世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2006

第1問

 近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し,民主主義が成長した反面,各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方,国際法を制定したり,国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。

 このように戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて,解答欄(イ)に17行(510字)以内で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。 

 ウェストファリア条約 『戦争と平和の法』 ナショナリズム 国際連盟 総力戦

 平和に関する布告 十四ヵ条 徴兵制

  この問題についての簡単なコメントは『世界史論述練習帳 new』資料「東・京・一・筑」に掲載。

 

第2問

 インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は,古来,地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし,また,中央ユーラシアとも,南北にのぴる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて,次の3つの設問に答えなさい。解答にあたっては,解答欄(ロ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1)インド亜大陸へのイスラームの定着は海陸両方の経路から進行した。そのうち,カイバル峠を通るルートによる定着過程の,10世紀末から16世紀前半にかけての展開を,政治的側面と文化的側面の双方にふれながら4行以内で説明しなさい。

(2)インド洋地域で,イギリスやフランスの東インド会社は,インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

(3)ヨーロッパ列強にとって,インドにつらなるルートの重要性が増していくなかで,ヨーロッパとインド洋を結ぶ要衝であるエジプトは,次第に国際政治の焦点となっていった。18世紀末から20世紀中葉にいたるエジプトをめぐる国際関係について,以下の語句のすべてを少なくとも1回用いて,4行以内で説明しなさい。

 ナポレオン スエズ運河 ナセル

 

第3問

 世界史上,政治的な統合のあり方は多様であった。帝国や同盟的連合など,その形態には,近代の国民国家とは異なるさまざまな特徴がみられた。こうした政治的な統合の諸形態に関連する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は,解答欄(ハ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 鉄製の武器や戦車の使用で強大化したアッシリアは,前7世紀にオリエント全土を支配する大帝国を築いた。その首都の名(a)を,(a)の記号を付して記しなさい。また,その位置として正しいもの(b)を地図上の(ア)~(オ)の中から選び,(b)の記号を付して記しなさい。

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(2) 地中海と黒海を結ぶ要衝の地にあるイスタンブールは,起源をたどれば前7世紀に[ (a) ]人によって建設された都市であった。文中の[ (a) ]に入る語と,この都市の建設当初の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(3) 中国の春秋時代には,覇者と呼ばれる有力者が「尊王攘夷」を唱えて盟約の儀式を主宰したといわれる。「尊王攘夷」とは何のことか。ここでいう「王」とは何かを含めて,1行以内で説明しなさい。

(4) ローマ帝国の首都ローマには各地の属州からさまざまな物資がもたらされ,その繁栄を支えた。なかでもエジプトはローマの穀倉として重要であった。このエジプトを属州とする際にローマが倒した王朝の名を記しなさい。

(5) イスラーム教徒は,ムハンマドの布教開始から1世紀もたたないうちに,広大なイスラーム帝国を樹立した。しかしその後,しだいに地域的な王朝が分立していった。イベリア半島では,8世紀後半に,[ (a) ]を王都とする王朝が出現し,独自のイスラーム文化を開花させた。文中の[ (a) ]に入る都市の名と,この王朝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(6) 遊牧民族の国家は,諸軍事集団の連合体という性格が強く,君主(ハン)の選定や遠征の決定など重要な事項が有力者の合議によって定められた。チンギス=ハンの即位の際にも開かれたこのような会議をモンゴル語で何と呼ぶか,記しなさい。

(7) 帝政時代の中国の政治体制は中央集権的な官僚統治体制と言われるが,皇帝の一族や勲功のあった者に「王」の称号を与えて領地を世襲的に統治させることもしぱしぱ見られた。明代初期に燕王として北平に封ぜられ,のち反乱を起こして皇帝の位を奪った人物は誰か。皇帝としての通称でその名を記しなさい。

(8) 13世紀後半に,ドイツは皇帝のいない「大空位時代」を迎えた。その後,有力諸侯を選帝侯とし,彼らの選挙によって皇帝を選ぶ原則が定められた。その原則を定めた文書の名(a)と,それを定めた皇帝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(9) 中世ヨーロッパでは,ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が,宗教的な普遍権威として存在していた。だが中世後期になると,各国の地域的な独立性が増して教皇の権威は弱まり,3人の教皇が並立する「教会大分裂」が生じた。

 この「教会大分裂」を克服して,新たな教皇を選んだ会議の名称(a)と,このときに異端として火刑に処せられた人物の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(10) プロテスタント系佳民が多かったネーデルラント北部では,16世紀後半に入ると,支配者のスペイン王フェリペ2世が大規模な宗教迫害を行なった。それに対して北部7州は,同盟を結んで反乱を起こし,最終的には連邦制の国家を形成するにいたった。このときに,北部7州が結んだ同盟の名称を記しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

