世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2020

第1問
 国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
 以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A〜Cを読んで、例えば、「〇〇は××だった(史料A)。」や、「史料Bに記されているように、〇〇が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい。

 薩摩 下関条約 小中華 条約 清仏戦争 朝貢

史料A
 なぜ、(私は)今なお崇禎(すうてい)という年号を使うのか。清(しん)人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

史料B
 1875年から1878年までの間においてもわが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

史料c
 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。


第2問
 異なる文化に属する人々の移動や接触が活発になることは、より多様性のある豊かな文化を生む一方で、民族の対立や衝突に結びつくこともあった。民族の対立や共存に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 大陸に位置する中国では、古くからさまざまな文化をもつ人々の間の交流がさかんであり、民族を固有のものとする意識は強くなかった。しかし、近代に入ると、中国でも日本や欧米列強との対抗を通じて民族意識が強まっていった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について、2行以内で記しなさい。

 (b) 清末には、漢民族自立の気運がおこる一方で、清朝の下にあったモンゴルやチベットでも独立の気運が高まった。辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて、3行以内で記しなさい。

問(2) 近代に入ると、西洋列強の進出によって、さまざまな形の植民地支配が広がった。その下では多様な差別や搾取があり、それに対する抵抗があった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
 

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 (a) 図版は、19世紀後半の世界の一体化を進める画期となった一大工事を描いたものである。その施設を含む地域は、1922年に王国として独立した。どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを4行以内で記しなさい。

 (b) オーストラリアは、ヨーロッパから最も遠く離れた植民地の一つであった。現在では多民族主義・多文化主義の国であるが、1970年代までは白人中心主義がとられてきた。ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを、2行以内で記しなさい。

問(3) 移民の国と言われるアメリカ合衆国では、移民社会特有の文化や社会的多様性が生まれたが、同時に、移民はしばしば排斥の対象ともなった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要を、3行以内で記しなさい。

 (b) アメリカ合衆国は、戦争による領土の拡大や併合によっても多様な住民を抱えることになった。このうち、1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯について、2行以内で記しなさい。

第3問
 人間は言語を用いることによってその時代や地域に応じた思想を生みだし、またその思想は、人間ないし人間集団のあり方を変化させる原動力ともなった。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家では、前7世紀に入ると、経済的格差や参政権の不平等といった問題があらわになりはじめた。ギリシア七賢人の一人に数えられ、前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者に選ばれて、さまざまな社会的・政治的改革を断行した思想家の名を記しなさい。

問(2) この思想集団は孔子を開祖とする学派を批判し、人をその身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える一方で、指導者に対して絶対的服従を強いる結束の固い組織でもあった。この集団は秦漢時代以降消え去り、清代以後その思想が見直された。この思想集団の名を記しなさい。

問(3) キリスト教徒によるレコンキスタの結果、イスラーム教勢力は1492年までにイベリア半島から駆逐された。その過程で、8世紀後半に建造された大モスクが、13世紀にキリスト教の大聖堂に転用された。この建造物が残り、後ウマイヤ朝の首都として知られる、イベリア半島の都市の名を記しなさい。

問(4) 10世紀頃から、イスラーム教が普及した地域では、修行などによって神との一体感を求めようとする神秘主義がさかんになった。その後、12世紀頃から神秘主義教団が生まれ、民衆の支持を獲得した。その過程で、神秘主義を理論化し、スンナ派の神学体系の中に位置づけるなど、神秘主義の発展に貢献したことで知られる、セルジューク朝時代に活躍したスンナ派学者の名を記しなさい。

問(5) 華北では金代になると、道教におけるそれまでの主流を批判して道教の革新をはかり、儒・仏・道の三教の融合をめざす教団が成立した。これは華北を中心に勢力を広げ、モンゴルのフビライの保護を受けるなどして、後の時代まで道教を二分する教団の一つとなった。この教団の名を記しなさい。

問(6) アラビア半島で誕生したイスラーム教は西アフリカにまで広がり、13世紀以降には、ムスリムを支配者とするマリ王国やソンガイ王国などが成立し、金などの交易で繁栄した。両王国の時代の中心的都市として知られ、交易の中心地としてだけではなく、学術の中心地としても栄えたニジェール川中流域の都市の名を記しなさい。

