世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1972

第1問

  1911年から1919年にいたる中国政治史の動向について、下記のすべての語句を少なくとも1回は使用し、400字以内で述べよ。なお、解答に使用した下記の語句にはかならず下線をつけよ。

  孫文 五・四運動 二十一カ条要求 宣統帝 臨時大総統 辛亥革命 パリ講和会議 袁世凱 中華民国 北京大学

 

第2問

 解答は、答案用紙(ロ)の欄に、(A)、(B)、(C)、(D)の順序で、行を改めて記入せよ。

(A)古代ギリシアのポリスにおける、政治的・社会的な自由の歴史的意義とその特質を、古代オリエント世界および近代市民社会と対比しつつ、100字程度で記せ。

(B)ヨーロッパの中世都市における、市民の自由とその限界に関し、100字程度で述べよ。

(C)近代初頭のルネサンスは、自由の歴史において、どのような位置を占めているかを、中世思想および啓蒙主義との比較において、100字程度で記せ。

(D)次の諸語を用いて、18世紀ヨーロッパにおける経済上の自由思想の発展につき、100字程度で略述せよ。

 自然法 ケネー 重商主義 アダム・スミス

 

第3問

 後記の1~10の文章は,世界史にあらわれる戦争・征服・遠征のもろもろの局面について述べたもので,同時代の史料や後代の記述に基づいている。それぞれの文章をよく読んで,設問に答えよ。解答は答案用紙の所定の欄に記入せよ。

〔設問〕 

(a)いかなる戦争・征服・遠征について述べた文章であるかを考え,下記第1群の中から,もっとも関連の深い語を選び,その記号を解答欄(a)に記入せよ。

(b)それらの戦争・征服・遠征はいつのことかを考え,下記第2群の中から,もっとも関連の深い時期または年を選び,その記号を解答欄(b)に記入せよ。

第1群

 A.ピサロ B.朱元璋 C.鄭和 D.コルテス E.ヒトラー F.バトゥ(バツ) G.ヘロドトス H.ビスマルク I.シモン・ボリバル J.ヴァスコ・ダ・ガマ K.トゥキュディデス(ツキジデス) L.バグダード M.グラナダ N.アレクサンドリア 0.コンスタンティノープル P.女真 Q.パレスティナ復帰運動 R.国民公会  S.オランダ独立 T.第1インターナショナル U.第1次世界大戦 V.匈奴 W.ポーランド X.突厥  Y.ヴェトナム Z.十字軍

第2群

 A.前5世紀前半  B.前5世紀後半  C.前3世紀はじめ  D.前2世紀前半 E.7世紀前半  F.9世紀後半  G.1O世紀末  H.11世紀はじめ  I.11世紀末 J.12世紀前半  K.13世紀後半  L.14世紀後半  M.15世紀前半  N.15世紀末 0.1453年  P.1492年  Q.16世紀前半  R.16世紀後半  S.1789年  T.1792年 U.19世紀前半  V.1866年 W.1870~71年  X.1914~18年  Y.1923年 Z.1942年

1.冒頓に至りてこの国もっとも強大にして,ことごとく北夷を服従せしめ,しかして南のかた中国と敵国たり。そののちしばしば中国との二主の約を絶ち,兄弟の親(しん)を離す。

2.ユダヤ人,フリーメーソンおよび彼らと結託している世界観上の敵対者こそ,現在わが国に対しておこなわれている戦争の主謀者である。この勢力を計画的に精神的に克服することは,戦争に必須の課題である。

3.多くの人びとの意見では,王と王国を望みどおりに処置し,キリストの法を彼らに与えて,大いなる満足と平和が得られることも可能だったのではないか,というのだが,神の御心は高く,両者の罪は大きかったので,事態はひじょうに違った経過をとった。とはいうものの,終局的には,神は人びとの不信心に対してそれ相応の判決と罰を下し給うたのちに,福音の光をもって,メキシコの人びとに慈悲をたれ給う意図を表わされた。

4.モンゴル人と戦って元の大将峻都を誅し,大元子焉馬児(うまる)を捕虜にした。この南の国から捕虜を北京に送った時,かの「槊(ほこ)を奪う章陽の渡し」に始まる詩がうまれた。そののち,この国は南方のチャンパを討ったりもした。

5.この事件の真の動因は,アテナイの人びとの勢力が拡大し,スパルタの人びとに恐怖をあたえたところにある。

6.フランスとプロイセンが兄弟殺しの争いに突入しているときに,両国の労働者がたがいに平和と好意のメッセージをとりかわしているという,ほかならぬこの事実,これまでの歴史に類例のないこの偉大な事実は,より明るい未来の見通しを開くものである。