1 素直さ

 助長と抑制の問題なんて、なんか病気か犯罪の治療みたいですね。

 薬は、出血を抑制するものと助長するものがある、とか、ゲームは性犯罪を助長する、いや性犯罪抑制につながるとか、チアリーダーが競技中に腹部を見せることは少女らに摂食障害を助長する可能性があるとか……そこまで言うか、と主に病気に関係してみられることばです。最近は、いじめを助長してしまう指導力不足の教師の入り口を抑制すべきだと教育界が病気にかかったかのように見られています。

 さて、この問題は戦争という人間の悪性遺伝子が発症した病気についてです。三つの戦争を助長したものと、抑制となったものを書くことですが、なかなか問題を素直に読むことはむつかしいようです。

 

 問題に対してどうしたら正解に近づけるかは、問題そのものをどれだけ素直に、ありのまま読めるか、にかかっています。相手の投げてきた球のラインを素直に見つめないと、バットに当たりません。問題を見る前の思いこみや、問題の一部だけ取り出しただけのとらえ方は空振りになる危険性が出てきます。そうした危険な傾向を「助長」するような解答が参考書やネットに出ています。

 素直に応えた受験生の答案をわたしはたくさんもっています。かれらの書いた答案にも著作権があり公表できないのが残念ですが、参考書やネットにある答案のような恥ずかしいものとは違い、格段に上をいく答案です。その優れた点は、知識の豊富さではなく、問題を素直に読んで、そのまま素直に解答する、という実にシンプルなものです。

 

 素直でない例としては、たとえば、解答の書き出しだけ見ても、

 

ドイツの宗教内乱から国際戦争となった三十年戦争は、宗教戦争であると同時に、フランス王家対ハプスプルク家のヨーロッパの覇権をかけた戦争でもあった

 

 これは何を言わんとしているのかハッキリしません。「宗教内乱から国際戦争となった」は助長なのか? 助長でなく原因・発展過程を書いたといってもいいものです。また「フランス王家対ハプスプルク家のヨーロッパの覇権をかけた戦争」は戦争の性格・内容をいっているのは分かるが、これは助長なのか? まさか抑制ではあるまい。こうしたぼかした(ぼけた)文章が解答になっているのは他でもみられます。

 導入文に書いてある文章の一部をとって、曲解してしまう解説・解答もあります。たとえば、ある予備校の資料にはこの問題について「近年、国家概念に関する出題が増加している。本問は主権国家体制の変遷を戦争の視点から捉えた問題で、特にフランス革命から第一次世界大戦にかけてナショナリズムに関する記述を求めている」とコメントがあり、そのことは解答にも表わされています。なにも主権国家やナショナリズムだけ問うているのではないのに……。首を90度に傾けざるを得ない説明です。これは別の予備校でもみられ、その解答の初めには、「ヨーロッパの主権国家体制下では、宗教的対立や勢力範囲設定をめぐる相互の対立が深まり」とあります。ヨーロッパが問題ではなく三十年戦争が問題であり、まして神聖ローマ帝国には戦争勃発当時に主権国家はどこにも存在しません。こりゃ、どないしたんじゃろか?

 この問題を比較の問題と勘違いしたものもあります(→ https://www.52school.com/infsr/servlet/g9.is.gakusyuadvice.CollegeInfo?page=1120_11)。
「どのように現われたか」と問うているだけであり、「3つを比較しつつ」とも「比べながら」とも「相違点に留意しながら」とも要求していません。ここまでくると首は180度傾きます。この問題を比較問題にできないことはないものの、それでは白紙答案のオンパレードになります。

 

 問題の要求は、「戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて」で、指定語句「8つを必ず一度は用い、下線を付せ」が事務的要求です。導入文には「主権国家……民主主義が成長……民主化が国民意識の高揚……国際法を制定したり、国際機関を設立……」とある程度ヒントになることを示しています。ただこの政治用語で中身が埋まるはずはなく、用語は付け足ししなくては応えたことにはなりません。前述の資料では、東大は問題文に解答がほとんど書いてあるのですよ、とのたまうくらい脳天気ですが、東大を甘くみています。東大を甘く見るところは偉い ! パチパチ。たしかにここの解答は、導入文をちょっと解説したみたいな、せこい解答になっています。そんなもんで受かるかいな。

