世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1982

第1問

 下記の文章群(A)~(F)は、帝国主義の時代に、アジア・アフリカの民族運動が成長していくとき、植民地化されたアジア・アフリカの諸地域の民衆が──指導者だけでなく──国際的な移動や交流をすでに盛んにおこなっていたということを示している。しかも、その移動や交流には、この時代独特の姿を見ることができる。そのような移動や交流が地域を超えて大規模におこったことの原因と意義とについて自分の考えをまとめ、600字以内で述べよ。

(A)兄を頼ってハワイに渡りホノルルの高校で学んだ孫文は、香港などで医学を修め、ポルトガル領マカオで開業したが、やがてそこを追われた。日清戦争直後、華僑の援助を得て広州に挙兵したが失敗し、アメリカ・ヨーロッパを経て日本に亡命した。その頃これら各地には中国人の社会ができていた。中国革命同盟会の基本思想となる三民主義は、孫文のこのような遍歴の中で構想された。

(B)イギリスに留学して法律を学び弁護士となったガンディーは、1893年から20年間も南アフリカにあって、その地のインド人の地位向上のために活動した。彼の非暴力抵抗の思想の原型はこの活動の中でうみ出された。彼が帰国するのは第1次世界大戦の開始後であるが、この戦争では150万人ものインド兵士が西部戦線にかり出された。

(C)少年時代から独立運動に身を投じたホー=チミンは、官憲の追跡を逃れて、船員となってヴェトナムを脱出した。ヨーロッパに渡った彼はフランス社会党員となり、1920年フランス共産党が成立するとただちにこれに加入、モスクワを経て中国に入り、中国革命にも参加した。この間、在外ヴェトナム人の組織化をすすめ、被圧迫民族解放同盟を結成するなどして、国際的体験を深めた。

(D)カスピ海に面するアゼルバイジャンの都市バクーは、19世紀初めロシアの支配下に入ったが、そこで産出される石油のため、20世紀初めには多数の東洋人労働者を集める国際色豊かな町となった。1906年のイラン立憲革命でも、またレザー=シャーのパフレヴィー朝創始に先立つ北部イランの革命運動でも、バクー在住のイラン人の役割は大きかった。

(E)20世紀初めのアフリカでは、各地でキリスト教の独立教会をつくろうとする黒人たちの動きが、植民地当局に対する反抗運動へと発展していた。これらと手を結ぼうとしたジャマイカ出身のマーカス=ガーヴェイは、アメリカの黒人に向かっては、アフリカに帰って黒人のアフリカをつくろうと呼びかけた。アフリカ、西インド諸島、アメリカ合衆国から代表が集まった第1回パン−アフリカ会議(1919年、パリ)は、アフリカ人の政治的独立をめざす決議をおこなった。

(F)スエズ運河開通後、紅海経由の定期航路が開設されると、東南アジアのイスラム教徒たちはそれまでよりも早く、かつ安く聖地への巡礼に行くことができるようになった。メッカには数年にわたって滞留するジャワ、スマトラ、マレー半島などの出身者の集団が出現し、本国と連絡を取りつつ、ヨーロッパの支配に反抗するイスラム教徒のジハード(聖戦)のための連帯を呼びかけた。19世紀末から20世紀初めにかけてのインドネシア各地でおこった反植民地闘争には、巡礼から帰った宗教指導者たちが深い関わりを持っていた。

 

第2問

 中国はユーラシア大陸東部の広大な地域を占め、その長い歴史をつうじて政治的・経済的・文化的単位として、ひとまとまりの世界を形づくってきた。しかし、このことは中国が他の地域や民族と、また異質の文明と全く没交渉であって、相互になんの影響も与えあうことがなかった、ということを意味しない。中国はその周辺の諸民族とはもちろん、イスラム世界や、遠くはヨーロッパとも交渉をもち、たがいに生活や文化に影響を及ぼしあってきた。下記の(A)〜(D)は、中国と他の地域・民族・文明との交渉に関係ある設問である。それぞれについて4行(140字)以内で解答せよ。

