世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2022年合格メール

2022年合格メール

Aくん 3.6 13.58
本日、東京外大英語科の合格が決まりました。
12月頃から約10年分の過去問を添削していただき、心より感謝致しております。
今年の外大は「第一次世界大戦後の国際秩序における可能性と限界」についての400字論述が出題されましたが、これは2009年の過去問と被る部分があり、比較的スムーズに書けました。これも中谷師のおかげです。
今まで本当にありがとうございました。

Bくん 3.10 10.13
今、一橋大学法学部の合格発表があり 一橋大学法学部に合格してました。 
11月からの3ヶ月ほどの間でしたが 先生の丁寧な添削指導のおかげで日に日に、世界史の論述力が向上して行くのが実感出来ました。 
先生には感謝してもしきれないです。

Cくん 3.10 15.43
合格です。東京大学文一。
過去問演習(『東大世界史解答文』で正しい方向性を身につけること)による実践力の蓄積と最後まで「世界史力」そのものを伸ばそうとする努力が、合格への近道だと再確認できました。本当にありがとうございました。 


Dくん 3,10 10.37
一橋大学に合格しました。
短い期間でしたが添削本当にお世話になりました。自分は周りに添削してもらえる環境がなかったため、先生の添削が頼りでした。自分だけでは気付かないところまで細かく見て頂いたことで論述力がどんどんついていくのを実感できました。
本来は直接お礼をいうべきなのですが、メールという形となってしまいすみません。本当にありがとうございました。

Eくん 3.10 19.17
受験の際には、世界史の論述の添削・採点をしていただいて、ありがとうござい ました。
この度、京都大学文学部に合格をいただきました。
先生の参考書・添削のおかげで点に繋がる論述が書けるようになったと思います。
本当にありがとうございます。

Fくん 3.10 20.27
一橋大、合格しました。
社会学部に無事合格することができました。
再現答案をお送りします。

Gさん 3.10 20.58
本日合格発表があり、京都大学総合人間学部に合格することができました。
全く世界史が頭に入っていなかった9月から添削をお願いし、先生に提出すると思って、定期的に世界史の勉強ができるようになり、添削問題を調べながら解いて学習して力をつけられたと思います。添削もとてもわかりやすく、毎回楽しみにしていました。前日から当日にかけても全部の添削を復習し、不安はあるものの自信を持ってテストに挑めました。本当にご指導ありがとうございました。

Hさん 3.12 11.34
中谷先生、お久しぶりです。昨年秋頃から添削をお願いしていたHです。
無事、一橋大学社会学部に合格することができましたのでご報告させていただきます。先生の丁寧な添削のおかげで合格できたと思っています。本当にありがとうございました。

I  くん 220313 1128
阪大医学部、合格でした。共通テスト社会は、直前期まで手付かずの場合が多いのですが、『各駅停車』を勉強して、自然に仕上げることができました。おかげさまで、共通テスト世界史、92点でした。

Jくん 220608 1735
東京大学文科三類に合格しました。本当にありがとうございました。
当日は、世界史の解答欄をずらして書き終えるミスをしてしまい、消して書き直すのに大幅に時間を奪われてしまいました。しかし、それでも合格できたのは先生の添削を通じて世界史論述の枠組みが仕上がっていたからだとおもいます。
添削に加え、先生の世界史論述練習帳の60字の記述が東大第2問に非常に役立ちました。これを何度も染み込ませるように読んだことで自分のアウトプットする表現の正確さに対する自信が尽きましたし、なによりスピードが出ました。
これからも邁進します。

東京外国語大学・世界史2022

第1問
 次の[A]〜[F]は、第一次世界大戦後の国際秩序をめぐって、1918年以降に書かれたものの抜粋である。これらの史料を読み、以下の問に答えなさい。〔60点〕

[A] ウィルソン大統領のアメリカ合衆国議会宛教書(14カ条)(1918年1月8日)
 われわれが、この戦争の結末として要求することは、われわれに特殊なことではまったくありません。それは、世界が健全で安全に生活できる場となることであり、とりわけ、すべての平和愛好国家にとって安全となることです。〔中略〕世界中のあらゆる人々は、実質的に〔中略〕利害を共にする盟友であり、われわれは他の人々に正義が行われない限り、われわれにも正義はなされないということを明確に認識しています。世界平和の実現のための計画は、したがって、われわれの計画でもあります。そして、われわれの考える唯一可能な計画とは、以下のようなものです。〔中略〕

第5条 すべての①植民地に関する要求は、自由かつ偏見なしに、そして厳格な公正さをもって調整されねばならない。主権をめぐるあらゆる問題を決定する際には、対象となる人民の利害が、主権の決定をうけることになる政府の公正な要求と平等の重みをもつという原則を厳格に守らねばならない。〔中略〕
第14条 大国と小国とを問わず、政治的独立と領土的保全とを相互に保障することを目的とした明確な規約のもとに国家の一般的な連合が樹立されねばならない。

〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。なお、一部の表現を改めた。〕


[B] ②ホー=チ=ミン反革命的な軍隊」(1923年9月7日付、フランス労働総同盟の機関紙『ラ・ヴィ・ウーヴリエール』(パリ)に掲載)
 植民地紛争が1914〜18年の帝国主義戦争の重要な一因だったことを、われわれは知っている。〔中略〕フランスの労働者階級の認識せねばならぬことは、植民地主義が労働者階級の側の解放のあらゆる試みを打ち敗るため、植民地に依存しているという事実である。多かれ少なかれ階級意識に感染した白人の兵にはもう絶対的信頼がおけないので、③フランスの軍国主義はその代わりにアフリカやアジアの原住民を使っている。フランス陸軍の159連隊のうち、10は植民地の白人、すなわち半原住民、30はアフリカ人、39は他の植民地出身の原住民から成っており、こうしてフランス陸軍の半分は植民地から徴募されているのである。
〔出典:ベルナール・B・ファル編、内山敏訳『ホー・チミン語録─民族解放のために─』河出書房新社、1968年。〕

[C] 国際連盟規約(1919年6月28日調印)
 締約国は、戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の規準として④国際法の原則を確立し、組織された人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
〔中略〕
第11条 戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響がおよぶか否かを問わず、すべて連盟全体の利害関係事項であることをここに声明する。連盟は、国際的平和を擁護するために適当かつ有効と認められる措置をとる。(中略〕
第16条 第12条、第13条または第15条における約束を無視して戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。他のすべての連盟加盟国は、⑤その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶[中略]をただちに行う。
(出典:歴史学研究会編「世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。)

[D] 中華民国全権代表団がヴェルサイユ講和条約調印拒否を本国に報告する電文(1919年6月28日)
 ヴェルサイユ講和条約の調印について。〔中略〕⑥山東問題の件で、我が国はつぎつぎに譲歩しました。最初は条約の本文に〔山東権益の返還を〕明記することを主張しましたが認められず、ついで条約のうしろに付記することを主張しましたが認められず、条約外に改めても認められず、わずかに声明するだけで文字にとどめるにはおよばないと主張しましたが、それでも認められませんでした。〔中略〕この件は、我が国の領土の完全および前途の安定ときわめて大きく関わっております。〔中略〕弱小国の交渉は、最初は争っても最後は譲歩するしかないというのが、ほとんど慣例となっております。今回、もしさらにこらえて調印すれば、我が国の前途はさらにいうべきものがなくなってしまうでしょう。〔中略〕詳しく検討しましたが、やむを得ず、当日は調印に行くのをやめました。
〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。なお、一部の表現を改めた。〕