7.だれであれ,名誉や金銭を得たいという望みからではなく,ただひたすら神への献身を念じて,神の教会を解放するためイェルサレムヘとおもむくならば,その旅はすべて償いの業とみなされる。

8.戦後ふたたび平和が訪れると,キリスト教徒の支配からイスラム教徒の支配に変ったにもかかわらず,ますます多数のギリシア人が,この見事に再生した都市で商工業者に与えられる働き口を得ようとして自発的にやってきた。ギリシア人に続いては,スルタンの特別の奨励を得て,アルメニア人が移住し,この都市の商業・金融活動の支配をめぐってギリシア人と対抗し,また,かれらと共に同様な望みをかけて,ユダヤ人が数多く移ってきた。

9.ヨーロッパ諸王朝の軍隊がわが国の国境に向かって進攻してきている。自由を恐れるすべての者が,われわれの憲法に反対して武器をとっている。市民諸君! 祖国は危機にある。

10.この大遠征は,東アフリカのモガディシュやマリンディに達し,また分遣隊は紅海に入ってメッカにまでも行った。それは,むしろ,インド洋を舞台とする組織的な貿易船隊の活動とみなされる。その舞台がイスラム化しつつあった地域であり,指揮官がイスラム教徒だったことが注目される。

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第1問の解き方

 この期間に見られる革新的動向と反動的動向(古い体制にもどろうとする動き)に分けて、指定語句も含めて、つぎの表の空いているところにこの時期のできごとを記入しなさい。なお全部の空欄を埋める必要はありません。入れるデータは教科書に書いてあるものに限ります。

1911

1912

1913

1914

1915

1916

1917

1918

1919

 「動向」は東大がよくつかう表現です。「14・15世紀の朝鮮における支配層について、当時の思想動向に関連させながら、3行以内で述べよ。(1985)」、「ヨーロッパやアジアでは、キリスト教やイスラムの改革運動が政治や社会の動向に大きな影響を及ぼしてきた。(1998)」「15世紀から18世紀にかけて外の世界と交渉しつつ大きく成長したヨーロッパ経済の動向を考えながら、このグラフを読みとり、次の設問に答えよ。(1999)」という具合。

 政治の変化にも流れがあり、ある時期の風見鶏は右に向いているが、つぎの時期は左に向いている、ということがあり、時代傾向(動向)をつかませようという意図です。

 この問いた方があると注意しなくてはならないのは、たんなる事件の羅列になってしまってはいけないことです。どこかで動向を表す総括的な文章を入れないといけない。この問題の場合はつぎのように書くと、まちがいはまったくないにもかかわらず、動向が表わされていないことになります。 

1911年の辛亥革命の結果、孫文が臨時大総統に選ばれ、中華民国が誕生した。北京にいた袁世凱は革命派と交渉の末、清帝の退位と交換に臨時大総統の地位を与えられ、1912年宣統帝が退位して清朝の支配は終わった。革命派を弾圧した袁は帝位をねらって失敗し悶死したが、そのあと政権は馮国璋・段棋瑞など軍閥の手に移り専制政治が続いた。日本が対華二十一カ条要求を受諾させたのはそのような時期であった。辛亥革命を機に近代社会へ展望を開いた知識層は近代思想を武器に帝政復活や軍閥政治を支える封建道徳や家族制度を批判・攻撃し、民衆を啓蒙し、この新文化運動推進の中心になったのが北京大学である。1919年パリ講和会議において膠州湾直接還付の中国主張が拒否されると、北京の学生は街頭に出て二十一カ条の廃棄、日貨排斥を訴えた。五・四運動の始まりである。この運動は19年の5~6月各地に広がり、反帝・反軍閥の闘いに発展した。(400字 赤本)

構想メモ

     [革新的動向]      [反動的動向]

1911  辛亥革命

1912  中華民国 孫文 臨時大総統

     宣統帝 清朝滅亡     袁世凱臨時大総統

     臨時約法

1913                国民党を弾圧→第二革命失敗→袁世凱、正式に大総統             

1914  孫文、中華革命党      新約法公布で独裁制強化

1915  『新青年』創刊       二十一カ条要求の受諾 
                           帝政復活を宣言(皇帝即位)

1916  第三革命          軍閥政治(軍閥割拠)

1917  胡適「文学改良芻議」

1918  魯迅著『狂人日記』、北京大学でマルクス主義研究会

1919  パリ講和会議 北京大学の学生

    五・四運動 ヴェルサイユ条約調印拒否

    中国国民党結成

  こんなに多くのデータを入れこんで解答の文章をつくることはできませんし、受験場でぜんぶ想起できる可能性もない。限られたデータでも十分書ける問題ではあります。しかし、このメモしたデータ全体をながめて、1911~12年までは革新的動向→1913~1918年までは反動的→1915・17年に革新的傾向が芽生え、19年にこの革新的動向が顕著になる……というおおまかな動向をつかむことが必要です。