〔設問〕

(A)秦漢統一帝国が成立し、やがて経済的安定が得られると、漢の武帝は周辺諸民族に対し、積極的な対外政策をとった。そのうち北方・西方との関係、およびそれの漢に及ぼした影響について述べよ。

(B)中国史上、モンゴル族(元)と満州族(清)の全中国支配以前にも、華北全域を支配した周辺諸民族には氏(苻秦)・鮮卑(北魏)・契丹(遼)・女真(金)などの諸族があった。これら周辺諸民族の華北支配のあり方について、北魏以前と遼・金との差異を述べよ。

(C)中国では元代以降イスラム教徒が増加し、明初にはイスラム教徒鄭和の遠征が行なわれるほどイスラム世界との交流が深まった。ところで中国とイスラム世界の交渉の初期段階にあたる、8〜9世紀の両者の関係について述べよ。

(D)明末から清初にかけて中国に渡来した宣教師の報告によって、中国の文化や制度についてのヨーロッパ人の関心が深まった。17、18世紀に、中国がヨーロッパに与えた影響について述べよ。

 

第3問

 つぎの(A)~(J)の文章を読み,1~10の各空欄に適合する文章を,それぞれ指定された文章群からひ

とつ選び,イ~二の符号で答えよ。解答は答案用紙の(ニ)の欄に記入せよ。

(A)古代におけるギリシアとオリエントとの関係は,それら二つの世界の歴史と文化を考えるうえに,きわめて重い意味をもっている。[ 1 ]

1 イ その一例がギリシア語のアルファベットの成立である。この音標文字は,ギリシア人がアラム文字に範をとり,母音を表わす文字をつけ加えて作りあげたものである。

  ロ とりわけアケメネス朝ペルシアがオリエント世界を統一すると,ペルシア帝国とギリシア世界との間に政治的・軍事的緊張が高まり,このような関係は,その後アレクサンドロスの東征にいたるまでつづく。ペルシア戦争は,初期におけるその最大の表われである。

  ハ ギリシアとオリエントの交易は,古くから盛んであった。ギリシア人は穀物と陶器を輸出し,オリーブ油・ぶどう酒・パピルスなどを輸入した。

  二 東方のヘレニズム文化は,ギリシア文化とオリエント文化との融合によって成立したが,前3世紀以降,ギリシア的要素がますます優勢となり,やがてオリエント世界の文化を根本的に規定するようになった。ササン朝ペルシアの文化に,その好例を見ることができる。

(B)古代のギリシアとローマに共通する重要な特徴のひとつは,ともに重装歩兵制の成立を見,それを挺子(てこ)に民主政が発展をとげたことである。その過程で,平民はみずからの軍事的役割の増大にともない,政治的権利の向上をめざして貴族と争い,歩一歩かれらの要求を実現していった。[ 2 ]

2 イ クレイステネスの改革は,アテネにおけるこのような過程の最初の重要な画期である。貴族と平民との利害の調停者として登場したクレイステネスは,市民を財産の額によって4つの級に分け,おのおのについて参政権の程度を定めた。オストラシズムの制度も,かれによって設けられた。

  ロ ローマでは,前5世紀初頭から約200年にわたり貴族と平民が争った。その最後の到達点が,ローマ最初の成文法である十二表法の成立である。

  ハ 諸ポリスにおいて民主政成立の方向が定まった前5世紀初頭のギリシアを襲った試練が,ペルシア軍の来攻である。マラトンでの戦勝は,ギリシアの重装歩兵軍が対外的におさめた最初の輝かしい勝利であった。

  ニ ローマでは,貴族と平民との抗争が終結したのち,その重装歩兵軍がイタリア半島統一の余勢をかって,前後3回にわたりカルタゴと戦い,これを破った。その結果,ローマの地中海世界統一が完成された。