 また指定語句について「8つの指定語句のうち4つは第一次世界大戦関連であることから、三十年戦争とフランス革命はできるだけコンパクトにまとめて、第一次世界大戦に重きをおいた構成にしたい」などとアドバイスしているものもあり、なんでそんな無駄なアドバイスをせなあかんのか、と、こんどは360度回転してひっくり返りました。指定語句から解答のあり方を想定するのはあやまちの元です。指定語句にしばられてはいけない、問題は問題文にあり、これは鉄則ですぞ。どうやら、この問題を3つの戦争の物語を書けばいいのだと勘違いをしたようです。問題文の要求より指定語句に注意がいってはならないのです。

 

 素直に読んで応える、ということは、戦争ごとに、助長したのは……、抑制したのは……、と書くことです。シンプルで明快ではありませんか。

 

2 時期

 ただ問題自体に少しあいまいさがあり、どうにでも書ける面があります。そのあいまいさは容量の大きさともとれ、良問ともいえます。この問題は採点している最中にも議論になったのではないかと予想できます。「助長」は「抑制」の不備ととれば、何を戦争の前後にもっていけばいいのか、どこまでの時間設定で書けばいいのか、原因と助長とどうちがうのか、いろいろ迷う問題でした。また戦争への助長と戦争拡大の助長かも迷うところでした。わたしは過去問の戦争の問題からは、どちらでも取れる採点をしたと推測しています。

 まず「傾向が……3つの時期にどのように現れたのか」という場合の「時期」は戦争の初めと終わりの時間なのか、時期ということばは戦争の直前・直後も含むのか、というあいまいさがあります。時期をそのままとれば戦争の初めと終わりでいいのですが、「助長したり、あるいは戦争を抑制したりする」は実は戦争の前と後にもあり、またそう考えないと変です。戦争が始まってから戦争を「助長したり」する傾向が「現れた」というのは、ありえることとしても、ー般に戦争になるまで、どんどん熱くなっていって勃発、ということになるはずで、助長は戦争前が何より言うべきことがらでしょう。もちろん戦争が始まってから、よりそれを拡大する助長傾向も出てきます。それも書けばいいでしょう。また「抑制」傾向も戦争が終わって、もうこんな戦争はやりたくない、じゃどないする、と反省する中から出てくるものです。指定語句の国際連盟はその代表でしょう。しかし戦争の途中や末期から、もうやめようぜ、という声なり、終結せざるをえない出来事や、終戦にもっていくような事件なり、抵抗なりがでてきます。途中の抑制は指定語句の『戦争と平和の法』がそうであり、終わってからは国際連盟がそうです。上り坂と下り坂は、戦争の初めと終わりでパチッと決まるものではないでしょう。三十年戦争はいちおう1648年で終わることになっているものの、実際は45年で戦闘は終わっていて、会議が長引いて条約は48年までかかった、というのが実状でした。また第一次世界大戦が終わっても、ヒジャーズ王国の独立戦争、ギリシア・トルコ戦争や第三次アフガン戦争がつづきました。これらの戦争は、まさにこの大戦があったからこそ終戦の末期や直後からおきた戦争でした。

 構成としては、助長<(戦争勃発)→助長→抑制>(戦争終結)→抑制 という山のようなカーブを想定します。戦争のフル・コースです。

 

3 三十年戦争

 上で三十年戦争当時に神聖ローマ帝国には主権国家はなかった、と書きましたが、これは教科書にも書いてあります。戦争が終わってから主権国家に領邦(帝国内の小国家)は昇格するのであり、戦争前ではありません。

 

 神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成がおくれていた。1618年……三十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結し、ヨーロッパの主権国家体制は確立された。ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され……詳説世界史

 

 こうした常識があるにもかかわらず、「三十年戦争は国益を追求する主権国家間の国際戦争となり、傭兵による常備軍によって被害が拡大した。グロティウスは『戦争と平和の法』で国際法の必要を唱え、戦争を終結させたウエストファリア条約は国家主権の不可侵を確認し、国際法に基づく主権国家体制を確立した。」と。「主権国家の国際戦争……主権国家体制を確立」と初めと終わりに矛盾があることに気がついていません。大人だったが、戦争が終わって大人になった、みたいな。なんじゃ、これ。

 初めの主権国家はフランスなど、すでに主権が成立している国のことを指している、というのなら、戦争は帝国内で始まったのであり(ボヘミア新教徒の反乱)、周辺の国の参加は後からだよ、ということを言わねばなりません。1618年にはじまった戦争にデンマークが参加するのは1625年からです。フランスは1635年からです。これでは助長を書いたことにはなりません。助長は外からきた、と言いたいのであれば、帝国内の助長を書かなかったことになります。

