願」したのだ。朝鮮半島は金の産地として古くから知られていた。

 日本書紀「神代・上」に「素戔嗚尊曰「韓鄕之嶋、是有金銀。……」(すさのをのみことのたまわく「韓鄕(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金(こがね)銀(しろかね)有り。)と(岩波文庫『日本書紀 巻第一』p.100)。ここを中公クラシックス版では「韓郷の島には、金銀が満ちている」と訳している(p.53)。
 文禄・慶長の役で朝鮮に侵攻した加藤清正は、咸鏡道の檜億銀山で銀を製錬し、豊臣秀吉に献上したという。

 「北朝鮮は黄金の国?」という論文(https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/06_01_02.pdf)には次のような記事がある。

 1986年(明治29年)のアメリカ人グループによる平安北道雲山郡下の鉱物採掘権取得後は,ロシア・ドイツ・イギリス・日本・フランス・イタリアが,時のコリア政府に競って申請し,鉱山開発に着手した。

 列強が「競って申請」するほどであったのだ。

 日本のドロボーたちの会話を紹介しよう。『東洋文化研究』2号(2000年3月、学習院大学)に朝鮮総督府の高官であった穂積真六郎(1914〜41年、理財課長〜殖産局長)と大野録一郎(1936〜42、政務総監)がインタビューアーの宮田節子・朴宗根・姜徳相にたいして応えている場面(p.75〜76)。

宮田 それから、先生(大野のこと)の時期になって鉱山なんかで問題になるのは金(きん)の問題がすごく出てきますね。何回も何回も、金の問題。
大野 そうそう。金はまあ非常にね、金はとにかく非常にとれましたね。
穂積 これもだけどね。金に困って、整理したのは田中さんになってからじゃない?
大野 ああ、その、整理したのはあるんですか、あと。それは知りません。私どもの時分はは掘らせたほうだから。「25トンにする」と議会政治で大見得を切ったんだけど、出なかった。
穂積 75トン。
大野 うーん。
富田 そうそう。
朴宗根 日本全体の産金額の何%ぐらいだったんですか、それは。
大野 朝鮮のほうがむしろ多いぐらいだったね。あれは……。
穂積 あれはね。実際に金は多いし、それは産金増産計画というのは朝鮮が75トンにして内地は55トンにするという……。
姜徳相 李承晩が「金を返せ」なんていうことを言っているけど(笑)、金を返せ……。

 奪ったものは他にもあるが、おいおい説明していくつもりだ。「資源が豊富ではなかった……メリットがなかった」という文章には、他人の家をのぞいて盗れるものはないか探っている、戦前の日本人と変らぬ卑しい目付きがある。
 「朝鮮半島は…」ではなく、豊富でないのは日本である。戦争を起せば資源が枯渇することが分かっていたので、「収奪」に行ったのは日本ではないか。なにを勘違いしているのか?