[E] ヤップ島及他ノ赤道以北ノ太平洋委任統治諸島二関スル日米条約(1922年7月14日)
 日本国およびアメリカ合衆国は〔中略〕、ドイツ国ヴェルサイユ条約にいう主たる同盟および連合国たる諸国〔中略〕のために、その海外属地に関する一切の権利および権原を放棄したることを思い、〔中略〕⑦4つの国〔中略〕は、ヴェルサイユ条約により太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ領諸島群につき、以下の条項に準拠してその施政を行う〔こと〕の委任を日本国皇帝陛下に付与することに一致したることを思い、
第1条 日本国皇帝陛下(以下受任国と称す)に委任を付与したる諸島は、太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ領諸島の全部を含む。
第2条 受任国は本委任統治条項による地域に対し、日本帝国の構成部分として施政および立法の全権を有すべく、かつ情況に応じ必要なる地方的変更を加えて、本地域に日本帝国の法規を適用することを得。
 受任国は、本委任統治条項による地域の住民の物質的および精神的幸福ならびに社会的進歩を極力増進すべし。
〔出典:アジア歴史資料センターHP。なお、条文を現代仮名遣いに変更したほか、一部の表現を改めた。〕

[F] ⑧パリ不戦条約(1928年8月27日)
第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することをその各々の人民の名において厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争または衝突の処理または解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。
〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。]

問1 下線部①に関連して、イギリスは戦争遂行にインドの協力が必要不可欠であるとの認識のもと、第一次世界大戦中、インドに戦後の自治を約束した。それを受けて制定された1919年インド統治法は、実際には部分的な自治を定めるにとどまった。さらにイギリスは、反英運動を弾圧する法律をこの年に制定した。この法律の通称を答えなさい。[5点]

問2 下線部②の人物に先立ち、ベトナムの独立を目指す運動を展開し、維新会を結成してドンズー(東遊)運動を提唱した人物の名を答えなさい。〔5点〕

問3 下線部③に関連して、19世紀末フランスで、反ドイツ感情や排外的愛国主義の高まりを受けて元陸軍大臣か政権奪取をもくろみ、未遂に終わった。この出来事が何とよばれるかを答えなさい。〔5点〕

問4 下線部④に関連して、『戦争と平和の法』(1625年)などの著作により国際法の発展に貢献した人物の名を答えなさい。〔5点〕

問5 下線部⑤に関連して、この規定にもとづく制裁が唯一発動されたのは、1935年に軍事侵攻を行ったイタリアに対してであった。しかしムッソリーニ政権による侵略行動が止まることはなく、その実効性の低さが露呈する結果となった。このときイタリアが侵攻した独立国の名を答えなさい。〔5点〕

問6 下線部⑥に関連して、山東権益の返還などを求める中華民国の訴えが退けられたことに抗議して、北京から全国に拡大した運動の名を答えなさい。〔5点〕

問7 下線部⑦の4つの国は、国際連盟の当初の常任理事国である。この4つの国名をすべて答えなさい。〔5点〕

問8 下線部⑧の条約をフランス外相の提案にこたえるかたちで提唱したアメリカの国務長官の名を答えなさい。〔5点〕

問9 ウィルソンが史料[A]で提示した、第一次世界大戦後の国際秩序には、どのような可能性と限界があったか。史料[A]〜[F]と、その後の歴史的経過をふまえて、400字以内で説明しなさい。また、以下の語句を必ず用い、使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔20点〕

 植民地の戦争協力 二十ーカ条の要求 パリ講和会議 経済制裁

 戦争の違法化 ドイツ領南洋諸島


第2問
 われわれの生きる21世紀の世界は、一体化と相互依存をますます深めつつある。これまで人類は無尽蔵と思われた天然資源に大きく依存し発展してきたが、その行き過ぎた収奪と乱用による環境破壊の現実をまえに、人類の発展のあり方そのものを根本から問い直さざるを得ない状況へと追いやられている。ここ半世紀間に顕在化してきた地球規模のさまざまな環境問題は深刻さを増しており、諸国・諸地域の協同によるこれまで以上の対処を必要としている。
 グローバル・ヒストリーの観点から地球環境問題の歴史を概述する次の文章を読み、以下の問に答えなさい。〔40点〕

 一体化が進行する現代世界における我々の日常生活は、科学技術の発展により消費物資や情報サービスの面で格段に豊かになった。この豊かな消費生活は、発展途上国からの膨大な天然資瀕の輸入にささえられているが、他方で世界各地の環境破壊をひきおこしている。
 たとえば、日本の年間丸太輸入量3000万立方メートルのうち、約3分の1は南洋材で、丸太切り出しだけで、年に7500平方キロメートル、大阪府の面積の4倍もの熱帯雨林を伐採・破壊していることになる。また、世界のえび取引の40パーセント、1日10億円におよぶえびの輸入は、東南アジア諸国マングローブ林を犠牲にした過剰養殖をまねいている。安価に輸入されているバナナは、フィリピンや中米諸国での①モノカルチャー的な農業構造と農民を犠牲にした大農場経営のもとで生産されており、農薬による土壌汚染もおこっている。 
 ところで、こうした②大量生産・大量消費型の産業社会の展開は、産業革命以降の先進諸国による資源の独占的支配と技術開発にささえられてきた。しかし1970年代になると、一次産品を生産・輸出する発展途上国のあいだで、自国の資源を国有化して経済開発に積極的に活用しようとする資源ナショナリズムが台頭してきた。③1973年の第4次中東戦争の際に、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国が発動した石油戦略がその典型であり、先進諸国の高度経済成長政策は大きくゆさぶられた(石油危機)。
 こうした途上国の経済的自立の動きにより、先進工業国は1980年代に省資源や省エネルギーに努力し、新素材や石油代替エネルギーの開発に取り組んだ。特に原子カエネルギーに対する期待は高いが④1986年4月のソ連チェルノブイリ原子力発電所での大事故と、2011年3月の東日本大震災による東電福島第一原発メルトダウンは、原子力発電の安全性、環境保全放射性廃棄物の処理問題について再検討を迫っている。福島原発事故は、現在でも、完全な収束の見込みはたっておらず、太陽光発電風力発電など代替エネルギー源の確保も含めて、長期の粘り強い取り組みが求められている。
 20世紀の第4四半世紀は、工業化をすすめる先進国が、化石燃料やエネルギーを大量に消費して国境・地域をこえて汚染物質をもたらし、地球の自然環境を破壊してきた。石油の大量消費によって排出される二酸化炭素などの温室効果ガスは、地球の温暖化をひきおこす主要な原因と考えられており、その排出量の削減が急務である。⑤温暖化により南極や北極の氷河が融けて海水面が上昇するとともに、エルニーニョ現象(東太平洋における海水温の上昇にともなう気候変動)の頻発は、とりわけ発展途上国における食糧生産に打撃を与えている。
 北米や北ヨーロッパでは、大気汚染が原因の酸性雨によって森林や湖沼が被害を受けている。東アジアでも、経済発展をつづける中国の大気汚染は深刻で、日本で降る酸性雨にも影響している、とみられている。また、冷房設備などに使用されるフロンガスオゾン層を破壊し、地上に達する有害な紫外線の増加によって、生態系や健康への影響が心配されている。
 現在、我々は環境を地球的規模で保全する必要に迫られている。1972年に「かけがえのない地球」をスローガンに国連人間環境会議が開催されて以来、国連を中心に様々な取り組みがなされ、⑥1992年には[ A ]の[ B ]で、国連環境開発会議(地球サミット)が開催された。そこでは、経済成長を優先したい発展途上国と環境問題重視の先進国とのあいだで意見の対立があった。10年後の2002年には南アフリカヨハネスブルクで、持続可能な開発に関する世界首脳会議(環境・開発サミット)が開かれた。
 ⑦1997年に開かれた地球温暖化防止会議では、先進国に温室効果ガスの排出量削減を求める[ C ]が採択された。[ C ]は、国内経済への制約をおそれるアメリカが2001年に離脱したが日本・EU・ロシアなどの批准により2005年に発効した。21世紀は、地球環境の保全と持続的な経済開発(持続可能な開発(sustainable development)のバランスをとりながら、貧富の格差を解消していくことが重要な課題になっている。2015年9月の国連サミットでは、「持続可能な開発目標」(SDGs)が採択された。「貧困や飢餓の根絶」「再生可能エネルギーの利用」「気候変動への対策」など17の目標が設定され、「だれひとり取り残さない」をスローガンに2030年までの目標達成をめざした様々な取り組みが展開されている。
〔出典:秋田茂編『グローバル化の世界史』ミネルヴァ書房、2019年。なお、一部の表現を改めた。〕