 

 戦争前に戦争にいたるまでの危機を醸成したものはなにより、アウグスブルクの和議の不備であり、その後もずっと新旧の宗教対立を持続させて西蘭(オランダ独立戦争)の対立にうけつがれ、この戦争は1609年に一応の休戦になったものの、三十年戦争が開始すると再燃します。

 つまり、なにより宗教対立(がずっとくすぶっていたこと)を書かねば解答にならない(教科書に「ドイツでは、アウグスブルクの和議が成立したあとも、宗教対立がつづいていた。1618年、ベーメンのプロテスタントが、ハプスブルク家の宗教政策に反旗をひるがえし、これを機に三十年戦争がはじまった。……「東京書籍」)。直前のきっかけは、ボヘミア新教徒の反乱です。それをもっと細かくいえば、窓外事件です。ボヘミア王として赴任したフェルディナントがプロテスタントの弾圧を始めたため、ボヘミアの貴族は彼を廃位し、国王の側近をプラハ王宮の窓から突き落として殺し、つづいてこれが武装反乱に発展したものです。ここにあるのも宗教対立。ウェストファリア条約の第5条に書いてあるのも宗教対立です(帝国の両宗派の選帝侯、諸侯、等族の間に存在していた不平不満が大部分当該戦争の原因および動機であったので、彼らのために以下のことを協約し、調停する……)。

 さらに戦争に突入して、助長としてあげられるのは傭兵です。拙著『センター世界史B 各駅停車』から引用すると「傭兵隊長ワレンシュタインはその代表です。かれはボヘミアの貧乏貴族でしたが、20代のはじめに老けた未亡人と結婚し、この未亡人がすぐ亡くなってくれて(^_^;)、かれのもとにその豊かな財産がのこされます。この財産で武器・軍靴・軍服・火薬などの軍需品をすべて自分の領地内で製造し、4万人の兵士をかかえた戦争企業家でした。ワレンシュタインの力が増大するのを皇帝側がおそれたため、最終的にかれはイギリス人・アイルランド人の傭兵の手で暗殺されます。傭兵は戦争がなくなると失業するので、この失業期間はかつての敵・味方の区別なく食糧を挑発し、手当たりしだいに略奪・拷問・強姦・虐殺・放火をしました。(p.258~259)」

 抑制としては指定語句『戦争と平和の法』をあげざるをえません。これは戦争中の1625年に刊行されたグロティウスの作品です。この本で、戦争のさなかにおいても従うべき戦争法がある、国家間にさえも「万民法」や絶対的な「自然法」などは有効であり、宣戦や戦闘や講和において、これらの法が遵守されなければならない、と説きます。

 また戦争末期から条約の内容が論ぜられ、戦争抑制の項目が加えられました。全体としては領土配分やないかともいえますが、しかし、カルヴァン派容認にみられる「寛容=信仰の自由」の進歩、主権国家(集権的装置・暴力)の成立、帝国に対する周辺国フランス・スウェーデンの介入などです。これらは火種にもなりますが、戦争が終わった時点では抑制のためのものでした。

 

4 フランス革命戦争

 解答例のどの部分が「助長」なのか、「抑制」なのか、問いながら「模範」答案を読んでみるといいです。採点官もそのように読むのですから。ところがどちらも書いてない答案が見られます。たとえば、

 

 フランス革命戦争では国民を国家に統合する国民国家形成に先行したフランスが、徴兵制による国民軍で一時ヨーロッパを席巻した。各国は反仏ナショナリズムの高揚を背景にこれに対抗したため、戦争は君主の戦争から国民の戦争となって規模が拡大した……この答案のどこが「助長」なのか確定できますか? にぶいわたしには分かりません。

 指定語句の「徴兵制」と「ナショナリズム」をここで使うのでまちがいないものの、「助長」の説明として使っていません。それはこの解答例だけでなくても、他でも見られます。

 

革命防衛のために徴兵制が実施された、

孤立したフランスは徴兵制を導入して国民軍を建設し、

義勇軍が活躍したが、後に徴兵制が実施され国民軍による戦争継続体制が作られた、

徴兵制による国民軍が作られ、ナショナリズムが高揚して戦争は激化した、

革命戦争が勃発したが、その過程で近代最初の徴兵制をしいた、

ジャコバン政権が徴兵制を実施して国民軍隊を創設し、戦争は国民戦争化した、

……これらは徴兵制がしかれた、ということは言っていても、戦争をどう「助長」したということなのでしょうか? どれも迷答です。「戦争継続体制」がいくらか答えかな……とおもいますが、徴兵制=継続体制は助長ですかね。

