世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1984

第1問

 第一次世界大戦と第二次世界大戦とは、20世紀の戦争として、それまでの歴史に見られなかったような特徴を備えている。二つの戦争を比較し、これらに共通する新しい性格と結果とを600字以内に論ぜよ。なお、解答文では下記の語句を少なくとも1回は使用し、最初に用いたときには下線をほどこせ。
 工業力 国民生活 アジア 残虐兵器 植民地 革命 国際平和機構 飛行機 アメリカ 国家統制

 

第2問

 次の文章を読み、下記の設問に答えよ。

 中国では、統一帝国の君主は、秦の始皇帝いらい、「皇帝」の称号を用いた。また、儒教的君主観にもとづく「天子」という名称も、辛亥革命にいたるまで久しく用いられた。一方、モンゴル高原で活躍した遊牧民の柔然、突厥、ウイグル、モンゴルなどの君主は、みな「ハガン」(可汗)と称した。「ハーン」(汗)という称号もこれから出たものである。一般に、君主の称号は、伝統的な君主観や、支配の理念や、あるときには権威の根拠をあらわしている。

〔設問〕

 以下の(A)~(D)の場合について、上のような観点から、おのおの5行以内〔注:150字程度〕で説明せよ。なお〔  〕内の人名や事項は、解答のための参考のために挙げたが、かならずしもそれらをすべてに言及する必要はない。

(A)神聖ローマ皇帝

  〔カール大帝、オットー1世、金印勅書、ハプスブルク家、ナポレオン〕

(B)ツァール(ツァー)

 〔カエサル、東ローマ帝国、モンゴル、イヴァン3世、ロマノフ朝〕

(C)カリフ

 〔アブー=バクル、アッバース朝、マムルーク朝、オスマン帝国、トルコ革命〕

(D)シャー

 〔ササン朝、ブワイフ朝、サファヴィー朝、パフレヴィー朝、ムガル朝〕

 

第3問

 下記の(A)~(J)の文章を読み,1~10の各空欄に適合する文章を,それぞれ指定された文章群からひとつ選び,イ~二の符号で答えよ。解答は答案用紙の(ホ)の欄に記入せよ。

(A)黄河文明を代表するのが,仰翻文化と竜山文化であり,いずれも新石器時代に位置する農耕文化である。

1 イ 黄土はもっぱら黄河の流れによって運ばれた堆積土で,土壌としては肥沃なものであり,原始的な農法や農具でも穀物の栽培は可能であった。これが,黄土地帯に文明が誕生した大きな理由である。

 ロ この文明をはぐくんだ黄土地帯では,大規模な洪水や,きびしい日照りの危険がつきまとったから,人びとは比較的条件のめぐまれたところに散在する形でしか,集落をつくれなかった。こうしてできた集落(邑)が,殷周時代の支配体制の基礎となっていった。

 ハ 仰韶文化の時代,人びとは動物や幾何学文様を描いた彩色土器を作り,アワやキピを栽培し,家畜を飼い,一般に黄土の段丘を利用した横穴式住居で生活していた。

ニ 人びとが集落を作って共同生活を始めたのは,竜山文化期に入ってからのことであり,集落の中心部に公共集会所のような遺構が認められる遺跡も,いくつか発見されている。

(B)春秋時代から戦国時代にかけて,中国の社会には大きな変動がおこった。たとえば,

 イ 君臣関係が,氏族制にもとづく世襲的なものから,家族制にもとづきながらもより契約的なものへと移行した。

 ロ 鉄製農具と牛耕という新農法の普及によって,黄土はより広く,深く,はやく耕すことが可能となり,農業生産力は飛躍的に向上した。

 ハ 都市・交通・商工業の発達は,刀貨や布貨などの新しい貨幣を生みだし,鉄銭の地位は銅銭に並ぶようになった。

  ニ 周室の権威は一段とおとろえ,覇者と称される有力諸侯は,つぎつぎに天子と自称するようになった。

(C)西方辺境にあった秦は,魏・趙・燕などの6国を滅ばし,前221年,天下を統一した。

  イ 始皇帝は中央集権化を急ぎ,医薬関係以外の一切の書物を焼きすてさせる(焚書)などの思想面の統制を強行した。

  ロ これよりさき,秦の孝公は,咸陽に都を定め,李斯を採用して変法を断行し,統一事業の基礎を築いた。

  ハ 郡守や県令などには在地の有力者を積極的に任命し,家(戸)を単位として租賦をとりたてる法治主義的支配をおこなった。

  ニ 秦帝国が発行した統一貨幣が半両銭であり,その形は,のちの漢代の五銖銭と同じく,中央に四角の穴をあけた円形のものであった。

 