(C)ペルシア戦争に勝利をおさめたことによって,ギリシア人はかれらに固有の自由な市民たちからなる世界を守り,民主政と古典文化の発展の基礎を固めた。なかでも勝利の主役であったアテネの,戦優における発展はめざましかった。[ 3 ]

3 イ アテネでは下層市民のいちじるしい発言力の向上を背景に,典型的なポリス民主政の完成を見,そのもとで市民身分の成年女子にも政治に参加する道が開かれた。アリストファネスの喜劇『女の議会』がその事実を示している。

  ロ アテネは,エーゲ海周辺の諸ポリスからなる対ペルシア同盟の中心となって,国力をさらに伸ばした。この同盟は,本部が当初エーゲ海のデロス島におかれたところから,デロス同盟と呼ばれるが,その実,前5世紀なかば以降,加盟諸ポリスはアテネの独裁のもとに服する状態となった。

  ハ 文化の諸領域でも,前5世紀のアテネが生みだした成果には,目をみはらせるものがある。ことに哲学の分野では,この時期にソクラテス・プラトン・アリストテレスが出て,ヨーロッパの思想と学問の源流となった。

  二 この時期のアテネでは,ギリシア各地から集まった在留外人に,学問・芸術や商工業の分野で自由に活躍することを許すとともに,奴隷に対する扱いも一般にゆるやかとなった。奴隷制度衰退のきざしを,そこに認めることができる。

(D)ローマ帝政期の初めの約200年間は「ローマの平和」がつづき,ローマの文化は少しずつ地中海世界の他の民族に広がり,都市の建設がすすみ,経済活動も盛んであった。このような「ローマの平和」の繁栄とその恩恵は,単にローマ人だけではなく,地中海世界の諸民族にゆきわたり,「ローマの平和]をたたえる属州民も現われた。しかし,[ 4 ]

4 イ「ローマの平和」とは言っても,国内が完全に平和だったわけではなく,国境も異民族に脅かされた。たとえば,ブリタニアでのたびたびの反抗,2度にわたるユダヤ戦争などは,国内反乱の例である。

  ロ 「ローマの平和」は,軍人皇帝時代の内乱やササン朝ペルシアとの戦争などによって深刻な打撃をうけた。この混乱を克服したディオクレティアヌス帝によって「ローマの平和」は再建され,五賢帝時代の繁栄を迎えた。

  ハ 「ローマの平和」はしばしばキリスト教徒の反抗によって妨げられた。そこでネロ帝はキリスト教徒を弾圧し,迫害時代がつづいた。そのため「ローマの平和」は消滅したが,コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認し,新しい宗教の基礎の上に「ローマの平和」を再構築した。

  ニ 「ローマの平和」の経済的基礎である奴隷制は,この時代に最盛期を迎え,スパルタクスの蜂起など大反乱が続発した。このため奴隷制はしだいにコロナートゥス制に移行した。このような経済的な変化が,「ローマの平和」を崩壊させる遠因であった。

(E)ほぼ4世紀から11世紀までの間に,ヨーロッパには2つの大きな民族移動の波が押しよせた。移動した民族は,すでに存在した諸国家を滅ぼして自らの国家を建設したり,遂に征服・同化されたりした。例えば,[ 5 ]

5 イ 第1次民族大移動の波の中で,ライン川を渡り,長駆して北アフリカに建国したヴァンダルは,しばしば外征し,ローマ市を占領したが,やがて,東ローマ皇帝テオドシウス大帝によって滅ぼされた。

  ロ ウラル語族に属するマジャールは,9世紀末からくり返しヨーロッパに侵入したが,東フランク王オットー1世はこれを撃退した。このことはオットーの王権の強化に役立ち,彼はローマ教皇から帝冠を授けられた。

  ハ 第1次民族大移動のいわば先陣を承った西ゴートは,バルカン地方を荒らしたのちイタリアに入り,ローマ市を占領した。これによって西ローマ帝国が滅亡した。西ゴートはその後イベリア半島に建国し,8世紀初めまで存続した。