問(7) 清代に入ると、宋から明の学問の主流を批判し、訓詰学・文字学・音韻学などを重視し、精密な文献批判によって古典を研究する学問がさかんになった。この学問は、日本を含む近代以降の漢字文化圏における文献研究の基盤をも形成した。この学問の名を記しなさい。

問(8) 19世紀半ば頃イランでは、イスラーム教シーア派から派生した宗教が生まれ、農民や商人の間に広まった。この宗教の信徒たちは1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名を記しなさい。

問(9) アダム=スミスにはじまる古典派経済学は19世紀に発展し、経済理論を探究した。主著『人口論』で、食料生産が算術級数的にしか増えないのに対し、人口は幾何級数的に増えることを指摘して、人口抑制の必要を主張した古典派経済学者の名を記しなさい。

問(1O) 19世紀から20世紀への転換期には、人間の精神のあり方について、それまでの通念を根本的にくつがえすような思想が現れた。意識の表層の下に巨大な無意識の深層が隠れていると考え、夢の分析を精神治療に初めて取り入れたオーストリアの精神医学者の名を記しなさい。
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第1問
 東大としては分かりやすい問題を出題しました。一橋の過去問(2015-3)に引用文の後に「問い 下線①皇帝の名前(乾隆帝)を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。(400字以内)」という課題があり似ています。東大の場合は「対外関係の特徴」はすでに導入文に書いてあり、むしろ「崩壊過程(変容)」を「朝鮮とベトナムの事例を中心に」という点が違っています(なお一橋は1998年にも類題を出題していて、これは拙著『世界史論述練習帳new』でも解説しています。p.48)。
 導入文に異議を唱えるひともいそうです。「皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない」という部分です。あるテレビに出演した予備校講師が「朝鮮は歴史において主体性をもったことは一度もない」という趣旨のことを語っていました。「現実と理念」という言い方をこの導入文はしていますが、この講師は「現実と理念」を混同していて、理念が現実(この場合は史実でも可)に勝った見方をしています。なんのことはない、この講師は韓国・朝鮮にたいする蔑視観で歴史を語っているヘイトスピーカーです。
 指定語句の「朝貢」は、そのまま朝貢関係・朝貢貿易という語句でも使用するように、外交上、中国皇帝を上にして周辺国が「臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」のです。儀礼的な関係です。中国皇帝は世界における唯一無二の「天子」という存在であり、天子の恩恵と周辺国君主たちの服従という相互関係は、下賜(かし)と朝貢という儀式的な授受の形をとりました。
 朝貢を政治的な言い換えとして、冊封体制といいます。皇帝から周辺国の君主は自分の地位(官爵、爵位、官号)、国土を認めてもらい、印綬される場合もあります。中国本土は中央集権で支配し、周辺国の支配は印綬した君主に任せる、という前漢・後漢が実施した郡国制の国際版です。
 京都・東山に妙法院という寺があり、ここに明官服類と呼ぶ秀吉が明朝から下賜された服装とその他もろもろの礼服があります。これは明朝使節と会見するために明朝側が用意した服装です。家臣の立場をとらせる儀式のために、「君主」側が家臣のために着るものを用意し、会見のさいにはこれを着てこいという世話のやき過ぎではないか、とおもえる儀礼の重視です。これは朝鮮侵略(壬辰倭乱)が明軍の援軍により三国戦争に発展し、講和をするために明朝側から秀吉を日本国王と認める(冊封する)ために、1596年9月、明の使者(楊方亭・沈惟敬)が大坂城におもむいた出来事です。秀吉に会い、勅諭の伝達、国王としての金印と冠服を授けます。翌日、この冠服を着て明使との饗宴に臨みますが、明使が「なんじを封じて日本国王となす」と告げるだけで、秀吉の願いは無視されたため激怒し講和は決裂した、と伝えられています。「願い」とは、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮王子を人質に、明朝皇女を天皇の妃に、といった横暴なものです。なおこの際、秀吉以外にも配下の徳川家康が都督、毛利輝元・上杉景勝が都督同知、前田玄以が都督検事に任命されており、同じように冠服を授かっています。秀吉のような対決姿勢では儀礼的な外交関係は無理でした。刀を振り回してきた猿が仰々しい礼服を着ても似合いません。
 