問1 下線部①に関連して、17世紀から18世紀の大西洋を舞台とする三角貿易では、アメリカ大陸やカリブ海域の植民地において特定の農産物がプランテーションで生産されるようになった。産業革命の進展にしたがって、これらの農産物の需要が高まると、生産地域のモノカルチャー化が進んだ。こうした農産物のうち、その加工が技術革新を促し、産業革命の開始と進展のきっかけとなった一次産品の名を答えなさい。〔5点〕

問2 下線部②に関連して、1903年に設立されたアメリカの自動車会社が組み立てライン方式の導入により実現した工場のシステム化は、大量生産・大量消費時代の呼び水となった。生産の効率化が販売価格を低減する一方、部分的には高賃金に還元されて消費者の購買力を高めたからである。自動車を大衆化させたこの会社の名を答えなさい。〔5点〕

問3 下線部③について、この石油戦略とはどのようなものだったのか、40字以内で説明しなさい。〔10点〕

問4 下線部④に関連して、原発事故後の当局による被害状況の隠蔽は世論の大きな反発を招き、これはゴルバチョフ指導下で情報公開が進展するきっかけとなった。ソ連末期に言論の自由化をうながしたこの情報公開政策の名をカタカナで答えなさい。[5点〕

問5 下線部⑤に関連して、近年の温暖化による海氷の融解現象は、北極圏における資源や航路をめぐる国家間の競争に拍車をかけている。今から1世紀余り前には、国家の威信をかけた極地探検がちょうどピークを迎えていた。1909年アメリカの探検家が北極点に最初に到達すると、これに遅れをとったノルウェーの探検家は目標を切り替え、1911年に南極点への初到達に成功した。このノルウェーの探検家の名を答えなさい。〔5点〕

問6 下線部⑥に関連して、この会議では温室効果ガスの排出量削減に関する気候変動枠組み条約が採択されるとともに開発と環境保全の両立を目指す理念が宣言で示され、その後の環境問題への取り組みに一つの道筋がつけられた。空欄[ A ]にあてはまる国の名と空欄[ B ]にあてはまる都市の名を答えなさい。〔5点〕

問7 下線部7について、この会議で採択された空欄[ C ]にあてはまる文書の名を答えなさい。〔5点〕

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コメントは第1問・問9だけです。
 課題は「ウィルソンが史料[A]で提示した、第一次世界大戦後の国際秩序には、どのような可能性と限界があったか。史料[A]〜[F]と、その後の歴史的経過をふまえて(指定語句→植民地の戦争協力 二十ーカ条の要求 パリ講和会議 経済制裁 戦争の違法化 ドイツ領南洋諸島)」でした。
 名高い「14カ条」の「可能性と限界」という問いでした。
 この2つの課題を史料から読み取れること(史料[A]〜[F]……をふまえて)と、「その後の歴史的経過」の2つで考えてみます。
(1)可能性
 ①史料から
 [A]の第5条で、植民地の主張、公正な要求と平等の重みと説き、第14条で大国と小国とを問わず、と公平・平等なあつかいを主張しています。
 [C]国際連盟規約:開かれた公明正大な関係といい、第11条では、戦争……すべて連盟全体の利害関係事項になるとし、第16条では、戦争に訴えた連盟加盟国……関係の断絶する、と強制力をもたせています。

(2)(史料にある)限界
 [B]ホー=チミンは列強の軍隊は植民地原住民を兵士として構成されている、と植民地を土台に戦争をおこなっている点を指摘しており、[D]の史料で、半植民地国・中国の訴えは拒否される、弱小国の交渉は譲歩するしかない、と嘆いています。ために中国は条約の調印を拒否しています。また史料[E]では、連盟は結局、植民地の再配分を実行しています。

(3)後の歴史的経過
 「可能性」としては、この集団安全保障の国際機構の構想は発展して、[F]パリ不戦条約となり、戦争の否定・放棄、平和的手段以外で求めない、というアピールまで行っています。ここまでは可能性を持たせました。
 [A]の公平・平等に期待して18〜19年世界各地で独立運動が展開しましたが、東欧は実現してもアジア・アフリカでは実現しませんでした。インドのアムリットサル虐殺に見られるような運動弾圧もおきます。
 [C]現実には、日本の満州事変・満州国設立を阻止できず、イタリアのエチオピア侵略に対しての経済制裁も石油を除外するという無意味なものにおわり、ヒトラーの周辺国侵略を抑えることはできませんでした。
 史料に書いてないことでは、連盟の組織自体のこと(全会一致、米ソの不参加、軍事力をもたない)、連盟で決めたドイツに対する巨額の賠償金は戦勝国への復讐熱をもたせ、ファシズムを醸成します。また世界恐慌に対処できず、枢軸国の侵略を開放しました。

一橋世界史2022

第1問
 次の文章は、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が1158年にイタリア北部のロンカリアで発した勅法「ハビタ」の全文である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 皇帝フリードリヒは、諸司教、諸修道院長諸侯、諸裁判官およびわが宮宰達の入念なる助言にもとづき、学問を修めるために旅する学生達、およびとくに神聖なる市民法の教師達に、次の如き慈悲深き恩恵を与える。すなわち、彼等もしくは彼等の使者が、学問を修める場所に安全におもむき、そこに安全に滞在し得るものとする。
 朕が思うには、善を行う者達は、朕の称讃と保護を受けるものであって、学識によって世人を啓発し、神と神の下僕なる朕に恭順せしめ、朕の臣民を教え導く彼等を、特別なる加護によって、すべての不正から保護するものである。彼等は、学問を愛するが故に、異邦人となり、富を失い、困窮し、あるいは生命の危険にさらされ、全く堪えがたいことだが、しばしば理由もなく貪欲な人々によって、身体に危害を加えられているが、こうした彼等を憐れまぬ者はいないであろう。
 このような理由により、朕は永久に有効である法規によって、何人も、学生達に敢えて不正を働き、学生達の同国人の債務のために損害を与えぬことを命ずる。こうした不法は悪い慣習によって生じたと聞いている。
 今後、この神聖な法規に違反した者は、その損害を補填しないかぎり、その都市の長官に四倍額の賠償金を支払い、さらに何等の特別な判決なくして当然に、破廉恥の罪によってその身分を失うことになることが知られるべきである。
 しかしながら、学生達を法廷に訴え出ようと欲する者は、学生達の選択にしたがい、朕が裁判権を与えた、彼等の師もしくは博士または都市の司教に、訴え出るものとする。このほかの裁判官に学生達を訴え出ることを企てた者は、訴因が正当であっても、敗訴することになる。朕はこの法規を勅法集第四巻第一三章に挿入することを命ずる。
 (勝田有恒「最古の大学特許状 Authenticum、Habita」『一橋論叢』第69巻第1号より引用。但し、一部改変)