  二 第2次民族大移動の一方の主役ノルマン人は,海外進出を始めると,ノルマンディー公国をたて,デーン人のクヌート王の支配するイギリスを征服した。これがノルマン征服である。

(F)西ローマ帝国が滅亡したのち,そのあとにはゲルマン部族国家がつぎつぎとたったが,なかでもフランク王国が中心になって中世の西欧世界が形成された。これに対して東部のローマ帝国領では,ピザンティン帝国がさらに1000年近くもつづいた。この間,ピザンティン帝国と西欧世界とのあいだには,緊張・衝突・協力などの諸関係が,時に応じて生み出された。例えば,[ 6 ]

6 イ 西ローマの帝権が消滅していらい,ローマ教皇は法的に西におけるローマ皇帝の代理となったので,コンスタンティノープルの総主教も,はじめからローマ教皇の優位権を認めていた。

  ロ セルジューク朝の勢力が小アジアに進出してビザンティン帝国を脅かすと,ビザンティン皇帝はローマ教皇に援軍の要請をした。教皇はただちにこれに応じ,十字軍を提唱した。翌年出発した遠征軍は,ヴェネツィアの要求をいれてコンスタンティノープルを陥れたので,これ以後ビザンティン帝国は衰え,イタリア都市の繁栄が始まった。

  ハ ビザンティン帝国は小アジアとバルカン地方の一角に領土を縮小していたが,718年ウマイヤ朝侵入軍による首都包囲をしりぞけることができた。この勝利は,その直前のトゥール・ポワティエ間での戦勝とともに,キリスト教的ヨーロッパをイスラム勢力から守った記念すべき事件とされる。

  ニ ローマ教皇レオ3世は,フランク王カールに帝冠を授けた。この事件は,教皇の立場としては,ビザンティン皇帝の権威から独立するとともに,それに代る守護者をカールに求めたものであり,カールにとってみれば,西欧世界の代表者としての地位を正当化しようとするものであった。

(G)H~15世紀に,イギリス・フランス・ドイツの3地方は,封建社会を形成していたが,それぞれの歴史的条件に応じて,たがいに共通点と相違点とをきわだたせていた。その様相を,国家の統合化や集権化という面からみれば,[ 7 ]

7 イ ドイツでは,イギリス・フランスとちがって,当初は神聖ローマ帝国という超越的権威のもとに,ある程度の国家的まとまりが保たれていたが,皇帝が選挙制たったこともあって,のちに13世紀後半の大空位時代のような分裂が,避けられなくなった。

  ロ フランスでは,イギリス・ドイツとちがって,もっとも典型的な騎士制度がうまれるなど,封建諸侯による分権的性格が強化されたため,カペー朝王権はパリ周辺を実質的に支配するにすぎず,そののちには英仏百年戦争の混乱もてつだって,集権化への歩みはけるかに遅れた。

  ハ イギリスでは,フランス・ドイツとちがって,ノルマン征服ののちも,プランタジネット朝がフランスから招かれるなど,外来の王権が優越していたため,マグナ-カルタやワット=タイラーの乱のように,土着の貴族,民衆からの反抗がしばしばおこり,統合は困難だった。

  ニ 3地方ともにイタリアのような都市社会の形成がみられず,農村的な色彩が強かったので,国家統合にあたって,王権は都市の資力を頼りにして封建諸侯に対抗することはできなかったが,さりとて自治権をもつ都市が王権の強化に反抗するのを恐れる必要もなかった。

(H)イタリアリレネサンスが若い活力を発揮したのは,1400年代のことであった。このことは,その前後3世紀間の,キリスト教会をめぐる状況との間連のもとで考えることができる。15世紀において,[ 8 ]

