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京大世界史2021

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
 16世紀、ヨーロッパ人宜教師による中国へのキリスト教布教が活発化した。この時期にヨーロッパ人宣教師が中国に来るに至った背景、および16世紀から18世紀における彼らの中国での活動とその影響について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 関中盆地は、中原から見れば西に偏しているが、遊牧世界と農耕世界が接するユニークな位置にあった。紀元前4世紀半ばに盆地の中央部、渭水北岸の[ a ]に都を置いた秦は、(1)他国出身者を積極的に登用して富国強兵政策を断行し、中央集権的な国家体制を指向して、急速に国力を高めていった。また秦は、早くから騎乗戦術を導入したが、これは(2)騎馬遊牧民との接触・交戦を通じて獲得したものとされる(3)始皇帝による天下統ーは、こうした基礎の上に成し遂げられた。
 (4)始皇帝の没後、各地で反乱が起こったが、この混乱を収めてふたたび天下を統一した漢は、新たに長安に都を定めた。武帝の時、漢は匈奴を撃退し、その勢力を(5)西域にまで拡げ、長安は東西交易でも栄えた。[ a ]とは渭水をはさんだ対岸に位置するこの都は、王莽の時代には「常安」と名を改めた。王莽は、(6)儒教の理念に基づいた国制の実現を試みたが、急激な改革は大きな混乱を招いた。紀元後18年に起こった[ b ]の乱を契機に、各地で農民や豪族の反乱が起こり、王莽は敗死、常安も戦乱により荒廃した。
 後漢が[ c ]に都を置いて以後、長安が政治の中心となることはほとんどなかった。この都市がふたたび政治史の舞台となるのは、4世紀半ばのことである。氐族がたてた前秦が長安を都とし、華北統一を達成したのである。しかし、符堅がいだいた中華統一のもくろみは、(7)淝水の戦いに敗れたことにより敢えなく潰えた。前秦の滅亡後、長安には、羌族のたてた(8)後秦も都を置いた。
 その後、華北は北魏によって統一されたが、6世紀前半、[ c ]から逃れてきた孝武帝を武将の宇文泰が長安に迎えたことが契機となって、北魏は東西に分裂した。宇文泰は西魏の皇帝を奉じつつ、事実上の統治者として(9)国力の充実に努めた。彼の死後、禅譲によって成立した北周も長安を都とした。(10)北周の武帝は、対立していた北斉を滅ぼして華北を統一したが、その直後に急死し、程なく皇帝の位は(11)外戚の楊堅へと移る。
 北周を滅ぼした楊堅は、前漢以来の長安城の一隅で即位するが、その直後に新都造営を命じた。[ d ]と命名されたこの都城は、旧都の南東に位置する台地上に建設された。この都こそ、平城京・平安京の範となったものである。


 (1) 前4世紀、他国から秦に移り、孝公の信任を得て法家思想に基づく政治改革を行った人物の名を答えよ。
 (2) 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、黒海北岸を中心とする地域に遊牧国家を形成した騎馬遊牧民のことを記録に残している。特有の動物文様をもつ金属工芸品や馬具・武具などの出土遺物で知られるこの騎馬遊牧民は、何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
 (3) 始皇帝は天下を統一すると、秦の貨幣を全国に普及させるよう命じた。この貨幣の名称を答えよ。
 (4) これらの反乱勢力のリーダーのうち、漢をたてた劉邦と覇を競った、楚国出身の人物の名を答えよ。
 (5) 中央アジアの大月氏との連携を求め、武帝が使者として西域に派遣した人物の名を答えよ。
 (6) 後漢時代、儒教経典の字句解釈についての学問が発達した。この学問は何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
 (7) 383年、この戦いで前秦を破った王朝は何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
 (8) 後秦のとき「国師」として長安に迎えられ多くの仏典を漢訳した、中央アジア出身の人物の名を、漢字で答えよ。
 (9) 宇文泰が創始した兵制で、のち隋唐王朝でも採用された制度は何か。その名称を答えよ。
 (10) 北周の武帝は、北斉を滅ぼしたのち、北方の遊牧勢力への遠征を企図していた。6世紀半ばに柔然を滅ぼしてモンゴル高原の覇者となり、北周・北斉にも強い影響力をもったこの遊牧勢力は、中国史書には何と記されているか。その名称を漢字で答えよ。
 (l1)「外戚」とは何か。簡潔に説明せよ。

B 西アジアとその隣接地域は歴史上様々な人間集団が活動した空間であり、そこでは外来の文化と現地のそれが融合し、新たな文化が形成されることもあった。紀元前4世紀後半、アレクサンドロス大王は(12)東方遠征を行って、ギリシア、および、エジプトからインド西北部に至る大帝国を建設した。彼の死後、その領土は(13)3つの国へと分裂したが、これらの地域では(14)ギリシア的要素とオリエント的要素の融合した文化が成立した。
 のち、7世紀初頭には、アラビア半島のメッカでイスラーム教が誕生した。アラブ人ムスリムは、(15)預言者ムハンマドの死後まもなくカリフの指導のもと大規模な征服活動を開始し、1世紀余りの間に西は(16)イベリア半島、北アフリカから、東は(17)中央アジアに至る空間をその支配下に置いた。征服者の言語であり、聖典『コーラン』の言語でもある(18)アラビア語は、やがて広大なイスラーム世界の共通語としての役割を担うようになる。
 初期のムスリムは軍事活動にのみ熱心だったわけではない。ウマイヤ朝期に始まったギリシア学術の導入は、続くアッバース朝期に本格化し、9世紀には(19)バクダードに設立された研究機関を中心に、(20)ギリシア語の哲学・科学文献が次々にアラビア語に翻訳された。これらギリシア語文献の翻訳に最も功績のあった人物の一人、フナイン=イブン=イスハークが(2l)ネストリウス派キリスト教徒であったことは、イスラーム文化の担い手が多様であったことを象徴する事実といえるだろう。また、アッバース朝期にはイスラーム世界固有の学問も発展した。これには法学、神学、コーラン解釈学や(22)歴史学などが含まれる。こうして、外来の学術の成果も吸収しながらイスラーム世界の伝統的な学問の体系が形成されていった。
 11世紀後半以降イスラーム世界各地で盛んに建設された(23)学院(マドラサ)では、とくに法学や神学の教育が重視されたが、その「教科書」にあたる文献の多くはアラビア語で著されていた。イスラーム世界の東部では9世紀半ばまでには(24)近世ペルシア語が、そして、15世紀末までには(25)チャガタイ語やオスマン語といった各地のトルコ語も文語として成立していたが、それ以降の時期にあってもアラビア語は変わらず学術上の共通語であり続けた。19世紀後半以降、イスラーム世界各地にイスラーム改革思想が広まるが、その伝播にあたっては(26)アラビア語の雑誌も大きく貢献したのである。


 (12) 紀元前333年に、アレクサンドロスがペルシア軍を破った戦いの名を答えよ。
 (13) この時期、エジプトのアレクサンドリアには自然科学や人文科学を研究する王立の研究所が設立された。この施設の呼び名をカタカナで答えよ。
 (14) この文化は何と呼ばれているか。
 (15) 622年、ムハンマドは信者とともにメッカからメディナヘと移動した。この事件をアラビア語で何と呼ぶか。
 (16) この地に進出したムスリム軍が711年に滅ぼしたゲルマン人の王国の名称を答えよ。
 (17) この地に進出したムスリム軍は751年、唐の軍と交戦して勝利した。製紙法の伝播をもたらしたともされる、この戦いの名称を答えよ。
 (18) この言語と同じ語族・語派に属し、紀元前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍した人々が使用した言語の名称を答えよ。
 (19) アッバース朝のカリフ、マームーンが創設したこの翻訳・研究機関の名称を答えよ。
 (20) アラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献は、のち12世紀以降、ラテン語に翻訳されてヨーロッパに逆輸入された。このとき、アラビア語からラテン語への翻訳作業の中心地となったスペインの都市の名を答えよ。
 (21) ネストリウス派は唐にも伝わった。唐でのネストリウス派の呼称を答えよ。
 (22) アッバース朝期に活躍し、天地創造以来の人類史である『預言者たちと諸王の歴史』を著した歴史家の名を答えよ。
 (23) マドラサやモスクの運営を経済的に支援した、イスラーム世界に特徴的な寄進制度をアラビア語で何と呼ぶか。
 (24) アラビア文字を採用し、アラビア語の語彙を大量に取り入れることで成立した近世ペルシア語の最初期の文芸活動の舞台は、9世紀から10世紀にかけて中央アジアを支配した王朝の宮廷であった。この王朝の名称を答えよ。
 (25) ティムール朝王族で、ムガル帝国の初代皇帝となった人物はチャガタイ=トルコ語で回想録を著している。歴史資料としても名高い、この回想録のタイトルを答えよ。
 (26) イスラーム世界各地のみならずヨーロッパでも活動し、パン=イスラーム主義を提唱して、1884年にパリでムハンマド=アブドゥフとアラビア語雑誌『固き絆』を刊行した思想家の名を答えよ。


第3問(20点)
 1871年のドイツ統一に至る過程を、プロイセンとオーストリアに着目し、1815年を起点として300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代ギリシア人は、独自の都市国家であるポリスを形成し発展させた。ギリシア本土やエーゲ海周辺に数多く誕生したポリスは、同盟(連邦)を形成することはあっても、(1)ひとつの領域国家に統一されることはなかった。(2)前5世紀中頃のアテネのペリクレスの市民権法のように、市民団の閉鎖性を強めたこともあった。一方で、古代ギリシア人は自らをヘレネスと呼び、(3)出自や言語、宗教、生活習慣を共有する者としての一体感を有していた。そして、異民族を「聞き苦しい言葉を話す者」という意味でバルバロイと呼んで区別した。やがてこのバルバロイには、(4)アテネの帝国的発展と(5)ペロポネソス戦争の苦難の経験を通じて、他者への蔑視など否定的な意味がまとわりつくようになる。
  古代ギリシア人とともに高度な文明を築いたことで知られるローマ人は、集団の定義や自己理解の点ではギリシア人と異なっていた。ローマ人の歴史は、イタリア半島に南下した古代イタリア人の一派が半島中部に建てた都市国家ローマに始まる。しかし、(6)ローマ人は国家の拡張の過程で、都市ローマの正式構成員の権利であるローマ市民権を他の都市の住民などにも授与し、市民団を拡大していった。前1世紀の初めにはイタリアの自由人にローマ市民権が与えられ、(7)イタリアの外の直接支配領である属州でも、(8)先住者ヘローマ市民権が付与されたので、市民権保持者の数は急速に増加した。こうして、ローマ市民権を保持する者としての「ローマ人」は、故地である都市ローマやイタリアを離れて普遍化していったのである。
  また、故地ローマ市を抽象化し、「ローマ」という名称に普遍的な意義を見出そうとする思想は、その後長く影響力を有し、とくにローマの支配の正統性やその賞賛をともなう帝国理念となって展開した。(9)そうした考え方は初代皇帝アウグストゥスを内乱からの秩序の回復者としてたたえることから始まっている。ローマ市そのものは、3世紀の[ a ]時代と呼ばれる帝国の危機の時代を経て首都としての役割が低下し、人口も減少していったが、(1O)帝国東部の拠点都市コンスタンティノープルが4世紀の終わり頃から首都的機能を果たすようになると、これが「新しいローマ」とみなされるようになった。
  コンスタンティノープルは、ローマ帝国を帝国領東部で継承したビザンツ帝国の首都として存続した。ビザンツ帝国では、共通語がギリシア語になってからも(11)皇帝は「ローマ人の皇帝」を称していた。(12)コンスタンティノープルはオスマン帝国の攻撃によって陥落したが、この頃台頭してきたロシアのモスクワ大公国において、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚していた大公イヴァン3世がラテン語の「カエサル」に起源を持つ[ b ]の称号を初めて用いた。この後、(13)モスクワを「第三のローマ」とみなす思想が形成されていったのである


 (1) 数あるポリスの中でもスパルタは、近隣地域を征服してその住民を隷属農民として支配した。この隷属状態に置かれた先住民は何と呼ばれたか。その名称を記せ。
 (2) この法律の内容を簡潔に説明せよ。
 (3) 古代ギリシア人が最高神ゼウスの聖域で4年ごとに開催した民族的な行事の名を記せ。
 (4) アテネはペルシア戦争後に結成した、諸ポリスをとりまとめた組織によって他のポリスを支配した。その組織の名を記せ。
 (5) ペロポネソス戦争の経過を描いた歴史家の名を記せ。
 (6) ローマと条約を結び、兵力供出の義務を負いながらもローマ市民権を与えられない地位に置かれた都市は何と呼ばれたか。その呼称を記せ。
 (7) ローマがイタリアの外に初めて直接的な管轄地域(属州)としてシチリア島を得ることになった出来事の名を記せ。
 (8) 小アジアのユダヤ人の家庭の出身で、ローマ市民権を持ち、伝道旅行を重ねてキリスト教が普遍的な宗教となることに大きな貢献をした人物の名を記せ。
 (9) 内乱を収束させたアウグストゥスは共和政の復興を宣言したが、実際には新しい政治体制を創始したのであった。彼の始めた政治体制は何と呼ばれるか。その名称を記せ。
 (10) コンスタンティノープルがローマ帝国の首都的機能を備えるようになったのは、4世紀末のテオドシウス1世(大帝)の時からである。この皇帝が行った宗教政策で、その後の欧州に強い影響を与えたものを簡潔に記せ。
 (11) 5世紀から6世紀にかけて戦場に赴くことが少なかったビザンツ皇帝が、6世紀後半になると親征することが多くなったのは、東で接する国家と抗争することになったからである。ビザンツ帝国と争ったこの国家の名を記せ。
 (12) コンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡したのとほぼ同じ頃に西ヨーロッパで生じた出来事を、次の(a)〜(d)からひとつ選んで、その記号を記せ。
 (a) ドイツ王ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に赦免をこうた。
 (b) ウルバヌス2世がクレルモンの公会議で十字軍を提唱した。
 (c) イングランド軍がカレーを除いて全面撤退し、英仏間の百年戦争が終結した。
 (d) ローマとアヴィニョンに教皇がたつ教会大分裂の状態に陥った。
 (13) ローマ皇帝とその帝国の理念は、西ヨーロッパでも継承され、キリスト教世界の統治と教会の保護が任務とされたが、962年に神聖ローマ皇帝としてその役割を担うことになった国王の名を記せ。