問い この勅法が発せられた文化的・政治的状況を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し.その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

     ボローニャ大学 自治都市

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 考えてみれば、歴史を通じて、公共投資とインフラが文字通り米国を変革してきた。我々の態度と機会を。大陸横断鉄道や州間ハイウエーが2つの大洋をつなぎ、米国にまったく新しい前進の時代をもたらした。
 全国民への公立学校と大学進学援助が機会への扉を広く開いてきた。科学の大躍進が我々を月に、そして今では火星に送り、ワクチンを発見し、インターネットなど多くの技術革新を可能にしてきた。これらは国家として力を合わせて実施した投資であり、政府のみができる立場にあった。こうした投資は、何度となく我々を未来へ進ませてくれた。
 一世代に一度の米国自身への投資である「米国雇用計画」を提案しているのはそのためだ。これは第2次世界大戦以来最大の雇用計画だ。交通インフラを更新するための雇用、道路、橋、高速道路を近代化するための雇用、港、空港、鉄道網、交通機関路線を建設するための雇用を生み出す。
 (中略)
 米国雇用計画は、何百万もの人々が仕事やキャリアに戻れるよう支援する。このパンデミック(世界的大流行)の間に、200万人の女性が仕事を辞めた。200万人だ。子供や助けが必要な高齢者を世話するために必要な支援を受けられなかったため、という理由が余りにも多い。80万もの家族が、高齢の親や障害を持つ家族を自宅で世話するサービスを受けるための(低所得層向けの公的医療保険である)メディケイドの待機リストに載っている。あなたがこれを重要でないと思うなら、自分の選挙区の状況を確認してほしい。
 (「全文で振り返るバイデン氏議会演説」『日本経済新聞』電子版、2021年5月5日より引用。但し、一部改変)。

問い
 下線部からは、この演説が、「米国雇用計画」に比肩しうるような20世紀アメリカの経済政策念頭に置いていることがうかがえる。この20世紀アメリカの経済政策は、それ以降のアメリカの経済政策の基調を作った。しかし、こうした方向性の政策は、その後、強く批判されるようになる。この20世紀の経済政策の内容とそれが実施されだ背景について論じたうえで、それ以降の経済政策への影響を説明しなさい。また、それが、なぜ、どのような理由から批判されるようになったのかについても説明しなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)

 光化門広場はソウル市民の憩いの場であり、多くの観光客が訪れる名所である。一方、ここは社会運動が活発である現在の韓国社会を象徴する空間でもある。2014年にセウォル号沈没事故が発生した際には、犠牲者の追悼や事故の責任を追及するデモがおこなわれた。さらに、2016〜2017年には、当時の朴樺恵大統領の退陣を求めて、火を灯したろうそくを持った市民が光化門広場などでたびたびデモを実施し、同大統領は罷免されるに至った。韓国で、このプロセスは「ろうそく革命」と呼ばれており、20世紀後半の(a)民主化運動を継承したものと評価されている。
 光化門広場の奥には、朝鮮王朝の始祖・李成桂漢城(ソウル)に建造した王宮・景福宮がある(光化門は景福宮の正門である)。近年は、韓国のアーティストBTSがここでパフォーマンスを披露したことでも話題になった。きらびやかなイメージのある景福宮だが、その歩んできた道のりは決して平坦なものではなかった。まず、1592年に景福宮の建造物の多くが(b)戦乱のなかで消失した。再建されたのは19世紀半ばのことである。さらに、1894年に景福宮は(c)日清戦争開戦に先立って日本軍に占領され、1895年には日本の朝鮮公使・三浦梧楼らの計画による朝鮮王妃(閔妃、明成皇后)殺害事件の現場ともなった。「韓国併合」後には.日本は景福宮の建造物を撤去し、その敷地内に朝鮮総督府の庁舎を建設した。そして、植民地支配からの解放50年を迎えた1995年以降、朝鮮総督府旧庁舎が撤去された。現在、景福宮の復元事業は大部分が完了している。

問1 下線部(a)に関して、1979年から1980年までの韓国における政治の動向について述べなさい。
問2 下線部(b)が示す戦乱(1592〜1598年)の朝鮮側における名称を記したうえで、この戦乱の展開過程、また、この戦乱が明に与えた影響について述べなさい。
問3 下線部(C)に関して、1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係について述べなさい。
………………………………………

第1問
 いかにも一橋らしい異常な問題です。大学の講義を受験生にぶつけているような問題で、身勝手なものです。高校でどんな世界史を勉強してきたか無視しています。
 しかし文句は受験生には言えないので、出題者の意図から離れても、できるたけ近い内容の文章を書かなくてはなりません。与えられた史料を無視してでも、問われていること、つまり皇帝フリードリヒ1世、指定語句のボローニャ大学自治都市について知っていることをつぎ込みましょう。
 皇帝はイタリア政策をとり、自治都市はミラノ市を中心にロンバルディア同盟を結んで皇帝に対抗し成功します(詳しくは1176年のレニャーノの戦い)。またこの時期は皇帝に対抗する叙任権闘争は十字軍の開始とともに始まっていて、西欧の指導者は皇帝でなく教皇であることが次第に明らかになってきた時期でした。またボローニャ大学の成立もこの叙任権闘争に教会側が勝つための研究機関でした。背景として「12世紀ルネサンス」もあります。
 自治都市からは「商業ルネサンス」中世都市、中でもイタリアの場合はコムーネという独立国家にひとしい都市が発展したことを説明するといいでしょう。
 史料とかかわるボローニャ大学については、「ハビタ」の説明として、「神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が1158年にイタリア北部のロンカリアで発した勅法」と書いてあり、1167年に結成されロンバルディア同盟の10年ほど前であることがわかります。この皇帝と教皇の対立は勅法発布の前年1157年から始まっていますから、これは教皇に対抗する法令であったとみなせます。
 しかし指定語句のボローニャ大学は11世紀半ばにすでにできている西欧最古の大学であり(東京書籍「11世紀後半にはイタリアにボローニャ大学が成立し、主として法学で知られた」)、1世紀前の出来事です。史料の説明として末尾に「最古の大学特許状」とあってもすでに大学はできています。つまり学生は全欧から集っています。とくに学生の多くが修道僧たちであったこと、集まる評判になったのは『ローマ法大全法』の一部、ないしダイジェスト版がこの街で見つかったこと、時期が叙任権闘争のはじまったころであったこと、皇帝に対抗する教会法を作成するのが目的であったこと、などが背景として言えます。
 「ハビタ」の内容がいかにも学生保護になっているものの、教皇・イタリア都市と対決している皇帝が、これを発布した意図はどこにあるのか、という疑問がわきます。すでに教皇寄りの状況に圧力をかけて、皇帝が都市も大学も従わせようとしたのではないか、と考えられます。しかしこの対立のあり方を書かせようとしたのであれば、出題者の無知をなじる他ありません。
 ネットの解答例には二種類あり、皇帝と都市の対決を書いても、大学を味方につけようとした、という大学側が教皇寄りであったことを無視したもの、また対立に言及せず無視したものです。しかし、素直に考えられるのは、皇帝が自己の権力を強化するために、すでに自治都市になっている都市と、大学自治の権利を持っている大学に圧力をかけた、ということでしょう。さも学生を保護する振りをして大学自治に介入しようとしました。しかしそれに失敗した、ということです。