8 イ ダンテやペトラルカは,カトリック教会における道徳的腐敗とイタリアの地位低下に直面し,古典文化とイタリア民族の文化の再興を提唱した。

  ロ ぼう大な醵金(きょきん)によって完成された,ローマのサン=ピエトロ寺院は,ブラマンテ・ラファエロ・ミケランジェロなど,代表的な芸術家の手になるものである。

  ハ ガリレイは,旧来の偏見にもとづく天動説にかわって地動説をとなえ,ルネサンスの科学精神を高らかにうたいあげたが,教会は異端審問制度によって,きびしく弾圧した。

  ニ ギリシア正教のもとにあった古典学者たちが,活動の場を失ってイタリアに亡命し,フィレンツェを中心にギリシア語・ギリシア文化研究熱が,いっそう盛んとなった。

( I )スペインの属領だったネーデルランドの北部7州は,16世紀の後半からその支配を覆すべく独立戦争をたたかったのち,オランダ(ネーデルランド共和国)として独立を達成した。オランダは[ 9 ]

9 イ その独立が,三十年戦争後の講和条約である,1648年のウェストファリア条約まで認められなかったので,海外進出に出おくれ,ようやく17世紀後半になって本格的な進出をおこなうことになった。

  ロ 17世紀には,アジアではアンボイナ事件をきっかけにモルッカ諸島で優位をえたほか,マラッカ・台湾などに進出したが、またアフリカ南端,北アメリカ東岸,ブラジル北東岸にも,根拠地をうちたてた。

  ハ 当初ルター派が多かったが,のちにカルヴァン派プロテスタントが優勢となった。このため,イギリスのピューリタン革命で政権をとったクロムウェルは,同じカルヴァン派であるオランダを積極的に援助し,海外貿易は有利にすすめられた。

  ニ カトリック諸国とはちがって,キリスト教伝道に強い執着をしめさなかったため,日本の江戸幕府はとくに危険を感じず,鎖国政策のもとでも,日本にとって唯一の外国貿易国としての待遇をあたえ,長崎の出島で取引を続行した。

(J)ポーランドでは,1980年以後,新しい社会主義をめざす運動がすすめられ,ロシアとポーランドのあいだに横たわる歴史上の微妙な問題が,あらためて注目をあびた。ポーランド人は,[ 10 ]

10 イ ロシア人と同じく,東スラヴ族に属し,ロシア人とともに西進して9世紀にはすでに王国をたてたが,その当初からこの両民族は,居住地をめぐって激しい争奪をくりかえしていた。

  ロ ロシア人とともに,10世紀ごろまでにはいちはやくビザンティン帝国からギリシア正教を受けいれ,ほかのスラヴ人への伝道の拠点ともなっていたため,ロシア人には宗数的連帯感を抱いてきた。

  ハ18世紀後半,プロイセン,オーストリア・ロシアの3国によって,3次にわたる分割をうけ国を奪われるが,そのさい同じスラヴ人であるロシアに対しては当初から協力的であり,ロシア帝国の保護のもとにおける自治的共和制にすすんで従っていた。

  ニ 14~16世紀に,ヤゲロー(ヤギェウォ)朝のもとに繁栄し,その王朝の末期には,天文学者コペルニクスをうむなど,豊かな文化的伝統をほこるが,そのころロシアはキプチヤク=ハン国の支配を,ようやく覆したところであった。

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第1問の解き方

 どれくらいこの細かい事例の中から要求にあわせて不要なものを捨て、必要なデータだけを拾ってこれるかが問われています。主問(主要求)は「移動や交流が地域を超えて大規模におこったことの原因と意義とについて自分の考えをまとめ」です。原因か意義かをふりわけながら読みましょう。原因は実線────で、意義は~~~~で区別していくと後でまとめやすい。

(A)「ハワイに渡りホノルルの高校で学んだ」は移動のどんな原因か?(学問格差) 「香港などで医学を修め」も同じ原因です。香港も当時は外国 ! 「そこを追われた……亡命した」これも強制的な原因。「基本思想……遍歴の中で構想された」は意義(革命思想の育成)。

(B)「イギリスに留学」も孫文と同じ原因。「20年間も南アフリカ」はどこの植民地か? これも間接的に原因。「思想の原型はこの活動の中でうみ出された」は意義。「インド兵士が西部戦線にかり出された」は強制的原因(徴兵)。