B 人類史上、動物が果たした役割、そして動物が被った影響は、非常に大きい。
  西洋では、(14)中世の支配層は、馬を大規模に飼育していた。海や船と結びつけられがちな(15)ヴァイキングも、馬を戦争や運搬に使用した。また、イベリア半島などでは、牛や羊が土地を疲弊させるほどに過放牧された。牧畜の隆盛は耕地面積を圧迫し、そのために(16)中世ヨーロッパでば慢性的に食糧が不足していたという見方もある。15世紀末以降、新世界では、(17)ヨーロッパ人は船に載せて持ち込んだ馬を駆って征服を進め、獲得した土地で、ヨーロッパから輸入した牛や羊や豚を大規模に飼育した。これに伴い、先住民はヨーロッパ人や動物がもたらした病気に罹患(りかん)したり、暴力や(18)経済的な搾取を受けて、大幅に人口を減らすことになった。
  北米大陸の大平原に広範囲に生息していたバイソンは、白人、そして馬と銃を使いこなすようになった先住民によって、19世紀末までに、ほとんど狩りつくされていく。そして、(19)先住民が[ c ]に強制的に移住させられる一方で、白人の牧畜業者は畜牛の放牧地を経営することになる。南米大陸でも放牧地は拡大し、生産された畜牛は、たとえば、世界の工場として経済的繁栄を享受していたイギリスなどに(20)生きたまま、船に載せられて輸出され、到着後に業者の手に引き渡された。これは、その100年前に隆盛を極めていた、(21)アフリカの黒人を新大陸に運ぶ奴隷貿易と同様に、苦痛を与えるとして非難された。
  西洋人は動物の毛皮も欲した。北米大陸に生息するビーバーの毛皮は、近世から紳士用帽子の材料として人気を集めた。ビーバーを追って内陸への進出が果たされた側面もある。他方で、ロシアからもたらされる、シベリア産のクロテンなどの毛皮のほか、(22)太平洋沿岸に生息するラッコの毛皮も、人気の商品であった。19世紀にはダチョウの羽根が西洋の婦人用帽子の装飾として珍重された。太平洋の島々に生息するアホウドリの羽根も同じ用途で高い需要があり、これに目を付けた日本の業者によって乱獲された。
  19世紀には、象もインドやアフリカで大規模な狩猟の対象となった。トランスヴァール共和国では、(23)金やダイヤモンドが発見されるまでは、象牙が最大の輸出品であった。象牙はナイフの柄やビリヤードのボールやピアノの鍵盤などに加工されるのであった。1900年の一年間だけでヨーロッパは380トンの象牙を輸入したが、これは約4万頭の象の殺戮(さつりく)を意味した。(24)捕鯨も19世紀に「黄金時代」を迎えた。それを牽引したアメリカ合衆国は、19世紀半ばの最盛期に世界の捕鯨船約900隻のうち735隻を擁したとされる。1853年、同国の捕鯨船団は8000頭以上の鯨をとった。主たる目的は鯨油とヒゲで、肉は廃棄された。


 (14) 1000年頃からしばらく続く西ヨーロッパの内外に向けての拡大運動においても馬は活躍した。
 (ア)この頃の修道院を中心とした経済的かつ領域的な拡大の運動を何と呼ぶか。
 (イ)この運動の先頭に立った主な修道会の名をひとつ答えよ。
 (15) フランス北部のバイユーで制作された刺繍(ししゅう)画には船と並んで馬が頻出する。この刺繍画の主題である1066年のヘイスティングズの戦いでクライマックスを迎える出来事を何というか。
 (16) とりわけ中世後期は疫病や飢饉(ききん)などが頻発し、社会的な不安が高まったのだが、黒死病の大流行以降、人口減少により農奴に対する束縛は緩められる傾向が顕著であった。このとき社会的上昇を果たした独立自営農民のことをイギリスでは何と呼ぶか。
 (17)(ア)16世紀前半に騎馬の兵を率いるコルテスによって滅ぼされた帝国の首都の名は何か。
 (イ)また、ここはその後何という都市になったか。
 (18) ラテンアメリカが産出した銀は、ヨーロッパだけでなくアジアにも輸出された。
 (ア)その積出地と、(イ)銀を運んだ船の種類を答えよ。
 (19) 19世紀前半に、先住民の移住政策を推進したことや民主党の結成を促したことで知られるアメリカ合衆国大統領は誰か。
 (20) 19世紀末にこの輸送法は用いられなくなる。しかし、南米からイギリスなどへの牛肉の輸出は増加した。それが可能となった技術的理由を述べよ。
 (21) この奴隷貿易とは別に、アフリカ東海岸では長らく、インド洋貿易の一環としてムスリム商人が奴隷貿易を行っていた。アラビア語の影響を受けて成立し、17世紀以降この海岸地帯で共通語となった言語は何か。
 (22) この動物の毛皮は、アジアとアメリカ大陸の間に派遣された探検隊によって持ち帰られ、ロシアによる北太平洋の毛皮貿易が発展するきっかけとなった。シベリアとアラスカを隔てる海峡の名にもなっている探検隊のリーダーの名を記せ。
 (23) これらの産品への注目が南アフリカ戦争へつながった。この戦争に踏み切った当時のイギリス植民地相の名を答えよ。
 (24) これを題材にした小説『白鯨(モビーディック)』の作者は誰か。
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コメント
第1問
 課題は、①ヨーロッパ人宣教師が中国に来るに至った背景、②(時期)16世紀から18世紀における彼らの中国での活動、③その影響、でした。この課題にたいしてどのように応答するか、ある解答例で検討してみます。

(解答例──S)
①16世紀、ヨーロッパでは宗教改革に対してカトリック側が進めた対抗宗教改革の中でイグナティウス=ロヨラらがイエズス会を創設した。そして、大航海時代の本格化をうけてイエズス会が海外布教を積極的に進め、マテオ=リッチを始めとする宣教師が明に来訪するようになった。
②彼らは明・清に仕え、布教のみならず西洋の知識や技術を中国にもたらし、
③中国の地理観や暦法、実学などに影響を与えた。しかし、清ではイエズス会が中国の儀礼である典礼を信者に認めたことから、これを批判する他派や教皇との間に典礼問題が発生した。これをうけて18世紀に康熙帝はイエズス会の布教のみを認めることとし、さらに雍正帝はキリスト教の布教を全面禁止した。

 この解答例の背景①は反宗教改革と大航海時代をあげていて問題なくできてます。ただ背景の中の「航海」と「布教」はどのように関連しているのかは書いてありません。たまたま航海だから宣教師がその船に乗っていっただけで、とくに関連はないのでしょうか? もちろん目的があります。宗教改革で失った西欧カトリック世界を他の大陸で布教して信徒を獲得しカトリックの回復を図ること、金銀のあるアジアに行くことで教会自体が富を獲得し、布教の資金を得る、あわよくば植民地化することで政治的な功績を国王にささげることができました。じっさいポルトガル王を兼ねた(1580)フェリペ2世は征服・植民・貿易政策の一環として軍事的色彩の濃い対外政策をうちだしていました。国王の政策を実現すべくイエズス会士たちは中国征服について国王にあてた手紙があります。

(1)シナを改宗させるには、征服による以外に手段があるとは到底考えられない。
(2)シナ征服を成就しうる武力は、日本から調達する以外にありえない。

 これはペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長宛て手紙です(1598年)(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店「第3章 キリシタン宣教師の軍事計画」p.133)。この(2)でなぜ日本が出てくるのか不思議におもうかも知れませんが、当時のイエズス会士の日本人評価は、次のとおりです。

 日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、且つ残忍で、シナ人に恐れられているからである。(前掲書p.103)

 また僧侶・宣教師であるイエズス会士が布教の仕事だけをしに来たのでないことも知られています。布教資金の必要から長崎=マカオ間の貿易に直接たずさわっていたこと、生糸取引の仲介者としても活動し、日本人から銀の委託をうけ希望する商品をマカオで仕入れてもどる、ということもやつていました。家康がイエズス会に対して1604年または1605年に5000ドゥカドもの金を貸与し、希望の品物を仕入れるよう依頼しています(前掲書p.565)。

 とすれば絶対王政・金の需要・植民地化政策も背景として可となります。また解答例には書いてありませんが、「中国に来るに至った背景」は中国側が受け入れた背景も書いていいはずです。西欧側だけが積極的だったのでなく、中国側も是非とも受けて入れたい理由がありました。武器・火薬原料の硝石・銀などが必要であり、清朝にまたがって、キリスト教布教をしだいに制限しながらもイエズス会士を受け入れていったのは、かれらの軍事技術とその学問を必要としたためです。康熙帝は三藩の乱のさいにフェルビーストの製造した大砲によって助けられているので、側におきたがりました。

 ②解答例の活動は「布教のみならず西洋の知識や技術を中国に」とだけあって、なんか、いやにしょぼい内容です。「知識や技術」の具体例がいくつかほしいところです。M.リッチは『坤輿万国全図』で世界地理を、『幾何原本』でユークリッドを、A.シャールは徐光啓と共著の『崇禎暦書』で暦学を、フェルビーストは大砲鋳造法を、ブーヴェ・レジスは『皇輿全覧図』で地図作成法を、カスティリオーネは円明園で西洋建築法と絵画の遠近法を伝えました。
 「今、主(神のこと──中谷注)は二人のイエズス会士〔ルッジェーリ羅明堅とリッチ利瑪竇のことを指している──引用者〕の入国を許すよう命じ給うた。彼等は、後になって説教をして霊魂の救済が出来るようにとシナの言語と学問を学んでおり、そして同市に出入してもよい、という許可をえている。彼等も大いに力になることであろ(前掲書p.95)とシナ征服計画の一貫してフランシスコ・カブラルが国王に手紙を書いています(1584年)。マテオ=リッチは中国征服の工作員だったのかも知れません。

 教科書(詳説)の「海外でのカトリックの布教活動は、「大航海時代」の世界的通商・植民活動と密接なつながりをもっていた」という記事の内容は以上のようなことを指しています。

 ③解答例の「影響」もしょぼい内容です。「中国の地理観や暦法、実学などに影響を与えた」と文化的な影響を書きましたが、「影響」というのはどんな影響なのか、これだけの文章では分かりません。中国人はイエズス会士を通して初めて地球が丸いことを知りました。後は典礼問題と布教制限・禁止というお上の決定を詳しく書いています。
 京大実戦模試が的中した、と噂になったようですが、この模試の批判を昨年このブログに載せました(→2020年度模試の疑義──(1) - 世界史教室)。この模試問題は「中国の社会経済や文化に与えた影響」と問うていましたが、解答文が文化面は「中国の科学技術の発展を促し」としか書いてないので、実学くらい書けよ、という趣旨で「教科書(東京書籍)に「このようなヨーロッパ科学技術の刺激と、当時の飛躍的な産業の発展を背景として、明代には実用的な学問(実学)が発展し、李時珍の『本草綱目』、宋応星の『天工開物』、徐光啓の『農政全書』などが著された」とある実学です。」と解説しました。また考証学の発展に寄与したことも書きました。史家には知られていても、これを書いた予備校の答案は皆無でした。

第2問
 問(22)の『預言者たちと諸王の歴史』を著した歴史家を問うた問題は奇問にちかい細かい問題です。また問(25)ムガル帝国の初代皇帝となった人物の回想録のタイトルも細かい問題でした。共にできなくていい問題です。

第3問
 「ドイツ統一に至る過程を、プロイセンとオーストリアに着目し、1815年を起点として」という課題でした。これも一解答例をつかって解説してみましょう。

(解答例──K)
 ①ウィーン会議の結果,オーストリアを議長国とするドイツ連邦が成立した。   
 ②プロイセンが中心となって発足したドイツ関税同盟では,オーストリアを除くドイツの経済的な統一が進展した。
 ③自由主義的統一を目指したフランクフルト国民議会が成果なく終わったのち,
 ④プロイセンは「鉄血政策」を掲げるビスマルクによって,軍事力による統一を進めた。デンマーク戦争で獲得した地を巡る対立が発端となってプロイセン=オーストリア戦争が勃発し,これに勝利したプロイセンは,ドイツ連邦を解体して北ドイツ連邦を樹立し,敗れたオーストリアは統一から排除された。
 ⑤プロイセンは,プロイセン=フランス戦争でナポレオン3世を破り,ドイツ帝国を樹立した。

 ①「オーストリアを議長国」と書いたことで「オーストリアに着目」にたいして応えたつもりなのでしょう。しかし「ドイツ統一」という主問にたいする解答としては不十分です。何より、戦争中に消えた神聖ローマ帝国に代わるドイツ連邦ができ、それまで300近い領邦の集まりであった帝国は、35の君主国と4自由市で構成される連邦となり、飛躍的に統一へ向かいました。
 また「1815年を起点」とある普墺の立ち位置はどのようなものであったかの言及が欠けています。プロイセン(解答では「普」でも可)はラインラントの工業地帯でドイツ人が住む地域を獲得したのに対して、オーストリア(解答では「墺」でも可)は主に農業地帯のイタリア東北部を得たため多民族性が増し、プロイセンと比べて「統一」に向かう方向性としては明らかにプロイセンが有利になりました。

 ②関税同盟と経済的統一は不可欠なデータでこれはできています。
 昨年の京大実戦模試の第3問に類題があり、このブログでも解答文に批判を加えました(こちら→http://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2020/12/22/2020年度模試の疑義──%282%29)。題は「なぜ産業革命や鉄道建設を書かないのか?」というもので、本文はSの解答例ではないですが、同じ指摘がこの解答例でも言えます。なぜ「ドイツでは、プロイセンが関税同盟による統一市場の形成をすすめた1830年代から、鉄道建設と軍備増強をテコにした重工業中心の産業革命がすすめられた。(東京書籍)」と書けないのでしょうか? 拙著『各駅停車』では「産業革命がイギリスではじまり、1830 年代から欧米に広がる……西欧の国々とアメリカは1830年代から産業革命がはじまります」と1830年代を後の記事でも強調しています。1848年革命(ドイツなら三月革命)のところでは「ドイツ連邦でもフランスと同じ背景があり、プロイセン領となったライン地方では産業革命が進展していて、ブルジョワと労働者が増えてきており、出版・集会の自由、そしてドイツの統一を求めていました。ベルリン暴動では、ベルリンはもちろんミュンヘンでもハノーヴァーでも商工業者・学生・労働者・農民が大衆的な集会を開いて自由と統一を議論しました」と書いています。

 ③国民議会は失敗したため「統一」に貢献することはなかったので、書かなくてもいいことです。「プロイセン……着目」にこだわるなら「成果なく終わった」のではなく、小ドイツ主義が優位を占めたことか、小ドイツ主義の憲法がまとめられたことを書くべきです。テーマの追跡を止めてはいけません。

 ④ここはよくできてます。鉄血政策の「血」は戦争政策のことなので、ビスマルクの実施した三つの戦争(デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争)をあげています。

 ⑤フランスに勝ったことがなぜドイツの「統一」になるのかの言及はありませんが、カトリック地域である西南ドイツはカトリックのフランスと同盟関係を模索していたのが、この戦争によって「統一」の意志を高めルター派プロイセンと組むことになりました。フランスとの同盟はなくなりました。戦争の結果22の君主国と3自由市のドイツ帝国ができあがりました。この帝国の中身が連邦制であることは、25の国の集まりであることでわかります。完全な統一的集権国家はナチス・ドイツで成立します。