第2問
 課題は「この20世紀の経済政策の内容とそれが実施されだ背景について論じたうえで、それ以降の経済政策への影響を説明しなさい。また、それが、なぜ、どのような理由から批判されるようになったのか」というもの。
 (1)世界恐慌の「背景」と、(2)「経済政策」はニューディール政策、(3)その後の「経済政策への影響」、(4)そして「批判」の理由、という4点が求められています。
 (1)背景
 株価の大暴落から書き始めても背景にはなりません。なぜ暴落が起きたかが背景です。
 背景になるのが、大量生産方式の採用と普及があり、作りすぎて在庫が増える一方でした。とくに農産物の在庫は腐ってしまうので価格暴落の先駆けとなりました。部品と生産工程の標準化、動力使用の増加、とくに動力源の電化などの技術革新の急速な進行も「大量生産」を支えました。
 また独占企業の支配が強化され、労働運動は衰退していいため、労働者の給与も伸びませんでした。株の配当は増えても、労働者に見返りは少ししかありませんでした。
 (2)政策
 世界恐慌の現象は求められていなので書かなくてもいいでしょう。つまり企業・銀行の倒産、貿易不振、株価暴落のことです。
 いきなり政策(ニューディール政策)に行けば、その具体例は教科書に書いてあります。全国産業復興法、農業調整法、復興金融公社(これはフーヴァーから継承したもの)、TVA、ワグナー法などです。
 (3)その後の政策
 ニューディールケインズ有効需要論を元にしたため、「大きな政府」の形成につながり、大規模な公共事業と社会保障を推進しました。それは戦後のトルーマンによるフェア=ディール政策、ケネディの「ニューフロンティア政策」、ジョンソンの「偉大な社会」など民主党政権に受けつがれました。
 (4)批判
 しかし石油危機やスタグフレーション(不況下のインフレ)、ドル危機も起き、政府の赤字が増え、経済全体の停滞も見られ、出口が見えないことから、これらの大きい政府の政策は批判にさらされました。福祉予算を削り、公共事業の民営化を断行する「小さな政府」がめざされ、規制緩和新自由主義が唱えられるようになりました。
 しかし今は世界中でこの新自由主義にノーの声があがっています。

第3問
問1 「民主化運動……1979年から1980年までの韓国における政治の動向」という狭い時間の問いです。すぐ思い浮かぶのが光州事件ですね(中谷まちよ『世界史ワンフレーズnew』パレードの語呂「光州、1199破8裂0)。朴正熙(パクチョンヒ)暗殺後に独裁政権をうけついだ全斗煥(チョンドハン)の民主化要求運動の弾圧事件です。2000人くらいの青年を殺しています。YouTubeでその運動と鎮圧のすがたを見ることができますし、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』にもなりました。

問2 (1)戦乱(1592〜1598年)の朝鮮側における名称は、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱です。
 (2-1)この戦乱の展開過程は、日本側の侵略から始まり、鴨緑江まで進軍した後に、義兵の抵抗、李舜臣の亀甲船に敗北、李朝政府の江華島遷都、秀吉の死とともに撤退、という順です。朝鮮出兵については、大垣さなゑ著『征韓』(東洋出版)が詳細でありながら面白い大著です。
 (2-2)この戦乱が明に与えた影響は、明朝も宗主国として派兵し、経済的困難に陥り、東北で女真族の台頭を許すことになった、といったことです。

問3 下線部(c)に関して、「景福宮は、日清戦争開戦に先立って日本軍に占領され」という記事はきみの使っている教科書に書いてありますか? たぶん書いてないでしょう。今年から新科目となった「歴史総合」の教科書で山川の『歴史総合 近代から現代へ』では「日本軍が王宮を占領し、閔氏政権を倒して大院君政権を立て、清軍を排除する依頼を取りつけて、清軍への攻撃を開始した(日清戦争)」と。実教出版の歴史総合でも「農民軍が朝鮮政府と和解したことで,日本軍は派兵の根拠を失うが撤兵せず,朝鮮王宮を襲撃して開化派による新政権を樹立した。日本が朝鮮の内政改革を求めると,清や朝鮮の旧政権関係者は反発を強めた」と。
 内政改革は朝鮮政府の専権事項なのに、日本が押しつけがましく迫り、高宗に清朝撤退を要求させるなど、壬午軍乱(1882)の失敗以来軍費を増強して戦争の準備をしてきたため、どうしても戦争を起したかったのでした。それをよく表したのがこの王宮占拠です。
 さて問題の「1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係」は、狭い時間ですが、この間の事件としては、壬午軍乱(1882年、『ワンフレーズ(以後『ワン』)』語呂→「」痔後、ひと1882かしい)、甲申事変(清仏戦争と同年、『ワン』語呂→神仏交信、火1884る)、甲午農民戦争(『ワン』語呂→1894)、日清戦争(『ワン』語呂→日清焼そば、人1894)くらいですね。 
 「関係」は清朝間は宗主国朝貢国という従来からの関係があり、朝鮮内にこれを維持したい事大党と清朝から離れたい独立党の争いがあり、壬午軍乱で清朝は大院君を拉致し、朝鮮は親清に傾き、反発した独立派・金玉均親日の動きが失敗し、日清戦争の結果、下関条約で朝鮮は清朝から「独立」したことにりました。しかし、日本軍が駐留する、という形ばかりの独立でした。

「60字問題集」の訂正

別冊「基本60字」のミスです。
P.11
中国-経済-5
 政治都市であったが、宋以降は市制・坊制が解かれて経済都市に変貌
P.13
中国-経済-14
 春秋末に経済都市が生まれた
……この14の「経済都市」はまちがいです。春秋末は経済が発展したので都市が「登場」した、と書くべきでした。都市はできても、国家・官僚たちが市場を管理していて、政治のほうが勝っていて、商人・手工業者が主導する経済都市ではありませんでした。「経済」都市は宋以降しか生まれません。

ある模試

第1問
 次の文章は、12世紀頃の西ヨーロッパの社会・経済発展に関する講義録の一部である。この文章を読み、また史料を参照して問いに答えなさい;(問1、問2をあわせて400字以内)

 (特色ある経済発展が見られた地域の一つが)パリ盆地と、その東南にあります。シャンパーニュと呼ばれる地域であります。ここは、シャンパーニュ伯が、商人を呼び寄せる政策をとったということもあり、その他いろいろな理由で、ここが北と南との交易が落ち合うのに非常に適していて、しかも商取引を保護してくれるというので、そこの小都市で定期的な大市が開かれる場所になるわけです。もちろんパリ盆地もそれとの関連で、先進地域に組み入れられたことは、言うまでもありません。(増田四郎「ヨーロッパ中世の社会史」(岩波書店)より引用。但し、一部改変)

■史料 ノートルダム寺院の写真

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問1 史料は文章が取り扱っている時期にパリに建てられた教会の写真である。この教会の名前を答えなさい。