(D)陳勝・呉広の乱のように,統一王朝の交替期にはかならずといっていいほど,農民を中心とする大規模な反乱がおこっている。たとえば,

  イ 王莽の失政は赤眉の乱をまねき,農民出身の劉秀は,地方豪族の勢力を抑圧して帝位についた。これが後漢の光武帝である。

  ロ 黄巾の乱は,後漢王朝を滅亡させる契機となった大反乱であり,その主力は,張角を指導者とする太平道の勢力であった。

  ハ 黄巾の乱は統一国家の再分裂をうながし,長安・成都・建康にそれぞれ都を置く三国が成立した。

  二 八王の乱と水盛の乱は,華北の農業生産を破壊し,五胡十六国時代の幕を開ける原因となった。

 

(E)江南の六朝文化の華やかさこそないが,同じ時代,華北でも重要な諸文化が形成された。たとえば,

  イ 山西省大同市の郊外にある雲崗は,石窟寺院形式の仏教文化を代表するものであり,その開削は太武帝の時代に始まる。

  ロ 庶民層に深く定着していった仏教に対し,寇謙之が大成した道教は,隋唐時代に入ると,老荘思想になじんでいた貴族層に歓迎され,流行した。

  ハ 歴代のすぐれた詩文を集めた昭明太子編『文選』は,漢詩文の模範として,奈良時代以降,日本でも広く愛読された。

  ニ 買思キョウの「斉民要術」は,華北の厳しい風土にも適した農業技術を説いた実用書である。

 

(F)古代ギリシアの諸ポリスにおいては,史上まれに見る徹底した民主政が実現された。その典型的事例は前5世紀から前4世紀にかけてのアテネに認められる。

  イ アテネ民主政の完成に主導的な役割を演じたのはテミストクレスであった。サラミス海戦を勝利に導いた彼は,艦船の漕ぎ手として勝利に貢献した下層市民の声を代表して,国政をおしすすめた。

  ロ そこでは地域ごとに抽籤(ちゅうせん)で代表を選び,彼らで構成される民会が国家の最終的な意思決定機関としての権限をにぎっていた。代議制民主主義の源をここに見ることができる。

  ハ アテネと並ぶ代表的なポリス,スパルタでも,前5世紀にはペリオイコイに参政権が与えられ,ヘロットも奴隷身分から解放されて,民主政の完成を見た。

  ニ そこでは貴族と平民との区別が実質的意味を失っている。共和政期のローマで,貴族が最後まで権威を保ち,彼らの拠点である元老院が国政の指導権を掌握しつづけたのと,それはきわめて対照的である。

 

(G)古代ギリシア文化は,自由な市民からなるポリスを土壌として生まれ育ったものである。そのことはギリシァ人たちの個性的な思索と創造,おそれを知らぬ批判精神によく表われている。

  イ 代表的な事例としてソクラテスの哲学があげられる。ソクラテスは問答の形を借りて人間と社会のありかたを自由に論じ,周囲の青年たちに深い影響を与えた。彼の人格と思想とは,アリストテレスの対話形式の作品によって後世に伝えられている。

  ロ ペルシア戦争を物語風に描いたトゥキュディデス(ツキジデス),ペロポネソス戦争を史料を厳密に扱って正確に叙述したヘロドトスは,ともに鮮明な歴史観の持主であった。このうちヘロドトスは,科学的な歴史記述の方法を創始したことにより,「歴史の父」と呼ばれる。

  ハ アリストファネスに代表される喜劇も,その顕著な一例である。このような喜劇が上演された劇場は,遺跡としてギリシア各地に数多くのこされ,公共生活を重んずる古代ギリシア人のありかたをよく伝えている。

  二 古代ギリシア人は数多くの法をつくり,国政運営の指針としたが,それらの法についての厳密な解釈と法典編纂の事業とは,彼らの間ではさほど発達しなかった。この分野で大きな足跡をのこしたのはローマ人であり,その出発点が初代皇帝アウグストゥスによるローマ法典の編纂であった。

 