 時間が「15世紀頃から19世紀末」で、主問は「アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容」、副問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」でした。
 「近代における変容」とは19世紀の変容とおなじです。18世紀、いや19世紀の前半までつづいた「伝統的な国際関係」は、どう変化したかという問いでした。
 朝鮮の事例は、史料Aに「古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。……わが朝鮮が、……古代の聖王の制度を独り守っている」と儀礼の外交を続けながらも、17世紀に相手が明朝から清朝に変わったため、指定語句の「小中華」思想をもつようになります。夷秋化した中国の清朝も儒教を尊重するものの、皇帝たちは満珠菩薩の生まれかわりと自己認識をしていて、朝鮮からすれば朱子学でない仏教は邪教とみなします。中国の支配者が清朝に代わっても「聖王の制度」の使者として、日本には通信使を送り、中国文化の正統な継承者として中国文明を教えにきました。近代になると、西洋は洋夷であり、日本も倭夷と見なします。これらの夷(野蛮人)に対して自己を守るありかたを「衛正斥邪」と呼びました。
 これらは理念面での説明です。現実は指定語句「下関条約」にあるように、日清戦争という侵略行為があり、その前に江華島事件と日朝修好条規もあります。もちろん「15世紀頃から」なので遡って14世紀末にできた李氏朝鮮が明朝との関係について言及してから、日本との関係にもってきます。
 中国では紅巾の乱が背景となって明朝が成立しましたが、紅巾軍は高麗時代の朝鮮領内にも入り、1362年に開城を陥落させたこともあり、この紅巾軍を追撃して李成桂が台頭します。李成桂は朱子学を奉じ、明朝とは朝貢関係を築きます。上に書いた秀吉の侵略のさいは明軍の援助を受けることで国土の保持になりましが、やたら食糧を請求する明軍に悩まされ、「援軍」だったかどうか怪しいらしい。李朝は北京に朝貢使を派遣し、大きな見返りを得ました。中国王朝への朝貢は、中国側が倍返ししてくれるので経済的利益が大きいので止められない。
 清朝を名のる前の女真族・後金のさいは、伉礼(こうれい、対等の礼)による交隣関係でしたが、清朝と改称して中国を支配すると事大の礼をとります。ホンタイジが鴨緑江を越えて、国王は江華島に逃げたが、降伏して事大の礼をとることになりました(1636)。領土を奪われてはいないものの、君臣関係という和平のかたちをとりました。朝鮮ではこれを「丙子胡乱」と呼んでいます。「胡」ですから蔑視表現です。これから毎年、北京に燕行使という朝貢の使節を派遣することになりました。
 この儀礼関係を破壊したのが明治日本でした。「朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります」と意見書を出していた井上良馨が雲揚号艦長となって朝鮮を挑発し、江華島を占領しました。水の補充は後になって国際的非難を避けるための言い訳でした(『史学雑誌』111巻12号 鈴木淳の論文)。つづく武力の脅威を背景に日朝修好条規(江華条約)を結ばせます。そこには「朝鮮の自主独立」が書いてありますが、これは清朝から離す意図と、日本がコントロールしたいという二重の意図が込められています。
 この段階から「条約関係」というヨーロッパで成立した主権国家同士の関係が東アジアにも波及した、と解答しているものがあります(S,T予備校)。教科書(『現代の世界史A』p.110)でも、アヘン戦争のところで「東アジアの各地域は外国の圧力のもと、1870年代頃までにいわゆる「開国」をおこなって、新しい条約体制へと移行していった」と書いています。条約関係であれ条約体制であれ、これは対等な国家同士の関係を表す表現としては頷けるものの、アジアと欧米列強との関係を説明する場合にはふさわしい語句とはおもえません。この時期の関係をつくったのは武力・暴力であり、城壁だけでなく人間も粉砕する火力・砲弾です。もちろんこの時期ではない時期も戦争はありますが、これほどの圧倒的な力の差がなく、全土を占領するところまで行かなければ共存の道、すなわち兄弟か君臣かの関係を結んで和平にいたりました。こうした関係が許されない、支配か被支配かのどちらかしかない関係が迫られました。条約関係という語句が示唆する対等な国家同士というイメージからは隔たったすがたです。条約調印を迫られた国にとっては必ず不平等条約でした。対等なんてありません。植民地化です。帝国は被征服地を隷属させ、その資源を奪う野獣になります。なぜこういう語句を安易に使うのか? 欧米と中国の関係は南京条約(1842)から不平等条約撤廃の1943年まで主権国家同士の対等な条約関係ではありませんでした。