問2 12世紀から13世紀にかけての時期に、パリは「先進地域」に組み込まれ、中世ヨーロッパにおける国際都市の一つとなったが、そこに至る過程はどのようなものだったのだろうか。紀元前後から13世紀にかけてパリがたどった歴史を、この都市が果たした政治・経済・文化上の役割、および文章や史料から読み取れる内容と関連付けながら論じなさい。

解答文
1ノートルダム大聖堂
2古来パリはルテティアと呼ばれ、ケルト族などが居住していたが、カエサルのガリア遠征以降ローマ領となり、以後ローマ化が進んだ。メロヴィング朝では首都となりキリスト教化も進んだがカロリング朝ではアーヘンに王国の主な拠点が置かれたためその璽要性は相対的に低下した。カペー朝期には、フィリップ2世などの中央集権化策により首都パリは政治・社会の中心地となった。さらに、この時代には技術革新や開墾によりフランスの農業・商業が発展し、大市場が開かれるようになったパリは国際都市に成長した。その背景にはセーヌ川沿いという交通の利便性や、南北ヨーロッパ各地の商品が集まる大規模な定期市で栄えたシャンパーニュ地方との密接な交易関係があった。こうした経済成長を背景にノートルダム大聖堂が建てられた。その付属学校を起源とするパリ大学は神学研究の一大拠点とされ、パリは各国の知識人が交わる場となった。(398字)
▲ 一橋の本番の問題の傾向に合った奇問です。このパリ市史の問題で書けるのは、解答文から抜粋すると、

ルテティアと呼ばれ(ローマ時代にルテティアと呼んだことは教科書の地図には載っています)、ケルト族などが居住していたが、カエサルのガリア遠征以降ローマ領となり……メロヴィング朝……カペー朝……(史料から)セーヌ川沿いという交通の利便性や、南北ヨーロッパ各地の商品が集まる大規模な定期市で栄えたシャンパーニュ地方との密接な交易関係……(写真から)ノートルダム大聖堂が建てられた。その付属学校を起源とするパリ大学は神学研究

 という事くらいでしょうか。
 これに追加するとすれば、東南のシャンパーニュの他に、西北のフランドルの毛織物工業、西南のワインの産地(ボルドー)の交差点にあったこと。
 また「フィリップ2世……国際都市に成長」とあるが、地理的に「国際的」にならざるを得ない位置にあり、古代からそれは確認できることです(ウィキペディアの「パリの歴史」参照)。

第2問
 16世紀以降新大陸では商品作物の栽培が主要産業であった。しかし、18世紀後半に独立したアメリカ合衆国は19世紀を通して工業化に成功し、19世紀末には世界最大の工業国となった一方、19世紀前半に独立したラテンアメリカ諸国は、19世紀を通して経済的に列強に従属するようになった。こうした違いがなぜ現れたのか、経済発展の違いに着目しつつ、史料を参考にして説明しなさい。(400字以内)

■史料 カリプ海におけるサトウキビ収穫の様子

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解答文
アメリカ合衆国は独立後、アメリカ=イギリス戦争によって工業製品の輸入が途絶えたため、北部で工業化が進行した。19世紀中頃北部は工業製品の保護のために保護貿易を掲げる一方、南部はイギリスヘの綿花輸出が主要産業であるために自由貿易を掲げて対立した。北部が南北戦争で勝利した結果アメリカ合衆国では北部を中心とした工業化・都市化が進んだ。また、解放された黒人や、アジア・東欧・南欧からの移民も経済発展を支えな一方、ラテンアメリカ諸国の独立の担い手となったのは大農園を営むクリオーリョで、海外市場進出を狙うイギリス外相カニングの支持の下、独立が達成された。独立後は地主が政治を独占し、自由貿易政策を採用した。このため、独立後もプランテーション経営が存続し、工業化が進まなかった。この結果コーヒーなど単ー作物に依存するモノカルチャー経済が進行しラテンアメリカ諸国のイギリスへの経済的従属が強まっていった。

▲ 課題は「アメリカ合衆国は19世紀を通して工業化に成功し、19世紀末には世界最大の工業国となった一方、19世紀前半に独立したラテンアメリカ諸国は、19世紀を通して経済的に列強に従属するようになった。こうした違いがなぜ現れたのか、経済発展の違いに着目しつつ、史料を参考にして説明しなさい」でした。
 比較の問題です。
 解答文では、①(原因)米国は米英戦争から工業化、②(発展)保護貿易政策、南北戦争で工業化した北部が勝利、移民の支え、とし、ラテンアメリカ諸国は①担手はクリオーリョ、②自由貿易政策、工業化すすまずモノカルチャー経済、という内容。
 ①の比較が変です。米国は戦争が原因で、ラテンアメリカは担手に帰しています。違うものを比較しています。米国独立の担手もクリオーリョと同様に地主(大プランター)たちです。
 またラテンアメリカと違って、米国は西部(フロンティア)に領土・市場・金鉱(ゴールドラッシュ)を拡大・獲得しています。こういう違いは書いてありません。
 米国は労働者も移民としてどんどん増えていき、西部に鉄道も拡大していきます。労働力はラテンアメリカではどうであったのか、書いてありません。一方で書いて、他方で書かないと、比較が成り立ちません。

第3問
  次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 A 李朝期には、300名以上の文科合格者をだした同族集団が5つも存在した。(中略)これら5つの集団だけで、全文科合格者の15%を占めてしまう勘定になる。さらに100名以上の合格者をだした同族集団に枠をひろげると、38の集団がこれに該当する。その文科合格者の合計は7502名で、全体の半数をうわまわってしまう。李朝時代に同族集団がいくつ存在したのか不明であるが現在の3000あまりという数字を基準にすると、1%強の同族集団が、全文科合格者の半数以上を輩出したわけだ。
(岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代」(中央公論社)より引用。但し、一部改変)

 B 宣祖*は士林派*の名誉を回復させた。ところが勲旧派*と士林派との対立抗争とは別次元の、士林派内部の朋党争いがはじまった。東人と西人との分裂と対立がそれである。(中略)両派の朋党争いが、いかに不毛なものであったかの事例として、例えば、1590年に、朝鮮通信使が、日本側の要請によって、豊臣秀吉の天下統一を祝賀するために訪日した。通信使の正使黄允吉は西人派であり、副使金誠ーは東人派であった。秀吉の謁見をうけて「探情」した結果黄允吉はかれを、侵略の野望をいだいている油断ならない人物と報告した。ところが金誠ーは、その見解は不当に人心を惑わすもので、それほどの人物でないと反論した。中央政府の柳成竜は金誠ーとは同門で、もちろんその意見を支持した。
(姜在彦「朝鮮儒教の二千年J(講談社)より引用。但し、一部改変)
*宜祖朝鮮王朝の第14代国王(在位1567~1608)。
*士林派 性理学を中心とした学問を究め、地方を基盤とした儒者の一派。
*勲旧派守旧派として士林派に批判された儒者集団。

 C(朝鮮儒教における)性理学論争は、哲学的次元のそれにとどまらず、門人たちがその師説を固守して師伝門承し、学縁と地縁とが絡み合って学派と党派とが結合するに至った。その結果、学説上の相違が党派間の対立の原因となり、あるいは反対派を攻撃する党論として利用された。
(姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(講談社)より引用。但し、一部改変)