第4問
 奇問に近いのは問(20)の「南米からイギリスなどへの牛肉の輸出は増加した。それが可能となった技術的理由」で、冷凍が可能になったことですが、山勘で正解になったひともいるでしょう。こちらの経済史の論文(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/125642/1/kronso_178_5-6_614.pdf)の表(p.98)に1880年代からアルゼンチンからの輸出項目として「冷凍牛肉」が載っています。
 もう一問は、問(24) これを題材にした小説『白鯨(モビーディック)』の作者は誰か。作者のメルヴィルを知っている受験生はどれだけいたでしょうか? もちろん作品とともにこの名も用語集には載っていません。できなくてもいい問題の一つです。
 ただこの作者とともに日本に関することがいくつかあるので、歴史の勉強として以下を読んでください。
 作品『白鯨』は片足を食いちぎられた船長が、食いちぎった鯨をどこまでも追いつめて復讐をはたそうとする物語です。作者のメルヴィルは捕鯨の仕事をしたことがあり、その経験をもとにしています。1841年1月3日かれはマサチューセッツ州フェアヘイヴンでアクシュネット号に乗り、捕鯨のために日本の沿岸海域に向かっています。3週間後の1841年1月27日、14歳の(中浜)万次郎は高知で、名前も付いていない小舟に乗り、漁に出かけたことが、途中で遭難して、思いがけなくもフェアへイヴンに向かっていました。救助してくれた船長ホイットフィールドの故郷の町がフェアへイヴンで、この町で万次郎は暮らすことになり英語の学習をします。1849年ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに行き、金を掘って帰国資金とします。遭難してから11年目にして故郷に帰ることができました。
 ペリーの黒船が来たため江戸に呼ばれ通訳をつめます。その後米国に帰国したペリーはホーソン(『緋文字』の作家)に「日本開国の航海記録出版に向けて、メモと資料を用意してくれる適任者を私に推薦してほしい」と頼みます。するとホーソンは知人であったメルヴィルの名前をあげましたが、どうしてかペリーは肯きませんでした(参考文献はクリストファー・ベンフィー著・大橋悦子訳『グレイト・ウェイヴ 日本とアメリカの求めたもの』小学館)。

第1問
 (君の解答)
第2問
A
空欄 a咸陽 b赤眉 c洛陽 d大興(城)
(1)商鞅 (2)スキタイ (3)半両銭 (4)項羽
(5)張騫 (6)訓詁学 (7)東晋 (8)鳩摩羅什 (9)府兵制 (10)突厥 (11)皇后たちの親族
B
(12)イッソスの戦い (13)ムセイオン (14)ヘレニズム文化 (15)ヒジュラ (16)西ゴート王国 (17)タラス河畔の戦い (18)アラム語 (19)知恵の館(バイト=アルヒクマ) (20)トレド
B
空欄 c保留地
(14)(ア)大開墾(運動) (イ)シトー修道会(シトー派) (21)景教 (22)タバリー (23)ワクフ (24)サーマーン朝 (25)『バーブル=ナーマ』 (26)アフガーニー
第3問
 (君の解答)
第4問
A
空欄 a軍人皇帝 bツァーリ
(1)ヘイロータイ(ヘロット) (2)両親ともアテネ市民である者に市民権を限定する。(3)オリンピアの祭典 (4)デロス同盟 (5)トゥキディデス (6)同盟市 (7)第1回ポエニ戦争 (8)パウロ (9)元首政(プリンキパトゥス) (10)キリスト教の国教化 (11)ササン朝 (12)(c) (13)オットー1世 (15)ノルマン=コンクェスト(ノルマンの征服) (16)ヨーマン (17)(ア)テノチティトラン(イ)メキシコシティ (18)(ア)アカプルコ(イ)ガレオン船(19)ジャクソン (20)冷凍技術の発達 (21)スワヒリ語 (22)ベーリング (23)ジョゼフ=チェンバレン (24)メルヴィル

2021年合格メール

2021年合格メール

Aくん
210309 935
合格しました(大坂大学)。本当に一年間何度も添削していただきありがとうございました。


Bくん
210310 1230
無事、京都大学法学部受かりました!
先生の添削のおかげで世界史は安定したと思います!
ありがとうございました。


Cくん
210310 1842
今年1年間、添削をしていただいたCです。
東京大学文科3類に合格しました。先生のご丁寧な添削と、プリントのおかげです。
本当にありがとうございました。


Dくん
210310 2120
1月に京大の未出題問題を購入させて頂いたDと申します。京都大学法学部、合格してました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。


Eくん
210311 727
東京大学文科三類合格することができました。
現役時は第二問対策、浪人時は第一問対策で大変お世話になりました。浪人時は先生の世界史練習帳で、求められていることに忠実に答えるためにどのような構想メモを書くか、文章構成をどうたてるかを学びました。先生の添削指導で問題文をよく読みとにかく誘導文に沿って答えることが何よりも大切だとわかりました。
世界史において先生のご指導と教材がなければこのような結果にはならなかったと思います。本当に感謝でいっぱいです。本当にありがとうございました。


Fくん
210311 1102
受験結果について報告をさせていただきたく、メールいたしました。
今年は東京大学文科一類、慶應大学法経済、早稲田大学法に合格をいただきました。
東大の論述で合格レベルに持っていけたのは先生の添削あってのものです。先生の厳密な添削を受けしっかりと復習することで大いに力がつきました。一年間ご指導ありがとうございました。


Gくん
210311 1349
東京大学文科一類に合格いたしましたのでご報告させていただきます。とにかく、本当にありがとうございました。
 去年の5月頃、「世界史教室」というブログをたまたま見つけたことが、僕の転機でした。先生の的確、精緻なご添削がどれほど役に立ったことかしれません。先生の指導は、世界史のみならず、例えば日本史や現代文にも応用が可能なものでした。設問を自分の得意なように解釈して、全く問題の要求に答えていなかった昔の自分が、今となっては微笑ましいです。多分、これからの人生を横断するような学びが得られた気がいたします。先生のお顔を拝見することも、お声を拝聴することもついに叶わなかったことが残念でなりませんが、一方で、このメールを介しての添削が、僕など地方に住む人間にとってどれほど恩恵であることか。全国いずこでも、世界史、いや、学問の本質に迫る先生のご指導を受けられたことは本当に幸せなことでした。これからもお体にお気をつけて、たくさんの生徒の夢を叶えさせてやってください。本当にありがとうございました。


Hくん
210312 2245
直前期に何枚か添削して頂きました。そのお陰もありこの度早稲田大学文学部・京都大学法学部に合格することが出来ました(京都大学法学部に進学します)。先生の授業では受験世界史の他に「本当の世界史」、「歴史とは何か」、「正しく物事を見るにはどうすればよいか」を学ぶことが出来ました。これはとても得難い経験だと思っています。1年間という短い間でしたが本当にありがとうございました。


I くん
210318  2200
一橋大学商学部に合格することができました。
中谷先生の尽力のおかげだと思っています。
本当に1年ありがとうございました。

2020年度再現答案

2020年度再現答案

(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

 

阪大
第1問
1 A1、B2.C3
2 異端者とは、ローマ教皇であり、免罪符での集金や、ラテン語による知識の独占を行っていた。それに対して(A)は聖書を英訳を教会の批判をした。(B)もチェコ語への翻訳を行った。(C)もドイツ語への翻訳を行い、また宗教改革によって信仰義認論の新教を生んだ。
3 11世紀では、ドミニコ派やフランチェスコ派の托鉢修道会は妻帯を禁止したり、自給自足する厳格なものであった。またベネディクトゥス修道会も戒律を作りきびしい修行をして、叙任権闘争に勝利し、聖職売買を行った教皇を批判した。13世紀では、異端派の清貧を目指すカタリ派に対して、アルヴィジョア十字軍を送り弾圧した。
第2問
1 背景として、内政的に文治主義や電子、また中小文科省牛耳っており、皇帝の権力が強かった。外生的に、モンゴルやベトナムへの遠征を行い、北陵南はに対抗した。軍事的にはキングや都護府による軍備の向上が西南の辺手手端による海外遠征がなされた。その遠征によって長江黒をアフリカまで広げ、冊封体制をした。超広告であるインドからの施設は抜けて優れていると言う意味でキリンを皇帝に送った。
2 イタリアルネサンスによって、人文主義を重視しして、絵画、書物等の美術品を保護した。それはギリシア、ローマ、イスラムの文化を復興させるものであった。その背景は、十字軍やレコンキスタによるギリシア文化の流入や、メディチ家から先導して行った香辛料の東方貿易によってそうした文化の流入につながった。また、イベリア半島のトレドやアフリカ北部のアレクサンドリアでギリシア、イスラム文化の成熟がなされていたためである。
第3問
預言者であるムハンマドの後継者である4人のカリフの正当性を重視するシーア派とそうではないスンナ派に分かれた。四人目のカリフであるアリーからウマイヤ朝が開かれた。そこではそスンナ派が権力を握り、それはアッバース朝でも受け継がれ、シーア派は少数派となりイランの国教となりスンナ派は多数派でサウジアラビアにはワッハーブ派として引き継がれた。

東大
ゲルマン人の移動後西欧ではゲルマン人国家が成立した。多くの国がキリスト教異端のアリウス派を信仰する一方でフランク王国クローヴィスはアタナシウス派に改宗しカトリック教会との結びつきを強めた。ゲルマン布教に聖像画(イコン)を用いていたローマ=カトリックはビザンツ帝国による聖像禁止令で打撃を受けたが、フランク王国がトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を破ると教皇はフランク王国に近づいた。フランク王国のピピンも教皇にラヴェンナ地方を寄進し、教皇領の起源となった。カールの戴冠で皇帝と教皇が並立すると、ゲルマン・キリスト教が融合した西ヨーロッパ世界が成立した。ゲルマン移動の影響が小さかった東欧ではビザンツ帝国がギリシア語を公用語とした、西欧に対して先進的な文化圏をつくった。西欧とは異なり、皇帝教皇主義が採用された。ユスティニアヌス帝の時代にハギア=ソフィア聖堂の建立などビザンツ文化の最盛期を迎えた。イスラム教を創始したムハンマドはアラビア半島に支配を強め、正統カリフ時代、ウマイヤ朝はジハードを進めイスラーム世界を拡大していった。マワーリーにもジズヤを課していたウマイヤ朝に対しイスラム教の平等を唱えるコーランに反しているとしてアバース朝が成立した。アッバース朝はマワーリーへのジズヤを廃し、改宗者も要職につけるなどムスリムの平等を実現したイスラーム世界を成立させた。

西欧ではローマ教会が、メロヴィング朝を創始して正統のアタナシウス派に改宗したゲルマン人のクローヴィスを支持し、グレゴリウス1世の治世からゲルマン人にカトリックの布教を積極的に進めた。カロリング朝を創始したピピンは教皇領を寄進してローマ教皇に接近し、その子カール大帝が教皇から戴冠を受けたことで、ローマ・ゲルマン的西欧社会が政治的・文化的・宗教的に統一された。その中でラテン語を基調とした文化が発達し、スロヴェニア人やクロアティア人がカトリックに改宗した。東欧ではビザンツ帝国がコンスタンティノープル教会を支配し、ギリシア正教を広めた。6世紀にはユスティニアヌス帝がローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア聖堂の建設を行った。726年の聖像禁止令を機にローマ教会との関係悪化が深刻化した一方、ギリシア語を基調としてイコンやモザイク壁画を特徴にもつビザンツ文化がバルカン半島にも広まり、ブルガール人やセルビア人がギリシア正教に改宗した。7世紀には西アジアでイスラーム勢力が生まれたが、ウマイヤ朝ではアラブ人優遇政策がとられた。8世紀に生まれたアッバース朝ではイスラムに改宗した非アラブ人のマワーリーもジズヤが免除されたため、イスラーム教が更に広まった。北アフリカを支配したウマイヤ朝や後ウマイヤ朝はイベリア半島に侵攻してカトリック勢力を圧迫したが、ゲルマン人に撃退され、以後レコンキスタが続いた。

京大
第1問
商人の要求により明皇帝が海禁を緩和したため、様々な人々が中国に来た。また、欧州での対抗宗教改革の一環としてイエズス会が結成され海外での布教を進めた。活動と影響。イエズス会士はキリスト教を布教したが、中国の慣習を認めるかどうかで教皇と対立し典礼問題が起こり、康熙帝はイエズス会以外の布教を、雍正帝はキリスト教自体の布教を禁止した。また彼らは造園術や幾何学などの実学も教えたため、中国では様々な実用書が作られ、実証性を求める陽明学や考証学も発達した。彼らは新大陸の作物も伝えた一方で、中国文化を持ち帰ったため欧州ではシノワズリが流行した。
第3問
1815年に、普は四国同盟に加わり、墺はドイツ連邦を結成し盟主となった。その後ドイツ関税同盟が結成されドイツの経済的統一がなされた。仏での二月革命を受けて墺ではメッテルニヒが失脚した。フランクフルト国民議会が開かれ、墺を除いて普中心の統一を目指す小ドイツ主義的憲法が採択され、普王をドイツ王にしようとしたが、普王は拒否し一方的な欽定憲法を発布した。その後統一は地主貴族であるユンカー層が中心となり、ビスマルクの下で普はデンマークに勝利して領土を拡大した。その後普墺戦争で破れた墺はハンガリーと二重帝国を結成し、勝利した普は盟主となって北ドイツ連邦を結成した。その後普仏戦争で勝利しヴィルヘルム一世が即位してドイツを統一した。

東大世界史2021

第1問
 ローマ帝国の覇権下におかれていた古代地中海世界は、諸民族の大移動を契機として、大きな社会的変動を経験した。その際、新しく軍事的覇権を手にした征服者と被征服者との間、あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には、宗教をめぐるさまざまな葛藤が生じ、それが政権の交替や特定地域の帰属関係の変動につながることもあった。それらの摩擦を経ながら、かつてローマの覇権のもとに統合されていた地中海世界には現在にもその刻印を色濃く残す、3つの文化圏が並存するようになっていった。
 以上のことを踏まえ、5世紀から9世紀にかけての地中海世界において3つの文化圏が成立していった過程を、宗教の問題に着目しながら、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の7つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ギリシア語 聖像画(イコン) グレゴリウス1世 クローヴィス ジズヤ バルカン半島 マワーリー

第2問
 歴史上では、さまざまな社会で、異なる形態の身分制度や集団間の不平等があらわれている。こうした身分や不平等は、批判され、撤廃されていくこともあればかたちを変えながら残存することもあった。このことに関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して答えなさい。

問(1) 身分制や身分にもとづく差別の状況は、国家による法整備、あるいは民衆の反乱のような直接的な働きかけだけでなく、社会的・経済的要因によっても左右されることがある。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 14世紀から15世紀にかけての西ヨーロッパでは、農民による反乱が起こる以前から、農民の地位は向上しはじめていた。その複数の要因を3行以内で説明しなさい。

 (b) ロシアの農奴解放令によって農民の身分は自由になったが、農民の生活状況はあまり改善されなかった。それはなぜだったのかを3行以内で説明しなさい。

問(2) 16世紀後半以降、植民地となっていたフィリピンでは、19世紀後半、植民地支配に対する批判が高まっていた。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』などを通じて民族主義的な主張を展開した知識人が現れた。その人物の名前を記しなさい。
 (b) 1896年に起きたフィリピン革命によって、フィリピンの統治体制はどのように変化していくか。その歴史的過程を4行以内で説明しなさい。

問(3) 1990年代、南アフリカ共和国において、それまで継続していた人種差別的な政策が撤廃された。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) この政策の名称を片仮名で記しなさい。