[第2問の解き方]
 問題の構造が、みな後のほうがより自由なかたちになっていることを説明できるかを問うている。つまり、

オリエント<ポリス<近代市民社会、農奴<(自由)中世都市市民<(限界)近代市民、中世思想<ルネサンス<啓蒙主義、重商主義<ケネー<スミス。

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(わたしの解答例)

第1問

1911年勃発した辛亥革命により翌年中華民国が誕生し清は滅亡した。鉄道国有化に反対する四川民衆の暴動に刺激され、武昌の新軍が蜂起すると、翌年孫文臨時大総統にむかえ中華民国が成立した。革新的方向である。だが軍閥の袁世凱は革命派と交渉し、宣統帝を退位させ、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。かくして革命の成果は軍閥に奪われた。北京の袁は孫文派を弾圧し、帝政をも企図し、15年その承認を条件に日本の二十一カ条要求を受諾した。袁の死後、各地の軍閥が列強と組んで互いに抗争した。その頃、知識人は儒教倫理反対・白話運動に着手し、新たな動きがはじまった。軍閥政府は連合国側にたって参戦したが、政府の二十一カ条要求廃棄を19年のパリ講和会議は拒否した。北京大学の学生はこれに反対する五・四運動を始め、大衆的反帝反封建運動が拡大、政府はヴェルサイユ条約調印を拒否した。孫文は軍閥依存をやめ同年国民党を組織した。

第2問

(A)古代東方には市民権はなく君主支配と身分差別が存在したが、ポリスは身分をなくし民会が全権を掌握した。しかし近代の法前平等の観念はなく、奴隷制立脚のポリスは、補助だったオリエント、奴隷制を否定した近代とはちがった。

(B)周辺の農奴がもたない立法・司法・行政・防衛・外交や農奴解放権をもっていた。ただし大商人と商工業の親方たちが市政を掌握し、団体としての自由はあっても個人の自由は認められず、ギルド規制や身分制に服さねばならなかった。

(C)中世が神中心のきびしい倫理観の下にあるのに対して、ルネサンスの自由は人間中心の世界観、個人の解放、感性の解放を主張していた。だが啓蒙思想とちがい体制に無批判であり、封建制・農奴制・身分制が残っていた。

(D)フランス重商主義は特権的商工業者の保護に傾いているに対してケネーは自然法にのっとったレッセ=フェールと重農主義を唱え、アダム=スミスは農業もふくめた労働全般を富の源泉ととらえ自由放任・自由貿易を説いた。

第3問

(1文毎にa→bの順)

1. V、D  2. E、Z  3. D、Q  4. Y,K  5. K、B

6. T、W  7. Z、I  8. O、O  9. R、T 10. C、M

1 冒頓単于は前209年に即位しています(語呂は「ブレーク」、『世界史年代 One Phrase』より)。即位だけとれば、前3世紀末になりますが、ここは前漢(高祖劉邦)とも争ったこと(前200年の白登山の戦い)から前2世紀の最初の年でもあり、解答はDとなります。

2 「フリーメーソン」については知らなくても(「自由な石工」からきた博愛主義団体)、ユダヤ人を敵対者、戦争の首謀者、克服といっていることから反ユダヤ主義者となります。1923年か1942年か迷うかもしれませんが、前者はミュンヘン一揆の年であり、まだ戦争をする指導者になれていません。投獄の年でした。

4 モンゴル人に対抗してモンゴル人を捕虜とし、それを北京に送り返した、とし、「南方のチャンパ」からこれはヴェトナムの国と考えられ、元朝と戦ったヴェトナムの当時の国は陳朝大越国と推理します。1284年が襲来の年。こんな細かい年は覚えなくてもいい。13世紀はモンゴルの世紀です。マルコ=ポーロの『世界の記述』には象軍をつかって馬のモンゴル騎兵を退散させたことがヴィヴィッドに描いてあります。

5 ペロポネソス戦争は年代が必須(前431~前404年)。

6 「働者がたがいに平和と好意のメッセージをとりかわしている」は世界的な労働者の組織を示唆しています。組織化のきっかけはロシアに対する農民反乱でした。メッセージは普仏戦争のときに発せられたもの。

7、この文章はローマ教皇がクレルモン公会議で十字軍を提唱している演説です。年代も1096年だから11世紀末(十字軍は「十切る」……が語呂)。

9 文章はフランス革命政府=立法議会で戦いを奨励しています。「市民諸君 ! 祖国は危機」という末尾の呼びかけがフランス革命中に義勇兵を招集しているものと考えられます。この後にヴァルミーの戦勝があり、立法議会は国民公会に転換します。1792年が呼びかけの年です。ラマルセーエーズがはやり国歌になります。