 また、徴兵制をしいたから戦争は激しくなったのでしょうか? 逆でしょう。徴兵制をしいたのはジャコバン派ですが、初めに戦争を望んだのはこの革命側ではなかった。反革命の側、つまり国王自身、亡命貴族、革命のゆきすぎを心配するジロンド派、そして周辺の君主国、中でも親族のオーストリアとプロイセンの脅し(ピルニッツ宣言)、イギリスの対仏大同盟などでした。こうした危機に、戦う意欲のない貴族の指揮する古い軍にたいして、ジャコバン派は「武器をとれ! 革命を守れ!」と叫び、義勇兵もパリに参集し、「ラ=マルセイエーズ」が国歌となります。この歌をはじめに合唱していた兵士は裸足でした! 武器も訓練も不足していましたが戦意(ナショナリズムと言い換えても同義でしょう)というエネルギーだけが熱くふつふつ、です。この義勇兵の後に徴兵制はできあがります。

 このエネルギーに戦術・武器をもたせて君主国に対抗させたのがナポレオンでした。これまでの君主・貴族・傭兵による戦争は逃亡・脱走・一騎討ち・裏切り・寝返りが通常でしたが、国民軍は突撃・白兵戦・追撃をいとわない、いわば、しつこい戦闘をおこなう、それだけ死傷者も激増する戦い方をします(クラウゼヴィッツ著『戦争論 中』(岩波文庫、p.10に「その激烈性をむき出しにし」とある)。絶対君主を打倒した市民たちが、この市民の民主主義国家・革命政府を守るために戦闘的なナショナリズムに燃え、国民軍に身を投じていったのです。クラウゼヴィッツが『戦争論 下』(p.288)で、古代からの戦争のありようを振り返りながら、「戦争は知らぬまに国民の本分となっていた。しかも、各自が国民の一員であるという自覚をもつ三千万の国民の事業になっていたのである」と近代の戦争の特色を説明しました。

 助長は、反革命側の煽動です。またそれに対抗して革命を守るためにたちあがった市民・国民のナショナリズムでしょう。またアメリカ独立革命の成功も刺激としてあげることができます。かのヴァルミーの戦いのときにはアメリカ独立革命のときに海を渡った義勇兵が参戦していました。

 「抑制」がすっぽり欠けている解答例もあります。ウィーン会議の勢力均衡・正統主義ぐらい書けよ、といいたいところです。意外や、保守的なウィーン体制は第一次世界大戦までの「100年の平和」をつくりました。1848年で体制は崩壊したとしても、その後も全欧を巻き込む戦争はありませんでした。抑制としては他に、神聖同盟と四国同盟によって民族運動を抑制しようとしたこと、また中立国スイスの創設もあげていいでしょう。ささやかであっても、戦争拒否国を国際的に容認することは戦争の抑制です。

 

5 第一次世界大戦

 フランス革命戦争からこの大戦まで一気にリンクして関連づけをした解答があります。

 

ウィーン体制崩壊後は各国は国民国家の建設を目標とし、初等教育などを通じてナショナリズムを育成し帝国主義の対立を激化させた。そのため生じた第一次世界大戦は……

 

とナショナリズムでつないでいます。これでいくと、第一次世界大戦の助長は、フランス革命戦争と変らないことになります。ナショナリズム→帝国主義→第一次世界大戦、というつながりです。しかしこの間100年もたっています。帝国主義→第一次世界大戦のリンクはいいとして、ナショナリズム→帝国主義はつながるでしょうか? またこのリンクはなぜ必要だったのでしょうか? つなぐことなど要らんでしょう。3つの戦争ごとに「3つの時期にどのように現れたのか」を書けばいいのです。素直に、素直に、です。

 いきなり第一次世界大戦から始めるとして、次のような解答は、どのあたりが「助長」なのでしょうか?