(C)「追跡を逃れて……脱出した」は強制的原因。「中国革命にも参加」も原因。「在外ヴェトナム人の組織化を……同盟を結成するなどして、国際的体験を深めた」は意義(内と外の連帯)。

(D)「多数の東洋人労働者を集める」という出稼ぎも原因。「(一般労働者にあたる)イラン人の役割は大きかった」は意義(革命への労働者の参加)。

(E)「キリスト教の独立教会」は西欧列強の文化的影響・支配が、アフリカ人の一致した活動を可能にしているから原因(信徒の連帯)。「独立教会をつくろう……反抗運動へと発展」は意義。「政治的独立をめざす決議」も意義。

(F)「スエズ運河開通後、紅海経由の定期航路が開設」は技術的原因。「早く、かつ安く聖地への巡礼に行くことができるようになった」も前者同様の原因。「半島などの出身者の集団が出現」「連帯を呼びかけた」「宗教指導者たちが深い関わり」は意義。

 これらのばらばらにある原因と意義を、原因は原因で、意義は意義で、にたものを集めて「まとめる」のです。歴史のまとめですから、じぶんの勝手な感想を書くのではありません。資料・史実に即して「自分の考えをまとめ」ることが必要です。

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(わたしの解答例)

第1問

帝国主義時代の移動の原因は、第一にコミュニケーションの手段の発達である。1869年のスエズ運河、アメリカ大陸横断鉄道の開通、20世紀はじめのシベリア鉄道、パナマ運河の開通、汽船による世界周航、飛行船の定期航路のはじまりなどで移動が容易になった。また電信・電話・新聞・郵便の発達と学術書の流入・翻訳がおこなわれた。その結果、本来これらは帝国主義推進の手段であったものが、植民地人の留学・巡礼を促し、亡命も可能にした。留学生・巡礼者・亡命者による民族会議の召集も可能となった。一方で列強の帝国主義政策が移動を強制した。すなわち資源争奪をめぐる戦争は植民地人を動員し、低賃金労働力を必要とした辺境・危険地帯に送り込んだ。さらに植民地内の人口増加と民族産業の崩壊があり、それが出稼ぎを余儀なくさせた。こうした移動の意義は、民族主義の広まりと深まりを加えたことである。故国を外から見ることで、その後進性を痛感したばかりでなく、帝国主義国の革命思想を吸収して各民族独自の思想形成に役立った。また他地域の反帝運動を見、その運動にも参加・体験をすることで反帝闘争の連帯組織をつくっていった。信仰者は民族の壁をこえて連帯が可能となった。さらに在外者は在外の地で運動を組織し、故国の運動と連携し、亡命者をかくまい、民族運動を永続化した。このように列強の帝国主義政策は植民地側の反帝運動を育成した。

第2問

(A)北方では匈奴に勝ち河西四郡を設け西方には張騫や李広利を派遣、西域の商業路を掌握した。この結果西域との通商はさかんとなったが財政負担を大きくし、武帝は重農抑商の経済政策をとらざるをえなかった。均輪法・平準法、五銖銭発行・塩鉄専売などを実施した。

(B)前者は弁髪や部族制を廃止して中国風の長髪や郡県制を採用した。故地を捨てて華北に建国した。後者は故地を捨てず漢化に抵抗し、北面官と南面官による統治と猛安謀克制の二重統治体制をしいた。部族制を維持しつつ州県制も採用する。前者は中国に浸透し後者は中国の征服王朝となった。

第3問

1.ロ(ハはギリシア人が「穀物……輸出」するのではなく輸入しないと生きていけない。ロがとくに問題はない文章です。) 2.ハ 3.ロ 4.イ 5.ロ 6.ニ 7.イ 8.ニ(イはかれらに教会の腐敗とかイタリアの地位低下に対する危機感はないとおもいます。それと15世紀において、という文章の後に空欄ですから、二人は13~14世紀のひとなので該当しません。) 9.ロ 10.ニ