 (b) この政策の内容、および、この政策が撤廃された背景について、3行以内で説明しなさい。

第3問
 人類の歴史を通じて、多様な集団が、住んでいた場所を離れて他の地域に移動した。移動の原因は政治・経済・宗教など多岐にわたり、自発的な移動も多かったが、移動を強制されることもあった。こうした移動の結果、先住民が圧迫されることも少なくなかった一方で、新しい文物がもたらされたり、新しい国家が築かれたりすることもあった。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(1O)の番号を付して記しなさい。

(1) ユーラシア大陸の東西を結ぶ「絹の道」では、さまざまな民族が交易に従事しており、その中でもイラン系のソグド人は、中央アジアから中国にいたる地域に入植・定住して交易ネットワークを築いた。ソグド人の出自をもつとされ、唐王朝節度使を務めた人物が755年に起こした反乱の名称を記しなさい。

(2) 北欧に住んでいたノルマン人は、8世紀頃から南方に移動しはじめ、各地を襲撃してヴァイキングとして恐れられたほか、フランスのノルマンディー公国イングランドノルマン朝のように新しい国家や王朝を築くこともあった。彼らが地中海に築いた国家の名称を記しなさい。

(3) 9世紀以降、トルコ系の人びとは、軍事奴隷として売却されて、あるいは部族集団を保ちつつ、中東や南アジアに移動して、各地で権力を握るようになった。トルコ系の支配者のもとで10世紀後半にアフガニスタンで成立し、10世紀末から北インドヘの侵攻を繰り返した王朝の名称を記しなさい。

(4) 16世紀以降にヨーロッパの人間が南北アメリカ大陸を征服した結果、この地は先住民(インディオ)、ヨーロッパ系白人、アフリカ系黒人からなる複雑な社会に作りかえられていった。とりわけ中南米地域では、彼らの間の混血も進んだ。このうち、先住民と白人との間の混血の人々を表す名称を記しなさい。

(5) 16世紀までの台湾では、先住民が各地で部族社会を維持していたが、17世紀にオランダ人が進出して、この地をアジア貿易の拠点とした。その後、東シナ海域で貿易活動に従事しながら反清活動を行っていた人物とその一族がオランダ人を駆逐し、この地を支配した。この人物の名前を記しなさい。

(6) カリブ海地域にヨーロッパ諸国が築いた植民地のプランテーションでは、黒人奴隷が使役された。彼らの一部は、フランス植民地で反乱を起こし、自由な黒人からなる独立国家ハイチを築いた。本国は独立の動きを弾圧しようとしたが失敗した。弾圧を試みたフランスの指導者の名前を記しなさい。

(7) 18世紀後半からヨーロッパの諸国は南太平洋探検を本格化し、「発見」した地を支配下においた。その一つにイギリスが領有したニュージーランドがあるが、この地でイギリス人入植者によって武力で制圧された先住民の名称を記しなさい。

(8) 19世紀を通じて、ヨーロッパから多数の人々がアメリカ合衆国に移民したが、19世紀半ばからはアイルランドからの移民が際立って増加した。そのきっかけとなった出来事の名称を記しなさい。

(9) 日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民の一部が中国東北部や日本への移住を余儀なくされた。また武断政治に抵抗する人々の一部も、中国に渡って抗日運動を行った。朝鮮での三・一独立運動は鎮圧されたが、この年に朝鮮人は上海で抗日運動の団体を統合してある組織を結成した。この組織の名称を記しなさい。

(10) 1950年代の西ドイツの急速な経済成長の大きな支えとなったのは第二次世界大戦の敗戦で失った地域からの引き揚げ者や、社会主義化した東ドイツからの避難民であった。だが1960年代以降は、彼らの移動が制限されて労働力が不足したため、他のヨーロッパやアジア諸国から大量の労働移民を受け入れるようになった。この移動制限を象徴する建造物の名称を記しなさい。
………………………………………
コメント
第1問
 容易な問題だなあ、という面と、ややこしいぞ、という面とがある問題でした。テーマとして、また地中海世界かあ、なんど出題すんだ、というばかばかしいような感情と、しかし意外と書けないかも、という受験生への懸念とが交錯しました。
 前者の感情で書こうとおもえば、三文化圏の形成過程を書けばよく、ほぼ流れの問題だ、ということになります。過去問では「4世紀ローマ帝国の特徴(1978)」「9〜10世紀西欧・東ローマ帝国イスラム世界の対比(1981)」「キリスト教文化圏がイスラム世界からうけた影響(1986)」「10〜17世紀西アジア・西欧・南アジアの体制変化(1991)」「1〜15世紀地中海世界と周辺の文明(1995)」などが類題といえます。一橋では、「4〜8世紀地中海世界の政治的変化(1992)」というそっくり問題もありました。
 しかし懸念になるのは、問いの要求の多さです。①征服者と被征服者との間、②あるいは生き延びたローマ帝国と周辺勢力との間には、宗教をめぐるさまざまな葛藤……摩擦、③3つの文化圏が並存、④5世紀から9世紀、⑤宗教の問題に着目しながら、の5つです。
 ①②の問い方は、「17〜19世紀米大陸での開発・移動・軋轢の差異(2013)」を思い出させます。これは流れととると危ないぞ、とおもわせる部分です。③の文化圏形成はどれくらいの文化の内容を書けばいいのか、指定語句に「ギリシア語 聖像画(イコン)」はビザンツ文化圏について使えばいいものの、他の文化圏はどうか、要求の多さからはあまり内容を詰め込めない、と感じます。④この時間で難しいのは「9世紀」です。なぜ8世紀で止めなかったのか? 800年までならカール大帝西欧文化圏は完成するのだから、9世紀は余計じゃん? じっさい9世紀のことを書けた予備校の解答例はほとんどありません。⑤はかんたんそうですが、宗教をめぐる葛藤・摩擦は3文化圏とも書けますか? 

 ①②⑤ 西方カトリック世界における葛藤・摩擦は、政治的には侵入したゲルマン人と侵入された旧ローマ市民との対立があり、ゲルマン人サリカ法典・リブアリア法典があり、もちろん旧ローマ市民はローマ法をもっています。二つの法が共存し対立しました。宗教的には異端のアリウス派ゲルマン人は信じ、旧ローマ市民は正統派です。フランク王国やアングロ=サクソン王国が多神教のゲルマン宗教から正統派に転じたことが、政権を長くたもつ理由でした。東方正教会ビザンツ帝国ではゲルマン人の侵入は少なく被害はないものの、シリア・エジプトでは単性論が普及して正統派の政府と対立していました。この単性論の地域がイスラーム教支配を受けて入れたのはビザンツ帝国の弾圧を逃れるためでした。ジズヤを払えば「異端」も許されたからです。イスラーム世界では正統と異端(アリー派/シーア派)の対立があり、正統カリフ時代ウマイヤ朝の時期はアラブ人ばかり優遇したアラブ帝国であったため、マワーリーと呼ぶ非アラブ人ムスリムの反発がウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を興す一因となりました。つまり民族摩擦もありました。
  文化圏の形成は容易です。クローヴィスの改宗(496、『ワンフレーズ』語呂(以下『ワン』と略称)、クローイ、ほ496)、アングロ=サクソン人は指定語句のグレゴリウス1世が(カンタベリーの)アウグスティヌスを派遣してから改宗がすすみました。アリウス派を信仰していた東ゲルマン人でも、みなローマ教会が浸透します。東ゴート王国ヴァンダル王国は6世紀にユスティニアヌス帝東ローマ帝国に滅ぼされ正統派が普及しますが、7世紀にはイスラーム世界に入ります。西ゴート王国は遅れましたが、6世紀末(589)アタナシウス派に改宗しています。ここイベリア半島も8世紀からはイスラーム世界です。東ローマ帝国は初めはバルカン半島全域と北アフリカ東部(現在のリビア・エジプト)とシリア・パレスティナ・トルコを持っていましたが、7世紀のイスラーム世界の拡大で、北アフリカ全域とイベリア半島の大半が支配下にはいりました。それでもイタリア半島ではヴェネツィア市とナポリのある南部、シチリア島はまだ持っていました。予備校の中には帝国の支配地域を「東ローマ領はバルカン半島アナトリアに限定され(S)」と書いたものがありますが、これははミスです。まだシチリア島を含む南イタリアサルデーニャ島も持っていました。シチリア島にはいまだにギリシア語を話す地域が散在しています。今はグリコ語とよんでいる言語です。シチリア島の住民に本土ギリシアと同じDNAを持っているひとが多いのもうなずけます。もともとマグナ=グレキアの地ですから(グレン G.ストリックランド著『人類はいつどこで生まれたか』ブルーバックス講談社)。
 このキリスト教世界である二つの文化圏は、西方のローマ教会の公用語でもあるラテン語カロリング=ルネサンスとともに発展したカロリング小字体があります。東方は、ユスティニアヌス帝ラテン語ギリシア語のローマ法大全を作成し、テマ制をさだめたヘラクレイオス1世がギリシア語を公用語に変え、レオン3世が聖像崇拝禁止令を出しても結果は、聖像(イコン)重視の教会になりました。
 地中海世界南部はローマ帝国領でしたが7世紀にイスラーム世界に変貌しました。 642年にエジプトに入り、700年丁度にモロッコに到達しています。イベリア半島も征服して、この半島にもイスラーム文化圏に入ります。
 支配者の言語たるアラビア語は、それまでの国際語アラム語ラテン語に代わって普及します。知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)ができ、まさにイスラーム文化圏の要になります。教科書では「ハールーン=アッラシードは、バグダードギリシア語の文献を集めてアラビア語に翻訳する機関をつくり、マームーンの時代になるとそれは「知恵の館」(バイト=アル=ヒクマ)とよばれる機関に発展した。そこでは、組織的、網羅的に、……(東京書籍)」とあり、 「9世紀」のマームーン(813〜833年)は830年に「知恵の館」と名付けています。この館から「外来(異民族起源)の学問」が入ってきて広い学問領域ができあがります。
 ④⑤この「知恵の館」は9世紀にできましたが、このことを書いた答案は予備校の解答例には見られませんでした。一橋のように800年(カール戴冠)で閉めないで、「9世紀にかけて」と9世紀まで伸ばした理由は何かあるはずです。合格者の再現答案には書いてあります(→こちら )。
 西欧の場合は半島におけるレコンキスタを書いた答案は皆無でした。この宗教対立は「摩擦」でもあり、なぜ書かないのか不明です。レコンキスタはカール1世の半島進出から開始しており(801年のバルセロナ占拠)、半島の北端のキリスト教国(アラゴン、ナバーラ、アストゥリアス王国)も反撃しています。このレコンキスタが本格化するのは後ウマイヤ朝が滅亡する11世紀ですが、スタートは9世紀に切られています。
 また9世紀のビザンツ帝国におけるブルガリア王国(帝国)との対立も書いたものがなかった。これは細かいので書けなくてもいいてずが、チュニジアに興ったアグラブ朝のシチリア島侵入(821)も書かなかった。このアグラブ朝は細かいので、これも書けなくてもいいてすが。といってこの征服は教科書に書いてないわけではない。東京書籍に「9世紀以後、シチリア島イスラーム勢力の支配下に置かれた」とあります。地中海が「イスラームの海」になったとこの出来事から言うようになります。このように9世紀はキリスト教側とイスラーム勢力の攻勢と逆襲が交錯している世紀でした。
 
第2問
問(1)(a) 今年の共通テストの第3問Aにデカメロンの文章とともに、「病に関する説明」として「Y 西ヨーロッパでは、この病が一因となり、農民の人口が激減したため、農民の地位向上につながった」という正文を選ばせています。「反乱が起こる以前から」とは正に黒死病であり、黒死病が1348年(『ワン』黒死病、悲1惨3死4や8)前後がひどかったので、その後にジャクリーの乱(『ワン』ジャック、貧1358)やワット=タイラーの乱(『ワン』ワッ鯛だー、父1さん381ンで)が起きてきます。地位向上の要因は、病気の流行と病死の増加の結果、人口激減となり、生き残った農民の労働力の価値を高めたため、労働条件をめぐって領主と争うことができるようになりました。歴史物語としてこの黒死病と農民の賃金高騰を分かりやすく説明してくれるのはケン・フォレット著『大聖堂─果てしなき世界ソフトバンク文庫の中巻の後半から・下巻前半に14世紀のイギリスの実例が書いてあります。1ペニーだった賃金を2ペニーに上げて農民を募集した女子修道院院長カリス、逃げた農民夫婦ウルフリックとグヴェンダ、逃げた農民を追いかける領主ラルフなどが登場します。
 この病気の他に要因としては、イギリスに限りますが、物語のように貨幣地代の普及があります。生産物地代ものこっていますが貨幣地代に移行していきました。生産物地代だと保存のきく穀物を指定されて自由な農産物を生産できませんが、貨幣地代なら市場で売れるものをつくて貨幣に換え、それを領主(地主)に納めたらいいので、自由度が増します。領主と農奴の関係は次第に地主・小作という純粋に経済だけの関係へ、支配・隷属の関係から契約的な関係へと移りました。
 原因として生産増加をあげた答案例「農業生産力が高まり商業と都市が発展すると貨幣地代が普及して農民の経済力が上昇(S)」というのがあります。「14世紀から15世紀にかけての西ヨーロッパでは、農民による反乱が起こる以前から」という時間条件の下ではさかのぼりすぎの感じがあります。農民の地位は11世紀から15世紀までずっと向上してきたのでしょうか? 貨幣地代が確定するのはイギリスで14〜15世紀であり、それまで賦役(労働地代)から生産物地代へとゆっくり、地方によって違いも含みながら変化していった、ととるのが妥当なところです。上で「イギリスに限りますが」と断わったのは、フランスでは15世紀に貨幣地代への転換が生まれますが、その後は続かず元にもどります。この設問の「西ヨーロッパ」全体を網羅する答えは厳密にはありません。

 (b) ロシア農奴解放令の限界を問う問題。「農民の身分は自由になったが、農民の生活状況はあまり改善されなかった。それはなぜだったのか」と問うています。これも複数の原因があります。①肥えた土地は地主がとり、痩せた土地を与えられ、有償であったこと。②国から借りた支払い代金(賠償金)は、年利6%で返さなくてはならなかった。6%はそれほど高くはない利子ですが、痩せた土地で返せないので、地主の土地を借りて小作しなくてはならなかったこと。③私有は許されず、個人として土地をもらったのでなくミール(農村共同体)としてもらい、支払いは連帯責任であること。④したがって移動の自由は認められず、農閑期の出稼ぎに働きにでても収入の一部は、帰郷して旧地主である村長に支払わなければいけなかった。つまり農奴ではなくなったが、大きい負債をかかえた小作人(雇役農)になった、といえます。

問(2)(a) 小説『ノリ・メ・タンヘレ(われにふれるな)』の著者はたいていの教科書にのってます。宗主国スペインのマドリード大学に学び、軍医となったホセ=リサールは、その運動から「フィリピン独立の父」と崇められています。スカルノ宗主国オランダに留学して独立運動を展開するのと似ています。ホセ=リサールは中国人とフィリピン人の混血(メスティーソ)で、母方は日本人とスペイン人の血が混ざっているそうです。