 

第一次世界大戦は、各国が挙国一致体制のもと戦争遂行にすべてを動員する総力戦となった。……

20世紀前半におこった第一次世界大戦は、帝国主義段階の列強が独占資本の利益のため展開した世界分割競争が主要因であり、……

1914年に始まった第一次世界大戦は戦争の歴史の転換点を画した。それは、国家のすべての資源を傾けて遂行する総力戦であり、その結果として戦争は長期化し、被害は甚大なものとなるに至った。……

バルカン半島でのオーストリアとセルビアの対立から始まった第一次世界大戦は……

 

 分かったひとは手をあげてください……。沈黙。

 答えはありませんか? そうです。答えがないのが正解で~す。

 まず指定語句の「総力戦(戦争のシステム化)」は助長なのか? 第一次世界大戦は、初めっから総力戦だったのではありません。クリスマスまでには終わるはずだったのが、長期化したために、国を挙げての総力戦にならざるをえなくなったのであり、どちらかといえば結果であり、戦争の性格です(猪口邦子著『戦争と平和』東京大学出版会に「戦争は一旦はじまれば開戦時の予想を欺く独自のエスカレーション力学の虜となって、人間の予見の愚かさのみを明らかにする場合が多い」と。p.91)。総力戦を、まるで助長したかのように使うのはまちがいですね。

 さいごの答案の「オーストリアとセルビアの対立から始まった」はサライェヴォ事件のことでしょうが、いわば直接の契機になったものです。「助長」としてはいかがなものでしょう? 原因・契機を問うているのではないから、助長は戦争へ向かわせた、もっと長期的な、そうそうかんたんに消火できないドロドロしたマグマをみつけてこないとダメですね。やはりバルカン半島の民族主義でしょう。火薬庫といわれ、今もくすぶっています。民族浄化というおそろしい言葉が使われて。

 戦争の直前における助長を考がえれば、こうしたバルカン半島の民族紛争、それに戦争前の秘密外交(の放置、三帝同盟・三国同盟・三国協商はみな秘密協定だった)・世紀末の民主主義の浸透(英独仏における普通選挙の拡大)・武器の発達(とくに機関銃)・英独の建艦競争・帝国主義の格差(遅れたドイツ帝国の野心、その世界政策と3B政策、日本の中国への野心)などです。

 このうち世紀末から第一次世界大戦前の民衆におけるナショナリズムの高揚については、井野瀬久美恵著『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日選書395)が素晴しい読み物です。

 

 戦争中の「助長」としては、英仏の中東に対する野心(サイクス=ピコ協定)、列強内の軍需景気があります。また敵国に対する人種差別的な政府の宣伝=プロパガンダで、敵意を故意にかきたてる政策をとります。イギリスの新聞は、ドイツ人は民主主義に敵対するフン族・野獣・劣勢な知性、とののしりました。クラウゼヴィッツの時代にはなかった宣伝戦です。戦場に取材した新聞記者は司令部のいいなりで、塹壕を陽気に描き、累々たる死者については沈黙します。ボリシェヴィズムの治療薬は弾丸とあおり、ニューヨーク・タイムズはボリシェヴィキは崩壊寸前・崩壊したと91回も虚偽の報道をつづけました(フィリップ=ナイトリー著『戦争報道の内膜』時事通信社)。東大は第一次世界大戦中のこうした宣伝ポスターの収集でも知られています。教科書の中には19世紀末に、「新聞は世論形成に重要な役割をもつようになり,政治の動向にも大きな影響をあたえるようになった」と書いているものもあります(山川の『高校世界史』)。宣伝・煽動による世論誘導は今や商売(Amazonのランキング操作はその一例)と同様に不可欠な政治の手段に発展しています。

 戦争中の抑制としては、列強内の食糧危機、物価高騰はロシア革命に発展し、この革命政権による帝国主義批判、秘密条約の暴露、「平和に関する布告(1917)」、これに対抗したウィルソンの14ヶ条(1918)、社会主義運動の拡大、反戦運動(ロマン=ロラン、ラッセル、ジョレス、ローザ=ルクセンブルクなど)などをあげることができます。この中でもロシア革命は戦時中に産まれ、その危機対策がそのまま政治体制となって1989年まで引きずっていくことになります。いや、プーチンはまだその闇から抜けでていないようです。

 戦後の抑制は、集団安全保障のための国際連盟の結成と、ここに見られる国家主権の制限(自由に戦争を行なわないように主権国家に集団で圧力をかける)、一連の軍縮会議や国境問題をめぐる会議(ロカルノ)があり、時間がだいぶ経ってからでしたがパリ不戦条約もあります。

 ここまでわたしが書いた内容は詳しすぎます。こんなに書かなくていいのです。教科書に書いてあることで充分解ける問題でした。公表されている答案としては、Yの解答例2が優れたものと、わたしは評価します。最低は……? どうでもいいことです。なにしろYの解答例で合格者の最低レベルですから。この問題を解いて合格した学生が、「予備校の速報より自分の解答の方が良い!ってゆう変な自信もありました。」とメールをくれましたが、この高3生のいうとおりです。

 