 しかし出題者側の意図は指定語句に「条約」を加えているので、上で否定した考えで出しているだろう、とは推理できました。
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400138205.pdf
「地理歴史(世界史)」の出題意図に「理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程」と。

 理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程を史料と結びつけながら説明することを求めました。

 しかしこの考えを改めなくてはならないですね。出題者側に対して言っていることです。この時期に「対等」はないのですから。
 日清戦争でも日本側の行動は暴力的でした。甲午農民戦争が全州和約で終息したため、日清両軍の派兵は無意味になり、そのため内政改革を求めることにしましたが、清朝は内乱は鎮静し、内政改革は朝鮮政府の仕事であるから日本軍は撤退せよ、と求めてきました。それに対する日本側の対応は開戦の決定でした。王宮を占領して国王捕虜とし、清軍追放を日本に依頼させるという工作をします。国王は中立宣言をしますが、無視して仁川の清朝海軍の攻撃をはじめ上陸します。秋になって農民は日本軍にたいして再蜂起します(第二次農民戦争)。遼東半島にも進撃して旅順虐殺事件もおこしました。台湾に関しては、下関条約で認められても、その時点では台湾は台湾民主国独立宣言を出していましたが、これに樺山資紀(すけのり)が戦闘をいどみ日本領にしてしまいました。台湾征服戦争と呼ばれます。台湾人1万4000人が殺害されました。下関条約でも朝鮮の「独立」が書かれますが、日本軍の駐留する下では無意味になります。儀礼外交は砲弾によって破られ支配─被支配の関係に変容しました。
 
 史料Bは「わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した」という部分に、ベトナムでは従来の朝貢関係が維持されていたことを示しています。この儀礼外交の時期が「1875年から1878年」とあるので、清仏戦争(1884〜85)が待っています。それまで、つまり15世紀の中越関係をたどれば、黎朝大越(1428〜1789)も明朝に服属し、西山朝(1773)を経て、阮朝(1802)も服属しました。阮朝成立に貢献したフランスが仏越戦争に勝利してサイゴン条約(1862)、そしてユエ条約(1883、1884)を結んで獲得すると、清朝が宗主権を唱えて清仏戦争に発展しました。結果、敗北した清朝は天津条約でフランスの宗主権を認めた、ということになります。教科書的な話ではないのですが、「戦争(清仏戦争)全体は必ずしも負けていたわけではないのに、李鴻章は清朝のために自分の郷勇を使いたくなく、「負けたことにしてくれ」とフランスに頼み、和平に走りました。日本の朝鮮半島への圧力が強くなっていたことも背景として存在しました」と拙著『センター試験・各駅停車』で書いてます。清朝の強さの理由は、洋務運動の効果が現れていた、といわれます。事情はどうあれ、ここに仏領インドシナ連邦が成立します(1887〜1945)。