 (b) 「フィリピン革命によって、フィリピンの統治体制はどのように変化していくか。その歴史的過程を」というもので、ポイントは「政治体制の変化」です。
 スペインの植民地ということは王政の絶対主義的支配であり、南米の支配がそうであったように、総督を派遣して半島者(ペニンスラール)を官僚として統治することです(スペイン総督領)。しかしフィリピンはスペイン本国から遠く、移民が少ないためにクリオーリョ(植民地生まれの白人)も少なく、スペイン人と現地人の混血をメスティーソといますが、スペイン出身だけでなく、中国人(華人)とフィリピン人(タガログ族他=インディオ)との混血もメスティーソと呼びます。もちろんスペイン系との混血が地位は高く中国系・現地民系メスティーソは蔑視され迫害されました。
 ホセ=リサールはベルリンで『ノリ・メ・タンヘレ』を出版し(1887)、スペインの腐敗を厳しく批判しましたが独立を求めるところまでは行っていません。しかしスペインは批判を許さず投獄します(後に銃殺)。アンドレス・ボニファシオ(孤児、出身不明)のほうは独立を追求する秘密結社カティプーナンをつくり、武装闘争を展開、マニラ近郊のカビテ州を制圧した仲間のエミリオ・アギナルド(中国系メスティーソ)が勢力をもち、社会改革をも求めたボニファシオと対立、かれの一派を処刑します。アギナルドは「フィリピン共和国」の独立宣言をだしたものの、巻き返してきたスペインと改革の約束をし香港に退却します。1898年になって米西戦争で、亡命していたアギナルドが米軍の支援の下に帰還し、革命政府をたちあげたが、米軍はアギナルドとの関係をたちマニラ市に入城させなかった。そのためアギナルドは近郊の都市を首都として「フィリピン共和国」(マロロス共和国)樹立宣言をだします。しかしスペインとパリ条約を結んで買収、領土支配権をえたアメリカがアギナルドと戦い「フィリピン・アメリカ戦争(比米戦争)」に入り、捕まったアギナルドは米国に降伏し忠誠を誓い、停戦となります。フィリピンはアメリカ領となったが、アメリカの市民権はあたえられませんでした。主人がスペインからアメリカに替わっただけでした。
 政治体制の変化は、スペイン絶対王政の支配する植民地から、アギナルドの「共和国」に一時的に変わり、これを否定した共和政アメリカ合衆国の植民地に変わりました。後に日本はこのアメリカ合衆国のフィリピン支配を認めるかわりに、朝鮮支配を確定すべくポーツマス条約(1905年9月)を結ぶ前に「桂・タフト協定」(7月)を結んでいます。

問(3)(a) 「人種差別政策の撤廃」に関する易問でした。アパルトヘイトは法的には南ア戦争終結後から徐々に法整備がされていき、牧師のマランが第二次世界大戦後の選挙(1948年)に勝利して確定したものです。この牧師はカルヴァン派ユグノーの子孫で人種差別は神の意志と確信している男でした。ヒトラーを模範と仰いだ人物です。
 (b)「政策の内容」と「撤廃された背景」と二つの問い。内容は市民権(選挙権・被選挙権、思想、居住、教育)の剥奪、行動の自由も制限し、強制移住もすすめました。1990年まで維持された原因は、西欧人のもつキリスト教的人種観が根強く、イギリスに伝統的な分割統治策があったこと。国際的にはレアメタルを得るために先進国による投資の援護があり、西側は冷戦を戦うために政策を否定しにくい状況であったこと。西側の先進国は撤廃に消極的だったこと。日本人は特別待遇を受け、日本は南アフリカの最大の貿易相手国となって体制維持を助けた、という面もありました。日本人は「名誉白人」だそうです。このように撤廃の原因を問うより、なぜ長く保持されてきたのか、ということのほうが世界史的な重要な設問です(一橋1987-2)。
 撤廃の背景は「1980年代に冷戦が緩和」してから「国内の反対運動も激化」ではなく、以前からビコ蜂起(1968)、ソウェト蜂起(1976)と大きい運動があります。なかなか功を奏しなかったものの執拗な反対運動がありました。イギリス本国の反対は、本国から独立してでもこの政策を維持したいと南アフリカ連邦の成立になりました。国際オリンピック委員会も止めるよう勧告をだしています。アフリカのサッカー選手によるボイコットもありました。次第に先進国による経済制裁も実施されようになりました。国連の反対声明もありました(1988)。こうした多方面の非難がデクラーク大統領によるマンデラの釈放(1990)に結実します。

第3問
(1)〜(8)・(10) 容易なので解説なし。
(9) 問題文の解説。「日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民」の原因は、土地調査事業を日本がおこない、申請書や報告のない土地を東洋拓殖会社(東拓と略称)が全部(2億3400万坪)とりあげ、移民してくる日本人に安く売りさばき、日本人地主が課す多種の納税と小作料が納められなくて土地喪失に陥ったためです。日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった、といわれるほどでした(林えいだい著『清算されない昭和』岩波書店、『〈写真記録〉筑豊軍艦島朝鮮人強制連行、その後』弦書房)。
 「日本統治下の朝鮮では、土地を失った農民の一部が中国東北部や日本への移住を余儀なくされた」……ここに書いてある日本への移住者は強制連行されたものも含めて約200万人に達します。
 「武断政治に抵抗する人々の一部も、中国に渡って抗日運動」……北朝鮮から中国に入るさいに流れている国境線の川が豆満江ですが、この豆満江の北側に位置する間島(かんとう)が朝鮮人居留区で、吉林省の東部を構成しています。こ間島が抗日ゲリラの活動地でもありました。日本陸軍第19師団の活動地でもあります。
 「朝鮮での三・一独立運動は鎮圧された」……約7500人の一般人・学生が射殺され、学校・教会が燃やされました。
 「この年(1919)に朝鮮人は上海で抗日運動の団体を統合してある組織を結成した」のが大韓民国臨時政府で、最近は用語の頻度が上がっています。2014年発行の用語集では頻度1だったのが、2018年改訂では6になっています。その解説内容も少し変わっています。14年のは「1919年4月、三一運動を継承するため、上海で樹立宣言された政府。列強への依存度が高く、まもなく有名無実となった。初代大統領は李承晩。」とあり、18年改訂のは「1919 三・一独立運動後、上海で設立された政府。初代首班は李承晩。弱体ながらも第二次世界大戦後まで存続したが、進駐したアメリカ軍により事実上解体された。」
 このうち14年の「列強への依存度が高く」はウィキペディアでも「活動」という項目で「中国国民政府の蒋介石の庇護……資金援助を受け……アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで」と戦争中の特高が調べたような感覚で書いています。特高憲兵密偵に狙われている下で活動するのがいかに困難なことか。「列強への依存度が高く」を非難として書くのであれば、なぜ日本に頼ったインドのチャンドラ=ボースや民国復帰をねがう孫文の支援者たる梅屋庄吉宮崎滔天頭山満などを褒めているのか? また第2問に関連するフィリピンのアギナルドも日本・米国に武器を頼ったことをなぜ軽蔑しないのか。 
 ウィキペディア日本語版歴史修正主義者の巣窟になっている実例をあげましょう。「大山事件」の事項です。記事を否定する内容のものが、今はブログや書籍で出ているにもかかわらず、ずっと修正なしでいます。戦前に言っていたことをそのまま繰り返しています。参考文献としても外部リンクとしても、否定史実を挙げていません。挙げるべきは、次のようなものです。たぶん知っていながら無視を決め込んでいるのです。
①千葉仁志著『日中戦争 帝国陸海軍全作戦 (秘蔵写真で知る近代日本の戦歴』フットワーク出版社 1992年
https://blog.goo.ne.jp/akebonobashi1937/e/b64a4344e27b74db7025f844429f31e3
「大山中尉射殺事件」で衝撃的な証言が(2008年)
https://scopedog.hatenablog.com/entry/20120821/1345562162
謀略だった「大山中尉殺害事件」(誰かの妄想・はてなブログ版)2013年
笠原十九司著『海軍の日中戦争:アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社) 2015年 ……とくに④は大山中尉が「射殺されに行った」ことをいろいろな角度から立証しています。「北支」事変を「支那」事変(日中戦争)に拡大するための海軍の謀略でした。

2021年共通テストの解説

21年共通テスト・世界史B解説
 写真・絵・グラフを省略しているため原本はネットからダウンロードしてください→https://cdn.mainichi.jp/item/jp/etc/kyotsu-2021/pdf/WHBP.pdf 

 予備校のこの問題に対する難易度評価はみな「難化」としていて、変だなあとおもっていたら、大学入試センターが発表した結果は、昨年度のセンター試験の世界史Bが、62.97だったのにたいして、今回は、63.49 と上がっています。予備校に眼力のないことを証明してしまいました(今は「昨年並」に修正しいます)。長文のため、あたふたしたようです。試験前に予備校が出版していた共通テスト問題集も内容が難しいものが多く、これでは本番とちがうなあ、とおもっていて、やはり本番との差がありすぎでした。

第1問

問1[ 1 ]
 孟子・張儀・李斯の3人のうち始皇帝に仕えた官僚はだれか、2つの資料の中の大臣はだれか、という問題です。法家思想のひとなので「う 李斯(りし)」ですね。法家思想家は3人(商鞅・韓非・李斯)はそれぞれ時期と役割がちがいます。「法家はし・か・り」と順で覚える(拙著『各駅停車』)ことと、商鞅は始皇帝より100年前の孝公に仕えて変法をおこなった戦国時代の人物、韓非は法家の集大成者で始皇帝が「皇帝」になる前の教師、そして全国統一が実現してから法家の政策を進言し実施したのが、この李斯です。
 「統治のために重視したこと」は法家思想ならZが容易に当てられます。X儒家思想、Y墨家の兼愛説。正解③

問2[ 2 ]
 ①誤りは「医薬・占い・農業関係のものも含めて」の「含めて」を「除いて」とすれば正しい。②これはトリエント公会議(1545〜63)の決定内容で、エフェソス公会議(431)はネストリウス派を異端とした公会議です。③正文で正解。自由・平等を謳う文学作品や共産主義を解説した書物の焼却(焚書)、とくにユダヤ人は雑誌・新聞の購読禁止、図書館・貸本屋の利用を禁止しました。ラジオの所有も禁止しました。情報から締め出しています。日本でも高市早苗総務大臣の「放送法違反による電波停止命令を是認する発言」がありました(2016年)。④マッカーシーはイギリスでなく、赤狩りを主導したアメリカの上院議員の名前です。

問3[ 3 ]
 (B)の文は「司馬遷は自由な経済活動を重んじ」とあるので、統制的な政策の②しか経済面の文章はないから、これが正解。容易すぎて、ちょっとばかばかしい。
 テーマ自体は、歴史の探究としては大事な点をついた良問です。しかし設問がなさけない。
 「正史……そこに記された内容が、全て紛れもない事実だったとは限らない。……彼はその中の一つを「史実」として選択したのである。正史編纂の多くが国家事業だったのに対し、『史記』はあくまで司馬遷個人が著した書物」と資料選択のテーマを提起しています。このテーマは次のマルク=ブロックの問題にも引き継がれています。
 日本の「国家事業」たる『日本書紀』以来、国家が捏造(ねつぞう)・隠蔽(いんぺい)を習性にして歴史書を作成してきました。200年頃の神功皇后の三韓征伐の話はその代表例ですね。200年頃に百済も新羅も日本という国も存在しないのに華々しいできごととしてつづられ、1945年まで、さも真実であるかのように日本人に信じ込ませました。「国家事業」だった『日清戦史』は、交戦国でない朝鮮王宮の占拠も農民の4ヶ月にわたる抵抗戦も欠落した「輝かしい」戦史を捏造しました。現在の防衛省にある「比島捷号(しょうごう)陸軍航空作戦」防衛庁防衛研修所戦史室(http://www.nids.mod.go.jp/militArY_historY_seArCh/SoshoView?kAnno=048)でも「むすび」で、「航空特攻戦法は……生還の確率皆無な攻撃法を組織化した点において、史上空前のものである。そこには深刻な経緯があったが、“神州不滅、皇軍不敗”を信じた若武者たちが祖国の重大局面を前にして、民族の伝統的精神が爆発したものとみるほかないところである……比島方面捷号作戦は、連合軍に相当の担害を与えた……」と記しています。まるで「若武者たち」が止むにやまれず起案した戦法であるかのように書いていますが、参謀本部で決めたことを文句の言えない青年たちに帰しています。それに「必死必中」といわれ、「必死」は確実な100%でも「必中」は6%前後であったのに「相当の担害を与えた」と書く神経はどこからくるのか? 病的な自殺戦法に効果があったと今も言いたいのか? こうした偽りの歴史を書くことは、ウィキペディア日本語版にも見られます(→ 

日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策 | 佐藤由美子の音楽療法日記)。

B この問題は上とつながっています。アルザス地方のユダヤ人マルク=ブロックは対独レジスタンスに参加し銃殺された歴史家です。殺されたため未完になった書『歴史のための弁明─歴史家の仕事』から、資料(史料)を選択するにしても、選択する資料そのものに限界があることを述べた文章です。使える史料(この共通テストの導入文では「文書資料」とある語句は日本語訳のみすず書房版では「史料」となっています)が残っているのは、領主でも教会・亡命貴族・非亡命貴族の3つあり、そのうち史料の保存状態が良いのは教会→亡命貴族→非亡命貴族という順番である、というものです。

問4[ 4 ]
 「前提としたと思われる歴史上の出来事」の正誤判定問題です。「あ 国民議会が、教会財産を没収(国有化)した」は教科書(詳説)では「国民議会(1789)もこれと同時にパリに移り、翌1790年には全国の行政区画を改め、教会財産を没収し」とあり、これを担保にアッシニア紙幣を発行しました。「い 総裁政府が共和政の成立を宣言し、国王が処刑された」の共和政宣言はまちがい。宣言は国民公会のとき(1792)です(『世界史年代ワンフレーズnew(以後『ワン』と略称)』では「第一今日はせい自由1792」と語呂)。「総裁政府(1795)」は公会の後の政府です。フランス革命のめまぐるしい政変の順は「国民議会→立法議会→国民公会→総裁政府→統領政府→第一帝政」で覚え方は「国立公総統帝」です(『各駅停車』)。
 「文書資料についてのプロックの説明」
 「X」引用文の初めに、ブロックは「領主の資料」が使えるといっていて「農村共同体の資料」は古い時代のものはないといっているので、これは不採用。
 「Y」「資料がよく保管されている……領主が教会である場合」だといっていて、「俗人である場合」は「最後の可能性です。これは極めて厄介」と否定的です。
 「Z」これは「第2の場合」つまり「亡命した場合」として「悪くありません」といっています。これが該当します。出来事と資料説明の組み合わせは③。前提は歴史の問題でしたが、これは国語・読解の問題でした。

問5[ 5 ]
 「嫌われた体制」とはフランス革命が否定したものなので、④が正解。①は産業革命とともに台頭する階級で、革命以前はマニュファクチュアの経営者、革命後は機械工業の経営者ですが、フランス革命当時は、産業革命がイギリスでしか起きていない現象です。②古代スパルルタの奴隷。③オランダが1830年からジャワ島で実施した制度。プランテーションのように土地は奪わず、強制的に作物を指定して作らせるものです(『ワン』強制栽培せよ、千1830)。