問い 明と朝鮮における儒教の新たな展開と、それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ論じたうえで、こうした政治・社会のもと、16世紀後半から17世紀前半にかけて両国はどのような困難を迎えたのかを、両国の対外関係と関連付けて述べなさい。(400字以内)

解答文
明と朝鮮は朱子学を官学とした。明では『四書大全』『五経大全』の編纂により経典解釈が固定化され、科挙官僚となり政界に進出した士大夫は郷紳として都市での文化形成を担った。また陽明学も庶民を中心に支持を集めた。後期の明は北虜南倭の状況下で軍事費が増大し財政難に陥ったため、張居正が一条鞭法の拡大など中央集権的な改革を行ったが、宦官の専横や東林派・非東林派の対立によって統治は揺らぎ、清が台頭する中で李自成の乱により滅亡した。明への朝貢国として華夷秩序に組み込まれた朝鮮でも高麗に続き科挙が行われたが合格者は有力家門に集中しており、両班を特権階級として固定化する効果を持った。朱子学の理論を重視する士林派は政権掌握後も学派争いと結び付いた党争を統け、農臣秀吉の侵略に際しても党争が情勢判断の誤りにつながった。李舜臣らの活躍と明の援軍により朝鮮は侵略を撃退したが国土は荒廃し、後に清の侵攻を受けて服属した。(399字)

 課題は「(1)明と朝鮮における儒教の新たな展開と、(2)それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ論じたうえで、こうした政治・社会のもと、(3)16世紀後半から17世紀前半にかけて両国はどのような困難を迎えたのかを、両国の対外関係と関連付けて」でした。
▲ (1)これは儒教の「新たな」展開とあるので、思想・宗教たる儒教がどのような新しい潮流が生まれたのか書くことです、が……。解答文の「経典解釈が固定化」が「新たな」展開というのか? まさか「都市での文化形成」が思想の発展? 
 中国の「陽明学も庶民を中心に支持を集めた」は支持層が庶民に増えたということであって思想の「新たな」展開ではないですね。とすると思想の新たな発展はどこにも書いてない。
 陽明学の完成と考証学の勃興(顧炎武・黄宗羲)、そして実学なら「展開」といえるのに、そうは書いてない。朝鮮も実学としては柳馨遠(1622〜73)から始まりが見られます。
 「(2)それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ」と次の課題が指示されているが、(1)を書いてないのに、なぜこれが可能なのか? 史料からはどうもこれを書かせたいという出題の意図が見られるが、中国の東林派・非東林派の対立は教科書で書けるもののも史料にあげられた朝鮮の勲旧派と士林派の対立を書いた教科書は皆無でしょう。そして、これが思想の展開とどう関係しているのか、解答文を読んでもさっぱり分からない。
 陽明学が庶民に支持されたことを苦々しくおもいつつも、庶民の動向はどうでもよく、顧憲成が東林書院において
、むしろ宮廷を専横する宦官にこそ批判の矢を向けたのでした。解答文でも関連づけはされていないが、すると「発展」その後の政治・社会にどんな影響を与えているのか、とんと分からない。
 それは1700年前後の両国の「困難」と関連しているのか、陽明学と李自成の反乱はどう関連しているのか? 清朝の台頭とどう関係しているのか……。関連のないものを無理やり関連づけようとしているとしか思えない。
 
 

2021年度夏・東大模試

模試A
第1問
 5世紀以降の形成過程を経て、11世紀にヨーロッパのキリスト教世界は、ローマを中心としてラテン語を教会の公用語とするラテン・カトリック文化圏と、コンスタンティノープルを中心としてギリシア語を教会の公用語とするギリシア・ビザンツ文化圏に決定的に分かれた。このラテン・カトリック文化圏は広義の西ヨーロッバを指すが11世紀以降、さまざまな要因によって拡大した。14世紀にいったん拡大は停止したが15世紀にはさらなる拡大を志向することとなった。
 以上のことを踏まえ、11世紀から13世紀にかけてラテン・カトリック文化圏が拡大し、14世紀に停止し、15世紀に再拡大を志向していく過程をそれぞれの原因及び、拡大や停止がラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会船・文化的変
化を生じさせたかに留意して記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の5つの語旬をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい(再征服運動(レコンキスタ))は、再征服運動またはレコンキスタのいずれかを使えばよい)。また下の史料•A〜Cを読んで例えば「○○は××だった(史料·A)。」や、「史料Bに記されているように、○○が××した。」などといった形で史料記号を挙げて、論述内容の事例としてそれぞれ必ず一度は用いなさい。

  教会大分裂 再征服運動(レコンキスタ)
  シチリア島 中世都市

史科A
 パリの司教座教会の……すべての参事会員は……教会の森林240アルパンを、以下の条件で永久に譲与した。すなわち,今年の洗礼者ヨハネの誕生の祝日[6月24日]から3年の間にそれらを開墾し,耕地にしなくてはならず、また当人やそ相続人は、……参事会に1アルバンあたりパリ貨で2ドゥニエを支払わなければならない。

史料B
 当時イタリアのガレー船が、死を避け商品をイタリアにもち帰ろうとして、大海[黒海]やシリアやロマニア[ビザンツ帝国領]を発った……ガレー船がピサ、ついでジェノヴァに戻ると、この死病は乗員との接触を通じてこれらの地に広まった……して1348年にはイタリア全土が冒された。

史料C
 ペトラルカが古代をいわば身をもって代表していた……ボッカッチョについも,事情はまったく似ている。この人は……ラテン語で書かれた神話や地理や伝記の文集だけで有名になっていた。

解答例──下線なし)
11世紀以降、気候の温暖化と三圃制などの技術革新から穀物生産が増え、人口も増えた。このため各地で開墾運動が起こり(史料A)、エルベ川以東では東方植民が進んだ。またイスラーム勢力に対する戦いが活発化し,イベリア半島では再征服運動が進み、南イタリアではノルマン人がシチリア島を奪い、東地中海沿岸では十字軍運動が展開された。このため遠隔地商業と貨幣経済が発展し、バルト海交易でハンザ同盟が、東方貿品で北イタリアの港市が、両地域を結ぶ交易でシャンパーニュ地方が栄えた。商工業で成長した中世都市は特許状を得て自治を確立し、都市に大学がつくられスコラ学が発展した。シチリア島のパレルモやイベリア半島のトレドでは,ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳されて古典文化が流入した。14世紀に入ると天候不順による凶作や飢饉が多発し、東方貿易から伝来した黒死病が流行して人口が減少した(史料B)。農村では領主の束縛がゆるみ自営農民が生まれる一方、農民の一部が都市に流入し社会不安が増大した。十字軍の失敗から権威が動揺した教皇は中央集権的な教会統治を図ったが、教会大分裂が起こり権威を低下させた。北イタリアの都市では古典古代を模範とする人文主義からルネサンスが始まり(史料c)、15世紀にはメディチ家の保護下で栄えた。また再征服を終えたボルトガルが大西洋経由でアフリカヘ進出し、スペインは西回りのインド航路開拓を目指した。(600字) 