 史料cでは琉球が朝鮮・明朝・日本と関係していたこと、そのうち明朝・日本との関係を指して「二つの中間」と両属関係であったことも示しています。位置的にも「諸外国との間の架け橋」であると貿易立国であることを書いています。2016年に沖縄教育委員会は、ローマ帝国(3〜4世紀)とオスマン帝国(17世紀)の金属製の貨幣(コイン)計5点(ローマが4点)が出土したと発表しました。古くからの貿易立国であることが証拠だてられました。
 ここに日本の暴力が加わります。1609年、薩摩藩の島津氏が約3000名の兵を率いて奄美大島、ついで沖縄本島に上陸し、首里城に進軍しました。琉球側は抵抗したが敗れます。この時の戦いは山下文武『琉球軍記薩琉軍談』(南方新社)に「鉄砲三百挺が一度に打ち続けたところ百千の雷が一度に落ちたかのように黒煙は天をおおい音は地に轟き渡った」と攻撃のようすを描いています。抵抗する琉球側の部将のことばも記されていて、「賤奴がいわれもない戦を起し、当国へ乱入してきた事は憎きに余りあることだ。琉球国で万夫不当と言われた私が、将軍千戸候泰物という者である。倭賊の奴等に手並を見せて仕わそう」と。ここに日本・薩摩を「賤奴」「倭賊」と蔑視した表現がつかわれています。首里を訪れると赤い「守礼門」という竜宮城の門のようなものが建っていて門の上に「守禮之邦」と大書してあります。平和にくらしてきた琉球のひとたちが、乱世の戦場を勝ち抜けてきた尚武の日本国と戦うには、その武器と残忍性に勝てる訳がありません。平和に生きる生き方の一つが禮(礼)を尊び、礼を交わし、尚文であった琉球。それと日本とでは対照的でした。この日本の尚武の観念、いいかえれば「強い男」を発揮せねばならない、攻撃的であれ、暴力をエスカレートせよ、という理念は20世紀までつづきました。東條英機の『戦陣訓』(1941)には「尚武の伝統に培(つちか)ひ、武徳の涵養(かんよう)、技能の練磨に勉むべし」と。いや21世紀にも陸上自衛隊のエンブレムを見れば継承されていて、かれらが何を誇りにしているかは、刀が示しています。
https://www.mod.go.jp/gsdf/about/mark/index.html
 さて薩摩に攻められて以降、琉球王国は薩摩藩への貢納を義務づけられ、江戸に使節を派遣しなければならなくなりました。その後、明朝に代わった清朝にも朝貢をつづけ、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を発展させました。
 また19世紀にはアメリカと琉米条約 (琉球米国修好条約、1854)をペリーと結んでおり、フランスと琉仏修好条約(1855)を、オランダと琉蘭修好条約(1859)を締結しています。琉球王は初め条約締結を拒否しましたが、日米和親条約の締結を知りペリーの要求を受け入れることにしました。アメリカ議会は翌年これを批准しており、正式に独立国としての扱いをしました。しかし3条約とも明治政府が没収します(1874)。この没収ももちろん武力によります。琉球処分官の松田道之が約600人の兵で、首里城の明け渡しを要求し、琉球藩の廃止して沖縄県の設置を強行しました。

 課題が「朝鮮とベトナムの事例を中心に」と副問にありながら、史料cも含めて「論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい」とあり、二つ以外も挙げていいとしています。琉球だけでなく、清朝と周辺国との関係は儀礼的な関係としては理藩院が管轄した蒙古・青海・西蔵(チベット)・新疆の4藩部があり、これらも間接統治地域でありそれぞれの首長を認可して、清朝の官職を与えて自治を許した点は儀礼的な関係です。蒙古ではジャサク、回部ではベグ、西蔵ではダライ=ラマかパンチェン=ラマの従来からの支配認め、中央では理藩院をおいて管轄したとしても、基本的に不干渉主義でした。合格者の再現答案では、トルキスタンのことを書いていますが(→こちら)、琉球と同様に中国がかかわったところは書いてもいいのです。

第2問
問(1)(a) 「漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について」という時間のずれた問いです。武帝は前141〜前87年のひと。つまり前2世紀後半から前1世紀にかけての皇帝です。しかし問いは「前3世紀末頃」とあり、これだと冒頓単于と前漢の建国者・劉邦の対立があった時代です。始皇帝が死んで1年目に陳勝呉広の乱がおき、同年に冒頓単于が即位します(前209年、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂「陳勝・冒頓はブ2レ0ーク9」)。父(頭曼単于──書けなくていい)を殺して蒙古の支配者となり、内蒙・東北にいた東胡や敦煌の月氏など黄河の北・西にいた部族を制圧し、オアシス都市を支配下におきました。劉邦はこれを撃つべく派兵したものの包囲されて危機に陥り、兄弟の関係を結んで和平としました。兄が冒頓単于です。これは白登山の戦いといわれるものです(前200)。

 (b)「辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて」……盲点をついたような問題です。
 教科書(詳説)では「中華民国は、清朝の領有していた漢・満・モンゴル・チベット・ウイグルの諸民族が居住する地域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きがおこり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、13年にはチベットでダライ=ラマ13世が独立を主張する布告を出した。しかし24年にソヴィエト連邦の影響のもとモンゴル人民共和国を成立させた外モンゴルをのぞき、その他の地域は中華民国のなかにとどまった」と書いています。