第2問
A 
問1[ 6 ]
 「500万ポンドに達する前に起こった出来事」ということは1776年より前ということになります。①メキシコ独立は年代が判らなくても、ラテンアメリカの独立がフランス革命やナポレオン戦争以降と思い出せたら、これははずれます。正確には1821年ですが、覚えなくてはならない年代ではありません。②ボストン茶会事件(1773)はアメリカ独立革命の重要な出来事なので覚えたほうがいい年代です(『ワン』ボストン湾1773)。これが正解。③トルコマンチャーイ条約はカージャール朝(1796〜1925)とあるのではずれます。条約そのものも覚えていい年代です(『ワン』トルコマン、頭1828)。④神聖同盟なのでウィーン会議(1814〜15)でのこと(『ワン』ウーン、会議は一1814)。昨年までのセンター試験タイプの時間差問題でした。ただセンター試験より、4文ともちがう地域のものを混在させる傾向がつよく、これは共通テストの年代の出題傾向で、年代をしっかり覚えたほうがブレにくい、といえます。

問2[ 7 ]
 「金貨鋳造量が10年以上にわたって100万ポンドを下回った背景」という時期は、上のグラフで1799〜1813年であることが判ります。下の紙幣グラフ2はその間激増している、という対照的なかたちになっています。時期はナポレオン戦争(1799/1800/1803〜1815)と重なっています。また「仮説」の文章「イギリスの[ ア ]に対する戦い」という戦いが時期的にナポレオン戦争であることは明解でしょう。ロシアもフランスと戦っていますが、イギリスと戦うのでは対仏大同盟が崩壊します。よって正解は③。

問3[ 8 ]
 「図の金貨に肖像」とそのキャプションに「1852年鋳造」とあるのでヴィクトリア女王だとわかります。1877年にインド皇帝にもなっています。首相のディズレーリが冠をさげる漫画が教科書に載っています。彼女の在位は1837〜1901年の長期で、ヴィクトリア朝とまでいわれました(『ワン』即位年の語呂「ヴィクトリア、おてん18さん37」)。①が正解。②アン女王、③エリザベス1世、④ジョージ1世。

B 
問4[ 9 ]
 「16世紀に[ ウ ]こと」とあるので明末のこととなり、①は中国と日本が逆、②は18世紀に清朝がおこなう税制のこと(『ワン』地丁銀、盗1717)、③これが一条鞭法の説明で正解(明朝が16世紀に実施、『ワン』一条、一16)、④18世紀末から19世紀。

問5[ 10 ]
 「半両銭の材料は[ エ ]です。[ オ ]が、このお金で全国の貨幣を統一……交鈔(こうしょう)の材料は[ カ ]」という文章なので、秦が戦国時代に発行していた青銅貨幣、秦の始皇帝がこれに統一し、元朝の紙幣の交鈔、という易問でした。正解は③。

問6[ 11 ]
 「父なるトルコ人」や「トルコ人の父」とはアタテュルクのこと。ケマル=パシャの尊称です。④アラビア文字でなくローマ字(ラテン文字)の誤文で、これが正解。これも易問でした。
 現在のトルコの大統領エルドアンはこの世俗化をすすめたケマル=パシャとは反対にイスラーム化政策を強行しています。「我々はオスマン帝国の子孫だ」と言い放ち、聖ソフィア寺院のモスク化、女性のスカーフ着用解禁、飲酒の規制、言論の自由否定と突き進んでいて、批判的な放送局や新聞社を閉鎖においこんでいます。

第3問 
 コロナ感染症流行に振り回された受験生にふさわしい問題で易問でした。
問1[ 12 ]
 『デカメロン』の作者は誰か(『各駅停車』ボッカチオの『デカメロン』→ぼっかメロン)、ということと、作品の特徴としてS進化論の19世紀か(『ワン』種の起源、一1859)、T人文主義のルネサンス期(14〜16世紀)かと問うています。引用文に「1348年」という年代があります。

問2[ 13 ]
 病名とその説明で正しいもの。病名はすぐ判るとして、説明文は「X」が「同じ症状」では引用文に「オリエントでは、鼻から血を出す者」とは違いますし、Z「アメリカ大陸から」というのはまちがいで一般にインドとか中国とか中央アジアとかいろいろあります。どうにしろ、まだアメリカとヨーロッパの交流がない時代です。「Y」は黒死病でヨーロッパの人口が3分の1から半分が死ぬ、というくらいの人口激減です。減り方がとくにひどかったのが英国(イングランドとウェールズ)で、ペスト前に600万人近くあった人口のほぼ半分が死亡し、18世紀初めになってやっとペスト前の水準に戻ります(『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル、東洋経済新報社)。その影響として生き残った農民の価値は高まります。小作農はよりよい労働条件を提示されれば別の荘園に移ろうとしました。ために領主にとっては嫌なことですが、地代は下がり、荘園経済の基本的な特徴だった賦役(ただ働き)は減少し、やがて消滅します。ジャクリーの乱やワット=タイラーの乱が起きました。乱側農民の要求のひとつは、賃金労働契約を自由に交渉する権利でした。ところが「西ヨーロッパでは」こうでしたが、東欧諸国では、黒死病後に農奴制が導入され土地所有貴族は、農民の労役義務を強め、現金支払も移動の自由も制約しようとしました。グーツヘルシャフトにつながっていきます。正解は⑤。

問3[ 14 ]
 『デカメロン』には確かに怪しげな修道院や修道会の僧侶たちが登場します。しかし僧侶のことでなく、「院」や「会」の問題です。これも易問でした。①モンテ=カシーノ修道院をつくったのは6世紀のベネディクトでした(『ワン』デルモンテのコ529さん)。インノケンティウス3世は教皇絶頂期の1200年前後のひと(在位1198〜1216)(『ワン』インノケンティウスさん、い1198)。②これが正文。エルベ川以東を開拓する東方植民の先駆者です。③クローヴィスとクリュニー修道院は結び付きません。時間差も大きい。クローヴィスは5世紀にフランク王国メロヴィング朝を創始したひと(『ワン』メロン、4481)で、クリュニー修道院は10世紀に建てられました(『ワン』クリュニー、求910)。④ヘンリ3世はシモン=ド=モンフォールの反乱を受けて議会召集に応ぜざるを得なかった国王です(1256年)。修道院解散はイギリス宗教改革のときにヘンリ8世がおこなったこと。かれの改革は首長法発布で名高い(『ワン』首長家は、人1534、家はイエズス会の創設と同年だから)。

B 
問4[ 15 ]
 「宗教と教育・政治」の誤文さがしです。①正文ですが、この政教分離法(1905年)なんて習わなかったよ、ということであれば正誤判断を止めておきます。正誤判定の問題は明快なまちがいを探すのが基本ですから。これはドレフュス事件(1894年)のさいに教会がドレフュスの人権弾圧の側に組みしたため、はげしい反対運動がおき、教会の政治介入を否定しなくてはならない、という意見に発展し、とうとう実現したものです。②正文。近代的な最初の大学といわれるベルリン大学は哲学が中心になります。③正文。マドラサは「学ぶ場/学校」の意味。④仏教は儒教のまちがいで、これが正解。あまりも易しい問題です。
 もっとも政教分離との関連でいえば、儒教は学問か宗教か、ということとからんで沖縄で裁判になり、儒教の祖・孔子を祭る「孔子廟(びょう)」の敷地を那覇市という公の役所が無償提供しているのは、政教分離を定めた憲法に違反する。と訴えられ、訴えは通り、最高裁は違憲の判決をくだしました(2021年3月)。

問5[ 16 ]
 「[ イ ]はこれが覚醒を促すに努め、[ ウ ]はこれが覚醒を防遏する」と革新的な傾向と。それを押さえつけようとする傾向が書いてあるので、前者が革命家、後者が官僚だろうと推理ができます。(C)「[ イ ]の事業は、ほとんど連続的に農民に対してその覚醒を促し」とあるので、スローガンは「ヴ=ナロード」だとこれも容易に推理できます。「事業」というと変な感じに聞こえるかも知れませんが、ナロードニキたちは政府がやらない事業(病院・学校の建設)を地方議会(ゼムストヴォ)を利用してすすめました。正解は②。

問6[ 17 ]
 「独り[ エ ]があって、農奴解放を行った」は誰れか、他に関連する史実は何か、というこれも易問。エカチェリーナ2世は18世紀後半を生きた女帝でした。「Y」クリミア半島獲得はトルコ人から戦争で取っています(1783)。この女帝でおぼえなくてはならないのは、プガチョフの反乱と武装中立同盟です。
 解放皇帝といわれたアレクサンドル2世(1855〜81)の農奴解放令は1861年でした(『ワン』農奴解放、奴1861)。クリミア戦争(1853、ペリー来航)の敗北から近代化を始めた、というロシア史の文脈で時間を読んでもいいです。「X」樺太・千島交換条約もかれのときです(1875年、『ワン』交換、島1875)。正解は③。

C 
問7[ 18 ]
 第1問でも問われた「正史……そこに記された内容が、全て紛れもない事実だったとは限らない」というテーマがここでも再現されています。「公式の歴史とが一致しない」「歴史記録を改ざんする仕事」をしている人物が拷問され、忠実な党員に転向する、という「概要」です。ソ連と社会主義圏の全体主義を描いていますが、国家・政府を守るために、不都合な真実を隠すための「歴史改竄」は主義も体制も関係なくどごても見られることです。
 この問題のヒントは「作家の経歴」に書いてあります。トロツキーはスターリンから追放された人物であり、スペイン内戦(1936〜39年)の下で、トロツキー派とスターリン派が争っている、という構図が読み取れれば容易でしょう。正解は①です。後にトロツキーはメキシコに潜んでいたのですが、スターリンが放った暗殺者にころされました(1940)。双方は世界革命論と一国社会主義論でも対立していました。「粛清(しゅくせい)」とは反対派の殺害です。わたしのスクラップには次のような新聞記事(朝日新聞、2002年11月27日)があります。「スターリン3万人?虐殺 穴開いた頭蓋骨次々 日本人銃殺史実も判明」と題して、

ロシアのサンクトペテルブルク近郊の村で、ソ連の独裁者スターリンに弾圧され、秘密警察によってひそかに銃殺された犠牲者の最大規模の埋葬地が見つかつた。発掘にあたったソ連弾圧史の専門家らは、最も過酷なスターリンの「大粛清時代」(36〜38年)にここで3万人以上が銃殺されたとみる。……5体分の遺骨を医学鑑定した結果、スターリンの大粛清時代に当たる38年前後に死亡したことが分かった。30〜40歳代の男女4人と10代前半の男児1人で、すべて額から後頭部に抜ける小さな穴が開いていた。穴は直径9・25ミリ。当時の秘密警察の内務人民委員部(NKVD)が処刑に用いた短銃の口径と一致した。

 この記事には日本人のことはわずかしか書いてありませんが、社会主義に憧れて行った日本人はたいていスパイとして処刑されました。憧れの国が、まさか処刑大好き国家とは知らなかった。主義がなんであれ、国家・権力というものが魔物であることに気づいていなかったのです。

 ②「抑圧体制への批判」として実例ですが、しかし作者オーウェルは導入文に(1903〜1950年)とあるように1950年までの出版でなくてはなりません。調べてみると『1984』は1949年に発表されています。それは判らなくても、「晩年」とあるので1950年に近い数字です。文化大革命は1966〜76年(『ワン』文革、天1966、1976)でオーウェルは生きていません。③開発独裁の実例はインドネシアのスカルノ、北朝鮮の金日成、韓国の李承晩や朴正熙など。④オーウェルの批判対象は北朝鮮でない。

問8[ 19 ]
 「18世紀の中国の朝廷」の手紙ということから清朝であり、「遼(契丹)から宋への亡命者」ということから、中国に合った習慣に従わなくてはならない事情がうかがえます。「改ざん前の文章」の波線部「「皮衣(かわごろも)を着て」「左前の服を脱ぎたい」が「改ざん後の文章」では「「遼朝の禄を食み」」「中国に身を投じたい」に、また「漢人の衣装を着て」が「先祖の墳墓に参り」に直されています。このように、「皮衣・服・衣装」が「遼朝の禄・身・墳墓」と修正・「改ざん」とにされているのはなぜか、という理由を問うています。
 これも易問でした・『四庫全書』は清朝(18世紀の王朝も清朝)、永楽大典は永楽帝の明朝、『資治通鑑』は北宋の司馬光の作品です。正解は②。辮髪のような風俗強制をしている清朝らしい改竄です。いわば文科省のほうから財務省(佐川宣寿・太田充)が改竄した森本文書を告発しているような問い方です。も、もちろんそんなつもりは文科省にはなく、そのようにわたしが勝手に読み取っているだけです。政治の世界は改竄に満ちていますが、押し通せる秘密はどれくらいあるのでしょうか?


第4問 「国家やその官僚は様々な文書を残してきた」とまたまたいわくありげな導入文です。
A 
問1[ 20 ]
 「ある戦争の結果として締結された条約」はいったん「破棄された条約」でもあり、その破棄されたほうの条約名が問われています。資料の内容からは支配者がイスラーム教徒(オスマン帝国)であり、被支配者のルーマニアの独立を承認することを明記しています。とすれば露土戦争→サン=ステファノ条約→(ベルリン会議)ベルリン条約しかありません。正解は②。どちらの条約でもバルカン半島の3国が同時に独立したことは覚えとかなくてはなりません。ルーマニア・セルビア・モンテネグロ、と、ひとつの国であるかのように。地図で見たら3国が斜めに並んでいるのがわかるでしょう。

問2[ 21 ]
 空欄[ ア ]は上の条約に書いてある3国以外のどこかで、独立はできなかったが「スルタン陛下の主権のもとに貢税義務のある自治公国」となっています。いずれ1908年の青年トルコ革命のさいに独立宣言をする国です。地図の位置からもブルガリアだとわかります。正解は②。aモンテネグロ、cギリシア、dキプロスです。 

問3[ 22 ]
 「上の資料の条約の締結後に起こった出来事」とはサン=ステファノ条約が1878年だから、これ以降の出来事はどれか、かつ正誤も判定しろという問題。「あ」の「イタリア」が「ボスニア・ヘルツェゴビナを併合」はありえない。この2つの地域に行く前にスロヴェニア、クロアチアを越えていかなくてはならない。ベルリン条約で2つの地域はオーストリアの管轄下であったのですが、青年トルコ革命をチャンスとして南下し併合しています。この併合に反発した事件が次の文「い」です。第一次世界大戦の発端となる事件です(1914年、『ワン』サクランボ、千1914)。この文章にまちがいはないから、正解は③。


問4[ 23 ]
 空欄[ イ ]と[ ウ ]に入れる国名をあてる。資料Xに「[ イ ]のリチャード=ニクソン大統領あるので合衆国、資料Yに「中華人民共和国と[ ウ ]の間の友好と協力」とあるのでソ連だろうと推理できます。対日の協力とあれば社会主義国同士のはずともとれます。正解は①。