[第2問の解き方

問(1) 課題のテーマは「イスラームの定着」、時間が10世紀末~16世紀、副次的要求は「政治的・文化的側面の双方にふれながら」です。

 政治的なイスラームの定着とは、イスラーム教政権が根付くことでしょう。これはガズナ朝の世紀末からのインド侵入(17回も侵入を繰り返したマフムード)、そして16世紀のムガル帝国の支配確立までです。ガズナ朝とゴール朝はジハードでしたが、その後のデリー=スルタン朝は安定した支配を模索しました。ムガル帝国もこの寛容策を継承しましたから、イスラーム教は定着します。

 文化的なイスラームの定着とはイスラーム教信仰の拡大ということです。ヒンドゥー教とその文化との「融合」までは求められていません。が、しかし。以下がネットにある解答の一部。融合は要らないのに。素直でないなあ。

 

ペルシア文化の影響でウルドゥー語が成立し

伝統的ヒンドゥー文化と融合したインド=イスラーム文化が生まれ

ナーナクもその影響をうけてシク教を創始した

ミニアチュールのムガル絵画などインド=イスラーム文化が成立した

 

 こんなこと書くより、デリー=スルタン朝の宗教寛容政策やスーフィの活動をあげるとよい。それが信徒を増やした要因、結果としてイスラームの定着となるのだから。また、インド西海岸の商人居留地を通しても信仰は広まりますが、これは書かなくてもいい。

 デリー=スルタン朝の寛容については、都市の占領とともにヒンドゥー教徒の下層民を城内に入れ、かれらから徴兵したそうです(『世界の歴史14』中央公論社 p.95)。政権側としては利用を考え、一方のヒンドゥー教徒はこれをチャンスと考え脱却を望んでの改宗です。それが官僚として多数のインド・ムスリム(ヒンドゥー教からの改宗者)を登用することにも現われました(前掲書 p.62)。

 

(2) 課題は「18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して」というもの。時間が「18世紀半ば頃」だけに限られていて、「植民地化過程」という時間のかかることがらを問うているのに変な問い方です。でも時間は守らなきゃならない。「フランスとの関係」はフランスとの戦いとおなじことです。速報の中には、マラータ戦争やシク戦争をあげたものがありましたが、マラータ戦争は18世紀末で、シク戦争は19世紀になってからですからダメです。

 「18世紀半ば」とあれば関係するできごとは、

1744~63年のカルナータカ戦争というインド東海岸をめぐる英仏の戦い

この時期のデュプレー(フランスのインド総督、1742~54)の活躍

この総督が帰国してから、1757年のプラッシーの戦いで、クライヴ率いる会社軍がフランス・ベンガル連合軍に勝利

イギリス東インド会社がベンガル(・ビハール・オリッサ)の地税徴収権を獲得し、ベンガル知事をおいたこと

征服地におけるイギリスの司法施行と近代的土地所有制の実施などがもあります。

 

(3) 時間は「18世紀末から20世紀中葉」で、主要求は「エジプトをめぐる国際関係」、指定語句が3つ(ナポレオン スエズ運河 ナセル)でした。これだけの字数でこれだけの長い時間のものを書かせるのは異様です。

 以前にも5000年間のエジプト史を18行で書かせる問題がありました(2001)。なにかこの出題者に、採点してみて不満があり、再度だしてみようということになったのか? 「インド亜大陸と東西海上交通」という主題には、あまり合わない問題です。エジプトはどちらかといえばインド洋と結びついているというよりは、地中海世界との方が密です。出題に疑問を出している場合ではないものの、なにか変と受験生もおもったのではないでしょうか? ナポレオンは第1問とも重なってますよ。

 データは豊富にあります。ただし国際関係にこだわらなくてはならない。

 ナポレオンのエジプト遠征・上陸(1798)、イギリスとのアブキール湾の戦いで敗北(1798)

 メフメト=アリーの太守就任(1805)とオスマン帝国との確執→2回のエジプト=トルコ戦争(エジプト事件ともいう、1833、39 東方問題)→事実上の独立(メフメト・アリー朝の成立 1840)

 スエズ運河建設(1869)→会社株をイギリスが買収(1875)

 アラービ=パシャ(ウラービー/オラービー)の反乱(運動)鎮圧(1881~82)

 イギリスがエジプトを保護国化(1914)

 ワフド党の独立運動(1918)→独立(1922)、スエズ運河地帯とスーダンは外して

 イギリス・エジプト条約(英エ条約)でエジプト王国完全独立(1936)、連盟に加盟

 アラブ連盟結成(1945)