問(2)(a) 図版は「19世紀後半……その施設を含む地域は、1922年に王国として独立」とあるのでスエズ運河が推理できます。課題は「どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを」で易問でした。完成は1869年でアメリカの大陸間鉄道と同年(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「運河・鉄道で、ひと1は8ロ6ケ9ット」)です。この運河の株買収と反発したウラービー(オラービー)の乱(1881)があり、イギリス軍に鎮圧されます。

 (b) 課題は「オーストラリア……ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを」です。経緯も過程も流れです。クックの到達(1770)、その後は英領の流刑植民地(1788)、先住民のアボリジニ(アボリジナル・オーストラリアン)を虐殺・追放して牧羊地を広げ、金鉱発掘(1850年代)もあり、白人たちの入植が増加し、オーストラリアを白人で独占する方針、すなわち先住民とアジア系移民を制限する白豪主義を採ります(1870年代〜1970年代)。なおアボリジニもアメリカのインディオと同様に西欧人の到来で主に天然痘に免役がなく人口大減少(90%)がおきました。白豪主義というオーストラリア型のアパルトヘイト政策について、2008年にオーストラリア政府はアボリジニに謝罪をしました。
https://www.afpbb.com/articles/-/2350297

問(3)(a) 課題は「1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要」でした。移民排斥運動としては、イタリア人移民への差別事件としてサッコ・ヴァンゼッティ事件(1927年死刑)があり、KKK(産経ではなく、クークラックスクラン)による黒人リンチ、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否・隔離・転校強制などがあります。政策としては、移民法(1924)があり、南欧・東欧系の移民割り当て(第一次世界大戦前の80%削減)、アジアからの移民は全面禁止でした。

(b)課題は「1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯」でした。年代は米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)を示しています(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「米が墨を、一1番8白46くする」)。すでにスペインから独立している白人の国を白人の合衆国が「膨張の天命(明白な使命)」と唱えて征服します。経緯としては10年前にメキシコ領に合衆国市民が入って独立宣言をし、1845年に合衆国が併合してしまう、という暴挙に、国境の川をめぐる争いから戦争に発展しました。合衆国が勝ち、グアダルーペ・イダルゴ条約を結び、すでに取っているテキサスとともにカリフォルニア、ニューメキシコ(さらにワイオミング、ネバダ、ユタ、アリゾナ、コロラドの大半)も取りました。

第3問
問(1) 「前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者」とあればソロン。
問(2) 「身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える」とあれば兼愛を唱えた墨家。
問(3) 「後ウマイヤ朝の首都」コルドバ。
問(4) 「神秘主義を理論化……スンナ派学者」は少々細かいがガザーリー。
問(5) 「金代になると、……道教の革新」とあれば全真教。「全真教」はいつできた? 「金真教」とおぼえる。
問(6) 「中心的都市……ニジェール川中流域の都市」はトンブクトゥ。
問(7) 「精密な文献批判によって古典を研究する学問」は考証学。問(2)の墨家を発見した。
問(8) 「1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名」はバーブ教(『世界史年代ワンフレーズnew』』「ハーブ、一葉四葉」)。
問(9) 「主著『人口論』」ならマルサス。
問(1O) 「夢の分析」とあればフロイト。それまでヒステリーは女性特有の病気とみなしていたのですが、第一次世界大戦が終わって帰国した兵士たちの異様な行動を観察して、男性もヒステリーにかかることを見つけます。当時は Shell Shock (戦争後遺症、砲弾ショック、戦場ショック、戦争神経症) と呼ばれた症状です。今ならPTSD(心的外傷後ストレス障害)と表現するもの。帰還兵の症状は下の動画で見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=IWHbF5jGJY0
 日本人もこの症状はあり、NHKの「ETV特集 アンコール「隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259620/index.html
は日中戦争での実状を千葉県の国府台陸軍病院・国立下総療養所と中国・太原の陸軍病院の記録と映像で詳説しています。数が数えられない知的障害者を500人も徴兵しました。狂った日本軍のすがたです。