(H)帝政の成立にいたる古代ローマの歴史は,支配領域拡大の歴史であったといってもよいが,その過程においてローマ人は,さまざまな民族と接触する機会をもった。

8 イ 南イタリアとシチリア(シシリー)島に多数散在していたギリシア植民市も,そのひとつに数えられる。これらの諸市は,ミケーネ文明崩壊期にドーリア人にギリシア本土を追われた人びとによって建設されたものであった。

  ロ 前2世紀の半ばに,ローマはギリシア本土を征服した。このときローマに人質として送られたギリシア人のなかにポリビオスがいた。彼はローマ貴族スキピオの保護のもとに,すぐれた地理書をあらわした。

  ハ 前31年,オクタヴィアヌスはギリシア本土西岸アクティウム沖の海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り,翌年,プトレマイオス朝のエジプトを手中におさめた。これにより,ローマの地中海世界制覇は完成を見た。

  ニ そののち五黄帝のひとりトラヤヌスの時代に,ローマ帝国の規模は最大となるが,3世紀に入ると,北からはガリア人の,また東からはササン朝ペルシアの侵入を受け,帝国の国境はにわかに緊張の度を加えた。

 

( I )ローマ帝国は,グラックス兄弟の改革の失敗ののち,約100年にわたる内乱の果てに成立した。その主役を演じたのは,閥族派と平民派に分れて争うローマの有力貴族たちであった。

  イ 彼らのなかでもっとも著名な人物は,カエサル(シーザー)とポンベイウスである。ふたりはたがいに激しい対立関係にあったか,前60年,平民派の将軍マリウスを引き入れて第1回三頭政治を行い,帝政成立への一歩を踏み出した。

  ロ 内乱の時代にあってローマ人たちの危機感をつのらせたのが,イタリア半島内の同盟諸市の反抗と奴隷の反乱とであった。同盟請市は,ローマを打倒するために,スパルタタスを指導者とする奴隷の反乱軍と手を結び,一時,半島南部を制する勢いを示した。

  ハ 内乱をおさめ皇帝の地位を手にしたアウグストゥスは,コンスルや元老院の制度を廃し,官僚制を整備して,帝国の統治体制を確立した。

  二 五黄帝の時代にいたる帝政初期はローマ古典文化の最盛期で,多くの著作家や学者がでたが,そのさい見逃すことができないのは,プルタルコス(プルターク),ストラボン,ブトレマイオスらギリシア人の活躍である。

 

(J)3世紀に入ると,ローマ帝国の各地に軍人出身の皇帝が並び立つようになり,国内は乱れた。このような混乱をおさめ,帝国にふたたび統一をもたらしたのが皇帝ディオクレティアヌスである。

  イ 彼は帝国の四分統治制を考案し,各種の改革を行うとともに,皇帝への崇拝を強制してその権力の絶対化をはかり,オリエント風の専制支配を樹立した。古代ギリシア・ローマに固有の自由な市民の存在は,このような支配のもとでやがて否定されるにいたった。

  ロ 彼はまたキリスト教徒の迫害を大規模に行った。しかし教徒たちの信仰は強まる一方だったので,コンスタンティヌス帝のとき,ローマ帝国はついにキリスト教を公認して,これを国教とした。

  ハ 帝政末期の社会経済上の変化のひとつに,コロヌス制の普及がある。コンスタンティヌスは,改革の一環としてコロヌスを解放し,彼らを自由な農民にしようと企てたが,大土地所有者にさまたげられて成功しなかった。

  ニ 帝政末期に最大の文化的創造をなしとげたのは,アウグスティヌスである。その著作「神の国」(『神国論』)は,この時代のもっとも徹底した教会批判の書として,16世紀のヨーロッパでふたたび注目を浴びるようになった。

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わたしの解答例

第1問(世界史論述練習帳newと同文)