問5[ 24 ]
 「資料X〜Zが年代の古いものから順に正しいもの」とあり、Xニクソン訪中(1972年、『ワン』ニクソン・田中訪中、訪中、行1972)、つまりZの「日中共同声明」はニクソン(2月)に出し抜かれてあわてて田中角栄が訪中した(9月)ので、同年ですが、X→Zの順。Yは「日本帝国主義の再起」とあるように戦後まもなく、といって中華人民共和国は1949年に樹立されるので、翌年(1950)毛沢東がモスクワに飛んで結んだ中ソ友好同盟相互援助条約。これが早い。よって正解は③。

問6[ 25 ]
 「下線部(A)中の国際環境」とは「サンフランシスコ講和会議……中華人民共和国はこの会議には招かれていなかった……当時の中華人民共和国を取り巻く国際環境が理由の一つ」はどういうことを指しているのか、という問い。とすると、まずサンフランシスコ講和会議はいつかがパッと思い出せなくてはならない(1951年『ワン』サンフランシスコ─1951)。①国共合作は1924年だから誤文ではないが戦前のことであり、時間が合わない。②中華民国とは台湾政府のことであり、国際連合の中国代表は当時は台湾の中華民国だった。これが正解。③大韓民国→北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)。④天安門事件(1989年)や香港弾圧(現在進行形)ならいいが、時間が合わない。
 この中国ぬきの講和条約が1951年である、ということは朝鮮戦争(1950〜53)の最中であり、アメリカが日本をポツダム宣言の拘束を解いて前進基地として確保し利用するためでもありました。日本に自衛隊の前身(警察予備隊)もつくらせ、自衛隊は自国を守るのでなく米国を護衛する米衛隊となりました。日本は基地を提供する米国新植民地に変貌します。いや米国の一州だ、日本州だというひともいます。 
 
C 
問7[ 26 ]
 「古代インドで多くの文学作品が書かれた[ エ ]語……」や、問い方の「空欄[ エ ]語で書かれた文学作品」とあるので、サンスクリット語と推理できます。支配者のムガル帝国はペルシア語としても、ムスリム全体はアラビア語が多かったははずです。「文学作品の名」は「あ」がカーリダーサの作品(『各駅停車』の覚え方→借金借りだーさ)、「い」はイラン人オマル=ハイヤームのもので、ペルシア語の作品です。「資料から読み取れる事柄」は「W」のように考えているひともいると資料に書いてあり、「X」はいないということを資料に「否定する人を、私は彼らの中に一人として見出せませんでした」という文章で表しています。なんか簡単すぎて、これ本当に思考力を問うている? いや簡単すぎることはいいことです。熱烈歓迎。正解は①。

問8[ 27 ]
 「英語教育導入の動機」と「植民地政策の特徴」の組合せ。「う」の「イギリス統治以前の諸王朝で用いられていた」は英語でありえない。英国が来てはじめて英語が話されるので、誤文です。「え」が会話文の「植民地政府は英語も使えるインド人役人を必要」とあるように、英国らしい政策です。この正誤判定も簡単すぎませんか? 「Y」藩王国という間接統治地域は550もありました。イギリスに協力するならば、以前の王位は認められたからです。「Z」仏教徒➔ヒンドゥー教徒です。仏教発祥の地はインドですが、仏教はインドでは少数派です。現在1%前後という。正解は③。この問題も簡単すぎませんか?
 
問9[ 28 ]
 下線部「ムガル帝国」①「タミル語」は南インドにいるドラヴィダ人の言語のひとつであり、ペルシア語となんら関係はない。②シャー=ジャハーンが愛妃ムムターズ=マハルのために造らせた白い大理石の廟です。これが正解。③ワヤン文化はジャワの影絵芝居。わたしが骨董屋で買ったワヤンは牛革でつくられていて、きわめて丈夫です。どんなものか知らないひとは次を見よ→https://www.youtuBe.Com/wAtCh?v=SjyHS1GkCdk ④ウルグ=ベクはティムール帝国第4代君主でティムールの孫。 

第5問
A 
問1[ 29 ]
 正誤問題です。①は「ラテン語からトルコ語への翻訳」でなくアラビア語からラテン語への翻訳です。この島のパレルモ市がその場所でした。「12世紀ルネサンス」のトレド市とともに中心都市です。これが正解。②のノルマン人がアラブ人が支配していたこの島を11世紀に征服してから両シチリア王国がつくられ、謙虚にイスラーム文化圏のほうが自分らより上だとみて勉強しました。無知な十字軍兵士は何も学びませんでしたが、ヴァイキングはちがいました。かつての支配者イスラーム教徒はユダヤ人、キリスト教徒、ビザンチンのギリシア人、ベルベル人など多民族の学者を優遇していて、ヴァイキングはそれを受け継ぐだけでよかった。船で北に向かうと大学街のサレルノがあり、こことも交流が盛んでした(The MAp of Knowledge,Violet Moller,PICADOR)。③1943年米英軍がシチリア島から南イタリアへと上陸すると、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世がムッソリーニを解任して逮捕・投獄しました。枢軸国側の最初の無条件降伏となりました。④順としてはフェニキア人が先で、後でギリシア人が東部に来ます。双方の争いはローマの介入するところとなりポエニ戦争に発展しました。

問2[ 30 ]
 空欄[ ア ]は、「地域2」の文章にヒントが満載です。「島国の首都……大陸の王家とも関係……14世紀に始まり15世紀まで続いたこの戦争……1851年に万国博覧会」とあるのでイギリス・ロンドンのことだと判ります。「[ ア ]の国の歴史について述べた文」は「の王位をめぐる戦争」とあるのでこのイギリスと戦ったフランスです(百年戦争)。とすれば「あ」が正文で「ルール占領」を「第一次世界大戦後」にやっています(1923年『ワン』ルール、い1923)。「い」のカルマル同盟はデンマークと組んだのはフランスでなくスウェーデン・ノルウェーでした。
 [  イ  ]に入れる文は「X」百年戦争の一因です。当時のイギリスは植民地のように原料供給地・製品市場でした。つまりフランドルのブルージュ・ガン・アントワープなどに原毛を輸出していたのです。ところがフランドルで戦争がはじまると毛織物の技術者がイギリスに亡命してきて、かれらを保護したことからイギリスが毛織物工業国に代わっていくのです。最終的にイギリスは敗戦国になりますが、技術移転がおきました。戦後のテューダー朝がこの産業で台頭してきます。よって正解は①。「Y」ノルマン朝は1066年にノルマン=コンクェストの結果としてできるので(『ワン』ノルマン、コント106ール6)、百年戦争(1339〜1453)とは時間がずれています。「戦争中」にできる王朝はランカスター朝です(1399)。この戦争中のランカスター家とヨーク家の争いが百年戦争後にばら戦争に発展します。

問3[ 31 ]
 「古代ローマの支配下に入った順」を問うているので、地域3が内容からアテネと判ります。どうしても今年はこのオリンピック話題を入れたかった、というところでしょうか。はて、開催できるかな? 
 「地域1」シチリア島はポエニ戦争(前264〜前146)の発端であり、かつ最初の属州でした。「地域2」はクラウディウス帝が43年にブリタニア南部の征服に成功しています。地中海から遠いからだいぶ後だろうな、という推理であたっています。ローマの拡大はシチリア島からはじまり、地中海世界一帯、そしてガリア(フランス)、そしてイギリス(当時はブリタニア)と北に延びていきました。
 「地域3」はギリシアを征服する戦争は、マケドニア戦争といって第二次ポエニ戦争(別名ハンニバル戦争)と第三次ポエニ戦争の間が約50年空いていて、その間におこなった戦争(前215〜前148)です。東地中海(ヘレニズム世界)征服戦争でした。戦闘は前168年でほぼ終わっています。マケドニアとは当時のギリシアのことです。正解は②。地域1(ポエニ戦争)→地域3(東地中海征服)→地域2(紀元後元首政下の征服)の順。


問4[ 32 ]
 「空欄[ ウ ]に入れる人物の名」はこの石碑を造らせた「韓国」「朝鮮」の「幼かった国王に代わり、当時の実権を握ってい」た人物なので、清末の宮廷を牛耳っていた「あ 西太后」でなく「い 大院君」であることは容易です。教科書(詳説)には「1860年代にはいると、欧米諸国は鎖国を続ける朝鮮に対し開国をせまるようになった。しかし、高宗の摂政大院君はこれを拒否し、攘夷につとめた」と書いてあります。「[   エ   ]に入れる文」も「X」でなく「Y 欧米列強に対して徹底的に抗戦すること」であることは、「洋夷」「斥邪」「邪教」という語句でも明らかです。正解は④。容易すぎる問題でした。

問5[ 33 ]
 「キリスト教を邪教」にたいして「朝鮮が重んじた[ オ ]を正しい教え」は何かというこれも易問。儒教・儒学・朱子学の説明として正しいものを選べというセンター試験のような問題。①道教、②陽明学の批判は性即理・理気二元論・客観性・主知主義にたいして心即理・一元論・主観性(致良知)・実践性(知行合一)を対峙している点です。これが正解。③仏教、④全真教。

問6[ 34 ]
 年代順の問題なので、4つのことが何を指しているか判らないとどうしようもないですが、どれも干支(えと)の文字が文章の中にあるので想起しやすいつくりです。ただ年代がみな近いので、今回の唯一の難問だったといえるでしょう。
 う壬午軍乱(壬午事変、1882年、『ワン』痔後、ひと1は8恥82ずかしい)は、俸給米の遅れ、朝鮮軍を指導する日本軍教官の横柄な態度、米と金の買い占めに走る商人と銀行家、日本に取り入る閔妃一族が許せないと一族殺害と日本公使館襲撃にいたった事件です。大院君がやらせたらしいクーデター事件ですが、清朝が袁世凱に介入させて鎮圧し閔妃が復帰します。閔妃は親日から親清に転換します。
 え甲申事変(清仏戦争と同年であり、またこの戦争をチャンスととらえておこなったクーデター失敗事件、『ワン』神仏交信、火1884)は壬午軍乱の後に開化派は親清の事大党と親日の独立党に分裂し、後者がおこしたものです。親清の閔妃政権を倒すべくおこした親日派官僚のクーデターですが三日天下で終わります。福沢諭吉がしくんだと見られています。失敗が明らかになると福沢は「今回の事変で日本はその被害者であり、支那と朝鮮は加害者である。私が目指す当の敵は支那であるから、まず朝鮮京城の支那兵を皆殺しにし、我が兵は支那に侵入し、直ちに北京城を陥れ、支那人もどうすることもできなくなり、我らが正当の要求を承諾し低頭し謝罪するまでの処置を取らなければならない」と書きます。福沢は他国にたいして平然と軍事介入を扇動するヘイトスピーカーでした。
 お甲午農民戦争(1894年、『ワン』1894)は日清戦争の原因とした戦争です。この農民反乱は李氏朝鮮政府にたいする反乱・戦争であり、日清は無関係でしたが、政府が清朝に援軍を求めたため朝鮮半島を戦場にたたかうことになりました。しかし政府と農民とは全州和約で和解してしまい、戦闘が始まる前に終わっており、日清両軍の派兵の意味がなくなりました。日本軍は甲申事変後の日清天津条約(1885)にしたがって派兵したものの、目的がなくなり、朝鮮政府の改革という別の目的を創作し、かつ宮廷を占拠して国王をあやつり、進軍撤退を言わせます。断わった清朝との戦闘に入ります。さらに再蜂起した農民との戦闘がありました。つまり教科書のように「全琫準らが甲午農民戦争(東学党の乱)をおこすと、両国軍が出兵して日清戦争となった(詳説)」というほど単純な戦争ではありません。四国の「後備歩兵第十九大隊」が抵抗する農民を殲滅(せんめつ/ジェノサイド)した戦争でした。日清戦争は呼び名がまちがいで、日清朝戦争と呼ぶべき戦争です。
 正解は①。覚え方(『各駅停車』)は「壬午軍乱→甲申政変→甲午農民戦争→日清戦争→下関条約→三国干渉(頭文字)壬甲甲日下三 じここにしさん(事故小西さん)」   

 結論としての対策
 ①センター試験とレベルは変わらないが、出題の形式がかわったためとっつきにくくはなりました。しかし基本的には正誤問題なので、従来のセンター試験過去問で正誤判断の訓練をすること。市販の共通テスト問題集は役に立たない。この共通テスト風の難易度、どちらかといえば易しめの問題をつくるのは意外と難しいからです。難しい問題はつくりやすいものです。
 ②時間差問題も相変わらずよく出題しているので、年代を覚えることは得策であること。とくに共通テストの時間差問題は資料読解問題が易しいために、時間も場所もバラバラな出来事が並列されていて、時間差で受験生を迷わせようという意図が見えます。中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)を勧めます。抜群におぼえやすい。
 ③資料として史料が材料になるのは、これで確定した形式ですが、そうかといって資料集のようなものを勉強する必要はないようです。教科書にのっている史料(ハンムラビ法典、マグナ=カルタ、権利の章典、アメリカ独立宣言、人権宣言)は必ず把握しておいてください。他のものに関しては、今回の問題でもわかるように、出題しそうな史料というのはまず当てることはできない。問題は容易でも問題そのものはけっこう専門的な内容になっているので大学教授がかかわっていることは明らかです。教授の専門性にせまることは不可能でしょう。史料を出しても高校生にわかるような、読めるレベルに直して出していますから、史料探しをする必要がありません。
 ④地図を絶えず参照しつつ勉強すること。センター試験でもそうでしたが、これは今回の場合でも「ブルガリア」の位置を問う問題は教科書(詳説)では「ベルリン条約後のバルカン半島」という地図に載っていて、地図は教科書は豊富にあるので、これも他の参考書をあさる必要がありません。
 教科書・『世界史年代ワンフレーズnew』・古いセンター試験問題集の3点で満点をねらいましょう。

一橋世界史2021

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 19世紀半ばに行われたイスタンブルのアヤ・ソフィア・モスクの修繕工事において、内壁の漆喰の下から、この建物がモスクに転用される前のハギア・ソフィア聖堂と呼ばれていた時期に製作されたモザイクが多数確認された。そのうちのひとつ、聖母子像を描いた9世紀半ばのものとされる破損により一部しか現存していないが、当初は「異端者によって破壊された像をここに取り戻す」と言う内容の銘文がつけられていたことが分かっている。モザイクはその後いったん漆喰で埋め戻されたが、1930年代から改めて本格的な調査・修復が始められ、同時期に決定されたモスクの博物館への転用を経て、一般に公開されるようになった。

問い この建物の建造の時代背景、および、政治的・社会文化的背景を説明した上で、複数回にわたる転用がなぜ起こったのかを念頭に置いて、この建物の意味の歴史的変化を論じなさい。(400字以内)

第2問
 ヨーロッパ文化に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 「シェイクスピアのイングランド」(a)「ゲーテの時代」、このような言葉から人々はある特色によって内面的に統一された文化現象の全体的印象を受ける。いやそれ以上に、後代の人々が一種の憧憬れの感情を以て見返るようなもの、後代には既に失われた青春の活力、後代がわずかにその余映を仰ぐような新しい指導価値が、突然に国民の中に芽生え、成長し、彼らの月並みな伝統的生活、その動脈硬化的生活力を一新する時代、いわば歴史的最良の時代を想い浮かべる。ちょうど、それと同じような意味で(b)「レムブラント[レンブラント]時代」という言葉がオランダの歴史家たちによって使われる。
(松村恒一郎『文化と経済』により引用。ただし一部改変)