 課題を分解してみます。(  )内は時間です。
  (11世紀から13世紀にかけて)ラテン・カトリック文化圏が拡大し、(14世紀に)停止し、(15世紀に)再拡大を志向していく過程を、それぞれの原因及び、拡大や停止がラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会的・文化的変化を生じさせたかに留意して記述しなさい。
……問いの前半は「拡大→停止→拡大[過程]」を、後半は「原因」と「ラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会的・文化的変化を生じさせたか」です。この問いの変なところは「(1)拡大→(2)停止→(3)拡大」の3段階のどれも①原因と②経済的・③社会的・④文化的変化を書くのか、という点です。まともに採れば、12個の課題があることになります。「それぞれの」とあるので、そうなのでしょう。
 本当に、そうなのでしょうか?
 「模範」答案で検討してみます。
(1)拡大
(原因→)11世紀以降、気候の温暖化と三圃制などの技術革新から穀物生産が増え、人口も増えた。
(経済的な変化→)このため各地で開墾運動が起こり(史料A)、エルベ川以東では東方植民が進んだ。
(社会的な変化→)またイスラーム勢力に対する戦いが活発化し,イベリア半島では再征服運動が進み、南イタリアではノルマン人がシチリア島を奪い、東地中海沿岸では十字軍運動が展開された。(←これは「社会的」というより政治的な影響)
(経済的な変化→)このため遠隔地商業と貨幣経済が発展し、バルト海交易でハンザ同盟が、東方貿品で北イタリアの港市が、両地域を結ぶ交易でシャンパーニュ地方が栄えた。商工業で成長した中世都市は特許状を得て自治を確立し、
(文化的な変化→)都市に大学がつくられスコラ学が発展した。シチリア島のパレルモやイベリア半島のトレドでは,ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳されて古典文化が流入した。
(2)停止
(停止原因→)14世紀に入ると天候不順による凶作や飢饉が多発し、
(社会的変化→)東方貿易から伝来した黒死病が流行して人口が減少した。
(経済的変化→)農村では領主の束縛がゆるみ自営農民が生まれる一方、農民の一部が都市に流入し社会不安が増大した。
(社会的な変化より政治的だが→)十字軍の失敗から権威が動揺した教皇は中央集権的な教会統治を図ったが、教会大分裂が起こり権威を低下させた。
(文化的変化→)北イタリアの都市では古典古代を模範とする人文主義からルネサンスが始まり、15世紀にはメディチ家の保護下で栄えた。
(3)拡大
(原因→)また再征服を終えたボルトガルが大西洋経由でアフリカヘ進出し、スペインは西回りのインド航路開拓を目指した。
 この(3)拡大の部分では、「経済的・社会的・文化的変化」は書いてない。その余裕もない。

 「変化」という語句を使っているが、ここで問うている内容は変化より、「影響」がふさわしい。変化は以前の状態が、ある事件・大きな出来事のために、以後ちがった状態に変わり様相が一変するはずですが、そのような内容が書かれていない。
 たとえば、前半(1)の文化的な変化にあたる「大学がつくられ……スコラ学が発展……トレドでは……に翻訳されて古典文化が流入」とあるが、以前の10世紀まではどういう状況であったかの言及がなく、「変化」は表されていない。大学・スコラ学・古典文化流入がどういう「変化」を表しているのか分からない。大学のない10世紀までの学問機関は何か、スコラ学の前は何か、流入のない時期の古典の位置は?

 この問題の類題として一橋の過去問(1982,2018)では「中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ」と。この革命と呼ぶくらいの変化の「きっかけ(原因)」は十字軍・東方植民・レコンキスタです。本問の解答者は、変化の原因を経済(温暖化、三圃制拡大、人口増加)だけにしていて、経済的原因からすべての変化が起きたかのように書いていますが、無理な原因論です。封建制の安定、軍事行動を唱導するローマ教皇の台頭、巡礼熱、11世紀までにノルマン人が開いた通商路などが必要です。


模試B
第1問
 ニジェール川は、アフリカ西部を流れる大河である。古来、その流域では多くの国家が興亡し、トンブクトゥなどの交易都市が栄えたように、西アフリカの歴史的な歩みと深く結びついてきた。そのうち、ニジェール川下流域を擁するナイジェリアは、人口と経済において現在のアフリカ最大規模の国家であり、北部の内陸地域ではイスラーム教、南部の沿岸地域ではキリスト教が主に信仰されている。こうした地域性の相違を一因として、1960年の独立後にはナイジェリア南東部の分離独立運動をめぐる内戦を経験し、近年は北部でイスラーム過激派組織の活動に悩まされるなど苦難の途をたどってきた。
 このようなナイジェリアの宗教分布や対立構図には、西アフリカと他地域との内陸交易、I6世紀から19世紀にかけての奴隷をめぐる諸問題や、19世紀に始まるイギリスの沿岸地域からの進出が大きな影響を与えている。
 以上のことを踏まえ、11世紀から19世紀半ばにかけての西アフリカと他の地域との交易関係の変遷と、その交易が西アフリカ社会に与えた影響について、次ページのグラフも参照しつつ記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の6つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ガーナ王国  岩塩  産業革命
 ベニン王国  ポルトガル

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(解答例──下線なし)
西アフリカでは、ニジェール川流域の金とサハラ砂漠北方の岩塩との交易が行われ、地中海商業圏に金を供給していた。11世紀にマグリプ地方を中心に成立したイスラーム勢力のムラービト朝が、西アフリカに侵攻してサハラ交易で栄えたガーナ王国を衰亡させると、イスラーム教が内陸へ普及し、その後のマリ王国やソンガイ王国では支配層がムスリムとなるなどイスラーム化が進展した。一方、ポルトガルは、15世紀から大航海事業を開始して西アフリカ沿岸地域に至り、金や黒人奴隷を取り引きし、16世紀にブラジルでサトウキビ=プランテーションを経営し、西アフリカから黒人奴隷を持ち込んだ。その後、重商主義政策をとったイギリス・フランス両国もカリブ海や北米でプランテーションを経営し、火器や綿布を西アフリカヘ、黒人奴隷をカリブ海や北米へ、砂糖やタバコなどをヨーロッパヘ運ぶ大西洋三角貿易を行い、奴隷貿易は18世紀に全盛となった。そのため西アフリカ沿岸地域でベニン王国など奴隷狩りを行う黒人王国が台頭し、部族抗争の激化と人口流出による社会の荒廃を招いた。三角貿易の利潤は綿工業を中心としたイギリス産業革命の要因の一つとなり、台頭した産業資本家は、19世紀には自由貿易ヘの転換と奴隷貿易・奴隷制廃止を支持した。イギリスは、パーム油と綿布の貿易拠点の確保などを目的に、奴隷制反対を掲げて西アフリカ沿岸地域の支配を進め、この地域のキリスト教化を促した。
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▲産業革命とパーム油を関連付けることがポイントです。といってパーム油は三省堂の教科書(世界史B)以外には書いてないので異様な問題でした。というか無理な出題ですね。以下がその記事。

西部アフリカとパーム油貿易
 19世紀初頭、西部アフリカでは英仏によって奴隷貿易が禁止され、パーム油・ココアなどのヨーロッパ向けの農作物が注目を集めるようになった。なかでもパーム油は、機械油やせっけんの原料としてさかんに取り引きされた。このため、農民は競って油ヤシを栽培しパーム油を採取した。かつては奴隷貿易で名をはせたダホメでも、奴隷にかわってパーム油が最大の商品となった。
 パーム油の生産地をめぐる争いもはげしくなり、ヨーロッパの商人がこれにくわわると、ヨーロッパ列強は、自国商人を保護するために軍隊などを送りこんだ。これに対して、アフリカ人は抵抗をつづけたが、1874年、アシャンティ王国がイギリスの軍事力に屈服し、西部アフリカは列強間の分割競争にさらされることになった。

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