性格。19世紀までの戦争は戦場は前線だけの局地戦であり、大砲・鉄砲を主たる武器として軍人が参戦した。20世紀の戦争は戦場と銃後の区別がなくなり飛行機・戦車・ガス・潜水艦・原爆という大量殺戮が可能な残虐兵器が使われた。また一般市民も参加させられた。19世紀は君主のための戦争であり、全国民が動員されることはなく、それだけ国家の個人に対する規制はゆるかった。20世紀は国民・国家をかけた総力戦であり、婦人も軍需工場や戦場で働いた。その国のもつ工業力も戦争の帰趨を左右するものとなり、世論操作がおこなわれ国家が個人に服従を強制した。こうして国民生活にまで国家統制が及んだ。結果。19世紀の戦争は君主が植民地拡大に成功したり継承権の是非が決められた。20世紀の戦争はこれらの君主国が崩壊する革命を誘発し、アジア・アフリカの民族運動を刺激し非植民地化の契機ともなった。19世紀は戦争に勝利した英仏を中心とするヨーロッパの優位を確立したが、20世紀のは欧州の衰退を促し、アメリカ合衆国とソ連邦の台頭を招いた。前者では勢力均衡がはかられ、その裏で秘密条約が結ばれるのが慣例であったが、後者は集団安全保障のため国際平和機構たる国際連盟・国際連合が結成された。19世紀には軍備縮小の会議はなかったが、20世紀には第一次世界大戦直後からなんども開かれた。しかし、結局は効果のない取決めに終始している。

第2問

[第2問の解き方

 これは対比の問題ととると見えてきます。
 課題は「君主の称号は、伝統的な君主観や、支配の理念や、あるときには権威の根拠をあらわしている。……上のような観点から」ということを表すには、他の称号と比べて、わたしゃ一番やぞ、という言える根拠が示せるかの問題だからです。

 (A)神聖ローマ皇帝の起源はローマ皇帝を受けつぎ、帝国教会政策を推進するためにカール1世・オットー1世と名乗り、見下す相手はビザンチン皇帝と周辺の諸侯であり、かつローマ教皇です。

 (B)ツァーリもローマ皇帝の称号を東ローマ帝国の滅亡からロシアの大公が継承したものとして僭称しました。この称号が見下すのは、南のオスマン帝国皇帝でありに、西欧の神聖ローマ皇帝です。モンゴル帝国のハーンの伝統をうけつぐと同時に東方正教会の支配者も意味しました。

(C)この問題は最近の問題と似ています。「カリフとは「代理人」の意味で、預言者ムハンマドの没後、その代理としてムスリム共同体(ウンマ)の指導者となった人のことを指す。単一のカリフをムスリム共同体全体の指導者とする考えは近代に至るまで根強いが、政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて4行以内で説明せよ。」(2004年)と。初期膨張のカリフに勝っている点は何か示し、それがどのような運命をたどったかをかんたんに説明します。

(D)この称号の始まり(アケメネス朝)とイスラーム教徒になってもこの称号を使ったことの理由、周辺国との対抗意識があります。それはスンナ派に対抗する12イマーム派の主張が込められています。

(解答例)

(A)神聖ローマ皇帝とは、ヨーロッパの君主はローマ皇帝でなければならない、という古代から中世に受けつがれたヨーロッパの伝統を表わしている。962年に東フランク王オットー1世が名乗り、かれの帝国教会政策を推進するためにビザンチン皇帝と周辺の諸侯に対抗し、かつローマ教皇の上にたつことを誇示せんがためであった。

(B)ツァーリは西欧で一般的であったローマ皇帝の称号を東ローマ帝国の滅亡からロシアの大公が継承したものとして僭称した。これは南のオスマン帝国に対抗し、西欧の神聖ローマ皇帝に対抗した称号であり、モンゴル帝国のハーンの伝統と融合したものであった。同時に東方正教会の支配者も意味した。

(C)カリフはムハンマドの代理を意味。初めは政治上の代理で「神の使徒の代理」、アッバース朝では「神の代理」とされムハンマドと同位置にみなされ、宗教上も最高指導者を意味した。ウマイヤ朝まではカリフは戦士団の長であったが、全ムスリムの長を意味した。ユダヤ教・キリスト教を越えた最高の預言者の位置である。

(D)シャーはアケメネス朝やササン朝独特の古い伝統的な称号で、ゾロアスター教を信仰する君主の称号であった。サファヴィー朝になってイスラーム教に代ってからこの称号を復活させたのは、周囲のスンナ派帝国オスマン帝国とムガル帝国の君主に対抗して、12イマーム派の君主として独自の君主権を主張したいがためであった。

第3問

A.ロ(ニ 集落は仰韶文化のときからあり、ときにこれは教科書に写真がのっていたりします。) B.ロ C.ニ D.ロ(イのまちがいは「地方豪族の勢力を抑圧して」の部分。後漢は豪族連合政権というくらいに豪族との融和で保もった国でした。) E.ニ F.ニ G.ハ H.ハ I.ニ J.イ