問い 下線部(a)(b)について、ゲーテの時代とレムブラントの時代の文化史的特性の差違を、下の史料1及び史料2を参考にし、当該地域の社会的コンテクストを対比しつつ考察しなさい。(400字以内)

史料1
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  (レンブラント「織物組合の幹部たち」)

史料2
 たしかにわれわれの帝国の体制はあまりほめられたようなものではなく、法律の濫用ばかりで成り立っていることをわれわれも認めたが、フランスの現在の体制よりはすぐれていると考えた。〔中略〕しかし他の何物よりもわれわれをフランス人から遠ざけたのは、フランス文化追従に熱心な王と同じく、ドイツ人全般に趣味が欠けているという、繰り返し述べられる無礼な主張であった。〔中略〕フランス文学自体に、努力する青年を引きつけるよりは反発させずにはおかないような性質があったのである。すなわち、フランス文学は年老い、高貴であった。そしてこの二つは、生の享受と自由を求める青年を喜ばせるようなものではなかった。
(ゲーテ『詩と真実』より引用。但し、一部改変)

第3問
 次の文章を読み、問いに答えなさい。

 1977年8月、第11回中国共産党代表大会が開かれ、華国鋒が「政治報告」をおこなった。そのなかで彼は依然として継続革命論を「偉大な理論」と称賛し、党路線の中心は「毛主席の旗織を掲げ守ること」と強調している。しかし同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとの認識に立ち、「第1次文化大革命の終了」を宣言し、「4つの近代化建設」を掲げた。ここでの華国鋒の主張は、まさに彼が毛沢東の威信に依拠したために毛の遺産を背負いながら、同時に混乱した経済・社会、そしてむろん政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。他方、鄧小平の戦略は極めて明確であった。政治闘争に明け暮れる雰囲気をいかに一掃して経済再建、経済発展に力を集中するかであった。そのためには、文革路線、毛沢東路線さえ事実上、否定してもかまわない、それを積極的に支持するグループを排除しなければならないという決意だったのだろうか。もちろんできる限り政治混乱を起こさないで「巧くやる」ことが大切だという前提であった。
(天児慧『巨龍の胎動:毛沢東VS鄭小平』より、一部改変)

問い「第1次文化大革命」の経緯を述べた上で、「4つの近代化建設」が1980年代の中国に与えた影響を説明しなさい。(400字以内)
………………………………………

コメント
第1問
 問いは「建物の意味の歴史的変化」ですが、これはこの帝国の都にあるので、けっきょくは帝国の支配者がどう変わったのか、という問いでもあります。ローマ帝国の後半、コンスタンティヌス帝が首都と定めた330年から東ローマ帝国領であり、それが660年のムアーウィアの攻撃がありながら、1453年にメフメト2世による陥落まで帝国領でした。

 ユスティニアヌス帝はこの寺院の創建者ではなく、再建者です。教科書(詳説)「ユスティニアヌス大帝は……『ローマ法大全』の編纂や,ハギア(セント)=ソフィア聖堂の建立などの事業に力をそそぎ」と「建立」の字があてられていますが、三省堂の『詳解世界史』(絶版)では注に「ギリシア正教世界にはこの名をもつ聖堂が数多く建てられたが、ユスティニアヌス帝が再建したこの建物が最もすぐれている」と「再建」としていて、こちらのほうが正しい。4世紀半ばに創建され、ユスティニアヌス帝のときにはニカの反乱で燃えおち、それを再建したものです。
 1453年まで変化としては、8世紀のレオン3世による聖像崇拝禁止令による破壊があり、9世紀には元にもどってイコン重視に落ちつき、そのことで西方ローマ教会との対立が鮮明になりました。正式には東方正教会と呼ぶ現在のギリシア正教が形成されます。
 また第4回十字軍によるラテン帝国成立でカトリックになり、それがジェノヴァ支援によるニケーア帝国でまた東方正教会にもどり、それが保たれていた帝国は1453年を迎え、イスラーム世界の領土になり、モスクとして造り直されました。20世紀にケマル=パシャによるトルコ革命の一環、世俗化政策として博物館仕様に変わりました。
 これだけの事柄を400字で書かせるのは字数が難題です。データがあまりないので、完結感のない解答文になるでしょう。聖像崇拝問題のところや第4回十字軍、ケマルの改革(トルコ革命)のところを詳し目に、ふくらまして書く、ということでマス目を埋めざるを得ないでしょう。
 この問題は2020年7月10日、エルドアン大統領が、このアヤソフィア(聖ソフィア寺院)をイスラーム教のモスクに変更すると発表したことに刺激されて作問したようです。ケマル=パシャの世俗化政策に反対するイスラーム化政策の一環です。公の場でのスカーフの着用を厳禁していたのを解除し、言論の自由を制限しています。オスマン帝国の「スルタン」を気どっているらしい。イスラーム世界によく見られる回帰主義・原理主義です。

第2問
 比較の問題です。「対比」は相違点を指摘しつつ書くことが求められています。「文化史的特性の差違」は「当該地域の社会的コンテクスト」すなわち背景も違っているので、そこから導き出される相違点です。
 史料1のレンブラントの絵「織物組合の幹部たち」は、かれがよく描いた群像の絵です。自画像はかれ自身の関心だとしても、頼まれて肖像画や群衆画をたくさん描いたのは注文主の豊かな財力を表しています。
 史料2はゲーテが政治体制はフランスよりすぐれているが、フランス文化に引き付けられもするが反発もあると、フランスにこだわっているドイツ人の姿を批判しています。独自のものをつくることのできないドイツの悩みが表されています。「生の享受と自由を求める青年」はゲーテ自身でもあるでしょう。
 二つの史料はまったくかみあわない内容ですが、ここから無理にでも対比できる対象を探さなくてはなりません。
 予備校の解答例で対比の勉強をしてみましょう。
(解答例─K)
「レンブラント時代」のオランダはスペインから独立を果たし,国際貿易で繁栄していた。同時代のフランス・スペインでは王侯の権威を誇示する豪華なバロックの歴史画などが発展したのに対し,オランダは商人貴族が支配する共和国で,宗教的寛容の風潮のもと富裕な市民団を中心に国際的な文化が花開き,レンブラントは市民を相手に日常を題材とした肖像画を制作した。「ゲーテの時代」のドイツでは,フランスの古典主義演劇やフランス語などの宮廷文化,ヴォルテールの啓蒙思想が広まり賞揚され,プロイセンのフリードリヒ2世のような啓蒙専制君主も現れた。これに対しゲーテはフランスの絶対主義を批判し,分権的な領邦国家体制の下で市民層が成長して文化の担い手たりえたドイツの現状を擁護しつつ,個人の解放と,啓蒙思想が重視する理性に対する人間感情の優越を主張する文学運動である疾風怒濤を起こした。この運動は19世紀のロマン主義の先駆となった。

 上の解答例を分解してみます。
「レ」①国際貿易で繁栄、②商人貴族、③共和国、④宗教的寛容、⑤国際的な文化、⑥日常を題材
「ゲ」②王侯の権威を誇示する豪華なバロック、⑥宮廷文化、⑤啓蒙思想が広まり、③分権的な領邦国家体制
……「レ」と「ゲ」で解答文の順で書きだしてみて、対応している内容に番号をふってみました。①と対応する経済面は「ゲ」にはありません。②は商人と宮廷の対比はできてます。⑥の日常と宮廷も対比になっています。③オランダは7つの州の連邦でホラント州の総督は外交を代表して主席総督という地位にいますが各州は自治制が強いので、政体は分権的な点は共通しているはずですが、しかしドイツの中身は領邦の君主たちは絶対主義のはずで、歴史用語としても「領邦絶対主義」ということばがあります(「三十年戦争と領邦絶対主義の形成」という題の中村賢二郎の論文『世界歴史 15』岩波書店)。「レ」の国際的文化とはどういうものか不明ですが、「ゲ」の啓蒙思想も国際的な文化のはずです。対比はできていません。
 末尾に書いてある「個人の解放と……ロマン主義の先駆」はオランダのどういう分野との対比なのか不明で浮いています。たとえ当時のドイツを正しく説明していても対比が成立していない以上無駄な文章です。とするとできているのは、②と⑥の2箇所ということになります。
 こういう、ちぐはぐな解答文は、準備として対比的な構想メモをつくらなかったためです。混乱した文章になりましたが、書いたひとは混乱しているとはおもっていないでしょう。適当にデータを盛り込んだら、自動的に対比したことになるはずとおもっている。こうした解答例を分解する方法は、他の予備校の解答例でもやってみてください。まともな解答文がいかに少ないか判明します。比較文が書けるひとはとても少ない。
 比較文のつくり方は双方の史料のちがいから始まります。まず時間がちがいます。レンブラント(1606〜69)の時代は17世紀であり、ゲーテ(1749〜1832)の時代は18世紀後半と19世紀前半です。前者の国はネーデルラント連邦共和国であり、後者の国は有名無実化している神聖ローマ帝国の中のヴァイマル公国(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国)という領邦の一つです。
 史料1の「幹部たち」は大商人層で都市貴族とも呼ぶくらいの市参事会の有力者たちです。これが共和国の実質的な支配層であり、後者の公国はゲーテがそうであるように土地所有貴族たる領主たちです。前者は企業家であり、後者は荘園主です。前者は中世以来の都市自治と市民の自由を重んじていて、共和国といっても7州にそれぞれに総督と議会があり、全体を統括する枢密院はあっても君主はおらず、ホラント州総督が外交面で共和国を代表する主席総督になっていますが、全体を統括する力は弱い地位です。後者には公国の領邦君主たる啓蒙専制君主がおり、集権化を志向しています。
 問われている「社会的コンテクスト」にこうした政治的なことが含まれているか不明ですが、引用文の『文化と経済』では政治的なことがけっこう書いてあります。
 一般に「社会」とあれば政治以外のことを指すのですが、史料2に「フランスの現在の体制よりはすぐれていると考えた」と政体のことが出てくるので、許容してもいいでしょう。
 「社会」の大きい要素は経済です。「レ」時代の共和国は17世紀がその黄金時代というくらいに海外に進出して大きな利益をあげた時代でした。長崎に、バタヴィアに、アレッポに、ケープに寄港していました。「世界の船舶量2万隻の中ホーランド(オランダ)は1万5000ないし6000を有ち、フランスは500ないし600隻のみを保有するにすぎぬと言う。たとへそれらの言葉に多少の誇張が含まれているにしても」(前掲書p.416)というくらいでした。こうした貿易業の土台に国内の手工業(毛織物、造船、陶器、醸造、時計)、また漁業(北海の鯡・鱈)、東欧との穀物取引も盛んでした。世界初の公立銀行たるアムステルダム銀行があり国際金融の中心でもありました。一方のドイツはハンザ同盟はないにひとしく、人口減少は17世紀は三十年戦争のためにひどかったものの、18世紀には回復傾向にはなってきました。前者のように手工業の発展は見られないばかりか、何より海外に進出することもなく、前者のような都市の発展は見られません。欧州内に閉じこもっています。
 これらのコンテクストの下で、前者では市民・群衆の庶民的な文化がおきました。レンブラント以外に、ハルス、ルイスデール、フェルメール、ホーホなどがいます。かれらの描いたものの特色を引用文の著者は「荘重厳格な様式の欠乏、隈々極めて常識的ともいってよい現実の生活世界を対象として、これをありのままに忠実に描写することに対する喜びに於てその特色を示す。彼等の尊ぶのは高遠な思想や荘厳雄大な構想ではなく、むしろ日常生活での快感や有益性に役立ち、作者の手工業的熟練を証明するようなものが尊ばれる」(前掲書p.346)と述べています。
 また全欧の学者が来集するくらいの大学教育がありました。スピノザ、デカルト、ロックです。ライデン大学は西欧科学の最先端でした。ホイヘンス、デザギュリエ、グラーベサンド、ド=ル=ボウェイ、ヘルマン=ブールハーフェなどです(山本義隆『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』現代数学社)。
 後者のドイツでは、貴族たち(ゲーテ、ノヴァーリス)、法律家や医師・官僚の子弟であったヘルダーリン、シラー、グリム兄弟など、どちらかといえば上層階級の知識人たちによる文化が目立っています。これらの知識人にふさわしいものは当時は「古典主義」文学であり、古代ギリシア・ローマの文化を理想とし、調和と形式的な美しさを重視することでした。ナポレオン戦争後にこれらがロマン主義に転換しても、中世や神聖ローマ帝国への回帰が見られ、世界に目を開いたオランダとはあまりにも対照的な傾向が現れていました。時間は「ゲーテの時代」のほうが新しいのに過去に目を向けています。

第3問
 文化大革命に「第1次」の付いた語句は教科書にないものですが、引用文に「1977年」という時間が示されているので、教科書に書いてある1966〜76年(中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』パレードの語呂「1966、1976」)の文化大革命と同意であることが分かります。また1977年ということは「報告」の前年に「第1次」が終わったばかりであることも気がつきます。じっさい第2次はなかったのすが、華国鋒としては、この後もつづいて「継続革命」が起きると想定しての演説でした。
 課題は①文化大革命の経緯、②「4つの現代化建設」、③は②が1980年代の中国に与えた影響の3つです。
 ①文化大革命の経緯は、毛沢東の国家主席失脚→劉少奇の就任→経済復興→毛沢東の奪権闘争の開始・劉派を「走資派」「実権派」と非難・紅衛兵の大衆運動を利用・→劉派の失脚・毛林体制→毛沢東の死・四人組逮捕(文化大革命の終了)
 ②華国鋒の「四つの現代化(工業・国防・農業・科学技術)」を推進・文革犠牲者の復権→鄧小平の復権と経済改革(人民公社の解体と農業生産の請負制,外国資本・技術導入による開放経済,国営企業の独立採算化)
 ③影響は、学生・市民の民主化(第五の現代化)要求・天安門事件と鎮圧、高度経済成長期に入る(生産・貿易・金融の急激な成長、GDPで日本を越す経済大国に)。貧富差の拡大。

 ②の中で華国鋒の位置が微妙です。「毛沢東の威信に依拠……政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。他方、鄧小平の戦略は極めて明確」という毛と鄧の間にたっていた、という点は、どっちつかずの曖昧さが批判の原因となり4年で失脚することになりました。このあたりは、意外やアメリカ国務長官のキッシンジャーが明快に説明しています(キッシンジャー『中国 下』p.415)。
 「彼には政治的な支持基盤が欠けていた。彼が権力の頂点に上り詰めたのは、対立する主要派閥、すなわち四人組と、周恩来・鄧小平の穏健派の、どちらにも所属していなかったためだ。毛沢東が舞台から去ると、華国鋒は、毛沢東主義者の、集団化と階級闘争という指針への批判を許さぬ信奉と、経済的、技術的な近代化という鄧小平の理念との折り合いを付けるという、この上ない矛盾につまずいてしまった。四人組の信奉者は、ラディカリズムが足りないといって華国鋒に反対し、鄧小平とその支持者らは、次第に、あからさまに、プラグマティズムが足りないと言って華国鋒を拒否するようになった。」