世界史教室

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2020年度の再現答案

2020年度の再現答案

(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

東大2020
第1問
明代には朝貢体制のもと貿易が行われていたが、大航海時代に入ると、北虜南倭の活動や東南アジア諸国の経済的自立により、海禁とともに朝貢体制が緩んだ。資料Cの通り、琉球は日本と中国に両属していたが、薩摩藩の侵攻や琉球処分により日本に併合された。中国の朝貢国であったベトナムは、資料Bの通りフランスの侵攻を受けたあとも中国を宗主国としていたが、清仏戦争後は仏領に入った。清朝では朝貢貿易が行われていたが、アヘン戦争後の南京条約で公行の廃止と開港をさせられた。中央アジアを清は藩部として管理していたが、ロシアが支配し、露領トルキスタンが形成された。中国は理念上外国を国内の延長とみなしていたが、この頃から外務省である総理衙門を設置した。朝鮮は明に朝貢し、その滅亡後清に服属したが、資料Aの通り小中華として清を夷狄として対抗した。しかし、日清戦争後の下関条約で日本の影響下に入った。マラッカは、明の影響を受けていたが、明衰退後はイスラムの影響を受け、その後ポルトガル、イギリスに占領された。台湾は、清の直轄領であったが、日清戦争後は日本の管理下に入った。日本は、明と朝貢貿易をしていたが、日清戦争後は列強の一員として冊封体制から自立した。

京大2020
第1問
イラン系ソグド人は国際商人としてギリシア人・漢人・イスラム商人などとの交易で活躍した。ソグド人は突厥などの北方民族の保護を受け、シルクロードやオアシスの道を中心に活躍した。ソグド人の活躍によりネストリウス派キリスト教や仏教が中国に広まった。また、コバルト染料が中国に伝わり、後の陶磁器文化の発展につながった。イラン系ササン朝は陸路や海路を支配し、中継貿易で繁栄した。ササン朝美術が中国に伝わり、中国の美術に影響を与えた。ガラス器や織物等の工芸品も中国に伝わり、中国の工芸品のデザインに変化を与えた。ササン朝でマニ教が成立し、中国に伝わり、中国の国際色の強い文化を生み出した。
第3問
1960年代前半にキューバ危機が起こり、アメリカとロシア間での核戦争が起こりそうになったが鎮静した。その後部分的核実験禁止条約が結ばれた。フランスのドゴールは独自外交を進め、条約に締結せず、核兵器を保有した。中国は1950年代後半から始まった中ソ対立や、インドとの領土問題が要因で核兵器を保有した。また、カシミール地方を巡って対立し、両国とも核兵器を製造した。1980年代になるとゴルバチョフがペレストロイカを出し、INF撤廃条約をアメリカなどと締結し、冷戦の終結や、東欧革命の勃発に近づいた。

筑波大2020
第1問
840年にキルギスの攻撃でウイグル人がトルキスタンへ西走した。元々住んでいたイラン系先住民と同化し、トルコ化した。874年にサーマーン朝が成立すると、マムルークという奴隷としてトルコ人を使い、元々マニ教や仏教を信じていたトルコ人のイスラーム化が始まった。アッバース朝もマムルークを使った。また神秘主義教団も布教に貢献した。10世紀にトルコ人が建てたカラ=ハン朝はサーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを統一し、イスラーム化が加速した。11世紀に入るとトルコ系王朝であるセルジューク朝が建てられた。マムルークが軍事力の中心となり、周辺国家へ侵攻した。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしてバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられた。また1077年には同じトルコ系であるホラズム朝が成立した。(355字)
第2問
白蓮教徒による紅巾の乱が起き、元が滅亡した。1368年に明が成立すると、洪武帝の下で朝貢貿易体制と厳しい海禁政策がしかれた。永楽帝の下では朝貢貿易のさらなる推進とともに北元遠征も繰り返し、北元を滅ぼした。その後オイラトやタタールがモンゴル高原で台頭し、のちに北虜と呼ばれるようになった。彼らは明の朝貢貿易体制の制限などに不満を持ち、たびたび華北に侵入する。1449年にはエセン=ハン率いるオイラトが北京を攻撃した。さらに土木の変を起こし、正統帝を捕らえた。16世紀にはタタールのアルタン=ハンがオイラトを攻撃してモンゴルを支配し、1550年には北京を包囲した。17世紀には満州で女真族が台頭し、周辺地域に勢力拡大を始めた。ホンタイジが内モンゴルやチャハル部を支配下に入れた。明の滅亡後、康熙帝は外モンゴルを占領し、ジュンガルを攻撃した。(368字)
第3問
1386年にヤゲヴォ朝が始まった。カシミール大王の下で全盛期を迎え、ドイツ騎士団と戦った。ユダヤ人入植を進めた。ヤゲヴォ朝の断絶後、ポーランド=リトアニア連合王国が始まった。しかし選挙王制の下で弱体化が進んだ。1772年、93年、95年にはプロイセン・オーストリア・ロシアによってポーランド分割が行われた。しかしフランスでナポレオンが皇帝に即位すると、その下でヨーロッパ征服が行われ、ポーランドもワルシャワ大公国としてフランスの保護下に入った。解放戦争後のウィーン会議では正統主義の一環として、ナポレオン体制以前の旧体制に戻ることが決定された。その中でポーランドはまたオーストラリアなどの保護下に入った。1848年革命時にはハンガリーでも革命が起き、ポーランドにも飛び火したが、ロシアに鎮圧された。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約が結ばれた。(374字)
第4問
1623年のアンボイナ事件以降、イギリス東インド会社はインド経営に専念した。カーナティック戦争を戦い、プラッシーの戦いではフランスとベンガル太守を破った。マラーター同盟やシク教徒を制圧し、南インドを支配した東インド会社は、ザミンダールという在地領主に徴税権を与えるザミンダーリー制という近代的徴税制度を導入した。インドの伝統的村落共同体は崩壊した。インドのキャラコに刺激を受けてイギリス本国で産業革命が起こると、イギリス産の機械製綿布がインドに流入した。これによってインドの綿布産業は崩壊した。19世紀に入るとイギリス本国で自由主義的な声が高まり、東インド会社は独占権の縮小や廃止を迫られ、統治権を持つのみの存在となった。そんな中でインド人の傭兵が会社の待遇に不満を持ち、シパーヒーの反乱を起こした。会社軍が鎮圧したが、これにより東インド会社による統治に限界を感じた本国は、東インド会社を解散させた。(400字)