 第一次中東戦争の敗北(1948)→エジプト革命(1952)でメフメト・アリー朝から共和政へ

 第二革命でナセル政権(1954)

 スエズ運河国有化→第二次中東戦争(1956)→国有化に成功

 シリアと合邦してアラブ連合共和国(1958 ~61)

 こんなに書けない。指定語句3つ「ナポレオン スエズ運河 ナセル」にかかわることははずせないから、これと間のできごとをおもいっきり取捨選択して入れ込む。

 

第3問

 第2問も容易な問題でしたが、この第3問は特別に優遇問題・上げ底の問題でした。受験生のレベルが下がってきているとの認識なのか、いやに易しいものにしてしまいました。

(1) 「前7世紀にオリエント全土を支配する大帝国」と誇張して表現されるこの帝国は、西アジア最初の世界帝国となったアッシリアであることはすぐ分かるでしょう。「誇張して」というのは、この帝国は小アジアのリディアを征服できていないし、ましてやペルシアのほとんどを得られなかったからです。ホントは「オリエント全土」でなく農業の豊かなメソポタミアとエジプトを得た、ということです。厳密な「オリエント全土」はアケメネス朝ペルシア帝国にしか該当しないですね。「最初」の帝国は誇張されがちです。(a)その首都の名前は、前8世紀から帝国になる前のアッシュール市ではなく、アッシュール市より上流にあるニネヴェ。「帝国」の首都とあれば帝国になってからのこの都市にあてることが通説です。その位置はどこかと問うています。アッシリアという表現が、ティグリス=ユーフラテス川の上流を指す地方名でもあることを知っていたら容易でした。ときに東大は地図をよくだしますが、教科書の地図をよく見ながら勉強してください。東京書籍の地図は見にくい。山川の詳説世界史を薦めます。地図の(ア)はミレトスかサルディス(サルデス)、(ウ)はバビロン、(エ)はスサ(スーサ)、(オ)ペルセポリスです。

(2) 「前7世紀に[ (a) ]人によって建設された都市」とあり、答えのギリシア人がつくった当時は何といったか、という易問です。(b)はもちろん「ビザンティオン」。

(3) 尊王攘夷の説明をせよ、という問題です。だれを御旗に、だれを敵としたか、の説明でもあります。血迷っても「天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ない」と書いてはいけない。これは中国史。スローガンの先輩は中国です。

(4) アクティウムの海戦で敗北したクレオパトラの王朝は何? という問題です。

(5) (a)コルドバについては、1981年・1999年に指定語句として、2003年の第2問(3)に問題文「コルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]」とイブン=ルシュドの都市として出題されています。スペインのどこらへんにあるか知らない受験生は地図、地図 ! (b)アッバース朝から追放されて逃れてきた王朝名。

(6) 集会の意味。1206年の集会では、21人の氏族長と40数人の兄弟たちが家族とともに集まり、有力者には30人の美女を与える約束をさせられてハンとなっています。けっしてこの段階でハンの地位が安泰ではなかったことは、即位後の内輪もめにあらわれています(岡田英弘著『チンギス・ハーン』集英社 p.109~113)。

(7) 「燕王」とは北京の王、という意味で、36人の男子のひとりとしてオヤジ(朱元璋)に見込まれ、北の守り手として派遣されていた人物。「反乱を起こして」とは靖難の変のこと。かれのもとにはモンゴルに帰還しなかったモンゴル兵がたむろしていた、とのことです。

(8) 金印勅書を金印「刺書」と書く学生もいます。小泉首相が派遣したチルドレン公認書のことではありません。

(9) 中世をしめくくる重要な会議ですね。召集者は(8)の皇帝を父としたジギスムントです。若くハンガリー王として出発し、神聖ローマ帝国皇帝ともなり、(b)の人物の土地ボヘミアを親父からうけついだものでもあります。この公会議(宗教会議はカトリックではつかわない用語)で教皇は、公会議の決定に従わなくてはならない、と定められ(これを公会議主義という)、教皇権が最低におちたすがたです。

(10) スペイン継承戦争の和約としても、この都市の名前は出てきます。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

(1)(a)ニネヴェ (b)(イ)

(2)(a)ギリシア (b)ビザンティオン

(3)周王(周本家)を尊び、異民族(夷狄)を撃退する。

(4)プトレマイオス朝

(5)(a)コルドバ (b)後ウマイヤ朝

(6)クリルタイ

(7)永楽帝

(8)(a)金印勅書(黄金文書) (b)カール4世

(9)(a)コンスタンツ公会議 (b)フス(ヤン=フス)

(10)ユトレヒト同盟